譲は顔を上げると、自室の壁の時計を見た。9時3分。今は夜だから、21時3分だ。さっきから何度も何度も見ているから、時計の針は全然進んでいない。  
それはいいことでもあったし、、悪いことでもあった。いいことなのは、まだ夜遅くないということ。悪いことなのは、兄の将臣がまだ帰宅していないということ。望美といっしょにいる将臣が。  
 
譲が弓道部の部活を終えて帰宅したとき、時刻は午後7時軽く過ぎていた。夏は部活動時間が長いことと、練習が終わってから部の友人たちとアイスを食べながらしゃべっていたせいで、帰るのが遅くなったのだ。  
玄関で靴を脱いだとき、譲は将臣の靴がないことに気づいた。そういえばバイクはあっただろうか?  
「兄さん、出かけたの?」  
シャワーを浴びて台所のテーブルにつくと、冷蔵庫に閉まってある冷ややっこを取り出している母親に譲は尋ねた。  
「夜の海を見に行ったのよ。望美ちゃんと」  
「夜のノ海?なんでまたノ」  
「よく分からないけど、昼間のプールの授業の話が、夜のプールの話になって、それからどういうわけか夜の海の話になったんだって」  
「そうかノ今日兄さんもプールだったんだノ当然だけど」  
クラスが一緒なんだから。どうしてそのことを忘れていたのだろう。  
「あいつの思考は訳分からねぇって将臣がぼやいてたけど、それでもいっしょに行くあたり、仲いいわよね。将臣と望美ちゃん」  
母親がふふっと笑った。  
「10年後には望美ちゃんが『娘』になってそうだわ」  
「先走りすぎだよ、母さん。これからまだまだどうなるか分からないのにさ」  
思いの外、強い口調になってしまった。母親はけげんそうな顔をしたが、すぐに何かに気づいたように口元が緩んだ。  
「もちろん、相手は譲だって母さん、大歓迎よ」  
「ここはもういいから、クイズ番組でも見てなよ。もう始まってるんだろ。後片付けはちゃんとやるから」  
はいはいと母親は去っていった。  
 
仲がいいのは分かっている。あの二人は本人たちが気づいていないだけで、ジグソーパズルの隣同士のピースだ。誰かが「それは恋ですよ」と教えてやるだけで、たちまち理想的なカップルが出来上がることだろう。  
そして、そのキューピット役は、本来ならば望美の幼馴染みにして将臣の弟である自分が担うのがもっともふさわしいこともよく分かっていた。  
でも、そんなことは死んだってできやしない。したくもない。プールの話を聞いたあとならなおさらだ。  
 
望美と将臣がプールの授業を受けていたとき、譲は美術の授業を受けていた。  
教室の外に出て写生をする課題が、6月から続いていた。譲はプールの近くに植わっている木々の茂り具合と、外でも木陰のおかげで直射日光があたらないという理由でそこに決めた。それは本当だった。  
だから、決して下心などなく、プールの授業が始まってむしろ譲は予想外のことと困惑したくらいだった。  
(まさか、春日先輩の体育の時間と重なっていたなんて…)  
あんなににぎやかなのに、どうしてあの人の声はすぐに分かったのだろうか。譲は木々の間から、少し高くなっているプールのフェンスの向こう側にいる望美を見た。これではまるで出歯亀だと苦笑する。  
望美は背を向けて、クラスメイトと何かしゃべっていた。髪を下ろしている姿に見なれているから、水泳帽の中に髪をすっぽりおさめ、白いうなじをさらしている望美はまるで別人だった。  
何か気になるのか、望美はしゃべりながら手を後ろにして、足のつけねのあたりの水着をしきりにひっぱっていた…。  
 
昼間のことを思い出すのはここまでにするべく、譲は頭を大きく振った。  
急いで夕食と片づけを終えると、2階の自室で図書館で借りた本を開いた。しかし、内容が頭にまったく入らない。  
仕方なく、友人から借りたばかりのマンガ雑誌を開いた。続きが気になっている連載がふたつほどあるのだ。しかし、それも今はそれほど読みたい気分ではなかった。  
読むでもなくぴらぴらとめくっているうちに、末尾のカラー写真ページまで来てしまった。  
そこには水着姿の女の子たちがめいめい、胸と体のラインをあざとく強調するポーズをとっている。それも関心なくめくっていた譲の指が、あるページで止まった。  
お尻をこちらに向けて横座りをし、上半身だけひねってこちらを見ているビキニ姿のその女の子は、髪が長いほかは望美に似ているところはなかった。  
しかし、そのお尻にぽつんとほくろがあることに譲は気づいた。下の水着がティーバックなので見えてしまうのである。  
(春日先輩みたいだな…)  
望美の同じところにもほくろがある。それを知ったのはもちろん最近ではなく、譲が幼稚園に通っていたころの、性の違いがなんら意味のなかった時代のことだった。  
 
その日は夏の盛りで、父親が買ったばかりの幼児用プールに空気を入れてくれたので、譲は水着に着替えると庭でひとり水と戯れていた。  
祖母の植えた夏の花でいっぱいの庭だったが、それくらいのスペースは空いていた。  
そのとき、門から元気な声がしたかと思うと、慣れた足取りで望美が入ってきた。白いワンピースに麦わら帽子をかぶった望美は、少しほおをふくらませていた。  
どうしたのかと問うと、「子どもはあまりクーラーのある部屋にいてはいけない」と母親に外へ出されたという。  
それなら将臣くんと譲くんの家で涼んじゃおうということで有川家へ行ったら、幼児用プールの中にいる譲を門扉の向こうに見つけたというわけである。  
「ゆずるくん、一人なの?まさおみくんは?」  
「お兄ちゃんは友だちのうちだよ」  
ふーんと言うと、望美は少しのあいだ水がキラキラと反射するプールを見つめていたが、何を思ったのか急に帽子をとり、服を脱ぎはじめた。  
そしてパンツ一枚だけになると、プールをまたいで中にはいってきたのである。  
「水、けっこう冷たいんだね」  
「しょうがないなぁ、のぞみちゃん。すわったらだめだよ、パンツがぬれちゃうから」  
と言ったときには、望美は勢いよく腰を下ろしていた。水のしぶきをもろに顔面に受け、譲が注意すると望美は口をとがらし、今度は前のめりに倒れた。  
譲といるときの望美は、年下の譲より子どもっぽくふるまうところがあった。小さなプールの水面はこぼれるほど大きく左右に揺れ、譲が今度は何と言おうと思ったとき、白い下着が透けてその下の肌と、ほくろが見えた。  
(やっぱり、お兄ちゃんが言ったことはちがってたんだ)  
譲は将臣から「ほくろって日に焼けるからできるんだぜ」と言われたことがある。  
だから顔にほくろができるんだ…とそのときは納得したものの、それならみんな顔中ほくろだらけになってしまうではないか?という疑問があとから生じた。そんなときにそれを見つけたから、今も覚えている。  
 
(今も…あるんだろうな…同じ場所に)  
先輩の黒いスクール水着の下には。  
それを具体的に思い描きそうになった譲は、急いでページをさかのぼると、興味のないマンガの内容に意識を集中させようとあがいた。  
(機能一点ばりのスクール水着姿に欲情するなんて、エロオヤジじゃあるまいに)  
しかし、水着というのはそれがスクール水着だろうと競技用水着だろうと、結局は数ミリにも満たない厚さの布で体を覆っているだけの代物だ。  
その面積が多少大きくなったくらいで、ビキニより健全だなんて言い切れるのだろうか。肩の輩の体のラインは、あんなにくっきりと出ていたというのに。  
「駄目だ…春日先輩すみません」  
譲は観念したようにつぶやくと、もどかしげにジーンズのボタンをはずし、チャックを下ろす。股と股のあいだが盛り上がっているのが、全部脱がなくても分かった。  
譲の頭の中で、さきほどのグラビアアイドルの顔は望美に、その体は昼間見たばかりの望美の体にするりと入れ替わる。  
 
「…またやってしまったな…」  
譲はたまっていたものを放出したあとのそう快感と、望美を使ってそうしたことに対する罪悪感の入り交じった複雑な気持ちで、手についた精液をテッシュで取り除いていた。  
それだけでは不十分な気がして、洗面所で手を洗った。生温い水が冷たくなるにつれ、少しだけ気持ちが落ち着いていく。  
(こういうことをした次の日に先輩に会ったとき、いかにも幼馴染みらしい態度をとるのはけっこう苦労するのに)  
そのとき、家の前でバイクが止まった音と人の話し声が聞こえた。暑いため開けっ放しの窓から、それが望美と将臣だということが分かった。 
位置的に二人の姿は見えなかったが、楽しげなのは伝わってくる。譲はその場にじっと立っていたが、やがて門扉を開ける音がすると、洗面所のドアを開けた。  
 
「ん?どうした、譲。何か用か」  
将臣は玄関の靴箱の上にヘルメットを置き、スニーカーを脱いでいるところだった。  
「用ってほどじゃないけど、春日先輩をあんまり遅くまで連れ歩くのってよくないと思うんだ…」  
将臣は少し慌てたように腕時計を見た。しかし、時刻を見ると「なーんだ」という表情になった。  
「焦ったぜ〜。まだ9時半すぎじゃねぇか」  
「もう9時42分だよ。春日先輩は嫁入り前なんだからさ、おじさんおばさんが心配するよ」  
譲に注意され、将臣は頭をかいた。  
「分かった、分かった。確かに何かあったら、顔向けできないもんな。でも、あいつが家の中入るまでちゃんと見てたからさ。それに制限速度も交通ルールもなるべく守って、すっげー安全運転で家まで来たんだぜ?」  
兄貴は何も分かっていないんだな。譲は心の中でつぶやいた。危険なのはね、あんたなんだよ。弟の心を知らず、将臣は屈託なく笑った。  
「それにしても、10代の口から『嫁入り前』だなんて言葉を聞くと、何だか新鮮だなぁ」  
「兄さんだって10代じゃないか。大して年齢が変わらないくせに」  
そりゃそうだと将臣が答えたとき、居間でテレビを見ている母親が彼を呼んだ。譲は将臣の後ろ姿が見えなくなるまで、その姿を目で追った。  
 
友人の兄の話と比べると、よくできた兄貴だとは思う。兄弟けんかをしたことはあるけれど、不当にいじめられた覚えはない。子どもの頃からずっとさばさばとした頼もしい兄貴で、それは今も変わらない。譲の将臣に対する情は、ある部分では昔のままだ。  
だが昔と違って、その長所が時折うとましく感じることがある。そう思う自分にうんざりするけれど、無理に押さえてもしょうがないかなと諦めてもいる。  
将臣は譲がどんなに努力したとしても得られないものをもっていて、それは人望だったり、いつの間にか人の輪の中心になってしまうある種のカリスマ性だったりするが、今それが望美に向かって働いているような気がしてならない。  
(俺が頭のなかで、兄貴の大切な『幼馴染み』にどんな格好をさせて、何をさせて、どう犯しているのか知ったら、一体どんな顔をするんだろうか?)  
しかも、これが初めてでないと知ったら?  
 
そもそも将臣が、同じような妄想を抱くことがあるのかどうか。  
将臣が自分のように、告白することもできず、さりとて想いを断ち切ることもできない足踏み状態に陥るとは想像できない。  
将臣なら好きだと気づいたのならば即相手に想いを告げ、断れれば後腐れなく前へ進むに違いない。そして望美がその相手ならば、断られることはきっとない。  
(だから、兄さんと俺が同じ幼馴染みっていう立場で、先輩と向き合っている今の関係なんてのは…)  
潮が間近に迫った砂の城のようなものだ。壊れないようにと祈ったって、ハラハラしながら見ていたって、波がそれを壊すのを止めることはできない。  
その破局が早くきて今の中途半端な状態から解放される方が幸せなのか、それとも偽りの均衡が少しでも伸びた方が幸せなのか、譲にはよく分からなかった。  
 

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