2月1日の太陽は、マラソン大会にあつらえたように燦々と輝いていた。  
「……何もここまで晴れなくてもいいのに」  
冬の大気を適度に暖め、それでいてきつく身を焼くわけでもない日差し。運動をするにはまさに絶好の日和。  
「勝つぞーーー!!」  
遠くで雪路の雄叫びが聞こえる。いつも通りの絶好調。他にも運動部を中心に、皆準備に余念がない。  
だけどそんな気のない私は、周りが熱気に包まれるほどしらけてしまうだけだった。  
ま、幸い自由参加だから、出たくなければ出なければいいだけのこと。  
この寒い中わざわざ体操着に着替えて待っているのはめんどくさいけど……通常授業と引き換えなら、そう悪い条件でもない。  
 
そのはずだったのに……  
「ぜぇ……はぁ……」  
どうして私は走ってるんだ?  
「ほら、頑張って!」  
3歩先から、ヒナの励ましが聞こえる。  
あの日から会わせる顔もなく、さりげなく逃げ回ってたけど、マラソン大会をサボろうとしたせいで最終種目に参加させられてしまった。  
しかもヒナとペアで。確かに最終種目のマラソン自由形は2人1組だし、私1人でやったら開始即リタイアだっただろうけど……  
まったく、こういうときには強引なんだから……  
「……っ……っは……っ……」  
でも、幸いそんなことを考えてる余裕も体力とともに減少し、今は無心で走るのが精一杯。  
「……ヒナ……ごめ……ちょっと……休憩……」  
「大丈夫? ちょっとペースが速すぎたかしら?」  
やがて走る気力も尽き、過呼吸に言葉を途切れさせながらへたり込む。  
同じ速さで走っていたはずのヒナが平然とした顔をしているのが、悔しいやら情けないやら。  
普段からもう少しくらい運動しておくべきだったか―――なんて、絶対にする気はないけど。  
「じゃあ、少しだけ休憩する?」  
そう言いながらヒナは、ふとコースの先へと顔を向けた。すぐさま視線を戻したけど、きっと順位を気にしているんだろう。  
本当ならすぐにでも走り出したいはずなのに、私を気遣ってか、そんな素振りを見せようともしない。  
何だか足を引っ張っているようで、情けない気持ちになってしまう。  
「私よりも……ハヤ太君と……走りたかったんじゃ……ない?」  
ヒナとハヤ太君なら優勝できる可能性は高い。少なくとも、今よりはずっと。  
たとえ何らかの事情で一緒に走らなかったとしても、お互いの組をサポートするだけでぐっと楽になるはずだ。  
優勝賞金はハヤ太君に必要なものだし、ヒナだってそういう大義名分付きでハヤ太君と一緒に学校行事に参加出来る機会だったはず。  
「それが……ものすごい爽やかな笑顔で『お互い頑張りましょう』とか言われちゃって……」  
だけどヒナは困ったような苦笑いをしながらそう言った。  
愚痴のような、文句のような、そんな口調。なのにその笑みが照れ隠しに見えるのは、私の考えすぎだろうか?  
「……それは、また」  
しかしまた、空気の読めないセリフを。どうせ元々ナギに運動させるのが目的だった、って所だろうけど、それにしたって……  
ま、立場を利用して有利になる気はないってことだろう。どうもハヤ太君には、そういうところがあるらしい。  
お金で苦労してるはずなのに、お金を第一に考えていないというか。  
「なんと言うか……お人好しよね、ハヤ太君って」  
「……いいじゃない、別に」  
思わずこぼれた呟きに、ヒナはそれ以上具体的な反論をしなかった。  
ただ、咎めるように、照れたように、ふい、とそっぽを向いて、赤く染まった頬をそらしただけだった。  
「……ホント、ラブラブね」  
そう小さく呟いて、最近すっかり癖になったため息をつく。日ごろの成果か、弾む鼓動とは裏腹に、妙に軽い吐息。  
 
「そういえば、美希には好きな人とかいないの?」  
「…………何? 突然」  
「別に? 最近からかわれてるお返しができないかなとか、考えてないわよ?」  
そんな私にヒナは楽しげに笑いかけながら、明らかにからかってるとわかる口調で問いかけて来た。  
ヒナがそういう切り替えしをしてくるのは珍しい。  
「じゃ、いないってことにしておくわね」  
だから私もついつい思わせぶりな返し方を……って、何その微妙な表情。  
「…………へぇ」  
「何?」  
「いや、美希に好きな人がいるって初めて聞いたから。どんな人なの?」  
「いないって言わなかったっけ?」  
「いいじゃない。聞かせてくれても」  
まずは人の話を聞いてほしいんだけど……いや、ある意味ちゃんと聞いてたってことになるのか?  
いつものようにごまかそうとして―――ふと、悪戯心が芽生える。  
私のヒナ評を本人がどう感じるか、興味がないといえば嘘になるから。  
「まったく……ま、一言で言うと……まっすぐな人、かな」  
「ふうん……いい人みたいね」  
一言では端的すぎたらしい。気軽な調子で肯定的な……言い換えれば、無難な反応が返ってくる。  
……なんだか、それはそれで面白くない。  
「不器用なだけよ。素直に曲がればいいとこもいつもまっすぐ行こうとして、そのたびに苦労して。  
 要するにこのマラソン大会と一緒。コース通り曲がれば長くて退屈だけど安全な道を行けるのに、  
 いつもいつも強引にまっすぐ行こうとするせいで大変な目にあうし。その度に人に心配かけるし。  
 そのくせ当の本人は人がどんなに心配しててもちっとも気づかないし……ホント、勝手なんだから」  
「やっぱりいい人じゃない」  
だから少しだけ説明を追加してみたけど、返ってきたのは同じ言葉。まさかヒナに限って適当に返事してるってことはないだろうけど……  
「……今の話をどう聞いたらそんなセリフが出てくるんだ?」  
「ん? だって美希、本当にその人のことダメだと思ってたらそんなに色々話さないでしょ?」  
「…………」  
まったく……どうしていつもいつもそんなに簡単に、私のひねくれた言葉をまっすぐに直してしまえるんだろう。  
天邪鬼をやってるのがバカらしくなってしまうじゃないか。  
「そうね。強いんだけど繊細で、しっかりしてるくせに危なっかしくて、だから……目が離せなく、なるのよね」  
「そう。それで、もうその人には好きだって言ったの?」  
「! ―――っ!!」  
不意打ちで放たれた言葉に一瞬、鼓動が止まり―――思わず息を呑んだ瞬間、それを取り戻すかのように激しく鳴り出した。  
わかっている。ヒナに他意はない。そんなもの、あるはずがない。  
「まだみたいね……応援するから、何か私に出来ることがあったら言ってね」  
その言葉は正しくて―――だからこそ、痛かった。  
「くっ……さすが彼氏持ち、勝ち組の余裕ってやつね。見せ付けてくれるわ」  
「な! そ、そんなんじゃないわよ!」  
でもきっと、こういうことにも慣れていく。  
そのときにはすっかりこの痛みもなくなって……そうしたら、今みたいに表情を作らず、自然に笑いあえるんだろうか。  
それは目指すべきもので、望むべき関係で、正しいあり方で―――  
「さて、そろそろ行きましょうか」  
だけど私はそんな考えを振り切るように立ち上がり、再び走り始めた。  
「……もういいの? じゃあ、急ぐわよ!」  
いつもと変わらないヒナの表情が、ほんの少しだけ寂しかった。  
 
レースも終盤。ゴールまで残り数キロ程度の地点。  
最終チェックポイントで聞いた順位は6位前後。あれから何組かは抜いたけど、まだ安心できる状況じゃない。  
本当ならラストスパートをかけなきゃいけないところなんだけど……  
「……っ、……はぁ……ぜぇ……はぁ……っ」  
だけど私は限界ギリギリまで体力を使い果たし、疲労困憊の極地で打ち上げられた魚のようにあえいでいた。  
我ながら……運動不足にもほどがある。ま、ちょっと振り切り……もとい、張り切りすぎたのもあるけど。  
「む。来たわね……」  
これまでより長めの休憩に、稼いだはずのアドバンテージも帳消しになったのか、ヒナが後ろを見据えてそう呟いた。  
ぼんやりとした視界でそちらを見れば、ハヤ太君たちがやってきていて……って、何でハヤ太君がナギをお姫様だっこしてるんだ?  
あれがアリなら私もヒナに抱えられて……いやいや、そうじゃなくて。  
「そうはいかないわよハヤテ君!!」  
酸素不足で胡乱な思考をした私の横で、ヒナはそう言いながら竹刀を片手で斜めに構え、ハヤ太君へと大見得を切った。  
素人の私でもわかるような格好優先の持ち方。  
「ここから先は……通すことはできないわ!!」  
……それにしてもこのヒナ、ノリノリである。  
「ヒナ……私も……走れな……水……」  
「あ……はい、これ水……」  
なんだか浮かれたような態度が面白くないので水を差す私に、ヒナは律儀にドリンクを渡してくれる。  
「というわけで、これ以上先に進ませるわけにはいかないの!!」  
そんなやり取りで微妙に素に戻ったらしく、ヒナは横顔を羞恥に染めて、少しだけ早口になって言葉を続けた。  
……そんな態度も可愛いとか思ってる私はいよいよ本格的にダメになってるらしい。  
「……って、ところでハヤテ君。ひょっとしてずっとナギを抱えて走ってるの?」  
「え? はぁ……だいたいそうですけど……」  
「……まぁ、勝ちを見据える姿勢も大事だけど、そのやり方でここを通れるなんて―――思わないことね!」  
不穏な空気を読まずに能天気な受け答えをするハヤ太君に、亀裂の入った笑顔でヒナが竹刀を突きつける。  
しかし……本気で不思議なのだが、一体ヒナはハヤ太君のどこを好きになったんだろう?  
 
「お嬢さま」  
ヒナの言葉に表情を引き締めたハヤ太君が、ナギを腕からおろして耳元でささやく。  
「おそらく、ここで勝った方が優勝です。だから……お嬢さまは先に行ってください」  
「ハ、ハヤテ!? だけど……」  
「大丈夫、僕がここでヒナギクさんを足止めします。後はお嬢さまがゴールすれば……僕たちの、優勝です」  
抱えたままつれて来た者に向けるには、あまりにも大きな信頼。  
……ついでに言うなら、恋人の前で他の女の子に向けるものでもないような。  
「なるほど、いい作戦ね。でもナギの体力でゴールまでたどりつけるかしら?」  
「……やってやるさ。待ってろハヤテ、必ず1位でゴールしてやるから」  
当然の疑問を、わずかにすねたような声で問いかけるヒナに、決意の言葉が返ってくる。  
信頼に支えられた、力強い笑み。足取りにもそれが乗り移ったかのように、力強い疾走でナギはゴールへと向かっていく。  
それをヒナは嬉しさと羨ましさをない交ぜにしたような、複雑な笑みを浮かべて見ていた。  
「さて」  
その姿が見えなくなってからヒナは笑みをおさめて、ハヤ太君へと視線を戻した。  
責めるでもすねるでもない、純粋に勝負を決めるための行為。  
「……これは、あんまりグズグズしてられないわね……悪いけど、一気に行くわよ!」  
気持ちを切り替えるように短く息を吸って、ヒナは気合とともにハヤ太君へと突進する。  
「いえいえ、今の僕は足止め役ですから……そう簡単にはやらせませんよ?」  
ハヤ太君もそれに応えて―――というか、やっぱり交渉とかなしでバカ正直に戦うつもりらしい―――迎撃の姿勢を取る。  
基本的には防御主体。たまに手を出してもけん制程度。後ろに下がるばかりで、相手を倒そうとする気概は感じられない。  
「このっ……まじめに……ッ、戦いなさい!」  
そんなのらりくらりとした態度に怒ったのか、ヒナの攻撃もだんだん大振りになっていく。  
「まだだ……まだ終わりませんよ―――っと!?」  
「バカにして―――キャ!?」  
そんなことをしてるうちに足元がお留守になったのか、いつの間にか二人は……何あれ、釣り橋?  
数百メートルはありそうな長さに、ギシギシと揺れるロープ。奈落にでも続いていそうな、遠目にもわかるほどの深さ。  
なんと言うか……学院の敷地内にあるような大きさじゃないぞ、あれ。  
家のこともあり規格外には慣れてるつもりの私も、さすがにあきれて―――って、そんな場合じゃなかった。  
さっきまでの勢いはどこへやら、あっさりとへたり込む桂ヒナギクかっこ高所恐怖症かっことじ。急いでなんとかしないと……  
「わ、わぁ、偶然だなぁ……って言ったら、信じてもらえます?」  
「とか言いながら動かないでよバカー!!」  
おそらくは本当に偶然なのだろう。焦りと引き攣りをあわせたこわばった笑みで駆け寄るハヤ太君に、ヒナは本気で叫び返した。  
こっちからだと見えないけど、多分ほとんど涙目で―――む、何だか面白くない予感が。  
 
「ぅゎ…………あ! さ、さて! とりあえず戻りましょうか!」  
「……何? その間」  
間違いなく不埒な想像をしていたハヤ太君が差し出した手を、ヒナは不満げに、けれど不信も迷いもなく握り返した。  
駆け寄ろうとしていた私の足が、止まる。  
「はは、何もしませんって―――今は」  
「小声で言っても聞こえてるわよ……」  
二人の指先が絡んで、腕ごと固く結び合う。  
ヒナがしがみつくようにして預けた体を、ハヤ太君がしっかりと、優しく支える。  
「まったくもぉ……ほら、さっさと歩く!」  
「はい。お任せください」  
そのままきつく目を閉じ、ハヤ太君だけを頼りにゆっくりと釣り橋から戻ってくる。  
足元の感覚で釣り橋から出たことがわかったのか、ヒナがふっと温かそうな吐息を漏らし、子供のように無垢な信頼で頬を緩めた。  
いっそのことお姫様抱っこでもしてくれれば、まだ気楽なのに。そうすれば物語を見るように、冷めた気持ちにもなれるのに。  
二人の態度は自然すぎて、現実味がありすぎて……見せ付けられるように、感じてしまう。  
「……っ」  
そんなはずはないのに。それはわかっているのに、それでも心の奥底に、黒くて重い感情が沈んでいく。  
今すぐ駆け出して二人を引き離したくなるのを、必死で押し留めた。  
この場で物理的に、というだけじゃない。二人の気持ちを操る必要すらなく、この関係を破滅させることは出来る。  
少し前まで興味もなかったその爆弾のありかを、今の私は知っている。  
そうして二人を決定的に引き離して、傷心のヒナに近づいて―――そんな、愚かな妄想。  
もちろん、考えたことがないと言えば嘘になる。  
ロマンティックな告白風景。私を受け入れてくれるヒナ。祝福してくれる皆。法律改定して結婚。それから―――  
けれど、ありったけのプラス思考で思いつく限りのご都合主義を並べ立てても……ヒナの幸せには届かない。  
それはわかってるはずなのに……まったく、自分がこんなに嫉妬深いとは思わなかった。  
覚悟はしていたはずだった。ヒナだって、いつか誰かに恋すること―――私以外の誰かを、好きになることを。  
だけど長い時間をかけて固めたはずの覚悟は、あきれるほどにあっけなく崩れ去ろうとしている。  
止めないといけない。抑えなきゃいけない。隠さなければならない。  
そうしないと、全部壊してしまう。  
だけど、それがわかっていても―――いいえ、わかっているからこそ―――それは、耐え難いほどの誘惑だった。  
振り払うように首を振る。胸の澱みを押し流すように息を整える。顔を歪ませ泣き出さないように能面を作る。  
大丈夫。本心を隠すのは得意だ。いつも通りやればいい。そうすれば誰にも気づかれない。  
「……花菱さん?」  
「ッ―――!!?」  
誰にも……気づかれたことは、ない、のに―――  
「どうかしたんですか?」  
視線だけでそちらを向いた。滑らかに首を動かすことが出来そうになかった。それだけで精一杯だった。  
「……何が?」  
どうしてそんなことを言うのか。湧き上がる怒りを抑えて平然と嘘をつく。  
「いえ、何だかすごく、その……辛そうに見えたので……」  
なのにハヤ太君は、まるで私の言葉を聞いていないみたいに―――私の嘘を、最初から知ってたみたいに、そのまま聞いてくる。  
だけど、まだ大丈夫。  
軽く静かになんでもないと否定してもいいし、過剰に思わせぶりな態度で煙に巻いてもいい。  
どちらが、どうすれば、いいだろうか。とにかく、なんでもいいから、何か―――  
「……美希?」  
―――そんな風に惑う私を、ヒナの視線が縫い止めた。  
「別に、何でも……」  
「そんなはずないでしょ、どうしたのよ」  
何も考えられないまま返したあがきも、一言で容赦なく切り伏せられる。  
だけど、それでいてその言葉には、ごまかしを咎める厳しさやいい加減さを叱る強さはなく、ただ純粋な心配だけが表れていた。  
 
―――もう、無理か……な。  
それは、黒いものばかりが渦巻く私の心には、あんまりにもまぶしすぎた。  
ずっとそばにいたい。けれど、そうするには私は、ヒナのことを求めすぎてしまった。  
このままヒナを見ていたら、無駄だとわかっていても、ヒナを自分だけのものにしてしまいたくなる。  
奪って、囲って―――傷つけて。  
だけど、ヒナのことをどれだけ大切に想っていたとしても、所詮私に出来るのは友達としてそばにいることだけ。  
どんなに望んでも、私とヒナじゃ家族を築くことはできない。  
たとえ法や倫理が許しても……赦されないことだって、ある。  
「……知らないほうがいいことも、あると思わない?」  
シリアスな表情を作り、芝居がかったセリフを紡ぐ。  
結果の見えた悪あがき。それは多分、覚悟を決めるための時間稼ぎ。  
「もし……もしも、聞いたら私を嫌いになってしまうようなことだったら、どうする?」  
それは諦観。それは妥協。それは逃避。  
だけどきっと、それは最善。  
このまま、ヒナを傷つけるだけの私になる前に……せめて友達でいられるうちに、離れるための。  
「聞かなきゃよかったようなことだったとしても、知ってもどうしようもないことでも、本当のことが知りたいって……そう思える?」  
最初から届かないことは知っていた。だからこれは、叶いうる限り最高のハッピーエンド。  
「……うん。知りたい」  
そのまっすぐな瞳を、覚えていたいと思う。  
「本当のことがどれだけ辛いことだったとしても……何も知らないままのほうが、苦しいから」  
どれだけ傷ついても、試しても、恨んでも―――決して失われなかった、綺麗なものを。  
「そっちのほうがいいかもしれないわよ? 辛いことよりも、辛いかもしれない何かのほうがまだマシじゃない?」  
たとえこの先二度と見られなくても、ずっと忘れずにいたいから。  
「そうかもね……だけど、私は……私は、そんなの嫌なの」  
そしてせめて、今だけでもその力を分けてもらえるように。  
「ふぅ……」  
軽く、けれど長いため息。  
「実は、ずっとヒナに……そう、秘密にしていたことがあるの」  
「どうしたのよ、そんな顔して」  
よほど深刻そうな顔をしていたのか、気遣うように心配そうな表情で、ヒナが戸惑いの言葉を口にする。  
……そんな顔をしてほしいわけじゃないのに。  
「別に、たいしたことじゃないわよ……ただ」  
「ただ?」  
出来る限り軽い口調で、胸中全てからかき集めた微笑みを浮かべながら、告白を続ける。  
―――せめて今日が、出来るだけ綺麗な思い出になるように。  
「ずっと、言い出せなかったことがあるの」  
「……何よ、また私のティーセットでも壊しちゃった? それとも何か妙なイベントでもたくらんでるとか?」  
けれどそんな努力も、深刻さを煽っただけらしい。ヒナも軽い言葉を、不自然な笑みで問いかけてくる。  
軽い笑い話に出来るような内容。まるで冗談で済ませられるような話じゃないことを……決定的な変化を、恐れるように。  
まったく……最後まで上手くはいかないものだ。  
「もっとずっと前からの話よ。私たちが出会った時くらい、昔のこと」  
結論から入ろうかと思ったけど、今、性急にそれを言ってしまうと、ヒナは悪ふざけと取ろうとしてしまうかもしれない。  
ま、どの道ちゃんと通じたとしても、いい表情はされないわけだけど。  
だから私は瞳を閉じて、最初からゆっくりと、今までを思い返すように言葉を重ねていく。  
……ひょっとしたらそれは、少しでも話を続けていたい私のワガママなのかもしれないけど。  
 
「ほら、小学生のころ、塾で私が男の子からイジワルされてたときに助けてくれたじゃない?」  
世界から切り離されたような静けさと、傷つけるものなんて何一つない優しさを併せ持つ、完璧な闇。  
自ら閉ざした暗闇の中で、あの日の気持ちを思い出す。  
かっこいいとは思った。だけど、それだけだった。その本当の凄さを理解できないほど、私は子供だった。  
今思えばバカな話だ。だけど子供の視野は狭い。だから……それが凄いことだとは、わからなかった。  
あのころの私は―――ま、今もだけど―――親から何かを与えられるばかりで、自分の力だけで何かをしたことなんてなかった。  
だからヒナの強さも、かっこよさも、はじめから備わっている当たり前のものだと誤解して……だから、凄いなんて思わなかった。  
だって、私は他の人よりも多くのものを与えられていて―――だけど、ただそれだけだったのだから。  
「その時から、ってわけじゃないけど……」  
だから、ヒナの境遇を知ったときは、言葉に出来ないほどの衝撃を受けて……多分、その時。私はヒナを、好きになった。  
けど同時に、それは気づかせてはいけないものだってことも、理解してしまった。  
この気持ちがアブノーマルなものだってことくらい、当時の私にだってわかる。  
もしもヒナにそれを突きつけるなら―――いつだって正しく、まっすぐであろうとしたヒナを、傷つけてしまう。  
拒否されるのが怖い、というだけじゃない。  
ヒナはあれで女の子と身内に甘いところがあるから、私が本気ですがれば振り払いきれなかったかもしれない。  
だけど、そうしてヒナを縛り付けてもなお、ハッピーエンドには届かない。  
……そんなこと、できるわけがない。好きな人を傷つけることなんて、望めるはずがない。  
「私は、ヒナのことが―――」  
だから隠した。隠し続けた。  
日ごとに想いはふくらみ続け……苦しさもまた、増していった。望む自分になるために、どれだけの力を費やすのかを実感した。  
だから、また好きになり……そして、また、苦しくなる。  
限界があることは理解していた。だけど、それでも、出来る限り続けていたかった。  
けれどそれも終わり。だって今のヒナには―――好きな人が、いるんだから。  
「ずっと、好きだったよ」  
それは、ある意味では絶望の言葉。かなわないことがわかっていて、それでも伝えずには終われなかった言葉。  
だけど、私はずっと心の奥底にあった暗くて重い気持ちが溶けていくのを感じていた。  
泣きたくなるほどの痛みを感じているのに。いっそこのまま壊れてしまいたいくらいに打ちのめされているのに。  
なのに、この充足感は一体何なんだろう。  
重い荷物を運び終えた後のような、探し物をようやく見つけた時のような、喪失感を伴った肩の軽さ。  
何かをついに失ったような、何かをやっとやり遂げたような想いが、私の頬に浮かび上がる。  
きっとそれは、微笑みと呼ばれる表情だった。  
 
「ま、そういうこと」  
さて、後はヒナからごめんなさいを聞けばそれで終了、と。  
なんだか妙にさっぱりとした気持ちで、まぶたを開く。  
たとえヒナがどんな顔をしていても―――揺るがず受け入れるような態度を固めながら。  
「どうしてよ……」  
そんな風に穏やかだった私の心に、ヒナの身を削るような痛ましい声がさざなみを立てた。  
「どうしてそんな、さよならみたいなこと言うのよ……」  
その眼に浮かんでいたのは、驚きでも、嫌悪でも、拒絶でもなかった。  
おいていかないでと泣き叫ぶ子供のように痛ましく、そして小さな姿。  
それはつまり、私の気持ちを知ってなお、離れるのが嫌だと思ってくれているということで―――  
それを今から突き放さなければいけないかと思うと、くじけそうになってしまう。  
けれど……もう私は、自分の気持ちをさらけ出してしまった。  
もしもこのままヒナの傍に居続ければ、そう遠くないうちに、私は踏み越え、踏み外してしまうだろう。  
そうなる前に……せめて、離れることが悲しいと思ってもらえるうちに、綺麗なままでいられるうちに、終わらせないと。  
「じゃあ、どうするの?」  
ゆっくりと、言葉を吐き出す。出来るだけ静かに、そしてきっぱりと。  
頬には苦笑を。眦は下げ、穏やかな視線で。説き伏せるのではなく言い聞かせるように、言葉を紡ぐ。  
「そんな風に言ってくれるのは嬉しいけど、それでも私を一番好きになってくれるわけじゃないでしょ?  
 だけど私はヒナの一番が欲しいし……このまま一緒にいても、お互い辛くなるだけだと思うんだけど?」  
それは完璧な正論で―――絶望だった。  
ましてや、今のヒナには隣にハヤ太君がいるのだ。  
「だけど……だけどっ、そんなの―――」  
「なら、信じさせてくれる?」  
まったく……私の役回りは泣き出す側だと思うんだけど。  
「ヒナが私のことを大切に想ってくれてるって。そんなヒナを、ハヤ太君も嫌いにならないって」  
はい、これでおしまい。  
そんな都合のいい展開があるわけないし、あったとしても証明することなんて出来るはずない。  
それは目の前で迷いを見せるヒナにもわかるはずだし……私にはそれだけで、十分すぎる。  
 
揺れる視線。詰まる言葉。零れ落ちそうな涙。  
だけど、それらが溢れ出す直前に―――  
「らしくないですよ、ヒナギクさん」  
その微笑みが、全てを止めていた。  
本当に話を聞いていたのか疑わしくなってくるほど、能天気なまでに穏やかな、ハヤ太君の笑顔。  
つられたように、ヒナの表情も素に戻る。  
「……え?」  
「いつものように、とりあえずぶつかってみればいいじゃないですか」  
落ち着いた、声。  
「……ちょっと、いつ私がそんなことしたのよ」  
「最初に出会ったとき、木から降りられなくなってたこととかでしょうか」  
大きくも、激しくもなく―――けれど。  
「ぐ……つまんないこと覚えてるわね」  
「つまらなくなんてないです」  
その声は、強かった。  
「僕はそんなヒナギクさんを、好きになったんですから」  
迷いのないものだけが持てる、力強さに満ちていた。  
「何を……何を言い出すのハヤ太君!」  
それは幸運。それは希望。それは救い。  
だけどきっと、それは単に結末をその場しのぎで先送りにして―――その分、辛いものにしてしまうだけ。  
私はすがりつきたくなる本心に反して抵抗した。  
「何のつもり、って、聞いてるんだけど?」  
変わらぬ微笑。揺るがぬ瞳。その力強さが恐ろしい。  
恐怖を遮断するように瞳を閉じ、否定を重ねようとする。  
それでやっと、さっきの告白が、ヒナに気持ちを伝えるためじゃなく、自分の気持ちを吐き出すだけのためだったことに気づいた。  
「たいしたことじゃありません」  
そんな私にハヤ太君が向けたのは、気遣うような―――私の気持ちを全部わかってて、それを受け入れるような言葉で……  
ありえない。だってハヤ太君はヒナのことが好きなのに。なのにどうしてヒナを好きだと告げた私に、そんなことを言えるのか。  
不安があるはずだ。迷いがあるはずだ。絶対に弱気があったはずだ。  
なのに、どうしてこんなに強く、信じられるんだろう。  
「どうして……? どうしてそんなに簡単に、わかったようなことを言えるんだ?」  
「だって、僕も同じなんです。僕だって……ヒナギクさんのこと、自分ひとりだけのものにしたいって気持ち、ありますから」  
弱気な言葉。それは私の絶望と同じもので―――けれど決して、弱々しくはなかった。  
自然と示された共感に、思わず頑なに閉じていたまぶたを解いて、ハヤ太君を見る。  
理解できない。  
どうして、ハヤ太君がそんなにあっけなく私の気持ちを見抜けるのか。  
どうして、ヒナが納得したように穏やかな笑みを浮かべているのか。  
どうして―――私が、そんな二人を見て全く不安を感じないのか。  
「それは最高の環境で……だけど、それよりももっと素敵なことがあるんじゃないかって、思うんです。だから……」  
同じ、なんだろうか。  
私は、自分が男でさえあれば……なんて思っていたけど、ひょっとしたら、それは甘えだったんだろうか。  
「だけど、ハヤテ君……そんなワガママなこと……」  
揺れる声で、ヒナが問いかける。迷うように、ではない。間違いを、恐れるように。  
「最初に教えてくれたのは、ヒナギクさんですよ?」  
恐れを断ち切る、揺ぎ無い信頼。余計なものなんて一切ない、一途な想い。  
「ヒナギクさんは、僕のワガママを聞いてくれました」  
その声に同情が混じっていれば、私は怒ることができただろう。  
「僕のワガママを、許してくれました」  
もしも優越感や余裕が見えたなら、それを蔑むことができた。  
「僕のワガママを―――求めて、くれました」  
たとえあきらめの言葉だったとしても、叱ることは、できた。  
「だから、今度は僕の番です」  
なのにハヤ太君は、強く、けれど自然と信じるように笑みを浮かべるだけで……  
だから私は、ただ立ち尽くすことしか、できなかった。  
 
「……ありがとう」  
そう言って、ヒナはふわりと微笑んだ。  
いつもの勝気な笑みじゃない。生徒会長として皆に向ける優しげな笑みでも、親しい人と交し合うような楽しげな笑みでもない。  
ただ好きな人に愛しい気持ちを伝えるためだけの、恋する少女の笑み。  
それはヒナを見慣れた私には違和感すら覚えるほど珍しく―――同時に、とてもヒナに似合う表情だった。  
「私もね? ずっとハヤテ君と二人きりならって思うことはあるの」  
思えば、それは当然のこと。誰もが願う、わかりやすい幸せ。  
「それだけで本当に十分すぎるし、他に何もいらないって思うのは確かだけど……  
 だけど……それでもし誰かが悲しむとしたら、そんなの嫌だなって思っちゃうの」  
だからこそ、相手にそれ以上を求めることは、勇気がいるのかもしれない。  
「これって、ワガママかしら?」  
「そうですね」  
微笑みあう二人。心から通じ合う二人だけが出来る、遠慮のない笑み。  
そこには信頼があった。勇気があった。私がどうしても見つけることができなかったものが、眩いほどに輝いていた。  
「でも、きっとそれは、素敵なことだと思いますよ」  
まったく……かなわないなぁ。  
敗北感に、肩の力が抜けてしまう。この二人なら大丈夫だって、素直に信じられてしまう。  
この二人なら、私が割り込む隙間はないし―――私がそばにいても、大丈夫だ……って。  
「さて! それじゃあ、美希?」  
勢いよくこちらへと振り向いて、両手を私の肩に置き、覗き込むようにしながら、ヒナが答えを返してきた。  
「私は、美希とさよならなんてしたくないの。そんなことしなくても大丈夫だって信じたいの」  
不敵と言うにはあまりに繊細。可憐と呼ぶにはあまりに晴れやか。  
そんな、とても『ヒナらしい』笑みを浮かべて。  
「私と一緒にいることよりも、私自身が大事だなんて……そんな寂しいこと、言わせないから」  
ゆっくりと、近づいて―――  
「だから―――覚悟しなさい」  
額に触れる唇と、そこから破裂するように広がる熱。  
にじむ私の視界に、二人の笑顔が映る。無理も、嫌悪もない、迎え入れるような笑み。  
この笑顔が陰らない限り、決して後悔することはないって確信できるような、温かな微笑み。  
それだけで、何とかなる気がした。  
ただそれだけで、頑張っていけるような気がした。  
「まったく……後悔しても、知らないから」  
そう言って目を細めた拍子に、固く縛った気持ちが解けるように、涙が零れ落ちた。  
反射的に止めようとしたけど、どうしても止めることが出来なかった。初めて泣くことを許されたような気持ちがした。  
だって、その雫は―――まるで二人の微笑みのように、温かかったから。  
いつか、この選択の先に、ひどい苦しみが待っているかもしれない。  
何とかなるなんて勘違いで、私は結局、ヒナを傷つけてしまうかもしれない。  
ましてや、二人の進んでいるのはただでさえ困難の潜む道なのだから。  
だけど―――それでも。二人と一緒なら、後悔はしないと確信できた。  
「しないわよ、そんなこと……ね?」  
「はい。もちろんです」  
ヒナの指先が、私の雫を掬い取る。零れ落ちた気持ちまで救うように、優しく。  
ヒナとハヤ太君が、守ってくれた気持ち。  
だから私も守りたいと思う。ヒナだけじゃなくて、二人と、二人の大切な全ての人たちを。  
「そっか……じゃあ、大丈夫かな」  
そう言って、私は望む未来に届くよう、静かに祈り、微笑んだ。  
いつか、最高に最高なハッピーエンドを迎えることを誓って。  
 
 

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