「は・・・っ、はぁ・・・っ、はぁ・・・」
もう二度と戻ることはない――――――
数時間前、そう思いながら閉じた門を、今こうして開いて・・・
僕は、お屋敷へと戻ってきました。
帰ってきた・・・帰ってこれたと思うと、胸にじわりと込み上げてくるものもありますが・・・
今はそんな感慨に浸っている余裕なんてありません。
息が整うのを待つのももどかしく、玄関までの道を一気に走り抜け、お屋敷へと駆け込んで―――
「マリアさんっ!」
彼女の姿を求め、その名を呼びますが・・・
「・・・・・・」
返事は・・・ありません。
すぐに駆け出してマリアさんの部屋に向かい、
扉の前で一呼吸して息を整えると、
逸る心を抑えながら軽くノツクして―――
「マリアさん。 僕です・・・ハヤテです」
・・・やはり、返事はありません。
「・・・失礼します」
扉を開いても、部屋にはマリアさんの姿はありませんでした。
なんとなく、ですが・・・そんな予感はありました。
お屋敷中を駆け回ってみても、やはり探し求める彼女の姿を目にすることは叶いませんでした。
少しだけ、嫌な考えがよぎります。
僕が出ていって・・・お嬢様も飛び出してしまって・・・・・・
マリアさんがここに残る理由は――――――
そんな想像を、頭を振って追い出します。
代わりに思い出すのは、あの人と過ごした日々のこと。
マリアさんとここで重ねた、たくさんの時間のこと・・・・・・
そんな幾つもの思い出の断片から、どうして“そこ”を選んだのか・・・
特に根拠があった訳ではありません。
ですが・・・僕の足は、自然とお屋敷の外へと向かいました。
広大な三千院家の庭ですが、目指すところはただ一ヶ所。
いつか、落ち込んだ僕を励ましてくれた・・・導いてくれた・・・・・・
あの、池のほとり。
―――そこに、彼女は居ました。
石の上に腰を掛けて、膝を抱え・・・顔を伏せて。
月明かりの下、うずくまっていたマリアさんの背中は・・・・・・本当に頼り無く、小さく見えました。
僕は呼吸を整えると、逸る心を抑えながら・・・一歩、一歩と彼女に歩み寄ります。
ざ、ざっ、と・・・静かな夜の空気に、僕の足音はいやに大きく響きます。
ですが、その音がマリアさんにも届くであろうところまで行っても、
彼女は振り向いてはくれません。
僕はそのまま、彼女まであと数歩、というところまで歩み寄り、
胸の奥から溢れだしてしまいそうな感情を言葉に変えて・・・・・・
「マリアさん」
ゆっくりと紡いでゆきます。
「僕です・・・ハヤテです・・・・・・」
マリアさんの肩がぴく、と揺れたのは・・・ただ風のせいなのかも知れません・・・・・・
マリアさんは、それ以上は動かず・・・何も言わず・・・・・・
「マリア・・・さん?」
聞こえていないのか・・・もしかしたら・・・・・・無視、されているのか・・・
背筋を冷たい感触が走ります。
僕は、マリアさんも僕と同じ気持ちだとばかり思っていました。
―――別れたくないって・・・もう一度、会いたいって・・・
ですが・・・思えば、僕はこの人を・・・・・・置き去りにしたのです。
僕の身勝手な告白で心を乱し、
それでも想いを告げてくれた・・・応えてくれた彼女を置き去りにして、
僕は一人・・・お屋敷を逃げ出したのです・・・・・・
だから・・・これは、仕方ない・・・受けるべき罰のようなもの、なのかも――――――
「あなたは―――」
そんな勝手な想像に、一人で眉をひそめかけていたその時・・・
その声は確かに聞こえました。
「あなたは・・・本当に、ハヤテ君・・・なのですか・・・?」
聞きたくて堪らなかった彼女の声は、夜風に紛れて消え入りそうなほどか細く、
そして、
「マリアさん・・・?」
どう答えてよいのかわからない・・・その真意を量りかねる言葉でした。
為すべきこと、言うべきことが見つからず、僕はただ一歩、マリアさんへと歩み寄ります。
じゃり、と・・・冬の地面を踏む靴音に、マリアさんの身体が今度は間違いなく、
ぴくり、と反応します。
でも・・・こちらを振り向いてはくれません。
「今まで・・・何度も聞きました・・・・・・ここに来てくれた、ハヤテ君の足音を」
「え・・・?」
一体・・・何を・・・?
「でも、振り返るとそこには・・・ハヤテ君はいませんでした。
そうですよね・・・・・・ハヤテ君は、もう・・・ここに来てくれるハズがないのに・・・」
どうすればいいのかは・・・わかりません、でも・・・
いま、僕の為すべき事はきっとこうだって・・・直感に背中を押されて、
また一歩、マリアさんの背中に近づきます。
「そう思って振り返るのをやめようとしたら・・・今度は、ハヤテ君の声まで聞こえてくるんです・・・
私の名前を呼んでくれる・・・・・・ハヤテ君の声が」
「マリアさん・・・僕は・・・」
もう、一歩。
「でも・・・でも! それでも! 振り返るとハヤテ君の姿はなくて・・・・・・
わかってるんです! ハヤテ君が戻ってくるハズがないって!
戻ってこられる訳がないって!
足音も、声も・・・全部私の心が勝手に作り上げた、幻聴に過ぎないって・・・わかってるんです・・・」
ずき、と胸が軋む思いでした・・・
マリアさんは・・・・・・こんなにも・・・・・・
「だから・・・・・・もう振り返らない・・・・・・振り返れません・・・・・・
もしまた、幻だったら・・・振り返ってもハヤテ君がそこにいなかったら・・・・・・
私は・・・私は、もう・・・・・・う・・・・・・ぅう・・・っ、っく・・・ぅ・・・うぅう・・・」
「マリアさんっ!」
その名を呼んで・・・いや、叫んで――――――
僕は、彼女を後ろから抱き締めていました。
「幻なんかじゃありません! 僕はここにいます・・・綾崎ハヤテは・・・・・・ここにいます!」
声を張り上げたのは・・・怒っていたから。
マリアさんにではなく、この不甲斐ない自分自身に。
このヒトは、こんなにも僕のことを想っていてくれていたのに・・・
そんなヒトを・・・・・・置き去りにして逃げ出した自分に・・・
少しでも疑ってしまった、自分に!
・・・でも、今は自責の念に駆られている時ではありません。
この腕の中で震えている華奢な肩を・・・愛しい人の冷えきった身体を、少しでも温めてあげたくて―――
「マリアさん・・・」
もう一度、今度は彼女の耳元で囁くように名前を呼んで、
ぎゅっと・・・抱き締めました。
永久に失ったと思った、この人の温もりを・・・僕の身体に刻み込むように・・・・・・
「・・・・・・ハヤテ・・・君・・・?」
「はい」
マリアさんの手が、彼女を抱き締める僕の腕に触れました。
こうして抱き締められても・・・それでも、まだこの感触が信じられない・・・
信じたい、けれど・・・信じるのが怖い、とでも言うように・・・恐る恐る、微かに触れて、
「ハヤテ・・・君・・・」
僕の腕をぎゅっ・・・と掴んで・・・
そして、確かめるように発せられた声。
「本当に・・・本当に、ハヤテ君・・・なのですね・・・?」
その声は震えていました。
すがるような声に応える為に、僕は彼女に腕を預けたまま立ち上がり、
膝を抱えてうつむいたままのマリアさんの正面に立って、
小さく、ですがはっきりと言葉にします。
「マリアさん」
幻じゃないって、伝えるために。
「僕は―――ここにいます」
マリアさんはゆっくりと顔を上げて・・・
目と目が、合って・・・
「ハヤテ君・・・」
「マリア・・・さん・・・!」
もう二度と会えないって・・・一度はそう覚悟すらした最愛のヒトの顔は、月明かりに照らされて・・・
そこに浮かぶのは、涙の跡が残る頬、泣き腫らした目・・・
そんな彼女の悲痛な表情を見て、すぐに理解しました。
僕に裏切られたお嬢様を、西沢さんが支えてくれました。
そんなお嬢様とヒナギクさんが・・・絶望を抱えて去って行こうとした僕を、再びここへと導いてくれました。
でも・・・・・・マリアさんはその間、ずっと一人だったのだと。
僕とお嬢様の間の誤解をただ一人、知っていたこの人は、
僕のことを想ってくれるようになったその日から・・・ずっと苦悩していたのだと。
そして・・・その誤解が招いた出来事の責任を、きっと全て自分のせいだと思い込んで、
この寒い夜に、ずっと一人・・・ここで膝を抱えて・・・・・・自分を責めていたのだと・・・・・・
「―――ハヤテ君っ!」
だから僕は、すがりついてきた彼女を受け止めて・・・
そして僕も、彼女の背中に腕を回して・・・思いきり抱き締めて――――――
「もう・・・会えないって・・・・・・お別れなんだって・・・
ハヤ・・・っ、く・・・・・・ぅあ、あぁ・・・う、うぅ・・・!」
「もう、何処にも行きません・・・ずっと、そばにいます・・・・・・
マリアさんのそばにいます!」
僕がお嬢様達に支えられてここへ戻ってこれたように、
今度は・・・僕があなたを支えます。
だから泣かないで・・・・・・笑顔を見せてください・・・・・・
って、言いたかったのですが・・・
ダメでした。
僕も・・・涙が、抑えきれなかったから――――――
やがて、マリアさんの嗚咽はすすり泣きに変わり、それも静かになってしばらくして・・・
「・・・ごめんなさい、ハヤテ君・・・恥ずかしいところをお見せして・・・」
「いえ、気にしないで下さい。 僕も似たようなものですから・・・」
顔を上げたマリアさんの表情に微笑みはまだ戻ってはいませんでしたが、
涙で潤む瞳は、少しだけ安堵の色を湛えていてくれました。
ですが・・・まだ、話さなくてはならないことも、話したいことも残っています。
それを全て伝えなくては、マリアさんの笑顔をもう一度目にすることは叶わないでしょう。
「寒いとは思いますが・・・少し、お話していいですか?」
「はい・・・私も聞きたいことがありますから・・・」
僕は一度マリアさんから離れると震える彼女に僕のコートを羽織らせて、
石の上に並んで腰をかけました。
「・・・・・・お嬢様が、追い掛けてきてくれました」
「ナギが、ですか・・・」
寒い中、マリアさんをいつまでも座らせておく訳には行きません。
それに・・・彼女の聞きたいことと、僕の話したいことはきっと同じでしょうから、
前置きは無しです。
「はい。 一緒に帰ろうって・・・昨日までのように、マリアさんと、僕と・・・
三人で、このお屋敷で暮らしたいって・・・言って下さいました」
「あの子が・・・・・・」
それはマリアさんにとって、余程意外だったのでしょう。
うつむいていた顔を上げて、目を見開き気味にして・・・
「あの子は、ハヤテ君が出て行った後・・・私に、“ウソツキ”って言い残して、飛び出して行きました。
私のことも、ハヤテ君のことも・・・とても許してくれるようには見えなかったのですが・・・」
僕も、そう思っていました。
それに、許して貰おう、とも思えなかったのですが・・・
「ちゃんと聞いた訳ではありませんが・・・
途中で西沢さんと出会ったようで・・・多分、親身になって話してくれたんだと思います。
それから・・・僕を捜してくれて・・・
最後のギリギリのところで、僕をここへと繋ぎ止めて下さいました」
「そうだったんですか・・・」
マリアさんの表情に、微かな安堵の色が浮かんでいました。
僕が勝手に戻ってきた訳ではなく、お嬢様がそれを認めて下さっていること・・・
そうでなくては、僕が帰ってきたとは言えないのですから。
ですが・・・マリアさんにいつもの素敵な微笑を浮かべさせることはまだ出来ません。
「でも、そうすると・・・」
不安げな口調でそれだけ言って口をつぐむマリアさんもまた、わかっているのでしょう。
これだけでは・・・お話は振り出しに戻ったに過ぎないのです。
僕とお嬢様の間の誤解こそは無くなりましたが、それは潜在していた問題が顕在化しただけのこと。
解決とはまったく違います。
そして実際に、まだ何も解決してはいないのです。
でも・・・だからこそ、マリアさんに伝えなければいけないことがあります。
「お嬢様に、まだ諦めないと言われました」
「諦め・・・」
言葉の意味を少しだけ考えたのか、ひと呼吸ほどの間を置いて、
「それは、ナギが・・・ハヤテ君のことを・・・ということですか?」
「はい」
僕を見上げる彼女の表情に、再び不安げな陰が射します。
でも・・・
「その上で、こうも言われました・・・
“それでもお前が、お前の今の気持ちを貫くというのなら・・・私にそれを認めさせてみせろ”
・・・って」
その言葉が暗示するのは、この先の平穏ではない日々。
確かにそこには希望の光も見えてはいますが、
「ナギに・・・認めさせる、ですか・・・」
それがどれだけ困難であるかは、お嬢様と付き合いの長いマリアさんのこと。
僕以上に実感されていることでしょう。
「はい・・・そんな訳で正直、この先どうなるか・・・
お嬢様がどうされるかも、僕がどうなるかも・・・まだ、はっきりとは何も言えません」
こんな時、自信をもってマリアさんを安心させてあげられるような言葉をかけてあげられればって・・・
そう思います。
ですが、僕は・・・まだ未熟です。
借金だって一年働いた分だけ、つまり40分の1しかお返し出来ていません。
執事としてもまだまだ一流には程遠く・・・
これでは、お嬢様から認めてもらう以前の問題です。
でも・・・いえ、だからこそ―――!
「だから、まずは借金を全額返済すること・・・そこから始めようと思います!」
「・・・はい?」
マリアさんが思わずきょとん、とした顔をされますが、僕はそのまま話し続けます。
「借金を返して・・・その上で僕は、成り行きなんかじゃなく・・・
自分の意思でお嬢様の執事になります!」
「は・・・はぁ」
「そして・・・執事として、お嬢様からも、誰からも認められるような、
一流の執事になってお見せます!」
それで一旦、言葉を切って、
僕の意図を量りかねる、といった感じでぽかんとしているマリアさんに笑いかけながら―――
「それくらいにならないと、
マリアさんと釣り合うなんて誰にも認めて貰えそうにありませんからね」
「・・・・・・!」
僕の想いが伝わってくれたのでしょうか、
マリアさんの表情からは不安げな色は薄れ、頬に微かな朱が差して―――
「ですから、すみませんマリアさん・・・しばらく待って下さい。
僕は出来るだけ早く借金を返して、必ず一流の執事になって、その時こそ・・・マリアさんを・・・・・・」
それ以上は、今はまだ言葉に出来なくて、
ただ、この想いが伝わってくれるようにと・・・彼女のことを見つめました。
マリアさんは目を逸らしたりせず、僕の目を見て・・・
そして、軽く目を細めて・・・
「・・・でもそれでは、下手をすると40年待たなくてはいけないかもしれませんねぇ」
「え!? あ、いや! そ、そんなにはお待たせしません!
2、3年のうちには何とか、いや! 必ず!
ほら、白皇の伝統行事なんかもありますし、それで―――」
「冗談ですよ」
そう言って僕を見上げるマリアさんは、悪戯っぽく、
だけど、とても魅力的に・・・
「40年だって50年だって・・・ずっと、待っていますよ」
笑ってくれました。
ずっと見たかった、この人の・・・大好きなヒトの、大好きな笑顔を見て・・・
「・・・出来るだけ、お待たせしない方向で・・・」
「はい♪」
やっと、心から思うことが出来ました。
僕はここに・・・マリアさんの元に、帰って来たんだ、って。