白皇学院正門前。  
「それじゃあ、また明日ね」  
「はい。また明日」  
そんな言葉を合図に、繋いでいた手が離れる。  
名残を惜しむような淡い温もりが、夜の冷たい空気に溶けて消えていく。  
そしてハヤテ君の手にはナギのノート、私の手には教室のカギだけが残った。  
「……」  
「……」  
さっきまで握り締めていた手のひらの温かさとはかけ離れた金属の硬さに、ほんの少しだけ寂しさを感じてしまう。  
本当は一緒に帰りたかったけど、ハヤテ君は早く戻らないといけないし、私にはまだここでやらなきゃいけないことがある。  
「…………」  
「…………」  
だからここでお別れ……のはずが、なぜかそのまま見つめあう私たち。  
どうやらお互い相手を見送ろうとしたせいでどちらも動けなくなったみたい。  
……これは、意地でもハヤテ君を見送らないと負けのような。  
「……………………」  
「……………………」  
……ああもぉ、早く行きなさいよ!  
「………………………………」  
「……………………えーっと」  
困った顔をしながら、それでも動かないハヤテ君。  
まったく、変な所でガンコなんだから。  
ってか、それなのに見ていて意地とか決意とかを全然感じさせないのもある意味すごいわよね。  
むしろなんと言うか……隙あり、って感じかしら?  
「ん…………っ」  
「っ……ふぁっ……ヒ、ヒナギクさん!?」  
「それじゃ、またね!」  
不意打ちで少し長めのキスをして、すぐさま駆け出す。  
本当はもう少しハヤテ君の驚いた顔を見ていたかったけど、そうすると私の顔が赤くなっているのも見られてしまう。  
……それにしてもあんなにカワイイ顔をされると色々複雑な気持ちになるわね。  
さて。  
不意打ちに成功したのは私で、見送ることが出来たのはハヤテ君。  
だから今回は―――引き分けということにしておこう。  
 
冬の夜気にも消えない熱を頬に感じながら、校舎へと入る。  
「誰もいないみたい……ね」  
目的地は宿直室……の、隣の部屋。  
「えっと、確かこのあたりに……あ、あった」  
浴室への入り口を横目に、脱衣場に備え付けられた洗濯機を探す。  
理由は……その、濡れたままのスカートとスパッツ。  
他はとりあえず無事だけど、これだけはそのままだと帰れないくらいにハヤテ君の……とか、私の……とかで、ぐちゃぐちゃ、に……  
「えーっと……洗剤洗剤、っと」  
思考に邪魔されないよう行動をわざわざ口に出しながら洗濯を始める。  
洗濯機にスカートとスパッツ、ついでにハンカチも放り込み、洗剤を入れて、スイッチを押して……後は乾燥まで全自動。  
とたんに多少大きめの音を出しながらドラムが回り始める。  
「それにしても大きな洗濯機よね……4500リットルって、緞帳でも丸洗いできそう」  
考え事をしないようわざとどうでもいいことをつぶやいてみたりして。  
そのままなんとなく洗濯機を見つめ続ける。  
ぐるぐる回るスカートを見ていると、目まで一緒に回ってしまいそう。  
……さて、いつまでもこうしていてもしょうがない。  
とりあえずこれからシャワーを浴びて、それからお姉ちゃんたちの夜食を作りに―――  
「……ヒナ?」  
「ひゃあっ!?」  
突然背後から聞こえた呟きに突き飛ばされるように飛び上がる。  
崩れ落ちそうな体を洗濯機で支えながら慌てて首を背後に回すと、いつもより眠たげにまなざしを細めた美希がいた。  
「何か音が聞こえたから来てみたら……何してたの?」  
「それは……」  
何をしてたって、えっと……さっきまでハヤテ君を探しに旧校舎に行ってて、そこでオバケに襲われて、ハヤテ君に助けられて、  
いろんな話をして、それから……シンデレラも驚きのスピードでオトナの階段を……って、そんなこと言えるわけないじゃない!  
よく考えたら、私さっきまでものすごいことしてたような……  
(『いいわよ。ハヤテ君になら……何されても……』)  
―――う。  
(『だから……ハヤテ君のワガママなとこ、私に教えて?』)  
―――うわ。  
(『…………………………………………大好き』)  
―――うわぁ。  
「…………」  
「…………」  
洗濯機の中ではスカートがぐるぐると回っていた。私の思考も一緒にぐるぐると回っていた。  
「え、えーっと、その、これは……」  
「ヒナ……」  
これだけは回らない舌をまごつかせる私を、美希は切なげな瞳で見つめる。  
「私の見ていない所でヒナが……ヒナが……」  
そのまま痛みから目をそらすように顔を伏せ、苦しげな声で大げさに首を振りながら、それでも惑いのない口調で、言葉を続ける。  
ま、まさか何があったかもうばれてる?  
「―――ヒナがストリップを!」  
「違う!」  
なんでいきなりそうなるのよ!  
思わず大声を上げた私に、美希がゆっくりと指先を向けて……あ。  
私、今、下に、何も、穿いて……ない。  
「…………」  
「…………」  
……どうしよう。  
「え、ええっとこれはだからつまりそう! おフロ! 旧校舎がホコリっぽかったからおフロに入ろうとしてて!!」  
「……ほぅ」  
自分でも挙動不審と感じる態度で、あからさまに疑わしげな美希の視線を置き去りに浴室へと飛び込む。  
すぐさま勢いよく蛇口をひねり、お湯になるのも待たずに頭からシャワーを浴びる。  
けれどそんな冷たいシャワーも、頭の熱を冷ましてはくれなかった。  
 
「……ふぅ」  
眠れないまま迎えた、いつもよりまぶしく感じる朝日の中を、いつもより重い足取りで学院に向かう。  
寝不足のせいで赤くなった目と、疲れで暗い顔色。頭がズキズキと重いのに、妙に浮き足立つ感覚。  
こんな不摂生な姿で登校するのは憂鬱だけど、さすがに休むわけにもいかない……というか、今日休むと美希が何をするかわからないし。  
「おはよう、ヒナ。何だか眠そうね?」  
「おはよう……なんでそんなに元気なのよ」  
校門前で待ち合わせていたように―――待ち構えてたんだろうけど―――美希と合流する。  
「ま、やることがあるし……ね」  
そう言いながら美希は不敵に笑う。  
やること、ね……それは挑戦と受け取ってもいいのかしら? こうなったら意地でも隠し通してやろうじゃない!  
「覚悟しなさいよ、美希」  
「ふ……ヒナこそ、覚悟はいい?」  
ああ、なんだろう、なんだか妙に面白い。微妙に会話がかみ合ってない気がするけど……面白いしいいわよね、うん。  
「あ……」  
そんな風に足元と視線とついでに思考をふらふらさせていると、校門前に3人の生徒を見つけた。  
執事服と、普通の制服と、和服のグループ。  
いろんな生徒がいる白皇だけど、私の記憶が確かならこの組み合わせは1つしかない。  
その中でも一際目立つ、幸せそうな笑顔を同行者に振りまきつつスキップ寸前の歩調で進む執事服の生徒が、私に気づいた。  
あれはやっぱり、昨日のことが原因よね。いや、絶対にそうだって決まったわけじゃないけど、多分きっと。  
……どうしよう、何だかすごく嬉しい。  
「あ、おはようございます。ヒナギクさん♪」  
幸せに緩んだ笑顔で執事服の生徒―――ハヤテ君が、私に気づいて挨拶を投げかけてきた。  
思わず私も笑顔で……って、私まで笑ってたら何かありましたって言ってるようなものじゃない。  
だからここはあくまで普通に、何事も無かったようにしないと。  
勝手に緩みそうになる頬を慌てて引き締め、内心が出ないように注意しながらハヤテ君をじっと見て、それから慎重に挨拶を―――  
「お は よ う」  
「―――へ?」  
……なんでこんな不機嫌そうな声になるのよ!  
低く平たく重い声。我ながらとてつもなく理不尽で、それだけに威圧感のある口調。そんな私を見てハヤテ君が固まる。  
お、落ち着くのよ私! 普通に挨拶するだけなんだから、いつも通りにすればいいの!  
そう、いつも通り、いつも、通りに……あれ? ……『いつも通り』って……どんなのだったかしら?  
そもそも、よく考えたらハヤテ君に初めて会ったのって今月のことだし、まだ『いつも』って言えるほど話とかしてないし……  
それにあんなことがあったのに全くいつも通りなのもそれはそれで……おかしい……ような……っ!?  
「じゃ、じゃあ私、生徒会の仕事があるから!」  
「あっ……ヒナギクさん!?」  
迂闊にも色々と思い出してしまったせいで、どうしていいかわからなくなる。  
そのまま慌てる心にせかされるように、足を動かし駆け出していた。  
 
「私、何やってるのかしら……」  
駆け込んだ生徒会室で、机に突っ伏す。  
「ハヤテ君、絶対変に思ったわよね……」  
そもそも美希があんまり聞きたがるからつい隠しちゃったけど、よく考えたら別に全部隠す必要もなかったような……  
睡眠不足で判断力が鈍っていた、なんて言い訳にもならない。とにかく、後でちゃんと話をしないと。  
「あ ……ヒ  クさ 、 っきはど  たんです ?」  
落ち着いて……普通に、普通に……まぁ、他の人と同じように、ってのも変よね。うん。  
「そ 、僕が何  たな 謝  ます。 から、ちょ  話を……」  
だ、だからもっとこう……こ、恋人らしく、例えば……  
昨日はあれからどうしてた? とか。  
やっと二人きりになれたわね、とか。  
すきすきだいすきあいしてる、とか……  
「って、そんなことできるわけないじゃない!」  
「うぁ! す、すみません!!」  
―――え?  
「あの……すみません、ヒナギクさん。邪魔して……」  
え? え??  
「それじゃあ……失礼しますね」  
目の前の幻が幻聴を発し、そのまま幻影がエレベーターで降りていく幻覚を見た……じゃなくて。  
「なんで……ハヤテ君が?」  
遅すぎた問いかけは独り言になって、扉にぶつかり消えていった。  
 
それから、結局ハヤテ君と話せないまま放課後になってしまった。  
休み時間にハヤテ君のクラスに行っても見つからなかったし、美希に聞いても知らないみたいで行方知れずのまま。  
こんな日に限って誰かの陰謀かってくらいに生徒会の仕事も多くて、全部片付けてたらいつの間にか放課後に。  
この時間だとハヤテ君はもう帰っちゃったかな、と思いつつ一応教室を覗いてみたけどやっぱりいなくて……しかたなく学院を出る。  
それでもなんとなく視線を漂わせていると、朝と同じく校門前にたたずむ美希を見つけた。  
「お疲れ様、ヒナ。今日は遅かったのね」  
……で、そんな遅くまで美希は一体何をしていたのかしら?  
「そう? いつも通りだと思うけど」  
まぁ、全部隠す必要はないのよね。うん。  
だから私はちゃんと話をしようと口を開き―――  
「ところでヒナ。せっかくだし、どこか寄り道していかない?」  
「……別に、いいけど」  
そのまま黙って歩き始める。  
なんだか今日は調子が出ないわね……間が悪いというか、かみあわないっていうか。  
そんな弱気は私らしくないって思うけど、そもそも何に対して弱気になってるかもわからない。  
だから私は流れのままに軽く頷いて、行き先を美希にまかせて歩みを進めて……  
でもやっぱりそれは間違いだったみたい。  
「……それで、なんでこんなところになるわけ?」  
煌びやかに輝く空間。  
レースとフリルで彩られた、パステルカラーの世界。  
そこは近場で一番大きなランジェリーショップだった。  
過剰に設置されたライトにカラフルな商品が明るく照らされる店内は、まぶしすぎてめまいがしそう。  
あんまりぴかぴかしすぎてて実はちょっと苦手なお店なんだけど……ま、今日はいいか。  
「いいじゃない、たまには」  
「……まぁ、いいけど。ちょうどよかったし」  
美希の理由になってない答えをあきれた口調で流しつつ、店内へと入る。  
「ふぅん……ところで、昨日は旧校舎で何してたの?」  
「え? ……べ、別に何も?」  
話の流れを無視した唐突な直球に、何とか無表情を装う……ちょっと白々しかったかしら?  
「……ま、確かに何も見つからなかったけど」  
そう言いつつ納得いかないって顔をする美希。  
どうやら旧校舎を見てきたみたいだけど……いつの間に。  
「じゃあ、いいじゃない」  
「……だからおかしいんじゃない」  
ん?  
えーっと……どういうことかしら。  
「あ、これなんてどう?」  
そんな疑問を置き去りにして、美希は話題を変えてしまう。  
雑談っていうのはそういうものだけど……なぜか、ほっとしている自分に気づく。  
「ああ、そっちはいいの」  
まずはこちらからとばかりに指差されたブラジャーから視線をはずし、ショーツを順番に見ていく。  
「? なんでそっちだけなの?」  
「…………」  
美希の言葉を無視してそのまま順番に見ていく私。そんな態度を無視して私をじっと見つめる美希。  
……どうしてかしら。妙に強いプレッシャーが……  
「……だ、だって、その……スパッツの下にも穿くものらしいじゃない?」  
「ああ、やっと気づいたのね」  
恥ずかしさを隠せるくらいに声を小さくして呟く私に、当たり前の顔をして言葉を返す美希。  
「……知ってたなら教えてよ……って、何で知ってるのよ!」  
「まあまあ……で、どういうのにするの?」  
なんだかごまかされてる気がするわね……色々と。  
後でしっかり問い詰めておく必要があるかしら?  
 
「別に、こんな感じに普通の……」  
そう言いながらその辺に並べられているものを適当に指差す。  
……って、なんでそんなあきれたような顔されなきゃならないのかしら。  
「ヒナ……それは『普通』じゃなくて『地味』って言うのよ?」  
……だって私が可愛いって思うやつはいつも『似合わない』とか言うじゃない。  
「む……じゃ、じゃあ、どんなのが普通なわけ?」  
目の前の口元が、それはそれは楽しそうに『にやり』と笑みの形を作る。  
「そうね……これなんてどう?」  
そうして差し出されたのは……な、なんで黒い生地なのに向こう側が透けて見えるのかしら。  
「そ、そんなヒワイなの穿けるわけないじゃない!」  
「そう? じゃあ、こっちは?」  
「……何それ?」  
楽しいって全力で主張するように過剰な笑みのまま再び差し出された……えーっと……あえて言うなら、紐?  
「それ、着てる意味ないんじゃない?」  
「ま、衣類としては無意味ね」  
「衣類としては……?」  
他にどんな意味があるって言うのかしら。  
首を傾げる私の前で、美希があきれたような、安心したようなため息をついた。  
「……なんだ。本当に着るものを増やしたいってだけなのね」  
「他に何があるって言うのよ……」  
「あ、面白そうなのが」  
「人の話を聞きなさいよ……って、まさかそれ……」  
「『寄せて上げるは女の英知』らしいけど……そうなの?」  
「知らないわよ!」  
怪しげなキャッチコピーを読み上げながら特殊な機能を持つブラジャーを差し出してくる。  
こういう話題は私が怒るって美希は知ってるはずなのに……どうしてわざわざ話してくるのかしら。  
なんだか乗せられてる気がして癪だけど、目がじっとりと据わっていくのを止められない。  
「あ、こんなのも」  
「だから……話を聞いて」  
「シリコン製パッド、セットで6万円だって。本格的ね?」  
気持ち悪いくらい精巧なパッドをゆさゆさと揺らしながらくすくすと笑う美希。  
そんないつもより無邪気な態度を見ていると、怒る気もなくなってしまう。  
まったく……  
「いいわよ別に。だってそれ、意味ないでしょ?」  
「? ……ああ、確かにこれをつけても胸自体が大きくなったりはしないけど」  
「いや……それもそうなんだけど……」  
そりゃ、ごまかすだけで無意味だからとか、こういうのを使うとなんだか負けた気がして嫌だとか、そういう理由もあるけど……  
「今更見栄張ってもしょうがないじゃない」  
ホント、今更よね。まぁ、もしもっと前から付けてたとしても、結局昨日みたいなことをしたらばれちゃうわけで……  
……いや、今はそんなこと思い出してる場合じゃないから。だから思い出すな私!  
「……………………そう」  
……あれ?  
上がる熱を閉じ込めるように頭を抱えた私の前で、突然美希の瞳が、遠いものでも見るように眇められた。  
「……やっぱりそうなんじゃない」  
その目は何もかも見透かすように澄み渡っていて……それなのにどこか切なげで。  
私じゃないどこかに視線を向けたままこぼれた呟きは、それでも私に向けられていた。  
「どうしたの?」  
「別に。じゃ、そろそろ行きましょうか」  
そう言い放ち、もう用事は済んだって態度でまっすぐお店を出て行く美希を慌てて追いかける。  
「ちょ、ちょっと美希、どうしたのよ!」  
「なんでも……ないわ」  
落ち着いた平坦な声で言いながら、その言葉とは裏腹に前を向いたまま歩調を速める美希。  
結局美希は、自分のを選ぼうともしなかった。  
 
帰り道。  
傾く西日に照らされて、街は茜色に染まっていた。  
燃えるような色をした、冷たい世界。  
冷たく乾いた硬い風が、肌を擦り吹き去っていく。  
あべこべの世界。見た目の印象が、そのまま本質だとは限らない。  
そんな当たり前のことが、なぜか切ない。  
「……ふぅ」  
世界の寒さが辛いのか、わからない冷たさが嫌なのか、それとも単に温かいものを見たかっただけか。  
何のためについたのかもわからないため息は、結局何にもならずに消えていった。  
そんなことが、なぜか、嫌だなと、思った。  
「悩みでもあるの?」  
「別に、なんでもないわよ……」  
「ま、ヒナなら大丈夫でしょうけど」  
「……話振っておいていきなり結論出さないでくれる?」  
「いつも1人で決めてさっさと行動する人が何言ってるのよ」  
「そんなこと……」  
唐突に始まった会話は、途切れる時も突然で……思わずついたため息が、白い靄になって漂う。  
ひょっとしたらさっきの私はこんな風に悩み事も吐き出してしまいたかったのかもしれない。  
「ホント、勝手なんだから……」  
そう一言呟いて、美希はまた黙り込む。  
「美希こそ、さっきはどうしたのよ」  
「どうもしないわよ……ところで、そろそろ行かなくていいの?」  
「行くって、どこに?」  
そしてまた変わる話題。まるで白く揺れる吐息のように、頼りなく浮かんでは消える。  
「ハヤ太君のところに決まってるじゃない」  
「な! な、なんで私が!?」  
唐突な直球に大声を……しまった、油断した。  
「だって、付き合ってるんでしょ?」  
「…………」  
とっさに否定できなかったのは、どうしてだろう。  
動揺してしまったなら否定は無駄だと思ったのか。  
たとえ嘘でもそんなことを言いたくなかったのか。  
それとも、目の前の瞳があんまりにもまっすぐに私を見つめていたからだろうか。  
その瞳は壊れ物みたいに繊細な色をしていて―――それはきっと、壊れやすい感情で出来ているんだと思う。  
だから……素直に答えることが出来たのかもしれない。  
「……どうして、わかったの?」  
「……別に。ただのカンよ」  
つまり確信はなかったってことかしら。  
珍しいわね、いつもはそういうこと言わないのに。  
「……そう。でも、今日はいいわ。明日になれば、また会えるんだし」  
そう言ってまた小さく溜息。それでおしまい。  
吐き出そうとしたはずの悩みは、まだ胸の中に残っていたけど……それもきっと、明日には消えてくれるだろう。  
 
「じゃあ、明日まで待てるの? それで後悔しない?」  
「後悔って、そんな大げさな……」  
だけどそんな後ろ向きな気持ちを叱るような強い言葉で、美希は会話を繋ぎとめる。  
まるで今途切れたら、もう二度と話せないと思っているみたいに。  
「なら、もしも……」  
そう言って美希は小さく、息継ぎをした。  
両手で軽く胸元を押さえながら、何かを飲み込むように、音も無く―――そっと。  
そうして祈りのようにささやかに、けれど宣誓のようにはっきりと、美希は言葉を続けた。  
「もしも、明日、ハヤ太君がいなくなってたとしたら?」  
「―――ッ!」  
人が突然いなくなるなんてあるはずがない。  
普通ならそう笑い飛ばしてしまうような仮定。けれどそれは、私にとって禁句に近いものだった。  
美希だって、それは知ってるはずなのに。  
「な、なんで……そんな……」  
無意識に握り締めた手が震える。それが怒りによるものか、それとも別の何かのせいなのかすらわからない。  
「そんな、こと……」  
思わず首を振りながら、無理やりに言葉をつなげる。  
否定しようとしたのか、そうじゃないのか、それすらもわからないまま。  
「もしそうなったら……どうするの?」  
震える私とは逆に、体も、手も、視線すら凍らせたように動かさず言う美希。  
「そんな、こと……」  
何も考えられないまま、息を吐き出す。悩みごと消し去れると信じるように。  
だけど結局出て行くのは吐息ばかりで、呼吸を繰り返すたびに吐き出せない悩みがたまっていくような気がして……  
「…………っ」  
胸の中が悩みで満たされる。これ以上息を吐き出せない。だけど吸うこともできない。  
どうしようもないまま固まってしまう。どうすればいいのかわからなくなる。  
そんなことないって言いたかった。  
大丈夫だって、何があってもずっと一緒だって。  
「もし、そうなっても……」  
でも、私はそうじゃないことを知っていて……それがずっと怖かった。  
だから、そんなことないなんて言えるはずがない。そのことがたまらなく苦しい。だけど―――  
「だけど、好きだから。だから……大丈夫」  
結局、言えたのはたったそれだけ。  
けれど、それは間違いなく信じられるもので―――ああ、そっか。  
それだけで、よかったんだ。  
「……そうね。そうだったわね」  
自然と、笑みがこぼれる。小さくついた息は、もうため息じゃなかった。  
さっきとは違う理由で、拳を握り締める。  
そうして軽く頷いて―――私はやっと、いつもの私になった。  
「……ん。もう、大丈夫みたいね」  
目の前の瞳が淡く溶ける。  
「じゃ、行ってらっしゃい」  
そうして美希は、重ねた両手を解いて、小さく微笑んだ。  
苦笑にも満たない苦さを少しだけ乗せた、けれどとても清々しい笑顔。  
それを合図に、私は走り出した。  
 
時計台の前。ナギの家でマリアさんから聞かされた場所に、探していた人影を見つけた。  
「ハヤテ君!」  
ゆっくりと振り返り……  
「こんばんは、ヒナギクさん」  
待ち合わせの相手に告げるように気軽に、けれど祈りのように真摯な声で。そう言ってハヤテ君は、淡く穏やかに微笑んだ。  
「あ……その……」  
全力で走って来たせいで息は切れてるし髪は乱れてるしみっともなくてしかたない。  
だけど、言わないと。その思いに突き動かされるように、勢いよく深呼吸をひとつ。  
「よかった……やっぱり、ヒナギクさんは僕が思ってたとおりの人でした」  
けれど私よりも先に、ハヤテ君はとても優しい声で、そう言ってくれた。  
「そんな、こと、ない。だって……」  
美希がいなかったら、今頃私は家にいたはず。明日にしようとあきらめて、ハヤテ君をひとりぼっちにさせてしまうところだったのに。  
「いいんです。だって、来てくれましたから」  
そう言って、ハヤテ君は私を迎え入れるように抱きしめた。  
全部わかってくれて、何もかもを受け止めてくれるって確信。  
柔らかな笑顔に、揺るぎない腕に、温かな体温に、すがってしまいそうになる。  
けど……だけど。  
「よくないわよ」  
「え?」  
見上げた顔。思わず息を止めてしまいそうなほど近くにある、ハヤテ君の顔。それをまっすぐに見つめて、はっきりとそう口にする。  
「お願いだから、ちゃんと謝らせて」  
これは譲りたくない。だって、そうしないとこれから先、私はハヤテ君と一緒に何かをすることができなくなってしまう気がする。  
それは何の根拠もないことだけど……それでもきっと、確かなことだと思うから。  
だから私は背筋を伸ばし、驚いたように、けれど嬉しそうに微笑むハヤテ君の瞳を見つめながら言葉を紡ぐ。  
「その……今日は、ごめんなさい」  
そのたった一言に体中の空気を使いきったように、また大きく息をつく。  
そんな私にハヤテ君はほっとしたような、微笑するような小さな吐息で答えてくれた。  
「いいんです。僕だって……謝らないといけませんから」  
「ハヤテ君が謝らなきゃいけないことなんて、何も無いじゃない」  
「ずるいですよ、ヒナギクさん。ヒナギクさんは僕がいいって言っても謝ってくれたのに、僕には謝らせてくれないなんて」  
首を振る私に、照れ隠しのように一瞬だけ悪戯っぽく笑った後、穏やかな、けれど真剣な声になって、ハヤテ君が言葉を続ける。  
「今日、ヒナギクさんに嫌われたと思った時……僕はそれを、納得してしまったんです」  
「……え?」  
「僕はあんまり人に好かれるような人間じゃありませんし……嫌われてもしかたない、って」  
「そ、そんなことない!」  
思わず発した否定の言葉。けれどハヤテ君は変わらず穏やかに言葉を続ける。  
「ヒナギクさんが僕のことを嫌うなら、あきらめなきゃって思ったんです。そう考えるのは苦しかったけど、いつものことでしたから。  
 知ってたはずなんです。そうすれば簡単に楽になれるって。でも、それは間違ってるって言われて……言われるまで、気づかなくて。  
 気づいたらヒナギクさんに逢いたくなって、お屋敷を飛び出してここに来て。連絡もしていないのに、来てくれるはずがないのに」  
ハヤテ君は静かに首を振り、消えてしまいそうなほど小さくかすれた声で呟く。  
「だけど、どうしてだか、そんな風に思えなかったんです。ヒナギクさんは絶対に来てくれる、って」  
ゆっくりと、確かめるように途切れ途切れに。  
「だから、思ったんです。僕って結構、ワガママなやつだったんだなって。  
 勝手に嫌われたって落ち込んで、勝手にあきらめないで、そして勝手に、信じてる。  
今にも泣き出しそうな、笑顔のままで。  
「僕は、ヒナギクさんが好きです。しかたないなんて、あきらめたくないです……!」  
まるでそれがいけないことであるかのように、痛みに耐えるような表情でハヤテ君が声を絞り出す。  
「すみません、自分勝手で」  
そんなの、謝るようなことじゃないのに。  
それはきっとハヤテ君の優しさで、強さで、そして脆さだった。  
バカだなって思う。悪いのは私なのに。もっと楽な考え方をしてもいいはずなのに。  
でもなぜか―――私はそれをいとしいと思った。  
「……やっぱりハヤテ君が謝らなきゃいけないことなんて、何も無いじゃない」  
だから、ちゃんと、言わないと。  
「あのね」  
ごめんなさいじゃ届かない。ありがとうじゃきっと足りない。  
だから私は手を伸ばす。この気持ちが伝わるように。  
「だいすき」  
触れた頬は冷たくて―――暖めたくて、キスをした。  
 
エレベーターの中で、ずっと手を繋いでいた。  
まるであの時みたいに、ハヤテ君の体温が伝わってくる。  
どうしてだろう。触れているのは手のひらの大きさ分だけなのに、こんなにも温かくて、それが無性に気恥ずかしい。  
そんなことを考えながら生徒会室に入って、2人並んでソファーに座る。  
手のひらを引き寄せ腕全体で繋ぎ合わせる。  
触れ合う肩。交差する視線。足元さえもくっつけて、半身で寄り添う。  
ハヤテ君の瞳が不安げに揺れる。だから私は小さく頷く。  
そのまま全身で折り重なるまで、さほど時間はかからなかった。  
「ふぁ……っ、む、んっ……ん」  
そして、たくさんのキス。短く、けれど何度も繰り返す。  
「んん……んちゅ、んく、ちゅぱ、ん、む……ふぁっ」  
息継ぎの合間にキスをしていたつもりが、キスの間に息継ぎをするようになっていく。  
「んっ……あ、ぁ―――はんっ!」  
ハヤテ君の手が、私の胸へと触れてきた。昨日と違って、最初から迷うことなく的確に捉えて動き出す。  
な、なんだか全部わかってますよって感じですごく恥ずかしいんだけど……!  
「やっ、そこ……あっ、んん、ひゃんっ!」  
昨日よりもずっと早く、止まることなく滑らかに動くハヤテ君の手のひら。  
特に急いだりとか焦ったりとかじゃないのにそんな手馴れた速さを見せられると、不思議と体中が熱くなってしまう。  
「……ん?」  
そんな気持ちが伝わったわけでもないだろうけど、ハヤテ君が下に潜りこませた手を真ん中で止めた。  
まるで初めてのことに戸惑うような表情で……ま、まさかスパッツの上から触っただけでわかるものなの!?  
「あ、あの! ハ、ハヤテ君?」  
おかしい。これでいいはずなのに昨日と違うってだけでものすごく恥ずかしい気がしてくる。  
そんな焦りを早口でごまかしながら、体を起こし、ハヤテ君の上に覆い被さった。  
「今日は、私にさせてくれる?」  
「はい? するって何を……え!?」  
……そこまで驚かなくてもいいじゃない。  
「で、でででもどうして突然!?」  
「それは……」  
今はなんだか知られるのが恥ずかしいから、っていうのもある。  
けどとっさに口にできた一番の理由は、待たせたお詫びをしたいから。言葉だけじゃ足りないから。  
「昨日」  
「?」  
それなのに、素直にそう口にすることが出来なくて……  
「昨日はハヤテ君ばっかりだったから、今日は私の番じゃないと不公平よ」  
そんなことしか、言えなかった。  
「わかりました……じゃあ、お願いしますね」  
けれどハヤテ君は、なぜかとてもやさしい笑顔で、そうささやいてくれた。  
「じゃあ……始めるわね」  
目を瞑り、恐る恐る伸ばした指先が、ハヤテ君に触れる。  
「あ……すごい……」  
「へ?」  
服の上からでもわかる。  
触れた瞬間は柔らかいのに、そのまま押さえると無意識に力が入るせいか、まるで鉄みたいに硬くなる筋肉。  
「あの……ヒナギクさん?」  
なめらかな皮膚の下で幾重にも分かれた……えっと、腹筋?  
「その……そこはちょっと違うような……」  
「……わかってるわよ」  
まぶたを開いて見つめた指先は、ハヤテ君のおなかに触れていた……  
「じゃ、じゃあ、行くわよ……?」  
「は、はい。どうぞ……」  
今度は、目をちゃんと開いて……横を向きながら、ゆっくりと手探りで『ハヤテ君』に触れる。  
「ゎ……あつ、い」  
さっきとは違う。服の上から指先で触れただけで、これがそうだってわかる。  
チャックを下げて……下げ……な、何か引っかかっててやりにくいんだけど?  
こんなのいつも大変そう……ああ、そっか、普段はいいのよね。  
……いやいやいやいや、想像しないでいいから! いいんだってば!  
 
「ぁ……これ……が……」  
そんなことを考えて程よく無心になったのがよかったのか、やっとハヤテ君のズボンを下着ごと脱がすことに成功する。  
「えっと……こう、かしら?」  
どこをどうすればいいのかわからないまま、全体をまんべんなく指先で撫でるようになぞる。  
やけどしそうな熱さ。筋肉とも骨とも違う硬さ。  
間近で見るのは初めてだけど、単純なようで複雑な、なんだか変な形。どうして男の子のはこんな形をしているのかしら。  
そんなことを思っていたら、先の部分から……何かしら、これ?  
「ひぁっ、や、ぁ、ふぁんっ!」  
見たことも聞いた事も無いけど、ハヤテ君の顔を見てるとなんとなくわかる気がした。  
「ふうん、気持ちいいんだ」  
触れるとねばねばして糸を引く液体。興味を引かれて液の出てくる先の部分を栓をするみたいに指先で押さえ、ねじ込むように動かす。  
「やっ……ヒナギク、さん……そんな……そこ、ばっかり……っ」  
どうやら先の方が敏感になってるみたい。ハヤテ君の声が高くなる。それが面白くて回転を大きく、激しくしていく。  
「ヒナギクさん……もう……っ」  
もっと大きく、もっと高く。そんな気持ちのままに円を広げていく。  
「ひゃぅ……っ!」  
やりすぎたのか、ぬるぬるに指先が滑り、引っかくような勢いで根元まで滑り落ちる。  
その瞬間ハヤテ君の声がさらに高くなり……視界が真っ白に染まった。  
「ふぁ……あ……そ、その、すみません、顔に……」  
「もぉ……謝らないの」  
あわててポケットを探るハヤテ君に苦笑を投げかけながら、小さく笑う。  
その拍子に吸い込んだ空気。夜の静謐な空気に混じる、ハヤテ君の……おとこのひとのにおい。  
鼻先にもそれがあるせいで、昨日より強く、そのにおいを感じる。  
なんだろう。なんだか、変な感じ……  
「ん……ちゅく……む」  
「あ、え、ヒ、ヒナギクさん!?」  
軽く伸ばした指先に乗せて、口へと運んだにおいのもと。嗅覚から味覚に変わる……けど、何かしら、これ。  
「んむ……ふ……ぁむ」  
苦いと言うには複雑すぎる。しょっぱいと呼ぶにはえぐみが強すぎる。  
簡単に表現するなら『変な味』だけど、それも何だかしっくりこないような……  
わからない。わからないから不安で―――わからないから、知りたくなる。  
だから私はまだ硬さを残したままの『ハヤテ君』に、舌先で触れ……って、何ヘンタイみたいなことしようとしてるのよ!  
「……ふぅ」  
あぶないあぶない。寸前で思いとどまり、ほっと大きく息を吐き出す。  
「……ふぁッ!」  
見えない見えない。熱を持った私の吐息に震える『ハヤテ君』なんて見えない!  
ああもぉ、何やってるのかしら。こんなに簡単に我を失ってたらハヤテ君だって呆れて―――  
「あ……あの……もう、終わり……ですか?」  
「……へ?」  
躊躇いと羞恥に震えるか細い声が響く。期待と不安に濡れた瞳が、私を見つめていた。  
「ひょっとして……もっとして欲しいの?」  
おかしいわね。どうして勝手に頬が緩むのかしら。  
「えっと、その……ヒナギクさんが、嫌じゃなかったら……」  
んー、そのセリフは減点かな……まぁ、言うまで聞くから同じことなんだけど。  
「嫌だったらこんなことしないわよ。それより私はハヤテ君がどうして欲しいのか聞いたんだけど?」  
「あぅ……ヒドイですよぉ、ヒナギクさん……」  
薄い涙にとろけた瞳で、ハヤテ君がじれたように首を振る。  
そういうカワイイとこ見せられると立場ないわよね、私……  
「……お願い、します……もっと……もっと……して、くださいっ!」  
……何だか本格的にアブナイ気分になってるような。まぁ、いいわよね?  
「ッ! あ、や、その……うぁ!?」  
そんな衝動に導かれるまま、私は怯えるように、期待するように小さく震える『ハヤテ君』に、舌先で触れた。  
硬いような柔らかいような、どちらとも言えない奇妙な感覚を指先よりも確かに感じながら、わからないものを確かめていく。  
「あっ、すご、さっき……より……ふぁんッ!」  
味。不思議な味がする。  
おいしくはない。だけど嫌でもない。だから私はだんだん無心になって、ただ『ハヤテ君』を感じることに熱中していく。  
「そん、な……はぅっ! され……うぁっ……たら、僕、もう……っ!」  
そう言葉を跳ねさせながら、ハヤテ君が限界に達する。  
結局わからないものはわからないままだったけど―――その熱だけで、わからない不安はどこかに消えてしまっていた。  
 
「ん……はぁっ、はぁ、は……」  
ハヤテ君が荒い息をゆっくりと整えていく。  
そんな穏やかさにつられたように『ハヤテ君』も勢いをなくして縮んでいた。  
それはやっぱり変な形だったけど、なんだか……  
「なんだか……カワイイかも」  
「はうっ!?」  
軽くつつくとびっくりしたみたいに震える『ハヤテ君』  
そんな小動物みたいな反応が面白くてつい何度もつついてしまう。  
「あは。うん、やっぱりカワイイ」  
「う゛……く゛……キ゛キ゛キ゛」  
なんだろう。  
なんだか突き刺さるような、引き裂くような、捻じ切るような、そんな音が聞こえたような。  
目の前でハヤテ君が大げさに、けれど迫真に崩れ落ちていた。  
「ふ、ふ、ふふ……」  
交差させた両腕で顔を隠し、仰向けに倒れたまま肩を震わせ引き攣るように笑うハヤテ君。  
なんだかちょっと怖い……  
「ど、どうしたの?」  
「いえ……そろそろ可愛いとかいじめられるのスキそうとかネコミミモードとか  
 綾崎ハーマイオニーとかそういう萌えキャラ扱いな考えに反逆する時期かな、と」  
あ、すごい。腹筋だけで起き上がった。  
ゆらり、とオバケのように重さを感じさせない動きで顔を上げたハヤテ君が、笑みの形をした顔で言う。  
「わ、私そこまで言ってな……」  
「そんなわけで……」  
あわてる私に構わず言葉を続けるハヤテ君。なんだかすごくまずいことになってる気が……  
「僕だって男だってこと、教えてさしあげますから……覚悟してくださいね?」  
顔は笑っていた。目も楽しそうだった。でも、声だけは笑いきれていなかった。  
「えっと……や、やさしくしてね?」  
つられたように引きつり気味の笑顔で、思わずそう答える私。  
それを見たハヤテ君はまるで聖者のような慈愛に満ち溢れた笑顔になって―――  
「だが断るー♪」  
……あの、ハヤテ君? キャラ変わってない?  
満面の笑みのまま指先を伸ばしてくるハヤテ君。  
妙に滑らかな、まるで機械じみた動きで私のスパッツをつまんで……え?  
「ちょっ、そんないきなり!」  
そのまま一気に脱がされた。  
「…………へ?」  
「ぅ…………」  
正確にスパッツだけを取り去った指先。  
そんなハヤテ君の視界を、昨日は無かった下着が遮る。  
「え、えっと……お、落ち着け、まだ素数を数えるような時間じゃない……じゃなくてですね」  
さっきまでの動きが機械なら、今はまるでブリキの人形のよう。  
一番お気に入りの可愛いやつだけど、やっぱり私には似合っていないのかしら。  
「これって……」  
「なによ、ハヤテ君が言ったんじゃない」  
「え? ひょっとして、それが理由で……?」  
そう言ったままぽかんとした顔で固まるハヤテ君。  
さっきまでがブリキの人形だとすれば、今のハヤテ君は石像だった。  
「な、なによ、悪い?」  
それが嫌で思わず口を尖らせる。だけどハヤテ君は固まったままで……あんまり反応がないと不安になってしまう。  
「その……やっぱり、もっとオトナっぽい方がよかった?」  
「大人っぽいのも素敵ですけど……こういうヒナギクさんらしい方が、僕は好きですよ」  
だから反応しやすい方向にずらした私の問いに、まったく動揺を見せずにハヤテ君が即答する。  
それは『好き』って言葉が嘘やごまかしじゃない本心だって証明で……でも、あまりフォローにはなってないような。  
「……それって、私が子供っぽいってこと?」  
追撃のつもりで放った一言。  
それを聞いたハヤテ君は一瞬目を見開いて―――ど、どうしてそこで笑うのよ!  
「子供っぽい人に……こんなことしませんよ」  
そう言ってハヤテ君は小さく、喉元で笑い声をくぐもらせる。まるで、笑い声を漏らすのがもったいないって言うかのように。  
なんだか見ているだけで温かくなれそうで、目をそらしてしまうのが惜しくなるような、そんな、柔らかな表情で。  
 
「さて、もう少し見ていたい気もしますけど……脱がしてもいいですか? 昨日みたいにするのもあれですし」  
そう言いながらやけにゆっくりと、大事なものを扱うように丁寧な動きでハヤテ君が下着を脱がせていく。  
「そういえば、昨日は思いっきり汚しちゃいましたけど、あれからどうしたんですか?」  
それはきっと、行為の合間を埋めるためになんとなく聞いてみただけで、深い意味はなかったんだろう。  
だけどその言葉で昨日のことを思い出して……  
「……思い出させないで」  
「へ? あ、その……はい」  
ホント、頭が痛いわね。  
思わずハヤテ君から視線をそらして頭を抱える。  
そんな私に赤い顔をしたハヤテ君が、慰めなんだか言い訳なんだかよくわからないトーンで言葉を返し……  
……赤い顔?  
「あ! ちょ、違っ、あの後ちゃんと!」  
「ええ、わかってますから」  
あわてて訂正する私に赤い顔のままうなずくハヤテ君。  
わかってない……ちっともわかってない!  
「だから! 誤解だってば!」  
「はは……ええ、そうですね」  
そう言うならその生暖かい視線をやめなさいよ!  
「……もぉっ! 知らない」  
そう言って、ごろりとうつぶせ後ろ向き。  
そのまま目を閉じ体を丸める。  
「ヒナギクさん……?」  
すねたフリして横目で窺うハヤテ君の顔は、笑っていた。  
……悔しいような、嬉しいような。  
「ヒナギクさん、ヒナギクさん」  
楽しげに笑いながら、ハヤテ君が頬をつついてくる。  
素直に反応すると負けな気がして無視する私。  
そのうちつつき飽きたのか、ハヤテ君の指が頬からうなじ、首筋へと回り……  
「ひゃあ!!」  
背筋を一気になぞってきた。  
「な、な! 何するのよ!」  
背中と前側両方とも向けられずに半身に構えながら、抗議の声を上げる。  
だけどハヤテ君はにっこりと無邪気な笑みを見せるばかりで……やっぱり、何だか負けてる気がするわね。  
「いえ、ヒナギクさんがこっちを向いてくれないかなぁ、って」  
「もぉ……子供みたいなことしないの」  
「子供っぽい僕は、嫌いですか?」  
「そんなわけ―――」  
反射的に否定しながらハヤテ君へと向き直る。  
その微笑を見た瞬間、自分が負けたことに気づいた。  
「……ずるい」  
そんな風に温かい笑顔をする人が、子供なわけないじゃない。  
「よかった、やっとこっちを向いてくれましたね」  
そんなことを得意気に、やけに清々しい笑顔で言われる。  
まるでそれだけが目的だって言い含めるように。  
「またさっきみたいなことされたら困るから……それだけよ」  
「はい、わかってますよ」  
ひねくれた反応しか返せない自分が悔しくて、でもそんな言葉を受け止めてくれることが嬉しくて。  
だから私は体の力を抜いて、抱きしめてくれる腕に身を任せた。  
 
「じゃあ、いきます……ね」  
そう言ったハヤテ君の目は、今日見た中で一番深い色をしていた。  
私の心を見透かすような、自分の全てをさらけ出すような、そんな瞳。  
「うん。お願い」  
それに答えられるようにしっかりとうなずき、気づかれないように深く息を吸い込みながら、ハヤテ君をまっすぐ見つめて言う。  
それを聞いたハヤテ君は、ゆっくりと体を沈め―――  
「ッ―――ぇ、あ! ……ふぁ!?」  
あれ……?  
確かにきついけど、別にそんな……痛く、ない?  
異物感はあるけど、覚悟していたよりも小さなそれはむしろそこにあるものをはっきりと教えてくれるものでしかなくて……  
「よかった、今日は大丈夫みたいですね」  
「あ……うん。そう、みたい」  
戸惑う私に考え事をするように軽く瞳をぼやかしたハヤテ君が、ふと何かを思いついたみたいな表情を向けた。  
「これなら……思いっきり、いけそうですね」  
えっと、ハヤテ君? 何かしらその笑みは。  
「あ、や、ちょっと……!」  
思わず口を挟む私にハヤテ君は黒さを消した悪戯っぽい笑みになって……しまった、やられた。  
「あは。それじゃあ、どうして欲しいですか?」  
「〜〜〜ッ! もぉ!!」  
そっちがそういう態度なら、こっちだって……!  
できるだけ自然に聞こえるように、ホントの気持ちを少しだけ混ぜた嘘でハヤテ君に答える。  
「……じゃあ、さ。思いっきり、気持ちよくさせてくれる?」  
「はい……? ―――え!!?」  
あ、固まってる固まってる。  
うん。逆襲完了。  
「……わかりました、まかせてください!」  
こっそり拳を握って勝利宣言を……って、あれ?  
何だかハヤテ君がとても張り切ってるような……  
……しまった墓穴ー!?  
「やっ、ぁ……ふぁんッ!?」  
頭を抱える暇もなく、ハヤテ君が動き始める。  
「あ……んん……んっ……」  
最初はゆっくりと、確かめるように。  
慎重とも呼べるくらいの動きで、じっくりと1度往復する。  
「んっ……ふぁ、ん……あっ、ぁ、はんっ、んんんっ、ふぅあ……ぁん……」  
そのまま速度を上げ……ずに、速くなったり遅くしたりを繰り返す。  
「ひぁぅ……っ、や、また、それ……ゃん!」  
そのうち、右手を私の胸元に伸ばし、同時に動かしてきた。  
触れて、撫でて、浅く擦り、つまんで、くちづけ、深く捻る。  
速度に緩急を、力に強弱を加えながら、様々なやり方で上へ下へと動き続ける。  
「そ、そんな……色々……んぁっ、され、たら……っ」   
その手のひらは私のためだけに動いていた。  
淡い微笑みも、潤む瞳も、薄い唇も全て私に向けられていた。  
それなのに、どうしてかしら。  
ハヤテ君はこんなにも優しいのに、私は体中から熱を感じているのに。  
なのにどうして私は、足りない、って思ってしまうのかしら。  
「ね、ねぇ……っ、ハヤテく……んッ!」  
「? どうしたんですか、ヒナギクさん」  
私の言葉にハヤテ君が動きを止める。  
その気遣いで、自分が何を欲しがっていたかわかった。  
 
「あ、あの、ね? もう私のことはいいから、ハヤテ君も好きにしてくれない?」  
「え……その、嫌、でした……か?」  
私の制止に、ハヤテ君が表情を曇らせる。  
そんな顔をさせてしまうワガママを、心苦しく思う。  
だけど足りない。体中が熱に満たされてもまだ足りない。  
だって感じるのは私の熱ばかりで、ハヤテ君の熱がないんだから。  
「そうじゃ、ないけど。だけど私ばっかり気持ちがいいのは寂しいの。  
 それじゃダメなの。私だけじゃなくてハヤテ君も一緒じゃなきゃ嫌なの!」  
与えられる優しさに満足できないのは、ワガママだろうか。  
押さえきれないほどの熱を発しながら、寂しいだなんて思うのは、欲張りなんだろうか。  
これだけの優しさに包まれて、こんなにも熱に浮かされて。  
それなのに、ハヤテ君の熱まで求めようとするのは、贅沢すぎるだろうか。  
「でも……いいんですか? 本当に、僕の好きにして」  
「そうしてくれると嬉しい……ううん、そうして欲しいの」  
だけどハヤテ君は、笑ってくれた。  
信じてもいいのかしら。ワガママかもしれないけど、独りよがりじゃないって。  
「だったら……僕も、そうしたいです」  
少しの不安をまっすぐな視線が射抜く。  
だから私は、それを信じた。  
嬉しくなって微笑む私に、ハヤテ君が口元だけに小さな、けれどとても深い笑みを浮かべて―――動いた。  
「あ……ぅあ! さっき、より……っ」  
「ふぁっ! あ、ひゃんっ! すご……はや……っ」  
さっきよりも激しく、さっきよりも繊細に。  
「ハヤテ君、ハヤテく、ん……!」  
目を閉じて両手を差し出し、キスをねだる。  
「ちゅ……ちゅむ、むっ、んふぁ……ちゅぱ」  
息が苦しい。くらくらする。けれどもう、止まらない。  
そのままハヤテ君の背中に腕を回してしがみつくように抱きしめ、身を預けた。  
「もっと、もっと……っ」  
「ひぁあッ! すご……の……ッ!」  
体が、熱い。  
胸元から湧き出す、じんわりと響く火照り。  
繋がってる所から溢れる、甘く痺れるような熱。  
そして何より、ハヤテ君から伝わる強く、激しく、揺ぎ無い情熱。  
頭が痺れる。背筋が疼く。体が震える。  
「ヒナギクさん、ヒナギク、さん……ッ!」  
「あ……私、もぉ、ん……っくぅ……っ!」  
求めてる。求められてる。求め合っている。  
そんな最高の贅沢に満たされながら、私たちは限界へと昇り詰めていった。  
 
寝不足2日目の朝は、太陽が黄色く見えた。  
「ふぁ……」  
別に何があったわけでもない。  
昨日はあれから何事もなく、ハヤテ君と手を繋いで家まで送ってもらって、キスと一緒におやすみを交わしあった。  
それはよかったんだけど、その後おフロに入ってるときも、ベッドに横になってからも、ずっとハヤテ君のことが頭から離れなくて……  
眠れないような、眠るのがもったいないようなしあわせな気持ちのまま、いつの間にか夜明けを迎えてしまった。  
「さて……と」  
しあわせな気持ちのまま、落ち着かない足取りで学院に向かう。今日こそハヤテ君にちゃんとおはようを言わないと。  
そんなことを考えていると、昨日と同じく校門前に美希を見つけた。  
充血した瞳、いつもより覇気の無い表情、心此処にあらずな足取り。  
昨日の私みたいな態度だけど、夜更かしでもしてたのかしら。  
「おはよう、美希……何だか調子悪そうね。ちゃんと寝たの?」  
「おはよう、ヒナ。そっちこそ、顔が赤いけど熱でもあるの?」  
……別に本格的に調子が悪いってわけでもなさそうね、うん。  
「う……これは……そういうのじゃ……ないけど……」  
口ごもる私に、美希は眦を下げ、力を抜いて呆れたような笑みを浮かべて小さくため息をついた。  
「……なによ、そんなに呆れることないじゃない」  
「ん? ああ、こっちのことよ。私って自分で考えてたよりあきらめが悪いんだな、って思ってただけ」  
「何の話?」  
「あ、ハヤ太君」  
答えになってない返事。  
思わず聞き返す私に、美希がふと視線をそらして呟いた。  
そんなベタな手じゃごまかされない……って、ホントにいる!?  
まだ挨拶を交わすには遠くて、視線だけが先に交差する。  
そのままゆっくりと歩いてハヤテ君との距離が近づき……あ、や、どうしよう。  
「あ……その……」  
まずい、真っ赤になったまま固まってしまう。  
ってこらちょっと美希何笑ってるのよああもぉ背中つつかないの!  
「う……あー、えっと……」  
うろたえる私に、ハヤテ君は目元を緩めた落ち着いた表情で、ちいさくわらった。  
そんな顔をされると、あわててるのがもったいなくて、肩から力が抜けてしまう。  
ああもぉ、ホント、ずるいなぁ……  
深呼吸して朝の空気を吸い込み、清々しい気持ちで口を開く。  
さぁ、とびっきりの笑顔で挨拶をしよう。新しい1日を始めよう。  
「おはよう、ハヤテ君」  
「はい。おはようございます、ヒナギクさん」  
くすぐったそうなその微笑みは、青空に輝く朝日よりもまぶしかった。  
 

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