最初はゆっくりであった少年の歩調が、少女の歩幅を気遣いながらも少しずつ上がってゆく。  
少年は、少女と特別な関係−恋人同士−となったことを周囲にどう説明すべきかについて考えを固めつつあった。  
少年にとってこの交際は真剣で大切な、文字通り“命懸け”のものであり、  
最終的には結婚にまで繋がるものであった。  
しかし、何と言っても自分が16歳、相手はまだ13歳である。当面は当人同士の秘密にしておく他あるまい。  
だが、好機が到来したならば、まずマリアに打ち明けて理解して貰い、  
その後、彼女の後援を受けつつクラウスを説得し、  
最後に、帝に報告するという順序が一番順当であるように思われた。  
つまり、今は、少女と互いに誠実に正面から向き合いながら、少しずつ時を重ねていくしかないのだけれど、  
かといって、少年には、二人の事をマリア達に打ち明けるまでの間、  
少女との間で、二人にしか分からぬ如何にも意味ありげな“秘密のサイン”を決めて  
それを人前で遣り取りすることで、その様子を見て不思議がる周囲の者達を煙に巻いて楽しむ、  
と言ったような悪趣味な事をする気は全く無かった。  
だから、二人きりでいられる内に、二人きりの時しか出来ない事をしておきたい。  
この一種の焦燥感が、少年の歩幅と歩調を大きくし、その横顔を引き締めさせていた。  
「(どうしたんだろう‥‥?)」  
少女は少し不安気に少年の真剣な横顔を見上げながら、  
その逞しい腕を自らの胸元に抱き締めつつ、大股の歩幅に遅れぬように付いていく。  
 
ハヤテに誘われてナギが着いた所は、ハヤテの居室の前だった。  
「(‥‥!)」  
今日半日、そこが“鬼門”だった少女は、少年の腕を抱きしめたまま、思わずその小さな身体を固くする。  
その気配を察した少年は、自らの手を軽く強張っている少女の腕にそっと添えることで少女を安心させると、  
少女の腕から無用な力が抜けたところで、その腕をゆっくりと解き、  
丁寧な手つきでドアを開け、先ず自分が入って明かりを付けから、少女を優しく促した。  
「どうぞ。‥‥いえ、どうかお入りください」  
少年は、女心に鈍感な所はあるが−いや、実際かなり鈍感であるが−、  
決して、少女を困らせてその様子をニヤニヤしながら眺めるというような下司な趣味は持ち合わせてはいない。  
「‥‥すまん‥‥」  
何か意図があるのだろうと少女は考え、正式の招待を受けて少年の部屋に入る。  
部屋の入り口付近で固まってしまっている主の小さな身体をそこにそのままにして、  
少年は、つかつかと迷いの無い足取りで自分の机に向かう。  
少女は、緊張に更に身体を硬くする。  
少年の手が、その引き出しに伸びる。  
少女は、もう、気が気ではない。  
少年は、小さい引き出しの内、真ん中の一つを大きく引き出した。  
「どうしても、お嬢様と一緒に飲みたいものがあるのです」  
その最奥から、掌に丁度収まる位の白いものを取り出した少年は、  
少女の元に歩み寄ると、ご覧下さい、というようにそっとそれを少女が見やすい位置に差し出す。  
 
ハンカチと思しき白い布地に包まれた、小さな円筒状の物体。  
「これは‥‥?」  
ナギの問いをきっかけに、ハヤテは、そのハンカチの覆いを丁寧に解いていく。  
「はい!あの時、お嬢様が御手ずからお買い求めくださったものです」  
現れたのは、茶色の地の中央に紅白のストライプが入ったデザインの缶入りコーヒーだった。  
「こうして、頂戴した日付を書いておきました」  
少年がそっと示す缶の銀色の底面には、  
メーカーによって真ん中に無機質に印刷された製造管理番号を上下から挟むようにして、  
「お嬢様より」「負け犬公園で」「200□年12月25日」という文字が少年の筆跡で丁寧に記されていた。  
「‥‥あっ!」  
そう、これは、あの時の‥‥  
それは確かに、巨大な白蛇と壮烈な武闘を繰り広げたその帰り道、雪が降りしきる中、  
常夜灯が薄暗く照らすだけの負け犬公園の芝生の丘にヘリを臨時着陸させ、  
そこに設置されている自動販売機を使って、  
『自分が大きく成長した証』と『少年がくれる温かい毎日への礼』を兼ねて、  
少女が自らの手でその硬貨投入口に小銭を入れ、  
『あたたか〜い』と表示されている商品のボタンを押して少年に買い与えたその缶コーヒーだった。  
少女の頬が、優しくフッと緩む。  
缶コーヒー、たかが一本、されど一本。  
まるで、袱紗に包まれた秘蔵の名品を特別な客にだけ見せる老舗の茶器店の主人のような雰囲気の少年に、  
二人の記念の品とはいえ、たかが一本の缶コーヒーをこんなに大切にしてくれていたとは、と少女は感激する。  
そういえば少女は、今まで、少年の事を何時も「自分の恋人だ」と意識してはいたものの、  
その割には、少年に対して今までに一度もまともな(?)贈り物をしたことがない無かったという事に気付いた。  
あの一億五千万円だって、「びた一文負けてやらん」という条件で“貸して”いるのである。  
一方で、少女は、  
少年から、その価値を計ることなどとてもできないほどに素晴らしい『温かい日々』を惜しみなく貰い続けていた。  
よく考えれば、少女は、その心の中で、  
少年が自分以外の女性と仲良くする−心に思い浮かべるだけでも−ことを禁ずるために、  
少年に対して「自分の恋人」という“縛り”をかけていただけなのであった。要するに、ただの独占欲の表出である。  
少女は、自らの意識と実際の行動の矛盾に恥ずかしくなったが、  
同時に、今は相思相愛の恋人同士となったのだから、今度、少年に何か素敵な贈りものをしよう、と思い立った。  
どんなプレゼントをあげたら、少年は喜んでくれるだろうか?  
自分からの贈り物に、その優しい顔を綻ばせて喜ぶ少年の様子を想像しながら、  
少女は、とても温かい気持ちが自分の心一杯に満ちていくのを感じた。  
「ありがとう、ハヤテ‥‥」  
翡翠色の綺麗な瞳を潤ませながら発せられた心からの少女の言葉に、  
少年は、その缶コーヒーを大切に胸元に抱きながら温かく柔らかい声で答える。  
「お嬢様が下さるものは全て、僕にとって、最高の宝物です」  
 
ハヤテは、缶コーヒーを胸元に抱いたままナギの前から身軽に身を翻すと、  
厨房に向かうために部屋を出ようとした。  
「今、グラスに移し変えてまいりますので‥‥」  
屋敷では、客に供される飲料は基本的に−コーヒーや紅茶から、果物のジュースにいたるまで−マリアが  
全て手作りしており、そうでない場合は、必ず市販の容器から屋敷で使用しているグラスに移し変えて供していた。  
「よい」  
少女の制止に、少年は少し怪訝そうな表情で足を止め、少女の方を振り返る。  
「はい‥‥?」  
「‥‥別に、移し変えなくても‥‥」  
「‥‥?」  
少女は、耳朶と頬をほんのりと紅に染め、小さな身体を更に小さくしてモジモジしながら、  
しかしそれでも少年の顔をちゃんと見上げて、背中をモゾモゾ擽る気恥ずかしさに耐えつつ一生懸命に言葉を繋ぐ。  
「‥‥それから直接、‥‥その、二人で交互に飲めば、よい、‥‥と思うのだが‥‥」  
「はい!」  
少女が提案する如何にも年頃の恋人同士らしいミニ・イベントに、少年は微笑ましさと可愛さを感じながら、  
即座に笑顔で同意した。  
少年としては、デートの“基本”といえばまず「お茶」であり、  
グラスに移し変えたそのコーヒーを、二人でバルコニーで星を見上げながら嗜もうという計画だったのだが、  
時間が迫っているということもあって、急遽、デートの舞台を自室に変更することにした。  
「では」  
缶を包んでいた白いハンカチを軽く畳んで上着のポケットにそっと仕舞った少年は、  
そのしっかりした造りの指で銀色のプルタブを難なく持ち上げる。プシッという音と共に缶の飲み口が開いた。  
「まず、僕から頂きますね」  
少年の唇が飲み口にそっと付けられ、缶を浅く軽くクイッと煽るようにして、少年が一口目を口に含む。  
あまり一度に沢山の量を飲んでしまっては、二人のささやかなイベントがすぐに終わってしまうから、  
一口の分量に注意しなければならない。  
コクリ、と少年の喉仏が軽く動いてそれを飲み下すと、少年は缶の飲み口を親指の腹でそっと拭って、  
その飲み口を、少女がすぐに飲めるようにと、  
まるでお茶の御点前のようにクルリと回して少女の方へ向けながら丁寧に少女の前に差し出す。  
「どうぞ、お嬢様」  
 
 「うむ!」  
ナギは、それを満面の笑みでとても嬉しそうに両手で受け取ると、  
ヒョイと顎を上げ、可愛い喉仏を揺らし、軽くコクンと一口だけ飲み下した。  
どうやら、ハヤテと同様、少女もこのイベントを長く楽しみたいと考えているようだ。  
そして、飲み終えた少女は、少年がしたようには飲み口を拭うことはせず、  
翡翠色の瞳に少々の甘い熱を宿しつつ少年の顔を見上げながら、  
その、自分の唇を離れたばかりの飲み口を、少年にしっかりと示すように差し出した。  
「‥‥ハヤテの、番だぞ‥‥」  
 
 「はい、お嬢様‥‥」  
その意味を理解した少年は、澄んだブルーサファイアの瞳で  
少女の熱っぽい瞳を見つめ返しながら、その飲み口に自分の唇をゆっくりと宛がう。  
そしてそのまま軽く一口飲むと、今度は飲み口を拭わずに、少女に缶を差し出した。  
「‥‥お嬢様‥‥、どうぞ‥‥」  
 
「‥‥ああ‥‥」  
少女は、缶をまた両手で受け取るべくゆっくりと両手を差し出したが、  
しかし、さっきと違って、少女は、缶を落としてしまわぬように注意しながら、  
缶を保持している少年の指に自分の細く白い指を積極的に絡めながら缶を受け取った。  
少女は、自分のそれと同じ種類の熱を帯び始めた少年の瞳を見詰めたまま、  
うっとりとキスするようにその飲み口に愛らしい唇をそっと付ける。  
少女は、ほんの小さく一口だけ味わいながら飲むと、飲み口から唇を離すその際(きわ)にそこにチュッと口付けた。  
そして、缶を、少年にそっと捧げるように差し出す。  
「‥‥、ハヤテ‥‥」  
 
二人の視線が幾重にも熱く絡み合う。  
 
 「‥‥頂戴致します‥‥」  
今度は自分からも積極的に少女の指に自分の指を絡めながら缶を受け取った少年は、  
少女の唾液を嘗め取るようにゆっくりと飲み口に舌を這わせる。  
それを見ている少女の唇が、その少年の舌で直接愛撫されているかのようにヒクヒクと微かに動く。  
少女は、気付かぬ内に口中に溜まっていた生唾をコクンと小さく飲み込むと、  
そっと、少年の爪先に自身の爪先をくっ付ける様に近付き、少年の少し桜色に染まった整った顔を見上げて、  
色付いた溜息交じりの可愛らしい声で囁く様に問い掛けた。  
「‥‥甘いか‥‥?ハヤテ‥‥」  
「はい、‥‥甘いです‥‥」  
「‥‥美味しい、か‥‥?」  
「‥‥はい、とても‥‥。こんなに美味しいものを、‥‥今まで、飲んだことがありません‥‥」  
 
「‥‥ハヤテが‥‥、飲ませてくれ‥‥」  
ナギは可愛らしい顎先を更に上げてハヤテの顔を振り仰ぐと、その美しい喉元をスッと伸ばして口移しをせがんだ。  
「はい、お嬢様‥‥」  
少年は、缶から普通の一口分より少ない量を口に含むと、ちょっと身を捩って缶を机の上に置き、  
少女の両頬をその大きな掌で優しく、しかししっかりと掴んで少女の頭部を固定した。  
 
少年のその両腕に、少女の両掌がそっと宛がわれる。  
 
少年は、二人の鼻先がぶつからぬように注意しながら少女の小さな唇に自分のそれを慎重に重ねると、  
自分の唇の先端に意識を集中して少女の唇の状態を確認する。  
 
少女が意識的に自分の唇を少年のそれにピッタリと合わせることで受け入れの意思を示すと、  
少年は、自分の唇をちょっとだけ上下に開き、少女の唇のわずかに開いた隙間を通じて、  
その口中にほんの少しずつ少しずつコーヒーを流し込んでいく。  
 
少女の口の中に、想い人の唾液がブレンドされて更に甘さを増した液体が、緩々と広がる。  
「‥‥ッ、‥‥むッ。‥‥くッ。」  
少女は、少年のそれとしっかり合わせている唇を離さぬように注意しながら、  
息継ぎに苦労しつつ、口中を満たしていくその液体を小刻みに飲み下していく。  
 
「んッ‥‥!」  
タイミングが少しずれてしまったのか、二人の唇の隙間からうっすらと滲む様に漏れ溢れたその茶色い液体が、  
ナギの片側の口角から、ツーッと一筋、下顎の下縁へと伝い落ちていく。  
それに気付いたハヤテは、自身の口中に残っていた液体を素早く飲み下すと、  
少女の両頬を包んでいた掌を離し、  
今度はそれをそれぞれ少女の後頭部と背中に回して少女の上半身を固定する。  
すかさず、少女が、その少年の両腕に自らの細い腕を絡み付かせる。  
そして少年は、少女の顎から喉仏へと伝い下り始めているその雫の更なる降下を阻止すべく、  
少し腰を屈めて首をグッと傾け、少女の白く美しい喉元ごとその滴りを思い切りヌルリと嘗め上げた。  
「はァうッ‥‥」  
喉元を這う少年の生暖かい舌の感触にフルッと軽く身を震わせた少女が、艶かしい吐息を漏らす。  
とてもくすぐったいけれど、  
それよりも、その喉元ばかりでなく背中までもがゾクゾクするような快感の方が何倍も強力だった。  
一方の少年も、少女の肌の舌触りの良さと間近に感じるその甘い香りに、  
思わず我を忘れてその喉元にそのまましゃぶり付いた。  
「あんッ!」  
少女は小さく嬌声を上げる。  
その鼻腔が、缶コーヒーの香ばしい香りに混じる少年の匂いを間近にはっきりと捉える。  
少女の美しい喉元を少年の舌と唇が緩々と這い回り、更にその鼻から出る息づかいがそこをサワサワと擽る。  
「‥‥ハ‥‥、ハヤテぇ‥‥」  
そのこそばゆさに耐えかねてか、或いは更なる快感を求めてか、  
こっち側も、と言うように少女は自分の首をぐいっと捻って反対側の喉元を少年の唇に押し付けようと試みる。  
少年は、求められるまま、顔をいったん上げると、少女の反対側の喉元に顔を埋め、舌を這わせ始める。  
「‥‥はぁ‥‥、ああ‥‥ッ、‥‥」  
望みを叶えてもらった少女は、少年の腕に絡めた自らの腕に更にキュッと力を込める。  
「‥‥お嬢、‥‥様‥‥ッ」  
少年は、少女の喉元を嘗める舌を少し休め、ハァハァと上がる呼吸と  
舌の付け根から滾々と湧出する生唾に時折喉を詰まらせながら、熱っぽい声音で少女に囁きかける。  
「‥‥お嬢様の肌は、‥‥とても、滑らかで‥‥、とても、美味しい‥‥です‥‥」  
もともと少女の喉元が缶コーヒーの雫で汚れるのを阻止しようとして始めた少年の行為ではあったが、  
しかし今では、少年の唾液が少女の喉元をヌラヌラと妖しげに光らせていた。  
 
 更にハヤテは、唾を飲み下す度に小さく揺れるナギの可愛らしい喉仏にも吸い付こうと試みるが、  
なにぶん少女が自分の真正面に居るという位置関係の問題から、なかなか上手くゆかない。  
そんな少年の苦労に気付いた少女は、まだまだ喉元への愛撫を受け続けたかったものの、  
少年を気遣って、もはや絶え絶えとなっている息遣いを励まし、代わりに“大人の口付け”をおねだりする事にした。  
「‥‥ハヤテ‥‥ッ、キスを、‥‥キスを、くれ‥‥。ハヤテの‥‥、唇が‥‥ッ、欲しいのだ‥‥」  
だが少年にとっては、目標が少女の喉元から唇に変更になったとしても、  
現実問題として、「とても大変」が「なかなかに難儀」に変わる程度の差でしかなかった。  
何故なら、この二人の身長の差は、かなりのものだったからである。  
それに何より、ずっと顎を上げたままにしている少女の首筋は、もう限界だろう。  
「‥‥はい‥‥。お嬢様‥‥」  
少年は、少女の喉元を愛撫していたその唇を、最後にわざとチュッと大きな音を立てて名残惜しげに離すと、  
少女の後頭部と背中を抱えるように支えていた両手をそっと解き、  
その腕を、一方は少女の腰から少し上の辺りに、もう一方は膝の裏に回して軽々と持ち上げ、  
何時もの通り、少女を“お姫様抱っこ”した。  
 
「あッ‥‥」  
ナギには、口付けと“お姫様抱っこ”の関係性は俄かには理解できなかったものの、  
既に少女にとってはハヤテに身体も心もその全てを任せきる事自体が快楽となっていたから、  
素直にその細い両腕を少年の首に回して少年の所作を補助した。  
少年は、そのまま自分のベッドに歩み寄り、少女に衝撃を与えぬように注意深くゆっくりと腰を下ろす。  
そして、更に、両腕をゆっくりと降ろして、少女の小振りな尻を自分の腿の上にそっと据えた。  
これで二人の顔の高さが丁度良くなった。  
少年の行動のとても素敵な意図が理解できた少女は、  
少年の首に回した自らの腕にちょっと力を入れて上半身を少年のそれに近づけると、  
熱く潤む翡翠色の瞳で目の前にある恋人の優しい顔を見詰めながら、熱い溜息が混じる甘い声でその名を呼んだ。  
「‥‥ハヤテぇ‥‥」  
続けて少年は少女の膝裏を支えていた腕を更に降下させ、その両足が無理無く安定を確保している事を確認すると、  
その下から抜いた腕を、今度は上から少女の横腹を抱えるように回して少女の腰を固定した。  
「お嬢様は‥‥、本当に可愛くて、本当に‥‥綺麗です」  
呼吸するたびに鼻腔を擽る少女の匂いに胸を高鳴らせる少年の声も、少女のそれに負けぬほど、甘く、熱い。  
「‥‥ハヤテだって、‥‥最高に‥‥カッコいいぞ」  
うっとりと呟く少女の言葉に、少年は、少し俯くと、わざと少女にも聞こえるように鼻をスーッと微かに鳴らしながら、  
腕の中の小さな愛らしい想い人から上り漂う心を蕩かすようなその甘い匂いを深く深くその肺腑に吸い込んだ。  
如何に入浴を済ませたばかりとはいえ、自分の身体の匂いを楽しむ想い人の様子を見せ付けられ、  
少女は半分気恥ずかしく、また、半分それに興奮を覚えて、モジモジと小さく身動ぎする。  
少女の華奢な身体をとても愛しそうに抱く少年の姿は、  
さながらこの世で最も貴重で可憐な花で拵えた花束を抱え、その香りを心から愉しみ愛でる貴公子の如くである。  
 
「お嬢様‥‥」  
ハヤテは、ナギの背中を支えている腕に少し力を込めてその上半身を自分の胸元にほんの少し引き寄せると、  
すぐ目の前にある少女の側頭部から頬にかけてを鼻先で一通り緩々と撫で、  
美しい桜色に染まっている形のよいその耳朶を息で擽る様にしながら囁きかける。  
「お嬢様は、とてもよい香りがします‥‥。この美しい髪も‥‥、柔らかい頬も‥‥」  
少女は、耳朶に感じる思わず首を竦めたくなるようなこそばゆさに、やはり桜色に染まっている頬をフワリと緩め、  
少年の首に回した腕を恥ずかしげに少し動かすと、視線を伏せながら、ふぅ、と小さな熱い溜息で返事をする。  
「‥‥耳朶は、まるで桜貝の様に可愛いですよ‥‥」  
少年は、ぽーっと火照っている少女の愛らしい耳朶に軽くチュッと口付けると、  
そのほんの少し出した舌先で、その縁を触れるか触れないかの感覚で一回チロッと嘗めた。  
「あんッ‥‥!」  
少女は、少し首を捻って少年の舌先を避けるような素振りを見せたものの、それ以上の抵抗はしなかった。  
だが、次の瞬間、いきなり少女は艶かしい紅に染まったその顔を上げると、  
頬をぷっと膨らませなから唇をつんと尖らせて、少年に注意を促した。  
「こら、ハヤテ!余計なイタズラをしていないで、早く、キスを‥‥」  
少年の顔を上目遣いに可愛らしく見上げながら今更ながらはにかむ少女に、少年が優しく問い返す。  
「キスを‥‥?」  
「‥‥、キスを‥‥、くれないか‥‥?」  
「‥‥はい、お嬢様がお望みであれば、  
この唇だけでなく、身体も‥‥、心も‥‥、命も‥‥、僕の全てを‥‥、差し上げます‥‥」  
「‥‥ハヤテ‥‥」  
甘い溜息を交えながら、少女が、少年の名を呼んだ。  
 
 
ナギは、すぐ目の前にあるハヤテの瞳を、改めて繁々と覗き込んだ。  
本当に美しい美しい、どこまでも澄み切ったブルーサファイヤの瞳。  
その表面はしっとりと艶やかに輝きながら、覗き込んでいる少女の顔をキラキラと映り込ませ、  
中心にある瞳孔の奥には、幾千の星をそこに宿した未知で新しい小宇宙が広がっているかのようだ。  
「(‥‥なんて、綺麗なんだろう‥‥)」  
この、美しい美しい、本当に美しい瞳に、今すぐに吸い込まれてしまえたなら、どんなに幸せなことだろう。  
小さく熱い溜息を漏らす少女に、  
少年は、「どうしましたか?」というように優しく頬を緩め、少し目を細めながらちょっと首を傾げる。  
それをきっかけとして、二人はお互いの身体に絡めた腕に力を込めて互いの胸元を密着させると、  
吐息の温かさまで感じられる距離にまで近付いた顔を更に近付け、目をそっと閉じ、  
額を軽くコツンと合わせ、どちらからともなく互いの鼻の頭を愛しげに擦り合わせる。  
やがて、ぎこちなく二人の顎先が近付き、  
少年の少し尖らせた唇の先が、少女の少し窄めた愛らしい唇に、そっと触れる。  
そのお返し、と、今度は少女の唇が少年の唇を恥ずかしげにちょんと突付く。  
二人は目を開け、互いの瞳孔の奥の奥までを愛しげに見詰めあいながら、  
互いの唇の先端の感触を唇で確かめ合うような軽い口付けを、更に二回、三回と交わす。  
「‥‥んんッ‥‥」  
互いの鼻から出る熱い息が、口元にこそばゆい。  
少年は、今度はその唇で、少女の上唇だけ、或いは下唇だけを挟みにかかる。  
「‥‥あッ、‥‥はふッ‥‥」  
思わぬことに戸惑った少女は、少年に送る視線に困惑の意味を込めながら、  
始めは、挟まれた唇をそっと引っ張り抜いたりしていたが、  
その少年の所作が余りに執拗だったため、思わず負けず嫌いの性格が出てしまい、  
今度は自らの唇で少年のそれを挟みにかかる。  
 
と、次の瞬間、ナギの背中に回されたハヤテの腕に力が込められ、  
その唇が少女のそれにしっかりと、だが優しく重なった。  
「‥‥んッ」  
少年の唇を挟もうとして軽く開かれていた少女の唇は、為す術も無く少年の柔らかく甘い舌の侵入を許してしまう。  
「(‥‥!)」  
突然のことに驚いた少女は瞼を大きく見開き、  
反射的に、その少年の舌先を、硬く力を込めた自らの舌先で押し戻そうとしてしまった。  
だが少年の舌はあくまで侵攻の意志を貫こうと、機敏に右へ左へと縦横に動き回って少女の舌の守備の隙を窺う。  
それに対して、少女の舌は歯列を盾として守備を固めながら、機動的な防御戦を展開する。  
「‥‥むッ‥‥、あうッ‥‥ッ、んッ‥‥ッ」  
やがて、強く擦り付けられている舌先から、何ともいえない甘い感覚がじんわりと舌全体に広がり始める。  
 
これは、ハヤテの作戦だったのか‥‥?  
そんな思いがちらりとナギの脳中を過ぎったが、もしそうだったとしても、もう手遅れであった。  
少女の口中では、依然として歯列を挟んでの攻防戦が続いていたが、  
少年と少女とでは身体の造りはおろか普段の鍛え方からして全く違っていたから、  
少女の口腔の陥落は文字通り時間の問題であった。  
何より、少女の口中では、舌先から舌全体に広がった快感が、今は喉までを甘く痺れさせ始めていた。  
「‥‥はぁ‥‥、むぐッ、‥‥ッッ」  
その全体を快感に支配された少女の舌が、防戦を命じる脳の指令を無視する気配を見せ始める。  
それを少年の舌は敏感に察知し、更に奥を目指して少女の舌に絡み付く。  
「‥‥んッ、‥‥ッ、‥‥ふあッ‥‥」  
事ここに至って、少女は『歯列際防衛』の戦略を180度転換し、総力戦に打って出ることを決意する。  
 
 ナギは軽く目を閉じると、顎と舌の力を、ふっと抜いた。  
この好機を逸しまいと、一気にハヤテの舌が少女の口腔内に差し入れられる。  
次の瞬間、待っていましたとばかりの勢いで、少女の舌が、少年の舌を絡め取るべく襲い掛かった。  
「あうッ!」  
少女の舌の態度(?)の劇的な豹変に少年が目を見開いて驚きの喘ぎを漏らすのにも構わず、  
少女は、瞼をちょっと細めて「どうだ!参ったか!」という視線で少年のブルーサファイアの瞳を妖しく射抜くと、  
自らの口腔内にある少年の舌が少年の口内へと撤退するのを阻止すべく、あらゆる戦法を繰り出す。  
舌先に思い切り力を入れ、少年の舌先を自らの前歯の裏に押し付ける。  
舌先を下にギリギリと曲げ、少年の舌の表面をこそげ取るように押さえ付ける。  
そして、逆に、少女の舌先が、撤退する少年のそれを追って遂に少年の口腔内に攻め入った。  
二人の口中で、量を増し始めたそれぞれの唾液が、一気に交じり合う。  
「むッ‥‥、んんッ‥‥、く‥‥ッ」  
少女が積極的攻勢に転じたことがはっきりしたことで、  
今まで少女の舌先を軽くあしらう様に一方的に攻めてばかりいればよかった少年は、  
自分の口腔内が戦場になることを覚悟せざるを得なくなる。  
腹を決めた少年は、もう遠慮はしませんよ、というように、  
一旦自分の口内に退避させていた舌にギュッと力を入れて硬くすると、  
それをゆっくりと力強く、再び少女の口内に侵攻させた。  
少年からの予想外の力強い反撃に、少女はうっすらと桜色に染まった可愛らしい瞼をビクリと大きく見開く。  
少女の舌先は、侵入して来た少年の舌を、突付き、こそげ、押し付け、そして絡め取ろうと激しくアタックする。  
「‥‥くうッ、‥‥ッ、‥‥んぐ‥‥ッッ」  
とうとう二人の歯と歯がコリコリと音を立てながら直接対決を開始し、下顎はカクカクと不規則に揺れ動き、  
二人の口元からは、微かな喘ぎと、クチュクチュという淫らな水音と、溢れた唾液が少しずつ漏れ始める。  
「‥‥あぁ‥‥、はァ‥‥ッ、んあッ‥‥」  
更に二人は、自らの舌先に有利な角度を得ようと、唇を強く押し付けあったまま首を艶かしくくねくねと動かし、  
相手の身体を抱えるように抱きしめている腕を柔らかく撓らせて、お互いの髪や背中をゆっくりと愛しげに撫で摩る。  
 
双方ともに一歩も引かない状況に業を煮やしたナギは、ハヤテの瞳に「これならどうだ」という視線を送りながら、  
二人の口中に溢れている唾液を、  
その唇の合わせ目から音を立てて空気が入り込むほどの勢いでじゅるるるっと一息に吸い取った。  
「むうッ!」  
油断していた少年は、危うく息まで吸い取られそうになって、一瞬、文字通り目を白黒させたが、  
それが落ち着くと、「おイタは、いけませんよ」という優しい視線を少女の熱く潤む翡翠色の瞳に送りながら、  
その舌先で少女の前歯の表面を一つ一つ丁寧に撫で始めた。  
更に少年の舌先は、器用に、少女の唇の内側をチロチロと擽る様に優しく舐める。  
「‥‥ッ、‥‥、ふぅ‥‥」  
少年の優しい舌先の愛撫と視線を受けとめた少女は、むきになってしまった自分を気恥ずかしく思い、  
少年に「ごめんなさい」という視線を返すと、そっと瞼を閉じ、唇と舌の余分な力を抜いて、  
その口中に少年の舌を素直に受け入れた。  
少年は、少女の口中に溜まっている二人分の唾液をゆっくりと吸い取ると、  
わざと、ごくり、と少し大きな音を立ててそれを一息に飲み下す。  
「‥‥!」  
その音にちょっとびっくりした少女がぱちりと瞼を開けると、  
睫の先が触れ合わんばかりの距離にあるその無防備な翡翠色の瞳に向けて、少年が悪戯っぽくウインクした。  
それにちょっとだけムッとした少女は、背中を少年の腕に預けたまま、少年の背中に回していた腕を解くと、  
少年の両方の鎖骨にその掌を宛がい、  
腕を少し伸ばして二人の上半身と唇をゆっくりと引き剥がす。  
そして、ハアハアと艶っぽく弾む息を何とか抑えながら、  
快感に潤む翡翠色の瞳で優しく少年のブルーサファイアの瞳を見据えて、囁くように呟いた。  
「‥‥ハヤテの‥‥、バカ‥‥」  
 
 
 
 

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