‥‥2秒、3秒、4秒‥‥
ハヤテの唇がナギのそれから離れる気配は、少しも無い。
「‥‥ム、‥ム、‥‥んん〜‥‥‥」
少女は、少年の両手首をギュウッと握り締めると、その腕を思い切り突っ張り伸ばして、
両頬を押さえていた少年の両掌をやっとのことで引き剥がす。
「ぷはあぁ〜〜!!」
びっくりしたように大きく見開いた目を点にしながら、少女は大きくハァハァと息をつく。
「‥‥ハ、ハヤテ‥‥。苦しいではないか‥‥」
少年は自分の腕の角度を緩やかに変えて、逆に、その両手首を握っていた少女のその手の手首を握る。
少女が見上げる少年の顔は、その肌は幸福に上気していたが、
しかし、その表情も眼差しも滑稽なほどに真剣であった。
「お嬢様が、どうしてそんなに可愛いのか教えてくださらないのがいけないんです。
どうか、意地悪しないで教えてくださいませんか?」
どうやら少年は、本当に困っている様子である。
さっきの言葉攻めと今のキスに少々お冠だった少女だが、
少年の質問の内容とその大真面目な態度の激しいギャップに思いが及ぶと、
思わずぷっと噴き出しそうになってしまった。
だが、その喉元にクックッと込み上げてくる愉快な笑いを必死に堪えていると、
突如、それが別の感情へと転換した。
「(ハヤテ、ちよっと、かわいいぞ‥‥!)」
テロリストに占拠された大型客船の船底に開いた大穴から侵入した人食いザメとの水中での真っ向勝負から
負傷しながらでも生還を果たすほどの猛者が、
その少女が可愛く在る理由の説明を拒否されたという只それしきのことで大いに困り果てているのである。
少女は、わざと大袈裟に眉根に力を入れながら
如何にも門外不出、口外無用の一大秘事を弟子に告げる師匠のような口調を装う。
「よし、わかった。ハヤテだけには教えよう。ただし、これは、二人だけの秘密だぞ!」
少年は愁眉を開き、とても安心したように頬を緩める。
少年は、本当に、その訳−どうして少女がそれ程可愛いのか−を少女の口から直接聴きたかったのだ。
「有り難うございます!お嬢様!!」
小鳥が囀るように愛らしいその声で、少女の可愛らしさの秘密が解き明かされるのである。
その威力は、少年にとって凄まじいものとなるに違いない。
「だが、その前に‥‥」
少女は、少年に優しくではあるがしっかりと縛められていた手首を少し動かす。
少年は、ハッとした様子で慌ててその手を離す。
「私をデートに連れてゆくのだ!」
その手を腰の両側にスッと添えながら、少女は少年の顔を見上げて悪戯っぽく笑った。
少年がエスコートする形で二人は厨房を出る。
少女は、少年の如何にもしっかりした造りの腕のその肉付きを服地の上から確かめるように、
その細い両腕を少年の腕に巻き付けていた。
ゆっくりとゆっくりと、真紅のバージン・ロードを祝福の喝采に包まれながら並び歩く新郎新婦のように二人は歩む。
「‥‥さっきの‥‥、質問だが‥‥、その‥‥」
少女は俯いたまま語り始めるが、その首から上は、またも可愛らしい桜色に染まっている。
秋が始まったばかりだというのに、少女は今日一日のうちに何回もの春を経験していた。
「‥‥自分でも、よく分からないんだよ‥‥。でも‥‥」
「‥‥でも‥‥?」
少年は、慈しみに満ちた眼差しで、自分の腕に恥ずかしそうにしがみ付いている愛しい主を見た。
「‥‥女は、その‥‥、恋をすると、美しくなる、と言うぞ‥‥」
少年の腕を抱いている少女の細い腕にキュッと力が篭る。
「‥‥だから‥‥」
消え入りそうな声で更に一生懸命に言葉を継ぐ少女を、少年が甘い声で囁くように促す。
「だから‥‥?」
少女は、『だから』と言ってしまったことを少々後悔した。
−恋人同士となって、ちょっと不意打ち気味ではあったが口付けも交し合ったけれど、
自分のことを『とても可愛い』と褒めてくれる相手に、
自分自身の口でその“可愛い理由”なんぞを解説するなどというのは、恥ずかしい事この上ないではないか。
それに、『こちらが相手を想う気持ち』のほうが『相手がこちらを想う気持ち』よりも強かったら、
何というか、相手に主導権を握られているようで、少しばかりプライドの面で引っ掛かりを感じるし‥‥−
しかし、負けず嫌いな少女としては、
ここで不用意に『いや、なんでも無い』などと誤魔化して、そこを更に追及されるのは嫌だったし、
それより何より、恋仲の二人の間で『女は恋をすると美しくなる』と“謎”をかけているのに、
その“こころ”に気が付かない少年が悪いのだ、との思いもあって、続く言葉を区切りながらそろそろと紡いで行く。
「‥‥ハヤテと出逢えて‥‥」
「僕と、出逢って‥‥?」
「‥‥ハヤテに‥‥、恋をして‥‥」
「‥‥僕に、‥‥恋を‥‥」
少女の言葉を自分の言葉に置き換えながら復唱していた少年の足が、ピタリ、と止まる。
少女は、自分が言ったことの内容を少年が理解したことを知ると、咄嗟の事とて、
幸せな桜色に染まった顔をサッと上げ、気恥ずかしさに任せて少年を叱り付けた。
「‥‥はっ、はっ‥‥、恥ずかしいことを、言わせるなァーーーッ!!」
いくらその声が大きかろうと、少女の表情が険しかろうと、少年は最早驚いたり動揺したりはしなかった。
何故なら、少女は、少年の腕を抱いている自らの腕に更に力を込め、
少年の身体を圧倒せんとするように、ぐっと体重をかけて自らの身体を押し付けてきたからである。
「‥‥有り難うございます、お嬢様‥‥」
少年は、少女の小さな身体を優しく受け止めながら、
その少し潤んだブルーサファイアの瞳を幸せそうに細め、主の翡翠色の大きな美しい瞳を見詰める。
もう、先ほどまでの気恥ずかしさは、どこかへ飛んでいってしまっていた。
「僕も、お嬢様が僕のことを好きでいて下さるそのお気持ちに負けないように、
今よりも、もっともっとお嬢様のことを好きになります‥‥。ですが‥‥」
なんということだろう‥‥
少年は、相手がこちらを好きでいるその気持ちの強さ以上に相手を想おうと努力しているのに‥‥
少女は、『惚れた方が負け』とでもいうべき自分の思考をとても恥ずかしく思った。
そう、以前、誤解から少年を鷺ノ宮家へ売り渡してしまった騒動の折、マリアに言われたのではなかったか?
そうやって、大事な存在(もの)を一つ一つ失っていくつもりか、と‥‥
もう、些細なプライドとか、つまらない駆け引きなんて、要らない。
やはり、あの騒動の時‥‥
狂言誘拐の果てにギルバートの操縦するロボットの暴走により生命の危機に直面した、あの時。
脳裏によぎる少年の笑顔に、思わずその名を、心の底から、力一杯、叫んだ。
その名の通り疾風の様に現れた少年は、こう言ってくれたのではなかったか。
「お嬢様が、僕の名前を呼んだから‥‥」
何のことは無い、少年がこの自分を想ってくれる、その想いの、深さ、広さ、温かさ、大きさに、
何にも余計なことは考えず、只、この身体と心を全て任せれば、任せ切ればそれでいいのだ。
そう思い至った瞬間‥‥
「(あっ!)」
少女は、自分の眼前でこの自分のことを「もっともっと好きになる」と言ってくれたその少年のことを
もっともっと好きになるスイッチが、自分の心の中で、カチャン!ととても優しい音を立てて入ったことが分かった。
少女は、少年の腕を抱いていた自らの腕を少し緩めて小さく一歩、二歩と歩を進めて少年の前に回り込むと、
強い愛しさと尊敬の思いが満ち満ちた翡翠色の瞳で、少年の顔を見上げる。
「‥‥私のことを、もっと、もっと‥‥、好きになってくれるのか‥‥?」
「はい、‥‥今、‥‥この瞬間も、どんどんお嬢様のことを好きになっているのですが‥‥、あの、‥‥」
少女は、更に半歩近付くと、
少年の腕に絡めていた両腕の片方をゆっくりと解き、その掌を少年の胸元にそっと当てた。
少年は、その慈しみに満ちた少女の仕草に励まされ、更に已むに已まれぬ想いを吐露し続ける。
「‥‥どの位まででしたら、お嬢様を好きになっても良いのでしょうか‥‥」
「‥‥ん?」
少年が発した少々理解しにくい質問に、少女は、少年の整った優しい顔を見上げたまま、
その華奢な身体を逞しい少年のそれに緩々と凭せ掛けながら小さく問い返す。
「‥‥僕が、あまりお嬢様を好きになり過ぎても、お嬢様がご迷惑をなさるかと‥‥」
少女は、少年の腕に絡めていたもう一方の腕をそっと解き、それをそのままその背中に静かに回すと、
幸福に甘く蕩ける翡翠色の瞳を伏せ、少年の胸元に上品な桜色に色付いた頬をふんわりと押し付けた。
「‥‥ハヤテが好きなだけ、好きになってくれ‥‥」
少年の両腕が、ゆっくりと愛しげに少女の背中に回される。
少女は、少年の胸元に当てていた手にちょっと力を入れてその上半身を僅かに引き剥がすと、
徐に少年を見上げ、話を繋ぐ。
「‥‥それから、だな‥‥」
「はい‥‥?」
どうなさいましたか?というふうに少年はブルーサファイアの瞳を少し細めた。
「‥‥つまり、さっきの質問だが‥‥、」
少女は、幸福に綻びっぱなしの表情筋をどうにか叱咤してわざと難しげな面持ちを演出すると、
更に声帯を引き締めてなんとか厳かな声音を作り、そして、少年に対して、思う所を宣告する。
「よいか!『女は、恋をすると美しくなる』のだ!
もし、私が、ハヤテから見て“美しい”というなら、それは‥‥、それは‥‥」
初めの勢いは何処へやら、竜頭蛇尾の諺さながらに最後の「それは」はまるで囁くようである。
しかし一方、少年は、聞きたかった問いの答えが少女の口から直接聞けるということで、
その優しい眼差しが見る見るうちに夢見るような熱を帯びてくる。
「‥‥それは‥‥?」
少女は、再び顔を紅に染め上げると、
両耳からポフッとピンク色の気流を噴出させつつ、やっと締めくくりの一言を搾り出した。
「‥‥ハヤテのせいなのだぞ‥‥」
少年は、少女の背に回した腕に少し力を入れてその小さな身体をそっと引き寄せると、
自分を一心に見上げる少女の聡明そうな額に何度も何度も軽く口付け、
艶やかな金髪の感触を鼻の頭に快く感じながら、その甘い甘い香りを深々と胸一杯に吸い込んだ。
少年は、自分の腕の中で時折可愛らしく身動ぎする小さな主をちょっと強めに抱擁しながら、
これからの関係各人のタイム・スケジュールを推し量る。
恋人となったばかりの主従に残されている時間は、やはり、潤沢と言うわけではなかった。
少しばかり、行動を急がねばならないだろう。
「お嬢様」
「ん‥‥?」
少女が、うっとりとしながら鼻にかかった声で短く答える。
「二人きりでいられる時間は、もう残り少ないと思います」
「‥‥‥」
既に充分に了解済みのこととはいえ、
今最も一緒にいたい相手からの宣告に些かの不満を覚えた少女は、
再び少年の広い胸元に頬を埋め、その身体全体をキュッと硬くし、何も返答をしない事で僅かな抵抗を試みた。
少年は、勿論すぐにその少女の仕草の意味する所を理解したし、何より自らも少女と同じ気持ちだったのだが、
残酷なものは時間の流れであり、とにかく、丁寧に提案をするしかなかった。
「お嬢様を、デートにお連れ致します」
そう、二人は初めてのデートの最中なのであった。
少年の提案になる“お屋敷内デート”は、なるほど飯事の様ではあったが、
少女にとっては、大好きな少年と一緒にいる事、一緒にいられる事こそが、まず、何より重要なのだ。
「うん!」
少女はとても嬉しそうにコクリと頷き、
潔く少年の胸元を離れると再びその両腕を少年の片方の腕にしっかりと巻きつけて、そのリードに従う意思を示した。
少年は、自分の腕に絡みついた少女の細い腕をもう一方の手で愛しげに撫でながら、そっと囁く。
「では、参りましょう」
少年の言葉をきっかけに、二人は、再びゆっくりと歩き出した。