目を開けたとき・・・
そこには、一番会いたかった顔があった。
「お嬢様・・・」
私はハヤテに抱きかかえられていて・・・
「大丈夫ですか?」
「ハヤ・・・・・・っ! ・・・・・・っう・・・ぅ・・・・・・ぅ・・・っ」
ハヤテの顔を見て、声を聞いて・・・これまで抑えていたものが一気に込み上げてきて、
そのままわんわん泣き出してしまいそうになる。
ヘッドライトの光に飲み込まれる寸前、私を襲った衝撃には覚えがあった。
いつか私を助けてくれた・・・・・・ハヤテの必殺技。
ハヤテは、あのトレーラーなんかよりずっと速く、私の為に文字通り・・・飛んできてくれたのだ。
『二度と私の前に現れるな』
そんなことを言った私の為に・・・・・・それでもハヤテは来てくれたのだ!
そう思うと・・・ハヤテの胸に顔を埋めて、子供のように泣きじゃくりたかった。
だけど・・・私は、そんなことのためにここまで来た訳じゃ・・・ない。
「・・・・・・っ ・・・・・・また・・・助けられてしまったな」
「いえ・・・それよりお嬢様、お怪我は・・・って、その手! それにお膝も!」
まるで今朝までの、ハヤテがそこにいるのが当たり前だった頃と同じようなやりとり。
私は今、目を醒ましたばかりで・・・これまでのことは全部・・・悪い夢だったって・・・
そう思いたくなるような。
でも、それは甘い幻想に過ぎない。
そんなものに浸っていたら・・・・・・きっとハヤテは戻ってこない。
「大丈夫だ、転んですりむいただけだ」
「ですが、早く消毒しないと・・・!」
あんなことを言った私に、ハヤテは本当に心配そうな顔を見せてくれる。
昨日まで、その視線には私への愛情が込められているって・・・そう思ってたんだけどな・・・
「なぁハヤテ、マラソン大会のこと、覚えているか?」
「え? は・・・はい」
「あの時、最後には負けちゃったけど、 ハヤテが鍛えてくれたんだよな・・・」
「はい・・・」
突然現れた上にいきなり轢かれそうになって、そのうえこんな話だ。
ハヤテも混乱しているのだろう・・・そのせいか、今はいつもの・・・今朝までのハヤテに戻っている気がする。
「あの時・・・練習は疲れるしイヤだったけど・・・
でも、最後に一人で走ったとき・・・途中からでも、一人で・・・ゴールまで行けるって思ったとき・・・
スポーツも案外悪くないって思ったんだ」
「お嬢様・・・」
「それにな! ハヤテも見ただろう!?
たった今、お前を探して、私はずっと走ってたんだぞ!
ハヤテが私のこと、甘やかすばかりじゃなくて・・・ちゃんと鍛えてくれたから、
だからあんな風に走れるようになったんだ!」
そして、じっとハヤテの目を見つめたまま、少しだけ笑う。
「お前が残してくれたものの、一つだ」
ハヤテは一年の間に、たくさんのものをくれた。
形のないものがほとんどだし、今になってやっと気付いたものもある。
でも、どれも・・・どの思い出も、私にとっては宝物だ。
ハヤテはきょとん、とした顔をして、それから表情を崩して―――
「お役に立てて何よりです、お嬢様」
そう言ったときの顔はとても爽やかで・・・
まるで、これでもう未練はないとでも言いたげな表情だった。
「―――だがな」
「・・・・・・はい?」
実際、そんな気分だったんだろうが・・・そうは問屋が卸さないのだ!
「走るのはいいが、つまずいて転ぶわ轢かれそうにはなるわ・・・
これではマトモに走れるようになったとはとても言えん!」
「は、はぁ・・・?」
「こんな中途半端ではどうにもならん!
鍛え始めたからには、責任をもって最後まで見守るのが筋だろう!」
「え、イヤ、それは・・・」
ハヤテの表情に、露骨に混乱の色が混じるが・・・まだまだ!
「そもそもだ! 主に走らせるなど、執事として恥ずかしいとは思わんのか!
そんなことでは一流の執事には程遠いぞ!」
「いや、あの・・・お嬢様・・・?」
「マラソン大会の時だってそうだ!
お前がヒナギクごときに手間取ったりせずに最後まで私を抱えて走りきっていれば、
桂先生に遅れをとることだってなかったんだ!」
「いや・・・あの・・・・・・スポーツも良かった、のでは・・・?」
「うるさいっ! それはそれ! これはこれだ!
要するに執事がしっかりしていれば主が無駄に走り回る必要など無いのだ!」
「は、はぁ・・・・・・」
「だがハヤテ」
「は・・・はい?」
「たとえ未熟でもだ!
私は・・・お前以外のヤツに身体を預けるつもりはない」
ハヤテの表情が僅かに硬くなるが、構わず続ける。
「私を抱えて走ることが許されるのは、ハヤテ・・・お前だけだ」
やはりハヤテは・・・・・・なにも言わない。
私が次に何を言うか理解して、その上で敢えて今は私の言葉を待っているのかもしれない。
「だからハヤテ・・・」
言葉が、詰まりそうになる。
いくら無茶を並べようが勢いでまくし立てようが、結局は―――
「行くな・・・」
この言葉―――
「行ってはダメだ・・・ハヤテ」
これを伝えなくては、何も始まらないのだ。
そして・・・この言葉はスイッチでもある。
屋敷で、一度は止めてしまった時計の針を、再び進める為の・・・
いま、そのスイッチは押され・・・動き出した針は、もう二度と止まらない。
決着がつくまでは・・・
「お嬢様」
ハヤテはそれだけ言って、うつむいて・・・顔を上げ、少しだけ嬉しそうに、
「ありがとうございます」
そして、とても寂しげに―――
「ですが・・・・・・すみません」
はっきりと、言った。
「僕は・・・お嬢様のお気持ちに応えることは・・・出来ません」
「・・・そうか」
「・・・・・・」
・・・・・・わかっていた答えだ。
ハヤテの心が簡単に覆ることはないし、
ウソを吐いて誤魔化すようなヤツではないことくらい・・・十分過ぎるくらいに知ってる。
だけど・・・
「なぁ、ハヤテ」
「・・・はい」
それでも、伝えなきゃならないことがある。
「いいか、よく聞け」
私の口から、自分の言葉で・・・
この男に。
「私は・・・ハヤテ、お前のことが・・・・・・スキだ」
ずっと、ハヤテは私のことがスキだって思い込んでいた。
だから、こんなこと・・・わざわざ伝えるまでもないって思ってた。
・・・恥ずかしくもあった。
もし、もっと早く伝えることが出来ていたら、
もっと違う“今”を迎えていたかもしれない。
今更、そんな仮定にはなんの意味もないけど・・・・・・でも、
ずっと・・・ずっと抱いてた気持ちを一度も言葉にしないまま終わらせるくらいなら・・・・・・!
・・・・・・
「僕も・・・」
ハヤテはいつもの優しげな目を一度、僅かに伏せて、そして私に笑いかけるように・・・
「お嬢様のこと・・・スキ、ですよ」
そう、言ってくれた。
優しすぎる微笑みは、ハヤテの心遣いに満ちていて・・・
ハヤテの本心を知っていても、それでも・・・・・・嬉しかった。
「だが・・・それは、一人の男としてのお前が、一人の女としての私に向けた言葉ではない。
・・・・・・そうだろう?」
恨み言を言うつもりはない。
満面の・・・は無理でも、一応は笑顔を浮かべられている・・・と、思う。
「はい・・・」
ハヤテは短く答えると、目を伏せる。
「そうか」
わかっていたことだけど・・・やっぱり・・・・・・辛いな・・・・・・
「つまり私は・・・フラレた訳だ」
軽く笑い飛ばしてみようかとも思ったけど、無理だった。
乾いた笑いすらも出てきやしない。
代わりに、目頭がじーんとして、鼻がつんとして・・・
熱いものが、こみ上げてきて・・・・・・
今になって初めて・・・失恋した、って実感がした。
スキなヒトに気持ちが届かない・・・・・・切ないよ・・・
辛いよ・・・・・・胸が・・・心が、痛いよ・・・・・・
このまま泣き喚きたいよ・・・・・・!
・・・だけど、それでもアイツは―――
「歩は、二度もこんな思いをしたのか・・・」
「歩・・・西沢さん・・・?」
「だが、それでもアイツは・・・・・・まだ諦めないって言ってた」
こんな辛い思いをしながら、それでも歩はハヤテのことがスキだって言い切った。
本当にアイツは・・・ハヤテのことが、スキなんだって・・・よくわかった。
「だがな!」
そう思うと、心が奮い立ってくる。
そうだ。
アイツは・・・歩はトモダチで、そして・・・・・・ライバルだから・・・
負けてなんかいられないのだ!
「私だって・・・まだ諦めないぞ!
この私が! そう簡単に諦めるワケがないだろう!
アイツなんかに負けてられるかっ!」
「お・・・お嬢様!?」
「それにいいかハヤテ! 私はまだ14歳になったばかりだ!
背はまだ伸びるし、む、胸だって多分もっと大きくなる・・・かもしれないんだぞ!
三年もすればマリアより美人にだって、ヒナギクより格好よくだってなるかもしれないんだぞ!」
「え、ええと・・・?」
「そんな私と、それに歩もだ! 私もアイツも簡単には、いや絶対に諦めないぞ!
例えお前が逃げたって追い掛けて、アタックし続けてやるからなっ!」
「・・・・・・」
はは・・・ハヤテのヤツ、唖然としてる・・・
ここまでは・・・ちょっと癪ではあるが、アイツのお陰で一気に言えた。
あと少し。
あとは・・・私だけの言葉で伝えなきゃいけないこと・・・
「なぁ、ハヤテ・・・お前は私の気持ちに応えられないから、戻れないと・・・そう言うのだな」
「・・・・・・はい」
「そうか・・・・・・」
ハヤテを追い出した私が、自分の言葉で伝えなきゃいけないこと・・・
「ハヤテ、お前は私に恩があるからとか、借りがあるからとか・・・
それでそういう風に思ってるのかもしれないな・・・・・・だけどハヤテ、知っているか?」
「・・・?」
今更気付いた、私の・・・心。
「お前を捜して走り回っている間、私はお前のことばかり考えてた。
お前がいた一年間のこと・・・・・・」
色々なことがあった。
いつもバタバタしていて、騒がしくて、楽しくて、嬉しいことが沢山あって、
恥ずかしいことも切ないことも、腹立たしいことも悲しいことも、とにかくいろんなことがあった。
でも、本当に―――
「本当に、楽しかった。
お前が来てから、私の世界はいつの間にか変わってしまっていた。
友達も増えたし、学校も少しだけ・・・楽しくなった。
それも全部、ハヤテ・・・・・・お前のお陰なんだ」
「・・・・・・」
「私はお前を助けたかもしれない・・・でもな、ハヤテ。
お前は私に新しい世界を見せてくれた・・・
屋敷に引き篭もって、限られた友達としか付き合わなかった私に、沢山の出会いと、経験をもたらしてくれた。
お前が・・・ハヤテがいてくれたからだ・・・
だから私はな、お前に・・・・・・本当に・・・・・・感謝しているんだぞ」
「お嬢・・・様・・・・・・」
私は、ハヤテのことがスキだ。
でも、ただスキだから戻ってきて欲しい訳じゃないんだ。
「今なら・・・今更かもしれないが・・・だが、はっきりと言えるよ・・・
ハヤテ、お前と・・・マリアと過ごした日々はな・・・私にとって掛け替えの無いものだった。
本当に・・・本当に大事な・・・・・・何よりも大切な日々だったんだ。
だから・・・だから・・・・・・!」
心からそう思う・・・だからこそ・・・・・・
「・・・帰りたい」
「・・・・・・」
「私は・・・お前と・・・帰りたい・・・・・・お前と一緒に帰りたい!
また、昨日までと同じように、ハヤテとマリアと、三人で一緒に暮らしたい!
ハヤテといた・・・ハヤテがいてくれた日々を・・・・・・終わりになんかしたくない!」
例え―――
「・・・・・・お前が・・・最後に私を選んでくれなくても・・・・・・」
この想いが叶わなくとも――――――
「―――それでも私はお前といたい!」
じわ・・・と、熱いものがこみ上げてくる。
ダメだ・・・泣くなんて・・・あとでいくらでもできるんだ・・・
だから、今はちゃんと顔を上げて・・・・・・前を、ハヤテの顔を見て―――
「だからハヤテ・・・私の執事でいてくれ・・・!
どこにも・・・行かないでくれ・・・・・・」
涙がこぼれそうだけど、絶対に顔は伏せない。
ハヤテから目を逸らしたり、しない。
この想いが届きますように・・・って。
私の心が・・・大切なヒトに・・・届きますように――――――
「・・・お嬢様」
滲む視界の真ん中で、ハヤテもまた私のことをじっと見つめていた。
何も言わず、私の視線を真っ直ぐに受け止めて・・・
そして軽くうつむいて・・・・・・
「僕も・・・・・・帰りたいです・・・・・・」
目を伏せたのは、涙を隠す為なのかもしれない。
「僕もお嬢様と・・・・・・帰りたい・・・です・・・・・・」
ハヤテの声は、涙声だったから。
「・・・・・・わかった」
ぎゅっと握られているハヤテの手を強引に取って、引っ張る。
顔を上げたハヤテの目には、やっぱり涙が浮かんでいて・・・
そんなハヤテに、やっぱり泣きそうな顔の私が声をかける。
「帰るぞ、ハヤテ・・・・・・私たちの家に」
「・・・・・・はい!」
そう言って、私の手をぎゅっと握り返された。
手の平の擦り傷にはちょっと痛かったけど・・・・・・
でも、ハヤテの手は・・・・・・とても温かかった。