第三話『無恥の知と無知の恥』
「お嬢さまー! どこですかー?」
あまりに広大すぎる屋敷を歩きながら、ハヤテは途方に暮れていた。
「お嬢さまのことだから、夕食前のこの時間は夕方のアニメを見てると思ったのに…。
これだけ探してもいないとなると…はっ! まさか、お屋敷の中で迷子に…!
っていうのがまったく冗談にならないところがこのお屋敷の恐ろしいところなんですよね」
ハヤテは深々と嘆息する。
「かと言っていなくなったお嬢さまを探しに奥へ行くと、二次遭難して死にかけた挙句、先に戻っていたお嬢さまに
『どこに行っていたんだ、このバカハヤテ!』と怒鳴られるオチが透けて見えますし…」
言いつつ、ナギの部屋の前まで戻った。現場百遍の精神だ。
「お嬢さまー? いらっしゃいますかー?」
尋ねるが、返事はない。やっぱりこの辺りにはいないのか、と諦めかけたとき、
ゴトッ
という物音が、どこかから聞こえた。ハヤテは首をかしげながら音源を探る。
「…ここは、トイレ? でも、鍵はかかっていないみたいだし…」
ハヤテはノブを回そうとして、
「わっ! ば、バカっ! あけるな!」
中からの大声に、慌てて手を止めた。
「お、お嬢さま! 入ってらしたんですか? ええとその、鍵はちゃんとされた方が…」
「う、うるさいな。たまたまだよ、たまたま。…だって鍵したら入ってるってわかっちゃうじゃないか」
ナギはぼそぼそと呟いたが、最後の方の言葉は声が小さかったのでハヤテまでは届かなかった。
「はぁ。というか、もしかして三十分以上もずっとトイレに? まさかお嬢さま、べん…」
「ハヤテ。それ以上言ったら、いくらお前でもぜったいに殺すからな?」
「べん…、べん…、便座に腰かけたらはまって外れなくなっちゃったとかですか? それとも…あっ!」
ハヤテがいかにも正解を思いついたというように勇んでトイレの扉に詰め寄る。
「もしかしてお嬢さま。この前マリアさんに食事中だからといって読んでた『よつ○と』を取りあげられた上、
『この子もこんな風にまっすぐ育ってくれたら』って言われたこと、まだ気にしてらっしゃるんですか?」
「んなわけあるかっ! そんなことくらいでトイレに閉じこもるなんて、私はどんなイジケ虫だっ!!」
扉越しにも真っ赤になって怒るナギの顔が浮かんでくるほどの怒声に、ハヤテは首をすくめた。
さらに今の状況を思い出したのか、怒りの赤に羞恥の朱を混ぜ込んだような怒鳴り声が音量をあげて響く。
「そ、そもそも! レディのトイレの前にいるなんて無作法だぞ! だいたいハヤテにはデリカシーってものが…!」
「わわっ! す、すみませんお嬢さま。すぐにどこかに…」
慌ててその場を離れようとするハヤテだが、それをさらに慌てたナギの声が押し留める。
「あ、いや、や、やっぱり待て! い、いいんだ! そこにいてくれ!…というか、つまり、その、特別に、ゆ、許してやってもいいぞ。
だから、その代わりに私の頼みを聞け」
「なんですか? また変なゲームを買ってこい、とかいうのはなしですからね」
「そ、その話はもういいだろ。けっきょくハヤテには頼まなかったんだから」
ナギは慌てて話を逸らす。
「とにかく! その、簡単なことだ。……声をかけててくれ」
「へ?」
「だから、応援とか励ましとか、そんな…」
「それが、お嬢さまのためになるんですか?」
「な、なる」
「…なら、わかりました。不肖このハヤテ。お嬢さまのためなら法律に沿う範囲で何でも致します!」
「微妙に範囲がせまいのが気にかかるが…。とにかく、たのむ」
「ハヤテ、早く、たのむ…」
トイレの扉越しにハヤテとずれたやりとりをしながら、ナギは妙な声を漏らさないように必死に耐えていた。
夢の中でハヤテと結ばれてからこの方、どうしてもハヤテを意識するようになってしまったナギは逃げ込むようにトイレにこもり、
「あ…く、ぅ」
ひとり、声を殺して自分の性器をいじめていた。
だが、どうしても前回のような快感は得られない。しかもトイレで長時間不自然な姿勢をしていたせいで、
身体の節々が痛かったり身体が冷えてきていたり、というのが地味に切ない気分を助長する。
それでもその場を動く決心をつけられないまま、ナギは敗北感に似たみじめな思いをかみ締めていた。
「ファイトですよ、お嬢さま! なにごともなせばなります!」
ナギにとっては場違いに明るいハヤテの声に、ナギは苛立ちを募らせる。
(まったく、なんにも、知らないで…)
と思うものの、想い人の声に自然と身体は熱くなり、頬は紅潮する。
そのとき、ふいに先日のマリアの助言が脳裏をかすめた。
(好きな人のことを、ハヤテのことだけを、考えて…?)
「お嬢さま。がんばってください」
扉越しのぼやけた声が、のぼせた頭に染み渡り、なんとなく耳元で囁かれているような錯覚に陥る。
「ハヤ、テ…」
それに力を受け、ナギはふやけた指先で自分自身をなぶる。
(すご、い。ハヤテのことを考えただけで、こんなに…)
「あ、ぅ、ハヤ…テ…ぁ」
扉をはさんで二メートルも離れていない場所に、自分の愛する人がいる。その罪悪感と背徳感に、ナギは溺れた。
「うぁ…、なんか、すごく、ぅ…」
押し寄せる感覚の津波に小刻みに身体を震わす。そして、それを助けるように、外からはハヤテの声。
「全部出したら気持ちいいですよー」
あいかわらずの間の抜けた口調。だが、その言葉に、
「…ひ、あ、あぁ!」
ナギは、想像する。
…本当に、全部出してしまったら。
今のこの、淫らな姿を、ハヤテの前に全部さらけ出してしまったら、と。
「ぁ、あ、ぅあ…!」
そうしたらハヤテは軽蔑、するだろうか。
あの優しい瞳をくもらせ、汚れ切った自分に蔑みの目を向けるのだろうか。
それとも、…欲情、するだろうか。
そして身動きのままならない身体にのしかかって…。
「ふ、ぁあああぁあぁう!!」
快感が一ランク跳ね上がる。身体の中で冷たいものと熱いものがせめぎ合って、自分の居場所すらわからなくなる。
「お嬢さま? 今の声…」
訝しげなハヤテの言葉に、応じている余裕などなかった。それでも健気に平静を装い、
「おこ、ったんだよ! ハ、ヤテ。そうゆう、いい、かたっ…!」
「あ、すみません! やっぱり僕、デリカシーが足りないですか?」
「…あたり、まえだっ!」
言い放ち、ナギは自分の邪な欲望を恨むとともに、ハヤテの能天気さを憎んだ。
「んん、んぁ…」
こんなに切なく想っているのに、気づいてくれないで、
「ふ、ふぅ、うぅ…」
ちっちゃい子供だなんて言って、傷つけて、
「ハヤ、テ…。ハヤ…テェ…」
でも、肝心なときはいつでも自分の傍にいてくれて…。
(私は、そんな…ハヤテが…!)
行き場のない想いが渦を巻き、ナギを快感の淵へ誘う。
「お嬢さま。早く済ませて食堂に行ってください。マリアさん待ってますよ」
さすがに焦れてきたのか、ハヤテが少し焦った声を出す。だが、それはナギも一緒だった。
とろ火であぶられるような快感に、ナギはずっと耐えてきた。それは愉悦というより拷問に近い。
それを昇華して、もっと高いところにまで昇り詰めなければ自分は決して解放されないとナギは本能的に悟っていた。
そのために、乱れる呼吸をごまかして、
「食堂に行かなきゃならんのも、マリアが待ってるのも、わかってる。
早くしてほしかったら、そんなことを抜きにして、もっと、はっきり言ってくれ」
自分を解放できる唯一の人に、懇願する。
「私に、…イッて、ほしい、と」
忠実な執事は、愛すべきお嬢さまのため、その通りの言葉を口にする。
「お嬢さま。早くイッてください。早くシてくれないと、僕は…」
その言葉は、ナギに必要なだけの夢と幻想を与え、
「そう、か…んん。わ、かっ、た。ハヤテが、そう、言うなら、言って、くれる、ならぁ…、ん、…すぐに、……イ…ク」
終わりは静かに訪れた。
「ぁ、あぁ…」
ナギの視界が明滅し、世界が白に彩られる。
身体を襲う静かな快楽の激流に、声を殺し、身体を折ってこらえ続け、
「……ふぁ」
気が弛んだ瞬間、…快感とともに何かがほとばしり、右手に熱い飛沫がかかった。
ぴちゃん、ぴちゃん、と右手を伝って水滴がしたたり落ちる。
「あ、もらし…て。…でも、ほんと、だ」
うっとりと、濡れた手を目の前にかざす。
「きもち、いい、な…」
ナギの情欲に煙った瞳には、露にまみれたその手がキラキラと光って見えた。
ナギがトイレから出てきたのは、それから二分後くらいだった。
ある種の気だるさと罪悪感を身にまとって、ハヤテから微妙に目を逸らしながら食堂に向かう。
「急ぎましょうお嬢さま。きっともうマリアさんが待ちかねて…あれ?」
「ど、どうかしたか? ハヤテ」
ハヤテに不思議そうな視線を向けられて、ナギはつい声をうわずらせた。
(もしかして私がトイレでしていたことに気づいたのか?!)
ナギは緊張に身体を硬くするが、
「お嬢さま、その、どこか…」
「ん?」
「服とか髪型とか、変えたりしました?」
「……。いーや、私はいつも通りだが?」
「そうですか。いえ、何だかいつもよりお嬢さまが、その、大人っぽいというか、色っぽいような気がして…。
って、そんなことあるはずないですよね」
「え…。…いや、その。わ、私は元から大人で色っぽいからな。まったく、今ごろ気づいたのか。ハヤテはこれだから…!」
ぶっきらぼうな言葉の代わりに、ツインテールがぴょこんとはねた。
「おかわりっ!」
皿を差し出すナギの勢いに、マリアは目をまるくした。
「今日はずいぶんと食欲旺盛ですね。いつもの倍くらい食べてるんじゃないですか?」
「うん、そうか? ま、私もどんどん大人になっているということさ。三日会わなければ目を皿にしろ、とかそんなことわざもあるし。
ふふ。今の私には刻が見えるよ。この分ではサイコミュを扱える日も近いかもしれんな」
「…いえ、そういういつもの病気はともかくとして、ナギとはほんの一時間前に別れたばかりじゃないですか」
「そう言うが、異世界から戻ってきた主人公なんてみんなそんなもんだぞ?」
「…マンガの常識を日常に適用しないでください」
マリアは料理を取り分けながら、
(それしても、本当に何か相当いいことがあったんでしょうね。
まあ少なくともそれが誰に関係してることなのかは、わかりやすすぎるくらいわかりますけど)
胸を張るナギを微笑ましそうに見つめているハヤテに視線を送る。
『ああお嬢さまあんなにはしゃいじゃって。まだまだ無邪気だなぁ』
と語っているようなその顔から察するに、ナギのご機嫌の理由が自分にあるとは少しも考えていないようだった。
(いつものことながら。ハヤテ君もナギとは違う意味で無邪気な方ですねぇ)
そうやってマリアが見守る中、ナギがハヤテの視線に気づいて、
「えへへ」
とはにかんだ。何かを意識した仕種でこれみよがしに髪をかきあげてみせる。
それを見たハヤテはさらに笑みを深くした。まるで子供を見る親のよう、というより元気な孫を見るおじいちゃんのような表情だ。
(うーん。はたから見ているだけで、なんとなくふたりがかみ合っていないように感じるのは、どうしてなんでしょうか…?)
ひとり微妙な表情のマリアを置き去りにして、その日の夕食は終始明るいまま幕を閉じた。
夕食後。ナギは食器を片づけるマリアに近寄っていった。
「なぁマリア。このあと一緒にフロに行かないか?」
「お風呂ですか? また、どこかのおかしな効能のある温泉でも探しに?」
「ちがうちがう。家のフロだよ。ダメか?」
「あら。めずらしいですね。ナギからそんなことを誘ってくるなんて…」
「い、いやならいいんだぞ。私だってべつに、どうしてもってわけじゃ…」
ある意味で素直すぎるナギの態度にマリアは苦笑した。
「いやだなんて、そんなこと一言も言ってないじゃないですか。ええ、もちろん構いませんよ」
マリアは一転くもりのない笑顔で答え、ということで、
三十分後。ナギとマリアは風呂場にいた。
「でもよかったんですか、こっちで。せっかく大浴場があるのに…」
「いいんだよ。こっちの方が狭い分ふたりで話がしやすいし、あっちはときどき熱くてかなわん」
「あはは。それが本音ですか」
「笑うなよ。けっこう切実なんだから」
言いながら、ナギはマリアを盗み見る。
お湯をはじく玉の肌に、大きいとまでは言えずとも意外に豊満な胸。なだらかなラインを描く背中に、スッと細い腰。
無駄な肉のないお腹には慎ましいへそがついていて、そしてその下には…。
ザバァ!
「…ナギ?」
何を想像したのか、真っ赤になったナギは文字通り頭を冷やすために水をかぶり、マリアを驚かせた。
照れ隠しにすごい勢いでしゃべり出す。
「ま、マリア! あらためて言うが、き、昨日は助かったよ」
「もう。気にしないようにと言いましたよ? お互いにあのことは忘れて…」
ナギは聞いてない。マシンガンのように立て続けに話し出す。
「しかし見直したぞマリア。マリアって常識あるように見えてかなり偏ってるから、
こういう系の知識はそこらの小学生レベルなんじゃないか、とか思ってたけど、案外人並みに経験してるんだなー」
「あははは。どうも」
マリアは引きつった笑みを返す。
(しょ、小学生、ですか? この子はけっこうズケズケと物を言いますねー。
ま、まあこれでもほめてくれてるみたいですし、今は文句は言わないですけど)
「考えてみればマリアも今どきの十代だしな。オナニーくらい、してない方がおかしいよな」
「え、ええ…?」
中途半端にあいづちを打ちながら、マリアは内心首をひねっていた。
(あ、あれ? おなにぃ…ってなんでしたっけ? 聞いたことはあるような、でも何やらあまり耳慣れない単語が…。
というかそもそも、私ナギにそんな話しましたっけ?)
「こういうことははずかしいから普段は言わないようにしてるんだが今日は特別だ」
「はい? で、ですから、昨日のことならもう…」
「あ、あのとき、好きな人のことだけ考えろ、って、アドバイスしてくれただろ?
この前も、その、マリアの助言通りにしたら、なんていうか、すごくうまくいったんだ。だから…」
キラキラと星の舞い散る瞳で見据えられ、
「こ、これからも、頼りにして、いいかな?」
ぶっきらぼうだが心のこもった言葉をかけられ、マリアは完璧な笑みで応えてみせるしかなかった。
「え、ええ。もちろんですよ。ナギの悩みなら、私の悩みも同じですから」
それを聞いたナギはちょっとだけもじもじしながら、上目遣いに、
「聞きにくいようなこと、っていうか、その、お、オナニーとかのこと、でも?」
マリアは躊躇しなかった。
「当然です。三千院家のメイドとして、私はおなにぃなんてとっくにマスターしていますから…」
(こ、これは何だか、いつものハヤテ式泥沼の予感が…)
それからもめずらしくワイワイとはしゃいでしきりにじゃれついてくるナギを片手間にあやしながら、
マリアはずっとあることを考えていた。
風呂あがり。
手早く髪を結い直し、気合を入れる意味もこめてきっちりといつものメイド服をまとったマリアは、
ある場所を目指して進んでいた。
歩く度にうなじからは湯気を、髪からはシャンプーの香りを撒き散らしながら、前だけを見つめて歩く。
「こうなったら、やはりもう恥を忍んで誰かに聞いてみるしか…」
そして、マリアの意外と狭い交友関係の中では、こういうことを相談できる人間など一人しかいないのだった。