その日、貴嶋サキは静かに燃えていた。
「やっと……やっと、この日が来ました」
壁にぶら下がっているカレンダーを見つめながら、サキはおもむろに口を開く。
「長かった……本当に長かったです……」
昔を懐かしむような視線を宙に向け、重ねてきた時間の長さを再確認。
「一年……も経っていない様な気がしますが、そこは置いておいて……」
そしてもう一度、カレンダーへと視線を移す。
視線の先にはハートマークで彩られた『十四日』の文字。
「今年こそ……今年こそ必ず!」
ぐっと拳を握り、強い決意を瞳に宿し、サキは言葉を放つ。
『十四日』の下にある『バレンタインデー』の文字を睨みつけながら。
「若に手作りチョコをプレゼントします!」
――二月十四日。
日本中の恋する乙女達が熱狂するお祭りの日。
幸せになりたいと頑張る、その日。
貴嶋サキは静かに燃えていた。
ワタルと出会ってから、サキはバレンタインには必ずチョコをプレゼントしていた。
家事はちょっとだけ苦手(サキ談)なので、手作りするのは諦めていたが、
それでも美味しいと評判のお店を探して買いに行ったりと、
かけている手間と愛情は手作りのそれと変わらないつもり……だった。
『捨てるのも悪いし、結構困るっつーか……』
一年前、ワタルのその一言を聞くまでは。
「はぁ……喜んでくれてると思っていたのに……」
確かに、ワタルが甘いものをあまり好きではないのは知っていた。
だけど、ワタルはそんな素振りはまったく見せず、嬉しそうにチョコを受け取っていたのだ。
そしてそんなワタルを見て、サキもちょっと嬉しく思っていた。
それが迷惑だったなんて、まったく気付きもせずに。
「……迷惑でしたら、そう言ってくれれば……」
言った所で、何が出来るというわけではないのだが。
まあ、過ぎた事を気にしてもしょうが無い。
大事なのは明日なのだから。
「そう……今年こそ、絶対に手作りチョコを完成させます!」
チョコ以外のものをプレゼントすることも考えたが、やはりバレンタインにはチョコレート。
甘いのが駄目なら、甘くないチョコをあげればいい。
だが、既製品を買いに行ったのでは去年と同じ。
今までの反省の意味も込めて、今年こそ手作りチョコをプレゼントするんだ! とサキは硬く誓うのだった。
***
「……なるほど、いきなり料理し始めたのは、手作りチョコを作るためだった、と」
「そ、そうです」
「ふむふむ……一つだけ教えろ」
鍋、ボウル、木ベラ……その他もろもろが散乱したキッチンの中で、ワタルは呆れたようにため息をついた。
「どこにチョコがあるんだ?」
「そ、そこに……」
「どこだ?」
「ですから、そこに……」
サキが指差したのは、ワタルの目の前に転がっている鍋……の中にある、何か。
「……この異様な臭気を発している、形容しがたい何かをチョコと言い張るのか、お前は」
「……」
「……」
「……テヘ」
「可愛い仕草でごまかすんじゃねー!」
キレ気味のワタルに、サキはおびえた様に言葉を返す。
「だ、だって、私もなんでこうなったのか分からなくて……」
「お前が分からないものを俺が分かるか! とりあえずどうやって作ったのか最初から教えろ!」
「え、えーと、まずチョコを湯煎しようとお湯を沸かして……」
「……湯煎は知ってたのか」
「その中にチョコを入れて……」
「ちょっと待て! それは湯煎じゃない!」
「お湯が多かったのか、ドロドロになってしまって……」
「そりゃ、お湯の中に直に入れればそうなるだろうよ……」
「ですので、甘みととろみを付けるために、砂糖と片栗粉を混ぜて……」
「混ぜんな! それは混ぜちゃ駄目だから!」
「そうですよね、冷やして固めるんですからゼラチンが正解ですよね」
「どっちも違う!」
「で、ちょっと砂糖入れすぎたのか甘くなってしまったのでバランスを取ろうと……」
「……水を足したか?」
「塩を……」
「バランス取れてねえ!」
「そう思って、七味とうがらしも……」
「より酷いわ!」
「で、大人の雰囲気を出そうとブランデーを……」
「ああ、それはまともだ」
「探したんですけど無かったので、代わりにこのお酒を……」
「待て! 確かに酒は酒だがそれはみりんだ!」
「最後に、乳製品を入れたらまろやかになると思って……」
「ヨーグルトか? それともチーズか? ここまできたらもう驚かねーぞ」
「カルピスを……」
「その発想はなかったわ」
ワタルは頭痛を我慢するかのように頭を抑えながら、またため息をつく。
「なんというか……ここまでくるとチョコに対する冒涜だな、これは」
「ひどい!」
「いや、だってどう見てもチョコじゃねーし」
そう言ってサキに向けた鍋の中身は確かにチョコではなかった。
というか、食べ物ですら無い。
「……捨てておきます」
「そうしてくれ……まあ、慣れない事はするなって事だ」
「はい……」
「でも、なんでいきなり手作りなんだ。今までどおり既製品じゃ駄目なのか」
「だ、だって若が……」
「俺が?」
「甘いのが苦手だから、迷惑だって……」
そう言った瞬間、ワタルの目が大きく見開かれる。
「……ああ、そう言えばそんな事言ったっけ」
「だから、甘くないチョコを作ろうと……」
鍋の中の何かは甘くないどころか、食べる事すら無理なのだが。
自分の駄目さに心底落ち込みながら、そのチョコであった何かを捨てようと、サキは鍋に向かって手を伸ばす。
「……ちょっと待て、サキ」
「どうしました、若?」
サキの疑問に答える前に、ワタルは鍋へと手を伸ばす。
鍋の中の何かを指ですくい、小さく深呼吸した後――
「ふん!」
気合と共に、その指を口の中に入れた。
「わ、若!」
驚くサキの目の前で、ワタルの顔が青を通り越して白くなる。
吐き気をこらえているのが傍目でも分かるほどプルプルと震えていたが、
それでもその何かを吐き出すこと無く、『ごくり』と無理やり飲み込む。
「……お、美味しくないな」
「あ、当たり前です! 何やってるんですか、若!」
「何って……」
そこで、ワタルはサキから視線を外した。
顔を赤くし、口を尖らせて、小さく呟く。
「た、食べ物を粗末にしたくなかっただけだ」
「若……」
「そ、それと、別に迷惑だなんて思ってねーからな! 確かに甘いものは苦手だけど……」
そしてもう一度、上目がちにサキを見る。
「お前から貰えて、ちょっと嬉しかったし……」
「わ、若、それって……」
「ゴホン! ほらほら、喋ってないで早く片付けるぞ。このままじゃ飯の支度もできないし」
サキの言葉を咳で遮り、何かをごまかす様にキッチンの片づけを始めるワタルの後姿を、サキは嬉しそうに見つめる。
「……はい」
「な、なんでそんな嬉しそうなんだよ、お前は」
「さあ、なんででしょうね?」
――二月十四日。
日本中の恋する乙女達が熱狂するお祭りの日。
手作りチョコは失敗だったけど――サキは少しだけ幸せだった。
「来年こそ手作りチョコをプレゼントしますからね」
「それだけはやめてくれ、マジで」