望美が帰還したという報は源氏の軍のごく一部のものにしか伝えられなかった。  
「だからっ!どういうことだと聞いている!!」  
「先ほど申し上げた通りです、九郎殿。あの子は今は誰にも会わせることが出来ません」  
望美のいる一室に繋がる廊下の前に立ちふさがり、朔は頑としてそこを動こうとしない。  
「九郎〜、落ち着いて、さ。ほら、ヒノエ君が放ってくれてた烏達が戻ったていうし、  
 これから奥の間で報告があるから早く行こうよ。」  
今にも朔に掴みかからんばかりの勢いの九郎の間に景時が割って入る。  
総大将の九郎がいなければはじめられないよ、という言葉に未だに何かいいたげではあるが  
言葉をいくつも飲み込んだ様子で九郎はその足を奥の間のほうに向けた。  
「…ごめんね、朔。九郎は根が真っ直ぐだからさ。特に今回の事には頭に血が上っちゃってるんだよ」  
「そんなことわかっているわ。私でもどうして良いかわからないほどの怒りで目の前が回っているもの。  
 …でもどうして…どうして望美があんな目にあわなければならないの…!?  
 いっそ、私が代わってあげられたらどんなにいいか…」  
「朔!!!」  
それ以上の言葉は許さないとでもいうように、朔の言葉を景時が険しい声で遮る。  
「朔、これが戦というものなんだよ。誰にだって、朔にだってそういう可能性はあったし、これからだって望美ちゃんみたいに…」  
言いかけた景時の表情が歪み、それ以上先の言葉を続けることはなかった。  
「私たち世界の戦に何の関係もない望美を巻き込んだ。…私たちの責任ね」  
泣き崩れた妹の声に景時は為す術もなくその場に立ち尽くした。  
 
景時が奥の間についたときには全員が揃っていた。  
そしてその表情は皆一様に暗い。  
九郎は先ほどの怒りからまだ冷めないのか拳を膝の上で震わせている。  
白龍や譲はただ呆然と空を見詰め、敦盛はうつむいて口を固く引き結び、  
リズヴァーンは眉間に深い皺を刻んだままだ。  
「ま、こんなとこかな」  
唯一いつもと変わらぬ表情で烏達から得た情報を報告し終えたヒノエが組んでいた腕を解いて円座の上に座す。  
「こんなとこって…!!それだけか!!先輩は…っ、先輩がどんな目に遭ったかわかっているのか!」  
怒りで耳まで紅潮した譲がヒノエに掴みかかる。  
「熱くなるなよ、今更息巻いたってどうにかなるものでもないだろう?」  
譲を見返すヒノエの瞳は至って冷ややかだ。  
「望美が遭ったことを逐一知りたいって言うなら教えてやるよ。  
 それが望美の傷を抉ることになるって解かって言ってるなら、いくらでもね」  
譲ははっとした顔で固まる。望美がどんな目に遭ったかなんて先ほどのヒノエの報告だけで十分だ。  
福原の戦陣で望美の姿が消えた。  
敵の矢が望美の身体を掠めて、馬から落ちた望美を誰もが救おうとした。  
だが砂塵と入り乱れた兵に阻まれて、やっとその場に近づけた時には望美の姿はそこにはもうなかった。  
熊野の烏たちを使い、望美の居場所を知りえたのはそれから二日後。  
望美がいたのは平家が陣を張っていた一の谷の崖を下ったところにある洞穴だったこと。  
…そこには望美以外に平家の雑兵たちが残っていたこと。  
報告などそこまで聞けば十分だ。運び込まれた望美の様子を見てしまった今では。  
 
「…相手は、還内府なのか…?」  
「いや、それはないと思う。還内府殿はそういう卑怯な手を一番嫌われる方だ。  
 あの方に限って…特に神子に対しては、その、無体は決してされないと、そう思う」  
苦渋の底から搾り出すような九郎の声に敦盛が答える。  
「…還内府は海に逃れたと聞いた。その可能性は非常に薄い」  
リズヴァーンの言葉が更に追い討ちをかけた。  
還内府だと、そう言われてしまえばまだ救いはあったかもしれない。  
捕らえた敵方の戦女神を自らの総領に差し出す事を目的にするならば、手出しは何もされていない可能性も残る。  
だが、そうでないならば。  
そこまでを考えて誰もが再び押し黙る。  
「今は、そんなことを考えている場合ではないはずです」  
沈黙を破ったのは弁慶の声だった。  
そうだ、この男は先ほどから押し黙ったまま一言も発していなかった。  
皆が一様に沈みきった表情を見せていた時も彼は、終始無表情だった。  
「先日の戦は一応は源氏方の勝利という形で終わりました。  
 しかし、還内府をはじめ要人は全て海の上に逃れています。今こうして愚図愚図している間にも  
 平家に戦況を立て直す暇を与えてしまいます。今の源氏にそんな余裕がないことは誰の目にも明白でしょう。  
 ここは一気に追い討ちをかけて平家の残党を叩くべきです。その為には――――」  
 
 
 望美さんは、一刻も早く「白龍の神子」として戦場に戻って貰います。  
 
 
その言葉が響いた瞬間に弁慶は壁際に弾き飛ばされていた。  
 
 
「お前っ…先輩をなんだと思ってるんだ!!!!先輩は道具じゃない!!!  
 白龍の神子なんか関係ない、俺はもう二度と先輩を戦場なんかに立たせない!!!」  
そういって尚も弁慶に掴みかかろうとする譲を景時と敦盛が必死に取り押さえる。  
「ゆ、譲君!!落ち着いて!!ね、弁慶だって悪い奴じゃないんだよ!!」  
「今ここで憎むべきは弁慶ではないだろう。譲がそんなに取り乱しては神子も悲しむッ…」  
それでも静止を振り払って弁慶の頬にもう一度譲の拳がぶつけられる。  
抵抗する気がないのか腕を動かす気配もない弁慶の胸倉を掴んだままだったが  
やがて力任せにその手を離すと譲は奥の間から出て行ってしまった。  
「…弁慶、お前の発言は軍規に触れるものではないが…譲が殴らなければ俺が殴っていたぞ…!!  
 傷ついたのはお前じゃない、望美なんだぞ!!」  
上座に座ったまま微動だにしなかった九郎がそのまま視線だけで激しい非難を弁慶にぶつけた。  
「おや、総大将殿までがそんな甘いことを言っているようでは困りますね。  
今僕たちがしているのは戦です。京で徒党を組んでいた頃のように陣を取りあうような  
子どもの遊びとは訳が違うこと、理解が出来ないなんて言わせませんよ。  
多少の犠牲は構っていられません。君が望美さんの復帰を望む望まないに関わらず今源氏の軍には望美さんが必要なんです。  
そこまで彼女を祭り上げてしまった責任は僕たちにあるのではないですか?」  
「弁慶ぇッ!!貴様ッ…!!」  
激しかけた九郎をまた景時が抑える。  
「弁慶…あんまりこういうことを言いたくないけど…見損なったよ…」  
九郎の肩口を抑えながら景時が振り返らないままそっと零す。  
「なんと言われようと構いません。罪なら僕が背負います」  
譲に殴られた時に切れた口の端の血を拭って弁慶が立ち上がる。  
「…一番の咎人は、僕ですから」  
部屋を出る前に呟いた言葉は誰に向けられたものでもない。ただその場の空気の中に重く沈んだ。  
成り行きを静観していたヒノエが「叔父貴も素直じゃないからね」と踵を返して自室に戻ったのを皮ぎりに  
それぞれが重い足を引きずるように皆あてがわれた部屋へと戻っていった。  
 
薄暗い廊下の先には灯りが漏れる一室がある。そこに望美はいるのだろう。  
ここに朔がいないということは、きっと彼女の傍に付き添っているはずだ。  
ギリ、と音がするほど弁慶は歯を食いしばった。  
――――傷ついたのはお前じゃない、望美なんだぞ!!  
九郎の言葉が甦る。そんな事は百も承知だ。  
傷ついたのが自分であったならどれだけ良かったか。  
 
――― ずっと微笑を絶やさないって疲れませんか?  
――― 弁慶さん、眉間に皺、寄ってますよ。ほら、リラックスリラックス  
――― 私、もっと弁慶さんのことを知りたいんです  
 
今まで望美が向けてくれていた笑顔が浮かんでは消えていく。  
 
―――この戦が終わったら、君に触れてもいいですか?  
そう問うた弁慶の言葉に一瞬戸惑った後、花が綻ぶように頬に朱を広げて微笑った彼女。  
一瞬目の前が赤く染まるほどの怒りを感じた。  
拳を強かに壁に打ちつける。  
 
 
 
 
殺したい、と思った。  
誰でもない、無力な自分を。  
 
 
 
- - - - - - - -  
 
「ねぇ、朔」  
「…どうしたの?望美」  
望美が烏達の手によって奪還され、強行軍で京の町に戻ってきてから  
目を覚ましても一言も発さずに天井をじっと見つめたままだった望美がやっと口を開いた。  
それだけで朔の口元に安堵の笑みが広がる。  
「朔と黒龍、愛し合っていたんだよね?」  
「…ええ。それがどうかした?」  
「夫婦の契りを交わしたってことは、朔は黒龍と…その、寝たんだよね?」  
一瞬の沈黙が訪れた。  
「そっか。」  
無言を肯定に捉えて溜め息にも似た言葉を漏らし、だがそれに悲哀の色は含まれない。  
「朔のはじめては、好きな人とできたんだね」  
「……ッ!のぞみっ……!」  
「いいなぁ…。」  
そう言って望美は少し微笑う。  
どう答えればよいか、どんな言葉を紡げばいいのか朔には解からなかった。  
 
「朔、神子の力って処女じゃないと使えないものなのかな?」  
視線は合せずに望美が続ける。  
「…私は、力が使えなくなったことはないけれど」  
黒龍と契りを交わして以来、朔の神子としての力は  
黒龍が消滅するその日まで使えなくなるどころか日増しに強くなった。  
黒龍が消滅した現在でも以前ほどではないがその力が身体に宿っているのは  
黒龍の力を胎内に受けとめていたからに他ならないのではないかと思う。  
朔が黒龍の神子としての力を失わなかったのは相手が黒龍であったからで、  
白龍の神子の望美が白龍以外の相手と褥を共にしても、その力が失われないかなど定かではない。  
だがそんなことは望美に言える筈もなく、また望美が気付かないわけもなかった。  
 
「そっか。ありがとう。うん、ちょっと希望見えてきた」  
尚も笑おうとする望美の表情が酷く傷ついているようで、  
布団の外に重ねられた手を取って中に入れなおす。  
「少し、眠ったほうがいいわ。  
 目が覚めたら何か食べられる?  
 そろそろお腹すくんじゃないかしら。何か用意できないか見てくるわね」  
「…うん、そうする。ありがとね、朔。」  
立ち上がった背中に投げられた言葉に息が詰まる。なんでもないフリを装い、後ろ手に手を振る。  
障子を閉めて歩こうとしたが、足が震えて思うように動かない。  
「愛した人がもうどこにもいないのと、  
 愛する人が目の前にいるのに触れられないのは、どちらが辛いのかしら」  
手のひらが未だ忘れえぬ黒龍のぬくもりを噛み締めるように、朔は呟いた。  
 
朔が去った後の部屋はがらんとして、孤独感が煽られる。  
朔は眠れといったが、本当は瞳を閉じるのが恐い。  
それでも目蓋が自然に落ちそうになる。  
滑稽なほど必死に天井を見上げて目を見張りながら考えてしまうのは、彼のこと。  
 
初めて会ったときには、なんだか底の見えない人だと思った。  
いつも穏やかな笑顔を絶やさない。物腰も柔らかだ。  
それは喜怒哀楽のマイナス部分が全て抜け落ちているようで望美にはとてもアンバランスに見えた。  
一度、疲れないのかと聞いてみたら彼は二・三度瞬きをして、  
そしてやはり微笑を崩さずに「考えたこともありませんでした」と答えた。  
あの時空の彼は、京の業火の中で果てたという。  
覚えているのは、微笑だけ。その笑顔がさびしそうだと思ったのはいつからだっただろう。  
 
笑顔以外が見たくて、越えた時空の先ではいつも彼の背中を追っていた。  
五条大橋で、三草山で、厳島で。  
はっとするほど冷たい表情に、何時の間にか惹かれていた。  
笑顔の下に麻痺した痛みがあることに気がついたのは、大輪田泊でのこと。  
平家の船に追い火をかけた彼の非情な作戦に、後悔していない、と弁慶は言い切った。  
罪を背負うのが自分の罰だ、とも。彼はとても哀しい人だと思った。  
微笑み以外の顔を見せてくれた彼は、風の中に消えた。  
 
 
届かなかった。届かなかった。届かなかった。  
また、届かなかった。  
 
 
一人取り残された厳島で、頬を撫でる優しい風の感触が、涙が出るほど痛かった。  
今度こそ、彼を救いたい。  
そう思って時空を越えた。  
 
 
「…おこがましい願いだったのかな」  
 
呟いた言葉に応える者はない。  
彼を救いたいと思うこと。  
これ以上、罪を背負って欲しくないということ。  
 
彼に、触れて欲しいと願うこと。  
 
―――この戦が終わったら、君に触れてもいいですか?  
少しはにかんだように笑いながら、弁慶はそう言ってくれたのだ。  
今までの招き入れるようでいて人を拒絶する微笑とは全く違う笑顔で。  
初めて、弁慶の「本当の笑顔」を見たような瞬間だった。  
―――本当は、今すぐにでも君を抱きしめたいんですが、  
     そうすると僕は君を閉じ込めてしまいたくなるから。  
頬に手を掛けられ、間近でみる弁慶の瞳の奥に何かが揺らいでいた気がする。  
 
―――だから、今はこれだけ。  
 
軽く何かが唇に触れた。  
「何か」が弁慶の唇であることに気がついた時には彼はもう背中を見せて歩き始めていた。  
―――〜〜〜〜っ!もうっ!!弁慶さんッッ!!  
一気に体温が上昇するのを感じながら叫んだ。  
―――約束ですよ  
振り返って、そう笑ってくれたのに。  
 
約束は果たされないだろう。  
もう自分には弁慶に触れる資格も、触れてもらう資格も残ってはいない。  
触れて欲しいと思う。だけどそれ以上に触れてもらいたくない。  
「春日 望美」が弁慶の傍で、今までのように普通に笑っていられる自信がない。  
そんなこと、無理だ。  
だから、せめて。「白龍の神子」として彼の傍にいたい。  
触れてもらえなくても、―――抱きしめてもらえなくても。  
白龍の神子が源氏の軍に勝利をもたらせるなら、  
もしかしたら彼を救う道に繋がるかもしれない。  
 
今はそれだけを信じたい。  
大丈夫だ、自分はまだ戦える。まだ自分には利用価値が残っている。  
 
 
そう言い聞かせて、望美は深い眠りに落ちていった。  

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