食事を終え、食器を載せたカートを押すハヤテの横にナギがピタリと寄り添うようにして再び厨房に戻る。  
二人の間に流れる空気は優しくて暖かかったけれど、  
やはりさっきの『呼び捨て』を巡ってのほんの些細な行き違いが、チクリと心に痛かった。  
少年が再びクリーム色のエプロンと三角巾を着けて洗い物を始める。  
その巧みで無駄のない手捌きによって汚れた皿はどんどん本来の半透明の白さを取り戻して食器立てに並んでいく。  
その間、少女はやはり少年の横に据えた踏み台に乗り、  
皿の洗い方などについて少年に色々な質問を繰り出すが、その声は、やはりちょっとぎこちなかった。  
少年はそれに一つ一つ丁寧に答えつつも、  
その手の動きの速度と滑らかさを全く変えることなく全ての食器を洗い終える。  
少年は奇麗に畳んだ白い三角巾をエプロンのポケットに仕舞いながら少女の方を振り向くと、  
優しく微笑みかけながら、今の二人にとって是非とも必要な、そして、とても素敵な提案する。  
「お嬢様。これから、デートをしませんか?」  
恋焦がれる想い人からの、突然の、しかも夢のような提案に、少女は翡翠色の瞳をパッチリと極限まで見開くと、  
次の瞬間、微笑みにふんわりと緩んだ頬をぱあっと上品な桜色に染め上げながら、その目を幸せそうにふっと細め、  
「うん!」と嬉しさに声を弾ませながら元気よく返事をした。  
どうやらこれで、二人の心は青空を取り戻したようである。  
 
 はずしたエプロンを壁に取り付けてある木目の美しい木製のフックに掛けようとしている少年に、  
少女は踏み台から身軽にひょいと飛び降りて小走りで歩み寄ると、  
自分の細い両腕を少年の空いている方の腕に如何にも愛しげに絡め始める。  
「どこに連れて行ってくれるのだ?」  
幸せな期待に胸を膨らませる少女は、フックにエプロンを掛け終えた少年の優しい顔を、  
まるで美味しいものをねだる子猫のような眼差しで見上げ、見詰める。  
「はい。お屋敷の中で、デートをしましょう」  
少年が説得の意味合いを込めた優しい声音で告げた“行き先”に、少女は、ちょっと、がっかりした。  
だが、二人での外出となれば必ずSPが付かず離れずの距離で追尾してくるし、彼らは、  
二人が屋敷を出発した時刻から、途中でどんな店に立ち寄り、そこでどれ位の時間過ごしたか、そして、  
そこで何を買ったり食べたりしたかについてまで、細大漏らさずその全てをマリアに通報するはずである。  
そして何より、今の時刻では、何時、マリア達から帰還時刻に関する連絡が来てもおかしくは無かった。  
少女としては、勿論そんなことは先刻承知ではあったものの、だからといって、  
初デートが選りに選って自分の屋敷の中とは、如何にもロマンティックさに欠けるではないか‥‥  
だが、デートの誘いが少年の方から来たこと、  
そして何より、今は恋人と二人きりなのだということに改めて気付くと、少女の小さな不満は瞬時に霧消してしまった。  
「せっかくの初めてのデートなのに、申し訳ございません。ですが、本日の所はご辛抱願います」  
如何にも済まなそうな表情で詫びる少年を、少女が暖かく元気付ける。  
「ううん。ハヤテと一緒なら、何処だって、一般客をシャット・アウトしたコ●ケの会場だ!」  
天国だ、ということである。  
 
ハヤテとて、自らが提案した『お屋敷内デート』が、あらゆる意味で“中途半端”であるということは理解していた。  
だがハヤテは、どうしても絶対に、この夜、ナギとデートをしたくなった。  
少年にとって、少女は、昨日まで、いや、ほんのついさっきまで、  
最大限の敬意を払い且つ決死で守護すべき『主人』だった。  
その性別は確かに『女』であり、顔立ちも好ましいと感じてはいたが、しかし、恋愛の対象では全く無かった。  
だが、お互いに心の内を全て見せ合い、お互いの本当の気持ちを告白し合って、恋人同士となった今では全く違う。  
少女に見詰められると、頬と耳がポッと熱くなる。  
少女に話し掛けられると、心臓が激しく高鳴る。  
少女に触れられると、その一点を中心に暖かく柔らかな幸福の波紋が全身へ広がる。  
そして、少女の匂いは、どうしようもなく心を甘く疼かせる。  
こうした感覚が、告白直後より食事中、食事が終わってからより今、という具合にどんどんどんどん強くなってくる。  
ちょっと前まで平気で出来ていた“少女の翡翠色の瞳を真っ直ぐに覗き込む”という行為も、  
今の少年にとっては、宇宙の果てを確かめるに等しい程の至難の業に感じられる。  
少女がすぐそばに居てくれると感じるだけで、胸の真ん中がキリキリと締め付けられるように切なく、苦しい。  
少年は、少女に激しく恋をしていた。  
 
 厨房を出た所で、少年は少女に正対した。  
きちんと背筋を伸ばした少年の美しい立ち姿に、少女も自分の姿勢を正す。  
少女は、少年の表情が何時もとは違うことに気付いた。  
頬が幸せそうにほんのりと色付き、その眼差しも何処か夢見るように柔らかい。  
そんな少年の様子に、少女の心の中なの“女”の部分がキュン!と反応する。  
それが伝わったのか、少年は少女にそっと半歩近付いて、深い愛情を込めた声で話しかけた。  
「では、お嬢様。僕がデートに誘わせていただきます。もし、お嫌なら『嫌』と、おっしゃってくださいね」  
勿論、少女が拒むはずなど無かった。  
実は少年は、自分の誘いに対して、少女が「うん!」と可愛らしく頷く様子を見たかったのである。  
そんな少年の企みを露ほども知らない少女は、少年の言葉を只の楽しい戯れと理解し、了承した。  
「よし、では、私をデートに誘うのだ!」  
「はい」  
慎み深い声で丁寧に返事をした少年は、  
若き貴族が麗しい淑女にダンスの相手を申し込むように優雅にその場に片膝を突くと、  
幸せそうに微笑む少女の顔を見上げる。  
そして、そっととったその手を柔らかく握りながら捧げるように自分の顔の前に持ってくると、  
何とか必死に高鳴る胸を抑えつつ、  
その慈しみ深いブルーサファイアの瞳で少女の甘く潤んだ翡翠色の瞳をじっと見詰めた。  
「とても可愛らしくてとても美しいお嬢様。大好きで大切な僕の只一人のご主人様。  
もし、出来ますことならば、貴女をデートにお誘いすることを、貴女に恋焦がれるこの執事、綾崎ハヤテに  
お許し頂けますでしょうか?」  
「うむ、よかろう‥‥」  
少年の大真面目な申し入れに、少女は頬を紅に染め上げながら只小さく頷くことしか出来ない。  
 
「(なんて愛らしいのだろう‥‥)」  
少年にとって、  
恥ずかしげにおずおずと見詰め返す視線も、子犬が鼻を鳴らすような『うん』という声音も、  
さも嬉しげにコクンと頷く首筋の角度もそのタイミングも、  
まだ乾ききっていないために何時ものツイン・テールに結わえていない長く美しい金髪が  
頷いた拍子にサラリと流れる様子も、  
その全てが、思わず呼吸を忘れてしまう程に、えも言われぬ魅力に満ちたものだった。  
「有り難うございます。僕の、僕だけのお嬢様」  
少年は、自分の口元に先ほどとった少女の手をそっと引き寄せると、  
その白く滑らかな手の甲に、ゆっくりと口付けをする。  
その手に一瞬ピクンと力が入るが、それはすぐに緩々と抜けていった。  
口付けが、甲全体に何回も繰り返される。  
と、少女はそこに暖かい滑りを感じた。  
「(‥‥?)」  
少年が、少女のその手の甲に舌を這わせている。  
「わあっ!ハ、ハ、ハヤテ!何をしておるのだ!!」  
少年からの返事は無い。  
少女は慌てて手を引っ込めようとするが、それを拒否するように少年の大きな掌に優しく力が込められる。  
少年の舌先が、関節の大きさを確かめるようにそれを包み、そして、筋をツーッとなぞり辿る。  
少女は抗うことを完全に諦め、  
自分の眼下に跪いたまま一心に手の甲への愛撫を続ける少年の姿を  
甘く色付いた溜息を時折小さく漏らしながら黙然と見下ろしていた。  
 
最後にチュッと音を立てて少年の唇が少女の手の甲から離れた。  
「お嬢様‥‥」  
「ん‥‥?」  
甘い声音での問い掛けに、甘い声音の返事。  
「この手を、奇麗にしましょう‥‥」  
自分の唾液でヌラヌラと光る少女の手をほんの少し持ち上げながら、少年が囁く。  
「うん‥‥」  
少女のその手を握ったまま少年は徐に立ち上がると、優しくその手を引いて、再び厨房の中へ入った。  
少年は少女を誘ってシンクの前に立たせ、自らはそのすぐ後ろに立つ。  
背後から抱きすくめる様にして少女の腕に自分の腕を添え、自分が唾液で汚してしまった少女の手をとり、  
もう一方の手でカランのコックを捻ると、蛇口から出る丁度良い温度の湯を掛けながら、  
少女の手を笏を持つように両手で支えてそれを洗い始める。  
まず、その手の甲を両親指でゆっくりと何度何度も撫でるように濯ぐ。  
次に、関節と筋をマッサージするように優しく撫で、なぞり辿る。  
更に、指の一本一本を、関節を一つ一つコリコリと弄りながら付け根から指先へと柔らかく撫で擦っていく。  
その様子をトロンとした目で見詰めていた少女は、  
ふぅ、と気だるそうに熱い溜息を一つつくと、少年の胸に自分の背中をやんわりと預けた。  
 
少年の鼻腔に、少女の甘い髪の匂いが満ちていく。  
「(とっても、いい香りだ‥‥)」  
少年の心臓は、ドクンドクンと苦しいほどに激しく鼓動し、少女への愛しさがその胸元を更に更に強く締め付ける。  
少年は、自分の心臓の音が少女に聞こえてしまうのではないかとちょっと心配になったし、  
何より、愛しい少女の可愛らしい声を今すぐ聴きたかったので、とにかく少女に話しかけた。  
「お嬢様」  
「ん‥‥?」  
少女からの返答は、小さな溜息が混じった『ん?』だけ。  
もっと何か意表をつく問い掛けをしなければ、少女の可愛らしい声−返事−を長く聴くことが出来ないのか?  
「(よし!お嬢様を、口説く!!)」  
少年の決心を「何を今更」、と笑ってはいけない。  
とにかく、この、可憐で、愛らしく、美しい少女の心を何とかして自分の方に振り向かせたい。  
もう振り向いてくれているのなら、自分を、自分だけを見つめて欲しい。  
少女の心の中を、自分で、自分だけで一杯にしたい。  
命懸けで守護すべき『主』と全身全霊を捧げて想う『恋人』。  
この両方の要素を兼ね備えたその少女は、少年にとって、本当の意味で永遠の存在であった。  
 
 
 カランのコックを捻って湯を止め、清潔な手拭いを選んで少女の手を奇麗に拭き上げると、少年は、  
自分の手を拭きながら少し屈み込んで少女の耳元に囁くように質問する。  
頬に触れる少女の滑らかな髪が心地良い。  
「何故、お嬢様はスミレの花のように小さいのですか?」  
少女は幸せに霞んでいた意識のピントを調節し、少年の問いの意味を解析する。  
−私の体躯の小ささを『スミレの花』に喩えているということは、決して悪意に基づく質問ではない−  
−だが、『小さい』というのは、『子供っぽい』と言われているようで、少々不本意だ−  
少女は、一番無難な答えを選択する。少年がそれにどう反応するかで、その本意も分かるはずだ。  
「‥‥小さくて、すまん‥‥」  
少女の声が聴けたことに一応満足した少年は、少女の両肩にその逞しい腕を緩々と回して抱きすくめると、  
少女の耳朶を息でくすぐる様にしながら、囁く。  
「あ、分かりました」  
「‥‥?」  
「お身体がこんなに小さくて可愛らしいのは、  
僕がお嬢様を抱き締めた時、僕の腕の中に全部納まるように、ですね‥‥」  
見る見るうちに、少女の首から上が濃い桜色に染まっていく。  
「(‥‥ハヤテのヤツめ‥‥)」  
だが、少女は返事をせず、只、少年に預けている背中に掛けていた体重を、ほんの少し増した。  
 
 少年の唇が、少女の熱く火照る耳朶をそっと抓むように小さく咥える。  
少女は、ひゃあ!と嬌声を上げて小さく身を震わせると、その唇から逃れるように首を傾げ肩を竦める。  
「こら!何するのだ!!」  
「次は、お嬢様が何故そんなに小鳥のように可愛いのか、教えてください」  
少年が囁く度、その顎の動きが少女の側頭部に伝わる。  
その囁きは、もう言葉を伝えているのではなく、その大半が少女の耳朶に優しく吹きかかっていた。  
再び耳朶に小さく口付ける少年の唇を避けるように首を恥ずかしげに捻りながら、  
少女は気恥ずかしさとくすぐったさを必死に堪えつつ、少し硬い声で−本人はそのつもりで−返事をする。  
「知らん!‥‥知ってても、教えてやらん!」  
必死に何時もの口調を装ってはいるがちょっと鼻にかかるくぐもった少女の声に、少年は魅了された。  
「お嬢様がそんなに可愛らしいのには、何か理由があるはずです。  
どうしてそんなにまで可愛くなければいけないのか、お教えいただけないでしょうか」  
「知らんと言ったら、知らん!!」  
少年の執拗な言葉攻め(?)に、少女はちょっと本気で腹を立ててしまう。少年は、本来はSなのかも知れない。  
「どうしても教えていただけないのでしたら、何時ごろからその様に可愛くなられたのか、それだけでも‥‥」  
「ええい、しつこいぞ!」  
さすがの少女も、自分の肩に回された少年の手をサッと解き、  
その場で勢いよくクルリと回れ右をして少年に正対すると、すっと美しく伸びる眉を顰め、  
桜色の唇をツンと尖らせて、悪戯が過ぎる我が子を咎めるような如何にも不機嫌な眼差しで少年の顔を見上げた。  
と、次の瞬間‥‥  
少年の掌が少女のちょっと強張っている両頬をふんわりと包むと、  
少女の僅かに尖った唇に少年の唇がちょっと強めに押し付けられた。  
少女の頬の強張りが、次第に緩んでいく。  
少女は、まんまと少年の術中に嵌ってしまったのだった。  
 

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