最近、やたら視線を感じる。それも悪意に満ち溢れた。  
 幼いころから、命の危険と隣り合わせにいたせいか、そういうものには敏感だ。おそらく、視線で人を殺せるのならば、僕は、とっくに死んでいて、今頃、墓の下で良い具合に白骨化している。  
「ハヤテ、どうかしたのか? 気分が悪いなら今日一日ぐらい、屋敷で療養してもいいのだぞ。マリアも忙しいだろうし、私も屋敷に戻って、付きっ切りで看病してやる」  
 目を輝かせながら、お嬢様は言った。洗剤入りのおかゆがフラッシュバックする。おそらく、屋敷に戻れば、精神的にはなく、肉体的に、窮地に追いやられるだろう。  
「大丈夫です。精神的なものですから。それと、僕をさぼりの口実にしないでください」  
「何を言う。こうして、ご主人様が心配して言ってやっているのに。もう、お前なんて知らん」  
 図星をつかれたせいか、顔を真っ赤にして、走り去っていく。  
その姿に一抹の不安が頭をよぎる。今日は、雨が降っていて、廊下は滑りやすい。珍しく、全力で走るお嬢様。ここから予測される結果は。  
「うわぁ」  
 予想通り、お嬢様は足を滑らせる。お嬢様の体が、空中に投げ出され、水平になった。ここまで見事に転ぶのは一種の才能かもしれない。幸い、予測できていたことなので、僕の反応は早い。全力でダッシュし、お嬢様が盛大に廊下とキスする前に受け止め……転倒した。  
「忘れていました。今日の廊下はよく滑るんでした」  
「ばかぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」  
 お嬢様が怪我しないように、しっかり抱きしめ、背中から落ちる。息が出来ない。そして、そのまま滑る。それはもう廊下がワックスがけでもされているのかというぐらいに。  
 アイスホッケのボール(正式名称パック)と化した僕らを次々と避けていく。名もなき生徒達、普通そうする僕もそうする。  
嗚呼、昔、どこかのお医者様が言ってたっけ、本当に優秀な医者は、力をセーブする。そうすることで、余裕が出来るらしい。僕も次からはそうしよう。そうすれば、10mほど手前で止まっていたかもしれない。  
「お嬢様、大丈夫ですか」  
「うん、大丈夫だ。もう少しこのままで」  
 流石お嬢様、頬を染める余裕? まである。僕は、そろそろ限界かもしれない。正面に壁が見えた。やっと止まれる。僕の痛みと引き換えに。  
「諦めるのはまだ早いわ」  
 壁が見えなくなった。代わりに僕の視界を占領したのは、白皇学院生徒会長、桂 ヒナギクその人だった。  
「危ないです。避けてください」  
「それはできないわ。なぜなら私は生徒会長だから」  
 かっこいい。心からそう思った。ヒナギクさんとの距離はもうほとんどない。どうやって、この勢いを殺す気なのか。  
「ふんっ」  
 左足はしっかり大地を踏みしめ、右足は僕の頭部をしっかり押さえつけていた。  
 靴の底が磨り減る音、摩擦熱で空気が歪んでいるように見える。あと少しで、この勢いを殺しきれる。  
「ごめんね。こんな方法しか取れなくて」  
 おそらく、僕の頭を踏みつけていることを気にしているのだろう。気にする必要はないのに。  
「最善の方法だと思います。それに、悪くないですよ。いいものも見れますし」  
「えっ?」  
 冗談めかして言ったが、それは、ヒナギクさんにとって冗談ではすまないらしい。冷静に考えればわかる。ピンク色のフリル付きパンツを見られて、平気な女の子は、まずいないだろう。  
「きゃぁぁぁ」  
 かわいらしい悲鳴を上げると同時に、ヒナギクさんは全力でスカートを抑える。当然左足のふんばりはなくなり、バランスを崩し転倒、僕達に巻き込まれ、結局、壁にぶつかるぎりぎりで止まった。  
「……お嬢様、無事ですか?」  
 目をつぶったまま手探りで、お嬢様を探そうとする。その手が柔らかい何かに触れた。ほとんど平らだが、わずかに膨らんでいる柔らかい物体。油をさしていない機械のような音を立てながら、目を開ける。  
 まず、視界に映ったのは、少し離れたところで伸びているお嬢様、そして次に映ったのは、妙に色っぽい表情で、こちらを見上げるヒナギクさん。そして、最後に見たのは、自分の手が何を掴んでいるのか。慎ましい、ヒナギクさんの胸だった。  
 客観的に自分の姿を認識すると、ヒナギクさんを、押し倒し、胸を揉みしだく、昼間からお盛んな、変態執事。  
「これは夢じゃないですよね?」  
 思考がフリーズする。現実味がなさ過ぎる。なんだかんだ言って、健全な青少年である。こういうシチュエーションを妄想したことがないわけではない。  
 返事はない。しょうがない。僕は夢かどうか確かめるために、右手に力を込める。帰って来た感触は、やっぱり柔らかいものだった。シャッター音が聞こえた気がしたが、おそらく気のせいだろう。  
「いい加減にしなさいっ!」  
怒号と共に飛んでくる平手打ち、錐揉みしながら空を舞う。焼け付くような痛みにようやくリアルを感じられた。  
「馬鹿」  
 そう言って起き上がり、立ち去っていく、ヒナギクさん。  
 だから、この角度からじゃ、見えますって。そう忠告する勇気は、今の僕にはなかった。  
 
「であるからして……」  
 教師の言葉は耳に入るが、頭には入らない。素数を数えようが、お経を唱えようが、桃色に染まった脳みそ  
は元に戻らないというのに。こんな授業中の教師の定型句などが、届くはずがない。  
 今日のヒナギクさんは、どうしてスパッツをはいていなかったのだろうか? 僕の頭の中には、ヒナギクさん  
=スパッツという図式が成り立っていた。それぐらいに、あのときの光景は衝撃的だったのだ。  
 疑問には思うが、それよりも今日見たパンツが頭から離れない。個人的には、ヒナギクさんには黒が似合う  
と思うのだが、ピンクも素敵だった。どちらのほうが似合うのだろうか? 今度黒の下着を履いてもらおう。実際  
に見てみれば、結論が出るはずだ。うん、頼んでみよう。  
「痛っ」  
 額に、硬いものがあたった。がちゃがちゃのカプセルみたいだ。中に紙が入っている。  
『だらしない顔をするな。三千院家の執事としての自覚はあるのか?』  
 恐る恐る、顔を上げると、不機嫌そうな顔をしたお嬢様と目が合った。我に返る。いったい、僕は何を考えて  
いたのだろう。そうだ、僕は三千院家の執事だ。常に、紳士的に、模範的であらなければならない。間違っても、  
友達をおかずにするようなことがあってもならないのだ。  
『お嬢様もう大丈夫です』  
 親指をビシッとたて、目線で合図する。お嬢様は、満足げな表情を浮かべて、視線を黒板に戻した。  
 基本的に、お嬢様の精神年齢は、歳相応、むしろ、それより低いぐらいだが、たまに、こちらが驚くくらいに  
しっかりしているところを見せる。それが、お嬢様の魅力の一つだ。  
   
 午前の授業を終えて、思いっきり体を伸ばす。いつも以上に肩が凝っていた。それは、なぜか、休憩を挟む  
たびに、険しくなっていくクラスメイトの視線によるものだ。それは、最近感じていた悪意を煮詰めて、殺意を  
トッピングしたような、ともかく向けられて気持ちのいいものではなかった。  
「ハヤ太くん、ハヤ太くん」  
「どうしたんですか? 瀬川さん」  
「えっとね。逃げて、全力で。たぶん、ここで逃げても社会的に抹殺されちゃうと思うけど、今ここで殺されるよりはましだと思うの」  
「……どういうことですか?」  
「今は話してる時間なんてないよ。これ、余裕が出来たら読んでね」  
 そう言うと、泉さんは、綺麗に折りたたまれた紙をポケットにいれ、去って行った。それと入れ替わるように、  
花菱さんが近付いてくる。やけにいい笑顔を浮かべていた。  
『こっ、殺される』  
 僕にはわかる。あの笑顔はフェイクだ。さっきから感じている悪意、その半分はこの少女のものだ。  
 瀬川さんの言葉が蘇る。……そういうことだったのか。全力で逃げ場を探す。扉を見てみるが、生徒が密集している。しかも、  
花菱さんと同じ匂いがする。廊下側の窓は全て鍵が閉まっている。だとするなら……  
「お嬢様、お弁当は、僕の鞄の中です。迎えの手配はこちらでしておきますので、午後からの授業も頑張ってください!」  
 僕は叫ぶと同時に地をけり、校舎側の窓から飛び降りた。  
 地面に付くと同時に、とてつもない衝撃が身体を襲う、気合でそれを堪えて、走り出す。やはり、おかしい。その場にいたほとんど  
の人間が、僕に悪意を向けている。いったいこの学校で何が起こっているというんだ。  
 振り向かずに走り続ける。何人かは、僕を追跡しているようだ。  
「いたぞ。追えー!」  
 怒号が聞こえる。その声を振り払うように、僕はさらに加速した。後ろから、金属バットやら、ボールやら。いろいろなものが飛ん  
できたが、振り向かずに全力で逃げた。  
 
走り続けてどれぐらい経っただろうか? 足音も、声も聞こえなくなっていた。  
「はぁ、はぁ、はぁ」  
 息を整える。いつの間にか裏山についていた。  
「そういえば、瀬川さんにもらったあれはなんだったんだろう」  
 折りたたまれていた手紙を広げる。  
 
聞こえたシャッター音は、幻聴ではなかったようだ。  
 
 
 日刊白皇新聞 第126号   
 
 狙われた生徒会長、獣欲に支配された変態執事の襲撃!  
   
本日、早朝。本校舎二階、廊下にて、綾〇ハヤテ容疑者(16)が、偶然通りかかった、生徒会長を押し倒し、胸を揉むなど、不埒な行為に及んだ模様。  
 
ご丁寧なことに、あの時の写真が載せられている。どういったアングルで撮ったものなのか、お嬢様は映っていない。  
つまり、今日、僕が、感じていた悪意の大半は、この事件によるものだったのか。流石学園のアイドル。想像以上だ。  
「そうとわかれば誤解を解きに行こう」  
 そう決心して歩き出そうとするが、気が付く。  
「どうやって誤解を解けばいいんだ」  
 常識的に考えて、お嬢様を抱えて滑っているところをヒナギクさんが助けようとして、偶然押し倒した形になった。なんて、説明しても信じてくれるわけがない。例え、信じてくれたにしても、その後、ヒナギクさんの胸を揉み、さらに下着を見てしまったことを攻められたらどうしようもない。  
 もしかして僕って、普通に犯罪者?  
 ジリリリリリリリリッ  
 携帯が鳴る。着信音の設定はもちろん、黒電話の音だ。発振元はお嬢様だった。  
「ハヤテ、今日は帰ってこなくていいからな」  
 それだけ言うと、電話が切れた。  
 間違いなくお嬢様は怒ってる。それも凄く。こんなに怒っているのは、タマが、限定フィギュアを壊してしまって以来だ。  
 お嬢様も、白皇新聞を読んで、勘違いしてしまったらしい。それも仕方ない。あの時、お嬢様は横で伸びていたのだから。  
「綾崎ハヤテ君、綾崎ハヤテ君、至急、生徒指導質に来なさい」  
 この冗談のように広い学校の敷地内に響くような音量で呼び出しがかかった。冷や汗が伝う。十中八九、アレ関係だろう。状況的に、僕は間号ことなくまごうことなき性犯罪者。よくて停学、悪くて退学。  
 お嬢様はもちろん、今回はヒナギクさんにも頼ることが出来ない。今の僕には誰一人味方がいない状態だ。  
 ボイコットしたところで、事態が好転するとは思えない。かと言って、生徒指導室まで、無事にいけるかどうかすら怪しい。怒号と共に投げられた金属バットを思い出す。  
「普通に殺す気でしたよね」  
 実に、集団心理とは恐ろしいものだ。脳細胞をフル活用しながら、一番安全なルートを、探す。隠密行動に備えるために携帯電話の電源を切っておく。  
しかし、幾ら考えても、生徒と一人も出会わずに生徒指導室までたどり着くなんて不可能だ。こうなったら、強行突破しかない。  
「僕は死なない」  
 大丈夫、きっと大丈夫だ。考えればわかることだ。主人公が、生徒Aや、生徒Bに殺されるはずがない。  
 だいたい、マフィアや、ヤクザに比べたら、学生なんて物の数ではない。  
「いくぞぉぉぉぉぉぉぉ」  
 意味もなく雄叫びを上げながら、校舎に向かい突進する。  
 中庭に到着、その場にいた生徒が、声を上げる。正面から2、横から3、なんだか硬そうなものが飛んでくるが、身体を捻りながら避ける。  
「いける!」  
 第二波、第三波、次々に回避する。今の僕は、戦場を駆け抜ける疾風だった。  
「ちょっ、えぇぇぇ!!」  
 突然、目の前が砲丸で埋まる、僕に向かって、幾つもの砲丸が飛んできていた。回避するスペースなんてどこにも存在しない。全力でバックスッテプ、ほとんどの砲丸は、失速し、僕に届く前に落ちるが、  
それでも何割かは飛んできている。どうやらさっき叫んだ『いける』は、『逝ける』だったらしい。ああ、最後に、せめて……  
 ガキンッ  
 死を覚悟し、目を瞑っていたが、いつまで経っても砲丸は飛んでこない。その変わり、何重にも重なった金属音が聞こえた。  
「大丈夫、ハヤテ君?」  
 目を開けて、そこにあったものは、息を切らせ、心配そうに僕の顔を覗き込むヒナギクさんの顔だった。  
 まさか、来てくれるとは思わなかった。僕は、朝の事件で嫌われていると思い込んでいた。でも、ヒナギクさんはここにいる。胸の奥がじんわり暖かくなった気がした。  
「ヒナギクさん、どうして、ここに」  
「どうしてですって……」  
 こめかみがぴくぴくしている。これは、ヒナギクさんの怒りが噴火する合図だ。  
「ハヤテ君の命が危ないっていうから、必死になって探してたの。携帯も繋がらないし、走り回ってやっと見つけて……第一声がそれなの!?」  
 
「ごめんなさい」  
「そうじゃない」  
「その、ありがとうございます」  
「よろしい」  
 どうやら、ヒナギクさんが、助けてくれたらしい。砲丸を右手の木刀で叩き落したようだが、普通なら木刀が折れるか、手首が折れる。何かこつでもあるのだろうか。  
「事情はだいたい理解してる。今から言うことをよく聞いて」  
「はい」  
「今から、私とハヤテ君は、恋人同士だから」  
「ええ〜〜!」  
「私とじゃそんなに嫌なの?」  
「そうじゃなくて、その、むしろ、光栄ですけど……」  
「そっ、そう。理由はすぐにわかるから気にしないで。退学になりたくなかったら頷いておきなさい」  
 そう言うとヒナギクさんは、顔を真っ赤にして、視線をそらした。もくもくと、僕の隣を歩いている。  
「えっと、一緒に来てくれるんですか?」  
「ええ、一応私、被害者ってことになってるから。立ち会わないと不味いじゃない」  
 ヒナギクさんは、一緒に来てくれるようだ。会話の流れからすると、僕を庇ってくれるらしいが、いったいどうするつもりだろうか? 僕には見当も付かない。例え、  
ヒナギクさんが偶然だといっても、その話に信憑性が生まれるわけではない。  
「さっきから、じろじろこっちを見てるけど、何か話があるの?」  
「いえ、話なんてないですよ」  
 結局、僕が口を出しても、いい方向に話が転がるなんてことはないだろうし。ヒナギクさんに任せよう。  
 それにしても、気まずい、何か会話がないと。  
「あっ、あの、ヒナギクさん、どうして今日はスパッツを穿いてなかったんですか?」  
「!!」  
 うわぁぁぁぁぁぁ。僕はいったい何を言ってるんだ。確かに、気になってたけど、今、このタイミングで聞くのは明らかなミスだ。ほら、ヒナギクさん。ただでさえ、赤い  
顔してたのに、さらに赤くなって茹蛸みたいになっちゃってるし。  
「すっ、すみません。その、忘れてください」  
「……ハヤテ君って、意外とエッチね」  
「ちっ違います。今のは言葉の綾というか、なんと言うか……」  
「あははははは」  
 急にヒナギクさんが笑い出した。落ち着くのを待つ。  
「ごめん、今のハヤテ君見てたら、なんか、緊張の糸が切れちゃって」  
 笑い終わった後のヒナギクさんは、すごくいい顔をしていて、そんなヒナギクさんを見ていたら、なぜか、胸が高鳴った。  
「スパッツが、私のいない間に、お姉ちゃんのお酒に変わっちゃったから」  
「えっ?」  
「ハヤテ君が聞いてきたんでしょ。今日穿いてなかった理由」  
「……まさか、とかそう言った台詞が出ないところが桂先生のすごいところですね」  
「そうね。でも、嫌いになれない。お姉ちゃんって、そう考えるとすごい人なのよね」  
「そうですね」  
 そう言ってから、僕らは笑いあった。先ほど感じた気まずさが嘘のような、心地よさに包まれていた。  
 
 生徒指導室の前についた。  
「大丈夫、まかせて」  
 ヒナギクさんは、そう言って、扉を開けた。  
部屋の中にいたのは、どこか優雅な雰囲気の男性教師と男子生徒が三人だった。  
「綾崎君、よく来てくれたね。もう、わかっている思うが、今日の朝の話だ。桂君は呼んでいなかったが、ちょうどいい。君達、彼のした行為をもう一度説明してくれ」  
 男性教師は、男子生徒のほうを見る。そして、そのうちの一人が口を開いた。  
「そこのそいつが、無理矢理、生徒会長を押し倒して、胸を揉んでいました」  
 男子生徒は、無理矢理にアクセントを置いて、そう言い切った。  
「この言葉に間違いはないな? 証拠の写真もある。だとするなら、この学校としては君を退学処分にせざるをえないが」  
 否定しないと、だが、どうすれば納得してもらえる?  
「間違いありません」  
 僕が黙っていると、横からヒナギクさんが、そう言った。  
終わった何もかも。裏切られた。ヒナギクさんは、悪くないのに、そう言った不の感情が胸を渦巻く。  
「そうですか、それでは、綾崎君は  
「しかし!!」  
 死刑宣告を告げようとした、男性教師の言葉をヒナギクさんが遮り、さらに言葉を続ける。  
「同意の上でのことです」  
「どういうことだ?」  
「今回の事件の真相は、私と綾崎君がそういう関係で、人気のなさそうな廊下で、そういった行為に及び、人が来たため中断したということです」  
ヒナギクさんは、呆然としたままの僕の手を引いてその場を立ち去った。  
 
 
校門を出る。  
「ごめんなさい」  
 足りない頭で必死に考えて、やっと搾り出した言葉がそれだった。泣きたくなる。  
「それは何に対して? 朝のこと、それとも、ハヤテ君のせいで、私が停学になったこと?」  
「両方です」  
「そう。だったら、後者のほうは撤回して」  
「どうして?」  
「今日いた証人、美希に聞いた話によると、一部始終見ていたはずなのに、あえて、ああいう風に言ったらしいの。そして、それは私が好きだからで、むしろ、ハヤテ君のほうが被害者なの。  
他の証人とか、あれが事故だった証拠とか集めようとしたけど時間がなくて、結局、ハヤテ君を停学にしちゃったから、むしろ怒っていいのよ」  
「そうだったとしても、原因を作ったのは僕で、僕のせいでヒナギクさんが停学になったんですから。やっぱり僕の責任です」  
 ヒナギクさんは、苦笑いして、何かを考える仕草をして、しばらくしてから口を開いた。  
「これじゃ、話が進まないわね。だったら、今日、家にカレーつくりに来て、久しぶりにハヤテ君のカレーが食べたいし。それで許してあげる」  
「いいですよ」  
「えっ、大丈夫なの? ナギ、怒らない」  
「実は、僕、今日は帰ってくるなって言われてるんですよ。だから、大丈夫です」  
 僕の言葉を聞いたヒナギクさんは輝くような笑顔を浮かべて、  
「それじゃ、今から、家に来て、材料はあるから。カレーは寝かしたほうが美味しいし、早く作っておいたほうがいいでしょ」  
 そう言った。  
僕は、心なしか早歩きになったヒナギクさんに追いつき、その手をとった。なぜか、そうするべきだという確信があったし。ヒナギクさんの手が寂しそうに見えたからだ。  
 ヒナギクさんは、そのまま何も言わずに歩き続ける。耳たぶまで、赤くなっているのが可愛かった。  
 
 
 ヒナギクさんの部屋にたどり着いた。歩いていた間一言もしゃべらなかったが、なぜか、息苦しさはなかった。  
「ハヤテ君、今日泊まっていくでしょ?」  
「えっ、いいんですか?」  
「今日、お義母さん、夜勤でいないから、気を使わなくてもいいわよ」  
 その言葉を聞いて心臓が痛いほど高鳴る。なぜだろう、自分で自分が制御できない。ヒナギクさんのほうを見ると、まるで、僕の状態が伝染したように見えた。  
「そっ、その、ハヤテ君。キスって興味ある?」  
 もう限界だと思っていた心臓が、さらに激しく活動する。くらくらしてきた。  
「もちろん、ありますよ」  
「じゃあ、して見る」  
「だっ、だめですよ」  
「私としたくない?」  
「もちろん、したいですけど……」  
「今から、私とハヤテ君は恋人同士そう言ったわよね?」  
「ええ、でもアレは、その場限りの嘘で」  
「……ハヤテ君は、アレが、その場限りの嘘で終わっていいの?」  
 嫌だ。嫌だ。嫌だ。頭が、その言葉で埋め尽くされた。たぶん、僕はこの空気に酔っている。明日後悔するかもしれない。だけど、ここで、他の選択肢はない。  
「んっ、ん」  
 ヒナギクさんを抱きしめ、唇を押し付けた。キスした瞬間、あーちゃんのことも、お嬢様のこともなにもかもが頭の中でとんでいた。  
 唇を離して、冷静になっても、それがどうした? そんな風に考えている自分に驚く。  
「ヒナギクさん、続きをしてもいいですか?」  
「その、ハヤテ君がしたいなら、いいわよ。でも、その前にシャワーを浴びて、きゃっ」  
 いい。その返事を聞いた後は何も頭に入ってなかった。キスしたとき以上に頭の中が真っ白だ。僕は気付いたら、ヒナギクさんを押し倒していた。朝と同じ状況、でも、今度は自分の意思で。  
ヒナギクさんが震えているのがわかる。僕にとっては、それすらも、興奮を高める要素に過ぎなかった。  
 
 
「バカァ」  
「すみません」  
「バカァ」  
「すみません」  
 さっきからずっと、この繰り返しだ。シーツで胸元を隠しているヒナギクさんの目元には、涙のあとがくっきり残っていた。  
あれから、一匹の獣と化した僕は、連続で二回、その後、お風呂に入って、身体を洗っているところを襲撃し、さらに二回してしまった。  
「何回も痛いって言ったのに」  
 はい、聞いていました。聞いて興奮していました。  
「もう、止めてって何回も言ったのに」  
 はい、聞いていました。今も、その言葉に反応して息子がたっています。  
「聞いてる?」  
「はい、聞いてます。ところで、ヒナギクさん、もう一回してもいいですか?」  
「ばかぁぁぁぁぁぁぁぁ!」  
 枕が飛んできた。顔面に直撃し、そのまま、倒れる。今夜はいい夢が見れそうだ。  
 

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