「お嬢様、ちょっと相談があるんですが……」
思えば、この言葉から、ずれていた歯車が噛み合ってしまったのかもしれない。
「ん? 良いぞ。何だ、ハヤテ?」
だから、頼られるのに慣れてないであろうナギお嬢様の嬉々とした表情が次第に曇っていくその過程を、
僕は見逃してしまった。
「……というわけなんですが。こんな気持ちになったのは初めてなんです。四六時中ヒナギクさんのことを
考えているなんて、ちょっとおかしいですよね?」
はは、と、きまり悪そうに頬を掻いた。
きっかけは何だったのか。
今となっては心当たりが多すぎて思い出すのも難しいが、有耶無耶のうちに付き合いが多くなった麗しい生徒会長を、
しっかりと自分の視界が捕らえるようになったのは大分前。思慕の情を自覚したのはつい最近。それ以来、
寝ても覚めても彼女のことばかり考えている自分がいる。
「これってやっぱり初恋ってやつですよね。……どうしよう、告白とかしたほうがいいんでしょうか。
でも、いきなり振られて気まずくなっても困るし……お嬢様?」
途中から自分ばかり喋っていたことに気付く。
不審に思って声を発しないお嬢様を見ると、俯いたままその小さな肩を震わせていた。
「どうしたんですか? ……あの、僕何か不味いことを言いましたでしょうか?」
思わず血相を変えて近寄り、肩を支える。
恩人である以上に、この愛らしい主人を泣かせてしまうなど、自分の矜持に反する。
何が失礼に当たったのかはっきりとしないが、ここにいるのが二人だけである以上、原因が自分にあるのは明白である。
しかし、肩に触れた手は、他ならぬ彼女自身によって振り払われてしまった。
「お嬢様……?」
「黙れよ……」
「え?」
「黙れって言ってるだろ!」
激情の発露だった。
可憐な表情は、釣り上がった目尻と溢れそうな涙によって蹂躙されている。
それでも美しいことに変わりは無いのだが、お嬢様の本質からすれば、あってはならない美であるということは理解できる。
「何だよ……浮気はしないって。私のことが一番だって言ってくれたのは嘘だったのかよ」
「え……? 何のことを言っているのか……」
確かに身に覚えの無いことだったのかもしれない。
だが、その返答が余りに稚拙すぎたことは明らかで――
結局、自ら最後通牒を貰いに行ったようなものだった。
「ぐすっ……ハヤテなんか」
もう、言葉は何の役にも立たない。
「ハヤテなんか、だいっきらいだ」
最後にぽつりと言い残して、屋敷の中へと踵を返すお嬢様。
その姿を、僕は追いかけることも出来ずに、呆然と眺めているしかなかった。
眠れない。
こんなことは初めてだ。今までにも文化祭やスポーツ大会などの前日に、高揚感から中々寝付けなかったことはある。
だけど、それとは根本的にレベルが違う。幾晩に渡って続くことは無かったし、瞼を閉じたときに人の顔が
思い浮かぶなんてことも無かった。
それも、特定の男の子の顔なんて。
幼い頃から優秀たるべしとの信念を以って、万事に当たってきた自分。それが桂ヒナギクとしての矜持であると、疑いを抱いたことは無い。
だが、その過程で甘酸っぱい恋愛感情に心焦がすなんてことは、終ぞ訪れなかった。
不安はあった。
友人達が恋の話に花を咲かせるのを隣で聞いていながら、自分は精神的な欠陥を持っているのではないかとすら疑ったことすらある。
だからこそ、この想いが恋慕であると気付いたときには、恥ずかしくも嬉しさを隠せなかった。
変なきっかけでろくでもない男に引っかかるのではなく、尊敬できる優しさと逞しさを持った男性に惹かれた自分の目も誇らしい。
だけど同時に、言いようの無い絶望が私を襲う。
その相手はこともあろうか私の友人の想い人なのだ。
しかも、あろうことか友人本人に向かって、応援すると言った。その言葉は取り消すことが出来ない。
「どうすれば、良いっていうのよ……」
友情と恋心の板ばさみ。
恋愛小説なんかで使い古された煩悶を、まさか自分自身が当事者になることによって体現しようとは。
寝返りを打つ度に、それまで自分の吐息が掛かっていた枕の熱さが際立つ。
頬に手を当てても、まるで熱でもあるんじゃないかと思うほどの熱さを帯びている。
恐らく鏡で見る自分の顔は、どこぞの恋する乙女もかくや、といった表情をしていることだろう。
分かってはいるのだ。
どんな理屈をつけたって、この想いが収束することが無いのは。
自分を殺して応援するといったスタンスを続けようとしても、経験不足の自分のことだ、どこかでほころびが生じることは目に見えている。
……否。それ以前に、気持ちをごまかすことが出来そうもない。
「美希は……何て言ってたっけ?」
同じ生徒会に属する親友に、人物の相関図をぼかして相談したときのことを思い出す。
小学校から付き合いのある彼女だが、互いにこんな話題で話したことは無かったような気がする。
ただ、恐ろしく感の鋭い彼女には、私自身の話であると完全に気付かれていたようではあるが。
「その人が悩むのも分からなくはないけど……結局は自分の気持ちだから。友達も譲ってもらった気がしていい気はしないだろうし。でも意外
……ってわけでもないか。ヒナは綾崎君と相性良いみたいだし」
……全部見通されてる気がする。
でも、ヒントは得たのだろう。
話した当初は聞き流していたことでも、こうやって思い出してみると、彼女が言ったことは正論だということが分かる。
そもそも経験に疎い私が多少の策を弄したところで、想いに行き詰ることは明白なわけだ。
だったら、余計なことを考えずに気持ちのままにぶつかってみるのも悪くないかもしれない。
歩に対する罪悪感が払拭されたわけじゃないけど、それは自分の想いにケリがついてから考えることだ。
「……そうよね」
呟きが、火照った体を冷ましていく。
同時にやってくる睡魔。今夜は、久しぶりにいい夢が見られそうだった。
あんなことがあってまだ、三千院の屋敷に居続けられるほど面の皮が厚くない僕は、目的も無く夜の街を彷徨い歩いていた。
混乱の極みにある頭にあっても、片隅にしっかりと存在し続けるのは罪悪感。
両親があんなだったからか、肩身の狭い思いをしたことはあっても、余り自分が感じることの無かった感情だ。
「いや、違うか。少なくとも二度目だ」
しかも、ここ最近のうちに。
理不尽な借金苦があったとはいえ、お嬢様を誘拐しようとしたのは事実なわけで、今はなんでもなかったのように
振舞っているけど、傷ついていないわけがなくて……
「……何をやっているんだ僕は」
お世話になっておきながら、恩を返すどころか傷つけてしまうなんて、どこの居直り強盗だ。
とにかく、誠意を見せないと。謝るにしても、原因をはっきりさせて、自分の非を完全に認めてからでないと伝わらないだろう。
ではどうするか。はっきり言って、情けないことに自分の非が全く分からない。
このまま一人で悶々としても解決しそうもない。何とかしなければ、何とか……
「あれは……」
俯いていた視線を上げると、偶然にもそこが良く知った店舗の近所であることに気付く。
……一人で悩んでいても解決の糸口すら見つけられないのならば、いっそのこと人に話を聴いてもらうのも良いかもしれない。
年の割りに大人びているあの子なら、ぶっきらぼうにしつつも門前払いを食らわせることはないだろう。
話題が話題だけに情けない気持ちが先行するが、なりふり構っていられない。
わらにもすがる思いで、信号を渡った。
「あ〜、すみませんが閉店時間過ぎてまして……って何だ、借金執事か」
ちょうど「蛍の光」のテープを切ったところで店内に入ってきた人物を見やる。
普通の客なら体よく追い出すのが自分のスタンスなのだが、わがままな主によってこんな時間に使いに出されたのであろう相手に
少しばかり同情したこともあって、応対することにした。
「で、今日は何を借りに来たんだ? 残念だがイデオンもダンバインも中途半端に借りられてるから、大人借りは無理だぞ」
そこまで言って、相手が無言でいるのに気付く。見ると、焦点の合わない目つきで、どこを見るとでもなく視線を彷徨わせている。
「あん? 何時にもまして景気の悪いツラしてやがるな」
普段から幸薄そうな顔をしているこの執事だが、今日の覇気のなさは看過できないレベルにあるように感じる。
返却されたビデオの整理をしていたサキも、どことなく心配げな表情をしながらこちらへやってきた。
「失礼ですよ、若」
「俺は見たままを言っただけだ」
「だからこそです。……何かあったんですか、ハヤテさん?」
微妙にフォローになってないような気がする発言をかましながら、サキが訊ねた。
「サキさん、ワタル君……」
漸く瞳に光が戻る。
しかし、それは対象を「認識する」以上のものではない。その表情はさながら幽鬼の如く、不覚にも背筋に一筋雫を流してしまった。
「実は……」
訥々と語られる内容は、別段目新しいものではない。
女ずれしていない普通の男が陥りやすい事態であったし、目の前にいるこの執事も、ご他聞に漏れずその一翼を担う存在だろう。だが……
「……と、言うわけなんです。僕は何が悪かったんでしょう?」
無意識に握っていた拳に、更に力が込められるのを他人事のように感じる。
横目でサキを見ても、眉根に寄せられたしわが、その心中を如実に表していた。
「ワタル君?」
俺たちの様子にただならぬものを感じたのか、訝しげな視線を向けてくる借金執事。
「……色々と言いたいことはあるけどよ、とりあえず歯を食いしばれ!」
言うが早いか、思い切りヤツの顔面を拳で殴っていた。
恐らく人間離れしたタフさを誇るコイツのことだ、中学生のグーパンチなんて大したダメージにもなっていないだろう。
だけど、ここで重要なのは、俺が本気で殴ったということだ。この意味を理解できないほどちゃらんぽらんな性格はしていないはずだ。
思った通り、呆然としつつも両足はしっかりと地を踏みしめていた。
……ちっ、こっちは握りが甘くなったせいで、少し捻挫気味になってるってのに。
「知らない仲じゃないからな。認めてないっても仮にも許婚だし」
「え?」
「あんだけ近くにいて気付かないのは、馬鹿を通り越してもう犯罪だっての」
表情から察するに、これだけ言ってもピンと来ていないらしい。
「俺にはまだよく分かんねーけど、ナギの気持ちくらいは分かるぜ」
「お嬢様の……気持ち」
「……あとはサキの方が適任だろ。任せた」
そう言って、どっかりとカウンターの椅子に腰を下ろす。
サキが満面の笑みで、「よく出来ました」と言わんばかりの視線を向けてくる。……少し照れくさい。
「ハヤテさんはナギ様のことを好きですか?」
「え……? それは、大恩のある方ですし」
そういうことじゃないとばかりに、サキが首を横に振る。
「女の子としてどうか、という意味です」
「だって、お嬢様はまだ十三歳ですよ?」
「ナギ様は大分成熟されてますよ。見た目は可愛らしいですが」
諭すようにサキが語りかける。
「私が言って良いことか分かりませんが、ナギ様はハヤテさんに好意を寄せられているようにお見受けしました。その相手に別の女性の惚気話をされては堪らないでしょう」
見る見るうちに、執事の顔色が喪われていく。
「え……だって、でも……」
「勘違いして欲しくないんですが、別にナギ様の気持ちに答えなければならないとか、その彼女のことを好きになってはいけないとか、
そういうことを言いたいのではないですよ? ハヤテさんの咎は、その鈍感ぶりです。大したことなんじゃないかって思われるかも
しれませんが、女の子というのは、そういう些細なことで深く傷つくものです」
漸く理解できたのだろう。がっくりと肩を落とす姿からは、深い反省の色が滲み出ていた。
頃合だろう。これ以上追い詰めてもしょうがない。
「ま、昨日の今日であの屋敷には帰りづらいだろうな。客間を空けてやるから、一晩頭を冷やしてけ」
落ち込んだ姿を見て、余りもてすぎるのも考え物だな、と思った。
――翌日 白鳳学園
得てして物事は、ふとしたことで回転を始める。だが、今の僕にとってそんな都合のいい展開が起こる術がないことは、自分自身が良く理解していた。
登校していないお嬢様の机を十分おきくらいに流し見ながら、上の空で午前の授業を聞き流して至った、そんな昼休み。
エネルギー補給のためだけに詰め込んだ購買のパンは全く味気ない。
僕の様子がいつもと異なることは、周りにもよく伝わるのだろう。話しかけるのをどことなく躊躇う空気を感じる。
その対応は、周囲に煩わされたくない僕の心中からすれば寧ろ歓迎すべきことで。
……だけど、そんな虚構の安寧が長続きなんてするわけもなかった。
「綾崎クン」
ポンと肩を叩かれる感触に振り向くと、そこにはいつも通りの笑顔を湛えたクラスメイトの姿があった。
「泉さん……何でしょうか?」
「どしたの? 暗いよ〜。人間元気が一番!」
裏表の全くないその笑顔は、何となく心を落ち着かせてくれる。
「ヒナちゃんが生徒会室に来て欲しいんだって」
ドクン。
一瞬にして心臓が高鳴る。
だけどそれは、昨日までの甘い夢想に裏打ちされたものではなく、あたかも有罪を宣告された咎人の心境よろしく、冷たい汗をもたらした。
こんな気持ちで、ヒナギクさんに逢いたくない。
「じゃ、伝えたからね! 早く行かないと、ヒナちゃんに怒られちゃうよ」
そう言い残して、いつものグループに戻って行った。
どうしよう。
断るにしても、無視するにしても、ここで手持ち無沙汰にしている姿を見られている以上、隔意を持っていると誤解されることは否めない。
ならば、行くしかないのか。ヒナギクさんの用事が何かは分からないが、恐らくいつも通りの他愛のない用件だろう。
……大丈夫、普段どおりを心掛ければ、きっと上手くいくさ。いつまでも女々しく落ち込んでいるわけにも行かないし、何かきっかけでも掴めれば。
「うん。そうだよね」
問題は無い筈だった。
ただ、自分の予想はいつも裏切られることを失念していた以外は。
「ヒナギクさん、綾崎です」
ノックと共に声を掛ける。
「鍵は掛かってないわ。入ってきていいわよ」
中から、透き通るような声音が返ってきた。
「ヒナギクさん、用件は……?」
室内を見回しても、彼女の姿が見えない。
指定席である豪華な造りの椅子は、もぬけの殻だ。
「こっちよ」
声のする方に視線を動かす。
すると、開け放たれたテラスの片隅から、睥睨するような厳しい視線で階下を見下ろす彼女の姿があった。
「ヒナギクさん、高いところダメだったんじゃ」
「ん。ちょっと度胸試しをね」
にこりと笑んで、室内へ入ってくる。
その笑顔に、己の葛藤も忘れて、思わず見惚れてしまった。
「急に慣れないことをすると危ないですよ……」
思わず自嘲の笑みが零れる。
彼女の魅力に惹かれていることは事実なのだが、こんな時にまでポーっとしてしまうとは、我ながら現金なものだ、と。
「で、何かお手伝いすれば良いんでしょうか?」
「あー……うん。そういうわけじゃないんだけど……そうね、ええと、今日はいい天気よね、ハヤテ君」
妙に歯切れが悪い。
それに、やけに挙動不審な姿を見て、ここでも何かやってしまったのではないかと、疑心暗鬼の念に駆られる。
「あの、僕が何か……」
「ハヤテ君ってさ」
質問は、彼女の声に掻き消された。
「ハヤテ君って好きな娘とかいないのかなーって」
「え……」
「ほら! 歩……西沢さんに告白されてもまだ返事をしていないんでしょう? だから、もう心に決めた人がいるんじゃないかなって」
何故、今そんなことを訊くのだろうか。
「だけど、もし……もしよ! そんなのじゃなくって、ただ純粋にあなたがフリーなんだったら……」
顔から血の気が喪われていくのが分かる。
ヒナギクさんの言いたいことがおぼろげながら理解できてしまう。
嬉しいはずなのに、何でこんなに胸が締め付けられるのか。
「……私なんか、どうかな? だって! 私、ハヤテ君のことが……」
止めてください。その言葉を聞いたら、もう、引き返せなくなる。
「好き、になっちゃった」
度胸試しとはこういうことか。
恐らく精一杯の勇気を振り絞ったのだろう、頬を真っ赤に染めながら、上目遣いに僕の反応を窺っている。
その姿は破壊力満点で、思わず自分の本心を洗いざらいぶちまけてしまいそうになる。
だけど、それとは別の部分で、僕の心が瓦解していく。
何故、今なのか。だって僕はお嬢様を傷つけてしまった最低の男で、ヒナギクさんに想われるような人間じゃなくて
……そう、ヒナギクさんに想いを伝える資格がない。だから――
「僕は……嫌いです」
そんな、全く心にも無いことを、言っていた。
「え……」
口元に手を持っていき、茫然自失を体現している彼女の様子が、僕にゆっくりと現実感を喚起させていく。
それと共に、自分が何を言ったのかを漸く思い出し、目の前が真っ暗になった。
「そう、だったんだ……」
彼女の呟きが僕に突き刺さる。
ちょっと待て、僕は何を言った? 言い方ってものがあるだろう!
「ごめんなさい! あの……僕、そんなつもりで言ったんじゃ」
自分の言動の末に再び女の子を泣かせてしまう。しかも、今度は自分が大好きな女の子を。
その恐怖が、僕をその場から逃げるようにと掻き立てた。
もう、ヒナギクさんの嗚咽は言葉にならない。
じりじりと後ざしり、僕は一目散にその場を後にしていた。溢れてくる涙を堪えることもしないで。
鴉の鳴き声が、やたらと癇に障る。
何時にもまして鮮やかな夕焼けが、私の心の中と余りに対称的で、思わず泣きたくなった。
精一杯の勇気を振り絞った結果だった。
それが上手くいかなかったからって、誰を責めるわけにもいかない。ハヤテ君の眼中には私はいなかった、ただそれだけのこと。……だけど。
「嫌われてるとは、思わなかったな」
思い出したくはないのに、彼の言葉が棘のように刺さる。
あの後の授業は全く身に入らず、生徒会の活動でもつまらないポカを連発して、美希に今日は帰ったほうがいいよなんて言われる始末。
かといって家に帰っても、枕を涙で濡らすことは目に見えているので、こうやって公園で時間を潰している。
大体、私は何を舞い上がっていたんだろう。私の中で結論が出たって、ハヤテ君が同じ気持ちでいてくれると決まったわけじゃないのに。
もやもやとした気持ちが晴れることはなく、考えれば考えるほどに思索の海へと溺れていく。
「あれ……ヒナさんこんなところでどうしたの?」
だから、彼女の声に気付くのには時間が掛かった。
「歩……」
「え? どして? 泣いてるの?」
泡を食ったように、ぱたぱたと両手を振りながら近づいてくる。
「何でもないのよ。大丈夫だから」
今一番会ってはならない人に会ってしまったという感が強い。私は彼女の気持ちを裏切って、ハヤテ君に告白してしまったのだ。
「何でもないわけないよぅ。そんな捨てられた猫みたいな顔して……」
心配そうな顔を見せる彼女の言葉を聞いて、むくむくと自虐心が膨れ上がっていく。
もし私がハヤテ君に告白したことをしったら、歩はどうするかしら? 泣き崩れる? 罵倒する? 願わくば散々にこき下ろして欲しい。
「……というわけなの」
言い終わって、はたと状況に気付く。ひょっとして私は今、とんでもないことを言ったのではないか。
易々と弱気の虫に精神を明け渡すほどに、自分の心が疲弊していることに気付かなかったのは、明らかに自分のミスだ。
今、私は己の想いからなにから全部吐露してしまった。それを聞いて、この優しい友人がどれだけ心を痛めるかに思い至らなかったとでも言うのか。
大切な友人を失いかねない己の迂闊さに、思わず全身が総毛立つ。
「ご、ごめんなさ……私、あなたに黙って酷いことを」
思わず叱られた子供のように肩をすくめて、歩の反応を窺う。
「ふう……」
彼女のリアクションに過敏に反応してしまう。
「どうして酷いことになるのかな? ヒナさん何も悪いことはしてないよ」
「え……だって、私、あなたのこと応援するって言ったのに」
「んー、正直に言うとね、否定してたけど多分ヒナさんもハヤテ君のこと好きなんだろうなって思ってたんだ」
「嘘……」
「それに、好きになったらどうしようもなくなっちゃうの、私にもわかるもの」
だから、酷くなんかないよと彼女は笑う。
「それにしても、ハヤテ君も酷いな。多分事情があるんだろうけど、それにしたって言い方があると思うのに」
「事情……?」
あの言葉に、他に何の意味があるというのだろうか。
「うん。だって、ハヤテ君は理由もなく人を嫌いだなんていわないよ。……ううん、理由があったってそんなことは言わない。
傷つくことの痛みを知ってる人は、絶対に人を傷つけようとはしないんだから。だからきっと、色々とテンパってたんじゃないかな?」
視界が開けていく。
言葉通りなのかもしれない、でも違うのかもしれない。
彼女の言葉は、私を引き上げてくれるのには充分だった。
「ねえヒナさん、も一度ハヤテ君と話してみなよ。そうした方がはっきりすると思うよ」
優しい言葉が葛藤を緩やかに溶かしてくれる。それと共に、胸の奥から熱い塊がせりあがって来る。
……私、こんなに涙腺弱かったかしら。ああ、もうダメだ。
「うぇ……ぐすっ……」
思わず、彼女の胸に飛び込んでいた。
一瞬びっくりしたように体を硬直させた彼女だったけど、すぐにさっきの言葉のような優しい抱擁に変わる。
「何かいつもと逆だね」
「……どうして、優しいの? あなたも好きなはずなのに」
「今度ダメだったら、改めてライバルになればいいんじゃないかな?」
耳を打つ鼓動が心地よい。
素敵な友人と巡り合わせてくれたことを、いるかどうかも分からない神様に、感謝した。
習慣とは恐ろしいもので、ふらふらとしながらも僕の足は、無意識に三千院の屋敷へと体を運んだ。
……どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。
大好きな女の子にわざと冷たく接するような、幼稚な精神をしていたつもりはない。
ただ、昨日の出来事が尾を引いて、冷静な判断を失ったことは否めない。いや、それじゃあ……
「まるでお嬢様のせいにしているみたいじゃないか」
自分の短絡さに呆れてしまう。ベッドに腰を下ろし、思わず頭を抱えた。
これからどんな顔をしてみんなと顔を合わせればいいのだろうか。
失態を何とかしようと足掻いているうちに、ますます泥沼に嵌っていってしまうというアレだ。
しかも今度の件は、全くの僕の落ち度。鈍感な自分自身ですら理解できるのだから、疑いようが無い。
西沢さんのときとは全く違う、こんな経験が皆無に等しい僕にとって、この呵責は辛すぎる。いっそのこと逃げ出してしまおうか――
「……また、ネガティブな方向に行っているみたいですね」
突然のマリアさんの声に、頭が反応したのは数瞬の時を経てからだった。
「マリアさん……」
「全く、連絡もしないでどこに行っていたんですか? ナギも心配していましたよ」
お嬢様。その人称に消せない罪を重ね合わせてしまって、思わず青くなる。だけど……
「大好きな女の子に、嫌いだって言ってしまいました……」
隠していてもしょうがないかという思いが勝ったか。否、僕の弱気の虫が、このまま愛想を尽かされて放り出されるのを望んでいたのかもしれない。
そうすれば、全ての呵責から逃れられるのではないかという机上の空論を信じて。
気が付けば、情けないことに嗚咽を漏らしながら、昨日から今日に至るまでの一切合切をマリアさんにぶちまけていた。
「あ〜、それはまた、何と言うか……」
全てを聞き終わったのにも拘らず、マリアさんの表情はいつもと大差ない。
少し困ったような笑みを浮かべるだけで、弾劾する気配は感じられなかった。
「確かにハヤテ君の対応が不味かったのはあるのでしょうけど……全部知っててほっといた私にも責任があるのでしょうね。良かれと思ってしたことが、
完全に裏目に出てしまいました」
「あの……どういうことですか?」
マリアさんが語った内容は、僕を驚愕させるのに充分だった。まさか、お嬢様との出会いにそんな話があったなんて。
……だけど、聞いてしまえば納得出来るものではあった。得体が知れない僕を雇ってくださったお嬢様の判断、それに、昨日のワタル君の怒り方も。
「だったら、なおさらっ!」
「ストップですよ。ハヤテ君も私も、大切なのは終わったことを悔やむのではなくて、これからどうするか、です」
確かに正論だろう。だけど、それが分かったからといって、僕にどうしろというのか。
厚顔無恥にも、これからもお嬢様のそばにいることが許されるというのか。
「ふう……じゃ、聞き方を変えましょう。ハヤテ君は、ナギのことが嫌いですか?」
「そんなことあるわけが!」
僕にとってお嬢様は救ってくれた恩人であって……
いや、それ以前にあの愛らしいお嬢様を嫌いになることなんて、僕の引き出しの中には入っていない。
「だったら今まで通りで良いんじゃないですか? ……ねえ、ナギ?」
「へ?」
一瞬、マリアさんが何を言っているのか理解できなかった。
でも、呼びかけに呼応しておずおずと部屋の中に入ってきたお嬢様の姿は決して幻影ではなくて。
「……良かった。嫌われたわけじゃなかったんだな」
心底安堵したように、そんな言葉を残した。
「マリアから全部聞いたよ。私の勘違いだったんだな」
全てに納得がいったわけではないのだろう。
だけど、気丈にも笑みを見せるお嬢様の姿を見て、心が締め付けられるように切なくなった。
「お嬢様……」
「いや、良いんだ。考えてみれば、変な話だったしな」
「ナギもこう言っていますし、ハヤテ君はどうですか?」
マリアさんが訊ねてくる。
そうだ、今言わなくて何時言うんだ。
こうやってお嬢様が許そうとしてくれる。だったら僕がするべきことは決まっているじゃないか。
確かにすれ違いの関係だったのかもしれないけど、お嬢様が僕に向けてくれる想いは本物で。
僕もお嬢様のことを大切に思ってて。
……くそっ、涙よ止まってくれ。女々しい姿は見せたくないのに。
「ごめ……なさい。お嬢様、ごめんなさい……」
「ああもう! 泣くなハヤテ。寧ろここは私が泣くところではないのか?」
ぽんぽんと、まるで泣く子をあやすかのように肩を叩いてくるお嬢様。いや、実際に泣く子と大差ないんだけれど。
「いっとくけど、結婚までは諦めないからな。確かにヒナギクは強敵だが、今更諦めてなんかやるもんか」
優しい言葉が耳を刺激する。
それが更に涙腺の崩壊に拍車を掛ける。
「お嬢様っ!」
もう、限界だった。
小さな体を精一杯使っての勇気が、僕を引っ張ってくれるその横顔が、とてもいじらしくて。
それが真理であるかの如く、お嬢様を抱きしめていた。
「わっ、バカ! 浮気はダメだって言っただろう!」
……違うんです。そういう意味じゃないんです、お嬢様。
ただ、嬉しくて。こんな素晴らしい主に巡り合わせてくれた奇跡が信じられなくて。
「では、こっちは解決ってことでいいですね」
十分もそうしていただろうか、はたまた一瞬のことだったのか。
マリアさんの言葉が、漸く僕の中に浸透した。
「そうだな。しっかりしてくれよ、ハヤテ」
「有難うございます」
やっと、笑顔を見せることができた。
「じゃあ、残った問題は、もう一方のほうですね」
マリアさんがにこりと笑んで、背中を押してくる。
「でも、今更……」
「ええい、うじうじするな! 大体ハヤテには責任があるだろう?」
「そうです。それに、泣いている女の子を迎えに行くのは、王子様の役目だって昔から決まっているんです」
胸を張りながら、マリアさんが言う。
やり直せるのだろうか。
本当の気持ちをさらけ出しても良いのだろうか。
……いや、違う。それが僕の義務なんだ。
今更ヒナギクさんに釈明したところで、全てが上手く行くなんて甘いことを考えてはいない。
でもせめて、僕自身の口から、ありのままをヒナギクさんに話すことが、最大の贖罪になる。
そしてケリをつけよう。
結果がどうあれ、たくさんの人に支えられながら育んできた、この想いに。
「すみません、お嬢様、マリアさん。少し出てきます!」
「頑張ってくださいね」
「忘れるなよ。ハヤテが帰ってくる場所は、ここなんだからな」
大切な勇気を、貰った気がした。捨てたものじゃない世界はやっぱり、優しかった。
「ハァ……ハァ……」
静まり返った夜の住宅街を、ただひた走る。
頭の中で、様々な場面が過ぎっては崩れ、また構築されていく。
ヒナギクさん。
酷いことを言った。本心じゃなかったなんて言い訳は通用しない。
だけど、顔色を窺って彼女に接するなんて真っ平だ。
許されないかもしれない。でも、それに怯えているようでは、背中を押してくれた大切な人たちに申し訳が立たない。
それに何より、僕がヒナギクさんを想う気持ちは、嘘じゃないんだから。
「ハァ……っく、自転車借りて来れば良かったかな」
後先考えない自分の迂闊さに思わず苦笑する。
でも、ばくばくと波打つ心臓の鼓動も、頬を流れる熱い汗も、決して不快ではなかった。
また一つ路地を曲がる。
いつか泊めてもらったことがあるので、道順は覚えている。
中々目的地が近づいてこないように感じるが、それは自分の浮ついた心情がそうさせるのだろう。
こんな時にまで落ち着いていられるほど達観していない。
思えば、鮮烈な出会い方だった。機上ならぬ木上の出会いなんて、世界中探してもそうないだろう。
「つ、着いた……」
考え事をしていたからか、途中からはあっという間だった感触がある。
さあ、勝負の時だ。自分の精一杯を、言霊に乗せて彼女に伝えよう。
万感の想いと共に、インターホンを押し込んだ。
歩との邂逅は私に元気をくれた。
いつまでも落ち込んでいるわけにも行かないし、色々な意味でいいきっかけになったのだろう。
夕食の盛り付けを終えて、ダイニングに運ぶ。
今日はお母さんが泊まりなので、一人分の準備で良いから楽なものだ。
かといって手を抜いたわけではない。寧ろいつもより力を入れたくらい。
もやもやした思いを吐き出すためにも、少し奮発してみたのだ。
さっき味見した段階では文句なしの出来具合、さて、美味しいものを食べて明日の計画を立てようかしら。
お茶を入れ終え、美味しそうな香りの元へと向かう。
……だって言うのに。
「あ、先に頂いてるわよ」
予期せぬ闖入者が、食卓を蹂躙している真っ最中だった。
「……今日は帰ってくる予定じゃなかったじゃない、雪路お姉ちゃん」
思わず顔に手を当てて、盛大に溜息を吐いてしまう。
「堅いことは言いっこナシ! コンビニ弁当にも飽きてきたとこだったしね」
「全く、もういいわよ」
台無しになってしまった夕飯をどうしようかと思い悩みながら、凄い勢いで平らげつつある不肖の姉の対面に座る。
……冷凍食品残ってたかしら?
作った側としては惚れ惚れするような食べっぷりなのだが、妙齢の女性としてはどうなのだろう。
少なくとも彼氏が見たら絶対に一歩引かれてしまうこと請け負いだ。
……尤も、いれば、の話ではあるが。
そんな取りとめもないことを考えながら、お茶をずずっと啜る。
「あ〜、美味しかった。……さて、綾崎君との話を伺おうか」
「うきゃい!」
思わず口の中の液体を吐き出してしまった。
不意打ちも不意打ち、心の準備なんてあったものじゃない。
そもそも、何でお姉ちゃんがその話を知って……?
「……別に、何も無いわよ」
思いっきり動揺しといて何もないもあったものじゃないけど、笑い話の種になるような種類の話じゃない。
大体私は当事者なのだ。
「ヒナが話したくないって言うならそれでも良いよ。でも、話してすっきりすることもあるんじゃないかな?」
だって言うのに、お姉ちゃんの表情は、いつものおちゃらけた感じからは程遠くて。
「お姉ちゃん……?」
「ん。花菱さんも心配してたし、確かに六限の授業の時には覇気がなかったしね」
美希か。確かに今日は私らしくなかったのだろう。
勘の鋭い親友のことだ、黙っていられなかったのだろうことは、容易に想像できる。
「ま、言いたくないような内容だろうしね。だから、詳しく知らない第三者としてのお節介な一言」
ずずいと身を乗り出して、私の手を握る。
「思い悩むのはヒナらしくない。ヤなことなんか、蹴っ飛ばしちゃえ」
確かに何も分かっていない無責任な言葉。でも、こんなに胸が温かくなるのは何故だろう?
「お姉ちゃん……」
唐突に光明を得る。
少しでも疑問があるのなら確かめに行くのが、桂ヒナギクのあり方だったはず。
歩に言われて少し持ち直したにせよ、ハヤテ君と顔を合わせることに怯えていたのも事実。
だけどそれは、確かに私らしくない。
「……ありがと」
恐らく何に対する感謝の言葉だか分かっていないだろう。
でも、それでもいい。だって、私がお姉ちゃんの言葉に助けられたのは確かなんだから。
「ちょっと出かけてくるわ」
勢いをつけて立ち上がる。時計を見るとまだ八時前、この位ならギリギリ失礼に当たらないだろう。
この熱気が冷めてしまわないうちに、直接確かめてしまおう。
「ファイトだヒナ!」
背後から聞こえる後押しを受けて、思わず笑みが零れた。
玄関で上着を羽織り、靴に踵を通す。
頭の中でシミュレートしようとしたが、余り役に立ちそうもない。
だけど、これでいいのだろう。陳腐な作戦なんか邪魔なだけだ。
さあ出陣だと立ち上がった瞬間、インターホンが鳴る。
出鼻を挫かれた格好になって、思わず鼻白む。
……まったく、こんな時間に何の用なのかしら。
何て自分のことを棚に上げながら、応対するためにしぶしぶドアを開けて――
「あ……ヒナギクさん」
「へ?」
予期せぬ相手に、今度こそ棒立ちになった。
突然の邂逅に、真っ白になっていた頭が漸くクリアになっていく。
まだ動悸は収まらないが、何とか戦線復帰を果たした。
「あっ……と、そのですね。ええと」
しどろもどろなハヤテ君の様子も、逆に私の平常心を取り戻すことに一役買ってくれた。
「ま、立ち話もなんだから、とりあえず上がって……」
履いた靴を脱いで彼に背を向ける。その腕を、ぐいと引かれた。
「ごめんなさい!」
今日はびっくり箱の特売日だろうか。
文法を無視していきなり結果だけを突きつけてきたハヤテ君の発言に、思わず目を白黒させてしまう。
待て待て、落ち着いて考えようじゃない。
ええと、ハヤテ君が謝ってくるってことは、それが昼間の一件についてであるだろうことは明白だ。
だとしたら、そこから導き出される結論は……
「それは、嫌いだって言われたことに対する謝罪だと思っていいのかしら?」
「嫌い」という単語を口に出すときに胸がちくりと痛んだが、これを乗り越えなければ先に進めないので、思い切って聞いてみる。
「そうです。……ええと、でもそれだけじゃなくて、嘘ついたこととかもっと色々なことにごめんなさいと言うか」
……さっぱり要領を得ない。
「そもそもヒナギクさんを嫌いになる人なんていないと言うか、僕自身の逃げ道のためにヒナギクさんをダシに使っちゃったというか……」
これは、もしかして大逆転なのではないだろうか。
少なくとも「嫌い」という言葉は、歩の言うとおりに何かの間違いだったらしい。
鼓動が早くなり、頬が紅潮していく。
だったら、私が言うことは一つだけだ。
後は、ほんのちょっとの勇気を搾り出して。
「分かったわ。……だけど、それじゃあ貴方の本当の気持ちを聞いてない。それじゃあ不公平よね?」
あと少し、もう少し。
想いを弾に、火照る体を銃身に。全霊を込めた引き金を引いて、相手を貫け!
頑張れ、私!
「私は言ったわよ。……ハヤテ君のことが好きだって。だから……本当の答えを、聞かせて?」
「――僕は、またやっちゃいました」
永遠に続くような沈黙を破ったのは、ハヤテ君のこの一言だった。
「え?」
「今度は、しっかりと僕の方から告白しようと思ったのに……だめですね」
「っ! それじゃあ」
「大好きです。僕はヒナギクさんのことが大好きです」
その言葉だけで、他の全てが帳消しになった。
涙腺が緩む。
何か今日一日だけで数年分の涙を流したような気がするが、これは許してもらおう。
だって、こんなにあったかいんだから。
「……傷ついたんだからっ! 本当に苦しかったんだからっ!」
ぽかぽかとハヤテ君の胸を叩く。
およそ自分がやるとは思ってなかった行動ではある。
私は怒っているんだ。確かに嬉しいけど、そんな簡単に許してはあげないのだ……
だって言うのに――
「ごめんなさい。……いや、違いますね。有難うございます、ヒナギクさん」
そんなことを言われたら、嬉し涙が止まらないじゃないの。
どのくらいそうしていただろう。
お互いの吐息が掛かる距離で抱き合うような格好。
細身に見えるけれど、しっかりと鍛えられた胸板が、やっぱり男の子なんだなという感慨を抱かせて。
背後でカタンという物音がしたのを契機に、どちらからともなく離れた。
「……良かったです。本当は、許してもらえないと思っていましたから」
「許してなんかいないわよ。これからきっちり貸しを回収していくわ」
涙を見せたこともあって、何となく気恥ずかしい。だからこれは、精一杯の強がり。
「はは、覚悟はしています。……それじゃ、また明日」
思ったとおりだ。別れの言葉を聞いて、ハヤテ君の姿が見えなくなることがたまらなく不安になって。
「……ヤだ。離れたくない」
しっかりと腕を捕まえたまま、そんな言葉を言っていた。
時間が過ぎるのがこんなに早く感じることは、今までになかったように思う。
溜まった鬱積を晴らすかのように笑い、取り留めのないことを話した。
はしゃぎつつも、いつもの毅然さをも失わないヒナギクさんの姿に、見とれることがあったのは一度や二度ではない。
僕自身、何かに憑かれるように明るく振舞った。
昨日からの出来事の反動が、予想以上に大きかったのだろう。
「そろそろお暇しないといけませんね」
時計の針は、日付の境界に差し掛かろうとしている。
お互いに翌日の生活が確固として存在している以上、これ以上の長居は迷惑になるだろう。
……だって言うのに。
「え……そう」
何て、寂しそうな顔をされたら、どうしていいのか分からなくなる。
結局、困ったように曖昧な笑顔を浮かべるしかない。
我ながら優柔不断だとは思うのだけれど。
「うん、そうよね。三千院のお屋敷にも迷惑を掛けることになるし」
「いえ、それは良いんですけど……」
しっかりと僕の袖の裾を握ったままでは説得力ないですよ、ヒナギクさん……
でも、そんな姿が、たまらなく愛らしくて。
「あぅ……」
思わず、華奢なその肩を抱き寄せていた。
僕の胸に、濡れた吐息が掛かる。少しくすぐったい。
だけど、ヒナギクさんとこうしているんだという実感がすごく身近に感じられて、嬉しくなった。
と、胸元でもぞもぞと動く気配を感じる。
嫌がっているのかなと思ったが、どうやらそうではないようだ。
「……だけど、いきなりだし。でも、……ううん」
漏れた言葉が聞こえてくる。
口に出していることに気付いていないのだろう、ヒナギクさんらしくないが、妙にテンパっているみたいだ。
視線を強引に下に向けてみる。
すると、両手で一枚の紙切れを弄びながら、思索に耽っているように見えた。
「……結局大事なのは、私の気持ちなのよね。決してお姉ちゃんに影響されたからとかじゃないんだから」
勝手に自己完結されても困るんですけど……
でも、次の瞬間に顔を上げたヒナギクさんの発した言葉は、文字通り僕の思考をフリーズさせていた。
「ハヤテ君、泊まっていかない……?」
ええと、ヒナギクさんは何を言っているのだろう。
額面どおりに捕らえると、このお誘いはつまりそういうことで……
「つっ……!」
瞬間湯沸かし器のように、顔が紅潮する。
いや、決して嫌なわけじゃないけど、何故そんな突然に?
「ダメ……かしら?」
そんな瞳で見られたら、断りようがありませんよ……。
でも、勢いでそんなことしちゃいけない。僕だってそう言ってくれることは嬉しいけれど、物事には順序ってモノが――
あれ? 唐突に理解する。
僕のヒナギクさんに対する想いは本物で、順序って言うけど、僕たちが積み重ねてきたものは決して浅薄なものではなくて……
例えムードに乗っかったものだとしても、後悔する可能性がない以上、問題ないんじゃないか?
それは、男の勝手な自己完結に付随するものだったのかもしれない。
だけど、決して勢いだけじゃなく、確かな想いに裏打ちされていることだけは自負できる。
「えと……止まれませんよ? もう」
真っ赤になりながら何とか搾り出す。
「ん……部屋、こっち」
染まった顔を隠すかのように背を向けて歩き出すヒナギクさん。
僕はどこか夢見心地で、そんな彼女の後を追った。
ふと、彼女の手から零れ落ちた紙片が目に入る。
そこには特徴的な桂先生の字で色々と書いてあったが、詳しく見ている余裕はなかった。
果たして上手く出来たのか。そんな質問は無粋だろう。
隣で幸せそうな表情をしているヒナギクさんの横顔を眺めていると、切実にそう思う。
決して楽じゃなかっただろう。痛かったはずだ。
声を殺してしがみついてきた柔らかな震え、シーツに残る契約の赤――大変だったに違いない。
「大丈夫ですか?」
余計なことだと知りつつも、思わず聞いていた。
「ん……痛かったけど、それより大切なものってあるじゃない? 私はハヤテ君が凄く近くに感じられて幸せよ? それに――」
にこやかな微笑みは、僕の心の奥深くまで浸透して。
「別にこれっきりってわけでもないんだし、ね?」
愛しいなんて陳腐な言葉を、遥かに超えて行った。
これは覚悟がいりますね。
唐突に思う。ここまで惚れてしまっては、ちょっとやそっとじゃ抜け出せない。
若輩の自分には先のビジョンなんか浮かばない。
だからせめて、自分の言葉で伝えよう。
「僕は、いつでもヒナギクさんの傍にいますよ」
満面の笑みが眩しい。
この宝物を守るためならば何でもしよう。
右手を矛に、左手を盾に。全てを懸けて、想いを貫く。
その心、決して忘れることなく――
僕よ、在れ。
〜fin〜