私には、好きな人がいる。  
見つめるだけで、気持ちがこみ上げて。想うだけで、心が騒ぐ。  
誰よりも大切で、何よりも特別な感情。  
私にとっての、たったひとつ。けれど、きっと誰もが見つけるもの。  
だから私は知っていた。私の好きな人も、いつか誰かに恋することを。  
けれど私は願っていた。その日がずっと、いつかのままであることを。  
 
……本当は最初からわかってた。何事にも、終わりはある。  
いつまでも続いてほしいような楽しいことにも。今すぐにでも逃げ出したいような辛いことにも。  
今が楽しくて、終わりは悲しくて。ずっとずっとこのままでいたいのに、変わってしまうのはどうしようもなくて。  
叫びだしたいほどの悔しさが、過ぎ去る今を引きとめようとする。  
だけどそんな子供じみた嘆きは、本当に無力なものでしかなくて……わかっているのに、やめることができない。  
それでもただ、私は願っていた。子供のように純粋に、そしてワガママに。  
 
 
―――いつまでもずっと、ヒナの一番近くにいられたらいいのに……って。  
 
 
「お は よ う」  
「―――へ?」  
昨日の夜、ハヤ太君を探しに旧校舎に行ってから、ヒナの様子がおかしい。その瞬間、そんな懸念が確信に変わった。  
校門前で出会ったハヤ太君を睨むようにじっと見ながら、私ですら驚くほどに低い声で、ヒナは朝の挨拶を言い放つ。  
かと思えばそのまま固まり、細かく、そして目まぐるしく表情を変えて―――  
「じゃ、じゃあ私、生徒会の仕事があるから!」  
「あっ……ヒナギクさん!?」  
そう叫びながら、ヒナは全速力で走り去っていった。あまりにも気が急いているせいか、慌てる気持ちがそのまま形になったような後姿。  
だからあれは、最高速じゃない。いつもより乱れたその走りは、タイムを計ればベストにはほど遠いものだろう。  
だけどそんな完璧さを欠いた姿は、ヒナの焦りを何よりも明確に表していた。  
威嚇するような低い声。拒絶とともに向けられた背。避けるように走り去る姿。ヒナをよく知る私でさえ、激怒してると間違えそうな態度。  
けれど、もし本当に怒っていたなら、ヒナはあんなふうに背を向けたりはしない。  
不器用な焦り方も、隠し切れない強がりも、染まった頬の赤さも、怒りとは違うものだ。  
昨日、ヒナとハヤ太君の間で何かがあったのは間違いない。けれど一晩中旧校舎を調べさせても、誰かがいた痕跡すら出てこなかった。  
もう数日調査を続ければわかることもあるかもしれないけど、今の私にはそれを待つ心の余裕がない。  
「……ずいぶん、怒ってたわね?」  
だから私は推定される元凶に向かってそう尋ねた。  
「ハヤテ……お前、何かしたのか?」  
「いや……そんなはずは……」  
3人の視線の先で、さっきまでの薄紅から蒼白へと顔色を変えたハヤ太君が、声さえも白く霞めて呟きをこぼす。  
「あ、あの! すみません、ちょっと僕、謝ってきます!」  
そのままこちらも妙にギクシャクした動きで、ハヤ太君がヒナを追って走り出す。  
「あ……おい、ハヤテ!?」  
そんなハヤ太君に投げかけられる、驚きに満ちた疑問の声。けれどそこにはほんの少しの不安があるような気がした。  
そりゃ、目の前で自分の執事と友達がケンカしてるように見えれば心配するのも当然だけど……まさか、ね。  
「ま、どうせたいしたことじゃないでしょ。教室で待ってればそのうち戻ってくるさ」  
ふとした疑問。だけど私はそれを確かめないまま状況を流した。  
「そうね、ナギ。行きましょう」  
そのまま教室へと向かう2人を見送り、私も走り出す。  
向かうは―――生徒会室。  
 
「で、ハヤ太君。ヒナと何かあったの?」  
「……………………」  
時計塔から出てきたハヤ太君を捕まえ、そう問い詰める。急いだつもりだったけど、私が来たときにはもう終わっていたらしい。  
状況は不明。こんなことなら生徒会室に隠しカメラでも設置しておくべきだったかもしれない。  
でも、ヒナは生徒会室で仕事をしている時は生徒会長の顔しかしないから覗き見ても意味はないし、さすがに後ろめたかったし……  
いや、後ろめたいというより―――本当は単に私自身の歯止めが効かなくなりそうで、恐ろしかっただけかもしれない。  
「あんな風に怒ったヒナ、久しぶりに見たんだけど?」  
聞き出すのに都合のいい嘘を交えて誘導しつつ、おどけた口調で尋ねる。  
……どうしてだろう。私にとって本当に切実な話をしているはずなのに。  
「何か……? いえ……何も、なかった、って……ことなんでしょう、ね……」  
そんな私の口調と対照的な態度で、ハヤ太君は切り刻まれたように途切れ途切れに言葉を搾り出す。  
か細く苦しげな声で、悲しみ一色に染まる表情で、乱れた心中のまま固まったように立ちすくむ、その姿。  
……おかしな話だ。そんな素直さを、羨ましく思うなんて。  
「ま! まぁ、しかたないですよ!! ヒナギクさんはスゴイ人ですし、僕には元々……」  
そんなことを考える私に、ハヤ太君は明らかに無理をしているとわかる笑顔でそう口にした。  
「それに、わかってたはずなんです。誰かを好きになっても、ずっと一緒にいられるとは限らないって。  
 だから、今回もいつもと同じで……結局、何も変わらないんだって……それだけの、ことなんですから」  
穏やかな声の中で渦巻く、敵意にも似た絶望。それは深く暗く狂おしいものだったけど、恐ろしくはなかった。  
だって、それは誰でもない、ハヤ太君自身に向けられていたから。  
「ま! 吹っ切れた、悟ったなんてのは勘違い。人間そんな簡単に変われるものじゃない、って言いますし!」  
冬の夕日に似た、寒々しい明るさ。寂しげな口調で、それでもきっぱりとハヤ太君はそう言い切った。  
だけど私にはわかる。ヒナの近くで、ヒナに気軽な憧れを抱く人を大勢見てきた私には。そしてヒナを本気で好きな私には、わかる。  
本気と憧れの違いが。ハヤ太君が、本気でヒナのことが好きで……それなのに、本当にあきらめようとしてるってことが。  
反射的に湧き上がる詰問の言葉を抑え、なんでもないことのように流す言葉を口にする。  
「そう……ま、そう思うならそれでいいんじゃない?」  
「……そう、ですね」  
一瞬の間。まるで、自分が戸惑ったことを不思議がるような……無意識で抵抗していることにすら気づいていないような、小さな齟齬。  
だけど私はそれを指摘することも問いかけることもなく、ハヤ太君から離れた。  
(―――どうしてそんなに簡単にあきらめたがるの?)  
胸に押し込めた疑問を、理不尽な怒りとともにぶつけてしまう前に。  
 
放課後。校門前でヒナを待ち構え、寄り道を提案した。  
待ち伏せ、不意打ち、連行。  
気づかれないよう押し付けた生徒会の仕事と、それ以外の何かに疲れたヒナを勢いで押し切り、誘拐犯のような手順で連れ込んだ場所。  
「……それで、なんでこんなところになるわけ?」  
ま、文句を言いたい気持ちもわかる。確かに下校途中の寄り道にランジェリーショップなんて、定番とは言いがたい。  
本来隠すべき代物には不釣合いなほど自己主張の強い商品たち。  
それらを飾り立てる照明器具の群れでうそ寒いほどに煌く店内。  
本人は誰よりも鮮やかなくせに、こういう華美な雰囲気が苦手なヒナには、あまり縁のないお店。  
「いいじゃない、たまには」  
「……まぁ、いいけど。ちょうどよかったし」  
とりあえず目的があってつれてきたわけだけど……どうも、ヒナの都合もよかったらしい。  
……これから試そうとすることに意識が向いていたせいか、ついつい勘繰ってしまう。  
「ふぅん……ところで、昨日は旧校舎で何してたの?」  
「え? ……べ、別に何も?」  
だから焦ったように直接的な質問を投げかけてしまい……さすがにこれじゃダメみたいだ。  
「……ま、確かに何も見つからなかったけど」  
ただ、この反応を見ても、昨日ヒナが旧校舎に行ったのは間違いない。  
これでも調べることについては自信がある。ヒナとハヤ太君だけで隠しきれるほど甘くはない……つもりだったんだけど。  
「じゃあ、いいじゃない」  
「……だからおかしいんじゃない」  
何だかヒナがまた妙なことに首を突っ込んでいる気もして心配だけど……ま、今はいい。とりあえずここに来た目的を果たさないと。  
今朝のハヤ太君の態度から、ハヤ太君がヒナを好きなのは確実。わからないのはヒナの気持ちと、昨日何があったのか、だけ。  
とにかく、ヒナが今、ハヤ太君をどの程度気にしているのか確かめよう。  
さっきみたいに確証もないのに直接問い詰めるなんて、調査法としては三流。  
これが推理モノなら探偵役失格だ。火サスや『犯人はヤス』じゃあるまいし、そんな簡単にいくはずもない。  
パズルでわからない部分があってもその外側を埋めれば欠けたピースの形が想像できるように、間接的にたどり着くのが上手いやり方。  
例えば……好きな人が出来たのなら、今まで熱心じゃなかったことにも色々と気を使うようになるだろう、とか。  
……我ながら迂遠な方法だとは思うけど、ね。  
「あ、これなんてどう?」  
気持ちを切り替えて外堀から攻めるべく、目に付いたブラジャーを指差し、ヒナの興味を引こうとする。  
「ああ、そっちはいいの」  
だけどそんな私にかまわず、ヒナはショーツをゆっくりと見ていく。  
普段あまりウインドウショッピングに積極的でないヒナがああいう動きをするってことは、買う気があるってことだ。  
だけど……  
「? なんでそっちだけなの?」  
思わず発した疑問。  
大体、基本的に上下セットになってるものを、片方だけ欲しがる理由がわからない。  
「…………」  
……黙秘?  
ま、根が正直なヒナのこと。そんなやり方でいつまでも逃げられるはずもなく。  
「……だ、だって、その……スパッツの下にも穿くものらしいじゃない?」  
思ったとおり、さほど持たずに白状した。  
「ああ、やっと気づいたのね」  
その声が恥らうように小さく、可愛かったせいで、思わず素で言葉を返してしまう……って。  
「……知ってたなら教えてよ……って、何で知ってるのよ!」  
「まあまあ……で、どういうのにするの?」  
しまった。ヒナがスパッツの時ぱんつはいてないことを知ってるのは秘密だったっけ。  
ま、この程度のミスなら大丈夫。要するに動揺せず堂々と押し切ればいい。  
政治家の娘だから、ってだけじゃないけど……本心を隠すのは、得意だ。  
「別に、こんな感じに普通の……」  
予想通り追求を止めたヒナが、私がそらした話題に乗ってきた。  
……いや、私みたいに適当に話をあわせてるわけじゃないんだろうけど……イマドキの女子高生としてその選択はどうかと思うけど?  
「ヒナ……それは『普通』じゃなくて『地味』って言うのよ?」  
「む……じゃ、じゃあ、どんなのが普通なわけ?」  
あきれた口調で答える私に、すねたような顔で言葉が返る。  
よし、かかった。  
プランに従い、できるだけ不敵な感じに見えるように笑みを作り、手早く目をつけていた商品を取り出す。  
 
「そうね……これなんてどう?」  
まずは定番。アトミック雑貨謹製、黒いスケスケレースなオトナの下着から。  
「そ、そんなヒワイなの穿けるわけないじゃない!」  
反応は―――別に普段と変わらず、と……しかしまさかいつもヒナをからかってたデータが、こんなところで役に立つとは。  
「そう? じゃあ、こっちは?」  
ならばお次は……『新ジャンル:ノーレグ』……また勢いで適当なことを。というか単なる紐じゃないか、これ。  
「……何それ?」  
―――どう見ても素で引いてるわね、これは。  
「それ、着てる意味ないんじゃない?」  
「ま、衣類としては無意味ね」  
「衣類としては……?」  
防御力と引き換えに生み出される攻撃力、なんて言うとヒナ好みな気もするけど……どうも全く意味がわかってないらしい。  
目の前で小首をかしげる姿は、これを着た人がどう見られるかわかってない……どころか、そんなこと想像もしていないって感じ。  
……これはどうも、勝負下着の準備にいそしむとか、そういった話ではなさそうだ。  
安堵の気持ちをごまかすように、やれやれとため息をつく。  
「……なんだ。本当に着るものを増やしたいってだけなのね」  
「他に何があるって言うのよ……」  
それがわかればもう用はない……というわけで、適当に引っ掻き回して退散するとしよう。  
「あ、面白そうなのが」  
「人の話を聞きなさいよ……って、まさかそれ……」  
「『寄せて上げるは女の英知』らしいけど……そうなの?」  
「知らないわよ!」  
なになに……『マのつくメイドも御用達!』って……色々とギリギリなキャッチコピーだな、これ。  
某V1046に思いをはせつつ―――とりあえずそういうことにしておこう―――豊胸ブラをヒナに向かって突き出す。  
打てば響くとばかりに激しく反応するヒナが面白い。何だかガス抜きに付き合わせるようで悪い気もするけど……ま、いつものことか。  
「あ、こんなのも」  
「だから……話を聞いて」  
「シリコン製パッド、セットで6万円だって。本格的ね?」  
こっちは某エルダー御愛用、と……今度ハヤ太君につけさせるのも面白いかもしれない。  
そんな、妙に浮かれた気分のまま、さっきよりもっと露骨な胸パッドを見せてヒナを挑発する。  
楽しくて楽しくて、自然と笑い声も軽くなる。震えた肩につられて揺れるパッドの感覚にすら、笑いがこみ上げる。  
ま、とりあえずこのネタを引っ張るのはここまで。でないとヒナが本気で怒り出すし。  
さてさてお次は妙にしっかりした作りのばんそうこうを見せて唖然とさせるか、それとも子供っぽい青白縞々で反応を窺うか……  
「いいわよ別に。だってそれ、意味ないでしょ?」  
そんな風に浮かれて、油断とも呼べるほどに安心して。  
だから、すぐには気づかなかった。  
「? ……ああ、確かにこれをつけても胸自体が大きくなったりはしないけど」  
「いや……それもそうなんだけど……」  
恥らうような態度に。思い出すようにそらされた視線に。柔らかな色を帯びた声に。  
「今更見栄張ってもしょうがないじゃない」  
その言葉の、意味に。  
「……………………そう」  
今更ながら、思い知る。二人の仲も、昨日からの調査も、私の心配も。全部、全部今更のことでしかなかった。  
胸に広がる驚き、痛み、悔恨、納得、嫉妬、羨望。ぐちゃぐちゃと混ざり合った感情は、お世辞にも綺麗なものとは呼べなかった。  
そんな醜さを遠ざけるように、抑え込むように目を伏せる。  
「……やっぱりそうなんじゃない」  
ヒナから顔を背けて瞳を隠す。放たれた言葉は、自分でも笑ってしまうほど投げやりで、そして弱々しかった。  
けれど、不幸中の幸いというやつかもしれない。  
今朝見た限りでは、ハヤ太君はヒナが本気で自分のことを怒って―――どころか、嫌っているとすら思っているようだった。  
なら、このまま黙って見過ごすだけでいい。何もする必要はない。そうすればまた元通り。何も無かったように、ヒナの隣にいられる。  
「どうしたの?」  
「別に。じゃ、そろそろ行きましょうか」  
「ちょ、ちょっと美希、どうしたのよ!」  
積極的に妨害するわけじゃない。狙って誘導するわけでもない。  
私がすることは何も無い。私が気にすることも、何も無い。  
だからこれは最善。棚ボタのように、ただ待っているだけでいいんだから。  
それだけでいい。そうすればいい。それでいい、のに―――  
「なんでも……ないわ」  
―――どうしてこんなに、嫌な気持ちになるんだろう?  
 
ヒナの視線から逃げるように、店から出る。  
夕日に照らされた街は、冬らしい寒さに凍えていた。  
容赦なく吹きすさぶ風に、思わず身をすくませる。  
熱を失った太陽は、ただ切なげな光をかざすことしかできない役立たずで……なのに私は、それに安堵を感じていた。  
ひょっとしたら私は、そんな何も出来ずに消え去るしかない斜陽に、自分を重ね合わせていたのかもしれない。  
「……ふぅ」  
隣から聞こえたため息。  
きっとヒナは、この寒さを素直に厭っているのだろう。  
それはとてもヒナらしいまっすぐさで……それが今は、少し寂しい。  
「悩みでもあるの?」  
「別に、なんでもないわよ……」  
「ま、ヒナなら大丈夫でしょうけど」  
「……話振っておいていきなり結論出さないでくれる?」  
「いつも1人で決めてさっさと行動する人が何言ってるのよ」  
「そんなこと……」  
寂しさを紛らわせるように紡いだ会話が途切れる。  
散り散りになった言葉と気持ちが、欠片になって白く舞う。  
それらを吹き飛ばすように息を吐き出し、文句を1つ。  
「ホント、勝手なんだから……」  
ま、こんなこと言ってもしょうがない。  
……今言わなきゃいけないのは、別のことだ。  
「美希こそ、さっきはどうしたのよ」  
「どうもしないわよ……ところで、そろそろ行かなくていいの?」  
「行くって、どこに?」  
あきらめにも似た悪戯心で会話を回し、後ろから不意打ちするように言葉を差し出す。  
「ハヤ太君のところに決まってるじゃない」  
「な! な、なんで私が!?」  
確信を持って放った言葉。それは予想通りにヒナを動揺させて……それを見た私の心にも、動揺が走る。  
それは、目の前でヒナが動揺してるせいだろうか。それとも、昨日からの疑問を終わらせる時が来たからだろうか。  
「だって、付き合ってるんでしょ?」  
「…………」  
追い討ちの断定。直接の回答を求める質問。さっきまで無意識に避けていた、決定的な言葉。  
それを聞いたヒナは口ごもり、言葉を求めるように、私の瞳を見つめて……  
「……どうして、わかったの?」  
「……別に。ただのカンよ」  
静かに、そう認めた。  
湧き上がる体全てを埋め尽くすような喪失感を、曖昧な言い方で、なんとかごまかす。  
「……そう。でも、今日はいいわ。明日になれば、また会えるんだし」  
そう呟いて、すっきりしない顔のまま、ヒナは小さくため息をついた。  
それはまるで何かをあきらめたような態度で……ふと、私の心にも弱気が生まれる。  
このままでも、いいんじゃないか。無理に嫌なことをしなくてもいいんじゃないだろうか、って。  
きっと今なら、それが出来る。  
今私が『ならそれでいいんじゃない?』なんて曖昧に流せば、ヒナはそのまま帰ってしまうだろう。  
そして全ては白紙に戻る。何も起きなかったことになり、何事もなかったように元通りに―――  
―――わかってる。そんなこと出来るはずがない。  
そんなことをしても元通りになんてならない。もしもそんなことをすれば……きっと私は、踏み越えてしまう。  
ヒナに気安く近づく人を遠ざけるだけなら、別によかった。  
ヒナが誰かのことを『少し気にし始めた』程度なら、まだ理由もこじつけられた。  
だけどヒナが本気で好きな人に近づこうとするのを妨害するなら―――それは、私が私の都合でヒナの幸せを邪魔した、ということだ。  
そんなことをしてしまえば、私はきっと我慢できなくなる。  
そうしたら……私はきっと、胸を張ってヒナを好きだと思えなくなってしまう。  
 
「じゃあ、明日まで待てるの? それで後悔しない?」  
だから私は、言葉を続けることを選んだ。  
ワガママだって知ってる。自爆だってわかってる。それでも私は、そうしなければならなかった。  
「後悔って、そんな大げさな……」  
私の言葉に、ヒナが戸惑った表情を見せる。確かに唐突で大げさな言い方だったかもしれない。  
「なら、もしも……」  
だから今が、言わないでいられる最後の場面。  
無意識に胸元に触れた指先が、何かを握り締めるように折り曲げられる。  
だけど今しか言えない。ここで黙っていたら次の機会は……明日は、ない。  
このまま何もしなければ、きっと明日ヒナが出会うのは、ヒナのことをあきらめきってしまったハヤ太君だから。  
「もしも、明日、ハヤ太君がいなくなってたとしたら?」  
「―――ッ!」  
そして私は、祈るような気持ちで言葉を続けた。  
それがヒナを傷つけることは知っていたけど……言わないでいることは、私には出来なかった。  
「な、なんで……そんな……」  
疑問の姿をした否定の言葉が投げかけられる。そう言いながら握られたヒナの拳は、震えていた。  
怒りと……多分、怖れによって。  
「そんな、こと……」  
その理由の中に、私に裏切られたって気持ちはあるだろうか。  
私の知る、桂ヒナギク最大のトラウマ。それを利用してまでヒナを操作しようとする、私に対して。  
無いほうがいい。けれどあれば嬉しい。  
それは矛盾した、だけどたった一つの理由から生まれた、私の痛み。  
「もしそうなったら……どうするの?」  
震えないように固めた指先が、私の胸をえぐる。  
今だけは、ヒナに動揺してる姿を見せるわけにはいかない。  
「そんな、こと……」  
そんな私の前で、ヒナは言葉を見つけられないまま立ち尽くしていた。  
言葉を求めるように息を吸い、けれどもそれはただ真っ白な吐息にしかなれず……  
「…………っ」  
そうしてヒナは黙り込む。何も言えないまま、何もできないままで。  
失う恐怖にくすむ瞳。怯える気持ちにうつむく顔。震えることしか出来ない拳。  
きっとこの想像はヒナにとって、今一番考えたくないこと。普通なら思考停止して逃げ出してしまってもおかしくない。  
だけど。  
「もし、そうなっても……」  
だけどヒナは―――  
「だけど、好きだから。だから……大丈夫」  
そう言って、まっすぐに前を見た。  
「……そうね。そうだったわね」  
一途に、凛々しく、力強く。  
私が大好きな、桂ヒナギクがそこにいた。  
まっすぐに、気持ちをそのまま形にしたような言葉。  
それは理屈としては曖昧なものだったけど、そう指摘する気にはなれなかった。  
顔を上げて。前を向いて。微笑みを浮かべて。  
ただ素直に好きだと言えるヒナを、羨ましいって思ったから。  
だから私はゆっくりと、まるで胸の痛みを吐き出すように大きく息をつく。それはきっと、安堵のため息に似ていた。  
そんな気持ちを言葉にするために、息を吸う。空っぽになった胸が、再び満ちる。  
「……ん。もう、大丈夫みたいね」  
苦しくて、切なくて、悔しくて、惨めですらあるはずなのに―――  
なのに私は、笑っていた。  
「じゃ、行ってらっしゃい」  
さっきまでのような、作った表情じゃない。  
どうしようもなく悲しいけど。今にも叫びだしそうなほど辛いけど。  
ヒナが、私の好きなヒナでいてくれたことが、本当に嬉しかったから。  
嘘の言葉と嘘の表情。  
だけど、好きな人のために嘘をつけることが、どこか誇らしかった。  
だからだろう。ヒナも私に微笑んで、迷い無く一途に走り出す。  
「……さよなら、ヒナ」  
その背中が見えなくなってから別れの言葉を口にして、私は家へと歩き出した。  
―――独り静かに、泣ける場所を求めて。  
 
 
眠れない夜なんて、キャラじゃないけど……それでも朝は、やってくる。  
どれだけ悩んでも、涙に暮れても。明けない夜はなく、日はまた昇る。それはある意味無慈悲で、けれどとても優しい事実。  
朝が来て、起き上がって、学院に行って、出会ったヒナにおはようを言って……そんな、いつもの朝。  
ま、今日はハヤ太君もいるのが違いといえば違いだけど……そのくらいなら『いつも』の範疇。  
「どうしたんですか、ヒナギクさん。何だか眠そうですけど」  
「へ? ……べ、別にそんなことないわよ?」  
「でも、さっきから……」  
見上げた冬の空は青く高く美しく、澄み渡った朝の空気は重いため息も爽やかに受け止め、溶かしてくれる。  
大空に煌く朝日の雄大さは、人間のちっぽけな悩みなんて吹き飛ばしてしまいそう。  
「そ! そういえば! ハヤテ君って、ケータイ持ってる?」  
「はい、持ってますけど?」  
「……いや、『けど?』じゃなくて……持ってるなら番号教えてほしい、ってことよ。ほら、昨日みたいな時にないと困るでしょ?」  
「ああ、そうですね……まぁ、ちょっと残念な気もしますけど」  
「? 何が?」  
「いえ、昨日みたいに連絡を取る必要がある機会って、そうそうないと思いますし」  
そんな宇宙的視野に立てば未練がましい気持ちも、この状況もなんてことはない些細なことで―――うむ、現実逃避もそろそろ限界。  
「……ふぅ」  
それにしても……意外と辛いわね、この状況。先を歩くヒナとハヤ太君を見ながら、私は小さくため息をついた。  
原因は目の前の桃色時空で展開されるストロベリーフィールドINイチャイチャパラダイス。  
心配はしていなかったけど、どうやら昨日はあれから上手く行ったらしい。むしろ上手く行き過ぎた、と言うべきか。  
別にことさら見詰め合うとかくっついてるとかじゃない。  
お互い前を向いて、ただ普通に会話しながら並んで歩いてるだけなのに、なのになんと言うか、こう……近い、のだ。  
単純に距離が近いだけじゃなくて、気持ちごと重心まで自然とお互いに寄り添ってる感じ。  
そういう理屈を思い描いたからかもしれないけど、なんだか親密さが溢れてて……あれが俗に言う、二人の世界……ってやつだろうか?  
「まぁ、それはそうだけど……別に緊急の用事以外じゃ電話しちゃいけないってわけでもないんだし……」  
「……いいんですか? 用もないのに電話なんてして。お邪魔になったりしません?」  
「あ、当たり前じゃない。ハヤテ君こそ、放課後も執事のお仕事で忙しいんじゃないの?」  
「確かにそうですけど……ヒナギクさんからの電話なら出ますよ、絶対」  
「ぅ……い、いいわよ、そこまでしなくても。夜とかなら大丈夫でしょ? だったらそれまで待ってるから」  
「あは。それじゃあ、楽しみにしてますね」  
「……ばか、なに恥ずかしいこと言ってるのよ」  
そう言いながらヒナがハヤ太君を小突く。こつん、なんて音が聞こえてきそうな気安さで、ハヤ太君に触れる。  
こっちは二人の世界にあてられてて平然とした顔を作るだけで精一杯だって言うのに、そういう追加攻撃をされるとちょっときつい。  
「……あんまり朝から人前でラブラブしないほうがいいんじゃない?」  
「「な! そ、そんなこと……あ」」  
「……ハモらないでくれる?」  
「と、とにかく! そんなんじゃないし、そうだったとしても別に何も問題は……」  
「なに言ってるの。大体ヒナはただでさえ目立つんだから、あんまり迂闊なことしてると学院中の噂になるわよ?」  
苛立つ気持ちを隠しながら、八つ当たりのような言葉を放り投げる。  
「う……それは……確かに、困る……けど……」  
「ああ……そういえばマリアさんからも似たようなことを言われたような……」  
そんな本心とは程遠い、建前を盾にした空虚なセリフに、二人は真剣に考え込む。  
それは望んでいた展開のはずなのに……私が感じたのは、寂しさだけだった。  
「そういうこと。だからヒナ、人目のあるときはこれまで通り、皆の生徒会長でいたほうがいいわよ」  
いっそ嘘で二人を操ることに満足できるような性格なら、まだ楽だと思うのに。  
中途半端な私に出来るのは、むなしさを募らせることだけだった。  
 
だけど私にはおとなしくむなしさに浸ることすら許されないらしい。  
考えてみれば当たり前のこと。人前で我慢すれば……二人っきりの時に反動が来るのだ。  
あれから数日。ヒナとハヤ太君は人目のない時、こっそりと見ているのがいたたまれないくらいに甘い世界を作るようになっていた。  
放課後、生徒会室でヒナを待つ。来週のマラソン大会の関係で、伝えておくことがあったのだ。  
正直今の二人を見ているのは辛いので、用事を済ませたら早めに退散するとしよう。  
「……ふぅ」  
何にもないのに、ため息が出てしまう。最近寝不足が続いてるし、ヒナの前では気を張ってるから疲れがたまってるせいかもしれない。  
「それにしても、遅いな……」  
そんな時に限って暇な時間は出来るもので……何もせず起きてるのも、もう限界。  
でもここで横になると誰か来た時に寝てるところを見られてしまうわけで……それは何だか恥ずかしい。  
というか、私は人の弱みを見つけるのは好きだけど、人に弱みを見せるのは嫌いなのだ。  
だから私は執務室の隣の部屋に行き、ちょっと休憩するつもりで目を閉じて……  
……それだけのつもり、だったのに。  
 
「はい、ヒナギクさん。紅茶が入りましたよ」  
「うん。ありがとう、ハヤテ君」  
そんな声で、目を覚ます。  
音源は隣の執務室らしい。扉越しのせいか、いつもよりくぐもったように聞こえてくる。  
なんてことのない普通の会話。なのにその声は甘く優しく、言葉よりも先に感情を伝えていた。  
「あ、そうだ。今日はクッキーを作ってみたんですけど、よかったらどうですか?」  
「ありがとう。でも、そんなに気を使わなくてもいいのに。いつも大変でしょ?」  
どうやら割と深い眠りに落ちていたらしい。私が起きたのは、二人が来てからしばらくたってからのようだった。  
間の悪いことに今日はヒナとハヤ太君、二人一緒にいるみたいで……非常に出辛い。  
二人は私がいることを知らないらしく、完全に二人っきりモードに入っているからなおさら。  
とりあえずタイミングを窺わないと……  
そっと、扉の隙間から二人の様子を覗き見る。どうやら休憩に入るところだったらしく、ハヤ太君がお茶の用意をしていた。  
「いえいえ、ヒナギクさんはいつもおいしそうに食べてくれますから、作りがいがあるんですよ」  
「……何か、その言い方だと私がすごい食いしん坊みたいじゃない?」  
「はは、そんなことないですよ」  
からかうような口調のハヤ太君と、不満げにむくれてみせるヒナ。  
だけどそんなことを言うわりにハヤ太君の出すお茶菓子は毎回そんなに多くなかったはずだし、当然ヒナも、そのことは知っている。  
実際紅茶らしきものと一緒に出されたクッキーは数枚ほどで、食べるというより、つまむという表現がしっくり来る程度の量だった。  
要するにこれは通じ合っていることが前提のじゃれあいで、笑いあう二人もちゃんとそれがわかってて……  
「まったく……あ、こら。人が食べてるとこじろじろ見ないの」  
「……え? や、いえ、そういうわけでは!」  
「ん? どうしたの?」  
「い、いえ、なんでも、なんでもないですよ!?」  
「ふうん……ねぇ、ハヤテ君も食べる?」  
そう言いながらヒナが最後の1つになったクッキーを口にくわえて、意味ありげに笑う。  
それを見たハヤ太君は、一瞬考えた後に赤くなり―――それを見た私は、私は……どんな顔をしているんだろう。  
「へ? あ、その……いいんです、か?」  
そしてハヤ太君は、真っ赤な顔のままささやいた。ゆっくりと机を迂回して、真横からヒナへと近づいていく。  
こちらからだと後姿しか見えないけど、それでもわかるほど緊張でギクシャクした動き。  
そんなハヤ太君と向かい合うヒナの瞳が、少しだけ見開かれる。おそらくは本人すら気づかないような、無意識の動き。  
軽い悪戯心でからかうつもりが、思わぬ展開に……と、本人は思っているんだろう。  
……次の展開を拒絶しない時点で、そうじゃないことは私にだってわかるのに。  
止めたかった。だけど踏み込むことが出来なかった。  
見たくなかった。けれど足も、目も、何一つとして動かなかった。  
 
「ん……っ」  
「ふぁ……っ」  
そして二人は重なり合う。  
分かたれたクッキーと、合わされた唇。  
小さく鳴る喉元。ありふれたはずのしぐさが妙に目を惹いた。  
飲み込まれているのはクッキーか、それとも二人の熱だろうか。  
「っ……んむ……」  
「……ヒナギクさん」  
とても、とても長いキスを終え、濡れた瞳と唇に、ハヤ太君が問いかける。  
主語のない質問。それでも通じ合っているのは、見ているだけの私にすらわかる熱のせいだろうか。  
……それとも、事細かに説明する必要もないほど、この問いかけを重ねてきたからだろうか。  
「……今はダメ」  
「ぁ……」  
ゆっくりと体を離すヒナを追う、狂おしいほど切なげな声音。  
そんなハヤ太君に、ヒナは机に揃えられた書類の束を示しながら笑いかける。  
「今日の仕事、まだ終わってないから」  
「じゃあ……終わったら、いいんですか?」  
衝動を抑え込むように、ゆっくりとヒナの後ろに控えるハヤ太君。  
頬を染めたままうなずいたヒナが、書類にペンを走らせる音が響く。急くように淀みなく、弾む鼓動のように軽快に。  
そのまま次々と書類が右から左へと流れていく。  
一枚……二枚……三枚……  
一枚一枚流れる書類は、まるで砂時計の粒のよう。  
四枚……五枚……六ま……って。  
「ひやぅんっ!?」  
だけどそんなじりじりとした時間に焦れたのか、突然ハヤ太君が後ろからヒナを抱きすくめた。  
「すみません、ヒナギクさん。少しだけ……」  
「やっ、もぉ……ちゃんと待ってなさい」  
「でも……」  
躊躇う口調とは裏腹に、ハヤ太君は大胆にヒナの胸元へと手を伸ばす。  
「んっ……こ、こら、終わるまでダメって言ったでしょ?」  
「少しずつ終わってる分、少しずつ始める……ってわけには、いきませんか?」  
普段の控えめな態度からは想像できないような積極さ。  
実はハヤ太君って、一度スイッチが入るとなかなか止まらないタイプなんだろうか?  
「……じゃあ、後でまとめてする分を少しずつしてるんだから、今日はそれだけで終わりってことでいいわよね」  
どうもヒナの負けず嫌いスイッチも入ったらしい。ジト目で振り向き、無茶な理屈に同じやり方で対抗する。  
「う……すみません、大人しくしてます……」  
だけどそう口にした以上、そのままだと本当に言葉通りにすることを知っているのか、ハヤ太君は素直に引き下がった。  
「うん。素直なハヤテ君は好きよ?」  
「……イジワルなヒナギクさんも好きですよ」  
勝ち誇るヒナに、負け惜しみのようにしょんぼりとした態度で視線を伏せ気味にしたままハヤ太君が言う。  
……だから、ハヤ太君には見えていない。  
後ろに視線を感じながら、書類の処理を再開するヒナが浮かべた笑みが。  
勝利の喜び。求められる嬉しさ。大事にされた温かさ。  
そしてそれらを超える、強く深い愛しさを湛えた表情。  
……今更、罪悪感に襲われる。  
これは、ハヤ太君のための笑みで、私が見ていいものじゃない。  
今からでも遅くない。踏み込むことや立ち去ることが出来なくても、目を閉じて耳をふさぐことは出来る。  
なのにどれだけ自分の浅ましさを突きつけられても、私の目は二人に釘付けのまま動かなかった。  
 
私が硬直していても、周りは変わらず動いていく。  
「お待たせ、ハヤテ君」  
机の上を必要以上にてきぱきと片付けながらハヤ太君へと振り向いて、ヒナはふわりと柔らかい笑みを浮かべた。  
朱に染まったその頬は、触れれば鼓動のように力強い熱を伝えてくるだろう。  
そして、そんなヒナを見るハヤ太君も、体を温めるようにそわそわと瞳を揺らしていた。  
「あ……はい、こちらこそ急かせてしまいまして……」  
「気にしないで。私も……」  
どうやら揺れてるのは瞳だけではないらしく、微妙に奇妙な受け答えをする二人。  
言いかけた言葉を途中で飲み込み、ヒナはそのまま固まった。  
そのまま流そうとしたヒナに、ハヤ太君は律儀に続きを待つ。  
だけどヒナも、言葉を続ける様子はなくて―――要するに、かなり恥ずかしいことを口走りかけてたらしい。  
「と、とにかく! 今日の仕事は終わったから!」  
「は、はい! お疲れ様です!」  
ごまかすように仕切りなおすけど、結局二人は固まったまま。それだけ見ればチープなコメディのように笑いを誘う風景。  
だけどそうやって同じ行為をする二人を見ていると、余計に疎外感が増してしまう。  
「うん、そうね。お疲れね」  
「あー……そうですか……お疲れですか……じゃあ、しかたないですね……」  
「って、何よその残念そうな顔は」  
「いえ、お疲れなのに無理をさせるわけにもいきませんし、今日はもう帰りましょうか?」  
だからそんなズレを含んだ会話に、少しだけ安心してしまう私がいて―――まったく、何バカなこと考えてるのか。  
お疲れと言うわりにやけに早口なヒナに、肩を落として沈んだ声で、自分こそ疲れきったような態度でハヤ太君は引き下がりかける。  
そんなハヤ太君を見上げるヒナは、恥ずかしがってるような、もどかしそうな瞳をしていて……やっぱり、このまま帰りはしないらしい。  
「……何を言ってるのかしら? ハヤテ君」  
「……?」  
「日常業務だけで限界まで疲れるようなことで、生徒会長が務まるとでも思う?」  
「……えーっと」  
「だから……その、確かに一息ついたけど、別にそこまで疲れてるってほどでもないの、うん」  
「……えっと、要するにどういうことなんでしょう?」  
予想通り流れを戻そうとするヒナに、ハヤ太君は何が何だかわからない、といった顔をするばかり。  
そんな朴念仁に向けるヒナの眦が、だんだんとつりあがっていく。  
見る、ではなく、睨むとか射抜くとか、そんな感じの視線を受けて、ハヤ太君が爆発間近の時限爆弾でも見たような表情で慌てだす。  
そんな態度を見た私の唇が、自然と歪む。だけど、なぜだか誰かに見咎められた気持ちになって、慌てて暗い快楽にフタをした。  
「……まったく」  
慌てるハヤ太君に、ヒナはため息と一緒にあきれたような言葉をかけた。  
だけどなぜかその声音は、ため息と一緒に気まで抜けたように、穏やかなものに戻っていた。  
「しょうがないわね、ハヤテ君は」  
小さな苦笑と、受け入れるような言葉。突然和らいだヒナの態度に、ハヤ太君は不思議そうな顔を見せた。  
まっすぐにハヤ太君へ視線を向けながら、その中に何かを見出すように、ヒナは一瞬、遠い目をする。  
何を考えていたのかはわからない。だけどそれはきっと、二人で得た大切な記憶なんだと……それだけは、確信できた。  
「ほら、そんな顔しないの。男の子でしょ?」  
「ぁ……はい!」  
なぜなら―――二人がどうしてそんなに通じ合うような笑みを浮かべているのか、私には何一つ理解できないのだから。  
 
「じゃあ……ヒナギクさん」  
「うん……いいわよ」  
まるでヒナのしぐさを分けてもらったように、まっすぐな決意に引き締まった表情で、ハヤ太君がゆっくりとヒナへ近づく。  
それに応えるヒナの笑顔は、朱色に染めた頬のままに熱を持ちながら、穏やかで自然なものだった。  
そんな二人を、理解を置き去りにされた私は、どこか冷めた気持ちで眺める。  
「……んっ……ぁ」  
「……っ……はぁ」  
ふわりと笑いあい、二人は再び重なり合う。おそらくは優しく、そして甘い、触れるだけのキス。  
ヒナはまるで陽だまりでまどろむ猫のように、暖かそうに、心地よさそうに、目を細めた。  
そんな微笑ましいふれあいに、二人の熱が高まっていくのがわかる。  
「ぁむ……んっ、ぁ……ふぁむ」  
それを待ちきれないように、お互いをせかすように、二人はキスを繰り返す。  
ヒナが座ったままでいるせいで、動きの主体はハヤ太君が担っている。  
そんなされるがままな行為は、ヒナらしくはなかったけど……それが私にとって望ましいことなのもわかっていた。  
「んっ……ふぁっ……ぁむん!?」  
やがてハヤ太君は、首を傾けより深く繋がるように、キスの種類を変えた。  
だけど突然変化した行為に驚いたのか、ヒナは驚いたような声と―――何か変な音がしたような。  
「あ! ご、ごめんなさい、大丈夫?」  
「ッ―――い、いえ、大丈夫です。すみません、驚かせてしまったみたいで」  
慌てたように謝るヒナと、自分の行為を謝罪するハヤ太君。  
察するに、ハヤ太君がディープなキスをしようとしたけど、それに驚いたヒナが反射的に噛んでしまった、といったところか。  
―――自然とドス黒い嘲りが湧き上がる自分を、壊したくなるほど嫌悪する。  
「……それはいいから、ちょっと口あけてくれる?」  
「あ、はい……ほら、大丈夫ですから」  
だからだろう。何かを狙い定めるように輪郭のくっきりとした表情を浮かべるヒナが、私を咎めているように見えてしまうのは。  
もちろんそれは勝手な妄想なんだけど……今の私にとって、それが報いになるのも確かなことだった。  
「じゃあ、大丈夫かどうか……直接、確かめてあげる」  
「? それって……ッ!?」  
薄紅色の頬に微笑を乗せ、座ったままで背伸びして、ヒナからハヤ太君へと唇を触れ合わせる。  
その言葉の意味なんて、わざわざ想像するまでもない。  
「ふぁむ……うんっ……むふぁっ……」  
二人の口元から水音が聞こえる。深く激しい、恋人どうしのキス。  
おそらくは初めてに近いのだろう。二人はたどたどしく懸命に、手探りするように進んでいく。  
紅い唇がお互いの熱で潤む。抑えきれない吐息が喘ぎ声になって、二人の世界を彩る。  
お互いの顔が近すぎるせいで、どこか焦点の合わない瞳。そこにはゾクリとするほどの情欲が満ちていた。  
「……ふぁ……はぁ……どう? まだ痛い?」  
「……いえ、もう、大丈夫、です、けど……」  
悪戯な笑みも、誘っているようにしか見えない。多分そんな自覚もないまま、ヒナがハヤ太君を見上げる。  
当然それを見たハヤ太君は、驚いたような態度で、焦れるように恥じ入るように瞳を揺らしていた。  
「……けど?」  
自分がどう見えるかはわからなくても、ハヤ太君が何を考えているかはわかるらしい。  
ヒナがからかうような口調で、続きを促す。  
「すみません。ちょっともう、我慢できそうにないです」  
だけどハヤ太君の方はそんなヒナの考えが見抜けないのか、申し訳なさそうに、そんな心境を告白した。  
「我慢って、何が?」  
「ぁぅ……やっぱりイジワルです、ヒナギクさん」  
その伺うような態度が不満だったのか、ヒナはすました表情で追い討ちをかける。  
けれど耳まで真っ赤なハヤ太君を見つめる瞳には、待ちきれないようなもどかしさが浮かんでいた。  
「だ、だから……つまり……こ! こういうことが、です!」  
「キャ! ―――って、こら、ちょっと!」  
それに気づかないまま、ハヤ太君が自分の内心を体ごとヒナへとぶつける。  
少々勢いが付きすぎたのか、二人は向かい合ったまま机の上に乗り上げてしまった。  
……何だか腰に悪そうな体勢だな、なんて、痛いほど冷たい思考で考えてしまう。  
 
「んっ……ちょ、待って、あっちで……ひゃん!?」  
「ダメです。待てません」  
近くのソファーに視線を向けながら、ヒナが口にした戸惑いを、ハヤ太君は一言で却下した。  
恐れさえ感じているような慎重さで、それでも衝動に流されるように強く、ハヤ太君の手がヒナの胸元をまさぐる。  
強引な行為をしながら、申し訳なさそうな表情をするハヤ太君。人によってはバラバラな態度を問い詰めたくなるかもしれない。  
「もぉ……ワガママなんだから」  
どちらかといえば、ヒナだってそんな性格のはずなのに……そんな一言で、ヒナは自分への行為を受け止めた。  
ハヤ太君もあたりまえのように表情から切なさを消して、柔らかな笑みを浮かべて手を動かし続ける。  
きっとその動きは優しく、丁寧で、情熱的なものなんだろうけど……  
何が二人を繋げているかわからない私は、置いてけぼりをくらった気持ちで、ただ眺めることしか出来なかった。  
「はぁ……あんっ、ぁふ……んんっ!」  
ヒナがハヤ太君の手で高まっていく。  
恥ずかしげに声を抑えてはいたけど、漏れ出る喘ぎ声はむしろ、圧縮したかのようにいやらしさを増していた。  
それに誘われたかのように、ヒナの胸元で動かされていたハヤ太君の手が、片方だけ下へと流れ落ちる。  
「っ、ぁん! え……も、もう?」  
左手を、まるでヒナを机に張り付けるように胸元に置いたまま、右手だけがスカートの中へ潜り込む。  
流れるようによどみなく、そのまま即座にヒナのスパッツを取り去った。  
何か、すごいあっけなくやったけど、結構これってすごいスキルのような……  
「はい……もう、待てません」  
「や、ちょ、待っ……ふぁっ!」  
ともあれ、これでヒナとハヤ太君を妨げるものは何もない。  
机に上半身を預けるように横たわるヒナから名残惜しげに手を離し、恭しく跪いて、ハヤ太君はヒナのスカートを―――あ、れ?  
おかしい。ヒナはいつもスパッツしか穿いてないはずなのに……どうして、ショーツを穿いてるんだ?  
「やっ……ひゃうっ! ……ハ、ハヤテく……んんっ!」  
「? どうしたんですか、ヒナギクさん」  
ハヤ太君の舌先がショーツの上からヒナを突く。  
それは、とても官能的な情景だったけど……私はただ、信じられないような気持ちで放心していた。  
何よりも驚いたのが、二人とも何の疑問もなく行為を続けていること。  
知らない、私だってそんなことは―――いや、違う。知っていた!  
「だ、だって、その、あんまりそういうことされると……」  
「?」  
あの日、ヒナがハヤ太君を繋ぎとめた日に、ランジェリーショップでヒナ本人から確かに聞いた。  
つまり……そういうことなのか?  
ヒナがスパッツの下にもショーツを穿くようになったのはハヤ太君の影響で、しかもハヤ太君はそのことを知っていた?  
「……ほ、ほら、汚れちゃうと、その……困る、し……」  
自然な動機。普通に考えれば、何一つおかしなところはない。  
だけど私は、ヒナが私の知らないうちに変化したことに怯えていた。  
「―――じゃあ、ヒナギクさん」  
「うん……その、どうぞ……」  
違う……そうじゃない。私は、私以外の誰かがヒナを変えたことに、嫉妬しているんだ。  
ヒナのことなら、誰よりも知っている自信があった。だから……こんな、大切なものを奪われたような気持ちになっている。  
的外れの嫉妬。自分こそ、姑息にヒナの秘密を掠め取っただけだというのに、盗人猛々しいにもほどがある。  
それが正しい理屈のはずなのに―――それでも苦しいと感じるのは、私が間違っている証拠だろうか。  
「あ……っぁ……やん!」  
ゆっくりと、宝物を取り出すような手つきで、取り去られた最後の1枚。  
それは絵画にすら出来そうなほど、麗しい光景のはずなのに―――私をさらに、打ちのめした。  
ようやく、ハヤ太君の舌が、ヒナに直接触れる。  
少々刺激が強すぎたのか、ヒナは反射的な態度で机にうつ伏せでしがみつくようにして、ハヤ太君の舌から逃れた。  
それは単に思わず動いてしまっただけで、ヒナの瞳を見ればそれはわかるのに―――私は、心の中でハヤ太君を責めていた。  
もはやそれは、ヒナのためじゃない。ハヤ太君の間違いを探して、自分の間違いを帳消しにしたがってるだけ。  
揚げ足を取って、相手を下に落として、自分を上だと思い込もうとしている。  
―――消え去りたくなるほどの自己嫌悪に、目がくらむような感覚すら覚えた。  
 
「……ふふっ」  
「ふぁん!? な、何!?」  
そんな私にかまわず、ハヤ太君はヒナのおしりを見ながら、小さく笑みを漏らす。  
その拍子に吐息がかかったのか、ヒナが驚いたような、けれど熱のある声を上げた。  
「いえいえ、なんでもありませんよ?」  
妙に弾んだ声。抑えきれない笑い声が、ハヤ太君の喉元で跳ねる。  
その視線はヒナのおしりを―――って、どこ見てるんだ。  
なんと言うかこう……『世界で最も恐ろしいタブー、解禁』なノリでハヤ太君が笑い続ける。  
不穏な笑い声に嫌な予感がしたのか、ヒナが一番大事な部分を隠すように両足を閉じる……けど、それだとあまり意味がないような。  
「……っ、く……ふふっ……」  
まさに、頭隠して尻隠さず。後ろが丸見えなままのヒナに、ハヤ太君の笑いはますます大きくなる。  
それは別に、間抜けさを笑うような嫌なものじゃなく、微笑ましいものを見るような笑い声だったけど……私の心に、棘を刺した。  
「―――ッ!!?」  
「あ、気づきました?」  
やがてヒナも、自分がどんな姿勢をしているのかわかったらしい。さっきまでとは違う羞恥に、顔全体を灼熱に染めた。  
すぐさまそれを隠すように机に頭を埋め、ハヤ太君の視線を跳ね除けるように首を振る。  
それは本当に、ただ恥ずかしさを紛らわせるための行為だったけれど……客観的に見れば、誘われるのに十分なほどに可愛すぎた。  
だからハヤ太君も弾んだ笑みを浮かべたまま―――いや、だからって直接触らなくても。  
「せっかくですから、こっちも試して……って、痛い、痛いですヒナギクさん!」  
とたんにヒナの蹴りがハヤ太君を襲う。かなり力が入っているのか、ハヤ太君は本当に痛そうな顔をしていた。  
「そ、そんなに嫌ですか?」  
「っ……当たり前でしょバカァ!!」  
寝ぼけた問いかけと、そこに叩きつけられた本気の絶叫。  
これはハヤ太君の自業自得と呼んでいい場面のはずだけど―――なぜか、そんな気になれない。  
散々自己嫌悪したからだろうか。ハヤ太君が以前見たときのように、本気で落ち込んでいる様子だからだろうか。  
それとも―――そんなハヤ太君に、ヒナが悔いるように迷いを見せるばかりで、怒りをなくしているせいだろうか。  
「……すみません、ヒナギクさん」  
沈んだ声。まるで取り返しの付かないことをしてしまったかのような、後悔に満ちた声。  
それを受けたヒナが、机に顔を伏せたまま、言いたいことがあるのに言葉が出ないような、もどかしげな表情になる。  
「……怒ってますか?」  
そんなヒナの背後から、贈られた声。  
心配と、後悔と、不安を乗せた―――けれど、誠意に満ちた、優しい声。  
それは何一つ混じることのない、純粋な謝意だった。  
「怒ってるわよ」  
「ぅ……」  
そんなハヤ太君にヒナは、それを跳ね除けるような言葉を……もどかしげな表情のままで答えた。  
見ればわかる。今ヒナは、素直になれない自分に悔しがってる。  
だけどいつもなら、ヒナはすぐに、自分だけでなんとか気持ちに折り合いをつけるはずだ。  
そんな予想を当たり前のように確信して―――  
「だから……今度は、ちゃんとしなさい」  
「ぁ……はい、まかせてください」  
だから、その言葉に驚いた。  
口元は腕に沈めたまま、首を半分だけ振り向かせ、左目だけでヒナはハヤ太君に気持ちを伝える。  
そしてそれだけでハヤ太君は全てを理解したように、透き通った綺麗な笑みを浮かべた。  
 
「じゃあ、行きます……」  
そのままハヤ太君は優しくヒナの背中に覆いかぶさり、耳元でゆっくりと、けれども強く、ささやいた。  
右手をヒナの前へと回し、手探りで狙いを定める。くちりと、小さな音がした。  
体を支える準備をするかのように、ヒナは前へと視線を戻し、机に両手をつく。  
ふとさまよわせたヒナの視線が―――さっき片付けた書類を見つけた。  
一瞬、ヒナの表情が生徒会長のものに変わる。  
「! そ、そういえば……今誰か来たら……」  
それで日常を思い出したのか、ヒナは失態にうめくように頭を抱えた。  
というか……しまった、私もその辺は全く気づいてなかった。  
「あ、大丈夫です。ちゃんと鍵かけておきましたから」  
そんなヒナに、ハヤ太君はいつものように気軽な声で言葉を返す。  
いや……いつの間に、ってのもあるけど、要するにそれって最初から準備万端、やる気満々だったってことでは……  
「だから……気にしなくても、大丈夫ですよ?」  
「っ……ひぁんっ!」  
疑問が湧くけど、そのあたりは二人とも流してしまうらしい。  
ゆっくりと言葉を重ね―――二人は、繋がりあった。  
その瞬間だけは目をそらすつもりだったけど……やっぱり、私の視線は魅入られたように奪われたままだった。  
動き出す二人。ハヤ太君はヒナの背を見ながら。ヒナは机の上の書類を見ながら。  
私の知ってる生徒会長の顔と、私の知らないハヤ太君にもたらされた顔の狭間で、ヒナの表情が揺れる。  
いつものヒナが、そこにいるような気がする。知らない誰かが、そこにいるような気もする。  
「なんだか……っ、いつもより……っく」  
「ひあっ……んんッ……だって、だって……ぇ」  
激しくなる揺れ。まるでヒナを机に叩きつけるような、遠慮のない動き。  
それに従いヒナの表情も、だんだんとハヤ太君のためだけのものに変わっていく。  
「ひょっとして……こっちの、ほうが……っ、いいんですか?」  
「だって……んっ! ハヤテ君が、強く、する、から……ぁん!」  
ハヤ太君以外の何も感じていないような、叫びにも似た情感。  
私の知っているヒナがいなくなってしまいそうで、恐怖を感じてしまう。  
「じゃあ……もっと、強くしても、いいですか?」  
「うん……もっと、もっと……あぅん!?」  
ヒナはヒナのままだってことは、わかってる。だけど同時に、どうしようもなく変わってしまうことも理解していて―――  
「……っ、いきますよ、ヒナギクさん……ッ!」  
「ハヤテ君、私、私も……っ!」  
限界へと上り詰める二人を見ながら、私の心はどこまでも沈み込んでいった。  
 
 
生徒会室に、夕日が差し込む。刹那しか存在しない黄昏時。血のような、痛みのような、赤に満ちた世界。  
そんな中、私はヒナたちがいつ帰ったのかもわからないほど、放心していた。  
「……っ、あ……ぁ」  
……気づけば頬が濡れていた。  
この間一生分泣いたと思っていたが、どうやらそうでもなかったらしい。  
思わず指先でなぞった涙の跡は、二人の秘密を汚した残滓にふさわしく、おぞましいほどに冷たくなっていた。  
それは後悔の涙だろうか―――それとも、おしまいの予感がするからだろうか。  
 

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