さっきまでの自分の行状も、今ここにある疲労も忘れ、少女はキッと椅子から立ち上がる。  
「嫌だ!」  
少年に正対し、睨み付ける。  
「お前もマリアも、何故そう『ニンジン』『ニンジン』と煩いのだ!」  
 
ナギの偏食、中でも野菜嫌いとその解決は、マリアとハヤテの大きな悩みだった。  
少女は、自分の不規則な生活リズムと運動嫌いを改善しようという気持ちを全く持っていなかったから、  
その健康の維持と管理の生命線は勢い「食事の内容」が担うということになる。  
ちょうど身体が出来上がるこの時期のビタミン・ミネラル不足、つまり野菜類の摂取不足は、  
今現在のみならず将来に重大な禍根を残すことにもなる。  
だが少女は、「好き嫌いは人類の当然の権利だ」などと嘯いて、ハヤテやマリアの懇願にも似た『野菜摂取の薦め』をはぐらかし続けていた。  
 
少年は、半歩前に踏み出し、丁寧で真摯な態度で説明 ― 正確には、説得 ― を始める。  
「お嬢様、ニンジンだけじゃありません。  
野菜には、身体の中で造ることの出来ない栄養素が沢山含まれてるんです。お嬢様は、今、育ち盛り‥‥」  
「うるさい!うるさい!うるさーーーい!!」  
自分に不利な状況を打破する常套手段、『うるさいボタン』の連打で少年の言葉を乱暴に遮った少女は、  
今日、これから暫くの間は大好きなこの少年と二人きりで一緒に居られるのだということをすっかり失念した挙句、  
いつもの調子で、「そんなに野菜が好きなら、野菜と結婚しろ!!」と少年を怒鳴りつけてしまった。  
「(あ!いかん!!)」  
少年は、何ともいえない表情で視線を床に落とし、俯く。  
少女は、掌が次第に嫌な汗で湿っていくのを感じた。  
しかし、時、既に遅し。  
『綸言汗の如し』とか『覆水、盆に帰らず』とか言われるが、  
今のこの瞬間ほど、少女がそうした諺の意味や由来をその身の上に切実に感じたことはなかった。  
 
「‥‥申し訳、ございませんでした‥‥」  
少年が呟く陳謝の言葉には、諦念も、軽侮も、怒気も、少々の憤りさえなく、  
只々、主人の機嫌を損じた事への慙愧の念が濃く滲むばかりだった。  
「も、もうよい!風呂に入る!」  
ここで詫びれば良いものを、それでも素直になれない少女は頽れかけた小さな小さな面子を必死に保つべく、  
プイっとドアの方を向くと、少年の返事も待たず少し震える肩を無理矢理に聳やかしながら部屋を後にした。  
 
広大な廊下を覚束ない足取りで浴場を目指して歩む少女は、心の中で自問自答を繰り返す。  
― どうして、何時も、私を心から心配してくれている者に辛く当たってしまうのだろう ―  
― どうして、何時も、大好きな相手に素直になれないのだろう ―  
その小さな胸は、大きな後悔と哀しみで今にも張り裂けんばかりだ。  
目に入る全ての情景が、酷くよそよそしいものに感じられた。  
 
どうにか浴場に辿り着く。  
血の気の失せた指先に、入り口のドアがとても重い。  
脱衣所にフラフラと入る。  
髪留めをはずすと、長く美しい金髪がサラサラと背中を覆った。  
両手でその裾を掴み、汗染みたTシャツをゆっくりと脱皮するように脱ぐ。  
露になった上半身には、つい先ほどまでの激しい発情の色は既になく、只、白い肌が如何にも寒々しい。  
次いでキュロットのボタンをはずし、内側のフックもはずして、ジッパーを下げる。  
少女が手を離すと、支えを失ったキュロットは足をするりと伝いながら床に落ち、  
それまでその中に蟠っていた生々しい性の匂いが少女の鼻腔にも届く。  
少女は、眉根を少し顰めた。  
キュロットから一歩歩み出るように足を抜くと、乾きかけの淫蜜で股布がごわごわする白いショーツの縁に指をかけ、  
前屈みになりながら一息に足首まで摺り下げる。  
一筋のまだ幼さが残る淫裂の周囲には、それを護るように一撮み程の山吹色の陰毛が生えていて、  
数本が乾いた淫蜜によって肌に貼り付いていた。  
淫蜜の滑りがまだかなり残っている淫花が外気に晒され、そこからひんやりとした感覚が伝わる。  
脱ぎたてのショーツと淫花から立ち上る噎せ返る様な濃い性の匂いから、少女は思わず顔を背けた。  
裸の少女は、ショーツとキュロットを掴んで洗面台に向かうと、  
そこに染み込んでいる、ある箇所は既にごわごわになり、またある箇所はまだ粘度を辛うじて保っている淫蜜を丁寧に濯いだ。  
その後、これらの汚れ物をマリアが「クリーニング・バッグ」と呼んでいるレジ袋程度の大きさのジッパー付きの袋に上下分けて入れ、  
ジッパーを閉じて、その摘みの部分にタッグを嵌める。  
マリアによれば、これを専門のクリーニング業者に引き渡すと個別に洗浄されて返ってくるということなのだが、  
そんなことは、今の少女にとってはどうでも良いことだった。  
背を覆って美しく広がる金髪をくるくると後頭部の上のほうで纏めてその上にタオルを巻くと、  
少女は溜息を一つ付き、浴場の方に身体を向けた。  
 
今日はマリアが居らず、ナギ一人ではバス・タブの準備が出来なかったし、する気分でもなかったので、大浴場へ通ずる引き戸をカラカラと開ける。  
浴場に入ると、適度な室温を伴った高い湿度のおかげで、ほんの少しだが心身の緊張が解れる。  
湯船 ― といっても、その規模も形状も文字通り“温泉並み”なのだが ― の傍に片膝を突いてしゃがみ、左肩、右肩の順に掛け湯をする。  
そして、淫蜜に塗れた秘所を洗う。  
臍の辺りを目掛けて手桶の湯を注ぐと、  
澄んだ川に生える水草の様に、生え揃ったばかりの金色の陰毛が、その湯の流れに従って、さわさわとそよぐ。  
少女の細い指が、その陰毛とそれに護られた秘裂を左右に分けるようにして淫蜜の残滓を濯いだ。  
次いで、淫花を綺麗にするために、少女は洗い場に少し股を広げて膝立ちになる。  
膝頭がちょっと痛いが、辛抱。  
片方の手で、手桶に汲み直しておいた湯を、少しずつ少しずつ陰毛の辺りに注ぐ。  
もう一方の手でその湯の流れを受け、  
浴場の温かさで本来の美しく健康的なサーモン・ピンクの色合いを取り戻しつつある秘花の所へと誘導する。  
金色の縮れ毛に縁取られた大きな花弁。その内側の慎ましやかな花弁。ポツンと愛らしい尿道口。  
すっかり大人しくなってしまった膣口。まだ別の使い方を知らない肛門。  
そして、今は大人しく皮の下に潜んでいるが、少女にとっては敏感すぎて些か持て余し気味のプックリとした陰核。  
その全てを、細い指先が満遍なくそっとそっと撫でるようにしながら丁寧に濯いでいく。  
何時もなら何某かの性的な感覚を伴うだろうこうした行為も、  
心が硬く冷え切っている今の少女にとっては、顔を洗うのと同列の意味しかもたなかった。  
 
ナギは湯船に深々と身を沈めると、ハァ、と気の抜けたような溜息を一つついた。  
「(‥‥これから、どうしよう‥‥)」  
“これから”というのは、一つには“今日、これから”。もう一つは、“将来”。より正確に言えば、ナギとハヤテの将来である。  
しかし、風呂というものは有り難いもので、身体が温まってくるにつれて暗く沈んでいた心もその活動をようやく再開した。  
これまで自分は、クラウスやマリア達は言うに及ばず、咲夜やヒナギク達など、  
私のことを大切に想い、接してくれている人たちに対して、彼らの気持ちを真剣に考えながら接してきただろうか。  
彼らの気持ちを、自分の都合で或いは無視し、或いは攻撃し、踏み付けにして恥じなかったのではないだろうか。  
そうした、人を人とも思わない行いの結果が、今日のハヤテへの罵倒となって現れたのではないか。  
単なる偶然がきっかけとなったとはいえ、散々想い人のプライバシーを踏み荒らした上に、  
私のことを心から心配しての助言に逆ギレするなんて、  
この私には、ハヤテの恋人を名乗る資格が本当にあるのだろうか‥‥。  
少女の瞳は深い悲哀に潤み、やがて、目尻に溜まった涙が一粒、血色を取り戻しつつある頬を伝い落ちた。  
 
湯から上がった少女は、正面の壁に大きな鏡とカランが取り付けられている洗い場へと歩む。  
カランの前に置かれた椅子にちょこんと腰掛けると、少女は細い腕を伸ばし、  
カランの横の大小のボトルが並ぶホルダーから、優雅な飾り文字で自分のイニシャルが入れてある小振りの白いボトルを取り上げた。  
それはボディー・ソープで、有機栽培された植物原料を用い、ナギの肌質の分析結果をもとに成分が調整された彼女の専用品だった。  
少女は、備え付けの大判のスポンジにそれをツーッと垂らすと、スポンジをキュッキュッとよく揉んでフワフワで滑らかな泡を立てる。  
それを用い、細い腕、腋、首筋、鎖骨、乳房、鳩尾、腹、臍を経て鼠蹊部、尻、そして長い足の先まで、軽く撫でるように洗う。  
次いでタオルを取り、やはりボディー・ソープを泡立てると、背中に回しこれもほんの軽く撫でるように洗った。  
全身を白い泡に包まれた少女は徐に立ち上がると、壁のフックに掛けられたシャワーのヘッドを他所に向け直した。  
そして屈み込んでカランのコックを捻り、シャワー・ヘッドから最初のぬるい水が出切るのを待って、  
暖かい流れを噴出させるヘッドを自分の方に向け直す。  
立ったまま、上方から降り注ぐ優しいスコールのような湯の細粒を浴びながら、さっき泡を撫で付けたのと同じ順序で、全身を撫でる。  
細い指先と湯の流れが泡を剥がし取るように押し流すと、  
その下から、湯の恩恵によってほんのりと上品な桜色に染まった少女の美しい素肌が現れた。  
片膝をほんの少し持ち上げて爪先立ちする足元を迂回するように、泡の塊が排水目皿へと流されてゆく。  
ちょっと前までその素肌の上にハヤテのパジャマを着込んで淫蕩な遊戯に耽っていた事実が、少女の心をキリキリと苛んだ。  
 
地中海地方産の最高品質オリーブオイルを原料とする化粧石鹸を使っての洗顔を終えた所で、少女の動きが止まった。  
洗髪はマリアに、それも、シャンプーハットを使いながらしてもらっていたし、ドライヤーもマリアがかけてくれていた。  
今日はいろいろな意味で汗をかいたから是非とも洗髪したいのだが、果たして、自分一人で上手く洗いおおせるだろうか。  
しかし、少女は意を決して頭のタオルを解いた。  
はらはらと零れ落ちた金髪が、肩に、背中に、二の腕に張り付く。  
少女は、やはりイニシャル入りの色違いのボトルを取った。  
勿論その中身は、国内某所で特別に栽培された椿の油をたっぷりと配合したリンス・イン・タイプのシャンプーだ。  
何時もマリアがしてくれている手順を参考にしながら洗髪を開始したものの、  
まずは髪に水分を含ませようと頭を前に突き出してシャワーをかけた所、  
暫くしたら髪がどんどん前の方に流れ落ちてきて、あっという間に怪談の女幽霊さながらの様相になってしまった。  
初めての一人での洗髪は、失意の少女にとっては、とても難儀だ。  
シャンプーが目に、そして普段のマリアの優しさが心に沁みて、少女は、また少し泣いた。  
「(やっぱり、このままじゃ、ダメだ。)」  
困難を極める洗髪の間中、少女は考え続けた。  
― この傍若無人な態度を改めない限り、自分はもとより、周りの者も誰一人幸せにはなれないだろう。  
これからもみなと一緒に居るためには、特にハヤテともっともっと心を通わせるためには、やはり、自分が変わるしかないのだ。―  
悪戦苦闘の末、歌舞伎の演目『連獅子』のようになりながらも何とか髪を濯ぎ終えた少女は、  
脱衣所に戻って大判のバスタオルで髪の水分を出来る限り吸い取ってから身体を拭いた。  
備え付けの衣装棚から白いスポーツ・ブラとショーツを選び、  
その上に淡いグリーンのポロシャツとカーキのショートパンツを纏い、ソックスは二つ折りの白いアンクレットタイプを履く。  
そして、やっと水気が切れたばかりの長い金髪を先ほどのようにくるくると後頭部に纏めてそれをタオルで巻くと、  
ハヤテに逢うべく、浴場を後にした。  
 
廊下の壁に取り付けられた金色のフレームの優雅なランプには、既に灯りが燈っている。  
おそらく、ハヤテは厨房だろう。  
「自分を、変えるのだ!」と意を決しての足取りは決して軽快とはいかなかったが、  
一旦決意を固めたならば、行動あるのみ。マリアたちが帰ってくる前に決着を付けなければならない。  
少女が厨房に辿り着くと、その入り口の丸窓から蛍光灯の明かりが漏れていた。  
呼吸を整え、扉をノックする。  
「はい!お嬢様ですね!」  
中から、いつもと変わらぬ少年の明るい返事が返ってきた。  
扉に掌を押し当て、一気に押し開く。  
白壁と赤レンガの装飾が施された厨房の中、作業台に食材を並べている最中の少年に、少女は思い切って話しかける。  
「‥‥ハ、ハヤテ‥‥。その‥‥」  
「先ほどは、本当に申し訳ありませんでした。  
お嬢様のお気持ちも考えずに、何時も無理強いするようなことばかり申し上げてしまって‥‥」  
三角巾を被り、胸元にヒヨコのワンポイントが入ったエプロンを着けたハヤテはナギの呼びかけを聞き逃していたので、  
自分だけが喋った後、如何にも申し訳なさそうに頭を下げた。  
ここまでの道中ずっと胸中に暖めていたのと殆ど同じ台詞を相手に先に言われてしまい何時もであればムッとする所だが、  
今はそれも“以心伝心”の妙を感じさせて、何だかとても嬉しい。  
「い、いや、いいのだ。私の方こそ‥‥、その、ハヤテの気持ちを大事に出来なくて‥‥、  
ご‥‥、ごめんなさい。」  
大変真っ当な台詞と共に耳まで真っ赤にしながらペコリと頭を下げる少女を見て、少年は狐に抓まれたような心持ちになった。  
「どうなさったのですか?眠くなられたのなら、お食事をベッドまでお持ちしますが‥‥。」  
素直になろうと必死の少女としては、少年のこの的外れな問い掛けに向かっ腹が立ったけれど、  
しかし、少年のこうした反応(発想?)こそが今までの自らの所業の結果だと思うと、腹の虫はすぐに萎縮してしまった。  
少しずつでも自分を良い方向へと変えてゆき、それを周りの者に、特にハヤテに認めてもらう他に無いのだ。  
もう、我が侭勝手と後悔の堂々巡りは御免だ。  
 
 「‥‥ハヤテと一緒に、食べたい。」  
「はい。ご一緒させていただきます。  
出来上がったらお呼びしますので、それまでの間、髪をお乾かしになっては如何でしょうか。」  
少年は、その整った顔に何時も少女の心を蕩かして已まない微笑を浮かべながら少女を促したが、少女は少年と居ることを望んだ。  
少年への感謝の気持ちと、少年を大切に想う気持ちを、今、伝えたかった。  
「私も、手伝うぞ。」  
「いえ!お疲れのお嬢様に、お手伝いをさせる訳には参りません。」  
家事のプロである少年にとって、少女の手伝いは手間を増やすことと同義であったが、  
しかしそれ以上に、創作活動中の主人の手に怪我があってはならないとの配慮があった。  
「じゃあ、見ているだけならいいか?」  
「ええ、僕なんかの調理中の姿で宜しければ。」  
「うむ!存分に料理をするがよい!」  
少女は喜色満面で元気良く調理開始を号令し、  
それを受けた少年は、早速、身軽な動作で厨房中を動き回って調理器具を集め始めた。  
 
少年の手で、ビルト・イン式浄水器を経由した水が磨き抜かれた鍋に注がれ、ガス・レンジにかけられる。  
シンクの中で種々の野菜が洗われる。  
ステンレス張りの巨大な冷蔵庫の扉が開かれ、ガーゼに包まれた肉塊が取り出される。  
食材を、切る。刻む。炒める。挽く。混ぜる。  
その合間を縫うように、使用した調理器具を、洗い、分類して置き、不要になれば片付ける。  
作業の全てに亘って、全く澱みというものが無い。  
ナギは、まるで玩具にじゃれ付く仔猫のように、調理に勤しむハヤテの周囲をせわしなく後になり先になりしながら付いて回る。  
野菜の皮を器用に剥く指先。遠くのボウルを取ろうとぐっと伸ばされる腕。熱く滾る鍋を移動させるときの真剣な横顔。  
そして、まったく無駄の無い優雅にさえ見える身のこなし。  
少年のどんな些細な挙動にも、少女の小さな胸はキュンと切なくときめく。  
少年は、そんな少女の方に時々顔を向けては、ゆっくりと優しく丁寧に自分が今行っている作業の内容と意味を説明する。  
それに対して少女は反射的に一応ながら「うん、うん、」と相槌は打つのだが、  
何よりもその声音に魅了されてしまい、残念ながらその内容にまでは気が回らなかった。  
そんな時、少年の指先の妙技を見逃すまいと少女が少年の手元に顔をグッと近付けた。  
その拍子に、髪を上へ纏めているためにボリュームを増していた少女の頭の先端が、少年の顎の横辺りにポフッと軽く当たった。  
「あっ!すみません、お嬢様。」  
「ううん。いいのだ。そうだ!後でドライヤーをかけるのを手伝ってくれ。」  
「はい!」  
少年と少女はにっこりと微笑みあった。  
 
 

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