翡翠が大事な交易と、海賊に必要な政治的地盤固め(要するに縄張りの確認)のために  
船出したその日、花梨は塗込から出てくることはなかった。瞼が腫れているのを誰にも  
見られたくなかった事もあったが、何より狭霧に会いたくなかったのだ。自分たちの痴話  
げんかに巻き込んだ形であんな…あんな……  
と、そこでいったん花梨の思考はフリーズする。  
 
 ……少し冷静になった所でまた考える。  
 
(謝るべき? ………………………… … … … … ‥ ・  
 いや、いや、いや、そしたらあの場に私が居たのバレちゃうよ  
 ……って言うか、あの状況って誰にも知られたくないよね? 普通?)  
 
(――だけどさ、このまま知らんぷりでいいのかな? …… … …  
 あーもう! 翡翠さんが悪いのにっ! なんで私が悩まなきゃいけないの?  
 そもそも、那智くんも那智くんだよね。自分の許嫁だよ? …なのに…………)  
 
「――――悔しかった……だろうな」  
 
 ぽつりと零れた言葉にまた涙が浮かびそうになる。花梨は自分の頬を両手でぴしゃりと  
叩くと明かりの差す連子窓を見上げた。  
 
(もうっ! 翡翠さんのバカ!バカ!バカ!)  
 
「――なんか変だったよね……翡翠さん…………どうして何も言ってくれないんだろう……」  
 
 花梨はぱたんと床に倒れ込んで、時折床の上をごろごろと転がってみる。  
「翡翠さんのバカ」と心の中で思う回数分転がって、その先に翡翠が脱いだ衣を見つけ、  
手に取って抱きしめる。  
 
(翡翠さんの匂いだぁ…………… … はっ! ダメダメ! 私は怒ってるのっ!)  
 
 そしてまたごろごろ。  
 
(いつまでもこうしてても…しょうがないよね……。だけど……)  
 
 
 そうして花梨が塗込でごろごろしている頃、船の上では翡翠が船首に立ち、腕を組み  
長い髪を潮風に揺らしながら物憂げな様子で溜息を吐いていた。  
 それを見ている鳶は、お頭〜言わんこっちゃない……と心底思っていた。  
 出発前に姿を現した翡翠の頬に、赤い引っ掻き傷を見つけ嫌な予感がしていたのだ。  
 
(今のお頭の事だから浮気がばれて引っ掻かれたってこたぁ無ぇだろうから……  
 やり過ぎちまって怒らせたってとこか? しかし、ありゃあ相当怒らしたな)  
(奥方が郷に帰っちまうのが心配であんな手配するくれぇならハナっからやらなきゃ  
 いいだろうに………尤もそうさせちまうモノがあの奥方にはあんのか……)  
 
 “あの”翡翠を狂喜させたりここまで落ち込ませたりするのは世界広しと言えども  
花梨しか居るまい。鳶は『魔性の女』という言葉を思い浮かべてぶるりと身を震わせた。  
 
 鳶には翡翠の他にもうひとつ気がかりがあった。那智の事である。元々那智は翡翠に  
心酔していて翡翠の傍に寄る時は緊張をにじませた憧れの目で見上げていたものだが、  
今日は何かが違う。憧れや尊敬、そんなものが剥がれ落ちたというのでもない、こう…  
何か……言うなれば別の種類の緊張が漂うような、そんな感じがするのである。  
 
「ふぅ……まったく次から次へと余計な心配ばかり増えやがる……」  
 
 
 時化の前のような重い空気を乗せて進む船に、翌朝届いた報告の文は当事者達に  
反して簡単明瞭だった。  
――花梨様  塗込にお籠り 何もされず  朝餉、夕餉とも半分残されました  
 
 さて、報告の文を期待と不安を込めて見ていた翡翠が顔をあげる。  
あの短い文を、よくもまぁあれだけ長々と見つめていられるなと思っていた鳶は、  
突然翡翠と目線が合って少したじろいだ。そんな鳶のことなど気にもかけずに  
翡翠がつぶやく。  
 
「塗込に籠って、朝餉も夕餉も残してしまうなんて具合でも悪いのだろうか……  
 それとも、私の事が気鬱で……?」  
「お頭ぁ。それ、いっつもじゃねぇですか! 酷い時は奥方、水しか飲めねぇでしょ!」  
「……! そうかい? でも昨日はちゃんと立って見送って…………」  
 
 そこで翡翠は昨日の花梨の様子を思い出し、またも黙り込んでしまう。  
「見送るなんざぁ奥方もずいぶんしっかりしなすったじゃねぇですか」と言おうと  
していた鳶は翡翠の様子に口を噤み、仕方ないというふうに、ふーと溜息を吐いた。  
 その音に気付いたのか翡翠が顎の下に手をやって、考え込みながら鳶に問う。  
 
「ねぇ、鳶。『もう………たい』と言ったら間に入る言葉は何だと思うね?」  
「ははぁん、奥方に言われなすったんですね? そうですねぇ…どうせ閨事の時で  
 しょう?」  
 
 自信たっぷりな鳶の様子に、当たる占い師を見つけた人間さながら翡翠の瞳は輝く、  
その期待を受けてニヤニヤしながら鳶が言う。  
 
「さんざん焦らしやしたね? 『もう達きたい』じゃねぇですか?」  
 
「――――事が終わった後なのだよ」  
 
 さも、がっかりと言わんばかりの翡翠の態度に納得できないものを感じて鳶が再び言う。  
 
「よし! なら『もう寝たい』だ!」  
「…………」  
 
 翡翠は小さく肩を揺すると鳶の後ろで帆布を繕っている那智に話題を向ける。  
 
「那智はどう思う?」  
 
 
 
 
 
「……………………『もう……この変態』」  
 
 ぼそりと発せられた那智の言葉に、お前は死にたいのか、と鳶は肝を冷やし、翡翠と  
那智を見比べる。またしても得体の知れない冷ややかな緊張感が横たわるのを感じた  
のだが……発せられた翡翠の言葉は……  
 
「…………それならどんなに幸せなことだろうね……」  
 
 だった。  
 
「は!?」  
 
 怒ったり冗談に乗るでもなく、溜息を吐いて力なく去って行く翡翠の姿に鳶はつぶやく。  
 
「変態が幸せって……いったい何をしなさったんでさぁ…お頭ぁ……」  
 
 応える声はなく、ただ風が那智の繕う帆布をバサリと鳴かせた。  
 
 そんな船のどんよりムードを知らない花梨はいつまでも鬱々としているわけには  
行かないと気合を入れて塗込を出たのはいいが、そこでちゃんと心の準備ができない  
まま、いきなり狭霧に遭ってしまう。  
 
「あ……奥方様。おはようございます。朝餉を運んでまいりました」  
「ぅ…おはよう…ございます。……ありがとぅ……」  
 
 膳を受け取り食事用の定位置に座った花梨だったが、いざ食べようとして箸が止まる。  
 
(……なんか…ふつうだったよね…狭霧……そんなもん? いや、いや、あれはきっと  
 必死で平常心を……)  
 
 そんな事を考えてもたもたしているうちに食欲が無くなり、結局花梨はまたご飯を  
残してしまった。  
 朝餉を片付けた後花梨は、海の仕事で忙しい大人達に代わって子守りをするために  
浜に降りようとした。途端にあちこちから声があがる。  
 
「今日は、潮目がよくねぇから、誰も海仕事はしてねぇですよ花梨様」  
「そうそう、波も高いから浜に近付いちゃなんねぇですよ」  
 
 言われて素直な花梨は納得する。  
 
「……そうなんだぁ……翡翠さん…大丈夫かなぁ……」  
「お、お頭は………そりゃぁ大丈夫! ぴんぴんしてまさぁ!」  
「……そう…だよね」  
 
 その心配そうに微笑む花梨の姿に、胸の痛まない者がいるだろうか? 花梨が自室に  
立ち去った後、残された者は溜息をつくと小声で口々に悪態を吐いた。  
 
「……お頭〜勘弁して下せぇよ……」  
「お頭は奥方が郷に帰っちまうのが心配なんだろ? んなことあるわけねぇのに……」  
「まったく、奥方はお頭にあんなにベタ惚れなんだからよぉ…」  
「こんなちょろっとした痴話喧嘩の隙に京からかっ攫いに来るのが心配なんだろ?」  
「しかし、いつまでもこの言い訳じゃ…奥方、浜に行っちまうんじゃねぇのか?」  
 
 花梨が海岸から攫われる情景を脳裏に浮かべて一同はぶるりと身を震わせたが、  
そんな心配をする必要はなかった。これ以降花梨にはやる事ができてそれどころでは  
なくなるのだから。  
 
 さて、子守りが無くなったので本日は翡翠の事だけが花梨の仕事となった。  
 翡翠の新しい夜着をちくちく縫いながらまた花梨は翡翠の心という迷宮を彷徨いだす。  
 
(翡翠さんて時々すんごく分からなくなるよね……)  
 
(そう言えば前も何回かこんなふうになった事があったような……いつだっけ?  
 去年の今頃? そう言えば一昨年も今頃じゃなかった? ……え? 待って、  
 今頃っていうと…………まさか……だよねぇ?)  
 
(……翡翠さん、誕生日お祝いされるの嫌いなのかな……?)  
 
 花梨は翡翠が出かけた事で、文机の上に出しっぱなしにしていた誕生日プレゼントの  
材料に目を遣る。  
 
(そんなことないよね……夜ゆっくりお祝いしたいと思って、お祝いが遅くなった時  
 なんて結構タイヘンだったし……)  
 
 花梨は急に赤らんだ頬を冷やすように手を添えてまた考え始める。  
そして翡翠の言葉を思い出した。  
 
『若い男の方が良くなった?』  
 
(……翡翠さん…………年の差カップルなの気にしてる…………とか?  
  …………翡翠さんが?)  
 
 ありえない事のような気がして眉尻を下げる花梨だったが、否定しても次々と  
色々な事が思い出されて、その思い出の断片がパズルのピースのように嵌まりだす。  
 
(……でも、今年の不機嫌は酷いよね……これからどんどん酷くなるとか……?)  
 
 暗い未来を想像しかけて、まさかねと花梨は打ち消す。  
 
(じゃあ……去年と今年、何か違ったっけ?)  
 
 そうして花梨の記憶は正月にさかのぼる。  
 
 
**********  
 
『はぁ……翡翠さん……こんなこと…ダメですよ……』  
『何故だい? 白菊。此処はこんなにも私を銜え込んで時折きゅうきゅうと  
 噛みちぎらんばかりじゃないか?』  
『だ…だって、あぁ…あぁん…? もうっっ! あっ、ダメだっ……て』  
 
 花梨が理由を言えないように翡翠はわざと激しく突き上げて啼かせ続ける。  
 
『で? 何故かな? ふふっ。教えてはくださらないの?』  
『お…。 ! や、嫌ぁ、そこ、ダメ、あぁん、ダメだってば、翡翠さん!』  
『“お”? それから? ………………はぁ……花梨?』  
『あっ、あぁぁん、イク、イキそうっっ! …ぁあ、ひゃあぁぁぁぁぁあああん!!』  
『あっ…くっ……うっ!』  
 
 最奥を穿たれながら花芽を嬲られて、花梨はまだ衣も脱ぎきらぬまま、乱れた姿で  
絶頂を迎えさせられてしまった。翡翠とて余裕があったのは最初の内だけで達する  
花梨に引き摺られ、あっけなく慾を絞り取られてしまっていた。  
 
 
 
『……で、どうして駄目だったんだい?』  
 
 まだ少し息を弾ませながら花梨の顔を覗き込むようにして翡翠が訊ねる。  
 
『新年の最初の日は、お休みする日だってお母さんが…』  
『ふぅん。こういう事を? どうして?』  
『いや、こういう事じゃなくて…えっと……普段するような事? お料理とかお掃除  
 とかお洗濯とかお仕事とか? 新年の最初の日にしたことは……なんかこう……  
 呪かなぁ? そう! 呪が掛ったみたいになって一年中毎日しなくちゃならなく  
 なっちゃうって……言い伝え……?』  
 
 なんとも自信なさげな花梨の説明を翡翠は楽しそうに聞く。  
 
『ふぅん。そうか…面白い言い伝えだねぇ。……でも、私は困らないがね。  
 あぁ、だけど…大変だ!』  
『え?』  
『どうやら、私はその呪に掛ってしまったようだよ』  
『ひゃっ! 翡翠さん、もう本当にだめ!』  
 
 翡翠は止めようとする花梨の手を器用に掻い潜って次々と花梨の衣の縛めを解いて  
行く。そうして花梨の総ての衣を剥いでしまうと昼間の明かりを反射して白く輝く肌を  
目を細めてうっとりと見つめた。  
 
『随分と久しぶりだね……明るいところで君の総てを見るのは……』  
 
『……だって…恥ずかしぃ…… … …』  
『あぁ、隠さないで見せておくれ。月光に隠れて貴女はこんなに美しく嫋やかに  
 花開いていたのだね』  
 
 それは、自然に出た言葉だった。だから何の違和感もなくさらりと出て流れて行く  
はずだったのだが、花梨は聞き逃さなかった。  
 
『! 翡翠さん、今、私の事『貴女』って言いました?』  
『あ? あぁ……そのようだね。ふふふ、嫌だったかな?』  
『ううん、どっちかって言うと嬉しい』  
『そう? では、そんなに喜んで貰えるならこれからそう呼ぼうかな…?』  
『翡翠さんに呼ばれるのはどう呼ばれても嬉しいけど『君』より『貴女』の方が  
 やっと同じ目線に届いたみたいで……』  
 
**********  
 
 
 あの日から『貴女』と呼ばれるようになったんだっけと、はにかみ笑いしてふと、  
そう言えばその後、翡翠が少し顔を曇らせなかったかと花梨は今更ながら気付いた。  
 
『……同じ目線か……でも…貴女はこれからも益々美しく輝いていくのだし……  
 そうだねぇ、それに比べて私は……どんどん容色も衰えて行くのだろうねぇ。  
 せいぜい美しい妻に捨てられないようにしなければならない…かな……』  
 
 翡翠は冗談のように言っていたがその眼には翳りがあった。その後、言葉を挿む間も  
なく啼かされ続けて花梨はすっかり忘れ去っていたが、やはり翡翠が気にしていたのは  
その事だったのではないかと思い到り、ため息をついた。  
 
「…翡翠さん。翡翠さんはお爺ちゃんになっても絶対かっこいいと思うよ。その時  
 普通のお婆ちゃんで捨てられちゃいそうなのは私の方だよ……今だって心配なのに」  
 
(でもなんで今…? こっちの人ってみんなお正月に年を取るんだから、不機嫌に  
 なるにしてもお正月じゃないのかな?)  
 
(…………誕生日…か……特別な日、自分だけの………? ……そういうこと……?)  
 
『最高の快楽を与えられるのは私だけだと、花梨の躰に刻み込みたいのだよ。  
 そうして私から離れられなくなってはくれまいかと…浅ましくも思ってしまう。  
 この私が……まったく、無粋なことだ……』  
 
(気持ちは分るよ、翡翠さん。私も…翡翠さんが私から離れられなくなって欲しいと  
 思う……けど、翡翠さん……駄目だよ……そんなの…………)  
( ――このまま行ったら……私たち………駄目になっちゃう……よね )  
 
 そうしてふと縫い物に視線を落とせば、考え事をしながら縫っていたせいか縫い  
糸を長く取りすぎて擦れた糸が少し痛んでしまったようだ。花梨は勿体ないと思い  
つつも無理にこのまま縫っても、縫い目が弱くなってしまうだろうからとそこで一旦  
糸を留めて切った。  
 そして、作りかけの翡翠の誕生日のプレゼントに目が行く。あれも石の所で擦れ  
たら紐が切れてしまうだろうかと思った。砂に磨かれながら浜辺にうち上がった  
綺麗な石に小さな穴を開けたものだが、穴が小さい分どうしても通す紐は細くなる。  
 
 そこで、花梨はこちらの世界に持ってきた鞄にビーズ細工用のテグスが入っていた  
事を思い出した。あれを補強として通しておけば紐が擦れてしまってもすぐに切れて  
しまわないで直しながら長く使ってもらえるだろう。  
 花梨は唐櫃の中をごそごそやって和紙に包まれた鞄を取りだした。この鞄を見るのは  
もうどれくらいぶりかと思うくらいだが、黴てはいないようで花梨はほっとした。  
 神子をしていた時は、これを抱いて泣いた夜もあったなぁなどと思いながら、鞄の中の  
小さな紙袋に入った目的の物を探し当てた。そうして感慨を込めて鞄の中の物を見まわす。  
 その中に、茶色い紙のカバーの付いた一冊の本を見つける。  
 
「あーこの漫画……借りっぱなしになっちゃったな……」  
 
 仕方がないよねと言葉を続けながら、あの日こちらの世界に召喚される前に友人から  
「読んでみて」と渡された本をペラペラと捲る。――『背徳のCross』  
 
(こ、これって前に一度ちらっと見たけど……お、男同士だよね?)  
 
 そう、俗に言うBL本だった。こちらに召喚されて間もなく、何だろうと一度見て  
みたが男同士ということよりもその濃厚なラブシーンに当時の花梨は読み進める事が  
できずに数ページで本を閉じてしまっていた。  
 だが、今の経験値なら読めるかもしれないとページを捲り始めた。  
 はっきり言えば翡翠と自分のこれからの事を考えたくなくての現実逃避の読書だった。  
 
 ……赤くなったり青くなったりして読み終えた花梨は眉間にしわを寄せたまま一言  
「なるほど」とだけ言った。  
 
(やっぱり……凄すぎる……。あと五年くらいしないとちゃんと読めないかも……)  
 
 実際は、翡翠が花梨にしている事の方がよほど凄いのだが、余裕のない花梨はいつも  
自分が、どんな風に抱かれているのかよく分かっていなかったために、この本を過大  
評価した。  
 
 花梨は元あったように本を入れると鞄を唐櫃の中にしまった。  
 それから文机の前に座り翡翠の誕生日プレゼント用の道具を確認し、そこにテグスを  
加える。そうして頬杖をつきながら外の様子をぼんやり見つめる。  
 
 そんな花梨の様子を翡翠が付けた監視役が少し離れた所からさりげなく見ていた。  
 
 そんな者が見ている事など知らぬ花梨は、何事か呟くとお腹に手を遣りそうして、  
唐櫃をじっと見て何かを考え、墨を磨り、文を認めた。  
 それから花梨は文机の一番下の引き出しから白い切り紙を引っ張り出し、ふぅっと  
息を吹きかけた。するとそれは、パッと鳥の形になってキーとひと声鳴いた。鳩よりは  
少し大型の鳥は、結婚祝いに泰継から貰った式神だった。式神は対でもう一羽いるのだが、  
そちらは今、翡翠が“仕事”の連絡用に使っていた。  
 花梨は式神に文を取り付けると声を掛けた。  
 
「幸鷹さんにお願いね」  
 
 式神はもう一度キーと高く鳴いて京へ向けて羽ばたいて行った。  
 
 
 それから花梨は翡翠にも文を書いた。こちらは“仕事の連絡”の文と一緒に翌朝  
翡翠の元に届いた。  
 
――翡翠さん、帰ったら大事な話があります   花梨  
 
 
 食事をあまり摂らないと知った時には、あの朝、袿の中で呟いたのは、もしや  
『もう死にたい』だったのかとも思った翡翠だったが……  
 
「花梨…あの時言った言葉はやはり『もう帰りたい』なのかい? それとも『もう  
 別れたい』?」  
 
 そうつぶやいて花梨の様子を報告する文に目を通すと翡翠は頬杖をついて考えた。  
 
(向こうの世界から持って来た物を懐かしんで……そうして、幸鷹殿に文を書いて、  
 帰る手立てでも頼んだか…。それにしても…こんな時に私の衣を縫ってくれるなんて  
 貴女はなんと真面目で残酷な姫なのだろうね。その衣を思い出に抱いて独りで生きろ  
 とでも言うの?)  
 
 最後に衣を置いて行くのだろう花梨を、まるで『鶴??』の鶴のようだと翡翠は思う。  
では、愚かな翁は自分か…決して覗くなと言われたのに機織る姿を覗いてしまった翁と、  
嫌がる花梨を無理に開かせようとする自分とを重ね合わせ翡翠は瞳を閉じる。  
 だが、今すぐ帰ってしまうということではない。自分が“帰ったら”大事な話があると  
いうのだから。  
 翡翠はその日をどうやって迎えるべきか考え始めた。できうることならば花梨の  
記憶に残る最後の自分が見苦しくないようにと願った。  
 
 そんな調子で海賊稼業が務まるのかといえば、追い詰められれば追い詰められるほど  
翡翠はまるで研ぎ澄まされた刃のようで、交渉の席でいつもならヘラヘラと減らず口を  
叩いてゴネては、翡翠にちくりと言われて、しぶしぶ取り決めに合意を示していた同業の  
頭が、今回は翡翠のその気迫に圧され最初の一言で口を噤んでしまった。  
 
「翡翠の奴ぁ、いったいどうしたんだ……」  
 
 帰り際、顔を引き攣らせて帰る哀れなその頭に、鳶はただニヤリと笑って見せるしか  
ない。相手の頭は何を想像したのかはわからないが顔色を益々青くして帰って行った。  
 荷の取引でも相手が渋るのを許さない。去年までよりもサクサクと仕事が進んで  
事情を何も知らない船の若い衆は一層翡翠に心酔する。  
 
「俺達のお頭は思った通りすげぇ!!」  
 
 それに関して、鳶も那智も異論はない。  
が、翡翠にしてみれば早く仕事が片付くということはそれだけ早く花梨に引導を  
渡されることになるのだろうと思う。この皮肉な現状に翡翠は何事も自業自得かと  
自嘲の笑みを浮かべた。  
 
 
 
 さて、京では花梨からの文が幸鷹に届く。式神の気配を事前に察した泰継もその場に  
居合わせる。  
 
「……その文からただならぬ気が感じられる。……何と書いてある?」  
「少々お待ち下さい……」  
 
 文を開く幸鷹の表情が険しくなる。泰継は「どうした」と声をかけようとして、  
近づく人の気配に口を噤む。そこへ背後から声が掛かった。  
 
「お久しぶりですね。お二人とも、今日はお揃いでどうかなさったのですか?」  
「これは、彰紋様ではありませんか。 お元気そうで何よりです。先程、花梨殿より  
 文が届きまして…」  
「――っ! 花梨さんから? それで何と!?」  
 
 ぱっと顔を輝かせて急ぎ足で近づく彰紋を見つめ幸鷹がつぶやく。  
 
「――そうか。彰紋様なら恐らくは……」  
 
 そうして幸鷹は彰紋に花梨の文の内容を告げ、その願いを叶える手段を頼むと泰継に  
向き直った。  
 
「泰継殿、式神に少々荷物を運ばせたいのですが大丈夫でしょうか?」  
「可能だ。鷹でもうさぎ程度は運べるものだ。今の物より少し大きい物を作ればよい」  
「そうですか。ではお願い致します」  
「分かった」  
 
 幸鷹は手配が終わると邸に戻り、早速花梨に文を認めた。そうしてこの文通は少しの  
荷を間に挟んで数度に及ぶことになる。  
 
 毎日報告と一緒に届く花梨の文を翡翠は切なげに見つめ時には唇を寄せる。  
 
「花梨――本当に貴女はあの時何と言ったの?」  
 
 いかな花梨の文とてその答えを返すわけもない。そうして届く報告には花梨と幸鷹が  
文の交換をして、時には贈り物を受け取っていると記されていた。  
 翡翠は自分を気遣う花梨の文にも、花梨の心は既に幸鷹の物で自分はただ同情されて  
いるだけなのではないかとさえ思えてきていた。  
 
 
 さて、そんな頃、花梨は京から最後の荷を受け取った。その中にあった小さな包みを  
掌に乗せて指で撫でる。ほんの冗談のつもりで書いた翡翠の事、それに応えて泰継が  
用意してくれた物だった。  
 花梨はふぅっとため息を吐いてそれを胸の袷に仕舞いこんだ。  
 
 翡翠へのプレゼントを作りながら花梨はこれからの事を色々と考えていた。  
 最後の紐始末をすると、二つの小石がカチリと小さな音をさせる飾りを、花梨は  
和紙で包んだ。それを見つめる花梨のその眼には決断の色があった。  
 
 
**********  
 
 翡翠が島に帰還したのは、彼の誕生日の前日だった。本来ならばもう二日ばかり早く  
帰れた筈だったのだが翡翠は何かと理由をつけて先延ばしにしていた。  
 だが、いよいよこれ以上は部下の手前も伸ばすことはできないとなっての帰島であった。  
 
「翡翠さんっ! お帰りなさい!!」  
「……あぁ、只今。花梨」  
 
 意外に明るい花梨の出迎えに翡翠は一瞬息を詰まらせたが何事もなかったかの  
ように花梨を抱き寄せる。  
 
「翡翠さん、疲れたでしょ? 湯殿に準備できてますよ。さっぱりして来てね」  
「そう? 花梨は一緒に入らないのかい?」  
「! もうっ! 私は色々準備があるから先に入っちゃいましたよ」  
「そうかい。それは残念だね」  
 
 いつものような視線、いつものような会話。けれど翡翠は気のせいではなく違和感を  
感じていた。  
 翡翠のそういった勘は必ず当たる。これは海賊として危険な生業に生きてきたためか  
生来のものかは分からないが、この勘が一度として外れたことはなかった。  
 
 翡翠が湯殿から夫婦の棟に戻ると、ここでまた別の違和感を感じた。  
良く見ると家具の配置が仕事に行く前と少し変わっている。  
花梨がここを出て行くために荷物の整理でもしたかと軽くため息が出る。  
 
「あっ、翡翠さん。お湯加減どうでした?」  
「あぁ…良かったよ」  
 
 言って酒の用意された膳の前に座ると、すっと花梨の手が伸びて瓶子を持ったので  
翡翠は杯を持って受けた。  
 注がれた酒を口元に運ぶと微かに変わった香りがした。翡翠は酒に何かが混ざって  
いる事を知ったが、例えそれが毒であってもかまわなかった。花梨を失って生きる  
くらいならいっそここで死なせて貰えた方がどんなにか幸せだろうかと思う。  
だが、“優しい”花梨がそうしてくれる筈もない事は誰よりも翡翠が知っていた。  
おそらく入っているのは眠り薬で自分を眠らせてその間に出て行くつもりなのだろう  
と思う。あのまま喧嘩別れのよう去るのが嫌だったのかと、こんな時におかしいが  
ふと笑みが浮かぶ。  
 
「貴女が……飲ませてくれまいか?」  
 
 花梨は少し困ったような顔をしてから杯を受け取って、酒を口に含み唇を翡翠の  
唇に重ねた。翡翠は甘い酒を飲み下しながらゆっくりと瞳を閉じる。  
 
 それから土産話をしながら何度か杯を呷り、程なくして翡翠の思った通りに強い  
眠気が訪れた。  
 次に目覚めた時、愛しい妻はどこにもいないのかと痛む胸を抱えて柱に寄り掛かる  
翡翠が意識を失う前に聞いた言葉は花梨を恋い慕うあまりに己が聞かせた幻聴か、  
あの日に聞いた言葉と同じだった。  
 
 
「私……翡翠さんの事…好きだよ……」  
 
 
 
**********  
 
 夜半過ぎに体温を奪う空気の動きで翡翠が目覚めると予想に反して花梨は目前に  
いた。瞬時に状況判断をする。逃げるためでなければ何のために眠り薬を……  
と考えるまでもない。  
 
「さてと……なかなか楽しい趣向じゃないか、白菊?」  
「やっぱり翡翠さんだね。どんな時でも余裕なんだから」  
 
 翡翠は腰をおろした姿勢で全裸で柱に繋がれていた。脚は開いたまま横に渡した  
棒に足首を固定されていて、その上、膝の所も紐が巻かれ閉じることは叶わない。手は  
頭の上で両手を纏め上げられ柱に縛りつけられていた。家具の配置が変わっていたのは  
こういうことかと納得がいく。  
 花梨の縛り方は翡翠の思いの外しっかりしていて隙を見て解こうなどということは  
不可能であると直ぐに分かった。  
 
「余裕なんてとんでもないよ。今もこれからどうされてしまうのかと思って震えているよ」  
「嘘ばっかり」  
「ふふ、心外だねぇ。さてと…薬を飲まされた時は寝ている間に私を置いて出て行く  
 のかと思っていたのだが……この状態は海賊のお頭にあるまじき格好で、妻に置き  
 去りにされる私の姿を、部下達に曝したくなった……とでもいうところかな?」  
「やっぱり薬入ってたの分かってたんですね。それなのに飲むなんて……それより、  
 そんなことできるわけ無いじゃないですか。――大事な話があるって文に書いた  
 でしょ? 翡翠さんがお仕事行く前にちゃんと話せなかったから……」  
「――そうだね、あの時は悪かった」  
「…………」  
 
 翡翠の前に膝立ちで立つ花梨は何も言わず、ただ翡翠を見つめていた。その眼が  
まるで苦しむかのように細められ、それから翡翠がもう二度と味わうことができない  
ものと思った花梨の唇が、翡翠の唇に重なる。花梨の指が翡翠の耳の後ろに差し入れ  
られその長い髪を梳く。そうして寄せられた花梨の躰の体温を翡翠が少しの安堵と  
ともに貪れば耳元で囁かれる花梨の声はとても甘い。  
 
「……翡翠さん。あの時のお仕置きは納得いきません。だからオイタが過ぎた翡翠さん  
 にもお仕置きです」  
「ああ……それもいいだろう。 そうしたまえ、花梨」  
 
 実際、翡翠には花梨の与えてくれる“お仕置き”がどんなものか興味があった。  
花梨は何も知らず無垢なまま翡翠に嫁した。また、与える事ばかりに夢中だった翡翠は  
花梨には自身の中心に触れさせる事すらしなかったのだから…そんな花梨がいったい  
何をしてみせてくれるのかと悪い好奇心が疼いたのだ。  
 だが、それは京の三人同様、花梨という人間の純真さに隠れた無鉄砲さを見誤って  
いることに他ならなかった。  
 
 そう、花梨は幸鷹に出した何度目かの文に「翡翠さんがはぐらかしてばっかりで  
肝心な事をちゃんと話合ってくれないんですよ。逃げられないようにぐるぐる巻き  
に縛ってくどくどお説教したいです。でも縛る前にさっと逃げられちゃいそうです  
けどね」と書いた。それを幸鷹は彰紋と泰継に読んで聞かせたのだ。  
 そうして三人は、あの艶麗な翡翠が(もちろん着衣の上で)ぐるぐる巻きにされ  
正座をさせられた上に花梨にお説教をくらっている情景を想像し、つい…………  
つい「面白いかも」と思ってしまったのだ。そこで花梨の希望を叶えるべく泰継に  
よって眠り薬が用意され、最後の荷と共に花梨の元へ届けられたというわけなのだが……。  
 それが、まさかこんな事になっていようとは三人には想像すらできないであろう。  
なぜなら三人の頭の中の花梨は、京を離れたあの日の無垢な少女のままで止まっていたのだから。  
 
 花梨は翡翠の顔をじっと見た後、また耳元に唇を寄せて囁く。  
 
「頬に傷、残らなくて良かった」  
「貴女がつけてくれる傷ならそれも愛おしいものだよ」  
「ふふ、そんな勿体ないこと……ねぇ、翡翠さん。こんなこと言うと島の女の人達に  
 怒られちゃうかも知れないけど……私ね…翡翠さんを海に盗られたら笑って生きてく  
 ことなんかできない。必ず後を追ってしまうと思うの。だって――」  
 
 言いながら花梨の唇が翡翠の肌を滑り降りる。花梨の唇は翡翠の鎖骨の間、京を駆けた  
頃に宝珠があった所にたどり着き、強く吸う。翡翠の腕を縛める紅い紐がキリッと鳴く。  
 薄く紅い跡を残し、花梨の唇は吐息で翡翠の肌をくすぐりながらその胸の淡く  
色付いた処を目指す。そうして小さな飾りに舌先をチロチロと這わせ刺激しながら  
反対の飾りにも指を伸ばす。  
 
「翡翠さんの為だけにこっちで生きて行こうと思ったんだし、その翡翠さんが居ない  
 なら生きてく意味もないかな……って」  
 
 また紐がキリッと鳴く。翡翠は花梨の醸す刺激に酔っていた。触れられる先から  
生まれる甘い疼き、何よりその唇が紡ぐ、溺れそうに甘い言の葉……。翡翠の腰には  
熱が凝り始めていた。  
 花梨の爪が翡翠の胸の淡い飾りをカリリと引っ掻く。  
 
「――っ…花梨」  
 
 呼ばれて花梨は唇に薄く笑みを刷く。そうしてゆっくりと自身の単衣の腰紐を解く。  
こういった時に普段自分から脱ぐことの無かった花梨の手は時折恥ずかしそうに  
戸惑いを見せる。それが何故か焦らされているようで、長の航海の後ときては弥増す  
翡翠は煽られてしまう。  
 花梨が白い素肌を夜気に晒した頃、翡翠の中心は既にそそり立ち先走る透明な液体を  
零していた。  
 
「……花梨」  
 
 呼ぶ名は懇願めいて響くのに愛しい妻はそちらを気にもかけない。ただ、自分の  
したいように翡翠の躰を弄ぶ。厚い胸板に手や唇を這わせ、時には割れた腹筋を指先  
でなぞる。  
 そうしているうちに花梨は新しい遊びを見つけた。翡翠の躰に残る微かな傷跡を  
探して一つずつ舌を這わせる。それは、翡翠がまだ若かった頃に不覚を取った物も  
あれば、京での戦いで身を挺して花梨を護った時の物もある。花梨が媚態のように  
身をくねらせる度に長くなったその髪が翡翠の肌をくすぐる。また、それだけではなく  
花梨の胸や脚や脇腹などの柔らかい肌が、翡翠の猛りを時折掠めて行く。  
 その甘美な誘惑に煽られ翡翠の中心はますます脈打ちじんじんと痛いくらいに  
張り詰める。  
 
「――っ、花梨…もう、降参だ……」  
「ふふ、駄目ですよ翡翠さん、そんなに簡単に降参しちゃ。これはお仕置きなんだから」  
 
 せめてこの腕が自由になれば、その腕の中に花梨を閉じ込め嬲り尽くしあられもなく  
啼かせ続けてやりたいと翡翠が望んだところで、花梨にはそうしてやる気はさらさらない。  
 
「翡翠さん、随分と泣き虫なんですね」  
 
 花梨は灯りを反射してキラキラと鈴口から零れる翡翠の先走りを指さす。  
 
「…そうだね。熱い貴女の胎内に早く迎えて貰いたくて泣いているのかも知れないね」  
「迎えられたい……ですか?」  
 
 そう言って花梨は秘所を近づける。翡翠が唾をこくりと飲み込むのを見て花梨は微笑む。  
 
「まだ、駄目ですよ」  
 
「……そう? ではいつならいいのかな?」  
「そうですね…もう少しでしょうか? でも、その時、翡翠さんがまだ、そう思って  
 くれてるかは分かりませんけど……」  
 
 クスリと笑って花梨は縛られた翡翠の後ろから小皿を取りだす。  
乗っているのは白い軟膏のような物。  
 
「……それは……何かな? 白菊?」  
 
 翡翠の背に、ざわりと嫌な予感が這いのぼる。  
 
「これですか? 猪を煮た時に出た脂を取っておいたものです」  
「――っ! 花梨! よさないか!」  
 
 翡翠は瞬時に花梨の目的を悟る。だが、花梨にその制止の声を聞く気など毛頭ない。  
これは“あの夜のお仕置き”なのだから。  
 
「翡翠さん。力を抜いていて下さいね」  
 
 脂を絡めた花梨の指が翡翠の菊花につぷりと沈み込む。  
 
「――ぅ……本当に…花梨! ――っ……く……」  
 
 花梨の細い指が何かを求めて翡翠の中を蠢き続けると、それに反応して翡翠の躰が  
時折ひくりと動き、その躰を縛る紐がキリキリと鳴く。  
 
「――翡翠さん。気持ち好かったら、声……出してもいいんですよ」  
「……ぅ……っ……花…梨……もう分かったから……」  
 
 それには答えず、まるでお仕置きを楽しむように酷薄な笑みを浮かべた花梨は  
残酷にも責める指を増やす。  
 
「ああっ、花梨!」  
 
 翡翠の痴態に目を細める花梨を見て翡翠は思う。自分の妻はこんな女性だったろうか?  
こんな酷く残忍で妖しく嗤う…そんな……  
 
「なかなか頑張りますね」  
「――楽しめているようで……何よりだよ……可愛い人」  
 
 言葉では余裕を見せているが、そのありようはとてもそうとは思えなかった。花梨の  
指が突き入れられる度に呼吸は乱れ、揺れる髪を貼り付けて汗ばむ肌は熱を持つ。  
 
「――翡翠さん、凄い汗。……でもきっと、これだけじゃ駄目なんですね……」  
 
 言って、花梨は指の動きを肉壁に押し付けるように変える。  
 途端に翡翠の腰が強張り背が弓なりに反る。  
 
「駄目だっ! 花梨、それはっっつ!」  
 
 かはっと空気の吐かれる音、サラと髪が弧を描いて舞う間に翡翠の慾が爆ぜる。  
花梨はこの世にこんなに妖麗な物が他にあるのだろうかと、夫の達する姿をうっとり  
と見つめる。  
 
 そうして自分の指の動きで達し続ける夫を堪能し続け、猛っていた翡翠自身から  
力が失せて、ひくりとしても慾が吐き出されなくなるまで翡翠を責め続けた。  
 乱れる髪を頬に貼り付け、肩で荒い息をする翡翠を見ながら、花梨はようやく  
その菊花から指を引き抜いた。  
 
 脱力し物憂げに見つめてくる夫を縛めている紅い紐を花梨がシュルシュルと解くと  
翡翠は解かれた腕を投げ出しがくりと項垂れる。  
 
「翡翠さん。気持ちいいことでも望まれないこともあるんですよ」  
「――あぁ……よく…分かったよ……とてもね」  
 
 総ての縛めが解かれると翡翠はゆるく立てた両膝の上に腕を乗せて俯く頭を支える。  
 そうしている間に花梨は何事もなかったように単衣を着こみ、よくもまぁこれだけ  
出したものだというような、床に撒き散らされた翡翠の慾を布で拭い始めた。  
 
「――花梨。聞かせてもらえまいか? いったい誰にこんな事を教わったのだね?」  
 
 頭も上げずに問う翡翠の表情は、その長い髪に隠れて見えないが恐らく不機嫌その  
ものだろう。花梨は、既に床をざっと拭い終わって、用意していた桶で新しい布を絞り、  
濡れた布で床を拭き直し始めていた。  
 
「え? 教わったっていうか――向こうの世界で友達に借りたまま、こっちに持って  
 来ちゃった本に書いてあったんですよ」  
 
 翡翠はまさかそんな本を花梨が持っているとも思わなかったし、今まで花梨の持ち  
物にそれほど興味はなかったが、他に危険物がないかこれは一度確かめておかなければ  
ならないなと心底思った。  
 花梨は一通りの作業が終わって、まるで落ち込んだ人のように座り込んでいる翡翠の  
脇に腰を下ろし、その髪を指で梳き上げ表情を窺う。  
 
「ねぇ、翡翠さん。翡翠さんが本当に自分のためにもっとって求めるなら私は応え  
 ようと思うの。でも私のために もっと って考えているんなら……それはもう  
 いっぱい過ぎて溢れちゃってるんだけど……」  
「そう…でもね……女性の淫欲はどんどん強くなっていく……と聞くよ」  
 
 取って付けたような最後の『と聞くよ』が花梨の眉を少しばかりぴくりとさせたが  
過去の事は言ったらキリがないと充分知っているので目を瞑る。  
 
「いや、もう、翡翠さんの能力を上回るような事は絶対にないと思うし、別にそれ  
 だけで翡翠さんの奥さんになったわけじゃないもの……  
 それでなくとも翡翠さんの事、好き過ぎてどうにかなっちゃいそうなのにこれ以上  
 刺激して私を混乱させないでください」  
 
 花梨を見つめる翡翠の瞳が見開かれ、唾をコクリとのむ音がする。  
 それからふと思い出した先日の気がかり、あの日に花梨が言った言葉を翡翠が不安げに  
問えば、花梨は難しい顔をして記憶を探り、それから、ああと明るく答える。  
 
「『もう馬鹿みたい』ですね。自分の思ってる事を全然翡翠さんに伝える事ができなくて  
 どんどん酷い事になっちゃって……ちょっと自己嫌悪ってとこかな?」  
 
 ここで花梨は躊躇うように軽く息を吐いて言葉を続けた。  
 
「――それで……狭霧とも……話しました」  
「! 白菊が? どうして?」  
 
「私のせいもあるかなって思って…色々恥ずかしがってちゃんと翡翠さんに気持ちを  
 伝える事ができてなかったなとか……きっと翡翠さんなら言わなくても分かって  
 くれるって甘えてたんだろうなとか思って」  
「そうか……でも、悪いのは全部私だよ」  
「――でもね、狭霧はいいって……五年くらい前まで…翡翠さんがこの島に手を  
 伸ばして治めるようになるまでは島の女性は別な海賊に随分理不尽な扱いを受け  
 てたからって言うの……でも、それなら尚のことそんなの駄目だと思った」  
 
「………それは私がきちんと考えて行くよ」  
「うん。……それと……これからは、もっと色々ちゃんと話し合いましょうね」  
「ああ……そうだね。私も莫迦な事をする前にちゃんと貴女に話すと誓うよ」  
「……良かった。約束ですよ」  
 
 そこで翡翠がにこりと微笑む。  
 
「そう言えば、先ほど…貴女の胎内に迎えて貰いたいと言って了承いただいたと思うの  
 だけど……?」  
「!……でも……つ、疲れてますよね……それに……もう……」  
 
 
「――花梨。貴女を抱きたい」  
 
 
 囁く翡翠の懇願に花梨がコクンと頷けば、翡翠の指は花梨に伸ばされ、その髪に  
差し入れられる。花梨の瞳がそっと閉じられたのを合図に翡翠の唇が儚い物に触れる  
ようにそっと重ねられ、少しずつ何かを確かめるように啄ばみながら角度を変えて  
口腔内に舌を忍ばせていく。  
 花梨も訪れる翡翠の舌を迎えて優しく噛んだり舌で戯れて嬉しそうに応える。  
そうしてお互いの歯列や口蓋までを愛で尽くし、渇きを癒すように交わる唾液を  
何度も嚥下する。  
 そうしてやっと放された紅く濡れた唇が翡翠の名を紡げば、どうしようもない  
情熱を翡翠に熾す。  
 
「あぁ……花梨。待ちわび過ぎてどうにかなりそうだよ……」  
 
 耳元でとても小さく囁かれる美しい声と、這わされる舌が耳内で立てるぴちゃりと  
いう音に花梨の肌は粟立つ。  
 体をずらして花梨の背後に回った翡翠は、手を伸ばし花梨の単衣の腰紐をシュルリと  
解き放つ。先ほどまでどんなに望んでも触れることの叶わなかった肌理の細かい肌が  
はらりと現れる。  
 肩から花梨の腕に沿って指を這わせ単衣を床に落とす。  
 花梨のうなじに口付けてから甘く噛む、とたんに「ひゃぁん」と啼き、躰がぴくりと  
撥ねて、逃れるようにうつ伏せに倒れ込む。そうして翡翠は花梨の背中じゅうを何度も  
甘く噛んでは啼かせ続け、噛む位置を選びながら花梨の身を捩らせ自然に仰向けに  
させてしまう。  
 耳朶から首筋を通り鎖骨へと、紅い跡をいくつも付けながら翡翠の唇が甘噛と口付けを  
繰り返して下って行く。これまでの刺激で、もう花梨の胸の頂はチリチリと凝り蜜壺は  
熱い蜜を湛え始めている。  
 充分に尖り、翡翠を感じている事を明かす花梨の胸の頂に、翡翠は最初、軽く舌を  
這わせて焦らし、それから少しずつ深くねっとりと嬲り、吸い上げて追い詰める。  
反対の胸の頂は指先や掌を使って、抓んだり押しつぶすように擦って快楽を煽る。  
 何度か交互にそうするうちに花梨の指先が翡翠の髪に差し入れられ、閉じられた  
花梨の太腿は焦れるように擦り合わせられる。  
 
「……ひ、翡翠さん……も、もう……」  
「駄目だよ、白菊。そんなに誘う瞳をしても、まだあげられないねぇ。そうだろう?  
 ――先ほどのお仕置きで私は随分と先をいかされているのだからね」  
 
 花梨の瞳が哀しげに揺れる。翡翠は優しく微笑むと花梨の唇に軽く口付を落とし、  
さらりと流れる髪で花梨を撫でながら愛撫する先を下へと移していく。脇腹から  
臍までを舐め上げられる甘い責め苦に、花梨は身を捩り腰を撥ね上げる。  
 
「やっ……やぁ、翡翠さん…翡翠さんっ!」  
「……本当にどれだけ愛でても愛で尽くせない。じっくりと総てを味わいたかったの  
 だけど……そんな切なげな声を聞かされては、こちらが持ちそうにもないねぇ」  
 
 口ではそう言ったものの翡翠とて花梨の秘められた華を愛でぬうちは、そう易々と  
花梨の願いを聞いてやるわけにはいかなかった。  
 
 仰向けの花梨の両のひざ裏に手を添えて脚を開かせながら持ち上げ秘裂を露わにさせる。  
既に零れ出した蜜に舌を伸ばし舐め上げれば、「あぁ」と花梨の甘い声が上がる。  
 そのまま翡翠は右の小さな花びら、左の小さな花びらと舌を何度も這わせ、気が向けば  
ちゅくちゅくと赤子が乳を吸うような音を立てて花芽を吸い、その愛撫で溢れ出る蜜の  
元へ舌を挿し入れる。花梨が何度達しようとも、何度も…何度も…執拗に……  
 
「翡翠さん……もう、もう……赦して……」  
 
 花梨の懇願が啜り泣きに変わったところで、やっと翡翠は顔を上げる。  
 
「……ああ、でも、残念だったね、花梨。もう一度貴女の達く顔を見せて欲しいのだよ」  
 
 そう言ってまた翡翠は花梨の花芽に舌を絡ませ啜りあげる。  
 
「や、や、や…だ、だめぇえっ!……んんぁぁぁぁぁあああああっ!!」  
 
 ピンッと伸ばされる爪先、反った背に、がくがくと揺れる腰、最早花梨は視線さえも虚ろ。  
 
「――少しやりすぎてしまったかな? 花梨……まだ私が欲しいかい?」  
 
 花梨は乱れる息を整えながらも頷いて翡翠を求める。  
 
「――欲しい…翡翠さんが……」  
 
 翡翠はけぶるような笑みを浮かべ「そう」とだけ言って花梨の膝裏を押し上げ腰を  
高くあげさせる。  
 
「さぁ、貴女のお望みのものが入って行くところを見ててごらん」  
 
 待ちわびる花梨の蜜壺に宛がわれる翡翠の猛り。  
 
「はぁぁぁぁ! 入ってくる…翡翠さんが……あぁ……」  
 
 花梨が見つめる前で、翡翠の猛りがずぶずぶとその蜜壺に飲み込まれて行く。  
 
「あぁ、貴女の胎内はこんなにも熱くて……はぁ…融けてしまいそうだよ……」  
「す…凄く感じる……翡翠さんを…あぁあん……どうしよう……あぁっ!」  
 
 翡翠は一度花梨の奥まで自身を納めてから、ぎりぎりまで引き抜き、ゆるゆると  
小さな振り幅で腰を動かす。焦れた花梨は腰をくねらせ奥へ誘いこもうとする。  
 
「――くっ。凄いね…今日の……貴女は…とても貪欲だ」  
「だっ……て…あぁん。さっきの翡翠さん……思い出しちゃって…はぁあん…凄く…  
 綺麗…だったから……あぁ、もっと、もっと…はぁ…翡翠さぁん」  
「分かったよ花梨……もっと……だね」  
 
 翡翠は花梨を深く穿ちながら、その律動に合わせて揺れる花梨の脚を撫でさする。  
肩に掛けていた花梨の足首の片方にだけに手を遣り、引き寄せて足裏に唇を寄せる。  
 
「やぁ、やっ、翡翠さん、そこは…くすぐったいのぉっ!」  
「そうなのかい?」  
 
 言いながら、翡翠が花梨の足指の間に舌を這わすと、逃れようと花梨の脚がぴくりと動く  
翡翠はそれを手でがっしりと抑えて逃さない。  
 
「ひゃあっ! い、いつも…く、くすぐったくて……や、やぁ、やぁあん!」  
 
「――そう…なの? でもね、そう言われても…多分…止められないと思うよ。だって  
 こうすると…白菊の此処は、ほら……くっ、……ふぅ……信じられないくらい心地よく  
 締め付けてくれるからねぇ…だから、こうして…小さな爪を噛むことも……指の間に  
 舌を這わす……ことも……あっ…くっ……止められないのだよ」  
 
 翡翠は腕の中に花梨を閉じ込めるように抱きよせる。突き上げる激しい律動に縺れ合う髪。  
指先も舌も脚も絡めあって融けてこのまま一つになってしまえるなら……  
いいや、花梨が花梨としてここにいるからこそ、こうして愛でる事ができるのだ。  
 
「あぁ……愛しい人。貴女は……どこもかしこも…なんて…素晴らしいのだろう…はぁっ」  
 
 最奥を穿たれて絶頂が近い花梨の肉襞の蠢きに翡翠の呼吸も乱れを増す。  
 
「ひゃあぁぁん、そこ…いぃっ! あぁんもう…もう……」  
「達くといいよ。何度でも…さあっ!」  
「ふっ、ぁぁぁぁぁああああん!」  
「くぅっ、なんて締め付けだい…白菊! ……ぁあ……」  
 
 花梨の総てを絞り取るような常よりも激しい締め付けに抗わず、翡翠はその最奥に  
何度も叩きつけるように慾を迸らせた。  
 
 互いの呼吸も落ち着いた頃、翡翠が躰を離そうと花梨の上の身を起こすと、すっと  
花梨の細い手が伸びて翡翠の背中に回された。  
 
「……もう少し…このままじゃ…駄目ですか?」  
 
 翡翠は、まだ上気している顔で恥ずかしそうに視線を泳がせる花梨の頬に口づけて  
「いいや」と身を寄せる。  
 
「もう少し翡翠さんの温かさを感じていたくて……ひと月の間とっても寂しかったから…」  
 
 途端に、まだ花梨の胎内にあった翡翠自身がぴくりと動き、硬さを取り戻して行く。  
 
「ひ、翡翠さん? え? だって……どうして?」  
「さぁ、どうしてだろうねぇ?」  
「や、もう、駄目ですよ!」  
「私もそうだろうとは思うのだがねぇ……困ったものだ」  
 
 翡翠はにこにこと性質の悪い笑顔を向けて、「新年の呪がまだ効いているのかな?  
もしかしたら、海に出ていたひと月分かも知れないね」などと、とぼけながら結局  
朝方まで花梨を突き上げ、啼かせ続けた。  
 
 そんな訳で、いつもの如く花梨は昼過ぎまで起きることができず、鳶も「またか」と  
思ったが長い航海の後ともあって、今回は何も言わなかった。  
 花梨に水や果物をと親鳥の如く甲斐甲斐しく運ぶ翡翠の上機嫌なことといったら  
なかったのだが、目覚めた花梨が翡翠に誕生日のプレゼントを渡したので尚のことである。  
緑と黄色の石が、組まれた紐に寄り添うように通され、カチカチと楽しげなお喋りの  
ように鳴る飾り。翡翠は早速、金子を入れる袋に取り付けた。  
 
 翡翠の誕生日の行事はそれだけではなく、昼過ぎに起き出した花梨が夕餉を作った。  
曰く――  
 
「翡翠さんが出かけた後、色々悩んだんですよ。でね、その悩みがだいたい解決したら  
 急にお腹が減っちゃって。だって前の日もその日の朝もあんまり食べられなかったから…。  
 それでね、向こうにいた時の物とかを見たせいか向こうの物が食べたくなっちゃって  
 お寿司が食べたくなったんだけど…いったんは無理かなって諦めかけて……でも  
 考えたらドーナツだってチーズクリームだって名前は唐菓子とか蘇とか言うけど  
 こっちにもあるわけだから、ひょっとして材料の名前が分かればなんとか似た物が  
 食べられるかと思って、幸鷹さんに材料のこっちでの呼び方を聞く文を送ったんです。  
 そうしたら名前を知っていてもなかなか総てを手に入れるのは難しいからって  
 醤からお醤油を作ってくれたり、お酢やお米を近い感じで揃えてくれて、それに  
 彰紋くんや泰継さんにも頼んでくれて、献上されてた山葵とかお茶なんかも送って  
 くれたんですよ。だからこれは、かな〜り期待できます」  
「お寿司? 鮒寿司なら…」  
「あ、それとはちょっと違うらしいです、彰紋くんも最初それ用意してくれるつもり  
 だったみたいだけど、幸鷹さんが違うって……。 まぁ、食べてみて下さいね」  
 
 そう言って花梨はマグロを乗せたお寿司を翡翠とともに美味しそうに頬張った。  
それを周囲の者は少し複雑な顔をして見守った。  
 
――そのマグロは猫の餌用のを花梨が横取りした物だったから……。  
 
 
 
 
『女――それは男の活動にとって、大きな躓きの石である  
 女に恋しながら何かをするということは困難である  
 
 だがここに、恋が妨げにならないたった一つの方法がある  
 それは恋する女と結婚することである』  
 
              Leo Nikolaevich Tolstoy『アンナ・カレーニナ』より  
 
 
 

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