ハヤテは、ナギの小さな身体を抱く腕にそっと力を込め直す。
少女は、フゥッと熱く小さい溜息をついて少年の胸にその小さな肩先を埋め、側頭部を少年の頬に押し付ける。
少年は、頬骨の先でクイクイと少女の側頭部を優しく押し返すと、
ちょっと首を捻ってその鼻先を少女の絹のように滑らかな金髪に潜り込ませる。
そして、鼻から息を深くゆっくりと吸った。
とても濃くて甘い香りが、鼻腔いっぱいに広がっていく。
脳を蕩かす様な甘い甘い少女自身の香りに、心臓がキュンと音を立て、少女への愛しさが更に加速する。
この匂い‥‥。確か、何処かで‥‥
そう、この間お嬢さまに頂いたキャラメルの匂いにとてもよく似ている‥‥
『ハヤテ、食べるか?美味しいぞ!』
『キャラメル‥‥、ですか?』
『うむ。だが、只のキャラメルではないぞ。これはな‥‥』
お嬢さまのお話だと、そのキャラメルは特別に採取、栽培された原料でのみ作られる超限定品で、
それらの素材の内で一つでも品質の基準を満たしていないものがあると製造が見送られ、
更に、出来上がった後の職人による実食検査で不合格になると全数が破棄されてしまうとのことだった。
『だから、この私ですら現物をなかなか拝めないのだ。本当に美味しいから、是非食べてみろ!』
そう仰りながらお嬢さまが手渡して下さったそれは、そのお言葉の通り、本当にとてもとても美味しかった。
そのキャラメルの、コクのある甘さと滑らかな舌触りと、とても濃くて豊かな甘い香り‥‥
少女の匂いは、それにとてもよく似ていた。
少女は少し恥ずかしがって、少年の鼻先と距離をとろうとほんの少しだけ首を反対側へ傾げた。
少年は、それを許さぬ断固とした意志を示すように、
少女の腰を固定していた手をわざわざ離し、その手で少女の頭をそっと優しく自分の鼻先へ押し付けなおす。
「はぁ‥‥」
少女は、喘ぎともつかない何ともいえぬ艶のある溜息をつくと、観念して首筋に入れていた力をふっと抜いた。
少年の鼻先がとても嬉しげに地肌の上をくまなく這い回るこそばゆい感触に、
少女は自分でも気付かぬうちに何ともいえない心地よさを感じ始めていた。
ハヤテの鼻先が名残惜しげにナギの側頭部を離れると、今度はその唇がナギの可愛らしい耳朶に近付く。
「ねえ、お嬢さま‥‥」
少年は、少女の鼓膜を痛めないように細心の注意を払いつつ、耳朶に熱い息を掛ける様に囁いた。
「‥‥ん?」
先ほどからの少年の悪戯に心が甘く痺れている少女は、
軽く俯いたまま、子犬が鼻を鳴らすようにほんの短い返事をする。
「お嬢さまの可愛らしいお声をお聞きしたいです。
いえ、どうかお願い致しますから、その、鈴を鳴らすような愛らしいお声を僕にお聞かせ頂けないでしょうか‥‥?」
つい先ほどと同じ要求。
少年は、少女以外のこの世の中の全てについてはその一切を要求しなかったが、
少女のことについては、あくまでその一切を要求して已まなかった。
「‥‥うん‥‥」
だが、少女はその手で、自分の身体を優しく抱いている少年の逞しい腕をただゆっくりと撫で摩るだけで、
何かを話し出す気配はなかった。心の甘い痺れは、少女の思考と行動の自由を侵食しつつあった。
「お嬢さま‥‥、どうかどうか、お願いを申し上げます。
お嬢さまの、天使が囁くようなお声を聞かせて頂けないと、この哀れな召使いは今すぐにでも死んでしまいそうです」
「‥‥ああ‥‥」
少女の発言を促す再びの少年の必死の懇請の囁きにも、
少女はただとろんと潤んだ翡翠色の瞳でぼんやりと少年を見詰めながら曖昧で弱々しい呟きで応じるだけだ。
「お嬢さ‥」
「ハヤテが‥‥」
少年の更なる問い掛けを、溜息を混じりの少女の声が遮る。
「‥‥ハヤテが‥‥」
「僕が‥‥?」
「‥‥ハヤテが、いけないのだ‥‥」
特に心当たりのない少年が、怪訝な声音で問い返す。
「僕が‥‥?何故ですか?」
「‥‥さっきから、‥‥私に‥‥、悪戯ばかりするから‥‥」
少女は、少年の厚い胸板にその身を埋めようとするかのように小さく身動ぎした。
「申し訳ございません‥‥」
原則的に、叱るのは主人、詫びるのは従者である。
だが、それにしても‥‥
諸事情から、今までに真贋様々な美術品を目にしてきた結果、
ハヤテは、『美』とか『完成されたもの』とか言う存在に一応目が肥えてはいたが、
今、自分の腕の中にいる少女のような一点非の打ち所の無い、これほどまでに美しく愛らしい存在には
今だかつて一度たりとも出会ったことは無かった。
少年は、学校の物理の授業で、
この世の全ての存在は約110種類に分類される原子の組み合わせで出来ている、と教わった。
普段そのような事など滅多に意識はしない少年だが、今は、
自分自身の親のような屑人間と、この少女のような完全なる美と善の化身とが
どちらも全く同一の『蛋白質』と呼ばれる物質で構成されているという厳然たる事実が、
どうしても納得しかる激しい矛盾に満ちたものと思えてならないのであった。
「お嬢さま、僕に、もう一度、その可愛らしいお顔をよく見せて下さいませんか?」
ハヤテが、再び、ナギの愛らしい翡翠色の瞳を一心に覗き込む。
少女も、少年の真っ直ぐなブルーサファイアの瞳を見詰め返すが、
少女は、その少年の瞳に、この自分に対する崇拝の念が強く宿っているという事に気付いて、
少し気恥ずかしくなると共に、何か感動にも似た心の嵩まりを覚えた。
少年が、うっとりと夢見るような、切なく求めるような眼差しで少女の瞳孔の奥底を見詰めながら、陶然と呟く。
「ああ‥‥、僕の‥‥、僕だけの‥‥、女神様‥‥」
少年が、自らの腕に抱いているその少女を崇拝しているという事は、最早、疑う余地が無かった。
少女にとって、
少年のこの眼差しこそ、今まで、何よりも欲しくて、また、どうしても出会う事が出来なかったものだった。
少女は、今までに様々な眼差しに曝されてきた。
その殆どは、感情を押し殺して無条件に服従する無感情な瞳であり、
或る者は、少女を金づるとして利用しようと文字通り“虎視眈々”の眼差しで近付き、
また或る者は、少女の持つ権威と権力に只ひたすら恐れ戦くばかりの怯えた視線を向け、
そして或る者は、少女を自分とは全く別の世界に属するものとして、遠くから好奇の目で眺めた。
ハヤテが今この自分に向けている、心からの、いや、魂の底からの慈愛と尊敬と崇拝に満ちた眼差し‥‥
そう、ナギは、今やっと、望んで已まなかった存在(もの)をしっかりとその手に掴んだのである。
愛しい者からの慈愛に満ち満ちた眼差しを享受して、少女は、この世の完全な勝利者となった。
「ハヤテ‥‥、私を愛してくれて‥‥、本当に、有り難う‥‥」
少女が、そっと手を伸ばして、その白く細い指先で少年の頬に柔らかく触れる。
「お嬢さまは‥‥、僕の‥‥、この世の‥‥、全てです‥‥」
少年は、少女の薄紅に染まった頬をその造りのよい指の背で愛しげに撫でた。
そして、愛らしい生え下がりをそっと摘むようにして極軽く扱く様に撫で下ろすと、
指をざっと広げ、
手櫛で、少女の艶やかな金髪をその絹地のような滑らかな感触を楽しみながら何度も何度もゆっくりと撫でる。
「(何て心地いいんだろう‥‥)」
二人の心がシンクロする。
時折地肌に触れる少年の指の先の様子から、
少女は、少年が如何にこの自分を深く愛してくれているかをひしひしと感じ取った。
と、ここでナギは名案を思い付く。
少女は、ハヤテに、この自分の体の内でどの箇所がどれ位好きなのかを尋ねてゆく事にしたのだ。
これなら、少年は、少女の声を存分に聞きながら思うままに少女の身体を愛撫できるはずである。
『善は急げ』の喩え在り。少女は早速、甘い溜息の混じる声で愛しい少年に尋ねてみる。
「‥‥ハヤテは‥‥、私のどこが‥‥、好きなのだ‥‥?」
うっとりと少女の髪を幾重にも指に絡げている少年が、夢見るような声音でゆっくりと答える。
「‥‥全部、‥‥です‥‥」
至極予想通りの答えである。
しかし、少女はめげない。そして、逆にこれは好都合であった。
「私の‥‥、どこがどの位、好きなのか‥‥、教えてくれないか‥‥」
少女のこの指示を聞いた少年は、
大喜びで少女の身体をそっと抱えなおすと、早速少女の頭を掌全体を使ってとてもゆっくり撫で始めた。
「お嬢さまの髪はとても甘い香りがしますし‥‥」
少女は愛する少年に髪を撫でられる心地よさを楽しみながら、少年の言葉の続きを待つ。
何を隠そう少女だって、少年のちょっとハスキーな声音や、
『お嬢さま』と呼びかけられる時の「さまぁ」という慈しみ深いイントネーションがとても気に入っていたのである。
ハヤテが柔らかく言葉を繋いでいく。
「とても綺麗で‥‥、艶やかで‥‥、伸びやかで‥‥、こんなにサラサラしています‥‥」
この少年の様子からすると、
このまま放っておけば髪の一本一本について百万言を費やして何時まででも褒め続けるだろう。
ナギは、少年に次の行動を促す新たな質問を発する。
「‥‥次は‥‥?」
少年は、少女の頭を撫でるのを止めずに、囁くように返事をする。
「‥‥この、‥‥頭の形も‥‥、とても可愛らしいです‥‥」
少女としては、ここでまさか頭蓋骨の形を褒められるとは思ってはいなかったが、
今の少年が、心に浮かんでいること以外の事を口にするとは思えなかった。
「‥‥次は‥‥?」
少年の指が、少女の額にサラリと掛かっている金色の前髪を右に左にと弄ぶようにそっと分けていく。
「‥‥この、額も‥‥、」
露わになった少女の額に、少年はチュッと軽く口付けた。
少女は、少年の言葉を聞きながら、再び開けた視界の中、
甘く潤む瞳で少年の整った顔を見上げ、ふうっ、と一つ艶のある溜息をつく。
その後も少年は、眉、瞼、睫と褒めてゆき、その度にその箇所を指で優しく撫でてはそっと口付けたが、
それが『目』に及ぶに至って椿事が出来(しゅったい)した。
「‥‥お嬢さまの、瞳‥‥。こんなにキラキラと輝いて‥‥、どんな宝石だって、敵いません‥‥」
そう言うと、少年は、その親指の腹で、少女の上の瞼をそっとではあるがしっかりと上にずらし上げて、
少女の顔に自身のそれをぐっと近付け、懸命に伸ばした舌先で、少女の瞳の表面をちろっと舐めたのである。
「ひゃあ!な、何をするのだ、ハヤテ!」
やはり少年は、本当はSなのかも知れない。
「‥‥お嬢さまの瞳が、‥‥余りにも、‥‥美しくて‥‥」
少女は、乳幼児の目に砂粒など大きなゴミが入ってなかなか取れない時には、
緊急の措置として舌先でそれを取り除く場合がある、というあやふやな情報を耳にしたことはあった。
しかし、少年がこれほどまでにこの自分を愛してくれているということがとても嬉しかったけれども、
口中というのは案外と不衛生であり、何よりこれから頻繁にこんな愛撫をされては堪らないので、
とにかく一応少年に注意することにした。
「いいか、ハヤテ。瞳は‥‥、見詰めるだけにしてくれ‥‥。分かったな?」
「はい‥‥、申し訳ありません‥‥」
本当に申し訳なさそうにしょげる少年が可哀想になった少女は、ちょっとした思い付きを口にしてみた。
「ハヤテ‥‥」
「はい‥‥」
「私を、食べたいか‥‥?」
ハヤテはふっと目を大きく開け少々の驚愕の表情を示したが、
すぐにそれまでの慈しみ深い表情に戻ってナギに微笑みかけながらそっと囁く。
「はい‥‥!」
少女も微笑み返しながら、尋ねる。
「どうやって‥‥?」
「頭の天辺から‥‥、むしゃむしゃと‥‥」
今の少年ならば、少女が許可すれば本当に食べ始めるだろう。
だが、愛するものと一つになれるならそれもよいかも知れない、と再び甘い感情に支配されつつある少女は思う。
こんなにも可愛らしい少女を食べることが出来るかも知れないとあって内心大喜びの少年だったが、
しかし、ここで理性(?)が「ちょっと待て!」と制止する。
「ですが‥‥」
少年の脳内で展開される、理性と欲望の熱き闘い。自然に少年の表情がキリリと引き締まる。
「‥‥?」
少女が不思議そうに見上げる中、少年の理性と欲望は、互いを共に満足させる結論に達した。
「今すぐには食べません‥‥」
やはり食べるのか、と思いつつも、
少女は、少年がこの自分をどういう風に食べたいと思っているのか聞くことにする。
「いつ、食べるのだ‥‥?」
少年は、満面の笑みを少女に返しながら、自身の理性と欲望が共々出した妙案を披瀝する。
「はい!僕はお嬢さまをたくさん食べたいので‥‥」
「うん‥‥」
「‥‥お嬢さまがもう少し大きくなられるのを待つことにします!」
少年の、捉えようによってはなかなかにウィットに富んだ答えに、少女は如何にも愉快気にキャハハハハッと笑った。
「よし、わかった!そんなにハヤテがこの私を食べたいのなら、食べられてやろう!」
「ありがとうございます!お嬢さま!」
少年も少女も、半分、いや半分以上本気であった。
「でも‥‥」
「ん‥‥?」
「こんなにまで可愛らしいお鼻を‥‥」
少年は、少女の形のよい鼻を何度も軽く摘むように優しく愛撫しながら呟く。
「‥‥食べてしまうのは‥‥、勿体無い、ですねぇ‥‥」
その話題を、少女は積極的に繋いで広げようと試みる。
「勿体無いのは‥‥、鼻、だけか‥‥?」
「いえ‥‥、この唇も‥‥」
少年は、薄桃色の珊瑚のような少女の唇を、触れるか触れないかの微妙な感覚で丁寧になぞっていく。
「‥‥、あッ‥‥」
ある意味、女の一番大事な部分を丹念に愛撫されて、少女のその唇から熱い溜息が漏れる。
少女の好反応を喜んだ少年が更に熱心にその愛らしい唇を愛撫するその最中、
少女は、ほんの少し唇を開くと、唇の上をそろそろと這っている少年の指先をちろっと舐めた。
「あっ‥‥!」
反射的にちょっと指を引っ込めながら、今度は少年が小さく嬌声を上げた。
「‥‥お嬢さま‥‥」
「ムフフ‥‥。びっくりしたか‥‥?ハヤテ‥‥」
少女は、してやったり!と言わぬばかりの悪戯っぽい眼差しで少年のブルーサファイアの瞳を見上げる。
「はい!‥‥とてもびっくりしましたよ、お嬢さま‥‥」
少年が、薄紅に染まったその頬を柔らかく綻ばせる。
少年は、少女のこの小さな悪戯を心から可愛らしいと思った。
だから、少女の問い掛けにきちんと返事をしたかったのである。
「うむ‥‥!」
少女は、とても満足げな声音で答えると、少年にとても幸せな笑顔を返した。
続いて少年は、少女の顎の先の形、そこから遡って耳朶、それから直下に降りて首筋、
更にそこから喉仏へと丹念に褒めながら丁寧な愛撫を施していく。
そして、喉仏から降りてきたハヤテの指先が、
ナギのポロシャツの襟を擽るように動きながら、そのほっそりとした鎖骨に辿り着いた。
鎖骨の細さを確かめるように少年は愛撫を開始するが、その指は、少し震えている。
「次は‥‥?」
問いかける少女の声も、心なしか震えている。
二人とも、次の少年の愛撫がどこに行われることになるのかについて、もう既に十分に了解していた。