ナギは、例の、  
三千院家の厨房にある超一流の食材を惜しげもなく投入したのにも拘らず、最終的には  
ゴボッゴボッと不気味に泡立つ紫色の化学兵器へと変化する料理を作る際に自分が使っている踏み台を持ち出し、  
ハヤテが立っている場所の横にコトリと据える。  
「ここに居ても、邪魔にはならないな?」  
「はい。大丈夫です」  
コトンと踏み台に乗り、少年と同じ目線の高さを獲得して如何にも嬉しそうに「ムフフ‥‥!」と微笑みかける少女に、  
その少女の大胆な企みをまだ知らない少年は優しい笑みを返した。  
少年が、ようやく冷めた煮野菜とそのスープを溢さぬように慎重にミキサーに移し変える。  
「これが滑らかになるまでミキサーを回します。十分滑らかになったら、網で漉してもう一度火に‥‥」  
「なあ、ハヤテ」  
不意の少女の呼び掛けに、少年は「はい」と答えながら少女の方を振り返る。  
「!!」  
いきなり、両頬を掌で包むように押さえられ、目を閉じた少女の顔がスッと近付いたかと思うと、  
視界が暗く塞がれる中、鼻の横と唇にふんわりと柔らかくてほの温かいものが押し当てられた。  
再び開けた視界の中央には、美しいストレートの金髪を背に垂らし、さっきまで髪に巻いていた白いタオルを首に掛け、  
その首から上の全ての肌を文字通り濃い蛍光ピンクに染め上げて、モジモジと目を伏せる少女の上半身があった。  
少年は、少女の口付けを受けたのだ。  
 
このキスは、少女にとって、その13年間の生涯で最初で最大の、文字通り一世一代の大決断の結果であった。  
今日のこの機会を逃してしまったならば、今度何時またハヤテと二人きりになれるか分からない。  
皆の温かい気持ちをしっかりと受け止められるような人間になるのだと強く決心してはいたが、  
しかし、それを一人で成し遂げられるかどうかについて、実は、少女はとても不安だった。  
だが、大好きなハヤテに手伝ってもらえば、いや、ハヤテに自分の心の内を丁寧に説明し、それを分かってもらって、  
そしてハヤテに背中を押してもらえるなら、きっと大丈夫だ。  
だから、ハヤテに「大好きだ」と伝えなければ。  
だから、ハヤテに「助けて欲しい」と頼まなければ。  
このキスは、少女にとって、創造の、始まりの、そして希望のキスなのだ。  
 
だが、このキスは少年にとっては破滅(カタストロフ)の始まりだった。  
世間一般の“常識”からすれば、こんなことは「若い男女間の、ささやかな触れ合い」で済むだろう。  
だが、少年の価値観や倫理観は、それまでの16年間の一日に何生もするが如き波乱に満ちた人生からすれば、  
いや、そうであったが故に極めて堅実で保守的なものであり、それに従えば、キスは正式な交際の開始を意味した。  
広大な平面に敷き詰めるように並べ立てられたドミノを端から倒すと、そこに絵が現れる、  
という映像を見ることがあるが、少年は、脳中に、少女が今まで自分に対してとってきた態度や行動を並べて、  
それをドミノよろしく倒してみた。  
そこに現れた“絵”によれば、少女が自分に対して只の好意以上の想いを抱いていることは、最早、疑う余地が無かった。  
だが、しかし。いや、だからこそ‥‥。  
少年の身体と心が、その中心から順に外側に向かって凍り付いていくかのようにギリギリと冷たく固まる。  
その脳裏に、あの日の、あの夜の、あの瞬間の自分の行動が鮮明に蘇る。  
あの屑連中 ― つまり、両親 ― は、自転車便のアルバイト先にまで先回りして現れ、  
年越し用にと当てにしていた給料を自分達で受け取り、闇金への1億5千万円の借用書を残して煙のように消えた。  
夜の公園、頭上での天使のような悪魔と悪魔のような天使の論争の結論として、身代金目当ての誘拐を決意し、  
その時、目標として選んだのがナギだった。  
ヘラヘラしたナンパ男達からナギを助けたことで一旦その決意は大きくぐらついたが、  
謝礼に何でも好きなものをやるといわれ、  
ナギを人質にとるつもりで「僕とつきあってくれないか。僕は君が欲しいんだ」と宣言した。  
その言葉に慌てるナギに、「こんなこと、冗談じゃ言えない。命懸けさ!」  
「一目見た瞬間から、君を‥‥、君を攫うと決めていた!」と、畳み掛けたのは、誰あろう、この自分である。  
少女の側近くに仕えるようになって、少年は、少女がまだほんの小さい頃から  
不断に周囲の大人達から『三千院家の財産に近付くための“手段”』として扱われ続けてきた事、  
そして、少女がどれほどその事に傷付き続けてきたかを知った。  
営利誘拐というのは、人をして金を得る為の『手段』として扱う行為の中でも最も卑劣な方法ではないのか。  
そんな犯罪を企てた我が身が喩え地獄に落ちたとしても、そんなことは別にどうだって良い。  
だが、あの時の自分の必死の“告白”が、  
少女を誘拐する為のためのものだったということをもしも少女が知ったとすれば、  
その心はズタズタに引き裂かれてしまうだろう。  
そうした事態だけは、何があろうが絶対に避けなければならない。  
だがもし真実を告白すれば、この快適な屋敷を放逐され、少女への借金の返済のために、  
どの様な職に就こうと、どこに住もうと、収入は管理されて一生涯馬車馬のように働かなければならなくなるだろう。  
しかし少年は、少女に対する誘拐未遂という所業を隠して少女と付き合うという選択をするだけの“不誠実さ”を、  
その身体にも心にも、持ち合わせてはいなかった。  
真実を告白する。  
少年は、最も単純だが最も困難な路を選択した。  
 
お返しのキスを期待していた少女は、今にも本当に火が出そうな顔を俯かせたまま、  
少年の逞しい腕が自分の背中をふんわりと包んでキュッと抱き締め、  
少年のあの甘い声が自分の名を呼び、  
少年のあの唇が自分の唇にそっと重なる‥‥  
そんな展開を胸中に描いていた。  
だが‥‥  
どうした訳か、何時まで待っても少年の身体が近付いてくる気配はしてこない。  
視界を垂れ遮る前髪の隙間から、上目遣いで少年の様子を窺う。  
そこに少女が見出したのは、全身を石の如く強張らせ、血色を失って既に薄い乳白色と化していた顔色を  
更に寒々と青褪めさせていく少年の姿だった。  
さすがの少女も、これが徒事で無い負の変化であるということを瞬時に悟る。  
「‥‥どうした、ハヤテ‥‥」  
おずおずと伸ばされた少女の手が、少年の肩口に触れようとしたその瞬間。  
「お嬢様ッッ!!」  
少年の切ない叫びに驚いた少女は踏み台の上でビクンと飛び上がった。  
「‥‥お嬢様、どうしても申し上げなければならないことがございます‥‥」  
少年は、見る者の悪寒を誘うほどに青褪めた顔をゆっくりと上げると、  
極限まで思い詰めた眼差しで少女の瞳を見詰める。  
少女の身体にも、全身の毛が逆立つような嫌な緊張感がビリビリと伝わる。  
少年は、苦悩に痛いほど張り付く喉と動くことを拒否しようとする舌を意志の力で捻じ伏せながら、  
それでも震えを抑え切れない声で話し始める。  
「‥‥あの日、僕がお嬢様と初めて出会ったあの時、僕が申し上げた言葉を憶えていらっしゃいますか?」  
「‥‥うん」  
事態の行方が全く見えない少女は、恐る恐る頷くことしか出来なかった。  
そう、あの熱烈な告白。全てはそこから始まったのだ。  
「‥‥あの時、僕は‥‥、お嬢様を誘拐しようとして、声をお掛けしたのです‥‥」  
自動制御式のガスコンロが、ピーピーという警告音とパイロット・ランプの点滅で湯の沸騰を告げた。  
 
 
少年の言葉に、少女の表情が一瞬、虚ろになる。  
両拳をぐっと握り締め、肩をふるふると震わせていた少年は、  
次の瞬間、少女の足元にガクリと両膝を付き深く深く俯いた。  
「‥‥僕はッ、‥‥僕は、お嬢様を‥‥、自分の借金の返済のために、利用しようとしたんです‥‥」  
少年は、込み上げる嗚咽に更に震える声を振り絞る。  
「‥‥僕は‥‥、三千院家の財産目当てにお嬢様に近づこうとする薄汚い大人達と同じです‥‥」  
少女からの返事は無い。  
それは当然すぎるほど当然のことだ。  
誘拐の標的と定めた少女が好意を示してくれるのを幸いに、  
放課後はあらゆるアルバイトを掛け持ちし、夜遅くに何とか雨露を凌げるだけのボロアパートに帰ってみれば  
『とても親切な人達』達が玄関先で待っている、という生活からあっさりと抜け出して、  
日本でも指折りの超豪邸の中に専用の個室を宛がわれ、名門校に通い、仕立ての良い制服に身を包み、  
主人の共をして著名人が集合するレセプションに自家用ヘリや新型の大型高級車で乗り付けるという  
望んでもそうそう得られない立場を今の今までぬくぬくと享受してきた人間の屑になど、掛ける言葉は無いのだろう。  
だがそれでも、最後に、これだけは伝えなければならない。  
「‥‥お嬢様のお心を深く傷付けて、本当に‥‥、本当に申し訳ありませんでした」  
「‥‥‥」  
やはり少女は沈黙したままだ。  
少年は握り締めた拳を膝の上に置き、涙に濡れる青褪めた顔で少女を振り仰いだ。  
「お許し頂けるとは思っておりません。お望みならば、足蹴でも何でもお受けします。  
触るのも嫌だとおっしゃるなら、今すぐにお屋敷を出てゆきます。勿論、お借りしたお金は‥‥」  
「マリアは、そのことを知っているのか‥‥?」  
ずっと踏み台の上から少年を見下ろしていた少女が尋ねる。  
その表情も、口調も、とても穏やかだった。  
おそらく、軽蔑のあまり、睨み付ける気すらも失せ果ててしまったのだろう。  
それにマリアさんに話が及んだということは、  
この事態が、自分がお屋敷を出て行けばそれで済むという単純なものではなくなったことを示していた。  
勿論、その事情は、お屋敷に運び込まれた日、  
大浴場でマリアの入浴を垣間見た ― マリアによれば、それは“夢”であったが ― 直後にマリアから受けた  
事情聴取の際に全て包み隠さず話したが、しかし、それを少女に話せばマリアまで処分を受ける可能性が高い。  
「‥‥、それは‥‥」  
「‥‥もう、いいよ‥‥」  
口篭る少年の上に、少女の静かな言葉が舞い降りる。  
これ以上の会話は無用、との宣告。  
万事は、休した。  
 
「立て、ハヤテ」  
少年は、少女に言われるまま、ゆっくりと身体を起こして少女に正対し、じっとその目を見詰める。  
この瞬間を最後に、もう永遠に視線を合わせることは無いであろうその少女の目には、  
怒気も、軽侮も、疑念も、諦念すらも浮かんではいなかったが、  
その内側に何らかの激しい感情が隠されているということは少年にもすぐに分かった。  
飛んでくるのは、平手か、拳か、鳩尾への蹴りか、それとも熱いフライパンだろうか。  
それが何であれ、少女の心の痛みを思えば、絶対にそれを避けてはならなかった。  
 
 少女の両腕が、するすると少年の首筋に伸びる。  
喉を締め上げられるとしたら、何とか耐え抜いて死なないようにしなければならない。  
もし自分が死ねば、少女が罪科に問われてしまうだろうから‥‥。  
完全に少年の首に巻き付いた少女の腕に、徐々に力が篭る。  
これから自分がどのような仕打ちを受けるにしても、もう、全ては終わってしまったのである。  
本当に、ごめんなさい、そして、今まで有り難うございました、さようなら、お嬢様‥‥  
少年は身体の力を抜いて、少女の為すが儘に身を任せた。  
 
少女の腕が、それ以上締め付けることを止めた。  
少年の頬には少女の温かな頬と乾きかけの少しひんやりする髪が柔らかく押し付けられており、  
少女が少年に積極的に体重を預けているために二人の身体は密着していた。  
少女のシャンプーの香りを間近に感じ、戸惑う。  
少女は、首を少し動かして押し付けた頬をそっと2、3回スリスリと擦り付けると、  
少年の耳朶に唇を寄せて、小さく、しかしはっきりと囁いた。  
「もう、そんなこと、気にするな‥‥」  
 
暫くの間、少年は、その言葉の意味を理解できなかった。  
何が起こったのかを理解すべく、ともかく少女の表情を窺おうと少し身動ぎしたところ、  
首に回っている少女の腕に再びギューッと力が込められた。  
この頃になると、風呂上りでいつもより少し高くなっていた少女の体温が少年の肌にも伝わっていた。  
「(もしかして、お嬢様は、僕を許してくださったのだろうか‥‥)」  
意を決して、抱き締められた状態のまま、自分の口のすぐ側にある形のよい少女の耳朶にそっと呼び掛けてみる。  
「‥‥お嬢様」  
「ん?」  
呼び掛けたまでは良かったが、次の言葉が見つからない。仕方無く、いろいろな意味を込めて、再び詫びる。  
「‥‥申し訳、ございません‥‥」  
「だから、もうよいと言ったではないか!」  
少女はとても柔らかい声音で少年を叱ると、腕にまたキュッと力を込める。  
「‥‥お嬢様‥‥」  
少女の小さな背中に少年の逞しい腕がおずおずと回され、やがてその腕は、  
そこを覆うように広がるまだ乾ききらない長く美しい金髪越しに、その背中をそっと支えるように抱き締めた。  
「もう大丈夫だ。安心しろ、ハヤテ」  
想い人からの慈しみに満ちた抱擁を受けて大きな安らぎを得た少女が、その想い人を励ました。  
 
 二人は一旦抱擁を解き、少し互いの身体を離して、だが肘から先を絡めあいながら、何も言わずに見詰め合う。  
「ハヤテ‥‥」  
「はい」  
少女の整った顔は優しい微笑を湛え、その翡翠色の瞳はほんの少し潤んでいる。  
普段から立ち姿が美しい少年は、少女の呼び掛けにすっと軽く背筋を伸ばすと丁寧で慎み深い声で返事をした。  
先ほど自分から尋ねておいてその後直ぐに『もうよい!』と話を遮ったのが気になったのか、  
少女は落ち着いた声で少年に説明した。  
「もし、ハヤテが危険な奴だったら、マリアは絶対にそんな奴を私に近付けたりはしなかったろうからな」  
「マリアさんには、このお屋敷に来てすぐに、全てをお話しました」  
「うむ。マリアがそれでいいというなら、私もそれでよい」  
突如、少女は耳の先までをぱあっと真っ赤にしながら少年の瞳から視線をはずすと、  
可愛らしい唇をちょっと尖らせて、いかにも恥ずかしそうな様子で俯きながらボソボソと呟いた。  
「ハヤテの気持ち、とってもとっても嬉しいぞ」  
 
 
 

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