見上げた先に視界に入るものは、青く葉を繁らせ始めた雄大な山々と、透き通るような青空。
その地に根付く動物達の生活感溢れる囀りが、都会の喧騒に麻痺しかけた耳の奥まで入り込んでは、疲弊した私の感覚を癒してくれる。
丸一日掛けての山道の踏破は、心地よい疲労感と、充実した達成感を私にもたらした。
周りを見ても、どの顔にも退屈や厭いの色は見えない。
それはそうだろう、だって、こんなにも清清しい空気の中にいるんだもの。多少の疲れなんて吹っ飛んでしまう。
そして、風情のある旅館。
木造3階建ての母屋は、普段利用しているような宿泊施設からしてみると、なるほど確かに少々心許なく見える。
だけど、それが逆に新鮮味を帯び、寧ろ興味の対象にすらなる。
それに、穏やかな風景に溶け込んでいる景観は、それだけで旅行に来たんだなっていう感慨を強固にさせてくれた。
うん、やっぱりこうでないとね。ここに豪勢なホテルなんが出てきても、却って興醒めだわ。
おなかの奥から溢れてきた笑顔のまま振り向くと、同じように達成感を滲ませる面々の表情が窺える。
そして言葉にしなくても伝わるアイコンタクト。もちろん送信内容は、「来て良かったね」だ。
「やっと着いたのかヒナギク? 全く、何が楽しくてこんな不衛生で文明の欠片もないようなところに来なくてはいかんのだ」
……ぜこぜこと息を切らせながら、己の従者の背に負われて悪態を吐くお嬢様を除けば、だけど。
Love Servibor ~ver.HINA~
万物事象の流転は唐突に……とはいうものの、中々そんな機会に巡り会えるはずもなく、連綿と続く日々の生活は、
そう簡単には非日常へのくびきを解き放ってはくれない。
一癖も二癖もある人が集まるマンモス校の生徒会長なんて立場に就いていると、そんなことはとっくの昔に理解してしまうのだ。
無駄に手の込んだ年中行事の企画立案に頭を痛め、活発な部活動からは常に予算配分なんかについて突き上げが来る。
もちろん遣り甲斐はあるのだし、望んで就任したわけだから文句などあるはずもない。
桂ヒナギクという人間像が周りの人間にどう映っているのかは知らないが、少なくとも万事に於いて優秀たるべしと、
己に課した目標からしたら、この位で音を上げるわけにはいかないのである。
とはいえ、職務や勉学に忙殺されて無為に華の高校生活を過ごしてしまうのもどうかなって思うのは、
年頃の女の子としては当然の帰結であって……
具体的には、ほら、身を焦がすよーな大恋愛劇だとか、常に顔に貼り付けているような優しい笑顔が頭にこびりついて離れないだとか、
誕生日にアレだけ恥ずかしいシチュエーションになったのに進展がないのはどうしてなのよって言いたいこととか、
ご主人様や私だけに留まらないその八方美人っぷりはどうなのよとか、こんなに私をヤキモキさせて落とし前は付けてもらうわよ。
……こほん。
ある意味、私としても沈滞ムード漂う私とハヤテ君の関係に焦ってたところもあったのかもしれない。
や、もちろんハヤテ君の気持ちを確認したわけじゃないんだけどね。
年頃の女の子よろしく、片想いの悪質な脳内スパイラルに嵌り込んでいるだけで。
でも、ま、焦りもあるけど、ぬるま湯のような暖かさも気持ちいいわけです。はい。
だからかもしれない。突然振って湧いた非日常への扉が、この上なく魅力的に映ったのは……
「旅行?」
夕暮れ迫る綺麗な初夏の空をテラス越しに仰ぎ見ながら、帰り支度をしていた親友が切り出したのはそんな提案だった。
「そ。今度の週末にね」
「ふーん。でも、そんな暇あるかしら? 普通の土日なのよ?」
生徒会の内部資料をバインダーに収めながら、胡乱げに返す。
私の養父母も一般水準以上の収入を得ているのだが、わが親友である美希や、彼女がつるんでいるメンバーのお家はそれ以上の、
いわば日本でも有数の名家である。
結果、彼女が言う簡単な旅行が、とんでもない規模のものであることを、私は散々経験してきたのだ。
「そんな遠くまで行くわけじゃないもの」
「……そんなことを言っておいて、カリブまで引っ張っていかれたのは一昨年だったかしら?」
「あー……」
覚えていたのか、とばかりに冷や汗を流している美希。
全く、費用は持ってくれたし、楽しかったのは確かなんだけれど、何の準備もさせないで誘拐まがいに連れて行くのはどうかと思うわよ?
「や、今回の旅行はそこまで大袈裟のものじゃなくて」
「ノアの箱舟探しにアララトを登るとか言ったら流石に怒るけど?」
「……ヒナって私のことを何だと思っているのか。ま、いいけど」
釘を刺した私に向けて、ぶちぶちと文句を言う。
「隣県よ。○○山って知ってるでしょ? 今度ハイキングコースが整備されたみたいでさ、初級者向けの勾配らしいから、
初夏の山歩きもいいんじゃないかなって」
ハイキングか……
思えばそんなイベントもここ暫くこなしてなかったわね。
それにしても、美希が誘うからにはいつもの2人もセットなのだろう。
あの面子がハイキングって言うのも、微妙に違和感を感じる。
不審に思ってその辺の裏を尋ねてみると、
「やー、やっぱりヒナは鋭いね」
案の定、企んでやがりました。
「はあ。つまり、堅苦しい護衛付の旅行に嫌気が差して、何とか自由に動き回れないかと近場を選んだ、と。
……でも、あなたのお家ぐらいになると、その位でも許してもらえないんじゃないのかしら?」
三千院のお屋敷とかを見ていると麻痺してしまうが、彼女は勿論、朝風さんや瀬川さんのお家だって、一般レベルのお金持ちじゃないのだ。
それこそ、常時ボディーガードが張り付いているくらいの。
「んー、やっぱりヒナもそう思う? 私達もそう思って相談したんだけど……」
あ、あの顔は何か良からぬことを考えてるときの表情だ。
「鷺ノ宮さんにお願いしてね、影武者を用意してもらって途中で入れ替わろうと」
……可哀想に。
押しの弱い彼女のことだ、この3人に頼まれて断りきれなかったに違いない。
心の中で、正宗を振りながらあわあわとしている彼女に向けて、思わず合掌。
「で、どうする? 行くの?」
ふむ。特段断るべき理由もない。
多忙な日常とはいえ、スケジュール管理はしっかりしているし、週末にやるべきことを残すような仕事はしていない。
それに、恥ずかしながら予定がさっぱりないわけで……正直、パリーグのデーゲームでもテレビで見ながらまったりしようと思っていたところだ。
全く、乙女が暇を持て余しているなんて憂慮すべき事態よ。それもこれも、ハヤテ君がさっぱり誘ってくれないからだ。
やっぱり自分からモーション掛けてみるべきなのかしら……
そこまで思索を進めると、ふと、妙なにやけ笑いを貼り付けた美希の姿が視界に入った。
と同時に失態を悟る。しまった、思いっきり考えが顔に出てたかも……
「ちなみに綾崎君には打診済み。ご主人様も大層乗り気のようで、一緒に参加しますって快い返事を頂いてるわよ?」
ぶふっと思わず噴出。
明らかに狙ってそのことを伏せていた親友を睨むが、美希はどこ吹く風で口笛なんかを吹いている。
ちなみに、恐ろしく勘の鋭い彼女には、ハヤテ君に対する恋愛感情を早い段階であっさりと看破されてしまった。
強がって見せても恋愛初心者な私の言動には、やっぱり怪しいところがあるのかしら?
……結局そのネタをだしに、ことあるごとにからかわれていたりする訳で。
「もう一回聞くけど、行くの?」
満面の笑みで確認をしてくる美希。おのれ、いつか絶対に仕返しをしてやるんだから!
と、気合一発張子の虎を掲げてみる。
でも今は戦力が圧倒的に不利な状況にあることは間違いないわけで……
「……行く」
不承不承というポーズを精一杯とりながら、にやける美希に肯定の返事を伝えることしか出来なかった。
そんな経緯を経て、いざ出陣。
正直なところ、こんなに上手く行くとは思ってなかった。
駅のトイレで影武者の人たちと入れ替わると、面白いように騙されるSPの方々。
……危機管理対策が甘すぎるんじゃないかしら。
いち早く騙された三千院のSPを見て、「クビだ……」とか物騒なことを呟いていたナギは、自分の心の平穏のために敢えて視界から外す。
彼らにも生活があるんだから、程ほどにしときなさいよ。
コースに従ってのハイキングはおおむね順調で、新鮮な山の空気を充分に堪能できたといえる。
食用の植物を見分けるのがやけに上手いハヤテ君の講釈を聞いて感心したり、たがが外れて無駄にうるさい3人組の冗談に付き合ったりした。
途中でナギに拉致同然に連れてこられた橘君の愚痴を聞き、お互いに苦労してるのねみたいなことを話した頃に、今回の旅行の宿に到着の運びとなった次第である。
……膝を擦りむいたナギを背負ったハヤテ君に、冷たい目なんか送ってないわよ?
ちょっとべたべたしすぎじゃないかしらって思っただけなんだから!
「部屋割りはどうします?」
新鮮な山の幸がふんだんに使われた夕食に舌鼓を打ち、すっかりお腹もくちくなった頃、ハヤテ君がそんな質問をした。
予約してある部屋は2室。
単純に考えれば、身内でもない年頃の男女が宿泊施設を用いる場合、男女別部屋であるのが一般的だし、思春期の暴走に付随される問題も発生しにくい。
だが、今回の旅行における男女比は2:5。
荷物を置いた折にざっと部屋を眺めたが、無理すればどうとでもなるものの、五人が雑魚寝をするとちょっと窮屈になる感は否めない。
「ん〜、この際くじ引きできめちゃうってのはどうかな?」
危機感の欠片もない瀬川さんが、能天気な提案をする。
きっと彼女の思考の中には、ハヤテ君たちが狼と化す未来予想図なんかこれっぽっちも存在しないのだろう。
ま、確かにハヤテ君にしても橘君にしても、そんな心配は杞憂だと思うのだけれど。
うー、それに、ハヤテ君と枕を突き合わせてなんともなしにお話をするのも、それはそれで惹かれるものがあるかも……
ってハヤテ君、浴衣の帯の結び方が甘いわよ!
シャツも着てない胸板が見えそうになってるからこんなに悶々とする羽目になるのよ。
うん、そうだ。全部ハヤテ君が悪い。
でも、そんな私以上に取り乱してる人物がいた。
同じ屋根の下で暮らしてるのに、今更何をとも思うのだけれど。
「だだだだだだだ駄目だ! やはりここはセオリー通りに男女別でいくべきだと思うぞ! ほら! 昔の高尚な作品の登場人物も、
男女8歳にして同衾せずと主張していたことだしな!」
ええ、そういえばその彼女も、今のあなたに負けず劣らず取り乱していたわね。
「ま、妥当なとこだし、それでいいんじゃねーの?」
すっかり他人事のように言う橘君。
それにハヤテ君も追従したことで、場の空気が決定の方向に動いた。
……コラ美希、こっちを見ながら露骨ににやにやするのは止めなさい。
あと残念だったわねって何よ、って言うか、そのカメラで何を撮っていたのよ!
思索の海に埋没している時間というのは、どうしてこうもあっという間に過ぎてしまうのだろうか。
気付けば時計の長針は一回りし、ざわざわと聞こえていたはずの人の喧騒は、少々季節を先取り気味の蛙の合唱に取って代わられている。
思えば、ハヤテ君に対する恋心を自覚して以来、こうやって無為に時間を過ごしてしまう機会が増えた。
想像の中で私とハヤテ君が、それはもう色々と活躍している。
それ自体に嫌悪感を抱くことはないにせよ、今までの自分の内面に対する齟齬が修正できていないため、微妙にもどかしさを感じてしまう。
……そもそも、自室でぼーっとしているのならともかく、今は旅行に来ていて、顔見知りと同室にいるわけで。
「あ、やっと戻ってきた」
例によってからかいモード全開の悪魔が、パワーアップして3人に増えてしまっていた。
「ん〜、我が麗しの生徒会長様は某執事君にご執心であると」
「理沙の表現はストレートすぎるわね」
したり顔で何度も頷く彼女の様子に、思わず構成しているネジが何本か飛びかける。
「美希! なななな何をしゃべってわきゃろりらっ!」
「ヒナちゃんが壊れちゃったよ〜」
えへへーじゃないわよ瀬川さんまで!
親友の大事な情報を、旅行の浮ついた空気にあっさりと売り飛ばしてしまった美希に向けて、
思わず涙目になりながらも精一杯の呪詛を視線に乗せて送る。
「私は何も喋ってないわよ?」
へ?
「ヒナちゃんの場合ちょっと分かりやすいから」
え?
「知らぬは当事者ばかり、というわけだ」
何なのよー!
落ち着こうにも、一度パニックに陥った頭を冷やすことは並大抵のことではない。
荒れに荒れた呼吸を整えつつ、戦線に復帰できたのは更に充分な時間が経ってからだった。
「正直なところ、ヒナらしくないなって思って見てた」
賑やかなじゃれ合いの間に零れた美希の一言。
これが妙に心を揺さぶった。
「私……らしく、ない?」
「うん、それはそうかも。だってヒナちゃん、いつもははっきりしてるのに、ハヤ太君が絡むと途端に優柔不断になるもんね」
「むしろあれは挙動不審と言っても良いくらいだぞ?」
そんなに普段の自分と乖離していたのかと、軽く落ち込む。
自分では完璧に隠していたつもりだったのに、他から見るとバレバレだったなんてベタな露見も恥ずかしすぎる。
けれど、問題はそこじゃない。
憂慮すべき事象は、己の行動を構成する理念が、ハヤテ君の存在によって簡単に揺らいでしまっているということだ。
それだけ彼の存在が大きい、また、初めての恋愛経験に戸惑っている。言い訳はいくらでも思いつく。
しかし、それでいいのだろうか。
「まぁ、彼は好意を寄せられることに慣れてないようだからな。鈍感なことも幸いして気付いてないようだけど、ハヤ太君の周りには常に女性の匂いがある」
ヒナも弄ばれちゃうかもなとは、朝風さんの悪戯っぽい言葉。
そうなのだ。歩は勿論、注意して見てみればナギだってそういう感情を向けていることは容易に推し量れる。
それに、困難辛苦を乗り越えて強く生きているハヤテ君には、同年代の男の子には決して存在しない大人な空気がある。
それに反応する多感な女の子はやっぱりいるわけで……正直、ハヤテ君のことを隠れて想ってる娘は結構いるのだろう。
「うんうん。油断してると知らないうちに人のものになってたりするかもね」
瀬川さんも追従してくる。
「そ、そんなのっ!」
激情の発露といえば聞こえが良いのかも知れないが、その実、ただテンパッていただけなのだろう。
彼女達が茶化して話す内容を茹った頭に投影してしまう。
見知らぬ誰かがハヤテ君の慈愛に満ちた微笑を一身に受けている。
仲睦まじげに腕を取り合う二人を、私が背後から眺めている構図。
何かの弾みで大きく振り向いた彼女と視線が合い、それまでぼやけていた彼女の顔が、段々と見知った誰かの輪郭を形成しそうになっていく工程が、
自分の意思に反しながらも緩やかに行われていく。
「ダメーーー!」
ぶんぶんと頭を振りながら、浮かんだ光景を必死に振り払っていた。
ぜこぜこと肩で息をしながら、思わず叫んでしまった自分にびっくりする。
と同時に、つつと頬を流れる水の感触。あ、これって私の涙なんだ。
見渡せば目に入るのは、私以上に驚愕している3人の表情。
そしてそれは一息置いて、ばつの悪そうな、苦虫を噛み潰したような表情に変わっていった。
「……ちょっと悪ふざけが過ぎたかな?」
「ごめんねヒナちゃん」
朝風さんと瀬川さんが謝罪の言葉を口にする。
「……意地っ張りね」
美希はやれやれと肩をすくめながら、優しい微笑みを向けてきた。
「ハヤ太君の前でそういう可愛い姿を見せれば、一発で落ちるでしょうに」
「……出来ないわよ」
思わず歯噛みするように言う。
言いたいことは分かる。
だけど、なまじ自分が乙女乙女するキャラクタじゃないって分かっているだけに、今一歩踏み切った行動を起こせないのも事実なのだ。
これが鷺ノ宮さんみたいな、外見も中身も可愛らしい女の子がやるのであれば様にもなるのだろうけど。
「ほら、そこよ。ヒナらしくないのは」
諭すように語り掛けてくる美希。
「私には恐れるものなんかないんだーって突っ走るのがヒナじゃない。そうやって今まで上手く行ってきたんだし、今度もそうしてみたら?
少なくとも私が見てきたカッコいいヒナならそうするわよ?」
「でも……」
「でもじゃないわよ。……ああもう、ヒナがまさかここまで色恋沙汰に弱かったとは思いもしなかったわ」
淑やかとは無縁であるかのように、ガシガシと頭を掻きながら零す。
「いい? いくら悶々としてたって、言葉にしなければ伝わらないことっていうのは確かに存在するのよ?
特にハヤ太君みたいな朴念仁を相手にするにはね。そして、桂ヒナギクっていう人間は、宙ぶらりんの状態を是とするのだったのかしらね?」
「それ……は」
すとん、と。
憑き物が落ちるというのはこういうことを言うのだろうか。
美希の言葉が、私の胸の深いところに、疑問を挟む余地なく浸透する。
「怖いのは分かるわ。小さい頃からヒナと一緒にいるけど、こうなったのは初めてだもんね。多分初恋なんでしょう。
でも、怯えて何もしないことへの後悔よりは、自分に納得できる行動を起こした上で、それに付随する結果に後悔するほうが、建設的だと思う」
そう。そうなのだ。
美希が言っていることは正しい。
玉砕覚悟で行動することが一般論で正しいかは別として、少なくとも、こと桂ヒナギクにとっては正しいのだ。
認めてしまおう、正直、怯えていたと。
心の中では甘い幻想を抱いていながら、緩やかな安寧を喪ってしまうことが恐ろしくて、このままでいいと、現状で構わないと、妥協していたのだ。
それは、何事にも全力で、そして優雅にこなすべしと自らに課した想いに反することである。
それにそもそも、そんな妥協がいつまでも通用するものではない。
ハヤテ君への思慕の情は日に日に膨らんでいく。
それをいつまでも押さえつけていられる筈など、恋愛初心者の私がどうして出来るというのか。
理解と共に、どこかに雲隠れしていた私の中の負けん気が姿を現し、むくむくと大きくなっていく。
「……その言い分だと、どうあっても私が後悔する結末しかないっていいたいのかしら。残念ながら、私はただで負けるつもりなんかないんだけどね?」
にこりと、笑顔にちょっと凄みを混ぜてみる。
散々弄んでくれた親友達へのちょっとした意趣返しのつもりだ。
「……もどったわね」
「だね〜」
「それでこそヒナだな」
結論。
どうやら私は彼女達には勝てないらしい。
皮肉が全く通じず……いや、分かった上でこういう態度を取っているのかもしれないが、三者三様のにこやかな笑みで返されてしまっては、ぐうの音も出ない。
だから。
「ありがとう。後悔の無いように、ぶつかってみるわ」
決意の言葉と共に、立ち上がるだけ。
「ああ、わかっている。そちらも気を付けて休むのだぞ? 狭ければ、ワタルはベランダにでも干しておけばいいから。じゃあ、おやすみ、ハヤテ」
携帯電話を片手に、ちょうど通話を終えたらしいナギが部屋に戻ってくる。
……全く、さっきまでハヤテ君の部屋に遊びに行っていたんでしょうに。
そのべったりぶりには、思わずちりりと嫉妬が浮かぶ。
「む? ヒナギク、これからどこかへ行くのか?」
入れ替わりになるように部屋を出ようとした私に、ナギが訝しげな視線を送ってくる
「ええ、ちょっとね」
覚悟は決めた。
迷い、恐れ、脆弱だった己の心を自覚し、その上で乗り越えていく過程に、高揚していく心が抑えきれない。
「悲壮な決意をしてるんだと思うけど……」
背に掛かるは親友の言葉。
「安心しなさい。勝算のない勝負じゃないと思うわよ」
「当たり前じゃない。そもそも、負けるはずのない勝負なんだから」
振り返らずに応える。
そう、負けはない。
結果はどうあれ、初めての苦しみに、葛藤を乗り越えて至る境地なのだ。
例え望んだ結果が得られなくとも、それのどこに敗北という概念が存在しえようか。
「? 何を言っているのだ?」
ハテナマークを頭上に飛ばしながら、ワケが分からないといった風体でナギが訊ねる。
だけど、わざわざ教えてあげることもないだろう。
「内緒。貴女はライバルだしね。アドバンテージは有意義に使わせてもらうわよ」
ウインク一つを置き土産に、可愛い強敵の肩を、すれ違いざまにポンと叩いて部屋を出る。
それだけで、まるで自分が死地に赴く歴戦の戦士であるように、肝が据わっていくのを感じた。
〜an intermezzo〜
「ええ、大丈夫ですよ、お嬢様。心配なさらないで下さい」
『そうか? だが、寂しくなったら私に言うんだぞ?』
「はは、ワタル君もいますし。お嬢様もゆっくりと休んでくださいね」
『ああ、わかっている。そちらも気を付けて休むのだぞ? 狭ければ、ワタルはベランダにでも干しておけばいいから。じゃあ、お休み、ハヤテ』
「お休みなさい、お嬢様」
弾むような声色の余韻を残して、携帯電話が沈黙する。
こういう場所に来てもなお、自分に懐いてくれるお嬢様を可愛らしく思いつつ、見事な内弁慶っぷりに思わず苦笑してしまう。
まるで、海外進出するたびに禄に試合にも出れずに舞い戻ってくる代表選手みたいだ。
「また、無茶苦茶言ってやがるな、ナギのやつ」
話が聞こえてしまっていたようで、微妙に不機嫌さを滲ませながら、ワタル君が零す。
「いきなり連れてきてしまって申し訳ありません」
「全くだ……まあ、お前に言ってもしょうがねーんだけどな」
ある意味お嬢様のハチャメチャな行動には達観してしまっているのだろう。
やれやれと肩をすくめながらも、それほど怒っているようには見えない。
「お前さ、ナギのこと甘やかしすぎなんじゃないのか?」
飲んでいた烏龍茶の缶を窓際に置き、並べられた布団の上にどっかりと座る。
「そうですね……どうしても、助けていただいた感謝の気持ちが先に出てしまって。
まあ、マリアさんも梃子摺っていらっしゃいますから、筋金入りのようです、お嬢様は」
はは、と苦笑しながら、僕も隣の布団の上で、姿勢を崩した。もちろん、それ以上に可愛らしい方ですからと、フォローするのも忘れない。
「ったく……執事ってのは主を良い方向に導いていくんじゃなかったのかよ。花びらの色男がそう言ってたぞ」
まあサキを見てる限りそうとも言えないがな、と続ける。
「あのままわがままな大人になっちまったら、結婚したとき困るのはお前だろうに……」
「……」
はて、今何か、物凄く聞き捨てならないことを聞いたような気がする。
「……あのーワタル君? ええと、誰と誰が結婚すると仰いました?」
「ん? お前とナギのことに決まってるだろ? 借金の肩代わりってそういうことじゃねーのか?
見た感じ、ナギはそういうつもりでお前を抱えてると思ったんだけどな」
「ちっちちちちち違いますよ! お嬢様は僕の不幸を見ていられなかっただけで……そんな、畏れ多い」
思わずぶんぶんと手を振りながら取り乱してしまう。
「そもそも、万が一お嬢様がそういうつもりだったとしても……僕は結婚なんて出来ませんよ。
前にマリアさんにも言われたんですが、それじゃあまるで、借金を返すためにお嬢様を誑かした最低男になっちゃいますから」
そんな僕の返答に、そんなもんかとワタル君は納得したようだ。
それに――
結婚という単語が出されたことによって、否応なく意識してしまう。
いや、結婚なんて想像もできない先の話なんかではないが、もっと身近な、だけどどんどん大きくなっていく不思議な感情のことを。
お嬢様やマリアさんと一緒にいるときのような、優しくも暖かい気持ちとはまた違った、こう、胸の奥から溢れて止まらなくなってしまう昂ぶり。
そして、その先には、決まっていつも、彼女の姿が見えていた。
ヒナギクさん。
萌芽は徐々に、けれども開花はあっという間に。
そういう機微には疎いと自覚している僕にも分かる。これは恋なのだと。
彼女のちょっとした仕草を目で追いかけ、薫る芳香にくらくらしてしまう。
ひな祭りの催しの際に、互いに手を取り合い、生徒会室から見下ろした幻想的な夜景が、まるで昨日のことのように鮮明に浮かぶ。
あのときはまだ、気付いていなかった。
けれど、意識してしまえば、これほど確固として信じることが出来る想いもないだろう。
突拍子もない出会いをはじめ、彼女と共にいた時間は、その全てを色鮮やかに振り返ることが出来るのだから。
「じゃあお前、誰か好きなやつとかいないのかよ?」
ワタル君が妙に挙動おかしく問いかけてくる。
……ああ、そうか。彼は伊澄さんのことが好きなんだった。
僕との関係を誤解していたらしいし、彼にとっては大きな関心ごとなのだろう。
「……ええ。いますよ」
茶目っ気を込めて、思わせぶりに言ってみる。からかうつもりはなかったのだけれど、面白いようにしどろもどろになるワタル君を見て、思わず苦笑してしまった。
「心配しなくても、伊澄さんのことじゃありませんよ」
「ばっ! 誰も伊澄のことなんか聞いてねーだろうが!」
真っ赤になって取り乱す姿は微笑ましいものだった。
「……で、参考までに聞いとくけど、誰だ? 俺の知っているやつなのか?」
硬派ぶっていても、そこは多感な時期の少年。
他人の色恋沙汰には興味があるのだろう。ずずいと身を乗り出して聞いてくる。
「そうですねー……」
思い浮かぶのは、猫のような悪戯めいた笑み。
負けず嫌いで、意地っ張りで……そんな全てをひっくるめて愛らしい彼女。
『綾崎くん、すこしくらいわがまま言わないと、幸せ掴み損ねるわよ?』
『カ、カレーと、ハンバーグ……』
『あなたが良くても、私の気がおさまらないのよー!』
『……怖いわ。でも、悪くない気分よ――』
目を閉じれば、走馬灯のように脳裏に再生される。
ヒナギクさんが発した一語一句が、辛かった昔に沈殿してしまった澱を溶かしてくれる。
分かってはいるのだ。自分に釣り合う彼女ではなく、そもそも僕が、夢想するような幸せを掴む資格に乏しいことは。
借金のことは別にしても、学園の華であるヒナギクさんは人気者だ。
悪し様に思われていることはないにせよ、異性として意識しているのは僕のほうだけ、というのが関の山だろう。
今はまだ、彼女の優しさに甘えて、友人として傍にいれるだけでいい。それだけで、幸せな気持ちになれるのだから。
けど、いつかは――
告げることが出来るのだろうか。この、想いを。
「もったいぶらねーで教えろよ。大丈夫だって、ナギには言わねーから」
「伊澄さんに告白できないワタル君には、教えられませんねー」
「だ、だからなんでそこで伊澄が出てくんだよ!」
来るかもしれないし、来ないかもしれない。
ただ、決断をする機会が訪れたとして、その時に胸を張って言えるよう、この気持ちを育んでいこうと。
そう、思った。
「……ったく、ナギに毒されて性格悪くなってきたんじゃねーか? お前」
「そんなことはありませんよ」
ひとしきり騒いだあとに、むっつりとワタル君が零した。
彼とはこの旅行で、随分と仲良く慣れたような気がする。
「ワタル君もお嬢様のいい所だって知ってい……どうしました?」
不穏な空気が流れた。
見ると、今までの弛緩した空気から一変、ワタル君が中空を見上げる視線に力が篭っている。
「……気付かねーのか借金執事。この臭い」
臭い…… つっ!
迂闊だったとしか言いようがない。
他愛ない話が思いのほか楽しかったからか、あからさま過ぎる変化すら見落としていた。
「これは……」
「ああ、管理責任ものだぜ。厨房は一階だろ? それが2階のこんな隅にまで臭ってくるってことは……」
「既にかなりの濃度で漏れているということですか」
それは、普段それほど変な場所じゃなくても普通に感じることの出来る臭いだ。
例えば、コンロの火が一回でつかなくて、つまみを戻したときに僅かに感じられるとか。
だが、間違ってもこんな場所で、しかもこんな強烈に臭っていい類のものじゃない。
恐怖がせりあがって来る。
しかしそれは自身の保身のためのものではない。
1階の部屋には誰がいる? 大切な人たちがそこにいるんだ。
ワタル君がとの目配せは一瞬、急いで携帯電話の履歴の一番上を押す。
待機音に焦らされている最中に、どこか遠くで、全てを瓦解させてしまう何かが聞こえてきた。
――an intermezzo out
例えば、花に感情があるとしよう。単純なれど一途な感情が。
それはきっと、日々の健やかな成長に対する喜びを、愛情を注いでくれる存在への感謝を、隔意なく真っ直ぐに表現するものだと思う。
思えばいつの頃からだったのか、己の感情に仮面を被せてしまったのは。
ちっぽけなプライドや、ほんの僅かな羞恥、そして失うことへの恐れ。
そんな負の感情を脱ぎ捨てて、今だけは花になろう。
親友に導かれ、自分自身と向き合って出した結論を両腕で抱いて、綾崎ハヤテという人間にぶつけるのだ。
そう、いわばこれは勝負なのよ。
悲観的な方向に考えが及ばないわけじゃない。哀しい結末を想像すると、心が今にも張り裂けそうだ。
だけど、例えどんな返答がなされたとしても、その全てを甘受し、自分の成長への糧だと思えるくらいには腹を据えている。
向かう戦場は2階の部屋。
階段の前までやってきて、思わず立ち止まった。
目を閉じて、心を強くする。上気した頬の感覚が、鼓動の高まりに拍車をかける。
それは、ほんの僅かな逡巡。
臆病だった自分と決別し、想いを受け入れるためのささやかな儀式。
胸に手をあて、深く息を吸う。
閉じていた瞳を再び開いたとき、迷いは既になかった。
その時だった。辺りに立ち込める違和感に気付いたのは。
澄んでいたはずの空気が、濃密な何かに取って代わられていることに。
まるで空気自体にくすんだ色がついているような錯覚すら覚える。
意識してしまえばあとは早い。私の鼻腔は、はっきりと異臭を感じている。
「え……なに、これ?」
思わず周りを見渡す。
多くないとはいえ、それなりにあったはずの人の気配が消えうせ、まるで私の周りだけ世界から切り取られたかのように、静まり返っている。
思考が追いつかない。異変が起こっている、危機が迫っている。
理解しているはずなのに、現実感を失った想像が、そんなことはありえないだろうと回転を妨げる。
「まさか、ガス漏れ? そんな……でも」
え? 何で? 皆に知らせないと。危ない。危険。
パニック一歩手前で踏みとどまる。
私は第六感みたいなあやふやなものには否定的な立場だったのだけれど、今まさにそれがガンガンと警鐘を鳴らしている。
五月蝿いくらいに高まった鼓動は、今にも喉を通って口から出てきてしまいそうだ。
だけど、意思に反して私の足は動こうとしない。
ぼん、と。
何かが終わってしまいそうな音が聞こえた気がする。
半ば反射的に音の方向を確認すると、視界が捕らえたのは一条の閃光。
それが見る見る大きくなって。
私の意識は最後に、まるで蛇のような姿の焔を、どこかピントのずれた写真のように記憶していた。
To be continued