「我が君、よもや私を置いて、夢の中などに旅立ってはいらっしゃらないでしょうね?」
形ばかりの伺いを立てて、返事も聞かず、影のようにするりと男が千尋の自室に入り込む。
千尋には、声だけでそれが柊であることが判ったけれど、
自分から声をかけることはしなかった。
柊は、自分の気が向いた時だけ、千尋の部屋へ忍んでくる。
そうはいっても、少なくとも二日に一遍は訪れているようなものだから、
もう何度こうして逢ったかは知れない。
確か、両手の数で足りるほどまでは数えていたのだけれど、
それにも飽いてやめてしまった。
夜はこうして二人で逢瀬を重ねても、昼は二人の間に特別な甘さは存在しない。
言ってしまえば、夜だけの付き合いなのだった。
「この出雲の地での首尾も、すっかり上手く行っておりますよ。これも、我が君のお力ゆえ」
白々しく軍の話など持ちかけるも、千尋は考え込んで返事をしない。
「今日はご機嫌斜めでいらっしゃいますか?
それでは、折角の花のかんばせが曇ってしまう」
機嫌を取るようなことばかり言う軍師に、微笑を向けてやる気分には今日は到底なれなくて、
ふいとそっぽを向いたまま、黙っていた。
「あのね、柊。もう……」
――このような関係は止めよう。
そう言いかけたが、柊は聞く耳を持たない。
「つれないことですね」
嘆くような仕草をしてみせた後、柊はつと千尋の顎に手を伸ばし、
自分の側に引き寄せて口づけた。
「んっ……」
次第に深くなる口づけに、無意識に熱が煽られる。
この男の舌を口内に感じてなお、誘いに抗える力は、もうない。
丁度千尋が感じてきたところで意地悪く引っ込められる舌先に、
はしたなく吸い付き、自分から強請る。
再び与えられた舌を舐り、絡めあわせる。
もはや、それがどちらの唾液に塗れているかは分からなくなった。
少し身を離し、上目遣いで男を見上げる千尋は、
自分の目が誘うように熱で潤んでいることを自覚していた。
「おやおや、もうそんな表情をなさって……」
柊は、口の端だけで笑むと、寝台に腰掛ける千尋の膝の下と腰の辺りを両の手で支え、
そのまま持ち上げる。
ふわり、という浮遊感を感じたのち、気づかぬくらいにそっと、寝台の上に横たえられた。
その優しげな抱擁と裏腹に、右手首を寝台に押さえつけられての二度目の口づけは、
ひどく荒々しかった。
それでいて、髪が乱れぬよう、空いたほうの手でまとめ髪を解いてくれるのだから、
気遣いがあるのだかないのだか解らない。
髪留めが解かれると、千尋の金色の髪が寝台に広がった。
「我が君は、お美しい……」
柊が愛しげに髪を見つめ、胸のふくらみに手を伸ばす。
少し強めに揉みしだかれても、もはや快感にしかならなくなってしまった躯。
「ひいら、ぎ……」
名前を呼びこそはすれ、決して相手の瞳を見ない。
それは、千尋にしても柊にしても同じことで、既に暗黙の了解となっていた。
(柊、柊……)
愛しい人の名前を呼んで、ぎゅっと目を瞑れば、瞼に浮かぶのは「彼」の姿。
一緒に黒龍に挑み、龍神の力を借りて打ち勝った記憶が、鮮やかに蘇る。
彼の微笑み、彼の真剣な眼差し、彼の温もり――
思い出していくと最後に辿りつくのは、彼の最期の涙。
彼を救いたくて、時空の彼方に足を踏み入れたけれど、
やはり千尋にはアカシャを変えることなどできはしなかった。
――否、あえて変えなかったのかもしれない。
時空の向こうで見た、愛しい人の姿と声を持った男は、
彼女のことを身を挺してかばってくれた柊ではなかった。
一緒に戦った記憶を持つ彼は、もうどこにもいないのだ。
その事実を目の当たりにして、千尋は惰性に、
以前と同じアカシャの流れに身を任せることにした。
いつか聞いた言葉、いつか戦った敵、いつか遇った人々。
ただ一つ変わったのは、愛しい男の名を持つ男と、
こうして逢瀬を重ねるようになったことだけ。
我に返ると、既に裸に近い格好まで服を剥ぎ取られていた。
残るは、秘所を覆い隠す下着一枚のみ。
柊は、千尋の胸に顔を埋め、硬くなった先端を舌でゆっくりと舐っている。
ちらりと見え隠れする舌先が、扇情的だった。
彼の表情は、よく見えない。
そうしていると、千尋はまるで想い人に抱かれているような錯覚を覚え、
束の間の幸福を得られた。
乳房に寄せた唇はそのままに、柊は腕を千尋の下着に伸ばす。
あくまで下着は外さないまま、揃えた指を溝に沿って往復させ、熱を煽る。
下着についた蜜と秘部とがこすれあい、くちゅくちゅと立つくぐもった音が淫らだった。
「あっ……あぅっ、おねがい、柊っ、もう……」
千尋としては、直接の刺激が欲しい、とねだったつもりだったのだが、
「我が君、私を求めて下さるのですか……?」
柊の体躯が両脚を割って入った。この男、わざとやっている。
いきなり、熱の塊が千尋の中に入ってくる。
慣らされずとも、秘所は既に悦びの蜜を垂らして、いとも容易く柊を受け入れた。
そのまま、ずん、と強く突かれ、声が抑えきれない。
「あっ……ふ、あっ、あっ、……あんっ」
千尋の感じるところなど、すべて知り尽くした男は、堪えられないところばかりを確実に攻めた。
乱暴に抱かれても、悦楽ばかりが引き出される。
突かれるたび、一つ上に上り詰めるような感覚を覚え、
ついに昇りきるところまで昇って、目の前が白くなった。
「―――っ!」
過ぎた悦楽に、声すら出ない。全身が弛緩する。
それでも、柊は腰を動かすことを止めなかった。
一度達した体には、刺激がさらに強く感じられる。
「はっ……あぁん、……柊ぃっ」
「ああ、姫……」
ふと思うことがある。目の前の男もまた、自分と別の「千尋」を重ねているのではないかと。
只の想像に過ぎないが、何らかの理由で運命を変えようと、
あの日の夕方に踏み込んだ柊は、千尋と同じく相手の中に、
自分の求める存在とはわずかの、それでも確実な隔たりを見つけたのではないか。
別の「千尋」を慕う柊が、あの時空で、別の「柊」を慕う千尋と出逢った。
だとしたら、皮肉なことである。
皮肉ではあるが、互いのために都合が良かったのかもしれない。
――お互いの傷を舐めあう関係も、案外悪くない。
気まぐれで、初めて行為の最中に柊の顔を覗き込んでみた。思いがけず、目が合う。
同時に、柊の動きも止まった。
少しだけ微笑んでみたら、戸惑ったような表情の後、笑みが返ってきた。
いつものような、取り繕う笑みではなく、優しげな表情。不覚にも、一瞬だけ見惚れてしまう。
初めて、目の前の男を好ましいと思った。
額にそっと、口づけが落とされ、ゆっくりと抽送が再開する。
ほどなく、柊の動きが激しくなり、
「うっ……我が、君っ」
苦しげな息を吐いた。
「あっ、ん、あぁっ……柊っ」
瞬間、せき止められていた感情が溢れ、弾ける。
千尋の暴れだしそうな熱も、それと同時に解放された。
目尻に涙がじんわりと浮かんだけれど、何か温かなものが拭ってくれるのを、
朦朧とした意識の中で感じた。
「そういえば我が君、先ほど何か仰りたいことがあったのでは――?」
寝台の縁に腰掛けて、上着を羽織りながら、柊はとぼけた風に蒸し返した。
分かっているくせに、今更になって、こんなことを言い出すなんて。
やっぱりこの男は意地悪だ。
「ううん、いいの。何でもないわ」
そうですか、と唇だけで笑んだ柊は、目を伏せたまま、動かない。
その横顔が、寂しく、切なく見えたのは、千尋の気のせいだったろうか。
ぎゅっと抱きすくめられる。こんなのは、初めてだ。
彼が何を考えているのか読めずに、
抱き返すこともせず、ただ硬直することしか出来なかった。
数秒の後、体を離した柊は、いつものように底の知れない微笑をたたえていた。
「では、我が君。そろそろ御前を失礼させていただくとしましょう。
願わくば、夢の中でも逢瀬が持てると嬉しいのですが」
柊は、立ち上がり踵を返す。後ろを振り返ることはない。
――ああ、行ってしまう。
ちくり、と痛むはずのない胸が痛む。
千尋は、この感情を知っている。
――好きになって、いいのだろうか。
規定伝承は、また繰り返す。