福原で勝利を収めた後、京へ帰還する途中のことだ。
兵の指揮を執りながら、それでも九郎の頭の中でぐるぐると廻っていたのは、どうして
自分などが八要に選ばれたのだろうということだった。
以前景時に、何故八葉は白龍の神子を守るものと決められているのか訊ねたことがあった。
怨霊の嘆きを聞き鎮める黒龍の神子と、封印し浄化する白龍の神子。二つは対の存在で、
どちらが優れていると比べるものでもないはずだ。ならばどうして八葉が守るのが、二人の
神子でなく白龍の神子のみと限られてしまっているのだろうか。
「一応、後から選ばれた神子に八葉がつくっていう話は残ってるんだけどね。ただ、神子が
一人しかいなかったってこともあったみたいだし」
これはオレの勝手な解釈だけどと断ってから景時は続けた。
一人しかいなかったという神子も先代の白龍の神子も、異世界から来たというのは間違
いない。比べて、先代の黒龍の神子と朔は元々この世界の人間なのだから、選ばれた順番
ではなく、異世界から来た神子に八葉がつくと考えたほうが自然なのではないかと。
「自分を守るために力を使わない人間はいないだろうけどさ、望美ちゃんは違うじゃない。
いきなり攫われてきた挙句に怨霊を封印して世界を救ってください〜って言われてもさ」
ならばせめて誰かが守ってやれということか。
「もちろん、五行の力だとか、色々あるんだろうけどね。けどやっぱり一番のお役目は、
異世界から来た人を傷つけずにお返しすることなんじゃないかって思うよ」
その時は、まあそんなものかとしか思わなかった。武士が戦場で女を守るのは当然のことで、
九郎自身が八葉であろうとなかろうと特に関係がなかったから。ただ、いつか望美は元いた
世界へ帰っていくのだなということだけ、胸に鈍く刺さったのを覚えている。
しかし今、八葉が平家と源氏に分かれてことで神子が傷ついていた。
怨霊を使う平家と、封印の役目を持つ白龍の神子が相容れないのはどうしようもないことだ。
けれどもし源氏に八葉がいなかったのなら、将臣と望美が戦場で剣を交えることなどなかったの
ではないか。自分が八葉であることが、何より望美を傷つけている原因なのではないか……。
今更考えても詮無いことばかり浮かんでは消えていく。
「九郎、九郎」
京に入るまであと少しというところで、白龍が馬上の九郎を見上げて声を掛けてきた。
用事があるなら後にしてくれと言ってもきかずにまとわりついて離れず、仕方なく馬を降りて
話を聞いてやることにした。
「何か急ぎの用でもあるのか」
訪ねると、いつになく真剣な表情で白龍が頷く。
「うん。九郎は、神子のことが好きでしょう?」
「なっ、そっ……いきなり何を言い出すんだ!」
「九郎、そんなに大きい声を出しては馬が驚くよ」
誰のせいだ。
思わず背けた顔を覗き込んでくる白龍。
「違うの?」
そうだと肯定することも違うと否定することもできずにいると、白龍は顔を覗き込むのをやめて、
九郎の一歩前を歩き始めた。
「神子のことをいつも見ていたから、好きなのだと思った」
「……放っておくと何をしでかすかわからないだけだ」
初対面の人間を平気で怒鳴りつける、当たり前のように兄上を呼び捨てにする、女なのにいきなり
戦に出たいと言い出す。女らしいことのひとつもできずに、食事の用意をさせれば出来上がるのは
かつて食材だった何かで、男の譲のほうが余程料理が上手い。そんな日常と打って変わって、戦場で
比売神の如く軍を勝利へ導いたかと思えば、道には迷うし挙句足を滑らせて崖から落ちる。
とてもじゃないが危なっかしくて目を離しておけない。
元はほんの数ヶ月の生まれの差でも、年長者気質なのだろう、将臣が常に望美を気にするのも当然の
ことだと思っていた。熊野での旅路の途中に、二人が逢瀬を重ねていたことを知るまでは。
本宮入りの前日の夜、寝苦しさに目を覚ますと部屋に将臣の姿がない。
厠にでも立ったのか、自分と同じように目が覚めてしまって眠れないのだろうか。
それなら少し話し相手にでもなって貰おうと、将臣を探しに部屋を出た。
風の音、虫の声、自分の足音。それ以外は何も聞こえない。望月でもないのに、爪先から髪の一本まで
はっきりと影を落とすほどの月明かりだった。
厠までの行き帰りにも将臣は見つからず、かといって再び眠気が襲ってくるわけでもない。庭に降りて
夜空を眺めながらの散歩にもすぐに飽きた。
寝不足のひどい顔で熊野別当に会うわけにはいかない。無理矢理にでも床について休んでしまおうと決め
たときだ。
ごとり、と、何か物の倒れる音がした。望美が休んでいる部屋のほうからだ。
寝相が悪くて枕でも倒したのか。それなら良いが、万が一、賊が忍び込んだということもある。
足音を消して、ゆっくりと近づく。一尺ほど、戸が開いていた。
「……んっ……いやあっ」
漏れ聞こえた声に、足が止まった。
「やだ、やだぁ……も、いじわるしないでっ……」
賊が入ったわけじゃないことはわかった。
ならさっきの音はやはり枕だったのだろう。ただ、それだけじゃない事も知ってしまった。
白く丸みを帯びた肩が覗き見えた。本当に、襖一枚隔てたすぐそこに女がいる。さらさらと
肌にかかる長い髪を払うように、ごつごつとした男の手がきめ細かな肌を滑っていった。
どうして欲しいと問う男の声が聞こえたが、低く小さい言葉が聞き取れたのは一度きりで、
あとはもう何を話しているのか九郎の耳まで届かない。
二つの声の主が誰なのか、流石の九郎にもわかっていた。
立ち去らなくてはいけないと思うのに、足が地面に縫い付けられたかの様に動かない。
「将臣く、おねがい……ふ、あぅ……」
どろりとした黒いものが胸のあたりに沸きあがってくる気がした。すぐにでも部屋に上がって
二人を引き剥がしてしまいたいという衝動に九郎自身、愕然とする。
「ひあっ……はあっ、あ、あんっ……んんっ……!」
目を背けてみても声は遮れない。
肌と肌のぶつかる音が速度を増すたび聞こえてくる声高く甘くなり、将臣が幾度も望美の名を
呼んだ。
「ん、んっ、ふぁっ……あ、あんっ、あっ、あっ……ああっ――――」
ひときわ高い声が響き、襖ががたっと音を立てる。漸くそこで我に返った。
どうやって部屋まで戻ったのか覚えていない。
見たこと聞いたこと感じたことの全てを否定したかった。
将臣が部屋に戻ってきたのは明け方になってからのことだった。
「……九郎」
呼びかけられたが、目を閉じて背を向け、寝たふりをして無視をした。
「やっぱ寝てる、よな」
一言だけ呟くと、将臣はさっさと床について九郎の隣で寝息を立て始めた。
覗き見ていたことを気づかれていたのだろうか。それにしても今更確認もないだろう。
やっと目蓋が重くなって、ほんの少し眠ったと思った頃にはもう朝だった。
譲はいつもの様に朝餉の支度の為に早々に起きて部屋を出ていた。弁慶やリズヴァーンは
既に身支度を整えており、景時はまだ目が覚めきっていないのか、口に手を当てて大きく
欠伸をしていた。白龍がまだ夢の中にいる将臣を起こそうと声をかけていたが結局起きず、
こちらもいつもの様に放っておかれた。
「おはようございます」
部屋を出て廊下を少し歩くと、望美がひょいと顔を出した。
「あ、ああ……おはよう」
「九郎さん、ひどい顔」
誰のせいだ。
こんな寝不足は久しぶりで、言われなくても想像はついていた。ひどく目つきの悪い人相
になっているに違いない。
「……お前は朝から元気そうだな」
言ってしまってから嫌味だったかと気づいたが、望美はさして気にしていないようだった。
「はい!」
昨夜の月よりも明るく、九郎の胸の奥に沸いた醜い嫉妬を溶かしてくれるような、穏やかな
望美の笑顔だった。
馬鹿な真似をしなくて本当に良かったと思った。昨日九郎が部屋に上がりこんでいたら、
挨拶どころか顔も合わせてくれなかったに違いない。
「将臣くん、起こしてきますね」
するりと九郎の脇を抜け、将臣のいる部屋の中へ消えていった。すぐに二人のじゃれあう声が
聞こえてきた。昨夜と似たような状況なのに、不思議と浮かんでくるのは苦笑いだけだった。
望美の笑顔は将臣が与えたもので、九郎は今その笑顔を分けてもらった。嫉妬心が全て消えた
わけじゃない。火種はまだ燻っているものの、冷静に受け止めて抑えられる程度にはなった。
本宮前で将臣と別れるときも、笑って見送ってやれた。別れる直前、
「頼むな」
将臣の言葉に主語は無かったが、言わんとしている事は分かった。
「あまり待たせて泣かせるなよ」
「おう」
笑って約束したはずだった。約束は守られなかった。
九郎の想いを知ってか知らずか、九郎に背を向けたまま白龍は話を続けていた。
「将臣もずっと九郎と同じに神子を見ていたよ。……だけど将臣はもういないから。九郎が神子を
好きなら、将臣の代わりに守ってくれると思ったのだけど」
どうにも引っかかる言い方だった。
「代わりなどでなくても、戦場で女を守るのは当たり前だろう」
神子と八葉はひかれあうもの、八葉は神子を守るもの。毎日のように繰り返し言葉にしていたのは
白龍自身だというのに、何故今更九郎の意思を確認したり、誰かの代わりに望美を守れなどと言い出すのか。
「違うよ。そういうことじゃない」
立ち止まって振り返った白龍の視線の先に、望美の姿があった。朔や譲に気遣われながら歩いていた。
「神子のことは私が守るよ。だけど将臣がいなかったら、神子のうちに生じた新しい命は、どうしたら守って
あげられるだろう」
◆
六条堀川の邸で九郎と差し向かいで座った敦盛は、もうこれ以上自分に話せる事はない
と言って目を伏せた。九郎の脇には景時が控え、三人をまとめて見下ろすようにして、
ヒノエが柱にもたれ掛かったまま立っていた。
「で? 源氏の大将はコイツを処断するわけ?」
海水で色素の抜けた赤い髪をくるくると指先で弄びながらヒノエが言った。いつも通り
の声音に乗せられた言葉にはしかしどこか棘があり、それは九郎にも感じ取れた。
「馬鹿なことを言うな」 何故仲間を処断しなければならないんだと一蹴した。ヒノエにつられたのか、つい語気
が荒くなる。
敵将を処断する権限など無いし第一、敦盛はかつてはそうであったとしても、今は敵将
でもなければ平家と内通していたわけでもない。 沈黙が裏切りになるというのなら話は別だが。還内府と有川将臣が同一人物だと知って
いて黙っていたことに罪があるのなら。
三草山で敦盛が源氏に組みしたあと、いくつか平家の内情について問うてはいたのだが、
平家の中心から遠ざけられていたらしい敦盛からはさして重要な情報は得られていなかっ
た。今回改めて問い質してみたものの、将臣が還内府と呼ばれるようになった経緯と、
彼が戦に怨霊を使うことを嫌っていたということが解っただけだった。
「まあ、オレだって弁慶だって、なんか怪しいな〜とは思ってたわけだから、ね」
弁慶は最初から警戒していたというし、景時もどこか違和感を覚えることが度々あった
という。法住寺に出入りし、熊野本宮に用事のある源氏以外の武士と言えばます平家の手
の者だと考えるのが妥当なのだ。熊野水軍に協力を求めていたのなら、当然ヒノエも知っ
ていたはずだ。聞けば、先に対面した源氏側に、平家にも源氏にもつかないと約束した為
に、平家の使者には代理のもので済ませたという。隠れて声だけは聞いていたらしいが、
平家よりも神子姫に興味があったからねと、悪怯れもせずにヒノエは言った。
結局、一分の疑いも持っていなかったのは自分だけか。
一つ一つを指摘されればそれは九郎にも納得できるこっで反論もないのだけれど、名乗
りも上げずに源氏の兵を斬るという還内府と、自分自身が接した有川将臣という人間が結
びつかない。具体的に何処がとも言えないが、頭の中に靄がかかったようにすっきりしな
い。
「九郎殿、顔色が優れないようだが……」
「いや……大丈夫だ。それよりも手間をとらせて済まなかったな」
敦盛のような子供にまで心配されるようでは源氏の将として失格だ。
どうにも、頭の中であれこれと考えを巡らせるのは性に合わない。
「おや、皆さんお揃いなんですね」
「弁慶、戻ったのか」
人払いをしてあったから先触れの声もなかったのだろう、それにしても足音立てずに
現れるのは意地が悪い。「厄介な事実と不穏な噂と、どちらを先にお話ししましょうか」
言いながら外套を脱ぎ、敦盛の隣の円座に腰を降ろした。わざわざ回りくどい言い方を
するのが気になった。
「一々妙な言い回しをするな。それで、その、望美の様子は」
「一々照れて詰まらないで下さいよ九郎。人を呼んで診てもらったんですが、緑の頃には
愛らしい赤子の顔が見られるそうですよ」
良く無事に戻ってこられたものだと思いますけどねと、少々呆れた様子だった。
命の流れは気の流れ、五行の流れ。白龍が読み違える筈がない。
流石に誰も、相手が誰で一体いつ、と訊ねるものはいなかった。
子一人産まれるということが『厄介な事実』なのか。
「あ〜、えっと、不穏な噂っていうのは何の話?」
九郎の眉間の皺に気が付いたのか、景時が気まずそうに切り出した。
平家の捕虜から、怨霊を使って町を襲う計画があると聞き出しており、熊野の烏の調べ
で計画の対象が京であるとわかっていた。福原での和議が成功しないと見越してのことな
のだろうか、一朝一夕の準備で出来ることではない。あるいは最初から和議を結ぶつもり
などなかったのか。福原で勝てばそのまま京に攻め入り、負けても怨霊を使うことで京を
穢す計画だったのか。還内府殿は心から和議を望んでおられたと敦盛が庇ったが、還内府
の意志が平家の総意というわけでもないだろう。
「仁和寺、鳥羽殿、下鴨神社……この三ヶ所に怪異の噂があります。平家の呪詛とみて間
違いないでしょうね」 呪詛を解くために望美を走り回らせたくはない。ここは景時たち陰陽師に働いてもらう
しかないだろう。
「期限は六日、できれば三日以内。それ以上放っておくのは危険ですから」
「え……三日? それはちょ〜っと時間的に余裕が」
「頑張って下さいね」
さらりと言い放った弁慶に景時にぐうの音も出ないようだった。
外から何やら騒がしげな声が聞こえた。
男と女の、通す通さないの押し問答だ。
「来ましたか」
弁慶が立ち上がってすいっと戸を開け、見張りをしていたらしい男に一言二言声を掛け
ると、女を一人、部屋に通した。
「僕はてっきり譲くんが来るものだと思っていたんですけどね」
「譲殿にあのような話をできるはずがないでしょう!」
景時が今にも弁慶に食ってかかりそうな女を二人の間に割って入って止めた。敦盛はそ
のただならぬ様子にうろたえるばかりだ。
「ちょっと、朔!」
景時が朔を宥めるのを見て、九郎の胸に嫌な予感がわいた。朔が憤っている理由は恐ら
く望美に関してなのだろうが、ここまで乗り込んでくるような理由の心当たりが九郎には
なかった。しかし朔は弁慶殿と九郎殿にお話がありますと行って腰を降ろした。
「一体どこまで本気なのですか」
朔に詰め寄られても答えようがなく、弁慶の様子を伺うが、事情を知っているのか大し
て動じている様子もない。
「九郎殿が、望美を妻に娶るという話のことです」
「は……?」
今、自分の目の前に鏡を置いたなら、ひどく間抜けな顔が映るに違いないと思った。
「……朔殿、こんな時にふざけるのはやめてもらえないか」
どこまで本気なのかとはこちらの台詞だ。まさか春の神泉苑での芝居を未だに本気にし
ているわけでもないだろうに。
「ふざけるのはって」朔は弁慶に向き直って、「まさか九郎殿に無断で決められたのですか」
「これから説明するところだったんですよ。望美さんは既に承知済みのことですし」
「お前まで冗談を言うのは止せ!」
怒鳴って弁慶の言葉を止めたところで、それまで黙っていたヒノエがため息をついた。
「あのさあ九郎、本気でわかんないわけ?」
自分の身を守るのに敵の女になるなんて良くあることだろ。呆れた口調で言われて、体
がかあっと熱くなるのがわかった。
「今更どうこうしなくても望美は仲間だろう!!」
「僕たちにとっては仲間ですが、鎌倉殿にとってはどうでしょうね」
淡々と弁慶は語った。
事の次第を報告すれば、真実はどうあれ鎌倉殿はじめ周囲のものから、望美と譲は内通
者としてみられること。万が一処刑を免れたとしても、還内府に対する人質として鎌倉殿
の手駒になるだけだということ。二人を軍に引き入れた九郎自身にも罪が及ぶであろうこ
と。一番恐ろしいのは、源氏軍内部に亀裂と疑心暗鬼が広がること。今や源氏の軍の中心
は白龍の神子と源九郎義経なのだと。
「望美さんを失うことで源氏は怨霊への対抗手段を失います。そしてあなたを失うことで
兵は支えを失うんです」
紙が剥がれ、要が落ちた扇はもはや扇としての意味を為さない。
「鎌倉殿へご報告せず、望美さんは病気だと偽って戦に出さずにおいても同じことです」
白龍の神子が戦に参加しないことで兵の間に不安が沸き士気が落ちる。時が経てば子は
産まれ、誰が父かと噂にのぼる。人の口に戸は立てられない。どのみち戦にでられないの
なら、肝心なのは白龍の神子の加護が源氏にあると周囲に思わせること。
「だから先手を打って九郎殿との子だと偽れというのですか」
景時に押さえられながら朔が弁慶を睨む。
「嘘も突き通せば真実ですよ。今となっては神泉苑で後白河院に見せたお芝居も都
合がいいかもしれませんね。北の方として迎えるのは無理だとしても」
「いい加減にしろ!!」
怒鳴って言葉を遮っても、弁慶は顔色ひとつ変えない。
「承知できませんか」
「当たりだ前だ!!」
「望美さんは選びましたよ」
選ばせたの間違いじゃないのかと、喉まで出かかった。
「やはり卑怯な手段はお気に召しませんか」
気に入る気に入らないの問題じゃない。
けれどこのまま拒否の言葉を重ねれば次はおそらくこうだ。別の残酷な方法もあります、
心と一緒に体も傷つけますか? と。
どうしても納得できないのなら望美さんと直接話して下さいという弁慶の声が、とても
遠くにあるようにきこえた。想いを殺すか、命を奪うか。それとも多くの兵の命と引き替
えにしても、想いを貫くか。選ぶべき答えは見えている。見えていても、わかっていても
許せないことはある。ぎりぎりと奥歯を噛み締め爪で皮膚が裂けるかというほど強く拳を
握った。
「あの子、泣きもしないんですよ」
弁慶を睨むでもなく九郎を責めるわけでもなく、朔が俯いて声を喉奥から絞り出す。
「けどね朔」
子供をあやすように、後ろからゆっくりと朔の背中を叩く景時。
「望美ちゃんは、朔じゃないんだよ? 入れ込み過ぎるのも、どうかと思うな」
その言葉に朔ははっとしたように顔をあげ、しばらく何か言いたそうにしていたが、
「敦盛くんさ、悪いんだけど朔と一緒に邸まで帰ってやってくれないかな〜」
「兄上!」
「いいから、今日は帰りなさい。ね?」
景時にしては珍しくきっぱりとした言い方だった。朔と敦盛を急き立てる様子に、ああ、
まだ何か二人には聞かせたくない話があるのだなと、ずんと心が重くなる。こういう嫌な
予感だけは外れたことがない。その証拠に、二人と一緒に部屋を出ていこうとするヒノエ
を、景時はほんの少し手招きして止めた。
去り際、敦盛は振り返って九郎と視線を合わせた。
「源氏の治める世になれば、その中で平家の子が生きていくことの辛さは、九郎殿が一番
良くご存じのことだろう」
私などが言うべきことではないのだろうがと、眉根を寄せながらも敦盛は続けた。
「新しく生まれる命が、怨霊の子だなどと、疎まれたり蔑まれたりしながら育つことを、
誰も……その、神子も、望んでいないと思う……」
余計なことをいってしまってすまないと頭を下げて、朔を伴って部屋を出ていった。
一人として不幸になることをを望んでいるものなどいない。
握っていた拳をゆっくりと開いてみる。掌に食い込んだ爪の跡。強く握り過ぎたせいで
少し痺れた両手を組んだ。
「ごっめんね〜。朔ってさ、望美ちゃんのこととなるとつい、力が入っちゃうっていうか」
わざとらしいほどに明るい景時に、いいから座れと言って円座につかせ、話を促した。
景時はヒノエに、今でも熊野水軍の協力を得ることは出来ないのかと尋ねた。福原で勝利
し平家を追いやったことで形声は逆転したはずだと。対してヒノエは、個人としての協力
は惜しまないが、熊野別当としての決定が覆ることはないと断言した。朝令暮改では軍の
長などつとまらない。
次の戦は屋島になるだろうと九郎も読んでいた。海上の戦いに不慣れな源氏にとって、
熊野水軍の力があれば随分と助けになるのは違いない。しかしなにも水軍は熊野にだけあ
るわけではないし、一度断られた相手だ。
「オレたち、絶対に還内府を……っていうよりは、有川将臣っていう人間を葬り去らな
くちゃいけないんだよ」 何の……何の話だ?
組んだ手に力がこもる。じっとりと汗が滲んでいく。
目の前が暗くなっていく。
「ヒノエくんみたいに、事情を知ってる人が海の上で指揮を執ってくれたら、将臣くんを
海に……その、討ち取って、遺体を陸に上げないようにしてしまうのも、上手くいくんじ
ゃないかな〜なんて考え」
「景時!!」
羽織の衿を掴んで締め上げた。
「どこまで将臣を侮辱すれば気がすむんだ!!」
「ちょ、待っ、苦し……」
苦しげにもがく景時を見ても、力を緩める気にはなれなかった。
九郎、と弁慶が一度だけ名前を呼んで、景時を押さえつける手首を掴んだ。無理に引き
剥がすことはせず、掴む手に力を込めるだけ。その力の強さに思わず締め上げる手を放す
と、景時は軽く九郎を突き放し尻餅をついた。
むせる景時を見下ろす。こいつは、消してしまえと言ったのだ、将臣など海に沈めて無
かったことにしてしまえと。
「オレだってこんなこと言いたくないよ!」
捕らえた敵将は鎌倉に送った上で詮議にかけると、鎌倉殿から命令がでている。この命
令の前提は、相手が『人間の敵将』であることだ。怨霊は、首を落とそうと心臓を貫こう
と、現世に心残りある限り何度でも甦るし、そもそも力ある怨霊には牢も錠も意味がない。
万が一『怨霊の敵将』を捕らえることがあったとしても、白龍の神子に封印してもらうし
か方法がない。源氏には、還内府は平重盛の怨霊として伝わっている。将臣が捕らえられ
れば、処刑の場には望美が引きずりだされるだろう。
「封印するなんて無理だよね、生きた人間なんだから」
怨霊でないのなら果たして誰なのか?
追及されても将臣は口を割らないだろう。……望美や譲を危険に晒すことになりかねないから。
「春の京や熊野で一緒にいるところを、誰かに見られてたかもしれない」
人の口に戸は立てられない、何処からか話が伝わることもある。第一、熊野では後白河
院にお会いしている。還内府と源九郎義経が共に行動していたことを院はご存知なのだ。
後白河院が将臣のことをどこまで知っているかはわからない。熊野でのことは胸に留め置
いてくれているのかもしれない。
けれど危険なことに変わりはない、平家と通じていたと思われないように、還内府には
怨霊のままでいてもらわなくてはならない……。
「それにさ、将臣くんが処刑されるところなんて、望美ちゃんに見せたくないよ」
オレだって見たくないと、それきり景時は口をつぐんでしまった。
「なるほどねぇ」
「君も反対しますか?」 ぽつりヒノエが呟いたのを弁慶が聞きとがめた。
「別に。こっちも余計な波風立てるのは好きじゃないんでね」
ご高説至極ごもっとも、反論の余地もございません―――。
ひどく嫌味な言い方だった。
「自覚があるんだかないんだか知らないけど、さも望美の為だって態度が気に入らないね。
結局はあんたたちの保身の為だろ? 一体何様のつもりなんだか」
弁慶と景時に言い含められヒノエに非難され、それこそ、九郎に反論の余地も無かった。
「……景時」
低く小さく呼びかけると、景時はほんの少し怯えたように身を竦ませる。
「神子を傷つけずに元の世界に帰すことが、八葉の役目なんじゃなかったのか……!」
よくやく紡ぎだした言葉は震えていたような気がする。
もしかしたら声に涙が滲んでいたかもしれない。
今の自分たちは針山の上に立つ望美に更に歩けと言っているのも同然なのだ。
「それは……ごめん。ほんとにごめん」
謝る相手が違う。
景時の声もまた震えていた。
「だけどさ、オレ、言ったよね? 自分を守る為の力を使わない人間はいないって」