◆
夕方に降り出した雨は夜になっていよいよ激しさを増し、梶原邸へと急ぐ九郎を濡らし
ていった。着物と髪に染み込む雨水は冷たく、体の熱を奪っていく。日の高いうちに訪ね
るつもりだったのだが、次の戦へ向けての準備や雑務に追われるうちに、とうとう日が暮
れてしまった。
あれから、鎌倉の兄へ一通の書状をしたためた。妻に迎えたいひとがいる、この時期に
何を考えているのかと言われるかもしれないが、戦の最中だからこそ、心の中にしっかり
とした支えとなる人がいて欲しいのだと。弁慶が傍についていたとはいえ、よくも歯が浮
くようなことを書き連ねたものだと思うが、それができたのは自分のどこかに潜む願望だ
からだろうか。
「景時さんならまだ戻ってきていませんよ」
邸に着いた九郎を出迎えた譲が、不機嫌な声音で開口一番に告げた。
いきなりの言葉に九郎が面食らっていると、
「ああ、その……すみません」気まずそうに少しずれた眼鏡を直して言った。「当たるつ
もりじゃなかったんですけど、どうにも駄目ですね」
将臣の事も望美の事も割り切れずに持て余していた結果の態度なのだろうけれど、不器
用ながらも素直な謝罪は彼らしい。几帳面な譲と正反対に大雑把な将臣との共通点は、ど
んなことに対しても真っ直ぐな姿勢なのかもしれない。良い意味でも。
「望美がまだ起きているなら通してもらえないか」
「今から……ですか? もう遅いですから明日には」
「今夜でなくては駄目なんだ」
休んでいたとしても、多少乱暴にはなるが起きてもらうつもりだった。書状は明日の朝
には鎌倉に送る事になっている。望美の意志を確かめる機会があるのは今夜だけなのだ。
確かめて、どうするのか。はっきりと考えているわけじゃない。それでも決めなくてはい
けない。
九郎の強い言い方に譲はしばらく訝しげな顔をしていたが、最後には折れてくれた。け
どまさかそのまま上がるつもりじゃないですよねと、譲に与えられている部屋まで引きず
られ、濡れた着物を着替えさせられる羽目になった。
「兄さんのこと、邸の人に言わなかったんですね」
着替えを手伝う手がふと止まり、聞こえた台詞は少し不思議なものだった。
還内府の正体を伝え広めることの意味に考えの及ばない譲でもないだろうに。
「その、ここの、邸の人が……下鴨神社で兄さんを見かけたって」
◆
雨は止むことを知らずに降り続ける。全てを綯い交ぜにして飲み込むかのように。
普段は丁寧に整えられている庭も、今はいくつもの水の流れに土と落ち葉が混じり、静
けさや穏やかさのかけらもない。明日には譲が手入れに苦労するはめになるのだろう。
来たばかりの頃に植えた秋咲きの花が、もうすぐ開きそうなんです。戦へ立つ前にそう
指差していたのはどのあたりだったか。望美のために植えられた花が輝くところと、彼女
は眺めることが出来たのだろうか。
「誰?」
出来るだけ足音を立てぬようにしていたつもりだったが、それでも部屋の主は人の気配
を感じ取ったようだ。
「俺だ、夜遅くにすまない」
ひやりとした汗が一滴、首筋を滑っていく。
「なんだ、九郎さんか」
いつかの、夏の熊野でそうだったように、望美はひょいと九郎の前に姿を見せた。普段
はさらりとおろしているだけの長い髪を、後ろで軽くひとつに結っている。
「なんだ、とは一体その言い方はなん」
「やだ、九郎さん、ちょっとこっち来て」
言葉を遮られ、いきなりぐいと引かれた腕を思わず振り払うと、
「もう、とにかく座ってください!」
今度は着物の袖を掴んで部屋の中へと引き寄せ、無理矢理畳の上に座らせると、どたど
たと大きな足音を立てて――とても夜中に女が歩く様子とも思えない――部屋を出ていっ
しまった。
一人残された九郎の鼻をふわりと掠める香りは梅花。珍しいこともあるものだ。
望美はあまり香を焚くことを好まない。花も木も土も、水や風でさえも、元いた世界に
比べれば格段に匂いが濃いのだという。香を焚くことでせっかく自分の体で感じられるも
のを自ら遠ざけてしまうようで勿体無いし、何より、これ以上香りを纏ったら酔ってしま
いそうだから、とも。
「ちゃんと大人しくしてました?」
出て行った時と同じ足音を立てて戻った望美が笑って言う。
「……人のことを言えるのか」
「う、それは、そう、ですけど」
流石に気づいたのか、今度はそろりと、足音を殺して九郎の背後に回った。
「九郎さんだって、髪の毛濡れたまま歩って来たじゃないですか。手ぬぐい持ってきまし
たから」
確かに、前髪の先からぽたりぽたりと雫が落ちている。着替えた時に拭き取ったはずだ
が足りなかったようだ。拭いちゃいますからねと、望美は長い髪を少しずつ、手ぬぐいに
挟んでは水気を取っていく。話があってきたんだと言ってみても、
「濡れ鼠で風邪引いたりしたら、源氏の大将が子供みたいだって馬鹿にされますよ」
まるで小さい頃の白龍と接するのと同じだった。
しばらくは互いに黙ったまま、雨の音と梅花だけがやたらと強く沁みるようだった。
結っていたところが解かれ、湿った髪がばらりと音を立てて肩に落ちた。髪を掻き分け
る望美の指が首筋に触れると、かっと体の熱が上がる。耳も肩も同じで、それを気取られ
ないようにすることだけに集中した。
「上、向いてください」
言われるままに面を天井へ向ければ、自然、視線が重なる。望美は左手で九郎を目隠し
して、もう一方で器用に頬や額に貼りつく髪を除いていった。
ずっとこのままならいいのにと馬鹿なことを考えてしまうのは、望美の掌の温もりのせ
いか、秋雨の冷たさから逃れたいからか。理由を選べといわれても無理だろう、どちらも
同じ量だけ心の内にあるのだから。
はい、終わりです。ぽんと肩を一つ叩いて、望美が少し離れる気配がした。振り返れば、
立ち膝で濡れた手ぬぐいを持ったまま微笑んでいる。
もう駄目ですよ、こんなことしちゃ。得えながら立ち上がった相手の腕を思わず掴む。
どうかしました? とぼけた返事に力が抜けそうになるが、ゆっくりと引き寄せ、真向
かいに座らせた。
「ヒノエくんの差し入れなんですよ、梅花のお香」
しかし先に言葉を発したのは望美だった。
「お香を焚くのは魔除けだからって。秋の長い夜には、よくないものが忍び寄ってくる事
もあるから、って」
なるほど、確かに彼らしい。梅花は春の焚物だけれど、この甘い匂いは、柔らかく笑っ
た時の望美に似ているように思う。
「みんな何かと気にかけてくれるし、上げ膳据え膳でお姫様みたい」
朝目が覚めてから、夜床に就くまで、皆が入れ替わり立ち替わり様子を見に来る。朔な
どは箸より重いものは持たせないとばかりに世話を焼くし、譲も普段以上に、滋養のある
もの、食べやすいものをと料理の腕を揮った。それから順に、見舞いに訪れた者の名を挙
げていく。敦盛と景時は朝のうちに、リズヴァーンは暖かな陽が射すようになってから、
庭先から声をかけ、白龍はその合間合間に顔を覗かせた。嵐山に住む星の一族の者も来た
と言う。もっとも、彼女らの目的は福原での戦勝祝いであったのだけれど。昼過ぎに訪れ
たのがヒノエで、最後が弁慶。弁慶さんはお見舞いとはちょっと違いましたけど、と、望
美はそこで言葉を切った。
「九郎さん」
ふっ、と動いた望美の掌が、硬く握られた九郎の拳と重なった。
「大丈夫、ですか」