「ヒナー! ヒナえもーん!」
「お金なら貸さないわよ、お姉ちゃん」
部屋に飛び込んできたお姉ちゃんに、私はいつも通りに応じる。そう、いつものこと。だから、わざわざ振り返ることもせず、私は机に向かって勉強を続ける。
でも、今日のお姉ちゃんは、いつも通りなんかじゃなかった。
「そんなんじゃないわよ、失礼ね。あのね、私、結婚することになったから」
「…………は?」
一瞬何を言われたのか分からなかった。思わず振り返ってみれば、そこには、どこか嬉しそうな顔をしたお姉ちゃんがいた。
「えっとね、相手は――」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ、お姉ちゃん! け、結婚って、どういうことよ!?」
「どういう、って……文字通りの意味に決まってるじゃない」
未だに状況を飲み込めない私。
取り乱す私を不思議そうに見るお姉ちゃん。
「そ、そんな……そんなの、嘘よ! だって……だって、お姉ちゃんは大酒飲みでグータラで常識外れでいい加減で……そんなお姉ちゃんが結婚なんて、できるわけないじゃない!」
それどころか、恋人だってできやしないだろう。いつもなら、絶対に口に出したりしないお姉ちゃんへの悪口を思いつく限り並べて、私は泣くように、叫ぶように、捲くし立てた。
「実の姉に向かって酷い言い様ね……」
さすがのお姉ちゃんも、私の罵詈雑言に顔を引き攣らせてはいたけど……本当に、ただそれだけで。ボロを出すような気配はなくて、それ以前にそんなものがあるかどうか怪しいくらいだった。
「……本当、なの?」
絞り出すようにして声を出す私に、
「ええ、そうよ」
お姉ちゃんは、はっきりと、その事実を突きつけた。
夢は、なんとも中途半端な所で終わっていた。それか、続きはあったけど、私が覚えていないだけなのか。
勉強の最中にいつの間にか、机に突っ伏して眠ってしまっていたらしい。こんなこと、滅多にないんだけど……疲れてるのかもしれない。変な夢を見たのも、そのせいかも。
身体を起こして、軽く伸びをする。その時に時計が目に入ったけど、そんなに長い時間眠っていたわけでもないようだ。続きをしようと、私はノートに目を落とした。
「濡れてる……?」
私が枕代わりにしてしまっていたノートは、所々湿っていて、色も変わってしまっていた。涎だろうか、と少し恥ずかしく思いながらも、私は口元に手を持っていく。
けど、そこは全く濡れていなかった。
「となると……何なのかしら、これ」
不思議に思っていると、ドアの外がドタドタと慌しい。いつもの事に、私は小さく溜息をついた。
「ヒナー! ヒナえもーん!」
「お金なら貸さないわよ、お姉ちゃん」
部屋に飛び込んできたお姉ちゃんに、私はお決まりの台詞で応じる。
「ええっ!? そんなこと言わないで、貸してよヒナー!」
お姉ちゃんも、いつも通り、子供みたいに駄々をこねる。
大きな瞳を潤ませて、拝むように手を合わせて懇願してくるお姉ちゃん。今まで、何度となく見てきた光景。
「あー! ヒナったら、お姉ちゃんがピンチだっていうのに、なに笑ってるのよ」
「笑ってなんかないわよ。そんなことより、お金は貸さないからね」
「なによぅ、ヒナのケチー! ペッタンコー!」
おとなげない捨て台詞を残して、お姉ちゃんは走り去ってしまった。
嵐の前、もとい後の静けさとでも言うのだろうか。お姉ちゃんがいなくなって、私一人だけになった部屋の中は、シンとしていて。
でも、寂しさは感じない。
「まったくもう。ほんと、だらしないんだから」
大酒飲みで、グータラで、常識外れで、いい加減で。結婚どころか、恋人だって夢のまた夢の、ダメダメなお姉ちゃん。
そもそも、あのお姉ちゃんを安心して任せられるような男の人がいるなんて思えない。
――だから。
「お姉ちゃんは、私がずっと面倒見なきゃダメなんだから」