〜an intermezzo〜  
 
   
 人ごみに紛れてしまわないように、共に脱出してきたワタル君の手を離すまいと力を込める。  
 想像もしていなかった突然の災害に浮き足立つ人々の群れで、辺りは喧々囂々の様相を呈していた。  
 見知らぬ誰かと肩がぶつかり合ったことは数回ではない。一度など、見るからに強面の男性と正面衝突をした。  
 だけど、街で同じことをやったら即座に僕の胸倉を掴んでくるだろう彼は、まるで僕たちなぞ目に入らないかのように取り乱すだけ。  
 奇妙な悲鳴を上げ、狼狽を隠そうともせずに火の粉から逃げようとする。  
 一見、大の男が取る行動としては辛い評価を受けそうに見える。でも僕は、その姿が滑稽だとも情けないとも思わない。  
 この非日常が顕在した眼前で、一体どれほどの人が日常の己でいられるというのか。  
 僕自身、左手に掛かるワタル君の重みが無ければ、みっともなくも取り乱し右往左往していたことは想像できる。  
   
 
 ワタル君が指摘した異常。  
 恐らくガス漏れだとは思われるのだが、その危険を知らせようとお嬢様の携帯にコールをしている最中に破滅はやってきた。  
 
 風船が割れる音をちょっと重くしたような印象の、ともすれば聞き逃してしまいそうな小さな音。  
 でも、数秒後にやってきた熱風と炎は、これが変えようの無い現実であるということを僕とワタル君に突きつけてきた。  
 閉められている扉を開かなくても分かる。ドアを挟んで一枚向こうは、地獄になっているのだと。  
   
 普段から大人びた態度を取り、また自分自身そういう在り方でいようとしているフシが見られるワタル君は、やっぱりこんな時でもらしさを失わなかった。  
 僕が携帯に集中し、他のことを考えている余裕を失っていたときにも、冷静に非難器具を見つけ、説明書を睨んでいる。  
 ここは2階。最終手段として飛び降りることも出来るが、安全に脱出できるならばそれに越したことは無い。  
「おい、まだつながらねーのか!」  
 窓枠に非難器具を設置し終わったワタル君が、肩越しに怒鳴り声を上げる。  
 その問いに僕が顔の動きだけで否定すると、盛大な舌打ちと共に焦燥と狼狽の混じった愚痴を吐き出した。  
「……これ以上待ってらんねーぞ! それに、あいつらの部屋は1階だ。常識的に考えて、この状況もすすぐに察知できるだろうし、窓からの脱出も楽だ。  
 もう逃げたってことは充分に考えられる!」  
 
「そう……ですね」  
 我ながら煮え切らない返答だったとは思う。  
 だけど、第六感とでも言うのか、妙な不安がしこりのように胸に残留し、僕の感情を圧迫してくる。  
   
 その時になって漸く、携帯電話の向こう側に反応があった。  
 悲鳴と怒号にかき消されそうになりながらも、それに負けじと張り上げられたお嬢様の声が届いてくる。  
「お嬢様……お嬢様っ!」  
『ハヤテっ! 大丈夫か?』  
 嗚咽が混じったような返答、いや、実際涙を零しているのだろう。  
「無事ですか? 大丈夫なんですねっ?」  
『こっちはもう外に出ている! お前、まさかまだ中にいるのか?』  
 その言葉を聞いて、思わず安堵の溜息が漏れた。  
「ええ。もう脱出していますよ。外で落ち合いましょう」  
 わざわざまだ中にいることを話さなくてもいいだろう。実際、あとはもう滑り台のようなこれを下るだけでいいのだ。  
『そうか……安心したぞ。だがヒナ』  
 唐突に電話が切れた。  
 
 最後に何を言おうとしていたのかは聞き取れなかったけど、彼女達が安全なところに避難しているという確信を得られたんだ。心配することはないはず。  
 ワタル君に目配せする。それを正確に受け取ってくれたらしく、躊躇することなく、夜の滑降へと飛び出していった。  
 続いて僕もと、窓から身を乗り出す。  
 
 瞬間、得体の知れない不安が胸を過ぎったが、強引に押し殺して炎の蹂躙からの脱出を果たす――  
 
 
 
 
「おい、あれ!」  
 ワタル君の指差す方向で、よく見慣れたツインテールが不安げに揺れていた。  
 横顔から垣間見えるのは、涙か。  
 理不尽なこととはいえ、誰にでもいいから恨み言を叩きつけたくなる。  
 あそこで似合わない涙を流しているのは誰だ? 綺麗な金髪を煤で汚しているのは誰だ?   
 そんな状況に愛らしい主を追いやったのはどこの馬鹿だ!  
 
「お嬢様!」  
「ナギっ!」  
 二人同時に叫ぶ。  
 その声が届いたのか、出所を求めてお嬢様は視線を彷徨わせている。人とぶつかりながらも懸命に近づいていく僕たち。  
 そして漸く、目が合った。  
 
「ハヤテぇぇぇ……」  
 僕の胸に飛び込んできたお嬢様は、いつもの虚勢を張ることすら出来ずに全力で泣いている。  
 無理もないだろう。こんな経験、出来ることならばさせたくはなかった。  
 この小さな体が無事であってくれたことが何物にも代え難い奇跡のように思えて、抱きしめる腕に更に力を込めた。  
 
 お嬢様の体を離し、小さな掌を握る。  
 まだ涙の残滓がまぶたの淵に残っているものの、気丈にも僕の手を握り返してきてくれた。  
 そして、一足先に合流していたワタル君や花菱さんたちに向かって、共に歩みを進める。  
 
「橘君、君たちも無事なようで何よりだ」  
「ああ、酷い目にあったけどな。そっちも大丈夫か?」  
「見てのとおり、体に問題はないよ。だが……」  
 ワタル君と朝風さんの会話が聞こえてくる。  
 だが、無事を確かめあい、安堵で弛緩してしまってもおかしくない状況なのにも関わらず、彼女たちの表情から険が取れないのは何故だろう?  
 
「あのね橘君……多分変なこと聞いてると思うんだけど、ヒナちゃんは何か用事があって一緒に行動してないだけだよね?」  
 当然だよねー私ったら何変なこと聞いてるんだろあははー  
 半ば熱に浮かされたようにまくし立てたのは瀬川さんだ。  
 胸の前で両手を組み、そうであることが当然で期待通りの言葉をワタル君が返してくれることを微塵も疑っていない。  
 いや……疑うことを極端に恐れてしまっていると、分かりたくもないのに分かってしまった。  
   
 思わず辺りを見渡す。  
 まず、右手に掛かるお嬢様の温もり。次いでワタル君を囲んで朝風さんと瀬川さんが話している姿。  
 そして――大きな針葉樹に凭れて呆然とこちらを見ている花菱さんの姿。  
 何度も確認する。思考を放棄しようと暴走する頭を宥めすかしてもう一度視界を回転させる。  
 だけど、何度見渡しても、決定的な瓦解を遮ることの出来る確証は、終ぞ得られない。  
 
「花菱……さん? 嘘、ですよね?」  
 一縷の望みをかけて、半ば懇願めいた口調で問う。だけど返答は、否。  
 嗚咽はもとより、喉すら動かすことなく、僕を見つめながら静かに双眼から雫を零す。  
   
 つまり、そういうことなのだと。  
 僕たちが逃げてきて、もうこれで大丈夫だと安堵していた時に、事態は何ら改善されていないということが、お互いに、これでもかというくらいに理解できてしまった。  
   
 思わず振り向いて、その惨状を視界に納める。  
 パチパチと木が爆ぜる音、そして絶え間なく飛び散る火の粉。  
 数十メートル離れているここにいてなお、臨場感溢れる情景を見せる現実の地獄絵図。  
 
「ねえっ! ハヤ太君はヒナちゃんの居場所分かるよね?」  
 瀬川さんが今度は僕に矛先を変えて、体を乗り出さんばかりに詰問してくる。だけど、僕は答えることが出来ない  
「……お願いだから、そうだって言ってよぉ」  
 いつも朗らかな笑みを絶やさない瀬川さんが見せる泣き顔は、事態が逼迫していることを如実に物語る。  
 
「え……どういうことなんだよ? 嘘だろ? そんなことって……おい、消防車は!」  
 まさかと思っていた事象が、現実味を喪失した事象が、漸くワタル君にも浸透したらしい。朝風さんに向かって問いとは名ばかりの激情をぶつけている。  
「この山奥だ。話を聞く限りでは、1時間は掛かるらしい」  
「――ッツ!」  
 一見冷静に見える朝風さんの態度が腹にすねかえたのか、ワタル君が激昂して掴みかかろうとした。  
 けれど、その手は見る見るうちに勢いを失い、中空に静止する。  
 噛み切られた彼女の唇から流れる一筋の紅が、その思いをワタル君にも、そして僕にもひしと伝えてくる。  
 言葉にならない呻き声を上げたかと思うと、ワタル君は拳を地面に叩き付けた。そこからじわりと血が滲み出してきている。  
 
 
 
「つまり――」  
 全身の血が冷えていく錯覚を得る。  
「ヒナギクさんは――」  
 脱力している感覚はあるのに、それに反比例して肩の震えが収まることはない。  
「――まだ、あの中にいるんですね?」  
 語尾が掠れてしまうのを精一杯抑えながら、確認するように訊いた。  
 
 答える人はいなかった。  
 否、認めたくない現実がそもそもの答えであると、全員がおぼろげに理解してしまったのだ。  
   
 急速に全身が沸騰していく。  
 燃え盛る炎に炙られた体表面の話じゃない。  
 心の奥の一番深いところから、今自分が何をなすべきか、なさねばならないのか……それを胸に刻むことによって顕在してきた、  
僕自身の激情だ。  
 色々な想いがごちゃ混ぜになって体の外に吐き出される瞬間、確固たる熱量を以って、それは僕の体を鼓舞している。  
   
 思えば色々なものを与えられてきた。  
 お嬢様からは慈愛を、ワタル君からは友情を、マリアさんからは日常を、花菱さんたちからは享楽を。  
 ――そして、ヒナギクさんからは、溢れる想いを。  
 
 今度は、僕がそれに報いる番なのだ。  
 
 
 
「ハヤテ……」  
   
 僕の決心が伝わったのだろう。  
 お嬢様は不安そのものを視線に乗せて見上げてくる。  
 何時しか握っていた手は指同士が絡まっている。  
 お嬢様なりの精一杯の制止だろう。  
 
「ダメだぞ……いくらハヤテだって! あの中に入ったら!」  
「すみません、ごめんなさい、お嬢様」  
   
 握られた手を胸の前に持ってきて、空いた左手を使って一本一本剥がしていく。  
 それをどこか焦点の合わない瞳でぼうっと見つめているお嬢様。  
 
 最後の小指が離れ、自分の指に掛かっていた重みを失ったことを自覚したのだろう……  
 何か僕に声を掛けようとして、伸ばした手で制止しようとして。  
 そのどちらも出来ずに、ただ、涙を零す。  
   
   
 一歩、また一歩。  
 お嬢様の嗚咽を背中で聞いて、申し訳なく思いながら燃え盛る炎に近づいていく。  
 
 
「ごめんなさい、それ、貸してもらえますか?」  
 途中で、わざわざやってきたらしい野次馬と思しき人から、フルフェイスのヘルメットを強引に借り受ける。  
   
 近づいていく中でも、何故か恐怖心は浮かばない。  
 そう、男には一生のうちに一度や二度くらい、自分の命すら天秤に賭けて挑んでいかなきゃならないことにぶつかるんだ。  
 今、僕の大切な人がきっと助けを求めている。  
 そんな時に臆してしまって何が男か綾崎ハヤテ!  
 
 
「ハヤテ君!」  
 掛けられた声は花菱さんのもの。「ハヤ太君」ではなく確かに「ハヤテ君」と僕の名を。  
 
「こんなこと頼めた義理じゃないって分かってるっ! あなたにだって危険なことだって分かってるっ!……でも、お願い。ヒナを……私の親友を、助けて」  
   
 万感の想いを胸に、振り向く。赴く前に、皆の表情を頭に焼き付ける。  
 多くの絶望と、多くの焦燥の中に見つけた、ほんの少しの希望と、そして懇願を。  
 
「ええ。すぐに皆さんの前に連れてきますよ」  
   
 
 漏らした笑みは決して強がりなんかじゃない。  
 
 それはきっと、貰った勇気を――  
 
――an intermezzo out  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 小さい頃、まだ本当の両親と暮らしていた頃。  
   
 お姉ちゃんと一緒に幸せな毎日を過ごしていた頃に、よく見ていた夢がある。  
   
 異形の怪物だったり、不遜な悪漢だったり……悪者に攫われた私は、囚われの状況に泣き崩れていて。  
   
 そんな私のもとに、輪郭すら定かでない誰かが颯爽と現れて、華麗な立ち回りを演じる。  
   
 時には勧善懲悪のフィクションストーリーの王道のような派手なアクションで。  
   
 時には識者然とした名探偵のように理路整然と追い詰めていって。  
   
 そして、悪漢を倒した誰かは、私へ優しく微笑み、手を差し伸べる。  
 
 救い出された私は、その彼と一緒に幸せに暮らすのだ。  
 
 ……今にして思い返せば、あまりにも陳腐なお姫様願望。  
 
 だけど、それはそれできっと微笑ましいものだろう。  
   
 いつかきっと夢の中の誰かの顔を見れると信じて……そして記憶の深遠へと置き忘れてしまった夢。  
 
   
 
 久しぶりに、その夢を見た。  
 
 
 
 覚醒は、唐突に訪れた。  
 庭に植えられている観賞樹に止まった小鳥の囀りをBGMに、緩やかに朝のまどろみから抜け出していくような日常の目覚めからは、  
遠く逸脱してしまったもの。  
 リモコン一つで局が変わってしまうテレビのように、突然回線が切り替わった。  
 そんな感じだった。  
   
 あれ? こんなにベッド硬かったかな?   
 などと無為もないことをぼんやりとした頭に浮かべながらゆっくりと体を起こそうとして。  
「痛った……」  
 痛覚が送り込んできた左足の異常を脳が捉え、思わず悲鳴を堪えた。  
   
 そうすることによって、漸く普段どおりの思考に戻る。  
 結果、まるで映画のような情景を見せられるとは、想像してもいなかったのだけれど。  
 
「なに、これ?」  
 思わず呟く。  
 
 目に入ったのは、荘厳さすら感じさせていた旅館の面影などではなかった。  
 もちろん細部にその名残は窺える。  
 だけど、完全に姿を変えてしまったその場所を、私は呆然と見ることしか出来ない。  
 
 人の気配は全くなく、どこか別の場所からは、絶えずパチパチと木が爆ぜる音が聞こえてくる。  
 幸運にも私の周辺で激しく燃え盛っている様子は見られないものの、ありえないほどむっとした熱気と、気を抜くと脳まで侵食しようとする  
煙の臭いは、明らかにこれが現実のものであるという認識を私に叩き込んできていた。  
 
「……ちょっと待って、ゲホッ!」  
 混乱して煙を思い切り吸い込んでしまったらしい。  
 涙目になりながらも、煙草を初めて吸ったときってこんな感じなのかしら? などど場違いなことを思う。  
 
 と、見下ろした先で、人気漫画のヒロインを象った人形が、煤に塗れているのが見えた。  
「そんな……」  
 恐怖が襲ってくる。  
 あの人形を大事に持っていた可愛らしいあの子はどうなったのだろうか。  
 こんな大変なことになって、皆は無事なのだろうか。  
 私は、これからどうなるのだろうか。  
 
「いや……嫌よ……」  
 パニックが襲ってくるな、と冷静な自分が判断していながら、かといって止める術なんかない。  
 こうしているうちにも熱気はじりじりと肌を焼いていく。  
 それが、堪らなく怖くなって。  
 
「誰かぁぁぁぁぁ!」  
 普段の負けん気や、見栄なんか関係ない。  
 今はただ、この信じられないような凶悪な現状から目を背けていたくて、がむしゃらに立ち上がり叫ぶことしか出来ない。  
   
 その代償ははっきりとしていた。  
 灼けた空気をまともに吸い込んでしまい、更に激しく咳き込んでしまう。  
 頭は靄が掛かったみたいにぼうっとして、生きるんだという、この場に最も必要な活力がどんどん失われていってしまう。  
 
「ピンチじゃない……早く、助けにきなさいよ」  
 まだ見ぬ誰かに向かって呟く。  
 朦朧としていく意識を繋ぎとめるだけの力は、私にはなかった。  
 
 
 
 
「……さん、ヒナギクさん!」  
   
 誰だろう、私を呼んでいるのは。  
 もう、疲れたのに。どうせ起きたって、またあの地獄を見せられて、絶望するしかないというのに。  
 今更、私ひとりで足掻く気力なんてすっかり失ってしまった。  
 だったら、せめて、静かに――  
 
「ヒナギクさん! しっかりしてください!」  
 視界に光が戻ってくる。傍で叫び、肩を揺すってくる誰かは、無意識の闇へと逃げ込むことを許してくれないらしい。  
 
「良かった……無事だったんですね」  
「え……ハヤテ、くん?」  
   
 まず頭に浮かんだのは、ただ信じられないということ。  
 現状はさっき認識したとおりの地獄。そんな中に、ちょっとタフかもしれないけど、こういうことの素人であるハヤテ君が来てくれるはずない。  
   
 いや、本当にそうだった?   
 わけの分からない教会の地下で奮闘していたのは何のため? 迷子のナギを助けるために、電車から飛び降りたのは誰だった?   
 綾崎ハヤテっていう男の子は、そういう無茶を平気でやっちゃう人なのよ!  
 
「ハヤテ君、よね?」  
 安堵の笑みを浮かべるハヤテ君。そして、私の頬に添えられた、彼の優しい感触。  
 煤けたハヤテ君の頬が、服が焦げる臭いが、私の現実感を急激に喚起させていく。  
 ぼんやりとしていた頭は今や彼の表情をしっかりと捉え、指先は浴衣を握って離さない。  
 
 つまり。私のために、こんなにぼろぼろになってまで助けに来てくれた愛しい人は決して幻影なんかじゃなく――  
 
 
「怖かったよぉ……」  
 痙攣する横隔膜を押さえることも出来ずに、気が付けば、ハヤテ君の胸の中へと飛び込んでいた。  
 絶望的な孤独から脱却できた安心感からの行動? 違う。  
 勿論安堵はある。だけど、彼だから。ハヤテ君がそこにいてくれたからこそ、私はこんなにも満たされているのだと、頭ではなく心で理解できた。  
 自分が刹那主義者だと思ったことなんかないけど、今だけは、全ての状況やしがらみすら忘れて、もう少しだけこうしていたいとすら思った。  
 
 
「いつまでもここにいるわけにも行きません。木造ですから、ここまで延焼が速いと崩れるのも時間の問題です」  
「そうね」  
   
 らしくない姿を見せたのだと取り乱している暇なんかない。  
 生への渇望が燃えているうちに、何とか脱出しなければ。頷いて立ち上がる。  
   
 視点を今までよりも高い位置で固定すると、少しだけ冷静に周りも見渡せる。  
 実際、よく無事だったと思う。  
 恐らく、一気にガスが燃え上がったために、同様に酸素もあっという間に消費され、出来上がった気圧差によって飛ばされたのだろう。  
 倒れていた階段の影は炎の通り道からは死角になっていたみたいで、直接的に炎や熱風を浴びることは避けられたみたい。  
 それでもコンマ何秒かの差だろう。少し歯車がずれただけで、自分はこうして話すことも出来なかったんだと思うと、背筋が凍る。  
 
「痛っ!」  
 体重をかけた左足首から、嫌な信号が流れてきた。  
「捻りましたか?」  
「ええ、だけど心配してもらうほどじゃないわ」  
 怪我には詳しくない。ひょっとしたら酷いのかもしれない。  
 けれど、今が泣き言を言っていられるような状況じゃないってことだけは分かる。  
「……行きましょう」  
 一瞬、私の足と顔を順番に見たハヤテ君だったけど、最後には決意をその表情に表して、力強く言った。  
 
 
「くっ……中々上手い具合にはいきませんね」  
 重い足を引きずりながら、やっとの思いでロビーまで辿り着いた結果がこれだった。  
   
 ハヤテ君が侵入してくる際には、まだ炎が回って来ていなく、比較的容易に入り込むことが出来たらしい。  
 でも、今やそこは人が通ることなど出来ないと、一目で分かってしまう。  
 3階まで吹き抜けの構造をとっていたそこは、滑落してきた瓦礫に埋もれてしまい、外の様子を窺うことすらできない。  
 
「仕方ないか。戻って火の回っていない部屋の窓を使うしか……ヒナギクさん?」  
 ハヤテ君の呟きも、私はどこか上の空で聞いていた。  
 
 分かってはいるのだ。こんな所で呆然としている暇などないのだと。  
 だけど、ここさえ踏ん張ればあとは何とかなるのだと、力を振り絞って足掻いてきた私の精神は、見せ付けられた惨状を前に思いっきり砕けてしまった。  
 じくんじくん、と絶え間なくやってくる痛みが、その絶望に拍車をかける。  
 
「……ダメ、なのね」  
「ヒナギクさん?」  
 ぷつん、と。薄氷の上で私を支えていた何かが千切れてしまう音を聞いた。  
 
「私はここまでみたい。これ以上は足手まといになるし……ハヤテ君、私を置いて逃げなさい」  
   
 自分が嫌になる。  
 最後のプライドがそう言わせたんだろうけれど、気丈な振りをしていながら、その実言っていることは単なる泣き言だ。  
 確かに足は痛いが、命と天秤に賭けてみて我慢出来ないわけがない。  
 
「何を言っているんですか!」  
 強い口調で叱咤してくるハヤテ君。  
 だけどそれも負の方向に囚われた私の感情を逆撫でしてしまい。  
 
「だからっ! 私のことなんかほっといて、早く待っているご主人様のところに戻ればいいでしょ!」  
   
 
 泥沼ってこういうことを言うんだろうな……  
 場違いな癇癪を起こした自分に呆れながら、恐らくは決定的な離別を告げるであろうハヤテ君の返答を待つ。  
 
 やけに長く感じられる沈黙が、そりの合わない相手との対話中に起こった気まずい沈黙の経験と重なって、余計に心が軋んだ。  
 足元を見ているから表情までは分からないけど、きっとハヤテ君も怒っているだろうな……それとも呆れているかしら?  
 
 
 
「……ヒナギクさんでも、そんな風に取り乱したりするんですね。ちょっとびっくりしました」  
「え?」  
 掛けられたのは意外な言葉。  
 どこか安心感さえ含んだその響きは、妙な優しさすら擁している。  
 
 反射的に見たハヤテ君の表情には、苦笑めいた安堵の表情が浮かんでいて、それが一層私を混乱させる。  
 
 
「僕がヒナギクさんを見捨てて逃げるわけがないんです。理由は――まあそのうち言う機会があるやも知れませんが……」  
「……」  
「何があってもヒナギクさんを守るって決意をしたからここに来た。嘘じゃありませんよ?」  
「えう!? ……うん」  
   
 嬉しかった。  
 じわりじわりと言葉の意味が浸透してくると共に、ふつふつと沸きあがってくるのは不甲斐ない自分への怒り。  
 そして純粋な、生への根源的な渇望。  
 弱気の虫はここに置いていこう。決意を込めて、一つ頷く。  
 
 
「でも……」  
「え?」  
 気が付くと、目の前にあったハヤテ君の顔。  
 
 
 
「僕にも、ほんの少しでいいから、勇気を分けてください」  
   
 
 
 躊躇する間もなく、唇に感じる柔らかい感覚。  
 それが、凄く優しくて。  
 ただ触れ合っているだけなのに、本当に何かを受け渡ししているような、共有感すらある。  
 
 呆然とした頭では、ハヤテ君がどういうつもりなのかとか、周りの状況がうんたらとか、考えたことが端から抜け落ちていく。  
 だけど、全てのしがらみを忘れ去ってしまいたくなるような至福のとき。  
 それを本能のままに貪ろうと、目の前の肢体との隙間を埋めようと手を伸ばして――  
 
「あっ……」  
 まるで焦らすかのように、離れてしまった。  
 
 
「あの、えっと……」  
 上気してしまった頬はもう、隠すことは不可能。  
 暗闇でも分かるんじゃないかってくらいに心臓の音は鳴り続けている。  
 不意打ちを受けた箇所に手を当て、反射的に数歩下がると、少し悲しげなハヤテ君の顔が見える。  
 仕方ないじゃない! いくら私だってびっくりするわよ!  
 
「ここを出ないと仕返しは出来ません。ですから今は、脱出だけを考えてください」  
 真顔でそう言われては、返す言葉も無い。ハヤテ君の勢いもあって、私はただ頷くしかなかった。  
 
 
 
 しっかりと握られた手が、熱を帯びる。  
 強引に被せられたヘルメットは視界が狭く、半歩先を行くハヤテ君の表情を窺うことは出来ない。  
   
 果たして、どういうつもりで奪ったのだろう。  
 碌な会話が途切れてしまい、お互いに微妙な空気を感じている現在、考えてしまうのはさっきのキスのことばかり。  
 
 場の勢い、なのだろうか。  
 もしそうであるならば、私はまんまと乗せられてしまったことになるのだろう。  
 憎しみだとかそういう類のものでは勿論ないけれど、あれによって足の痛みはどこかに消えてしまった。  
 弱気の感情なんか、どこに行ってしまったのかすらさっぱりだ。  
 
 
「ヒナギクさん」  
「なに?」  
 久しぶりの会話。  
 
「そういえば、校歌が軍艦マーチの高校があるらしいですよ」  
「知ってるわよ? 岩手県の盛岡一高でしょ?」  
「……」  
「……」  
 何とも微妙な間が空く。  
 
「もしかして、いつかみたいにトリビアで場を和ませようとしてる?」  
 その問いには答えずに、ちょっとだけ握る手に力が込められ、歩幅が広がったのが分かる。  
   
 その微笑ましい照れ隠しを眼前にして。  
「――ああ、そうだったわね」  
 綾崎ハヤテという人間は、優しさと強さの象徴だったことを思い出す。  
 自分と良く似た境遇を持つ彼に、どことなく感じていたシンパシー。  
 そこから抑える間もなく成長してしまった恋心の原点は、この不器用だけどとても暖かい優しさにあったのだと。  
 
「ええと、ヒナギクさん?」  
「ふふ、なんでもないわよ」  
 思わず笑みが零れる。  
 
「ちょっと仕返しは何にしようか考えていただけだから」  
「あー……出来ればお手柔らかにお願いします」  
   
 もう、遠慮なんかするものか。  
 こんなにも、私の中にハヤテ君が溢れているんだから。  
 
 とりあえず、ムードも何もなかったファーストキスの代償を、それを補って余りある2回目で支払ってもらう。  
 どんなに恥ずかしがったって、許さないんだからね!  
 
 
 
「ここは……大丈夫みたいですね」  
 お互いに顔を見合わせて、安堵を分かち合う。  
   
 正面玄関からの脱出に見切りをつけ、炎の中に戻る。それはとても勇気のいることで。  
 そうして漸く見つけた脱出路は、光り輝いてさえ見える。  
   
 充分な酸素が残っている部屋だから大丈夫だとは思うが、バックドラフトが起こらないとも限らない。  
 慎重を期して、そろそろとハヤテ君が窓を開いていく。  
 
「良かった、大丈夫だ。……ヒナギクさん」  
「え、何? きゃっ!」  
 突然後ろから抱え上げられ、思わず足をばたばたとさせてしまう。  
「ち、違います! ただあの、サッシが凄く熱くなっていて、直に触ると多分火傷してしまうので」  
「もう、それなら最初に説明してよね」  
 理由が分かれば拒む必要などない。体重を預けているうちに、足の裏に若草の瑞々しい感触を得る。  
 
 ――助かったんだ。その思いがじわじわとせりあがって来る。  
 思わず肩から倒れこみ、そのまま反転して仰向けに、そのまま手で顔を覆う。  
 
 良かった、本当に良かった。  
 人が集まっている場所からは少し離れているらしく、喧騒をやけに遠くに感じながら喜びを噛み締めている、その時。  
 
   
 
 ドスン、と。そして続けざまに耳をつんざくような破壊音が。  
 
「え……」  
 絶望的な状況から脱することが出来たために、独りよがりになってしまったとでも言うのか。  
 命を張ってまで助けに来てくれた人のことを、一瞬とはいえ忘れてしまった。  
 
「そんな、ことって……」  
 振り返った先に、いるはずの存在は、なかった。  
   
 やっとの思いで見つけたこの脱出経路。  
 それが無残にも、崩れてきた上階の外壁の成れの果てによって、塞がれている。  
 
「ちょっと待ってよ……ハヤテ君、ねえハヤテ君!」  
 危ないとか、そんなことを考えている暇なんかない。頭の中を占めるのは、大切な人の顔が見えない、その焦燥だけ。  
 掌を傷つける鋭利な瓦礫、視界を遮る粉塵。そんな障害を乗り越えて辿り着いた場所は、絶望の住処。  
 
 崩れてしまった瓦礫に押しつぶされた窓は、人が通る隙間なんか残してくれなかった。  
「きゃっ……」  
 大きな揺れと共に、更に崩壊が進んだらしい。  
 けれど、私にこの場を離れるという選択肢はない。  
   
 そんなはずはない、ハヤテ君のことだ、きっとまた変なことやって、何食わぬ顔で私の前にその優しい笑顔を――  
 
 
 
「危ねえ!」  
   
 一瞬の浮遊感。  
 誰かに横抱きに抱えられた感触と、地面に叩き付けられた痛みが同時にやってくる。  
 
 そして次の瞬間に巻き起こる轟音。  
 焦点の合わない目で見た先で、私の大切な全てを押しつぶしてしまった旅館の成れの果てが、断末魔の悲鳴を上げていた。  
 
 
「たちばな……くん」  
 横には盛んに声を掛けてくる橘君がいて。駆けてくる美希たちの姿も見える。  
 けど、そこに一番いて欲しいはずの人の姿はなく――  
 
「嘘よ……だって! 私、何も言ってないじゃない。それなのに、こんな」  
「生徒会長?」  
 震える声、震える指先。その全てが、認めたくない事実を肯定してしまおうとする。  
 
「嫌よ……嫌。ねえ、返事してよハヤテ君、ハヤテ君!」  
「ッつ! マジかよ……」  
 理解を得た橘君の呆然とした呟きが切欠で、何かが切れる。  
 
「嫌ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」  
   
 悲鳴に似た嗚咽が、赤く染まった夜の空に吸い込まれるのを、どこか他人事のように感じる。  
 悲しく木霊する反響が、私の意識を押しつぶしていくのを、何も考えられなくなった思考の片隅で、捉えていた。  
 
 
 
 
 
――ねえ、仕返し、ちゃんと考えているのよ? それなのに、あなたがいないと、何も出来ないじゃない。約束は、守りなさいよ――  
 
 
 
 
 
 
「捜索を打ち切るってどういうことだよ!」  
   
 苦渋の色を隠せない救助隊員の胸倉を掴み、橘君が絶叫している。  
 そんな姿を、私はどこか現実味を喪失した空想の風景のように、ぼんやりと見つめていた。  
   
 軽症者多数なれど、死亡、重傷者ゼロ。――行方不明者、いち。  
 それが、私が経験した地獄がもたらした結末らしい。  
 
 なるほど、あの規模の災害にしてこの被害というのは、奇跡的に抑えられた範疇に入るのかもしれない。  
 だけど、そんな客観論は何の役にも立たない。  
 無邪気な悪意で奇跡を強調する新聞記者には、辟易を通り越して殺意さえ感じてしまう。  
   
 簡素に設置された救急本部の中、渡されたヘルメットをぎゅっと抱きかかえて。  
 ただ待つだけの、長い一日が終わっていく――  
 
 
「……夜間の捜索は二次災害の危険性があります。ここまで建物の損傷が激しく、いつ次の崩落が分からない状況では、とても。  
 悪路のために大型工作機械の搬入がままならない現在、日が落ちてしまえば、手の施しようがありません」  
 彼の無念さは伝わってくる。橘君もその言葉を受けて、力なく腕を放した。  
 
   
 
 盛んに薦められた病院行きを固辞し続けたのは何故か?   
 そんなのは決まっている。ハヤテ君がひょっこり出てくるのを待っていたからだ。  
 そして、彼を一番に出迎えるのは、私じゃなくてはならないから。  
 
 ……ううん、嘘。  
 本当は、私がこの場を離れた瞬間に、彼が本当に消えてしまいそうで。  
 事実として肯定してしまう自分が怖くて、こうやって我侭を通しているだけ。  
   
 ヘルメットを抱える腕にぎゅっと力を込め続ける。  
 そうしていないと、どんどんと恐ろしい想像に囚われてしまって、抜け出せなくなりそうだったから。  
 
 ずっと同じ姿勢でいたために、背中やお尻の辺りには鈍痛があったけれど、それももう、麻痺するくらいに時間は経過している。  
 
 
「桂さんも、安静にしていた方がいいですよ」  
 マリアさんが、ナギを伴ってやってきた。  
 
 朝方にヘリを飛ばして駆けつけてきた彼女は、着陸場所がないと分かると、ホバリングさせているうちに、単身縄ばしごスタントを敢行するという離れ業を見せてくれた。  
 それ以来、片時もナギの傍を離れず、じっと様子を窺っている。  
 
「あまり……心配されているように、見えませんね」  
 泰然とした様相が、いつもとさほど変化がないマリアさん。  
 それが羨ましくて……少し悔しくて。思わず恨み節を混ぜてしまう。  
 けれど、マリアさんの返答は、単純明快だった。  
「ええ、信頼していますから」  
「信頼、ですか?」  
「ハヤテ君はですね、確かに色々と不器用ですけど……ナギを本当に悲しませることだけはしないんですよ」  
 それはそうだろう。だけど。  
「でも! 私のせいでハヤテ君が!」  
   
 溢れる激情を抑えることが出来ない。否、抑えるつもりもない。  
 捌け口を求めた思いをそのままマリアさんにぶつけようとした瞬間に。  
 
「それはハヤテを侮辱することだぞ!」  
 ぱちん、と。  
 力はないけれど、心にずしりと響く音を頬に感じる平手打ち。それと共に、ナギが吼える。  
 
「ハヤテはな……自分の意思で、お前を助けに行ったんだ! どんな結果になったって、ヒナギクに恨み言を言うつもりはないけど……  
 でも、他ならぬヒナギクが、ハヤテの決意を自分の責任なんかに置き換えたりしたら、加害者ぶって悲しんだりなんかしたら、絶対許さないからな!」  
 迸る言葉の奔流を受け、唖然とする。そして、その意味をゆっくりと咀嚼する。  
 
「言いたいことはナギに言われてしまいましたね」  
 マリアさんの言葉。  
 
「桂さんが不安に思う気持ちは分かりますよ。勿論ナギもそう。だけど」  
 強い西日を後光のように背に受けながら、悠然とした姿は変わらず。  
「今は、ただ、祈りましょう」  
 淀みなく言い切った彼女は、名の通り聖母のようだった。  
 
   
 
 どれくらい時間がたっただろう。  
 いつしか帳が辺りを包み始める。  
 マリアさんと、ナギと、私。位置関係はさっきから変わらず、ただ、目を閉じてひたすらに想いを収束させる。  
   
 楽しかったこと、やきもきさせられたこと、いろいろあった。  
 そんな思い出がここで終わっちゃうなんて許せない。  
 
 お願い、届いて!  
   
 今まで以上に強い力を視線に込めて空を見上げる。  
 その先で――きらりと、明星が瞬いた気がした。  
 
 
 
 わあっと。地鳴りのような歓声が背後から聞こえた。  
 勢い込んで振り向いた先には、待ち望んでいた人の姿が――  
 
「やー、何か地下のワインセラーみたいなところに落っこちてしまって、かえって助かりました。結構深かったので、火は回ってこなかったし。ただ、その分出てくるのに難儀しましたけど」  
 ぼやける視界の向こう側で、疲れた笑みを振りまいているのは見間違えようもなく――  
 
「なにやってるんだよ。早く行って来い」  
 どんと乱暴に背を叩いてくるのはナギ。  
「でも、いいの?」  
「今だけは一番は譲ってやるよ。その権利が、ヒナギクにはあるだろ?」  
 その顔は、もうマリアさんの胸に埋められて、見ることは出来ない。マリアさんもまた、その柔和な笑みの縁に涙を浮かべながらナギの肩を抱く。  
「お姫様は、王子様の帰還を祝ってあげなければいけませんからね」  
 そんな言葉と共に。  
 
   
 一歩一歩。  
 震える足を押し込むように、ゆっくりと進む。  
 自分の歩みだとは信じられないほど遅々としたそれは、まるで真綿の中を進んでいくような感覚で。  
 だけど、決して悪いものじゃない。込み上げてくる涙は、嫌なものじゃない。  
 
「ヒナギクさん……良かった」  
 眼前に到達した私に掛けられる、優しい言葉。  
 気の利いた台詞なんて、こうやってハヤテ君を目の前にして浮かぶはずもなく。  
 そろそろと伸ばした手が、ハヤテ君の頬を軽く撫でると、あとは色んな想いを詰め込んだ一言を残すだけ。  
 
「おかえり、なさい」  
「はい。ヒナギクさん」  
   
 そのやり取りが、抑えを解き放つ契機。  
 溢れる全てを体に乗せて、愛しい彼の元へ飛び込む。  
 
 しゃくり上げながらも必死で残した言葉は一つだけ。  
 ただ、ありがとう、と。  
 
 生きていてくれてありがとう。  
 私を助けてくれてありがとう。  
 
 一杯のありがとうを嬉し涙に乗せて、私は歓喜に浸った。  
 
 
 
 
 
 
「そういえば、仕返し。忘れないうちにやっておかないと」  
「ええ! もうですか?」  
「清算を後回しにするのは嫌いなのよ」  
「うっ……分かりました」  
   
 観念したようにぎゅっと目を閉じるハヤテ君。  
 不安がっているのは想像に難くないけれど、多分、その想像のどれよりも斜め上を行っていると思うわよ?  
 
「えっと……ヒナギクさん?」  
「ダメ。もう少し目をつぶっていて」  
   
 ゆったりと、首の後ろに手を回す。  
 ぴくりと反応した肩の動きは、困惑なのか、驚愕なのか。  
 一番近くにいる私にも、その真意は分からないけれど。  
 他の全てから隔絶されたかのような暖かい空間の中、溢れる想いを精一杯に込めながら、唇を寄せていく。  
 
 
 
「あーーーーーーーー! そこまでやって良いとは言ってないぞ!」  
「あらあら」  
「わっ! ヒナちゃん大胆!」  
「ほほう、これは見ものだな」  
「何だ、そういうことかよ」  
「……良かったわね、ヒナ」  
   
 
 
 背後から聞こえる友人たちの声すら私の中でファンファーレに変わって。  
 近づいていく唇と、止まっていく二人の時間を、祝福しているような気がした。  
 
 
 
 
 
 
〜fin〜  
 

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