「…将…臣…くん…?」  
「望美…お前…何で……」  
 ギリ、と言う金属が擦れる音が目の前の打ち合わされた刀からこぼれる。  
 これは夢だ、とっておきの悪夢で早く目を覚まさなければ、と自分に言い  
聞かせるが、反面視界も頭の中も鮮明だった。  
 望美自身も酷く衝撃を受けたが、目の前の幼なじみ――この異世界で再会  
した同い年だった相手は既に自分よりも3年多く年を重ねていた――も、そ  
れは同様らしく、驚愕に目を見開いている。  
「何でお前がここにいるんだよ!」  
 吐き捨てるように、けれど何故か泣いてるように叫ぶ見知った青年。自分  
の知らない3年を過ごし、先に大人になった幼なじみ。  
――ダメだ、譲くんが!  
 もう1人の幼なじみを思いだすと同時に、自然と体が動いていた。  
 還内府を前面へおびき寄せ、出てきたところを八葉の1人であり、目の前  
の人物の血の繋がった弟であり、弓を得意とする有川譲が矢を射る予定だっ  
た。  
 そうして、今度は身体を衝撃が襲う。一瞬、息がつまり、鋭い熱さが全身  
を痙攣させ、そのまま崩れ落ちる。  
「――っ!! 望美!」  
 倒れ込む体を将臣は片手で支えた。目に入った状況に息を飲む。華奢な背  
中に太い矢が深々と突き刺さり、その根本には血が大きく滲んでいた。  
 自分の腕の中で、苦しげに息を吐くのを確認すると、将臣はそっと吐息を  
漏らした。戦場で敵や味方が矢を受け刃にかかり倒れ伏していくことなど、  
3年の暮らしで慣れたはずなのに、知らず震えが走り少女を抱き留める腕と  
は逆の腕で刀を地面に突き2人分の体を支えていた。  
 
「還内府殿!」  
「還内府殿……それは源氏の神子!?」  
「源氏の神子、覚悟!!」  
 背後から味方であるはずの平氏の兵が数名走り寄ってくる。  
「やめろ!!、今はさっさと退け!」  
 将臣は兵に怒鳴りつけると望美を担ぎ上げる。いくら神子とは言え、この  
味方と敵が入り交じった乱戦状態では、そのまま置いていくわけにはいかな  
いと思ったからだ。  
 首筋にちりりとした物を感じ軽く後ろを見ると、つい最近まで共に旅をし  
ていた人間がぞろぞろとこちらへ向かってきている。その中に蒼白な顔をし  
た弟を見つけたが、何故か冷たいものが体の内を駆けた。  
 
 
 最初はいつもの満月の夢だと思った。  
 既に懐かしさすら覚える高校。いつもの夢じゃないと理解したのは、自分  
が、生徒達がまばらにいる廊下を教室に向かって歩いているからだ。  
 将臣との夢に、自分と将臣以外の人間は出てきた覚えは無いし、廊下を歩  
いていたこともなかった。何より、夢の中の自分は自分が意図的な行動を取  
れるでなく、ただ内側から自分の行動を見つめるだけだった。  
 ふと、胸がザワめく。既視感、夢に見ているこの風景に見覚えがあった。  
夕日が差し込む中、通り掛かりに友人に声を掛け軽く談笑し手を振って別れ  
て……。  
――イヤだ、行きたくない…お願いだから止まって…  
 願いは聞き届けられるはずもなく、教室の扉は簡単に開いた。開いた途端  
目にした光景は……。  
 
 密着する男子と女子の顔。確か女子は3組の可愛いと評判の、いや、そう  
じゃなくて。などと思考は取り留めが無かったが、体も視線も固まってしま  
っている。視線を上げた向かいの男子高生、有川将臣と目があってしまった。  
ドクン、と心臓が鳴った気がした。一緒に育った自分には見せたことの無い  
ような憂鬱げな目を見てしまい、カッと顔が熱くなる。きっと、今の自分は  
一瞬にして真っ赤になってるのだろう。  
「…えと、あ…あの……ゴ…ゴメン!」  
 慌ててそれだけ言うと、カバンも取らずに扉を閉め駆け出した。  
 後ろから2人の叫び声が聞こえたが、止まって振り返ることなど出来なか  
った。  
 
 
 兵達の様子を見、声を掛けてその場を退くと、人目が無いことを良いこと  
に、九郎は溜息を付いた。  
 本来ならば、全軍を率いる将である者が一般の兵の様子などを一々見て回  
らずとも良いのだが、戦場を一緒に生きて戻って来た者達の顔をきちんと見  
ておきたいと思っているからだ。無論、彼らと共に死者を悼むのも毎度のこ  
とだ。  
「大将たる者、軽々しく溜息などをつくものではありませんよ、九郎」  
 男にしては、高く柔らかな声が掛かる。  
 本気で窘める気が無いのは、黒いフードの下では、声同様表情も柔らかな  
ことからわかる。  
「弁慶か。譲はどうした?」  
「大分落ち着きましたよ。白龍が、望美さんは無事だと断言してくれました  
からね」  
 白龍、力を失った龍神だと名乗った子どもは先日いきなり青年へと変貌を  
遂げていた。見た目は、九郎や望美の剣の師であるリズヴァーンの次に大き  
な体躯だが、その心根は幼い姿の時同様、無垢な子どもであった。  
 そして、その白龍は、自らの神子である望美とは通じ合うらしい。  
 力を取り戻してない白龍には神子の居場所を突き止めることは出来ないが、  
無事であることは確かだと言う話だった。  
 
「当たり前だろう。あいつが、将臣が望美をむざと殺すものか」  
「……九郎、彼は還内府ですよ」  
「わかっている! だが…!」  
「そうですね。彼に望美さんは殺せないでしょう。それをするには、彼は甘  
い」  
 確かに、平氏の御大将として戦に加わってはいる。この3年源氏の兵をい  
くらも殺してきただろう。だが、あの男には望美と譲だけは殺すことは出来  
ないと確信している。刀を持って戦場に出るだけではなく、政の場では日々  
政敵、それが親や子や兄弟であっても追い落とそうと、皆が躍起になってい  
るこの世界とは違う場所で平和に育った者の甘さだ。自分には持ち得ないも  
のだ…。  
「弁慶? どうした?」  
 黙ってしまった相手に、九郎が訝しげな顔を向ける。  
「いえ、何も…。兵達の方はどうですか? 動揺などは?」  
「戦場から戻った直後はな。だが今は逆に神子を絶対に取り返す、と息を巻  
いている。まぁ士気が上がるのは構わんが、暴走させるわけにもいかないか  
らな。落ち着かせてきたところだ」  
――兵よりも九郎の方が、あの人の無事が気になるでしょうに…  
 親しく無い者には態度がキツイことから誤解されがちだが、この男は自然  
と人を惹きつける。人里離れた場所に閉じこめられるように育ったせいだろ  
うか、年に似合わず純粋で素直で…それが短所でもあるが、側にいると不思  
議と力を貸し与えようと言う気持ちにもなる。更に、本人には自覚は無いだ  
ろうが、人の心を動かす方法を身に付けてもいる。それは、やはり自分には  
無い物だ。  
「じゃぁ、俺はもう戻るぞ」  
「ええ、僕ももう休ませて貰います」  
 軽く笑うと九郎は足早に自分にあてがわれた休息所へと向かった。  
 その背に複雑な視線を向ける友人に気が付くこともなく――。  
「九郎…甘いのはあなたもですよ」  
 
 涙がこぼれるのを自覚した。そしてやはりこれは夢だと再確認した。あの  
とき、現実での自分はただ恥ずかしくて、何でか心臓がドクドク言っていて、  
それが何なのか自覚してなくて、だから泣くなんてことはしなかった。  
 
 
「う…ん…」  
 うっすらと目を開けると、今はもう見慣れた陣地のようだった。けれど薄  
目で見た陣地を囲む幕や旗は見知った物では無い。が、どうにも頭が回らな  
ず、その違和感が何なのか理解出来ない。  
 目が覚めていると言う自覚はあるものの、頭も体も熱くてスッキリしない。  
 望美はゆるゆると顔を上げ、更に体を起こそうと力を入れる。途端、背中  
から全身に激痛が走った。  
「!? ぐ…うぅ…」  
 くぐもった呻き声を上げて、寝具に顔を埋めてしまう。  
「気が、付いたのか?」  
 低い抑えた声が頭上から投げかけられた。勢い再度体を起こそうと身じろ  
ぎしたところを、やわらかく押さえられる。  
「動くな。傷に触る」  
 囁くような声の相手へと、望美は顔だけを向けた。表情はぼうっとしてい  
て、相手を認識しているのかすら怪しい。  
「まだ熱があるな。そのまま寝てろよ」  
 手を少女の額に当てて確認すると、身を屈めて耳元で声を掛ける。  
「…将臣…くん…?」  
 うつ伏せの状態で顔だけをこちらに向けながら、相変わらずぼうっとしつ  
つ、それでも不思議そうに声を掛ける。  
 無理も無いだろう、将臣がいるということは、本来いるべき源氏の軍であ  
るはずがないのだから。  
 
「これも夢、かな?」  
「夢?」  
 将臣は、望美を寝かせている、ありあわせの物で作った簡易ベッド…のよ  
うなものの端に腰を掛けて、話を聞く姿勢を取った。  
「…うん、夢…。さっきまでね、文化祭の準備してた時の夢見てたの…」  
「文化祭ねぇ…」  
 語る当人に取ってはついこないだの話だろうが、聞く側に取っては既に数  
年前の出来事である。「何かあったか?」などとつぶやき、一瞬遠い目をし  
たが、次には不機嫌そうに眉根を寄せた。  
 自分にとっての最後の文化祭、その前夜祭前日のことを思い出していた。  
「お前、まだあの時の…と、お前にとってはそんな昔じゃねーのか」  
 ぼんやりと薄目を開けている少女の頭をそっと撫でる。いつも隣で一緒に  
笑っていた家族同然の存在。けれど、相手から見ると自分は別人のようにな  
ってしまっているだろう。髪も伸び、体つきも頑健に、顔つきも当時とはま  
るで違う。本人ですらそれを自覚しているというのに、別れた時から数カ月  
しか経過していないのだから。  
 たかが3年、しかし自分が変容してしまうには十分過ぎる年数だった。そ  
してその年数が今は重い。平家の人間として過ごしたことには後悔は無いが、  
こうして変わらない幼なじみや弟と出会うと、もう戻れないのだと言うこと  
を嫌と言うほど感じる。  
 望美や譲から元の世界に戻る方法があると言われたが、人を率い、人を殺  
してきた自分が、どの面下げて平然とあの平和で温かい場所に戻れると言う  
のか。  
「将臣くん?」  
 自分の頭に手を置き、怖い顔で宙を睨んでいる青年に不思議そうに声を掛  
ける。  
「…ああ、すまねぇ。それで、どうした?」  
「んっと…何か良くわかんないけど、何か泣けてきちゃった。おかしい…よ  
ね…」  
 たどたどしい喋り方に顔を覗き込むと、そのまま眠りそうな顔があった。  
矢傷の熱が再び少女を眠りに誘っているのだろう。  
 
「泣いてたのは、体起こして痛かったからじゃねぇのか?」  
「…両方…かな…?」  
 望美は、襲ってくる眠気に逆らうように笑うが、熱と眠りに苛まれている  
状態での声や表情は、どことなく甘えているようにも見えた。  
――そういや、昔から甘えられたことってのは殆ど無かったよな…  
 そもそも彼女の性格から、この内容の夢など本来は語られないだろう。  
 眠らないようにしているのか、まばたきを繰り返している瞳から、まだ乾  
ききっていない涙がこぼれた。  
 あらがえない力がどこからか掛かったように、将臣は自然とその涙を口で  
受け止めていた。そして、そのまま熱で乾いている唇に柔らかく口づけをす  
る。身じろぎもせずに受け止めている、おそらく何が起こっているのかすら  
理解出来ないであろう少女を思うと軽く腹が立つ。このまま深く舌を潜り込  
ませて更に全てを奪ってしまおうかと言う衝動に駆られるが、同時にそんな  
自分に吐き気を覚えた。  
「熱で、唇が乾燥してるな…水と濡れた手ぬぐいを持ってくる。すぐに戻る。  
寝ちまっても良いから、おとなしくしてろよ」  
 言いおくと、将臣は何事も無かったかのようにその場から立ち去っていっ  
た。  
――やっぱりこれも夢だ……。さっきあんな夢見たのに、今度は自分の望む  
夢。嫌な人間だなぁ。……何で私が神子なんだろう…。全然清らかなんて言  
葉似合わないのに  
 朦朧とした状態で、自分の唇を指でなぞる。かさついた感触を感じただけ  
で、そのまま眠りに落ちてしまった。  
 
 望美を休ませている自分に宛われた幕を出ると、将臣は己の拳を握りしめ  
る。自己嫌悪などしたことはこれまで殆ど無かったと言うのに、今は自分に  
対して『反吐を吐く』状態だった。  
――何が還内府だ! 何が平和な生活に戻れないだ!  
 何かを殴りたい衝動が心の底から沸き上がってきているが、近くには壁も  
木もなく、そのまま握りしめた拳に更に力を入れる。  
 今の自分に後悔はしていないと言う言葉にウソは無い。  
――後悔しているのは、あの時あいつの手を掴めなかったことだけだ  
 この3年間、どれほど周りから慕われようと、どんなに女を抱こうと、危  
険に身を晒そうと、身の内にも外にも埋められない見えない穴があった。  
 幼い頃から弟の譲と同じく兄妹のように育って、隣にいて当たり前、空気  
のような存在だと思っていた。だから気が付かなかった。もしあのまま、平  
和に生きていたらずっとこの想いに気が付かなかったかもしれない。  
 最初は無我夢中で、生きる為に必死だった。いつ頃からか何をしても満足  
が出来なくなっていた。乾きにも似たモノが、日増しに強くなっていた。  
――何故今になって現れた! しかも討つべき敵として!  
 思い出として忘れられないだけならそれで済んでいたものを…。  
 短い間だったが、こちらで一緒に旅をした。3年前の変わらない姿で現れ  
た少女は、自分の守るべき相手だと言われ、同じく仲間だと言われた連中に  
慕われていた。望美を守ることに異論は勿論無かったが、再会する前に己に  
誓った守るべき者が既に他にも存在し、また今の自分では一緒に居続けるこ  
とは逆に更に危険な目に会わせることにもなる。何より、神子として倒して  
いる怨霊は自分たちが生み出してる存在だった。  
 
 平家の還内府としての役目があるため、予定通り彼ら一行と別れて戻って  
は来たが、兵を率いて己の役目を果たす一方、望美が他の男と親しげにして  
いるのを思い出すと面白くは無かったし、時折白い体を犯す夢さえ見る始末  
で、末期だな、などと自嘲していた。  
 まさか敵として相対するとは想像していなかった。いや、正確には考えた  
く無かっただけだ。弁慶と聞いて九郎と来れば、源九郎義経以外には考えよ  
うも無いはずなのに、源氏の部下では無いかどうかを軽く確認しただけで頭  
の外へを追い出していた。  
――助けるのはともかく、何で連れてきちまったんだ…  
 常識的に考えれば、例えあの場に置いてきても八葉がすぐに駆けつけ手当  
をしていただろう。寧ろ、平家の陣まで連れてきた今の方が危険極まりない。  
 けれど離れがたかった。柔らかで温かい体と。日々大きく育った穴が急激  
に満たされた思いがした。  
――離れがたい? 違うだろ! 俺はアイツを!!  
 欲しい、と思った。誰にも渡したくない。身も心も縛り付けて側に置いて  
おきたい。獣のように、何も考えずただ相手だけを求めたい。  
 出来るわけも無い、下らない、だが底から湧き出るような黒い妄想が将臣  
を内側から苛む。  
 ふと、一つ下の弟の顔が浮かんだ。元の世界では気が付かなかった弟の視  
線。時折感じた敵意。この世界へ来る直前、廊下ですれ違った際にも一瞬感  
じた。今なら良くわかる。弟は、譲は望美に想いを寄せている。あの視線は  
想い人の親しい男への嫉妬だ。  
 
 望美を連れ去る時、自分が弟へ感じたのは同じ様な嫉妬と、あの手に持つ  
矢が少女を傷つけたのだと言う理不尽な怒り…。目に見えて狼狽えていた譲  
は、望美は勿論、兄だと気付いたなら自分には矢を射らなかっただろうこと  
は想像に難くないが、それでも許せないと思ってしまった。  
 大きく息を吐き、頭を軽く振り現実へと自分を切り替える。  
 自己嫌悪から立ち直ったわけでは無い。熱と傷の痛みに耐える望美を心配  
する一方、戦場での興奮が納まらないせいもあるだろうが、そんな姿にすら  
劣情を抱いている自分の欲望の始末の負えなさにも参っている。  
「おいおい、そのままだと自分の手を握り潰すぜ」  
 気さくな、しかしどこか世捨て人のような声が横から掛けられた。  
「知盛か、何か用か?」  
「………ふ…酒でも飲もうと思ってな。忠度ももういないし、相手がいない」  
 側に寄って来た武将は、持っていた小さい酒瓶を持ち上げる。  
 犠牲が大きかった割に、何も手にすることが無かった戦い。怨霊として蘇  
った者は消滅し、生きている者は捕らえられ近い内に処刑される。  
 望美にだけかまけているわけでは当然無い。死者ややがて死者の列に加わ  
る者に哀悼を捧げ、状況を把握し、兵を退きつつ何とか出来ないか、と各隊  
を任せている隊長と何度か顔を付き合わせて策を講じていた。  
 色々と頭の痛い問題を抱えていたが為に、酒など暫く口に入れてはいなか  
った。源氏の神子である望美と同じ場所にこの男を招き入れるのは些か不安  
だが、一部の者を除いて彼女が神子であることは知らないし、その者達には  
還内府と言う立場を利用して口止めをしておいていた。  
「別に構わないぜ。少し待っててくれ」  
 水のついでに何か食うモンも持ってくる、と言って将臣は賄い所へと歩い  
ていった。  
 
 光が当たると、輝く銀色にも見える白く豊かな髪を持つ大柄な青年は、そ  
の姿に似合わない小首を傾げるような幼い仕草で、側で惚けたように月を見  
上げている人物を眺めていた。  
 いつもならば、興味津々でじっくり見つめていたりすると怒られたりもし  
たのだが、ここ数日はその人、有川譲は心ここに在らずな状態で、どれだけ  
見ていても何も言われなかった。  
 普段は本人も意識的にしっかりしようと努めているのと、兄には劣るもの  
の親譲りの長身と理知的な顔つきと言う見た目の為に、必要以上に大人に見  
えるが、今は中身通り16の子ども、下手をすればそれ以下に見えるほど頼  
りなげな様子だ。  
「譲、もう寝なきゃダメだよ?」  
 白い髪の青年、白龍は恐る恐る声を掛ける。  
 今の見た目はどう見ても譲より白龍の方が年上なのだが、まだ力を取り戻  
していない為に、その精神は幼子のそれであった。朔などはわかっていたこ  
となのか平然としているが、八葉達は何事にも動じることのないリズヴァー  
ンを除き、どうにもその違和感に慣れないようで時折対応に困っていた。  
 白龍はもう一度譲に声を掛ける。  
 力の無い自分には休息が必要だが、人間である譲も勿論体を休めることが  
大事だとわかっているからだ。休める時に休んでおかないと、必要な時に神  
子を守れないではないか。  
 
 声を掛けても動こうとしない譲を引っ張ろうとしたとき、誰かに軽く肩を  
捕まれた。振り返ると、自分よりも更に大きな体躯の持ち主であるリズヴァ  
ーンが立っていた。  
「譲、ちゃんと休みなさい…」  
 マスク越しに静かに語りかける。  
「そうだよ! 神子が帰ってきた時困るよ」  
 少年の背が『神子』と言う言葉にピクリと反応する  
「何で、あなた方は平気なんだ…」  
 大きな声では無いが、吐き捨てるように言葉を投げかける。  
「平気? 神子は生きてる。側に八葉の1人がいる。だから安心だよ?」  
「どうしてそんなこと言えるんだ!」  
 いきなりの大声に白龍がビクリと怯える。  
「…兄さんが還内府で…俺の射った矢が…先輩を……」  
 両の腕がブルブルと震えている。  
 この手で血の繋がった兄を狙った。この手でとても大事な人を傷つけた。  
周囲の人間は皆、お前は悪くない、と声を掛けてきた。だが、自分で自分が  
許せない。  
 望美の崩れ落ちる姿が目に焼き付いて離れない。夢に見る己の死よりも遥  
かに強烈に。  
 
 そして、あの時一瞬感じた兄の、将臣の自分に対する殺意に近い敵意。あ  
の瞬間に、兄が自分と同じ気持ちを持っている、いや、ようやっと自覚した  
のを悟った。  
 昔から、兄に強いコンプレックスを抱いていた。必死に努力し、ようやっ  
と色々なものを身に付ける自分と違って、天才肌で、何でもソツなくこなし、  
周囲に人が絶えることはない。いつの頃からか、幼なじみで一つ年上の少女  
に恋をしていたが、その人は年齢も一緒と言うことで兄との方が親しかった。  
 兄である将臣、幼なじみである望美、いつも2人の側にいて見ていたから  
こそ良くわかる。2人が自然と惹かれ合っていたのを。それでも、自覚する  
ことのない2人にどこか安心していたと言うのに…。  
 自分は望美の無事を心配しているのでは無い。他人の言うように、白龍の  
言うように、望美は無事だろう。あの兄が死なすなど絶対に無い。  
 これは自分の一番醜い感情だ。どろどろして、暗い闇の部分。今、想い人  
の側にいるであろう男へのどうしようも無い嫉妬。  
 傷つけてしまったと言う後悔の念と、ドス黒い嫉妬とに押しつぶされるよ  
うな気がする。日常生活では優等生の仮面を被りながら、元より持て余し気  
味の思いが溢れ出しそうだった。  
 
「譲は将臣を信じてないの?」  
 信じているさ! 誰よりも何よりも!!  
 でも兄さんは違う。何も話してくれなかった…。  
「…譲、神子は必ず戻ってくる」  
 いつもは望美以外とは殆ど会話らしい会話をしないリスヴァーンが、穏や  
かな声で、しかし自信に満ちた声音で断言する。  
「何故、そう言い切れるんです? あなただって気付いてるはずだ…」  
「逆に聞こう。あの神子は、我々を見捨てるような人間なのか?」  
 譲がゆっくりと顔を上げ、リズヴァーンと目を合わせる。  
「怨霊をそのままに、更に怨霊を生み出す側に身を委ねると?」  
 そんなことはしない、いやできないだろう。言われなくても知っている。  
「では、信じて待つことだ。しっかりと体調を整えてな」  
 答える前に、大柄な男は部屋を音もなく出て行ってしまった。  
 
 将臣が戻ると、幕外に知盛はいなかった。まさかと思い幕の内側に入ると、  
上半身の鎧を外した青年が、興味深げに寝ている少女を覗き込んでいた所だ  
った。  
「こいつが源氏の神子か?」  
 さて、何と答えるべきか、思いつつ無言で自らも少女に近付き、濡れた手  
ぬぐいでその唇を濡らす。  
 表情を変えることの無い将臣に、くつりと笑いをこぼす。  
「戦場で女を拾うなんてこと普通はあり得ないし、それが義経率いる源氏軍  
だ。噂の神子か、同行している梶原の妹かどっちかだろう」  
 退廃的な雰囲気を纏い、戦場では強い敵と戦うことこそ信条としている、  
どこか狂気的な男だが、頭の回転は平家軍でも群を抜いている。確かに、他  
はともかくこの男がその結果に行き着くのは容易いだろう。  
「どうする気だ?」  
「どうもしないさ。単に神子とやらの顔を見に来ただけだ。この状態じゃ満  
足に闘えないしな。それじゃつまらん。が…」  
 眠る少女の顎を軽く掴む。  
「まぁ、確かに佳い女だな。剣を振るって怨霊を薙ぎ倒すと聞いていたから、  
どれだけ荒々しい女かと期待してたんだが、まさかこんなか細いとはね」  
 ニヤリ、と人の悪い笑いを向けるとくるりと体を回転させ、地面に敷いて  
ある厚布にそのまま座ってしまった。  
「戦場で会うのが益々楽しみだ。どんな戦いを見せてくれるのか」  
 1人楽しそうに酒瓶の口を外す知盛に酒升を差し出しつつ、自分もその向  
かいに座る。  
 
「お前こそ、どうする気だ?」  
「何がだ?」  
 質問の意図を分かっていながら返す将臣に、益々楽しそうにし、酒を注い  
だ升を手渡す。  
「まさかこのまま最後まで同行させる気じゃあるまい?」  
「動けるようになったら源氏に返す」  
 それがどういうことか、聞く人間によっては即座に切り掛かられるような  
内容を表情も崩さず返す。  
 連れて来たときからそのつもりだった。このまま連れていったところで、  
安全は保証されない。自分1人が守れるのも限度がある。  
 そして、また敵対する…。  
「俺としてはその方が望ましいな。こっちの怨霊にまた犠牲が出るが、何よ  
り闘える」  
「お前はそればっかりだな」  
 困ったように苦笑する。平家きっての武将2人が、その平家を滅ぼす要因  
である神子の側でその神子を敵軍へ返す話で酒を酌み交わしている。これほ  
どおかしな状況も無いだろう。2人とも知れたら清盛に処刑されるだろうか?  
 守ると誓った平家一門を助けたい、だが同時に望美を守りたい。どうして  
こうも思いは空回りするのか…。  
 
「いっそ、手込めにしてしまったらどうだ?」  
 さらりと、知盛は言ってのける。言った後から、再び人の悪い笑顔を作る  
が、目だけは笑ってはいなかった。  
「還内府が源氏の神子を奪うんだ、源氏軍は士気も下がる。そうすりゃ平氏  
の巻き返しもありえるだろうし、お前は惚れた女を手に入れられる。俺だけ  
はつまらんがな」  
「バカバカしい」  
 将臣は不機嫌そうに眉根を寄せた。  
 出来ることならとっくに行動している。しかし自分はそれで良くても、望  
美はどうする? 無理に抱いて手に入れたとして、鎖ででも繋いでおかない  
と仲間の元へ逃げ出しかねない。自分のことを少なからず想っていてくれて  
ると自負するのは、決して自惚れでは無いだろう。けれど、だからと言って  
あの連中のことを見捨てられる気性の持ち主では無い。  
 それにいくら重盛だと思いこんでいるとしても、自分を滅ぼすことのでき  
る白龍の神子を、息子の嫁だからと見逃す清盛とも思えない。そんな場面に  
陥ったとしたら、それこそ清盛等を封印してしまいかねない。  
 弟である譲と違って将臣自身も先ず行動ありきだと自覚しているが、望美  
は更にその上を行く無謀さを持っていると言っても過言では無い。  
――て言うか、女のクセに、いくら相手を怨霊だと思いこんでて、封印出来  
るのが自分だけだったからって、普通敵将に1人で向かってくるか?  
 自分と討ち合った望美の行動を思い返すと、今更ながら呆れるほかは無か  
った。  
 
「神子がいなくなろうと、御大将である義経がいる。兵は元々義経が率いて  
いるんだ」  
「義経か…相当の手練れらしいからな。こっちも相対するのが楽しみだ」  
 一緒に旅していたときのことを考える。確かに腕は立つ。剣技と言うなら、  
師匠と慕っていたリズヴァーンや、龍神の加護を受け、その龍神の持ってい  
たと言う刀を振るう望美を除いては、その力は抜きんでていた。長年磨いて  
いるだろうあの腕前を相手に、純粋な打ち合いをしたなら、力押しの自分な  
ど軽くいなされてしまうだろう。  
 だが、大将としてはどうなのだ? とも思う。平和な世界で育った自分や  
譲よりも素直で純朴なところがあった年上の青年を思い出すと、どうにも聞  
こえてくる義経像とのギャップを感じる。もといた世界の、歴史に残ってい  
る義経と違うのは当然としても、アレで良く今まで御大将としてやれてきた  
ものだ、と敵将ながら逆に心配になるほどだ。  
――そういや、俺達の世界の義経も、最後は兄に追いつめられて死んだんだ  
っけな…  
 信じていた者に裏切られる気分はどんなものだろう。望美は自分のことを  
どう思っただろう? 自分は? この期に及んでも、将臣は今は眠る幼なじ  
みを敵として見ることは出来そうになかった。  
 
「義経が倒れても、後ろには頼朝が控えている、か…義経とはやり合ってみ  
たいが、頼朝はどうだかな」  
 珍しく知盛も言葉を濁している。荼吉尼天を擁する頼朝。刀を合わせるこ  
とに悦びを感じるこの青年にとっては、怨霊よりもワケのわからない力を持  
つ者など、相手としては不満極まりないのだろう。  
「…あいつは、このことを知っているのか…?」  
 知らない可能性のが大きいな、知らせてやった方がこちらにも有利なので  
は無いか? と思うが、だが敵同士だと知れた今、同じく軍を預かる立場の  
義経がいくら素直な性格だからと言っても、こちらの言うことを聞くだろう  
か? 聞けば兄である頼朝のことをかなり慕っていると言う話だ。しかもあ  
の性格では逆効果にしかならないだろうことは目に見えている。  
「あいつって?」  
 つぶやいた言葉を知盛が聞きとがめる。  
「いや、何でもねぇ」  
「まあ良いけどな。飲めよ、全然口に入ってないぞ」  
「ああ、すまん」  
 
 黒龍の神子である梶原朔は、庭から月を見上げると心の中で願っていた。  
――どうか、あの子が無事でありますように…  
 異世界からの訪問者、そして対である年下の少女。勝ち気で、それでいて  
どことなく危なっかしい、今では一番の友人。  
 平和だったと言う世界からいきなりこの戦乱の世に召喚され、それでも戦  
いに身を投じた白龍の神子。最初は対と言うことで一緒にいたが、一緒にい  
て楽しく笑えている自分に気が付いた。あの時から心の底から笑うなど出来  
なかったのに、望美と一緒にいると何故か温かい気持ちになって自然と笑う  
ことが出来るようになっていた。  
 だからこそ幸せになって欲しいと、自分と同じ思いは味わって欲しく無い  
と強く思うようになっていた。幼なじみと紹介されたあの人と惹かれ合って  
いるのは、見ていて微笑ましくて応援さえもしていたのに。  
「それが、どうしてこんなことに…」  
 このまま戻ってこない方が良いのでは無いか。還内府であるあの人が守っ  
てくれるのならば、それは望美にとっても幸せなのでは無いのだろうか。  
 けれど――。  
「さーく! 夜はちゃんと寝ないとダメだろう」  
 突然掛けられた声に、朔は驚いて後ろを振り向く。この男はいつもこうだ。  
気配を感じさせず、さりげに自分を気遣う。時折それに無性に腹が立つ。い  
つでも他人を気遣っているクセに、絶対にそれを他人に気付かせようとしな  
い。だから、こちらもその道化に付き合ってしまうのだ。  
 
「兄上こそ、妹とは言え女性の寝所にこのような時間に現れるものではあり  
ませんわ」  
「ひっどいなぁ。お兄様に向かってそりゃ無いだろー」  
 ふわり、と軽く抱きしめられた。  
「白龍も言ってただろ? 望美ちゃんは大丈夫だから。最近良く寝てないん  
でしょ。あの子が戻ってきてそれを知ったらどう思う? 心配される方が心  
配する羽目になっちゃうよ」  
 優しく語りかける兄に、自然と涙が出てきていた。ここ数日の緊張が、家  
族の暖かさで緩んでしまったのだろう。  
「……兄上のバカ」  
「バカは酷いなぁ」  
 朔が落ち着いたところを見計らって、景時は部屋へと妹を上げる。  
「おやすみ。ちゃんと寝るんだよ」  
「わかってますわ。これで兄上が寝不足でお役目を果たせなくなったら困り  
ますもの」  
 景時が僅かな睡眠時間で、軍奉行の仕事の合間に望美の様子を探っている  
ことを知っている。陰陽師としてはあまり腕の良い方では無い兄は、式神で  
はなく、人を使うことになる為に容易に敵軍の内情を探れずに四苦八苦して  
いることも。  
――適わないわね…本当に  
 兄が夜の庭に消えると戸を閉め寝具に入る。対となる少女も安らかに眠れ  
ていることを願って…。  
 
 
 長い髪を振り乱し、片手に通常の物とは形が異なる刀――と言うよりも、  
その形状や両刃と言うことで剣に近いだろう――を携え若い娘が獣道を突き  
進んでいた。  
 どれくらい走っただろうか? 既に滞在していた里も平家の隊も見えない。  
 気付かれる前に、出来るだけ遠くまで行かなければと息が上がるのも構わ  
ず走り続けていた。  
 走りながら、自分はこれ程までに体力が無かっただろうか、と望美は自問  
自答する。こちらの世界に来てから、怨霊と戦ったり山越えしたり戦場に出  
たりと、およそ元の世界では考えつかないようなことをしてきたが、今の方  
が体力的に辛く感じているのだ。  
――やっぱり白龍が側にいないせいかな…?  
 本来ならば17の女子高生が刀を振って戦うなど、数カ月やそこらで剣の  
技を会得するなど無理な話である。それを成し得たのは、白龍の加護を受け  
ていたからなのだろう。そして、白龍が力をまだ取り戻して無い状態では、  
ある程度離れるとその加護を受けられないと言うことでもある。  
 その証拠に白龍がいない今、傷の治りも遅く、少し走っただけで息があが  
り、止まると足がガクガクと震え出す。  
――でも、封印は出来るんだよね…  
 勿論、平家の真っただ中で怨霊の封印を試せるわけもないが、それでも身  
の内に力があることは感じている。  
 
「……少し…休もう……」  
 いくら何でも、どこに行ったかわからない者を、ここまで追っては来れな  
いだろう。そもそも追いかけてくるとは限らないのだから、取り越し苦労か  
もしれないのだが、念を押しておくに越したことはなかった。  
 大きく息を吐き、側の大木に手をつくとズルズルとその場にへたりこんで  
しまった。深呼吸をしようと息を吸った途端、肩口から刺すような痛みが走  
る。  
「!…痛っ…う……く…」  
 肩を抱いてうずくまってしまう。  
 動けるようになったとは言え、かなりの深さだったと言う矢傷は、ほんの  
少しの衝撃ですら今のように痛み、血が滲む時もある。  
 暫く、そうして痛みを堪え…やがて再度大きく息を吐く。  
 よろよろと、大木に背を預ける――当然の事ながら傷のある方は避けて―  
―体勢を取ると、懐から竹筒を取り出し中の水を口に含む。  
 急いでいた為に持ってこれたのは水だけだった。多くは無いものの、念の  
為にと朔から渡されたこの世界の貨幣を持ってはいたが、買い物をすること  
などすっかり頭の外だった。  
――一軒寄る位じゃ、掴まるわけ無いのに  
 つくづく考え無しだ、と少しばかり自己嫌悪に陥ってみる。小さい山とは  
いえ、陽が高いうちに越えられるとは思えず、今晩の宿はおろか食べ物すら  
手に入れることは不可能だろう。  
 
――まぁ、一日食べない位じゃ死なないか  
 いつ、どういった理由で、お金が必要になるとも限らない。節約出来れば  
それに越したことは無いのだ、と思考を前向きに切り替える。  
 休んで、足の震えが治まったらまた歩こう、早くみんなの所に戻らないと  
とても心配を掛けていると思う。特に譲くんを安心させないと…絶対気にし  
ている。マジメで繊細な子だし。朔もいつも気にかけて声を掛けてくれるの  
に、こんなに何日も離れてたりしたら、心配のしすぎで胃を壊しちゃう、等  
と考えながら空を見上げる。山の中でもあり、木々が鬱蒼とし天を隠してい  
るが、夜明け前から走っていた空はまだまだ明るく、木漏れ日が光っている。  
 その光を見つめながら落ち着いてくると、ここ暫くのことが頭の中に蘇っ  
て来た。  
 
 目が覚めたら、夢に見た通り平家の陣に寝かされていて、傍らには将臣が  
いた。あれは現実だったのだろうか、と思い返すが内容が内容だけに、どう  
にも現実感が湧かないのだ  
 そして自分に都合の良かった夢は、夢から覚めるとあまり都合が良くない  
のだとすぐに思い知る。  
 
 肩口の傷と熱のせいで思うように体が動かせず、傷の位置が位置だけに、  
仰向けにも寝れず、うつ伏せの状態で過ごさなければならなかった。  
 矢傷は熱を持つのだと将臣が教えてくれたが、文字通り身をもってそれを  
体験している。  
 更に、移動時には馬の背に将臣に抱かれる形だった為に、恥ずかしいやら  
申し訳無いやら、振動が傷に響くやらで、かなり混乱する羽目になった。  
 そして、起きあがれるようになってからは、絶対に自分の側を離れるな、  
夜を過ごす時や将臣自身が会議等で側にいられない時は将臣に与えられた場  
所から動くな、ときつく言われた。  
 平家の部隊の中を、白龍の神子である自分がうろうろすることが危険なの  
は想像出来たので、言う通りにしてはいたが、かなりの窮屈さを覚えたのも  
事実だった。敵に囲まれた状態と言うのも、精神的に追い込まれるような状  
態だったのだろう。  
 時間の許す限り将臣が側にいてくれてるだろうお陰で、多少なりとも救わ  
れてはいたが、お互いに何を話して良いのかわからず、一緒にいても会話が  
途切れがちで気まずい雰囲気になったのも1度や2度では無かった。  
 昔――と言っても望美にしてみれば1年も経過してはいないが――は、こ  
んなことなど無く、毎日のように自然に色々なことを話せていたのにな、と  
寂しく思う。  
 
 望美は思い出したように自らの肩を抱く。  
――そう言えば、傷の手当もずっと将臣くんがしてくれてたっけ…  
 戦場に治療を出来る者はともかく、女手があるわけではない。  
 そうして冷静に思い起こしてみて、はたと気付く。最初に目が覚めた時に  
上半身は包帯だけで、体には一応夜具は掛けられていたもののそれ以外は身  
に付けてはいなかった。  
 矢を受けた時に着ていた羽織も着物も裂けて血で汚れてしまっていたとい  
うことで、今身に付けているのは将臣が通りがかりの人里で何着か用意して  
くれた、今まで着ていたものと似た、短めの上衣だ。  
――何で今まで忘れてたんだろう  
 考えれば考えるほど恥ずかしさで頭に血が上る。  
――み……見られた…かな……  
 目が覚めてからは勿論自分で隠してはいたが、最初の手当のときは将臣が  
1人でしていたはずだ。今更ながら穴があったら入りたい思いに駆られる。  
 そんなことをしている場合では無いのだが、ちらり、と着物の胸元から自  
分の体を覗く。小さくは無い、けれど取り立てて大きいわけでもなく、形が  
悪いわけでもない、と思っている。けれど、他人に見せれる程素晴らしいプ  
ロポーションなどとは、当然思えるわけでもなく、その姿を見られたかもし  
れないと考えると更に頬が上気する。  
 
 幼い頃は、隣の庭で遊んで泥だらけになったのを、一緒に有川邸のお風呂  
で流したりしていたが、いつ頃からか無邪気な時期は過ぎ、幼なじみの兄弟  
は男に、自分は女にと成長してしまった。無論、男とか女とか関係無く2人  
とは仲良くしていたが、時折昔を懐かしんで自分が女であることを悔しく思  
うことが何度もあった。  
――将臣くん、どう思ったんだろ…  
 兄弟は昔からモテていた、と望美は思っている。2人ともタイプは違うが  
二枚目と言っても周囲から異論は無いとも思っていた。譲は何故か浮いた噂  
が殆ど無かったが、将臣は女友達の噂から、誰々と付き合っているなどと良  
く話を聞いていた。将臣自身も隠すでもなく聞けば答えてくれたが、何故か  
長続きはしないようで、しょっちゅう相手の名前が変わっていた。  
 あの子も付き合ってた1人なのかな? 先日夢に見た将臣のキスシーンが  
頭を過ぎった。何故か将臣は現実でも夢の中でも不機嫌な顔をしていたが、  
あの子も可愛かったな、と思い返す。  
 自分が知っている相手だけでも片手で数える以上いたが、その誰もがカワ  
イイ、綺麗、スタイル良い、などと男子の評判も高く、また中には名前も知  
らない、学生ですらない年上もいたようで、彼女等と比べると自分は見劣り  
するだろうな、と考えて溜息をついた。こちらの世界でも、恋人がいないと  
も限らないのだ、3年もいるならば、と改めて思う。  
 
――ただ傷の手当してくれただけなのに、何てことを考えてるんだろう…  
 幼なじみでの恩人である相手に、やましい想像をしている自分は最悪だ。  
「将臣くん…ごめんね…」  
 座っている膝を強く抱き呟く。  
――ひどいこと考えて。お世話になったのに勝手に逃げ出して…  
 逃げたのは、心配している仲間達のこともあるが、何よりこれ以上迷惑を  
掛けられないと感じたからだった。だが、将臣は当然怒っているだろう。一  
度自分の懐に入れた相手は、最後まで面倒を見ないと気が済まない性格だ。  
 平家の人間は殆ど自分の正体を知らないだろうが、知っている者が0なわ  
けでは無いことは、時折感じる敵意を込めた視線で理解していた。一緒に来  
て欲しいと思わないでは無かったが、今将臣の立場を悪くすることは、彼の  
命も危うくしかねないのも何とは無しに感じてもいた。この世界は。自分達  
のいた平和な世界とは違う。些細なことで、斬り合ったりもするのだ。  
 一度頭を伏せ、強く目を瞑り唇を噛みしめると、今度は勢い良く顔を上げ  
る。  
 こんな所で1人で座り込んでいるから余計なことを考えるんだ、先を急ご  
う、と頭の中身を再度切り替える。良くも悪くも前向きなのが自分なのだと。  
 立ち上がると、何故か体が重くほんの少し眩暈らしきものを感じたが、朝  
方から走り続けた疲れだろうと、足を踏み出した。  
 
「あのバカがっ!」  
 部屋に戻った途端口に出す。徹夜の眠気など吹き飛んでしまった。  
 夜半から昼過ぎの今まで、これから先の隊の道程を話し合いようやく部屋  
にと戻ったらもぬけの空だった。部屋の隅に立てかけて置いた望美の刀も無  
い。単に外に出た位では持ち歩かないことは良くわかっている。  
 それ以前に、望美が近くにいないことは、絶対と断言出来るほど感じてい  
た。  
――今朝から感じてたのはコレかよ!  
 夜が明けたかどうかの時刻から、妙に胸騒ぎを覚えてはいたが、何故なの  
か部屋に戻って理解した。  
 将臣は、自分の左耳に手を触れる。こちらの世界に来た時にいつの間にか  
埋まっていた青い石。水に顔を映すまで気が付かない程、そこにあると言う  
感覚が無かった。取ろうと思って爪を立てても全く効果は無く、どうやら他  
人には見えないようだと気付いたのは随分後だった。  
 彼らと会って、それは八葉の証だと言われた。  
――コレのせいか?  
 白龍の神子と八葉は一緒にいるのが正しいと言われたが、今までは離れた  
からと言って、気持ちはともかくここまで何かを感じたことは無かった。何  
か命に関わることでも起きたか? 命とまで行かなくとも不味いことが?  
悪い方へと考えると不安は大きくなる。  
 
――俺らしくもねぇ  
 髪をかき上げると、大きく息をし外に出る。  
 部下に2〜3日の不在を告げ、先行しているように命じると、何着かの着  
物と厚めの上掛けと食料を用意し馬に飛び乗り、そして確認するように左耳  
の宝玉にもう一度触れる。  
「頼むぞ、あいつの居場所を教えてくれ」  
 呟くと、馬を走らせる。宝玉が熱くなった気がした。  
 女の足と、今のあの体ではそう遠くには行けないことは分かりきっている。  
居場所さえ分かれば、馬ならすぐに追いつけるだろう。  
 
 
 澄んだ笛の音が夜の庭に響く。  
 あの人に聞こえるように、あの人が迷わないように……。  
 願いを込める。  
「…敦盛」  
 呼びかけられた声に、笛の音が止む。  
 ゆっくりと、まだ少年の面影を十分に残した顔を上げると、同じく年若い  
青年が口元に軽薄にも見える笑いを浮かべつつ近寄ってくる。  
「…迷惑、だったか?」  
「いーや別に。まだ宵の口だしな」  
 ヒノエ、と偽りの名前を名乗っている青年は、古い友人の側にくるとその  
場にしゃがんでしまった。  
 
「敦盛、お前知っていたんだろう?」  
 見おろすと、視線は真っ直ぐ前を向き、先ほどまでの笑いも消していた。  
「………」  
「あの男が還内府ってのをさ」  
 敦盛は表情を消したまま黙っている。  
 平家の一員である自分は勿論正体を知っていた。だが、彼の正体とは一体  
何を指すのか? 還内府とは呼ばれてはいるが、彼自身は間違いなく神子の  
友人で、八葉の1人有川譲の兄の有川将臣でしか無いのに。  
「別に責めてるわけじゃ無いさ。お前は誰も傷つけたくなっただけだろうし  
な」  
 押し黙ったまま目を伏せる。  
 昔から、大人しく控えめではあったが、妙に頑固な所も持ち合わせていた  
な、と隣に立っている青年を見上げる。  
 一時、2人とも無言のまま、ただ夜風を受けていた。  
「…私は…、何が正しいのか、間違っているのかわからないのだ…」  
「敦盛?」  
「平家の皆を助けたい、だが怨霊は悲しく空しい存在でしかない」  
「平家はそいつ等を使ってる」  
「神子が彼らを封印する、だからこそ私は神子の側にいる。けれど平氏であ  
る私はどこまで真実を告げれば良いのかわからない」  
 
 怨霊を封印して欲しいと言う自分と、その怨霊を使役している平氏を助け  
たい自分と、神子の側と言う立場上、源氏に身を寄せている自分。矛盾した  
存在と言うならば、将臣と一体何が違うと言うのか。  
 神子に知っている全ての真実告げれば、いつかは同じ八葉である源氏の御  
大将の九郎や、軍奉行である景時に知れるかもしれない。口止めを願えば、  
あの少女はずっと黙っていてくれるだろうが、今度は1人で誰にも言えずに  
苦しむのは目に見えている。  
 どうすれば良かったのだろうか…。  
「なぁ、敦盛。俺はお前が何を隠して何を苦しんでるのかは知らない。けど、  
こうなることは予想出来たんじゃ無いか?」  
 源氏の神子と還内府。お互いに知らず奉り上げられ、お互いに軍の象徴。  
だからこそ言えなかった。親しい様を見て、お互いの立場を告げることが、  
酷く残酷な気がした。  
「遅かれ早かれいずれわかったことだ。傷は浅いうちに手を打つべきだった  
んじゃないのか?」  
 もう手遅れだったかもしれないけどな、敦盛には聞こえないように1人ご  
ちる。  
 
 責める気は無いと言いつつ、つい責める口調になってしまうのは、傷つき  
倒れた少女と、それを抱くあの男の顔を見たからだ。一緒にいたのはほんの  
短い間だったが、戦うにしても何にしても余裕に満ち溢れていたあの男の、  
あれほどまでに焦った顔…。  
 正体を知っていれば、少なくとも少女は仲間の、幼なじみの矢に倒れるこ  
とは無かったろう。  
 再度見上げると、泣きそうな怒ったような顔が見えた。  
「…悪い、言い過ぎたな。俺もお前の立場なら2人に言えるかどうかわかっ  
たもんじゃないしな」  
 冷静に考えると、敦盛自身も己の立場に苦しんでいるのだ。悩んでいたで  
あろう、そして心を痛めているであろう人間に当たり散らすなど、情けない  
にも程がある。  
 ヒノエは立ち上がると、相変わらず無言で俯いてる友人の肩を軽く叩き、  
自室に引き上げようとして数歩進んだ所で思い出したように声を掛けた。  
「そういえば、うちの情報に数年前にお前が病に倒れたってのが入って来た  
んだが元気そうで何よりだ」  
 
 返事を期待しての発言では無かったから、何も言わない敦盛を置いてさっ  
さと歩き去ってしまった。  
 人の気配が去ると、敦盛は笛を持たない左手を持ち上げ、唇を噛む。腕に  
付けた鎖の小さな金属音が耳に突き刺さるようだ。  
――何故…私が…  
 八葉に選ばれたと言うのか? この世の何よりも清らかな存在であるはず  
の龍神の神子を守るべき者。なのに何故この身も心もこれほどまでに穢れて  
いるのか…。  
 望美にも、将臣にも彼ら自身の今の立場を伝えなかったのは本当に彼らを  
思ってのことだったのか? ヒノエの言った通りに結果どうなるか、何故も  
っとしっかり考えなかったのか?  
 握っていた左手を開く。宝玉の埋まってるいる手、神子が疑いも無く触れ、  
握り引いてくれた手。  
 宝玉にそっと口接けをした。  
 
 もうどれだけそうしていただろうか? 木の幹に寄り掛かりながら、立ち  
っぱなしで痺れている足と体を支える。  
 昼間は木漏れ日の差す上天気だと安心して、休みつつも歩き続けたが、日  
も暮れた頃から雨が降りだし今は大降りになってしまった。  
 腰を落ちつけて休むことも出来ず、雨を避けて大木の下に入ったまま、か  
なりの時間が経過している。  
「不味い、よね、やっぱり…山小屋とか無いのかな…?」  
 力が入らない体に気力を振り絞ろうと、自然に独り言が多くなっていた。  
 望美は刀を抱きしめ天を仰ぐ。雨は弱まる気配すら無い。  
 体調も良くない、と言うかまた熱が出てると言うのは自覚してるが、自分  
の額に手を当てる勇気も湧いてこない。  
「寒…」  
 ふるりと全身を揺さぶるような冷たさが走り、強く自分を抱きしめる  
「歩いた方が良いのかな…」  
 このままこうしていても、やがて座り込んでしまう、そうだとしたら濡れ  
ても歩いた方がまだ休める場所が見つかるかもしれない。けれど、雨の中を、  
この体で歩けるだろうか?  
 もう一度胸に刀を強く抱くと一歩足を出し体重を掛ける。途端、ぐらり、  
と体が傾いだ。  
 倒れる体を無理矢理元の体勢に戻す。  
 
「ダメ…? なんで? どうしてよ!!」  
 一時的なパニックに癇癪を起こしているが、その勢いに任せて大木に手を  
打ちつけても、力無く止まるだけでただ体に負担が掛かるだけだった。  
 高ぶった感情と悔しさに涙が堪えられずいつの間にか嗚咽がこぼれていた。  
両腕を顔にかざし、落ち着くまでそのまま泣くままに任せる。  
 知らず、今まで心に溜まっていたものも流れるような気がしていた。  
 こんな時ではあるが、1人になれて、ようやく感情を爆発させることが出  
来たのかもかもしれないのだと気付く。仲間に囲まれて過ごすことがいやな  
わけではない。勿論仲間の誰1人嫌いなわけでは無い。むしろ、みんなが側  
にいてくれることが嬉しかった。  
 けれど、時折叫びたくなるときもあったのも確かだ。自分は普通のそこい  
らにいる女子高生なだけだ、と。両親がいて、学校に通い、勉強をしたり、  
部活をしたり、友達と遊んだり、受験の心配をしたり…そんな日常を送るだ  
けの存在だと。  
 言えるはずも無い。そんなことを言ったら、一緒にこの世界に飛ばされた  
譲や3年も過ごした将臣の立場はどうなると言うのか。自分の為に八葉に選  
ばれた仲間達の存在は? 同じ神子として親切にしてくれる朔は? そして  
白龍は?。そうした、時折、本当に時折不意にホンの少しだけ自分の心の中  
に出来るモヤが、いつの間にか澱のようになっていたものが、思いきり涙を  
流すことで、スッキリしていた。  
 落ち着くと、もう一度白龍の刀を強く抱きしめる。  
 
――情けない…泣くだけで1人じゃ何にも出来ないんだ…  
 泣くだけ泣いたら、不甲斐ない自分に腹が立った。  
「自業自得なのに、何やってるんだろ……」  
 泣いたり、怒ったりと情緒不安定に加え、先ほどから何度か眩暈が襲って  
来ている状態に、なけなしの気力を使いきった気がしている。  
 このまま座ってしまおうか? 服も濡れるし汚れるし、座ったら更に寒い  
だろうが、この程度なら死にはしない。  
 そう思った途端、全身から力が抜けていた。ズルズルと体が下に落ちてい  
くのを他人事のように感じていた。  
 
 
 山へと入った途端、雨が降りだした。最初は大したことは無い思ったが、  
どんどん雨足が早くなっていた。  
「不味いな。ったく、こんな小さな山でさえ『山の天気かよ』」  
 将臣はぼやきつつ、馬を山小屋へ急がせる。獣の革をなめしたものに包ん  
でいるとは言え、荷物がいつ水びたしになるとも限らない。望美を見つけた  
は良いが、万が一の場合に対応出来なければ意味が無い。  
 
 暫く走らせると、目的地が見えてきた。里の者に聞いた時に言われた通り  
小さい小屋だったが、造りはしっかりしており、ご丁寧に馬を留めておける  
大きな庇も付いていた。  
 乗ってきた馬を繋ぐと荷を降ろし、小屋の中に入る。  
 荷を解き、着ていた鎧を脱ぎ持ってきた着物に素早く着替える。身を守る  
には良いが、雨に濡れた鎧で、更にこの雨の中を歩き回るのは体が重くなる  
だけで効率が悪い。  
 着替えると、荷を包んでいた革布と飲み水だけを持ち外へ飛び出した。  
 先ほどから、左耳が火傷するような熱さを感じさせていた。近いのだとわ  
かる。  
――なのに結構冷静だよな、俺は  
 心配は心配だが、宝玉を感じると言うことは、まだ望美は無事なのだと、  
少なくとも生きてはいるのだと確信を持っている。  
 この世界、人は簡単に死ぬ。戦は勿論のこと、医療の発達した元の世界と  
違い、ちょっとした怪我や病気などで簡単に命は失われる。だからこそ、生  
きていると感じるだけで、随分と安心出来ている。  
 一番の心配は体調もあるが、何よりも夜盗の集団だ。人気のない山奥など、  
彼らの住処としては丁度良いのだ。そんな中を10代の娘などが1人で分け  
行ったなら一体どうなるか。夜盗なんて言うのは大抵が女に飢えている。身  
ぐるみ剥がされるだけでなく、陵辱の限りを尽くされるだろう。  
 
 が、いくら何でもこの天気では、もし夜盗がこの山にいたとしても、動き  
出すとも思えない。  
 とは言え、早急に見つけなければ手遅れになる可能性も無きにしも否ずで  
ある。  
 奥まった山道とこの雨では、いくら3年の間に乗り慣れたとは言え、馬で  
周るのは無理だろう。そう判断するやいなや、革布を頭の上から掛けると、  
感じる方へと、いると確信をもてる方へ駆け出した。  
 
 
 ゆっくりと沈む体をどこか遠くに感じている。同時に意識も沈みつつあり、  
自分の置かれている状況も忘れて、その引きずられる感覚に身を委ねていた。  
 そのまま重力に逆らうこと無く地面に尻を付き冷たい思いを味わう……は  
ずがいきなり何か力強いものに支えられる。  
――…熱…い……  
 支えたものから、冷えた体に痺れるような温かさが伝わる。  
 ふわり、と自分の体が持ち上がり何かに包まれるような感覚があったが、そ  
のまま、意識だけは闇へと吸い込まれていった。  
 
 
 探している人物は大木に寄り掛かっていた。  
 雨で視界がくもり、ぬかるんだ地面に足をとられつつも、暫く獣道を走り  
続けると、道から外れた、奥まった暗闇から白い物が視界に入った。  
 山小屋への道筋を確認しつつ、その白い物へと近付いていくと、それはや  
はり見慣れた、高校の女子制服のスカートだった。  
 汚れが目立つとあまり好かれていなかったようだが、この異世界でこんな  
形で役に立つとは……思わず笑みがこぼれそうになる。  
 が、スカートの持ち主の様子がおかしいことに気付く。  
 上半身をぐったりと背後の木に持たれ掛けているが、足下はガクガクと今  
にも崩れ落ちそうだった。放っておけば、泥にまみれてしまうだろう。  
――クソッ  
 舌打ちすると、駆け出していた。  
 
 間一髪、少女の細い体を支え、そのまま抱き上げる。  
 体は冷え切っているのに、触れた額と荒く吐く息はかなりの熱さだった。  
大木の下にいた為に着ていた着物が濡れていないのが救いだが、ゆっくりし  
ていては、更に症状が重くなるだけだろう。  
 雨避けの革布をもう一度、抱いた少女が濡れないように深く被ると、山小  
屋へと急いだ。  
 足を動かしつつ、胸の少女を確かめるように強く抱く。  
 軽い、と思った。先日連れ帰った時も、更にその前に滝に落ちそうな体を  
抱き留めた時も同じことが頭を過ぎったことを思い出した。自分が記憶して  
いるよりも小柄に感じるのは錯覚だろうか?  
 
 元来た道を引き返し、小屋に飛び込むと望美を寝かせ囲炉裏に火を付ける。  
 何とは無しに嫌な予感がし、薪を確認すると残りが少なかった。念のため  
にと、馬に玄関先に置いてあった飼い葉を与えるついでに山小屋の裏手を覗  
いたが、予備の薪は庇の外に置いてあり雨に濡れていた。  
「…さて…どうするか…」  
 雨は暫く止みそうになく、残りの薪の量は止むまで保つかもわからない。  
「…あー…何か昔読んだ漫画か何かにあったよな、こういう状況…雪山で遭  
難ってのがセオリーだったっけか」  
 小屋の中に入り天上を見上げ呟く。まさかこの世界でこんなベタな展開に  
なるとはな、などと気を紛らわせつつ、上着を脱ぐ。雨避けをしていたとは  
いえ全く濡れていないわけではない。それは当然胸に抱いていた望美も例外  
ではなく、荒い息をし横たわっていた体を抱えると上の着物とソックスを脱  
がせ、薄手の小袖とスカート姿にする。  
 そのまま、冷たい体を自分の胸に抱き寄せると、持って来ていた厚めの上  
掛けで2人の体を包む。  
 暫くは、こちらの体温が奪われるのでは無いかと思うほどだったが、徐々  
に少女の体も温まり、それに安心したせいか、疲労と睡眠不足がどっと体に  
押し寄せてくるようだった。  
 
 望美は声を上げそうになって口を自分の手で塞いだ。驚きが去ると今度は  
心臓の鼓動が早くなる。  
――何で…どうして将臣くんが…  
 外にいるはずなのに、雨に濡れた地面に座り込んでるはずなのに、何故か  
体があったかくなり、気持ちよくなって、その温かさに身を委ねていたとこ  
ろ、やがて冷静なもう1人の自分が何かおかしいと言った途端、目が覚めた。  
 覚めて自分が温かい何かに頬を擦り寄せているのに気がついた。まだ覚め  
切らぬ頭をゆっくり上げると、視線のホンの間近に見知った男の寝顔にぶつ  
かったのだ。そこで完全に覚醒した。  
 状況がわからずパニックに陥りそうな自分を心の中で宥めると、頭の中で  
わかることだけでも整理する。  
――…具合悪くなって、雨が降ってきて動けなくなっちゃって…それで座り  
込んじゃうところを……何かに抱え上げられたんだっけ…  
 あの時の、自分を捉えた熱さを思い出す。  
「…あれは将臣くんだったんだ」  
 呟き、眠る青年の頬に手を触れる。寝息を立てたまま起きる気配は無い。  
 そっと上掛けの中の自分を確認する。上に来ていた着物は脱がされていた  
が、中の小袖とスカートはそのままで、けれど、しっかりと両腕で抱  
きしめられているため、体は将臣のはだけた胸元に密着している。  
――と、取りあえず、起こさないように離れよう  
 このまま抱かれているのは、恥ずかしくてどうにも落ち着かなかった。  
 将臣くんは、お隣さんで幼なじみで兄妹みたいなもんだし、口は悪いけど  
優しいから、こうやって気遣ってくれるんだ、などと心の中で自分に言い聞  
かせながら身じろぎする。  
 
 このままでは、自分の方がおかしくなって、とんでもない行動に出かねな  
い。変に期待を持つことは出来なかった。夢に見たあの光景が思い出される。  
あんな目で自分が将臣に見られたら、みじめで泣き出してしまうだろう。  
 そう思うと、一刻も早くこの状況から脱したかった。  
 雨が降り続く音が耳を打つ今は、外に逃げ出すこともできないが、この体  
だけでも引き離したいと思った。  
 自分のことを、かつての友人達や九郎と白龍を除く今の仲間達が、恋愛面  
においてかなりの鈍さを誇ると認識していることなど、望美自身は全く知ら  
ない。  
 少し大きく体を動かしたとき、2人を覆っていた上掛けが肩から滑り落ち  
た。  
「あ……!」  
 落ちた上掛けに手を伸ばそうとした瞬間、深い溜息が聞こえ、ビクリと反  
応してしまった。  
「さっきから何やってんだ、お前は」  
 呆れたように、耳元で囁く低い掠れた声に、自分の中の何かがかき乱され  
るような気がして慌ててその声から遠ざかろうと、ほんの少しだが体を離す。  
上掛けが落ちているせいもあり、温まっていた体に小屋の中とは言え冷気が  
染みるようだった。  
「ご、ごめん。上掛け、返す、ね。も、もう、だいじょぶだから」  
 しどろもどろになりながら言うと、更に体を浮かそうとする。  
 が、逃げだそうとした体を再度深く抱きしめられ、素早く上掛けまで巻き  
付けられてしまった。  
 
「ま…将臣くん…」  
「おとなしくしてろ、寒いだろうが」  
「…いや、だから、ね」  
 どうにかしたいのに、言葉がちゃんと紡げない。  
「うるせ。徹夜で眠いんだ、黙って寝せろっての」  
 もう一度腕の中の望美の体を強く抱くと、将臣はさっさと目を瞑りすぐに  
寝息を立てはじめてしまった。  
――信じらんない…  
 こんな状態でまた眠れるわけないのに。暫く思考自体がぐるぐると頭の中  
で回っていたが、やがて望美も眠りに落ちていった。  
 
 
 眠りから覚めたのは、朝も過ぎ昼近くになる頃だった。雨は既に止んでい  
た。  
 望美に大体の時間を教えてくれたのは将臣で、数年いた間に太陽の傾きで  
わかるようになったと言うことだ。  
 起きてすぐに、今回の無謀な逃亡劇を当然のことながら怒られた。自分や  
譲に対してはあまり声を荒げたことが無かったので、本気で怒っているのだ  
と理解したし、悪いのは自分で、しかもかなりの迷惑掛けた自覚もあるので、  
素直に聞いたし謝罪もした。  
 しかし、一点だけどうにも納得いかないものがあった。夜盗に襲われたら  
どうすると言われても、お金など殆ど持ってそうにない小娘である自分が、  
怨霊ならともかく、そんな金品を狙う連中にそもそも襲われるのかと疑問に  
思い反論すると、流石に将臣が頭を抱えた。  
 
――天然なのにも程があんだろ…  
 何だか自分は最近溜息が多いな、と思う。基本的にあまり深く考えないし、  
何とかなるで何とかやって来たし、悩むよりも先に行動するのを身上にして  
きたのに、望美、と言うより自分の気持ちに振り回されている気がする。口  
にも態度に勿論出さないが、一つ下の弟の気持ちが今なら良く理解できた。  
 自分が望美に抱いてる思いを知ったら、この少女はどう思うのだろうか?  
男女の生々しい部分は知識では知っていても、それが自分に当てはまるなど  
思ってもいないように見える。むしろ、そういうことを避けている、元の世  
界では今では珍しい、青い潔癖さがあるように感じていた。自分に対しての  
想いはまだそういったことを求める段階までは行っては無いのだとも。  
 そういう面で信頼しているであろう人間が、自分に対してその避けている  
部分を知らしめたら一体どうするだろうか? そして自分ががそれを実行に  
移すことをこそ望んでいるというのが、更に溜息を深くさせる。  
 残り少ない薪を囲炉裏に投じ、持ってきていた携帯食で食事を取りながら、  
何か忘れているのではないか? と思った。  
 そして、はたとその忘れていたことに気が付く。  
「…望美、食い終わったら傷を見せろ」  
 動けるようになっただけで、無茶をすれば昨日のように熱を出す。下手を  
すれば傷が裂けたり、化膿して酷い状態にもなる。  
「う…うん…でも大丈夫だよ…?」  
「ダメだ」  
「……わかった」  
 呟くように言った少女の頬が心なしか赤く染まっていた。  
 
 ウソだった。本当は、ずっと鈍い痛みがあったが、将臣には見せたくはな  
かった。昨日1人でいたときに思ったことが頭を過ぎって仕方ない。ここ数  
日毎日のように見られていたが、改めて意識すると視線が気になってどうし  
ようもなかった。  
――将臣くんはきっと何とも思って無いのに、私ばっかりこんなこと考えて  
ちゃダメだ。夕べのことだって薪が少なかっただけなんだし  
 食事が済むと、意を決して将臣に背を向け、帯を外し肩から背にかけてを  
露出する。  
 将臣は新しい包帯を用意し、晒された背に向き直り息を飲む。  
 巻いていた包帯に赤い血が滲んでいた。  
――まさか傷が広がったか?  
「将臣くん?」  
「黙ってろ」  
 訝しげに顔を向かせる少女に言葉を掛けると、巻いてある包帯を外し傷薬  
を塗った布を取り、確かめるように傷に触れる。  
「…う…くぅ…」  
 鈍い痛みの場所に触れられ、それが刺すような痛みに変わり、思わず声を  
出してしまう。  
「痛いのは当然だ」  
「ごめん…なさい…」  
 痛みを堪え、謝罪の言葉を放ちながら、肌…正確には傷だろうが、それに  
感じる視線に体が熱くなる気がした。頬が熱くなる。  
――何考えてるのよ! 私のバカ!!  
 確認する指先を感じて、はだけた着物を胸元で強く抱く。  
 
「傷、広がっちゃいないがまた血が出てるな。ったく、折角塞がったっての  
に」  
 将臣はゆっくりと傷口をなぞると、傷口の周囲の血を拭き取る。  
 先ほどから、触れる体がかすかに震えてるのが伝わってきている。白い肌  
が上気し、艶かしさすら感じ、体の内側から欲がせり上がってくるのを理性  
で抑えつけていた。  
 食事前に思ったこととは正反対に、今は何があったのか自分を意識されて  
いるのが如実にわかる。が、何故今になって? 検討もつかなかった。こち  
らの思いを気取られるような素振りは見せていない。  
 気を紛らわすように息を吐き、薬剤を塗り付けた塗布を傷に被せる。  
「…つっ…!」  
「悪い、強く押したか?」  
「ううん、痛かったんじゃなくて冷たかったの。紛らわしくてゴメン」  
 心配かけさせまいとしてか、背後に顔を向け微笑む。  
 その、困ったような申し訳ないような笑顔に、心臓が大きく鳴った気がし  
た。  
――不味い…っ…!  
 抑えつけていた想いが今にも暴れ出しそうで、理性がギシリと軋みを上げ  
ている。  
「…前を…向いてろ…」  
「…? …う、うん」  
 もう一度深呼吸をし、きつくなりすぎないように注意して少女の体に包帯  
を巻いていく。  
 包帯を巻く手に、柔肌が何度も触れる。筋肉などさほど無い、この体で、  
大の男の剣さえ受ける刀を振るうなど考えられなかった。  
 
「いいぞ」  
 包帯を巻き終わり、ぽんと軽く傷のない方の腕を叩くと、望美は乱れた着  
物も直さずに向き直り、笑顔を向ける。  
「ありがとう」  
 あれほどこちらを意識しておきながら、何故こうも無頓着な態度を取れる  
のだろうか?  
 ……何かが壊れる音がした……。  
 ドン、と大きな音がして、自分の体が壁に押しつけられるのを望美は感じ  
た。  
 今包帯を巻き直して貰った傷が衝撃に痛みを訴える。が、苦鳴は出なかっ  
た。いや、出せなかった。  
 声を出すはずの口は、唇は、塞がれてしまっていた。  
 息を飲むことすら出来ない、噛み付くような乱暴な口接け。抵抗する前に  
強引に口を割られ、舌が嬲る。  
「ん…んう…う…」  
 抵抗しようと試みても、言葉は勿論発せず、両手は同じく将臣の両手によ  
って壁に押さえつけられている。  
 自分の舌が、引きずり出され相手の舌に絡みつかれ良いように蹂躙されて  
いる。息苦しさと理解出来ない感じに眩暈がしていた。体の奥の何かが熱く  
なるような気がしている。  
 
 決して嫌悪感があるわけでは無かったが、将臣が何を考えているのかわか  
らず混乱しているまま流されていた。  
 きつい強引な口接けと息苦しさ、理解できない自分と将臣の感情、そして  
今はまだわからない体の疼きに、いつしか涙が零れ落ちていた。  
 ふ、と自分を押さえつけていた力が抜け、唇も解放される。  
 涙目になりながら自分に影を落とす相手を見上げると、顔を背け苦しげな  
顔とぶつかる。  
「…クソッ」  
 小さく、けれど酷く辛そうに呟くと、将臣は望美を見ないように背を向け  
立ち上がり、小屋から出ようとする。  
 何か声を掛けなければと思い、けれど何の言葉も見つからずにいると、扉  
を閉める前に声を掛けられた。  
「さっさと服を着ろ」  
 自分の体を見おろすと、はだけて乱れた胸元から、胸の谷間だけでなく、  
白い隆起も半ばまで覗いていた。  
 悲鳴も無く、自分の体を抱きしめる。  
 知らずに嗚咽が洩れ、再び涙が落ちていた。  
 自分が何故泣いてるのかすら、わからなかった……。  
 

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