「はあ……」  
 
 昼休み。人もまばらな教室で、ヒナギクは机に突っ伏しながら溜息をついた。  
 考えているのは、ハヤテのことだった。  
 友人であり、恋敵でもある西沢歩の話によれば、ハヤテはヒナギクから嫌われている、と勘違いしているらしい。  
 実際には、そんなことはない。むしろ、どうやってその誤解を解いたものか、と思い悩むほどに、彼への好意を抱いている。  
 しかし何の因果か、ヒナギクとハヤテはとことん噛み合せが悪かった。誤解を解くための行動が逆にさらなる誤解を呼び、関係はこじれるばかり。何もしない方がいいのではないか、とすら思うが、それでは何も変わらない。  
 好きだと気付いてもらえなくてもいい。でも、せめて、嫌っていないということだけは分かってほしい。マイナスの関係をゼロにまで戻すのが、ヒナギクの当面の目標だった。  
 だが、そのためにどうするべきかが、分からない。様々な方策を講じてきたが、前述の通りことごとく失敗しているのだ。  
 
「……はぁ〜……」  
 
 先ほどより深く、溜息をつく。  
 そんなヒナギクに、声をかける者がいた。  
 
「生徒会長さん、どうかしましたか……?」  
「あ、鷺ノ宮さん」  
 
 少女の名前は、鷺ノ宮伊澄。飛び級で入学した才媛であり、ヒナギクのクラスメイトである。  
 同じクラスになったのは進級してからだが、この二人にはちょっとした交流があったりした。  
 
「あはは……まあ、ちょっとした悩みがあってね」  
「……もしかして、恋のお悩みではありませんか?」  
 
 伊澄の言葉に、ヒナギクはしっぽを踏まれた猫かのごとく跳ね上がった。  
 
「な、な、な……なんで、分かったの?」  
「ふふ……私、そういうの、とっても鋭いんですよ」  
 
 いつもポーっとしているように見える和服少女の、意外な一面だった。  
 
「へ、へー……そうなんだ……」  
「ええ、そうなんです。あ、もしよろしければ……恋愛成就のおまじない、やってみませんか?」  
「え、ええ?」  
 
 伊澄からの突然の提案に、ヒナギクは、この展開はちょっと強引すぎやしないか、と困惑する。  
 
「最近、家業の関係で勉強中なんです。無理に、とは言いませんが……」  
 
 が、実際、ヒナギクにとっては一筋の光明となるかもしれない話であった。成就までを望みはしないし、そもそもおまじないという時点で半信半疑であるが、藁にも縋りたい思いだった。  
 
「えっと……じゃあ、ちょっとだけ」  
「わかりました。では、まず……十円玉、という物を二つ、用意してください」  
 
 微妙な言い回しが気にかかったが、ヒナギクは財布の中から十円玉を二枚、適当に選んで取り出した。  
 その十円玉を見て、伊澄は、ほぅ、と感嘆するかのように息を漏らした。  
 
「これが十円玉……初めて見ました……」  
(……あー、前にナギも同じようなこと言ってた気が……さすが大金持ちのお嬢さま、って言うべきなのかしら、ここは)  
 
 少女の将来が少し心配になったヒナギクだったが、そんなことは露知らずの伊澄は、気を取り直しておまじないの説明を続けた。  
 
「では、その十円玉を縦に立ててください」  
「まあ、それぐらいなら……よし、立ったわよ」  
「立ちましたら、さらにもう一枚、その上に縦に立ててください」  
「それぐらい楽勝よ! ……って、あきらかに無理でしょ、それ!?」  
 
 ヒナギクはノリツッコミ風に声を張り上げた。一枚なら実際にやってみせたが、二枚ともなるとその難易度は跳ね上がる。  
 
「でも、それが出来なければおまじないは完成しません」  
「くっ……」  
 
 ヒナギクは、考えを改めた。  
 藁にも縋りたい思いだったのではない。恋愛成就のおまじないと聞いて、簡単な方法に手を伸ばしたくなってしまったのだ。  
 ヒナギクは、自身のその甘い考えを捨てる。  
 何かを手に入れようと思ったら、相応の努力、代償を払わなければならない。それが大事なものなら、なおさら。  
 
「……わかった、やるわ。やってみせる……!」  
 
 ヒナギクはそぉっと、立っている十円玉の上に、もう一枚を乗せ……そぉっと、そぉっと、指を……離す。  
 
「…………」  
 
 ヒナギクも、伊澄も、息を呑む。これで、倒れなければ――  
 
「……た、立った……十円玉が立ったわ!」  
 
 指がすっかり離れてしまっても、二枚の十円玉は奇跡的なバランスを保って、直立していた。  
 成功である。  
 
「わぁ、すごいです。では会長さん、リタフトンクテヤハニコウソクイイタ、と三回唱えてください」  
「わ、わかったわ」  
 
 ヒナギクは、指示されたやたらに長い呪文(?)を三回、唱える。  
 
「リタフトンクテヤハニコウソクイイタ、リタフトンクテヤハニコウソクイイタ、リタフトンクテヤハニコウソクイイタ……これでいいの?」  
「はい。では、次に――」  
「ちょっと待って。恋愛成就って言ってたけど……これ、どういうおまじないなの?」  
 
 ここまでやっておいて今さらではあるが、不意にそんなことが気になった。尋ねられた伊澄は、ほわんとした微笑を浮かべたまま、  
 
「そうですね……意中の殿方と、二人きりで体育倉庫に閉じ込められるおまじない、です」  
 
 そう、答えた。  
 
「……は? え? ちょ、ちょっと、それって――」  
「では、一緒に閉じ込められたい殿方のことを思い浮かべてください」  
「だ、だから、待ってってば! と、閉じ込められるって、ハヤ――」  
 
 その時。チャリン、と音がして、せっかく立てた十円玉の塔が崩れた。  
 
「あっ……」  
「これで完了です」  
「……え? もう?」  
「はい」  
 
 どうやら、十円玉が倒れるのが、おまじない完成の合図だったらしい。  
 動揺していながらも、ヒナギクの脳裏にはしっかりとハヤテの姿があった。むしろ、動揺しているからこそ、はっきりとハヤテのことを思い浮かべていたのかもしれない。  
 どちらにせよ、「意中の殿方と二人きりで体育倉庫に閉じ込められるおまじない」は完成してしまった。  
 
「では、がんばってくださいね、生徒会長さん」  
 
 ヒナギクが想いを寄せる相手が誰かを知らない伊澄は、ニッコリと笑って言った。  
 
 
 
 放課後。ヒナギクは、グラウンドの外周にある体育倉庫の前にいた。野球部やサッカー部など、どの学校にもあるような運動部が各々に練習している風景が見える。  
 生徒会長であるヒナギクがここにいる表向きの理由は、そうした部活動の視察だったのだが……。  
 
「とりあえず、来てはみたけれど……」  
 
 結局、おまじないのことが気になって来てしまったというのが、本当の理由だった。  
 おまじないが本当に効くなら、ハヤテがここを通りかかるはずである。が、そのような偶然が本当に起こるかと言われると、正直な所、疑わしいと言わざるを得ない。  
 
「というか、ハヤテ君ってば今日休んでるし」  
 
 恐らくは、相も変わらず学校へ行こうとしない主に付き合っているのだろう。ハヤテの場合、一人でも学校に来ることがあるから、まだマシではあるが。  
 
「……このままここに居ても、しょうがないわね。もう帰――」  
「あれ、ヒナギクさん。こんな所で何をしてるんですか?」  
 
 立ち去ろうとしたまさにその時、背後からかかった声に、ヒナギクは一瞬硬直し、すぐさまバッと振り向いた。  
 
「ハ、ハ、ハ……ハヤテ君!?」  
「えっと……なぜ、そんなに驚いてるんですか?」  
 
 そこに立っていたのは、まさしく綾崎ハヤテ本人であった。ヒナギクにとっても見慣れた執事服を身に纏い、頬をポリポリと掻いて苦笑している。  
 
「だ、だって……今日、休んでたじゃない。どうしてこんな所にいるのよ?」  
「いやー、実は買い出しに行く途中だったんですけどね。たまたま白皇の前を通りかかって、そしたらいつの間にか、フラフラと中まで入って来てしまっていたんですよ」  
(……も、もしかして、これがおまじないの効果なの……?)  
 
悪魔に魂を売ったかのように効くおまじないだった。  
 
(で、でも、この状況からどうやって体育倉庫に閉じ込められるっていうのよ。ありえないわ、そんなの)  
 
 その時である。  
 
「危ないっ!」  
「へ? きゃっ!?」  
 
 突然ハヤテが抱きついてきて、ヒナギクは押し倒された。その勢いのまま、二人は一緒になってゴロゴロと転がっていく。  
 ガシャン、と大きな物音が聞こえて、ようやく止まったかと思えば、二人は薄暗い空間の中にいた。  
 
「ヒナギクさん、大丈夫ですか? 野球部の方からボールが飛んできて……」  
「あ、ありがと。それで、ここは……」  
 
 まあ、ヒナギクも何となく察してはいたのだが……。  
 
「どうやら、体育倉庫の中みたいですね」  
(……悪魔の所業だわ……)  
 
 薄暗いのは光が差していないからであって、光が差していないのはドアが閉まっているからである。ここにこうしている以上、入る時には開いていたはずなのだが、何かの拍子で閉まってしまったということらしい。  
 その状況を確認して、嫌な予感しかしないヒナギクである。  
 
「ヒナギクさん、立てますか?」  
「う、うん」  
「では、とりあえずここから出ましょう」  
「そ、そうね……」  
 
 もちろん、ハヤテはそんな事は知らないわけで。  
 
「……えっと、ごめんなさい」  
「え? どうしたんですか、いきなり謝ったりして」  
「いや、その。多分、私のせいだから」  
「……?」  
 
 ハヤテはハテナマークを頭上に飛ばしながらも、ドアノブに手をかけた。  
 ガコ。ガコガコ。  
 
「おや……?」  
「……開かない?」  
「ええ、開きません。おかしいですね……」  
 
 と、ここで、ハヤテはハッと何かに気付いた様子を見せる。  
 急に小動物的にオロオロし始め、その途中でヒナギクの姿が視界に入ると、そこで視線を固定させてジリジリと半歩ほど身を引いた。  
 
「ヒ、ヒナギクさん。僕はまた、何かやらかしてしまったんですか」  
「へ?」  
「だ、だって、さっき意味もなく謝ったじゃないですか。僕がまた何か、ヒナギクさんの気に障るようなことをしてしまって、それで、良心を痛めながらもこんな所に閉じ込めて……お、お叱りを……」  
「ち、違うわよ! だいたい、何かやったかもって、心当たりでもあるわけ!?」  
「いや、ないですけど」  
 
 ハヤテと同じく、ヒナギクにもその心当たりは無い。妙な所で卑屈な態度を見せるハヤテに、ヒナギクは溜息をつきそうになって、しかし、友人が言っていたことを思い出した。  
 
(そっか……ハヤテ君は、私に嫌われてるって勘違いしてて、だから……)  
 
 そうなると、そもそもハヤテに勘違いをさせてしまうような態度を取ってきた自分にも責任があるわけで、ヒナギクは急に罪悪感に襲われることとなった。  
 
「……ハヤテ君、聞いて。別に、ハヤテ君は悪くないの」  
「へ? え、あ、じゃあ、どうして、さっきは……」  
「それは……そのぉ……さっき謝ったのは……えっと、これ、おまじない……だから」  
 
 その罪悪感から、ヒナギクは決して言いたくないことを白状してしまっていた。  
 案の定、ハヤテからはさらなる質問が飛んでくる。  
 
「おまじない……ですか?」  
「うん……体育倉庫に、二人っきりで閉じ込められる、おまじない」  
「…………」  
「な、何よっ、その可哀相なものを見る目はっ!?」  
「だ、だって、どこの世界にそんなピンポイントなおまじないがあるって言うんですか! 僕の不幸体質のせいだってことにしてくれた方が、まだマシですよ!」  
 
 まあ、ハヤテの言い分は普通の感性を持っているなら至極当然のものではあるのだが。  
 
「そんなの、私だって信じてなかったんだからしょうがないじゃない!」  
 
 ヒナギクとしても、まさか本当に効くなどとは思っていなかったわけで。  
 それどころか、実際に閉じ込められてしまった今となっては、伊澄に文句の一つでも言いたい気分ですらあった。ドアが開かなくなるという時点で、これではほとんど呪い染みているではないか。  
 ちなみに、“おまじない”を漢字で書くと“お呪い”となる。  
 
「じゃ、じゃあ! どうしてその相手が僕なんですか!?」  
「うっ……そ、それは……」  
 
 そうこうしている内に、ハヤテの口から、どうやっても答えられるはずのない問いが飛び出してきた。  
 突き詰めてしまえば、ヒナギクがハヤテのことを好きだから、なのではあるが。  
 
(そんなこと、言えるわけないじゃない……! 言えるわけ、ない、けど……)  
 
 そもそも、おまじないに頼ったのはハヤテとの関係を何とかしたかったからだ。  
 好きだと気付いてもらえなくてもいい。でも、せめて、嫌っていないということだけは分かってほしい。  
 せっかく呪い、もといおまじないが効いているのだから……それを、利用すべきではないのか。少し言葉を選べば、誤解を解くぐらいのことはできるのではないか――。  
 
「……ハヤテ君となら……一緒に閉じ込められても、いいと思ったから……」  
「へ?」  
 
 気付けば、そんなことを言ってしまっていた。  
 
「あ、や! へ、変な意味じゃないのよ!? 私、ハヤテ君のことそんなに嫌いじゃないし、だから……!」  
「あ……そ、そうなんですか」  
 
 微妙に、気まずい空気が漂う。  
 ほぼ勢いだけではあったが、一応“嫌いではない”ということは伝えることができた。ハヤテはどう思っただろうと、ヒナギクはチラチラと様子を窺うが、彼は何やら考え込んでいるように見える。  
 しばらくして、ハヤテが口を開いた。  
 
「……ちょっと、意外です」  
「え?」  
「ヒナギクさんには、嫌われているのだとばかり思っていたものですから」  
 
 ハヤテは、どこか安心したような微笑を見せた。  
 騙しているような気がして、ヒナギクの良心がチクリと痛む。  
 
「……嫌ってなんて、いないわ。私にも、色々悪い所はあったけど……もう少し、自分に自信を持ってもいいんじゃない?」  
「自信、ですか」  
 
 正確には、それを“自信”と呼ぶべきなのかは、ヒナギクにも分からなかった。  
 ただ、ハヤテには、人に好かれることに関して特に、その“自信”のようなものが欠けているように思えた。もちろん、自分の思い違いであるだけかもしれないことは、ヒナギクも重々承知である。  
 ただ、なんとなく、そういう言葉をかけたかったのだ。  
 
「……そうですね。努力してみます」  
 
 自分でも何を言いたかったのか、よく分からないのだから、ハヤテにどういう風に伝わったのか、ヒナギクに分かるはずもない。  
 だが、場の空気は柔らかくなったように感じられた。  
 
「とりあえず、ここから出る方法を探しませんか?」  
「ええ、そうね」  
 
 ハヤテの提案に、ヒナギクは頷いた。当初の目的はすでに達成しているし、いつまでもこんな所にいる必要は無い。  
 
「このドア、蹴破ってみるのは……」  
「却下よ。生徒会長として、学院の施設をむやみに傷つけるのは感心しないわ。それに、壊したら弁償する羽目になるわよ?」  
「ですよねぇ……」  
 
 その場合はヒナギクも一緒に弁償するつもりだが、どちらにせよ、これは最終手段である。  
 
「他は……そうだ、携帯電話は?」  
「あ、その手がありましたね。ちょっと待ってください」  
 
 しかし。  
 
「……えー、どういうわけか、圏外です」  
(……やっぱり、呪いだわ……)  
 
 その他にも色々手を尽くしてはみたものの、全てダメだった。恐るべきはおまじないの効力である。  
 ちなみに、結局蹴破ってみようとはしたものの、ビクともしなかった。  
 
「八方ふさがりですね〜」  
「そうね……」  
 
 ドアに五回目の蹴りを喰らわして、無駄な努力であることを悟ったハヤテは、積まれたマットの上に腰を下ろした。ヒナギクも、その隣に座る。  
 
「まあ、部活が終わる時間になれば、運動部が片付けに来るだろうし。それまでここで待ってるしかないわね」  
「となると、あと2時間くらいですか……」  
 
 随分と長い時間である。おつかいの途中であったハヤテが怒られることになるのは、まず間違いないであろう。  
 
「ごめんね、ハヤテ君。変なことに巻き込んじゃって……」  
「ああ、いえ。気にしないでください。それに……そんなに、悪くないですよ」  
「へ?」  
「……すみません、忘れてください」  
 
 二人の間に、妙な空気が漂い始める。先ほどの気まずい空気とは、別の……薄っすらとピンクがかっているような、そんな空気である。  
 ヒナギクも、その変容を感じ取った。隣に座るハヤテの横顔が微かに赤くなっているのも、その証明だった。  
 気付いてしまった以上は、ヒナギクも意識せざるを得なかった。さっきまではすっかり頭から抜け落ちていたが、これから少なくとも2時間ほどの間、ここでハヤテと二人っきりとなるのだ。  
 心拍数が、上がった気がした。  
 
「…………」  
「…………」  
 
 二人とも、この空気を嫌っているわけではない。だが、今動けば何かが変わってしまいそうな、そんな予感があった。  
 
 十分ほど経った所で、先に沈黙に耐え切れなくなったのは、  
 
「……い、今! 今、ふと思い出したんだけど!」  
 
 ヒナギクだった。  
 
「わ、きゅ、急にどうしたんですか、ヒナギクさん」  
「思い出したのよ、この状況を脱するための解呪の方法があることを!」  
 
 口から出任せで物を言っているわけではなく、本当のことだった。なぜこんなことを忘れていたのか、ヒナギク自身にも分からなかったが……あのおまじない、記憶にも作用するのではないか、と少し恐くなった。  
 
「そんなものがあったんですか。というか、解呪って……」  
 
 それではもう、おまじないではなく呪いではないか、とでも言いたげな顔を浮かべるハヤテだが、そこはヒナギクが既に通った道である。  
 
「とにかく、早くこんな所から出るのよ!」  
 
 少し名残惜しい……などと思わないように努めて、ヒナギクは伊澄の言葉を回想する。  
 
 
 
『まずは、服を全部脱いでですね』  
『そんなの出来るわけないでしょ!?』  
『……なら、仕方ありません。まずは、一緒に閉じ込められた殿方と向かい合ってですね。肩に、手を置いてもらいます。そうしたら、目を閉じて――ああ、最後まで閉じたままでないといけませんから、気をつけて。  
その後、顔を少し上向きに。殿方のお顔を、見上げるようにするのがいいと思います』  
『それで終わり?』  
『いえ。しばらくしたら、唇に何か柔らかい物が触れるはずですから、その間に、ルテシイアキスイダキスキス、と三回心の中で唱えてください。それで呪いは解けるはずですから』  
『今はっきり呪いって言ったわよね』  
『気のせいです』  
 
 
 
 口頭の説明ではイマイチ意味が掴めなかったが、こうしておまじないが効いている以上、解呪の方も有効なはずである。試してみる価値はあるだろう。  
 
「ハヤテ君立って」  
「あ、はい」  
 
 ヒナギクはハヤテを立たせると、伊澄に言われた通りに、解呪の準備を始めた。  
 向かい会って、ハヤテの手を肩に置かせ、目を閉じて、彼の顔を見上げるように――  
 
「あ、あの、ヒナギクさん。これは……その……」  
「……? どうかした?」  
 
 目を閉じて問うヒナギクには分からないだろうが、ハヤテの顔は真っ赤だった。その顔を見ていたのなら、ヒナギクにもこの状況の意味が少しは分かったかもしれない。  
 一方のハヤテは、ゴクリと息を呑んで、声が震えそうになるのを抑えて、ゆっくりと口を動かす。  
 
「ヒナギクさんは、さっき……自分に自信を持て、と言ってくれましたよね」  
「ええ、言ったわね」  
「……持っちゃって、いいんですか?」  
「私は……いいと思うけど」  
 
 グラリ、と来た。  
 ああ、この人は……なんて、可愛らしいんだろう。直接言うのが恥ずかしいからって、解呪のためだなんて嘘をついて。尻込みする僕の背中を、こんな風に押してくれて。  
 ――漂いっぱなしだった桃色空気が、実に良さ気な感じで作用していた。  
 
「……ヒナギクさん。僕、こんなこと初めてですけど……精一杯、がんばりますから」  
「……?」  
 
 ここに来て、ヒナギクもようやく何かがおかしいことに気付いたが……時、既に遅し。  
 ヒナギクの唇に、柔らかい“何か”が、触れた。  
 
(あ……なんだろう、これ。柔らかくて、温かくて……ちょっと、気持ちいいかも……)  
 
 その、どこか甘い感覚に酔い痴れそうになって……ヒナギクは、慌ててその欲求を振り払った。呪文を唱えなくてはならない。  
 
(えっと……ルテシイアキスイダキスキス、ルテシイアキスイダキスキス、ルテシイアキスイダ――あ)  
 
 三回目を唱えている途中で、唇にあったはずの感触が、無くなってしまった。  
 
「……もう。ハヤテ君、ちょっと早いわよ」  
「え、あ……そ、そうでしたか? すいません……」  
 
 解呪が失敗に終わった所で目を開けたヒナギクだったが、その瞳に映ったハヤテの顔は、この薄暗い空間の中でもはっきり分かるほどに真っ赤だった。それを訝しく思ったヒナギクが問うより早く、  
 
「では、その……もう一度」  
「え? あっ……」  
 
 ハヤテの唇と、ヒナギクの唇が、重なっていた。  
 
(え……え? これ、私、あ、え? わ、私、ハヤテ君と……キス、してる……)  
 
 そのファーストキス……いや、セカンドキスに、ヒナギクの顔は一瞬で真っ赤に染まった。  
 逃れようとした所で、頭も背中も、ハヤテの細腕に抱き締められていることに気付く。  
 
(な、何よ、何なのよ、これ……だ、だって、嫌ってるわけじゃないって、それだけ分かってもらえればよかったはずなのに。こういうのは、もっと、段階が……)  
 
 どうしようもない熱さと、突然の事態に、ヒナギクの思考は乱れに乱れ、混乱の極みに達し――ついには、停止に至った。  
 言い方を変えるとするなら――ハヤテに、委ねてしまうことにした。  
 それがキスだと分からなかった時に感じた、柔らかく温かな、それでいて、どこか甘いような感覚。今も変わらずにあるその感覚に、今度は解呪のことも忘れて、酔い痴れてしまうことにした。  
 いつの間にか、ヒナギクもハヤテの背中に手を回して、しがみ付くかのように抱き締めていた。  
 
「んっ……ふうっ……」  
 
 やがて、ハヤテが行動を起こす。  
 ハヤテの舌が閉ざされたヒナギクの唇を割って、その口内に侵入した。ヒナギクは抵抗せず、侵入者を迎え入れる。  
 最初に触れ合ったのは、二人の舌だった。どちらからともなく、自分の舌を相手のそれに絡ませ、転がし、強く吸い上げる。淫らな水音が漏れ、唾液が互いの口の周りを汚す。  
 その深い口付けは、どれくらいの間続いていただろうか。互いの唇が離れる頃には……もう、それだけでは満足できなくなっていた。  
 
「ヒナギクさん……」  
「ハヤテ、くん……」  
 
 ハヤテが、後ろのマットに、ヒナギクを優しく押し倒した。そのまま覆い被さって、今度は短く、もう一度口付ける。  
 
「ヒナギクさん……もう、三回もしてるのに……おまじない、解けませんね」  
 
 ハヤテが、からかうように言う。  
 
「……ふふ、当たり前よ。だって、本当のやり方じゃないんだもの」  
 
 だから、ヒナギクも同じように答えた。  
 そして、付け加えて言う。  
 
「本当は……服をね、全部脱がないといけないんだって」  
「…………」  
 
 まずハヤテはポカンと口を開け、続いて元から赤かった顔をさらに赤らめた。そして、  
 
「私……その、初めてだから。優しく、してね……?」  
 
 ヒナギクの言葉が、トドメを刺した。  
 
 
 体育倉庫のドアが開けられたのは、結局、それから2時間ほど経った頃だった。  
 ハヤテとヒナギクが2時間振りに見た太陽は、もう暮れかけていて、空は夕焼けに染まっていた。  
 
「ハヤテ君、急がなくていいの? 買い出しの途中だったんでしょう?」  
「はは、まあ、そうなんですけどね。ここまできたら、もうどれほど遅れても一緒ですよ」  
 
 ヒナギクは、ハヤテらしくない不真面目な言い草に、おや、と疑問を抱く。同時に、ちょっぴりの期待も。  
 
「ねぇ、ハヤテ君。自惚れになっちゃうかもしれないけど……それって……もう少し、私と一緒にいたい……とか?」  
 
 ハヤテは、小さく笑って答えた。  
 
「自分に自信を持てって言ったのは、ヒナギクさんですよ?」  
 
 
 
 
 
 え? おまじない、ですか……? こう言ってはなんですけど、あんなもの、デタラメですよ。  
 私が言えたことではないですけど、生徒会長さんは奥手なタイプに見えましたから……きっかけさえあれば、後はご自分で何とかなさる方だと思ったんです。  
 それにしても、あの会長さんが好意を寄せる殿方とは、いったいどのようなお方なのでしょう……。  
 
 
Fin  
 

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