「有り難うございます。お嬢様‥‥」
少年の口から、我知らず感謝の言葉が零れる。
同時に、少女の心を深々と抉るという最悪の事態を回避できたという大きな安堵感とは別の感覚が、
少年の胸に沸々と湧き上がり始めた。
今、自分の目の前にいる、あらゆる幼さに満ちた小さな少女。
少年は、少女の父母のことに関して何も知らない。
自分が執事となって既に丸一年が過ぎたが、
彼等からの少女宛ての手紙や電話を取り次いだことは一度も無かったし、
まして少女の墓参の供をしたことも、或いは少女が少年に悟られぬように墓参をしたという気配も無く、
また、そうした事についてクラウスからもマリアからも公式・非公式を問わず明確な説明は無かった。
故あっての別居にしろ病気や事故による死別にしろ、少女がその事情に全く触れないということが、
この『父母の不在』が、少女の心に凄まじい傷を負わせ、それがまだ全く癒えていない事の何よりの証であった。
『父母の不在』
少年の父母は確かに“物理的”には存在している。
だが、彼らは自分達の子に対して『良いこと』も『善いこと』も『親として当然なすべきこと』すらも
しなかっただけでなく、合法・非合法の別を問わずに“金づる”としてとことんまで利用した。
只一つ、彼等が少年に示した“優しさ”は、借金取りからの迅速な逃走を願って、
その名を『ハヤテ』(疾風)としたことだけであった。
もし、少女が両親から愛されながらも“置いていかれた”のだとすれば、
少年は、文字通り、両親から弊履の如く“棄てられた”、いや、両親によって“利用するために造られた”のだった。
少年と少女は、『お金』に起因する問題だけでなく『親』というキーワードでも繋がっていた。
「(お嬢様を、何時までも、どこまでも、護りたい‥‥!!)」
陳腐な“憐れみ”や安っぽい“同情”などとは全く無縁の熱く激しい感情の突発に呼応するかのように、
少年の心臓が、ドクン、ドクンと力強い鼓動を打ち始める。
目の前で優しく微笑む少女は、決して小さいとはいえない踏み台を使うことでやっと少年と同じ視点の高さを得ていた。
その身体は、本当に華奢で、小さい。
16年間、自分は『親』と名乗る屑と暮らしてきた。
自分がその屑の本当の子であることは、悔しくて悲しいけれど、間違いない事実だった。
こんな自分が、お嬢様に相応しい、お嬢様と釣り合いがとれる男だとは、どう考えてもとても思えない。
だが、こんな自分でも、いや、こんな自分だからこそ、
喩えほんの少しであったとしても、お嬢様を支えて差し上げることが出来るかも知れない。
いや、“出来るかも知れない”ではなく、やらなければならない。
いや、“やらなければならない”ではなく、必ずやり遂げるのだ。
今、暖かく真っ直ぐな眼差しで一心に自分を見詰めてくれているこの少女を、あらゆる哀しみから護りぬく!!
その笑顔を護るためにこの命が必要ならば、いつでも持っていくがいい!!
少年は、今の今まで
只の一度たりとも、少女を護る際に自分自身の身体や命の安全に気を取られたことなど無かった。
だが、今からはそれだけでは不十分なのだ。
少女の幸せのために、その笑顔のために、此方から積極的に仕掛け、果敢に打って出るのだ。
その結果、自分が死のうが生きようが、そんなことは只それだけのことでしかない。
金剛石を凌ぐほどに硬く、火口から溢れ出る溶岩よりも熱い決意を宿した少年の燃えるような眼差しは、
今や、爛々と輝きつつ生死(しょうじ)の別を遥か遥か下方に睥睨していた。
今の少年にとって、『攻撃は最大の防御』という諺は、天地と我が身を貫き通す真理であった。
「お嬢様!」
「ど、どうした?」
只ならぬ気迫の篭った少年の呼び掛けに、少女は大いに戸惑いながら返事をした。
少年は、靴の踵をピタリと付け、背筋をきちんと伸ばし、右の掌を自分の胸の中央にしっかりと押し付け、
眼前の少女の翡翠色の瞳を真っ直ぐに見詰め、その感情豊かでほんの少しハスキーな声を励まして、
少女に決意を披瀝する。
「僕は、この身に代えても必ずお嬢様をお護り致します。
これから先、もしもお嬢様の身に何か困難が降り懸かることがあれば、
僕が、先ず、それをお引き受けいたします。
僕の命も身体も、全てお嬢様のものです。
僕のこれからの人生を、全てお嬢様に捧げます。
僕は、お嬢様のために、生きてゆきます。
お嬢様は、僕の、大切な大切な、本当に大切な、掛け替えの無い宝物です。」
姿勢を正し、一言一言区切りながら腹から響き渡る声で少女に語りかける少年の姿は、
憧れの見目麗しい女王に忠誠の宣誓を行う若い将校さながらの凛とした気品に満ち溢れていた。
今度は、ナギの小さな身体が固まった。
少年のブルーサファイアの瞳に射竦められる様にして、
その言葉の一つ一つを只々聴いているのが精一杯だった少女。
真っ白になった少女の脳中に、
『この身に代えても必ず護る』『命も身体も、全て』『捧げます』『全てお嬢様のもの』『掛け替えの無い宝物』
という少年の声の残響が次第に文字として形を成し、やがてそれが順序正しく列を作り、
それを改めて一文字ずつ読み辿っていく事で、少女はようやく、自分が少年からどの様な言葉を聞かされたのか、
その意味するところは何なのかを、病者が粥を飲み込むように、少しずつ少しずつ理解してゆく。
少女の脳中で時折チカチカと点滅していた砂時計のマークが消え、
その直後、
画面全体が、パパパパッとせわしなく表示される大小も形式も様々な幾つものポップアップ・メッセージによって
瞬時に覆い尽くされた。
だが、それらのウインドウの中の文字は、どれもこれも皆同じであった。
『あなたは強く愛されています』
少女の可愛らしい膝が小刻みに震え始める。
それまで緊張に引き締まり血の気が失せていた頬がふっと緩み、徐々に何時もの肌の色を取り戻していき、
更に鮮やかな桜色に変化する。
驚愕に見開かれ久しく瞬きを忘れていた美しく勝気な翡翠色の瞳がすっと細まり、
そこにあっという間に熱い涙がどんどんと沸き溜まって、ついに睫に留まり切れなくなったそれが、
目頭と目尻から、キラキラ輝く小粒の真珠となって幾つも幾つもポロポロと紅に染まった少女の頬を伝い零れた。
普段なら快活に動く唇は、ほんの小さく小刻みに開閉を繰り返すばかりで、一向に声にならない。
少女は、わなわなと取り留めなく震えるその細い両腕をぎこちなく少年へと伸ばす。
少年は、真剣な覚悟と深い慈しみに満ちた眼差しで少女の濡れた瞳を真っ直ぐに見詰めたまま、
ほんの1、2センチ、少女の立つ踏み台にその爪先を近付けた。
その次の瞬間、少女は自分の身体を少年の身体へと激しくぶつけるように投げ出すと、
少年の広い背中に回したその腕に骨も折れよと言わぬばかりに力を込め、
その背中全体を掻き毟るように縦横に撫で摩る。
少年の頬に自分の頬をぎゅーっと強く強くくっ付けると、
自分の頬骨の一番尖った所で少年の頬骨の全体を探りなぞる様に愛しげに何度も何度も擦り付ける。
幾度も幾度も喉が痛くなるほど大きく激しくしゃくり上げた後で、漸く嗚咽が言葉になり始める。
「‥‥ッ、あッ‥‥、ありがッッ‥‥と、‥‥ありがとッッ‥‥う、‥‥ハヤッッ‥‥、テェッ‥‥」
少年の大きく暖かい掌がふるふると切なく震える少女の華奢な両肩先を柔らかく包む。
やがてその掌は肩甲骨を慈しみ深げに撫でながら更に進んで背骨の上で出会ったが、
それはお互い擦れ違ったまま進み、
ついに少年の腕が、完全に少女の小さな背中をしっかりと抱えるように包み込んだ。
少年の耳元で憑かれたように感謝の言葉と少年の名と涙声で交互に繰り返す少女に、
少年が、ゆっくりと、暖かい声でそっと囁く。
「お嬢様‥‥。僕は、何時でも、何時までも、お嬢様のお側に、お嬢様と一緒にいます‥‥」
少女は、少年に暖かく強く抱擁されながら、
その小さな身体を大きく打ち震わせて、今まで一度も流したことがなかった幸せな熱い涙を思う存分に流した。
二人は、そのまま暫く抱き合っていた。
少女の呼吸が落ち着いてきたのを見計らい、その耳元に少年が優しく問い掛ける。
「お嬢様」
「うん‥‥?」
歓喜の涙に泣き疲れた少女は、密着していた上半身をほんの少しだけ離すと、
少年のその整った優しい顔を間近に覗き込むようしながら、ちょっとくぐもった鼻声で短く返事をした。
「お料理の続きを致しましょう。きっとお口に合うように仕上げてご覧に入れます!」
「うむ!ありがとう!」
ニッコリと満面の笑みを返す少女の目尻にうっすらと光る涙の痕を見付けた少年は、少女に更にもう一つ提案する。
「ですか、その前に、お顔を奇麗になさっては如何でしょう」
少女は、耳と頬を紅に染めて深々と俯き、
少年が着けているクリーム色のエプロンの両脇をそっと抓むように掴みながら恥ずかしげにボソボソと呟く。
「うん‥‥、ハヤテも、一緒に‥‥」
「はい。お供致します」
少年が手をスッと差し出して少女の手をそっと握るように支え、少女が踏み台から降りるのを助ける。
「ありがとう!」
満面の笑みでステップも軽く床に降り立った少女は、
少年に預けていた手を離さずそのまま逆に少年の手を握ると、
その手を引きながら、大浴場に併設されている洗面所に向かうべく厨房を後にした。
少年と少女は、並んで手を繋ぎながらゆっくりと手入れの行き届いた緋色の絨毯の上を歩いていく。
金糸で編まれた太いタッセルで纏められた上品な桜色の遮光カーテンから覗く窓外は、
既に深い藍色に変化していた。
「ハヤテ」
「はい」
少年が少女の方に顔を向けると、またもや少女が顔を紅に染め上げながら俯いていた。
男女の間の事情ということに関して、
少女は、都心の下手な“高級”マンションなどよりも遥かに広い専用書斎に溢れ返るほどコレクションされている
その手の同人誌や青年コミックからそれなりの知識を一応ながら得てはいたものの、
いざ我が身の上のこととなると、全く為す術を知らぬ状態に陥ってしまうのだ。
だが、そうした生(うぶ)さは、少女の魅力でもあった。
「‥‥さっきハヤテは、全てを私にくれると言ってくれたのだが‥‥」
「はい。この身体も、心も、命も、全て‥‥」
繋いでいる反対側の掌を、先ほどと同様に自分の心臓の位置に当てながら、少年が優しく返事をする。
「‥‥な、なら、私はハヤテに何をあげればよいのだ‥‥?」
少年は、少女の瞳を見詰めながら答えた。
「僕は、お嬢様だけが欲しいです」
怪訝な顔で見上げる少女に、少年が丁寧に説明する。
「去年のクリスマスの騒動を覚えていらっしゃいますか?」
去年のクリスマスの夜。
“伝説の執事服”とやらを巡って白皇学院の理事長・葛葉キリカとその専属執事を操っていた巨大な白蛇との
激烈な武闘が発生し、その結果、学院の屋内体育施設が全壊してしまった。
その時、少女は、その騒動の原因であり当事者となってしまった少年を助けるため、
桂ヒナギクと共にその武闘の真っ只中に身を投じたのだった。
「あの時、僕はあの大きな白い蛇に意識を操られていたらしくて、
お嬢様が大きな声で僕の名前をお呼び下さった時より前の記憶が無いのです。
でも、あの時、お嬢様が僕にとってもとっても大切なことをお伝え下さった様な気がずっとしていて‥‥。
今でもやっぱりそれを思い出せないのですが、
でも今、僕は、このお屋敷とか、財産とか、三千院家の次期当主とか、そういういろいろなことは関係なしに、
『三千院ナギ』っていう、僕が側にいることを望んでくれるとっても優しくてとっても可愛い女の子と
ずっとずっと一緒に居たいんです。
ですから、僕がどうしても欲しいのは、今、僕の目の前に居て下さるお嬢様御本人だけなんです」
少女は、あの騒動の折、
ハヤテに襲い掛からんとする巨大な白蛇の前に立ち塞がった際に、自分が我知らず叫んだ台詞を思い出した。
― 屋敷なんか無くても、財産なんか無くても、ハヤテさえ居てくれればそれでいい ―
― 喩え、執事の力を無くしたとしても‥‥ ―
少女が叫んだことをきっかけとして少年の洗脳は解けたのだが、
だとすれば、洗脳が解けかかったことで混乱を来たしていた少年の意識の底に、
少女のその叫びが刻み込まれたのに違いなかった。
あのような大混乱の最中(さなか)にあっても、私の叫びはハヤテの心の奥深くにまでに届いていたのだ‥‥。
あの巨大な白蛇に操られていても尚、ハヤテの心は私の叫びをしっかりと受け止めてくれていたのだ‥‥。
それに、財産も無ければ三千院家の当主でもない私など、只の小生意気な子供でしかないはずなのに、
それでもハヤテは私のことを『優しくて、可愛い』『どうしても欲しい』と言ってくれるのだ‥‥。
少女は軽く小さい溜息を付いたが、それは甘い熱情を帯びたものではなく、
フッと細められた目は、研ぎ澄ました刃のように鋭く煌き、
頬は、肌を幸せな桜色に上気させたまま、スッと引き締まり、
愛らしい唇は、軽くキュッと結ばれた。
少女は徐に立ち止まると、繋いでいた手をくいっと引いて少年も立ち止まらせた。
不思議そうな面持ちで足を揃えながら姿勢を正した少年に正対すると、
少女は、少年の澄み切ったブルーサファイアの瞳をじっと静かに見据えて、話し始める。
「私の願いなら、何でも聴いてくれるのだな?」
少女の顔色には、殆ど変化はなかった。むしろ、頬などはそれまでの桜色が少しずつ褪せ始めている。
少年は、少女が何らかの重大な決断か固い決意をしたことを悟って、真剣な表情で返事をした。
「はい‥‥」
「‥‥私の恋人になってくれないか」
ハヤテと一緒なら、どんな苦難にも耐えられる。
ハヤテと一緒なら、どんな困難も乗り越えられる。
ハヤテと一緒なら、生きることを楽しいと感じられる。
ハヤテと一緒なら、どんな状況の下でも心からの幸せを感じることが出来る。
ハヤテを、絶対に絶対に手放さない。手放すわけにはいかない。
私がこの世に生を享けたのは、ハヤテと出逢うためだったのだ。
もしも私の問いに対するハヤテの答えが『否』であれば、その時は‥‥
少年は、緊張させていた頬をふんわりと柔らかく緩め、慈しみ深く包み込むような眼差しで、
自らの運命と一対一で対峙する決意と覚悟の重大さに鋭く輝く少女の翡翠色の瞳を見詰め返した。
「はい、喜んで!僕の方こそ、お嬢様と是非お付き合いをさせていただきたいです!」
少年は、今思い感じていることをそのまま素直に言の葉(ことのは)に乗せて少女に伝える。
それを聞いた少女は、少年の逞しい胸に縋り付くように凭れ掛かかると、その胸板の厚さを確かめるように、
また、その心臓の鼓動を確かめるように耳と頬をそっと押し付けながら、
掌で少年の胸元をゆっくりと愛しげに撫で摩った。
少女の小さく華奢な身体を優しく柔らかく抱えるように、少年の腕が緩々とその背中に回る。
「私を、絶対に離さないでくれ、ハヤテ‥‥」
少年のクリーム色のエプロンの胸元をのろのろと這い回る自分の細い指先を、
熱を帯びて潤む翡翠色の瞳で追うともなしに追いながら、うっとりと夢見るような口調で少女が呟く。
「はい、絶対に‥‥」
少年は、まだ乾ききらない少女の頭頂の艶やかな金髪にそっと顎の先を押し付けながら優しく囁いた。