お屋敷へと向かう車の中、僕はお嬢様と並んで後部座席に座っていました。
一年前の真実を知ったとき、自分はもうお嬢様の隣にはいられないと・・・
お嬢様に言われるまでもなく、お屋敷を出ていくべきだと・・・そう、思っていました。
でも結局、僕は今こうしてお嬢様の隣に座っています。
「なぁ、ハヤテ」
「はい、お嬢様」
あれから、お嬢様は僕の手を握ったまま、放そうとしません。
車に備え付けの救急箱で擦り剥いた膝と手の平を手当てしている間も、
空いている方の手はずっと僕の袖を掴んだままでした。
もう逃げたりしませんよ―――なんて冗談めかして言ってみたりもしましたが、
お嬢様はうつむいたまま、僕の手を放そうとはしませんでした。
「何処に行こうとしていたのだ?」
そんなお嬢様が口を開いたのは、車が走り出してからしばらく経ってからのこと・・・
「はい・・・遠くへ・・・」
「アテはなかったのか?」
「はぁ、まぁ・・・どこかの漁港まで密航して、
以前に何度か乗った遠洋漁業の船にでも乗せて貰おうか、くらいは考えていましたが・・・」
「やはりか・・・」
「お見通し、でしたか」
お嬢様はふん、と微かに笑い、
僕自身も、はは、と軽く笑ってしまいました。
確かに・・・安易ですよね。
「だがハヤテ、密航だったら、あんな目立つところにいてはマズかったのではないか?」
「そうですね」
確かにその通り。
ああいうことも以前は慣れっこでしたから、発見されにくいポイントは熟知していたのですが・・・
「出来るだけ早くここを離れなきゃ、って・・・思ってたんです。
でも、出航まであと僅かっていう時、つい・・・・・・」
「名残を惜しんでいたのか」
「はは・・・本当にお見通しなんですね」
ふっと、小さく息をついて・・・その時の気持ちを振り返ってみます。
自分が腹立たしくて、情けなくて、お嬢様とマリアさんに申し訳なくて・・・
でも、やっぱりどうしようもなく寂しくて、切なくて・・・
「お屋敷を出てから、偶然ヒナギクさんに出会ったんです」
お嬢様は“口を挟む意図はない”とでも言うように、小さく相槌をうたれるだけ。
「引き留めてくださって・・・嬉しかったのですが、
お嬢様に会わせる顔がなくて・・・お断りしてしまいました。
そのまま別れを告げようとした時、言われたんです。
―――必ず、帰ってくるように・・・って」
胸に響く言葉でした。
僕はまた・・・今度こそ、全てを失ってしまったと思っていたのですが・・・
そうではなかったのです。
僕との別れを惜しんでくれる人がいるんだ・・・って。
「それで・・・考えてしまったんです。
お嬢様に救われてからの一年のこと・・・出会った沢山の人達のこと・・・」
散々だった僕の人生のなかで、間違いなく一番輝いていた一年。
キツいことも辛い思いをすることも沢山あったけど、それでも文句なしに楽しかった、一年。
生まれて初めて・・・スキな人ができた・・・恋をした、一年。
「そんなことを思ってる間に何本か船をやりすごしてしまいまして・・・
いい加減に覚悟を決めて船に乗り込んだんですが、最後にまた、未練に駆られた・・・んでしょうね。
なんとなく、お屋敷の方を眺めたくなったんです」
いかに広大なお屋敷も、そびえ立つ学院の時計塔も、もちろん・・・あの人の姿も、
ここからでは見えないってわかっていたんですけどね・・・
「そこを私が見つけた、という訳か」
「はい」
答えて、思わずクス、と笑みが溢れてしまいます。
「そんな気分に浸っていたら、いきなり激しい音がして、何かと思ったら・・・」
「ふん・・・」
転んだところを見られたのが恥ずかしいのか、お嬢様はちょっと拗ねられてしまった様ですが・・・
「でも、お嬢様が来てくれたってわかって、嬉しかったんですよ?」
「・・・そうか」
「はい・・・でもやっぱりあの時は、お嬢様と会わせる顔がない、っていう思いも強くて・・・」
逃げ出しもしませんでしたが、すぐにお嬢様の元へ駆け寄ることも出来ませんでした。
「そのせいで、お嬢様を危険な目に遭わせてしまいました」
「いいよ、無事だったしな。
それになんだ・・・ハヤテに助けられて・・・嬉しかったぞ・・・」
ぎゅっと・・・お嬢様の手が、僕の手を握り締めていました。
あの時。
お嬢様が迫っていたトレーラーに全く気付く様子もなく路地から飛び出した瞬間・・・
僕は叫びながら・・・・・・考えるより先に、跳んでいました。
お嬢様の元へ――――――文字通り、疾風の如く――――――
「まったく・・・あんな助け方をされては、ますます・・・・・・」
「はい?」
「―――っ! だから・・・その・・・!
ますますハヤテのことがスキになってしまうではないか!」
「あ・・・あは、はは・・・」
なんと言いますか・・・思わず引き攣った笑い方をしてしまう僕を、お嬢様はじろりと睨まれて・・・
「・・・なんだその嫌そうな笑いは?」
「い、いえ! その・・・」
「・・・ふんっ!」
ぷいっ、とそっぽを向かれてしまいました。
「いいかハヤテ! さっきも言ったがな、私はお前のことを諦めるつもりは毛頭無いからな!」
そう・・・そこは、根本的には何も・・・解決されてはいないのです。
お嬢様は僕のことを想ってくれている・・・それは、嬉しいことではあるのです。
でも・・・僕は・・・・・・
「ハヤテ!」
「は、はい!?」
「お前は誰がスキなのか・・・言ってみろ」
「へ!?」
「いいから! 早く!」
唐突です、でも・・・そうですね・・・・・・お嬢様ははっきりとご自分の気持ちを言葉にされました。
ならば、僕も――――――
「・・・マリアさん、です」
僕の手を握るお嬢様の手に、ぴく、と力が入ったのが伝わってきます。
それでも・・・僕は、やっぱり・・・・・・
「僕は・・・マリアさんがスキです」
ぎゅ、と・・・
お嬢様の手を、傷に響かないように気を使いつつ、それでも・・・強く握り返しながら、そう答えました。
お嬢様は“ふっ”、とひとつ溜息を吐いて、
「そうか」
と穏やかに言われ・・・ながら、じろりと僕の顔を睨みつけて・・・
「それでも私は諦めないからな。
いつか必ず・・・借金だとか、執事と主だとか、そんなことと関係なく・・・
一人の女として、必ずお前の気持ち・・・捕まえてみせてやる!」
それだけ言うと、またしてもぷいっと窓の方を向かれ・・・
「だから・・・」
微かに肩を震わせて、
「それでもお前が、お前の今の気持ちを貫くというのなら・・・私を諦めさせてみせろ・・・」
僕の手をぎゅ・・・っと握り締めて・・・
「認めさせてみせろ!」
叫ぶように、言われました。
・・・・・・言って下さいました。
「・・・はい」
お嬢様の手は、僕の手を握り締めたまま。
その小さな手は温かく・・・
でも、その温もりに・・・胸が少しだけ、痛みました。
それから僕たちは何も言わず、黙ってシートに身体を預けていました。
やがて車が高速を降り、スピードを落としたところで、
「お嬢様、そろそろお屋敷ですね」
本当に何気なく、僕はそんなことを口にしました。
「む・・・」
それまでずっとうつむいていたお嬢様も、やはり何気なく顔を上げて、
窓の外に目をやっていましたが・・・
「おい、止めろ」
「へ?」
「いいからすぐにだ!」
唐突に、有無を言わさぬ口調で命じ、
車が止まると戸惑うSPの方には目もくれず、
お嬢様はちらり、と僕を振り返り、さっさと外に出てしまいます。
「お嬢様・・・?」
ついてこい、ということなのか・・・
どのみちお嬢様を一人にする訳には行かず、後を追って外へ出ると、
お嬢様が向かうその先には、女の子が二人。
一人は自転車を支えていて、もう一人はピンク色の長い髪の―――
「・・・ハヤテ君!」
「ハヤテ君・・・」
「ヒナギクさん・・・西沢さんも・・・」
お二人がどうしてこんなところにいたのか・・・
車がここを通ったのは偶然ですが・・・彼女達がここにいたのは、きっと偶然なんかじゃありません。
その理由は、恐らく・・・
「ったくバカモノめ、この寒い中、ずっとここにいたというのか」
「あ、あはは・・・でもほら、やっぱり・・・・・・気になって・・・」
「それにしたって、私が帰りもここを通る保証なんて無かっただろうが・・・
それに大体、なんでヒナギクまでここにいるのだ」
「なんでって、歩にハヤテ君のことを伝えたのは私なのよ?
そりゃあ、ハヤテ君のこと・・・止められなかったけど、でも・・・
だからって歩に全部押し付けておいて、それで自分は家でのうのうとなんて、してられるワケないでしょ!」
「む・・・」
やっぱり・・・考えていた通りみたいです。
「でも・・・・・・待ってた甲斐はあったかな」
「ふん、任せておけと言ったろう」
「うん・・・」
お嬢様と軽く言葉を交わすと、西沢さんはじっと僕を見て・・・
「帰ってきてくれたんだね・・・よかった・・・」
目を潤ませて、そう言ってくれました。
数日前、僕は西沢さんに告白されて・・・その気持ちに応えることが、出来ませんでした。
にも関わらず、彼女は・・・・・・
「おかえりなさい、ハヤテ君」
頬に涙の跡を残したまま、それでも満面の笑顔でそう言ってくれるのです。
だから・・・たくさんの申し訳なさと、そして・・・心からの感謝を込めて―――
「はい・・・ただいまです、西沢さん」
精一杯の笑顔で応えました。
「ご心配をおかけしました」
「全くよね」
「う、す、すみませんヒナギクさん・・・」
一方のヒナギクさんは、ジロリと僕のことを睨みつけて・・・
「いきなり一方的にあんな別れの挨拶なんて、された方はどんな気持ちになると思ってるのよ!」
「す、すみません! ホント、すみません・・・」
「あんな風に別れて・・・本当にもう二度と会えないんじゃないかって思ったら・・・私・・・・・・!」
顔を伏せて、肩をわなわなと震わせて・・・そしてくるりと後ろを向かれ、
「・・・まぁ・・・ちゃんと、帰ってきたから・・・・・・今回は・・・許してあげるわ・・・」
途切れ途切れの声で、そう言ってくれました。
「ヒナギクさん・・・」
僕がこうしてここに戻って来られたのは、ヒナギクさんのあの一言―――
「必ず帰って来いって言ってもらえて・・・嬉しかったです」
それが僕を、“ここ”に繋ぎとめていてくれたのですから。
「本当に・・・ありがとうございました・・・」
「・・・・・・うん」
そんな感謝の思いを込めて・・・
ヒナギクさんの震える背中に、僕は深く頭を下げました。
「でもよかったよ・・・ハヤテ君が帰ってきてくれて・・・本当に・・・」
「連れて帰ってきたのは私だがな」
「うん・・・そうだね、じゃあ今日のところは、お礼を言わなきゃかな」
「・・・今日のところは?」
「うん、あくまで今日のところは。
だってハヤテ君が戻ってきてくれた以上、ナギちゃんと私はライバルだからね!
当然じゃないかな?」
「む・・・」
西沢さんのお嬢さんに対する話し方は何処となく挑発するような感じですが、
でも、そこには険悪な感じじゃない・・・何となく、親密なものが込められているように聞こえます。
「調子に乗るなよ!? 私が動かなかったらハヤテはここに戻ってはこられなかったのだぞ!?」
「でもナギちゃんにそうお願いしたのは誰かな?」
お嬢様が迎えに来てくれたその前に、二人に何があったのか・・・僕にはわかりません。
僕は二人の気持ちを知っていて、
でも、少なくとも今は―――そしてきっと、最後まで―――その気持ちには応えられません。
お嬢様はそれでも尚・・・僕を許し・・・受け入れてくれました。
西沢さんはきっと・・・そんなお嬢様を後押ししてくれたのだと思います。
ならば、僕が為すべきことは、その気持ちを・・・
痛みを伴う想いを受けとめて、その上で―――普段通りに振る舞うこと。
「歩だってヒナギクに頼まれなけりゃ、知りもしなかったんだろうが!」
「あら、じゃあ私のお陰?」
「んな・・・っ!? ば、バカを言うな!
誰に何も言われなくたって、すぐに探しに行ったに決まってる!」
「どうかしらねぇ? またこんなことにならないか今から心配だわ。
そうだ・・・ねぇハヤテ君、やっぱりウチにこない?
部屋も空いてるし、ハヤテ君ならお義母さんも大歓迎だろうし」
「んなっ!? ま、待てヒナギク・・・まさかお前も!?」
「だ、ダメなんじゃないかな!? いくらヒナさんでもそれはズルいんじゃないかな!?」
いつの間にかヒナギクさんまで加わって・・・
他人事のように聞き流していられる話題ではないのですが、
お嬢様達の声を聞いていて・・・・・・改めて、実感しました。
そう、ここが・・・僕が帰ってきた“場所”。
たくさんの大切な人がいて・・・
応えられない想いもあるけれど、それでも・・・受け止めて、受け入れて・・・
ここにいたいって、心から思えるような・・・僕の、居場所。
「・・・・・・おい、ハヤテ?」
「・・・あ、はい!?」
「どうしたのかな? ぼーっとしちゃって」
「そうよハヤテ君、あなたのことを話してるっていうのに」
「す、すみません、その・・・・・・帰ってきたんだなぁ、って・・・」
・・・ただでさえ今回の騒ぎを起こした張本人な上に、
こうして話も聞いていないようでは怒られてしまいそうですが・・・
お嬢様達は顔を見合わせて・・・溜息を吐かれて、でもそれから、
「そうね、お帰りなさい・・・」
「うん、お帰りなさい、ハヤテ君」
西沢さんとヒナギクさんは、そう言ってくれました。
「ふん、まぁいい・・・」
お嬢様は、やれやれ、という感じでそう言って、そして・・・
「よし、歩、ヒナギク。 カラオケに行くぞ」
唐突にそんなことを口にされました。
「は?」
「・・・へ?」
お嬢様の突飛な提案に、西沢さんもヒナギクさんも目を丸くします。
僕だってびっくりですけど・・・
「ほら、何をグズグズしている! とっとと行くぞ!」
そんな僕たちの様子など構うことなく、
お嬢様は西沢さんとヒナギクさんの手を取って、有無を言わさず歩き出そうとします。
「ナギ!? どうしたのよ急に?」
「わ、ちょ、ちょっとナギちゃん!?」
「なんだよ、イヤなのかよ」
「べ、別にそういうワケじゃないけど・・・」
「いや、イヤじゃないけど! あ、それじゃあ! ハヤテ君も一緒に―――」
お嬢様に引きずられつつある西沢さんが、空いている方の手を僕に差し出してくれます。
でも、僕には・・・
「ハヤテには行くところがある」
僕が口を開く前に、お嬢様がそう言われました。
「あ・・・」
その言葉が意図するものを、西沢さんもすぐに理解されたのか・・・
「うん・・・そうだね・・・」
僅かに表情を陰らせながら、それでもあくまで笑顔のまま・・・
「今日は・・・仕方ない、かな」
そう、言ってくれました。
「西沢さん・・・」
僕も、せめて何か一言、言わなくてはと思いつつ、
でもなかなか言葉が浮かんでこなくて・・・
「いいかハヤテ! 今晩だけだからな!」
「お嬢、様・・・?」
「今日は、その・・・い、色々あったから、特別に許してやる・・・
だがな! 二人きりにしてやるのは今日だけ! 今夜だけだからな!」
ああ・・・・・・
「だからモタモタしてないで・・・・・・早くマリアのところへ行ってやれっ!」
お嬢様――――――
「はい・・・」
本当に・・・
「ありがとうございますっ!」
「・・・ふん」
「仕方ないわね・・・じゃあ今夜はいいけど、まだまだ言いたいことは沢山あるんだから・・・!
今度じっくりと付き合ってもらうからね!
それじゃあまたね! ハヤテ君!」
「はい、ヒナギクさん! また今度です!」
「わ、私も今日はちょっと心配かけられちゃったし・・・今度、ちょっと付き合ってもらおうかな!
うん、仕切りなおしだからね・・・じゃあハヤテ君、またね!」
「はは・・・はい、わかりました、西沢さんも、また今度!」
ヒナギクさんと西沢さんと、“さよなら”ではなく“また会いましょう”と挨拶を交わし、
そして・・・
「ハヤテ・・・・・・」
「はい、お嬢様」
「マリアのこと、頼んだぞ・・・」
「・・・はいっ!」
「では、明日の朝には帰るからな」
一緒に帰ることにはなりませんでしたが、
また・・・明日からもお屋敷での、お嬢様との生活が待っていることを改めて確かめて・・・
それが特別なことじゃない・・・明日も、明後日も・・・これからも、ずっと当然のことだと思っているって、
お嬢様に伝わるように・・・
「はい・・・お屋敷でお待ちしておりますよ」
そう考えていたら、自然と浮かんできた笑顔で・・・そうお答えしました。
「うむ・・・」
お嬢様は短くそれだけ言って、不意にうつむかれてしまい・・・
僕も、敢えてお嬢様に声をかけることはせず・・・
「では皆さん、失礼します! また会いましょう!」
三人で、姉妹のように手を繋いだままの彼女達に背を向けて、
あの人の待つお屋敷に向かって、僕は駆け出して行きました。
・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
「ハヤテ君・・・行っちゃったね・・・」
「うむ・・・」
「ナギちゃん・・・」
「・・・なんだよ」
「ん・・・なんでもない」
「・・・ふん」
「さ、それじゃあナギ、歩・・・じっとしていると寒いし、そろそろ行きましょうか」
「はい! 今日はもう、夜を徹して歌っちゃおうかな!」
「いいわね、今日は私もそういう気分よ」
「うん・・・いっぱい歌って・・・・・・いっぱい・・・泣いちゃおうかな・・・
ね・・・?」
「う・・・うるさいっ! 私は、別に・・・泣いて、なんか・・・・・・」
「・・・・・・そうね」
「う・・・・・・まだまだ、なんだからな・・・これからなんだから・・・だから・・・・・・
ぅ・・・ぐす・・・ぅあ・・・あぅう・・・っ」
「ナギ・・・頑張ったわね」
「うん、偉かったよ・・・」
「っう、ひっく・・・うるさ・・・っ! 別に、わた・・・・・・っ・・・ぅえぇ・・・うぁぁ・・・・・・」
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・