「この事は絶対に秘密だからねハヤテ君!!」  
深夜の旧校舎―――という名の廃屋―――に、私の声が響いた。  
突然の大声に驚いたのか、外でカラスがギャアギャアと鳴く声が聞こえる。  
動揺しているせいかさっきまで不気味に聞こえたその鳴き声も、笑われてるように聞こえてしまうから不思議だ。  
それはともかく、ハヤテ君は私が何を言いたいのかよくわからないみたいだった。  
「はい? なんの事ですか?」  
そんなふうに聞き返してくるとぼけた顔を見ていると、私1人だけあわててるのが不公平な気がしてなんだか腹が立ってくる。  
でもいつまでもそうしていてもしょうがない。だから私は仕方なく具体的に説明をする。  
「だから……その……さっきの……」  
……はっきりと言いづらいんだから早く察して欲しい。  
「あ……ああ……」  
そんなワガママな思いが通じたのか、ハヤテ君は何かを思い描くように虚空を見て、顔を赤く……って、思い出さないでいいから!  
「いや……まぁそれもそうなんだけど……」  
そもそもなんでこんなこと話してるのかしら。とにかく急いで話題をそらす。  
「その前の……事もふくめて……私があんな風に怖がってたとか誰かに言ったら……本気で殴るわよ!!」  
「まぁさっきも本気で殴られた気がしますが……」  
私の若干苦し紛れな発言に即座に返してくるハヤテ君。失礼な。まったく……  
「もう1回殴ったら記憶飛ばないかしら……」  
「そんなのは迷信です。非人権的で野蛮な民間療法です!」  
思わずこぼれた呟き声に間髪入れずに返ってきた悲鳴。えっと……ただの冗談だったのにね?  
「まぁ、でもこんなのに追いかけられたら怖がるの普通ですよ」  
内心あわてる私とは対照的な、落ち着いた口調でハヤテ君が言う。  
まぁ、それはそうだ。喋る人体模型に追いかけられて平然としてたら女の子として以前に常識的にどうかと思う。  
でもハヤテ君はわかってない。問題なのは私が、その、色々と取り乱してたことじゃなくて、それをハヤテ君に見られたことなのに。  
そうして私は落ち着かないまま、とにかくこの場を取り繕おうと勢いに任せてまくし立てる。  
「いい!? 生徒会長ってのは威厳が大事なの威厳が!!」  
……ああ、私は一体何を言っているんだろう。  
「それなのにちょっとおばけを見たくらいであんな―――あんな……醜態を……」  
……しまった、自分で言ってて思い出してしまった。  
老朽化していて危険な上におばけが出るなんて噂まである旧校舎。  
そこにハヤテ君が迷い込んだかもと聞いて心配になってやってきた。それがそもそもの始まり。  
それなのに結局おばけに襲われたのは私で、それを助けてくれたのがハヤテ君。  
そうして思い描いたのとはあべこべの結果に、いつもの調子まで反対にされたみたいにあわてる私。  
やっぱり調子が狂ってる。あわてっぱなしで取り繕いきれるはずもないのにどうしても普通でいられない。  
ああもぉ、どうしていつもハヤテ君のことだと気持ちがうまく整理できないのかしら。  
それはともかく、今はこのまま勢いに任せて押し切ろうと、私はハヤテ君に向かって口を開き―――  
「はは……でもまあ、そういうのがあった方が、可愛いですよ」  
―――思わずその勢いのまま、また後ろを向いてしまった。  
ハヤテ君は時々、こんな笑顔を見せる。本当に無防備で、目に映る全てをまるごと受け入れているような、そんな笑顔。  
見ていると恥ずかしいような、いたたまれないような、不思議な気分になってしまう。  
見とれてしまいそうなのに、目をそらしてしまいたくなる。矛盾した気持ち。自分で自分の心が理解できない。  
「と、とにかくあんなものを放っておくわけにはいかないわ!!」  
「……は?」  
なんだかあの笑顔を見てるとますます落ち着かなくなる。  
「だからハヤテ君……!! 私と一緒に……おばけ退治よ!!」  
「いや……でも僕」  
だから私は取ってつけたような理由で、ハヤテ君の返事も聞かずに歩き始める。  
「さ、行くわよハヤテ君!!」  
「あ、ちょっ……ヒナギクさん!!」  
まるで、ハヤテ君が絶対についてきてくれるって、信じてるみたいに。  
……絶対なんて、あるはずがないのに。  
だからだろう。後ろに続く足音を、こんなにも嬉しく感じるのは。  
多分、きっと。それが理由に違いない。  
 
そんなことを考えながらしばらく歩いていると、ハヤテ君が私を引き止めてきた。  
「あの……やっぱり帰りませんか?」  
「ダメよ!! 絶対、正体つかんでみせるんだから」  
「で……でも、危ないですし……」  
「何、言ってるの? 危ないから退治するんでしょ?」  
成り行きで始めたおばけ探し。  
だけどハヤテ君はそんなことには興味が無いみたい。そういえば、ハヤテ君は何しに学校に来たんだっけ?  
「ほら……もう遅いですし……」  
「今すぐ探さなきゃ逃げられちゃうじゃない」  
「えっと……あの1体だけでもういないかもしれませんし……」  
「そんなの探してみないとわからないでしょ?」  
「えーっと……の、呪われたり、とかあるかもしれませんし?」  
「……へぇ。そんなことがあるならなおさらほっとけないわね」  
大体『し?』って何よ。『し?』って。  
自分でも苦しいかなって思っているような理屈で、他人を納得させることが出来るとでも思っているのかしら。  
まったく……  
「だいたいさっきから帰りたがってるけど……」  
振り向くとそこに困り顔。ただそれだけの顔をした、ハヤテ君。  
「せっかく夜の学校で女の子と二人っきりなんだから……もう少し嬉しそうな顔してもいいんじゃない?」  
ふんだ。そんなにつまらなそうにしなくてもいいじゃない。  
「でもヒナギクさんと話してるとなんか……お嬢さまと話をしているような気がしてきて……」  
「な!! なに子供扱いしてんのよ!! 私、生徒会長なのよ!!」  
いやまぁ、いきなり生徒会長とか言われても困るだろうけど……  
それにしても失礼な。ナギのように主従というより兄妹みたいに大切にされるのも悪くないけど、子供扱いはどうかと思う。  
……あれ?  
でもこの状況でちゃんと女の子として見られるってことは……  
むしろさっきの言葉はそうして欲しいって意味に取られかねないというかそうとしか思えないわけで……  
「ぁ……」  
顔から火が出る、なんて言葉を実感したのは初めて。今なら本当に湯気が見えても驚かないと思う。  
自分じゃ見えないけど、間違いなく顔は真っ赤になってるはず。  
まずい。月の蒼白い光に赤は目立ちすぎる。このままじゃハヤテ君に気づかれちゃう。  
なんとかごまかさないと……  
「それにしても……冬だっていうのに……なんか暑いわね〜……」  
……我ながらいくらなんでも苦しいごまかし方だと思う。まぁ、熱いのは本当だけど、それは気温のせいじゃない。  
だから普通に冬らしい寒さを感じているはずのハヤテ君の目には、とてもおかしな行動に映ってしまうはず。  
でも一度始めてしまった以上途中でやめるわけにもいかなくて、私はバカみたいに暑い暑いと繰り返し続ける。  
ついでに胸元もパタパタと。そうしていると顔だけじゃなくて全身に熱が籠っていたことがわかる。  
ひんやりとした冬の夜気が火照った体に心地いい。でもやっぱりハヤテ君は変に思ってるだろうな。  
ああもぉ、どうやってごまかそう。そう思いながら振り向くと、あわてて視線を上にそらした赤い顔と目が合った。  
「ん?」  
上に視線をそらしたはずなのに目が合う?  
「…………」  
そしてあせってるような、気まずそうな、恥ずかしがってるようなハヤテ君の表情と沈黙。  
これはつまり……そういうことなのかしら?  
「なに赤くなってるのハヤテ君」  
見たいの? なんて笑いながら言う私。さっきまでの動揺が、まるごと笑いに変わったみたい。  
「べっ!! 別に赤くなんかなってませんよ!!」  
そして消えた私の動揺が移ったみたいに、あわてて言うハヤテ君。  
もぉ、後ろを向いても耳まで真っ赤だからすぐわかっちゃうのに。  
出会った時にも思ったけど、やっぱりハヤテ君って今時珍しいくらい純情。  
普通私達くらいの年になると当たり前のようにそういった話にも慣れるのに、ハヤテ君には全然そんな所が無い。  
ああ、なんだろう。なんだかすごくおもしろい。  
それに不思議。男の子から『そういう目』で見られたはずなのに、ちっとも嫌じゃない。  
むしろ……むしろ、なんだろう。そう、むしろ反対に―――  
 
「べ……別にヒナギクさんの事なんか、意識したりしませんよ!!」  
―――!!  
頭の中で何かが凍るような、煮えたぎるような、軋むような、切れるような、とにかくそんな音がした。  
「だ……だいたい前にも言いましたけど……ヒナギクさんは少し無防備すぎます!!」  
―――誰にでも無防備だとでも思ってるのかしら。  
「ヒナギクさんの事、なんとも思ってない僕だからいいようなものの……」  
―――ふうん。そういうこと言うんだ。  
「普通の男の子の前では、もう少し恥じらいってものを持たないと……」  
―――普通より純情な人が何を言ってるのかしら、ね。  
「そんな軽いことでは……何をされたって―――」  
―――そう。だったら何ができるのか……見せてもらおうじゃない!  
「いいわよ」  
「へ?」  
ハヤテ君の背中に、そっと触れる。  
これは演技。そう思いながら動こうとする。  
けれどそんな言い訳じゃ納得できないと言うかのように、体はうまく動いてくれない。  
「ハヤテ君になら……」  
とっさに後ろを向こうとする顔と、勝手にしがみつこうとする腕。その反する2つの力に引っ張られたように、私の体は動けなくなる。  
「何されても……」  
そうして結局体はどちらにも動けず、ただ口だけが動いていた。  
「え……あ……」  
そんな私の言葉に振り向いたハヤテ君の顔は、想像通り真っ赤で。  
「ヒ……ヒナギク……さん?」  
本気で動揺してるのが、手に取るようにわかった。  
よし、勝った。  
―――さあ、このタイミングだ。思いっきり笑ってしまおう。  
そうすれば……そうすれば、冗談にできる。たわいない、日常の会話に戻れる。  
ハヤテ君を思いっきりからかって、私は上機嫌で笑って。そうして流してしまえばいい。  
たった一言嘘だって言えば、そうすれば―――何もかも、嘘になってしまうんだろうか。  
(―――なんて冗談を言うと、男の子は真に受けるのかしら?)  
そうして頭の中で用意した言葉は、結局口に出せなかった。  
「…………」  
「…………」  
夜の冷たさに凍りついたように気まずい空気。さっきまで動けたはずの私の口まで一緒に凍りついたように動かなくなる。  
そのまま動けない私の代わりのように、ハヤテ君が力を抜いた笑みを浮かべて口を開く。  
「……だめですよ、迂闊にそんなこと言ったりしたら。1億5千万円で売り飛ばされたりしちゃいますよ?」  
……え?  
予想外の切り返し。声を出すことも忘れて呆然とする。  
「えーっと……ですね……」  
何そのしまった滑ったー、みたいな顔は。  
「まるで売り飛ばされたことがあるみたいな言い方ね」  
「あはは……すみません」  
「……どういうこと?」  
人が真面目に話しているのに何変なこと言ってるのかしら。  
つまらない冗談だったらただじゃおかない。そんな思いをこめて睨みつける。  
「実は僕、去年のクリスマスに、親に借金のカタに1億5千万円で売り飛ばされちゃいまして」  
そんな視線の先で、ハヤテ君は軽い口調で、まるでなんでもないことのようにそんな言葉を口にしていた。  
「……借金って、なんでそんなに?」  
「ああ、いつものように博打に失敗したみたいで」  
だからきっと何かの冗談に決まってる。そんな都合のいい期待を、ハヤテ君は軽々と消し去っていく。  
「……売られたって、どんな風に?」  
「人身売買までするヤクザに文字通りの意味で、ですね。親が逃げちゃいましたから問答無用で、危うく死ぬところでした」  
ハヤテ君はそう言ってあははと笑う。傷つけられた痛みも、背負った不幸も、捨てられた寂しさも、追われた辛さも、何も感じさせずに。  
「……ハヤテ君の両親は、今どこで何をしてるの?」  
「さぁ……借金もなくなりましたし、またどこかで馬券でも買ってると思いますけど」  
それは、諦めを通り越してまるで当たり前のことのような顔だった。  
その言葉はあまりに軽すぎて、私の上を通り過ぎてどこか知らない場所へ行ってしまいそうだった。  
 
「なんで……なんでよ!!」  
「ヒナギクさん?」  
突然大声を上げた私に驚いたような顔を見せるハヤテ君。まるで驚きの見本のようなその顔に隠れて、ハヤテ君の心が見えない。  
「なんでそんなに平気な顔してるのよ!」  
「いいんです。もう終わったことですから」  
そう口にしたハヤテ君は、なぜかいつもみたいに笑っていた。  
「よくないわよ! だってそんなの、そんなの間違ってるわ!」  
「でも、仕方ないですよ……僕なら大丈夫ですから」  
それはなんて純粋で……なんて透明な笑顔なんだろう。  
その笑顔は楽しいとか、悲しいとかそういった感情を全く含まない、ただ笑顔であるだけの笑顔だった。  
(「だーいじょうぶよヒナ、その時はお姉ちゃんが守ってあげるから!」)  
ふいに、懐かしい声を思い出す。勢いがあって、でも根拠の無い、後先考えない、けれど無責任でもない言葉。  
冷たい風と、白い息の温かさを。赤い夕日と、長く伸びた黒い影を。そして力強い笑みを思い出す。  
同じような言葉と笑顔。だけどあの時と違って、ハヤテ君の言葉は拒絶の意味を持っていた。  
だからだろう。キレイな笑顔のはずなのに、見てると悲しくなってくるし、同時にとても苛立ってしまう。  
ハヤテ君にそんな笑顔で『大丈夫』なんて言ってほしくなかった。  
苦しいことがあるなら、1人で抱え込まずに話してほしかった。  
もしもハヤテ君が泣きたい時は、一緒にいたいと思った。  
そばにいて、隣で―――ああ、そうか。  
私はハヤテ君に、そばにいてほしいんだ。  
それを自覚した瞬間、今まで怒りだと思っていた胸の熱に、違う名前が付いた。  
気づいてしまえばとてもシンプルなことで、だから私は一瞬でそれだけに満たされて……だから、もう止まらなかった。  
その熱が、私を衝き動かしていく。  
「大丈夫なんかじゃ、ないわよ」  
ゆっくりと、言葉を紡ぐ。いきなり語調を緩めたせいか、ハヤテ君が不思議そうな顔でこちらを見ている。  
急に、言葉を続けるのが怖くなる。  
ひょっとしたら、ハヤテ君と私の傷は全然違うものなのかもしれない。  
もしも、私たちが同じ痛みを抱えていたとしても、ハヤテ君は私の気持ちを受け入れてくれないかもしれない。  
仮に、今私たちが同じ気持ちでも、この先ずっと変わらないままでいられるとは限らない。  
無数のIFが、私の口を閉ざそうとする。  
今ならまだ引き返せる、と。そうすれば、また傷つくこともないから、と。  
大丈夫、なんて保証はない。そんなもの、あるはずがない。  
当たり前に信じられるはずの人たちから、裏切りの意味を知ったのに。  
だけど―――だからこそ。  
もう一度、信じたい。  
そんな願いだけを頼りに、口を開く。  
「私は、悲しかったから。両親が私とお姉ちゃんと、借金だけ残して失踪したとき、悲しかったから」  
「え……」  
驚き、戸惑ったような表情を見せるハヤテ君。きっとさっきの私も、あんな顔をしていたんだろう。  
「冗談とかじゃないわよ。私が5歳のとき、8千万円の借金を残して2人ともいなくなったわ」  
あの時の気持ちは、今も覚えている。  
がらんとした家の寒さも、冷たい布団の寂しさも、味をなくした食事も。  
今でも、はっきりと。  
「でも、それじゃあ……どうして……」  
目の前の瞳が揺れる。迷うように、悔やむように、怯えるように。  
……動き始めるように。  
言葉を止めたまま、ゆっくりとハヤテ君が瞳を隠す。抱いた想いをしまいこむように。  
そうして再び開かれた目は、ただまっすぐに私を見ていた。  
 
「どうして、僕に話してくれたんですか?」  
どうして、かな……色々理由は思い浮かぶ。  
ハヤテ君があんまりにもキレイすぎる笑顔を見せるからほっとけなかった、とか。  
親に売られたことを当たり前のように話してるなんて我慢できなかった、とか。  
ハヤテ君なら、同情も哀れみもなく真摯に聞いてくれると思ったから、とか。  
別にただなんとなく、だってかまわない。  
でも……  
「ハヤテ君のことが、好きだから。だから、聞いて欲しかったの」  
私の理由はこれだけでいい。他の理由なんていらない。  
……どうしてかな。さっきまでの不安がない。今なら全然怖くない。  
きっとこの先どうなっても、今の言葉を後悔したりしない。そんな、根拠の無い確信。  
「僕も……僕もヒナギクさんのこと……っ!」  
その言葉が届くと同時に、私の体は引き寄せられていた。  
私の背中でハヤテ君の腕が交差する。ハヤテ君の背筋に私の指先がぴたりとはまる。そうして私たちは抱きしめあった。  
身長はほんの数センチくらいしか違わないはずなのに、ハヤテ君をとても大きく感じて。  
ああ、やっぱり男の子なんだなと、すごく温かい気持ちになれた。  
「好き……です」  
冷たい空気からは冬の匂いがした。蒼白い月の光が降り注いでいた。ただハヤテ君だけが温かかった。  
ふいに、泣きそうになる。世界のあまりの冷たさと、そばにいるハヤテ君の温かさに。  
悲しいわけじゃない。けれど泣きたくなるほど切なくて、安らいで、嬉しくて。  
ただ、ハヤテ君も、私を温かいと感じてくれているといいな、なんてことを思った。  
顔を上げると、ハヤテ君もこちらを見ていた。  
「…………」  
「…………」  
そっと、頬に添えられた手のひら。  
それは少しだけ冷たくて―――ああ、違うな。ハヤテ君の手が冷たいんじゃない。私の頬が熱いんだ。  
でも心が温かい人は手が冷たいって言うし、実は両方なのかもしれない。  
確かなのは私がとんでもなくドキドキしてるってこと。  
そして、それがちっとも嫌じゃないってこと。  
そっと、目を閉じる。ドキドキを閉じ込めるように。近づく気配に耳を澄ませるように。そして―――  
「ん……っ」  
初めて触れたハヤテ君の唇は、あたりに降り注ぐ月光のように冷たく、そしてやさしかった。  
「んっ……ふぁっ……っ……ん」  
続けて舞い降りる、扉をノックするように短く、触れるだけのキス。  
2度、3度とついばむように繰り返すうちに、唇が熱と湿りを帯びてくる。  
そのままもう一度……と思ってこちらから動こうとした瞬間、ハヤテ君が体を離した。  
「あ、あの、もう帰りませんか?」  
「どうしたの? 突然」  
ただそれだけのことが、とても寂しく思える。  
「すみません……このままだと抑えられなくなって、ヒナギクさんにひどいことをしてしまいそうで……」  
「……いいわよ。ひどいことしても」  
だからだろう。そんなことを言ったのは。  
「え?」  
「前に言ったでしょ。ハヤテ君はもう少しワガママ言ったほうがいい、って」  
もっと知ってほしい。私のことを。  
そしてもっと知りたい。あなたのことを。  
「だから……ハヤテ君のワガママなとこ、私に教えて?」  
うつむいた視界の隅で、小さくうなずくハヤテ君が見えた。  
 
「じゃあ、行きましょうか」  
そう言いながらハヤテ君の手を取ろうとして、私の手のひらに緊張からにじむ汗に気づいた。  
とっさに後ろ手にぬぐいかけ……そうしないまま手を取る。  
女の子としてはかなり気になるし、弱みを見せるようで抵抗はあるけど、これは隠したくないと、そう思った。  
軽く握ると控えめに握り返してくる手のひらは、少しだけ硬くて。形は違っても同じように緊張しているのがわかった。  
「? どこにですか?」  
「こっちよ」  
それを嬉しいと思いながら、ハヤテ君の手を引き目的の部屋を探す。  
薄暗い廊下に並ぶ足音。踊るように、少しだけ早足。  
歩幅の違いでテンポはバラバラ。けれども、確かに同じ場所を進んでいる。  
「あ……ああ」  
しばらくしてハヤテ君が何かに気づいたような声を上げる。どうやら本当に今まで目的地に思い当たらなかったみたい。  
そのことに苦笑しながら、保健室、と書かれたプレートのかかった扉を開いた。  
そのまま中へ入って、ベッドを探す。  
「やっぱり、少しはちゃんとしたところで……ね?」  
入り口から少し離れた場所にあったベッドにハヤテ君を上にして倒れこむ。  
……それにしても、取り壊し間近の旧校舎にスプリング付きのベッドがあるなんて流石は白皇。  
ひょっとしたら私の部屋のベッドより寝心地がいいんじゃないかしら。  
後、何だか和風な感じのいい匂いも……まぁ、これはさすがに何かの勘違いかな。  
そんなことを考えて緊張をまぎらわせていたら、何かを窺うような顔が私を覗き込んでいた。  
それはひょっとして同意を確認してるつもりなのかしら。今更何を、と思ったけど、それもまたハヤテ君らしい。  
「もぉ、そんな顔しないの。男の子でしょ?」  
漠然とした言葉でも、意味は通じたみたい。ハヤテ君の顔から迷いが消えるのがわかった。  
「じゃあ……始めますね」  
それでもやっぱり確認の言葉を発しながら、ハヤテ君の手がゆっくりと私に触れる。  
「んっ……」  
……服の上からとはいえいきなり胸を触ってくるあたり、ハヤテ君って思ってたよりもえっちなのかもしれない。  
ゆっくりと、探るように胸のあたりをまさぐられる。ためらうことのない、それでも迷うような手の動き。  
そういうつもりはないってわかってるのに、なんだか胸の位置を探されてるみたいで腹が立つ。  
「ごめんね……小さくて」  
なぜかすごく低い声が出た。もうちょっとか細い感じにすれば女の子らしく聞こえると思うのに、これじゃ単なる脅し文句じゃない。  
「え? いや、そんなことはないですよ?」  
こらこら、目が泳いでるってば。ホント、嘘がヘタなんだから。くやしいのでちょっといじめてやろうかな。  
「そう? 私のを触りながら、マリアさんのはもっと大きかったなあとか思ったりしてるんじゃない?」  
意識して目を細くしながら、そう問い詰める。  
「いっ!? いや、思ってませんよ!」  
「じゃあ聞くけど、私とマリアさんとどっちが大きいと思う?」  
「だ! だから……その……ですね」  
「ん〜?」  
「その、確かに大きさはマリアさんのほうが大きいといえば大きいでしょうけど確かめたわけではないですし、  
 小さいものには小さいなりの趣があるというかわびさびは日本の心といいますかとにかくそんな感じですし、  
 例えば『質量の差が戦力の絶対的な差ではない』みたいなことを昔の偉い人も言ってたような気がしますし、  
 むしろ我々の業界ではそれはご褒美といいますか、いや、えっと、何の業界なのか僕にもわかりませんけど、  
 それにありきたりな言い方ですけど、僕が触りたいのは他の誰かじゃなくヒナギクさんの胸だからというか、  
 いやでも胸を触れればいいって話でもなくて、つまりは胸だけじゃなくて……あ、いや、だから……その……」  
「別にいいわよ。無理しなくても」  
声は低いまま、目は細いままで言うのがポイント。そのままじっくりとハヤテ君の反応を楽しむ。  
「う……え、えっと、ほら! ヒナギクさん厚着してますから、こうすればちゃんと……!」  
「あ……こら、ちょっと!」  
別にそんなに厚着してるわけでもないし、そもそもそのセリフはフォローじゃなくてトドメ……なんて言う暇もない。  
止める間もなく上着の下へと潜り込んだハヤテ君の腕が、すばやく私の服をずり上げていく。  
 
「まっ……だから待ってってば!」  
急ぎすぎなのは困るけど、あわてさせたのは私だから、強く静止できない。  
中途半端な抵抗が着衣を乱す。  
「うわ……すごい……」  
結局ハヤテ君の動きが止まったのは、私に直接触れた後だった。  
「こんなに小さいのに、すごく柔らかくて……なんだか不思議です。まるで……」  
「だから、小さいとか言わな……っ!」  
繊細に動く、温かい手のひら。  
触れられた所から、熱が広がっていく。  
「ひゃんっ!……こ、こらぁっ」  
存在を確かめるように、表面に触れて。  
形をなぞるように、撫でる手が円を描き。  
そのまま指先を沈ませ、ゆっくりとこね回される。  
「ぁ……そこ……だめぇッ!」  
左右に転がされる。下から上へとすり込まれる。先のほうを少しだけきつく摘まれる。  
なぜか、頂点の部分を扱うときだけは妙に不器用な指使い。それが結果的に緩急となる。  
「やっ……指が……ぁ……あっ!」  
広げられた指先がステップを刻む。音楽が聞こえてきそうなほど軽快なリズム。  
それは私が漠然と想像していたものよりも複雑すぎる動きで……なんだか……  
「な、なんだか……っ、慣れてない?」  
「そうですか? 前にバイトで経験がありますからそのおかげでしょうか?」  
嬉しそうに言うハヤテ君。それはいいんだけど、その……  
「……バイトって、何の?」  
「えっと、昔、パン屋で働いてたことがありまして」  
「……パン?」  
なぜかしら。悪意も他意もない笑顔のはずなのにいろいろ引っかかる気がする。  
「実はですね、太○の手を持つ少年と呼ばれて大評判だったんですよ」  
わけのわからないことを得意気な笑顔で言うハヤテ君……殴ってもいいかしら。  
「そんなわけで……」  
でもあんな笑顔をされたら怒るに怒れないし……まったく。  
「食べてみても、いいですか?」  
……ん?  
「食べる? ……って!」  
いきなり胸に濡れた感触が走る。  
それがハヤテ君の舌だと気づいた瞬間、思わず大声を上げていた。  
「こ、こら! 何してるの!」  
くすぐったい感触に身もだえしながら、抗議の言葉を続ける。  
だけどハヤテ君はまるで私の声が聞こえないみたいに……え、あ、えぇ!?  
「ひゃぁっ……噛んじゃ、だめぇっ!」  
「じゃあ、噛まずに吸うってことで」  
「そういうことじゃなくて……っ」  
歯を当てられたまま、胸を強く吸われる。強くと言っても痛いほどじゃない。どちらかといえばむず痒い程度。  
痛みに届かない刺激が優しくて、でも物足りなくなる。  
こそばゆさが痒みに、痒みが疼きに変わっていく。  
「人の……話を……んッ!」  
ハヤテ君が唇を離して、また手を動かし始める。  
けれど疼きのせいか、さっきまで翻弄されてたその動きに、物足りなさを感じてしまう。  
「やぁ……もっ……ぁ……」  
もっと強く。思わずそう言いそうになる。  
そんな表情を見せたくなくて、手のひらで顔を隠した。  
本当は今一番隠したいのは胸だけど、手を差し込む隙間がない。  
こうしている今もハヤテ君の2つの手が……あれ、1つになってる?  
もう1つはどこに……なんて考えてる隙に、ハヤテ君の手が下へと滑りこんで……  
 
「……ん?」  
「あ……」  
そういえば私、いつもみたいにスパッツはいてたっけ。  
しまった。せめてこんなときくらい可愛いやつにしてくればよかった。  
ハヤテ君、がっかりしてるかな。呆れてるかも。可愛くないって思われてたらどうしよう。  
心の中でどんどん膨れ上がっていくマイナス思考。  
それが現実のハヤテ君の顔を確認する恐怖を上回る前に、私は指の隙間をゆっくりと広げた。  
困った顔か、がっかりした顔か、それとも何も気にしてないような無表情か。  
それを知るのは怖いけど、このままじゃ怖いからって理由で見てしまうことになる。  
「……え?」  
恐る恐る覗き見た顔。その表情にどんな名前をつければいいのか、とっさに思い浮かばない。  
笑顔、が一番近いと思う。けれどもそれは、今まで見たハヤテ君のどんな笑顔とも違って見えた。  
幸せそうな? 嬉しそうな? 楽しそうな?  
「どう、したの?」  
どうしてそんな顔をしてるの?  
「え? 何がですか?」  
「だから……」  
どうして?  
自分でも何が言いたいのかわからないまま投げかけられる問いかけ。  
「たいしたことじゃないんです」  
けれど、ハヤテ君は……  
「ただ、ヒナギクさんだな、って」  
……そう言って、笑みを深くする。  
まるで大切な宝物を見つめるような。  
それは、慈しむような、笑顔だった。  
「あ……えっと、その、ありがとう」  
なぜかしら。今日は色々恥ずかしいことがあったはずなのに、一番照れる。  
何だかペースを握られてるようで悔しい……ので、ちょっと反撃。  
「でも、ごめんね? がっかりしたんじゃない?」  
「そんなことないですよ」  
からかうような言葉に笑みのまま答えるハヤテ君。  
「嘘。下着が見られなくて残念って顔してるわよ」  
「う……そ、そんなことはないですじょ?」  
あわてた口調でどもりながら……目は笑ったまま。  
「もぉ……噛むほど動揺しなくてもいいんじゃない?」  
わざとらしい動揺と、わかりやすいツッコミ。こういうのも甘えてるって言うのかしら?  
軽く甘い空気の中、ハヤテ君が言葉を返してくる。  
「まぁ、スパッツを脱いでもらえば結局同じことですし?」  
「え?」  
「? どうしたんですか? ヒナギクさん」  
おどけた口調のまま、優しく続けるハヤテ君。  
それは嬉しいんだけど……何を言ってるのかしら?  
「えっと……私、下にスパッツしかはいてないんだけど?」  
「……はい?」  
ハヤテ君がさっきまでと違って本当に不思議そうな顔になる。  
あ、あれ……?  
「え? そ、そういうものじゃない……の?」  
「あー……ま、まぁ、人それぞれなのでは?」  
目が泳いでいた。声は水の中で出したみたいに震えていた。冷や汗も滝のように流れ落ちていた。  
……私より、ハヤテ君のほうがずっとずっとあわてていた。  
そんな姿を見ていると、恥ずかしい気持ちよりもしょうがないなぁって気持ちのほうが強くなってしまう。  
ホント、ハヤテ君はずるい。  
でも、そうか……もう下にはスパッツしかなくて、つまり最後ってことで、要するに次で終わりなわけで……  
いけない。また緊張してきた。  
 
「じゃ、じゃあ、早くしたら?」  
「? どうしたんですか、ヒナギクさん」  
「べ、別に! どうもしないわよ……」  
「あ……ひょっとして、怖がってたりします?」  
「ぅ……」  
軽い口調で冗談っぽく突かれた図星……ああもぉ、なんでこんな時だけ鋭いの!  
「し、仕方ないじゃない! こういうのしたことないんだから!」  
「へ? ……えぇ!?」  
「……何? その反応」  
「えーっと……その、本当に嫌なら、やめましょうか?」  
「嫌じゃ、ないわよ」  
切なさを絵に描いたような表情をしながら、それでも揺れないハヤテ君の声。  
そんな風に我慢なんてしてほしくないのに……けれど、それがハヤテ君なんだろう。  
「でも……あ」  
何そのひらめいた、みたいな顔。  
「せっかくですから、一度このまましてみましょうか?」  
「このまま、って……その……はいたまま、で?」  
「ええ、せっかくですから」  
何がせっかくなのかしら。  
そんな疑問を棚上げにしたまま、ふわりと持ち上げられるスカート。その下に潜りこむ体と、漏れ出る衣擦れの音。  
隠されたまま触れてきた、変に熱くて……硬いのに……弾力があって……鼓動を刻むように動く……こ、これってまさか……  
「な……何なにナニこれ!!」  
「えーっと……このまま動きますね」  
『ハヤテ君』が、スパッツの上から『私』を撫でる。  
「ちょっ、ハヤテ君、待っ」  
最初はゆっくりと、優しさにも満たないほどの弱さで。  
「やっ……あっ……ぁ」  
だんだんと速く、優しくこめられた力が甘い感覚を呼ぶ。  
「そこ……擦れて……っ」  
それは決して強くも激しくもならず、ただ甘いままで。  
「ん……あっ……ひぁっ……ぁ……んんっ!」  
「あ……すごい」  
ぼんやりと聞こえる水の音と、ハヤテ君の声。  
スカートに隠され、スパッツに守られた安全圏で行われる、微温湯のように優しいまぐわい。  
それはまるで、優しさだけを集めた夢のようで……切ないほど、安らいだ気持ちになる。  
「っ……すみません、そろそろ……ッ!」  
突然の言葉と同時に『私』を叩きつけるように激しく脈打つ『ハヤテ君』  
そして放たれる熱く、熱い……こ、これが、その……  
「ぁ……その……気持ち、よかったんだ?」  
「ぅ……はい。すみません」  
「もぉ、どうして謝るのよ」  
「それは……いえ、その……まだ、不安ですか? ダメだったら今日は……」  
赤い顔と落ち着いた口調で、ゆっくりと告げられた言葉。  
でも、触れられた感触はまだ熱いままで……ドキドキしていた。  
「ううん。その、いいわよ……もう、大丈夫だから」  
「そう……ですか?」  
気遣うようなほっとしたような顔を見せるハヤテ君……えっち。  
「えっと、最初は一気にしたほうがいいって聞きますけど、どうします?」  
「うん……好きにしていいわよ」  
……とりあえずどこで聞いたか追求するのは、後回しにしてあげようかな。  
ホント、変なところでアンバランスなんだから。  
静かに目を閉じ、勇気を溜めるように深く呼吸をして、集中するハヤテ君……それは私の役だと思うけど。  
 
「じゃあ……行きます!」  
「―――ッ!? った、ぁ……!!」  
感じたのは、痛みというよりも衝撃に近いものだった。  
「……っ……か……は……っ!」  
まるでナイフで串刺しにでもされたよう。あまりの痛さに『痛い』という言葉さえ出せない。  
「…………っ」  
「ヒ、ヒナギクさん!?」  
言葉の代わりのように、涙がこぼれた。  
痛みまで一緒に流れたみたいに、少しだけ余裕が戻る。  
「っ……は……っ……ぁ……はっ……」  
体に満ちる痛みに溺れかけたみたいに、短い息継ぎを繰り返す。  
残念ながら吐息には痛みを逃す効果は少ないみたいだけど、とにかく息を整えて。  
「だぃ……じょう、ぶ」  
何とかそれだけを答えた。  
けれどそんな途切れ途切れの言葉じゃ不安を煽っただけみたい。ハヤテ君まで泣きそうな顔になってる。  
「そんな、大丈夫なわけないじゃないですか! すみません、すぐ……!」  
とても心配そうな声。大丈夫って言葉だけじゃ安心してもらえそうにない。  
……まぁ、実際ものすごく痛いんだけど。  
「大丈夫」  
「でも……!」  
それでも、大丈夫と繰り返す。作られた、でも嘘じゃない笑顔を浮かべて。  
私は今、うまく笑えているかな?  
「痛いけど……嬉しい、から」  
本当はもっとたくさんの言葉で伝えたかった。  
痛いけど、気持ちいいとかじゃないけど、ちゃんと満たされてることを。  
それに、一生懸命優しくしてくれるのは嬉しいけど、今は強く求めて欲しいという気持ちもあった。  
虚空に言葉を探すように漂わせた視線がハヤテ君の視線と交わる。  
……その瞳に迷いの色が無いことが、何よりも嬉しかった。  
「じゃあ……続けますね。すぐに終わらせますから、少しだけ我慢してください」  
「うん……お願い」  
言葉が終わると同時に、少しだけ引き抜かれる。  
「……っ!」  
そして、同じだけ押し込まれる。  
「う……っく」  
繰り返される、浅く穴を掘るような動き。  
「んっ……ふ」  
感じるものは痛みと鼓動。  
回を重ねるごとにズキズキがやわらぎ、ドキドキが大きくなっていく。  
「っ……ぁんッ!」  
ドキドキとズキズキが重なる。  
その2つを上回る大きな振動が、感じるものをたった1つに染め上げていく。  
「はっ……ふぁ……っ!」  
遠慮なく、加減なく、容赦なく。強い、強い律動。  
「んんっ、ぁ……ぁは、はぁっ……ひぁっ!」  
どれだけそうしていたのか。永遠に続くかと思われた動きに、変化が起きた。  
「あ……っ、また、キツ……くっ」  
「ヒナギクさん……もう……っ」  
そう言ってハヤテ君が離れようとする。  
「あ……や、あっ……んんッ!」  
その瞬間私はわけもわからず引きとめようと、背中に回した腕で力いっぱい抱きしめていた。  
「だ、だめですヒナギクさ……っ……うぁ……っ!」  
その直後、私の中で何かが激しく脈打ち、熱いものが流れ込んできた。  
痛みよりも激しく、想いよりも熱い、いのちに満たされて……私の意識は遠のいていった。  
 
 
「う……ん?」  
―――目覚めた瞬間、こちらを見つめるハヤテ君の顔が目に入った。  
目に入ったというより、それしか視界に映らない。気持ちじゃなくて物理的な問題で。  
つまりハヤテ君が身動きするだけでキスできそうなくらいにすぐ目の前で私を見つめているわけで……  
「ハ、ハヤテ君!?」  
「はい。おはようございます、ヒナギクさん」  
「あ、うん。おはよう」  
落ち着いた笑顔で挨拶をするハヤテ君に思わず私も挨拶を返し……いや、そうじゃなくて。  
「な、なんでハヤテ君が!?」  
「え? いや、なんでと言われても……」  
あわてて紡いだ私の言葉に、ハヤテ君は何かを思い描くように虚空を見て、顔を赤く……だからっ、思い出さないでいいから!  
「そんなことより! み、見てた!?」  
うう、なんだか展開がループしているような。  
「はい? なんの事ですか?」  
ああもぉ、またそんな顔して!  
「だから……その……私の……寝てるとこ、とか……」  
……ダメだ。今は何を話しても恥ずかしい。  
「あは、可愛かったですよ」  
「あ……ぅ」  
だから、どうしてそんな恥ずかしいセリフを平然と……  
よし、こうなったら1発殴ってごまかそう……なんて我ながら物騒で理不尽な理由で拳を握り締め―――  
「―――あれ?」  
指先に違和感。こすり合わせるとぱらぱらと砕けて落ち、蒼い月光に暗く栄える朱。  
それはもうすっかり乾ききってしまった血のようだった。  
「何かで切ったのかしら?」  
指先をよく見てみるがそのような痕跡はない。どうも私の指から出た血じゃなさそう。  
あ……それに……両手の指を一度に怪我なんてすれば、いくらなんでも気づくはずだし……  
「ああ……えっと……」  
「ん?」  
一瞬だけ後ろ―――背中? を見てなぜかあわてたように声をかけてくるハヤテ君。  
何かを説明しようとしているような、ごまかそうとしているような……まさか。  
「ハヤテ君。ちょっと背中見せて」  
「へ? いや、今はちょっと……」  
「いいから!」  
有無を言わせずハヤテ君の体を反転させる。そうして見た背中には、まるで足跡のように小さな傷がいくつも並んでいた。  
「これ……私が?」  
いつの間にかハヤテ君の背中に爪をたてていたらしい。よほど力をこめていたのか、傷跡はその小ささとは裏腹に、深いものだった。  
「その……ごめんなさい。痛かったでしょう?」  
「あはは、大丈夫ですよ」  
軽やかな笑い声で、痛みの気配を見せずにハヤテ君が言う。  
その笑い声は傷つけられた人の出すものとしては、あんまりにも軽すぎた。  
顔は見えないけど、いつものあの笑顔を浮かべているんだろうか。そう不安になる。  
あの全てを受け入れるような、それでいて何もかもを突き放す、透明な笑顔を。  
「ヒナギクさん、言ってくれましたよね?」  
こわごわと見上げた顔。  
「痛いけど、嬉しいから。大丈夫、って」  
だけど微笑みながらそう言ったハヤテ君の顔は、少し照れたような赤い色をしていた。  
「でも僕は、そんなヒナギクさんだけが痛い思いをしているのが寂しかったんです」  
首だけで振り向き、半分だけ見せたハヤテ君の顔。  
体ごと向かい合おうとしないのは、きっと私が今顔を伏せ気味にしているのと同じ理由で。  
「だから、嬉しかったんです。ヒナギクさんの痛みをわけてもらえたみたいな気がして」  
顔だけじゃなくてその笑みも赤く色づいているような気がして、そのことがハヤテ君の言葉が本当だって教えてくれているようだった。  
「そう……だったんだ」  
同じ赤、同じ痛み、そして同じ気持ち。  
不意にこの傷跡が、とてもとても愛おしいものに思えた。  
 
「ん……っ」  
「ひゃあっ! ヒ、ヒナギクさん!?」  
小さなしるしに、舌先で触れる。  
血の味だろうか、それとも汗の味だろうか。ハヤテ君の肌は塩辛い味がした。  
「え、あの、ちょっと……ヒナギクさん?」  
小さく、でもはっきりと響く、子猫がミルクをなめるような水音。  
そんな想像をしたからか、本当にミルクみたいな甘さを感じる。  
塩辛さが薄まった舌が錯覚しているんだろうか。それともこれが、ハヤテ君の味なんだろうか。  
「んっ……ちゅっ……」  
それを知ろうと押し付けるようにキスをする。まだ甘い。  
「ふ……むっ……」  
もっと、もっと。何かにそうせきたてられるように、傷口を吸い上げる。まだ、甘い。  
「んん……ん、んっ……」  
やがて咲く唇の形をした赤い花びら。  
花の蜜に誘われるように、再び口づけをする。  
「はぁ…………っ」  
吐息が熱い。体中の熱を吐き出すように、ゆっくりと息をつく。  
「あ……」  
それで頭の熱も冷めたのか、ふと我に返った。  
「え、えっと、その、これは……!」  
わ、私、今、一体何を……!?  
焦りと羞恥と、それから何か熱い感情がものすごい勢いでわきあがってくる。  
感情の整理に忙しい頭をなだめるように、目に涙までにじんできた。  
その両方を抑えながら視線だけで斜め上を見ると、そこに赤く染まったハヤテ君の顔があった。  
目だけを動かして見つめ合うには少しだけ高い位置。普段は顔ごと向けるその場所を、今は真正面から見ることができない。  
だから顔は伏せたまま視線だけで見上げるなんて中途半端なやり方で……なんだろ、ハヤテ君の顔がまた赤くなった気がする。  
「どうしたの?」  
反射的に首を傾げて尋ねてみると、さらに赤くなって、何かを、考えてる、ような、顔、を……  
まずい。なんだかよくわからないけどとてつもない失敗をしてしまった気がする……!  
「ありがとうございます、ヒナギクさん」  
「え? あ……ええ」  
ものすごい満面の笑顔でなぜかお礼を言ってくるハヤテ君。  
その笑顔はあんまりにも大げさすぎて、何かをたくらんでいる顔にしか見えない。  
「これはお礼をしないといけませんね」  
「え? いや、いいわよそんなの」  
「いえいえ、三千院家の執事として恥ずかしくないようきちんとお礼をしないと」  
執事はあんまり関係ないような……お礼?  
なんだろう。普通お礼っていいことのはずなのに今はなんとしても止めないといけないような……  
「えっと、その……お礼って?」  
「はい。ここはやっぱりヒナギクさんがしてくれたのと同じことでお返しをしようかなと」  
「お、同じ?」  
「はい♪」  
後ろにハートマークでも見えそうな、極上の笑みで答えるハヤテ君。それはいいんだけど、同じということはつまり……  
えっと、さっき私はハヤテ君の血が出てた所を、その、なめたりしてたわけで……  
それと同じことを私にするってことは……要するに……っ!?  
「ちょ! ちょっと待って!!」  
思わず硬直した隙に、ハヤテ君の体が、這うようにして下のほうに移動していく……人の話を聞きなさい!  
「い、いいから! そんなの気にしなくていいから!!」  
「いえいえ、きちんとお礼もできないようでは三千院家の執事として面目が立ちませんし」  
真面目そうな顔を作ってハヤテ君が言う。  
ああもぉ、そんなあからさまな言い訳を……考えてることがすぐ顔に出るんだから!  
ハヤテ君の頭を抑えてなんとか止めようとしたけど、まだうまく体に力が入らない。  
そうこうしているうちにハヤテ君の舌が、さっき『私』が血を流した部分に触れる。  
「やっ……もぉ……ばかぁ……っ」  
小さな抗議の声は、大きくなっていく甘い感覚に流されていった。  
 
 
―――ゆっくりと、まぶたを開く。  
何度も気を失ったせいか、時間の感覚があいまいになっている。  
目の前に再びハヤテ君の顔。さっきと違うのは、あわてたような表情でいることくらい。  
しまったやりすぎたどうしよう、みたいな顔をしたハヤテ君に、落ち着いた声で告げる。  
「ハヤテ君?」  
そのままにっこりと微笑んで、ゆっくりとハヤテ君の背中に腕を回していく。  
ハヤテ君も微笑んで……あ、口元が引きつってる。うん、これって以心伝心ってやつよね?  
「あ、あのー、ヒナギクさん? ちょっと僕の話を聞いてほしいんですが……」  
なさけむよう。  
「あっ、痛、あ痛たたたたたたたっ、あたぁ!?」  
とびきりの笑顔で、思いきり爪をたててあげました。  
 
 
後始末を手早く済ませて部屋を出る。  
まぁ、全部完全に元通りとはいかなかったけど、それはさておき。  
「あー、えーっと……」  
薄暗い廊下を、すたすたと―――若干ふらつき気味に―――歩いていく。  
「ヒ、ヒナギクさん?」  
つーん。すたすた。ハヤテ君の声を後ろに聞きながら、黙って歩き続ける。  
振り向かないのも、顔が熱いのも、私の制止をちっとも聞かないで色々したことに怒っているからだ。  
決して何回もされてるうちに気持ちよくなっちゃって、最後のほうでは何度か……しちゃったことが恥ずかしいからじゃない。うん。  
「あのぅ……」  
「……えっち」  
「うっ……い、いやそれは……」  
「何か言いたいことがあるのかしら? 私がもう無理って言ったのに無視して続けた綾崎ハヤテ君?」  
「す、すみません……」  
「まったく……大体ハヤテ君……」  
「ヒナギクさんが『お願い、少し休ませて』とか涙目で言うのを見ていたら、つい……」  
「なっ……い、言ってないわよ!」  
「へ? いや、確かに……」  
「う……うるさいうるさいうるさい! だ、大体1日に8回もできるなんて非常識よ!」  
「え? その……数えてたんですか?」  
「ぅ……」  
数えてたわけじゃない、覚えてただけ……って、同じか。  
だってその、あの瞬間のハヤテ君の顔とか熱さとかおとこのひとのにおいとかがものすごく印象的で、簡単には忘れられない。  
……なんて言ったら、ハヤテ君はどんな顔をするかしら?  
少しだけ、ほんの少しだけそれを見てみたいと思った……まぁ、言わないけど。そんな恥ずかしいセリフ。  
でも、想像した光景は全然嫌なものじゃなくて、むしろ―――いや、そうじゃなくて……私は、今、怒ってるの!  
「……ばか」  
「う」  
「スケベ」  
「いやそれは……」  
「いじわる」  
「その、ですね……」  
「ヘンタイ」  
「だ、だからそれは……」  
「生活力過多の甲斐性無し」  
「う゛……申し訳ないです」  
「胸フェチ、着衣プレイ好き、中出しマニア」  
「すみませんすみませんホント、すみません」  
好き放題言い終えて振り向くと、そこには捨てられた小犬のような顔でしょんぼりとするハヤテ君。  
そんな姿を見せられたら、怒ってるフリも続かなくなってしまう。ああもぉ、ずるいなぁ……  
「…………………………………………大好き」  
「ぁ……はい♪」  
小さな声で、でもはっきりと、最後まで残っていた言葉を伝える。  
目を輝かせ、頬を薄紅色に染めて花が咲くような笑顔を見せるハヤテ君。  
その笑顔は本当に幸せそうで、だから私も幸せで。  
うん、大丈夫だ。確かにそう信じられる。そう素直に思えたことが嬉しくて、私も微笑む。  
「じゃ、帰りましょうか!」  
想いのままに大きな声でそう言って、ハヤテ君の手を取る。  
そうして私達は並んで歩き出した。  
 

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