敦盛を失った望美は見るに忍びなかった。  
日の映る、月の映るをとわない海に、笛の音が聞こえたといっては浜辺をさまよう。  
かつて、敦盛と望美は、小鳥のつがいのように微笑ましく、小さく可愛らしい恋を育んでいた。  
その日々がみる影もない。  
敦盛が穢れの大竜巻に消えたのは厳島の海だった。  
望美を海からひきはがそうとしても、強く抵抗されて、いらぬ怪我をさせてしまう。  
浜辺を歩きぬいて気力を使い果たし、砂に埋もれるようにして眠っているところを抱き上げるのが、せいぜい残された八葉に出来ることだった。  
そんな明日の見えない日々に、果てが来た。  
敦盛が帰ってきたのだ。  
朝日さす中、疲れ果てて眠る望美を抱きかかえ、消えたときと変わりない姿で現れた。  
いったい何があったのか、と聞く仲間たちには敦盛は一切答えなかった。  
ただ、彼は砂にすりきれた望美の頬を撫で、神子と共に住まうことを強く欲した。  
 
 
※ ※ ※  
 
 
「そちらではありません。こっちですよヒノエ」  
 
道の先を歩いていたヒノエは不機嫌そうに、弁慶を振り返った。  
黒い袈裟姿が立ち止まる場所までしぶしぶヒノエが戻ると、そこにはうっすらと分かれ道があった。  
熊野の山々にも、こんなに分かりづらいけもの道はない。  
 
「敦盛と神子姫も辺鄙なところに住んでるよな」  
 
弁慶は、歯に衣きせぬ甥を振り返って、唇に人差し指を当ててみせた。  
ヒノエは不服にまかせて鼻を鳴らすものの、たしかに、とひそかに心中で同意した。  
ここはあまりに静か過ぎて、囁き声すらも山を越えそうだ。  
洛外。竹林に隠れるようにしてひっそりと敦盛と望美の住まいがあるのだという。  
ヒノエが訪ねるのは、これが初めてだった。  
 
「なぁ、あんたがオレをわざわざ呼んだ理由、まだ聞いてなかったな」  
 
ヒノエが熊野本宮で別当職に明け暮れていたある日、叔父から文が届いた。  
望美に関する緊急の用事でヒノエの助力が必要だというから、こうして京くんだりまでやって来た。  
呼びつけておいた張本人である弁慶の口は何故か重かった。  
普段穏やかながらもはっきりと物事を言う彼にしては珍しく、歯切れが悪い。  
目的地に限りなく近づいた今、ここで答えを聞けるだろう、とヒノエは思っていた。  
 
「君は、望美さんをどう思いますか?」  
「聞くまでもないだろ、はぐらかすなよ」  
「いえ、この質問は真理ですよ。君の望美さんへの思いが本物でなければ、彼女を助けることなど出来ない」  
 
ヒノエが足を止めると、ようやく弁慶が振り返った。逆光でその表情が見えない。  
 
「難しい事態になるかもしれない。ことによっては望美さんの身を君に預けることになるやもしれません」  
「それってどういう意味だ?望美は敦盛との生活に問題を抱えてんのかよ」  
 
弁慶はそれきり何も言わなかった。  
苛ついたヒノエがいくら追求を浴びせても、彼は下草を踏んで先を進むのみだ。  
錆の浮いたような色の住処が見えてきた。  
質素だが暮らしやすそうな住まいだった。この家のどこに不穏を感じられるだろう。  
 
 
※ ※ ※  
 
 
「弁慶さん、また来てくれたんですか。 それにヒノエくんも!」  
 
ぱっと、望美が厨から出てきた。  
煮炊きの途中だったのか、手を布巾でぬぐいつつ駆け寄る。  
側まで来ると炊ぎのいい匂いがした。  
おそらく先程まであたたかな湯気の中にいただろう望美は、敦盛がいなかった頃を微塵も感じさせない笑顔をしている。  
 
「こんにちは、望美さん」  
 
弁慶はいつもの一分の隙もない微笑で望美に応じた。  
ヒノエはひそかに嘆息する。この叔父の気安い様子だと、どうやら、頻繁にこの家を訪れているようだ。  
 
「今日は、敦盛君に話があって来ました」  
 
望美は返事の前ににっこりと笑った。ヒノエは望美の表情にかすかな違和感を覚えるが、その正体は分からない。  
 
「どうぞ。敦盛さんは奥にいますからあがってください」  
 
促しつつ、望美はヒノエと弁慶の間をすり抜けて、家に入った。  
後へ続くと、奥の板敷きに敦盛が居た。  
来客を悟って、閉じていた敦盛の目が静かにひらく。  
彼が立ち上がる衣擦れの音さえ涼しげにきこえるのは、所作がこのうえなく柔らかいためだろうか。  
 
「じゃあ私、ごはん作ってる途中なので失礼します。あっ、敦盛さん、お茶を用意しますね」  
 
敦盛が頷くと、花顔で咲きほころぶように笑って望美は去った。  
 
「なにか生活に不足しているものはありませんか? 僕でよければ用立てますよ」  
 
出迎えた小柄な家主に、弁慶が微笑みかけた。  
 
「弁慶殿、お久しぶりです」  
 
答えた敦盛は、ちらりと弁慶の後ろにいるヒノエを見遣るが、すぐに視線を戻す。  
 
「久しぶりに会ったってのに、オレには随分冷たい反応だな」  
 
ヒノエは皮肉げに笑い、呆れたふりをしてみせた。  
そうすれば、敦盛はいつものように微笑をかえすだろうと思っていた。  
 
「そうではない。少し驚いただけだ」  
 
しかし、敦盛は表情を崩さなかった。  
すっと、ヒノエは目を細める。何かある。  
それはかすかな猜疑心だったが、まずヒノエ自身が驚いていた。  
ごくわずかとはいえ、あの敦盛を警戒してしまうなど。  
 
「敦盛君、望美さんの顔色が少々良くないようですね」  
「神子が?そうだろうか」  
「いいえ。分かりづらい症状ですが、太陽の下で見るとよく分かります」  
 
ヒノエはもはや殆ど勘で断定する。  
先程の敦盛に対しての違和感は、この弁慶の唐突な申し出に関連性の深いものだ、と。  
 
「失礼ですが、敦盛君の視力はやはり厳密にはひととは違うようですね。  
夜目はきいても、望美さんの病の色は見つけられないのかもしれません」  
「おい、弁慶」  
 
思わずヒノエはとがめるような声を出す。  
確かに、やけつくような真昼の光を好まない敦盛は、影ひとつない光の中で望美を見ることはないのかもしれない。  
しかし、だからといって弁慶の今の言いようは、怨霊である敦盛に対しての配慮に欠けている。  
温厚な弁慶にあるまじき無神経さだ。かりそめの命の己が身を、敦盛がいかに深く理解しているか、知らぬわけでもあるまい。  
 
「僕が望美さんを診ましょうか?」  
 
しかし、確かに望美は本来この世界の人間ではない。  
先の戦のあいだ約一年は、望美はどうにか無事に過ごすことができたようだが、  
慣れぬ生活習慣の中に長く身を置けば置くほど、体に影響は現れるかもしれない。  
それを知らない者はこの場にいない。  
 
「頼みます。必要なものがあれば、この家のものを好きに使ってくれてかまわない」  
 
敦盛の協力的な返事を貰うなり、弁慶は望美のいる厨へと足を向けた。  
 
「弁慶殿、あなたを信頼している」  
 
かけられた声に、袈裟姿が止まる。  
 
「あなたにこんな杞憂を言うのも憚られるが、くれぐれも神子を慎重に扱って欲しい。繊細なひとだから」  
 
ヒノエにも分かる。これは、敦盛の本心だ。  
再会してより、ヒノエの記憶の中にある姿と徐々にずれが生じている敦盛だが、これだけは本心だと分かった。  
 
「あ…、お茶は?」  
 
盆に器をのせてやってきた望美が、誰一人円座に落ち着いていないのを見て怪訝な顔をした。  
弁慶は口には出さず、ゆっくりと敦盛に首肯してみせた。  
 
 
※ ※ ※  
 
 
「敦盛さん、いつ戻ってくるのかな?」  
 
食事を終えた器をそっと置いて、望美はため息をついた。  
望美に食事をすすめられ、昼餉に集うのはヒノエと弁慶だけで、敦盛の姿はない。  
彼は食事をとらない事が多いようだ。  
日差しの弱いうちに出かけてくると言い置いて、敦盛は留守をヒノエと弁慶に任せた。  
望美のために川魚や山菜を採るのだろう。慎ましいながらも不足のない生活だった。  
 
「心配いりませんよ。君の診療がおわる頃には帰ってきます。彼がそう言っていましたよ」  
 
とうに食事を終えていた弁慶が、居住まいを正す。  
それを見た望美は、しぶしぶといったように弁慶に腕を差し出した。  
過去に幾度か弁慶の治療を受けているので、一番最初に脈をはかることを知っていたのだろう。  
 
「変なの。私どこも悪くないですよ」  
 
望美が言い終わるか終わらないかのうちに、弁慶はその腕を掴むと強く引いた。  
 
「あっ…!」  
 
勢い良く床に投げ出された望美を包み込むようにして、弁慶がその上に覆いかぶさる。  
組み敷いた望美の脚に己が足を絡める。  
弁慶の肩からのぞく茫然とした望美の表情を見て、ヒノエは我に返った。  
 
「おい、アンタ何やってんだよ!」  
 
黒い袈裟を掴んで引き剥がし、そのまま制裁を食らわせようと手をあげた。  
しかし弁慶はヒノエの固めた拳を見るでもなく、望美を注視している。  
いやに重い咳が聞こえて、ヒノエも反射的に首をめぐらせた。  
望美が口元を両手で押さえて、胎児のように背を丸めて痙攣していた。  
えずいているようだが、あきらかに尋常ではない。  
男に押し倒されたことは少女にとっては確かに衝撃だったろうが、果たしてここまで過敏になるものだろうか。  
 
「う、っ…」  
「望美…!」  
 
慌てたヒノエは望美の背をさすってやった。  
望美の細い首の、さらにか細い気道を通る呼吸は壊れた音がした。息をするのもつらそうだった。  
 
「これでも君は、自分がどこも悪くしてない、というんですか?」  
「弁慶、てめぇ、何を知ってやがる」  
 
そして、なぜ自分をここに連れてきた。  
あくまで飄々としているように見える弁慶の胸倉を、今度こそヒノエは掴んだ。  
 
「それをこれから望美さんに聞くんです」  
「アンタの言う事はいちいち要領を得ない。いい加減説明してもらおうか」  
 
ヒノエを押しのけるようにして、弁慶は冷静に望美を助け起こした。  
 
「望美さん。つらいでしょうが、君たちにいったい何があったのか、話してくれますか。君は応龍を復活させた。力になりたいんです」  
 
望美の呼吸は収まっていたが、いつまでたっても彼女は口を開かなかった。  
ひどい仕打ちをした弁慶を恨みがましそうに見るでもなく、ただいたたまれないように自分の体を抱いていた。  
もはや、ヒノエがその背をさすろうとして伸ばす手にも、過剰に怯える。  
 
「先日、君たちを訪ねた夜のことを思い出しますよ」  
 
ぽつりと弁慶が言った。  
どうやらそれは、この停滞した状況を一変させるような重要な一言だったようだ。  
望美がびくりとそびやかした肩を見て、ヒノエは理解した。  
 
「敦盛君は、なぜ君にあんなひどい事を言っていたんでしょうね」  
「見ていたんですか、弁慶さん」  
 
ヒノエは、その弁慶の一言で大体のいきさつを把握した。  
頻繁にこの家を訪れる弁慶は、偶然か故意かを別にして、前回ここに来た際に、敦盛の「その一言」を聞いたようだ。  
おそらく、それが弁慶の動機だった。  
こうして弁慶が望美に対して強引な行動に出るほど、敦盛の言葉は「ひどかった」のだろう。  
 
「信じられない。帰ったふりして聞いてるなんて」  
 
望美はあまりの仕打ちに、まなじりに光るものをにじませた。  
 
「話しますから、もう…こんなひどい事しないで」  
 
ヒノエは思わず息をのんだ。  
いやに、望美が熱っぽい。  
しないで、と乞う望美の声が、言葉とは逆のことを欲している気がしてならない。もっと虐めて欲しい、と。  
憐憫をにじませておとなしく隷従している。望美の被虐的な潤んだ目に、釘付けになる。  
流石の弁慶も、言葉を失っている様子だった。  
望美はやがてゆっくりと口を開く。その内容はヒノエにとって衝撃的なものだった。  
 
「私…、敦盛さん以外の人に、わたし……」  
 

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