その日、千尋は憂鬱そうに空を眺めて大きく溜息をついた。  
ようやく一つの戦いが終わったが、まだ次の戦いがある。  
守るべきもの為に、と己に言い聞かせつつ、まだ慣れない感情に振り回されがちだ。  
「風が気持ち良い…このまま溶けてしまえたらどうなるかしら」  
天鳥船の自室から外が見渡せる所へと出て、手摺りに体を預けるように寄りかかる。  
「姫さま、具合でも悪いのか?」  
不意に後ろから声がした。  
千尋は顔を上げて振り返ると、そこに立つ小柄な狗奴の少年の姿を見つけた。  
「足往」  
「入り口で声かけたんだけど返事なくて、それで心配になってさ…」  
「大丈夫だよ」  
ちょっと考え事をしていたからね、と苦笑交じりに答える千尋。  
「元気ないとみんな心配するぞ」  
「そうだね」  
「へへ、やっぱりいつもの姫さまが一番だ!」  
そういって屈託なく笑う足往につられるように、千尋も小さく声を上げて笑った。  
「姫さま、ちょっと良い?」  
足往はくいっと千尋の袖を引くと、彼女の顔を見上げた。。  
「何、足往…」  
どうしたの、と声をかけようとして、唇のすぐ横をぺろりと舐められた。  
「ちょっと、な、何!」  
前触れもなく顔を近付けられたと思ったら、キスのようなことをされた。  
千尋にとって足往は弟のような存在だったので、まさかこのような、とトンでもない不意討ちを受けた気分だ。  
意味を知ってやっているのだろうか。  
「んー、やっぱりおいらじゃ駄目かな」  
ほんの少しばかりシュンとした彼の耳がぺたりと垂れる。  
子犬が飼い主に叱られた時のような仕草に、千尋は怒る気も失せた。  
「この前、姫さまが落ち込んでいた時のことなんだけど」  
「ん?」  
ちろり、と上目遣いに彼女の顔色を伺うくりくりとした丸い瞳が無邪気に見上げてくる。  
「忍人さまが姫さまの顔に何かこうしてくっつけたら、姫さま、すごい元気になったの見たんだ」  
「…あ、足往!」  
「でも忍人さまは何も教えてくれないし、他の人に相談しようかと思ったら止められたし」  
まあ、彼のその反応は当然だろう、と千尋は心の中で呟いた。  
「寝る前ならどうかな、と思ったけど、忍人さまの姿が見付からなくてさ」  
その時間、彼がどこに居たかなど、口が裂けても足往に明かせないし、聞かれても答えられない。  
風早あたりは気付いているのだろうが、足往にそこまでの勘の良さはなかろう。  
「あのね足往」  
出来るだけ平静を装いつつ、頬が赤く染まっていくのは隠せない。  
「なあに?」  
「もっと大きくなって強くなったら教えてもらえると思うよ、多分」  
「そっか、じゃあもっと頑張ってみるよ」  
何を頑張るんだ、と突っ込みかけて、千尋はごまかすように咳払いする。  
「じゃ、しっかり休んでおくれよ、姫さま」  
おいらは船内の巡回途中だから戻るよ、と言いながら、千尋の自室を出て行った。  
 
どこまでも高く澄んだ夜空を見上げた。  
 
橿原宮まであと少し、常世の国との戦いに決着が付けば…  
もうここまでくれば逃げる事は出来ない。  
自分の双肩にかかる幾多の重責をひしひしと感じる。  
「私は負けられないんだ…」  
肩のあたりで揃えられた金髪が風に揺れる。  
以前は長く伸ばしていたが、自らの手でばさりと切った。  
躊躇いがなかったかといえば嘘になるが。  
「…明かりもつけずにどうした?」  
彼の手には小さな明かりが揺れている。  
「忍人さん!」  
「相変わらず無用心だな、君は」  
つかつかと部屋に入ってきた忍人は、手元の炎を室内の照明へと移す。  
「…やはり気になるか」  
立ち尽くしたまま、じっとこちらを見詰める千尋の近くへと行くと、肩にかかる髪へと手を伸ばす。  
金糸のように細い髪はすぐに指の間を抜けて零れる。  
女性にとって髪は命なんですよ、という兄弟子の言葉が蘇る。  
忍人から見れば女性だから、というよりも千尋の長く美しい髪が失われた方が悲しく感じた。  
「ううん、そうじゃなくて」  
そこまで言って、ふと目の前に彼の顔がある事に気付く。  
昼間の足往の言葉を何故か思い出し、訳もなく赤面した。  
「……ん」  
何か声をかけようと思う間に唇が触れる。  
忍人は千尋の細い肩へと手を置き、薄く開いた彼女の唇へと深く口付けてきた。  
「…は……っ………」  
苦しげに彼女が眉を寄せたのを見て唇を離すと、がくりと膝を落としかけた細い体を横抱きにする。  
「千尋」  
忍人の声で名前を呼ばれる。  
短くなった髪の合間に覗く白い耳朶に彼の吐息が触れる。  
ただ、それだけのことで、千尋の心臓は大きく跳ね上がる。  
「忍人さ…」  
俯いた顔を上げて彼の名を呼ぼうとした唇を再び塞がれる。  
「…千尋」  
「今日は…何かあったんですか」  
「……何故だろう、君の顔がとても見たくなった」  
本当はここに来るつもりではなかったのだと言い、彼は抱えた千尋の体をそっと寝台の上に降ろした。  
小さな明かりが照らし出すのは互いの顔。  
真っ直ぐに見詰めてくる深い蒼の瞳がほんの少しだけ和らぐ。  
「私も同じこと、考えていたんですよ」  
千尋は腕を忍人の首へと回して軽く抱きつく。  
「………千尋」  
「本当はとても怖いんです」  
だからこの手を離さないで下さいね、と翡翠の色にも似た鮮やかな瞳が微笑みかける。  
「ああ、分かっている」  
華奢な肩を押して柔らかな寝台へと横たわらせると、忍人は淡く色付いた唇へと口付けた。  
襟元の留め具を外しながら、緩んだ衣を取り払って白い肌へと優しく触れていく。  
細い首筋を撫でるように滑り、鎖骨の窪みへと触れ、薄い衣に包まれた乳房へと指で辿る。  
「…明かり、消して下さい」  
恥じらいを含んだ千尋の声に小さく苦笑すると、忍人は枕元に置いた明かりを消した。  
 
最初は亡国の姫と将軍という関係に過ぎなかった。  
その関係は今でも二人を縛っている。  
だが互いに惹かれる心が時にその束縛を解くこともある。  
 
決して人に明かせない秘密だとしても、求める心は止められない。  
 
 
「千尋…」  
短く切りそろえられた金髪が白いシーツの上を跳ね、白い頬は上気して薄紅に染まっている。  
明かりは落としても、窓から差し込む仄かな月光が青く室内を照らし出す。  
闇に目が慣れてくれば、潤んだ瞳で見上げている千尋の顔が分かる。  
ふるりと揺れる柔らかな乳房に掌を添えるように包んで揉みながら、切なげな吐息を零す唇へと己のそれを重ねた。  
薄く開いた唇の間から舌を差し込んで絡ませる。  
「…ふ……んんっ…」  
つん、と固くなっている頂点を指先で摘み上げると、びくりと彼女が体を震わせた。  
くぐもった声を上げて身を捩る千尋を見下ろしながら、忍人は己の内に燻る熱を感じた。  
初めて彼女を抱いた夜、破瓜の痛みに身を強張らせながらも応えてくれたあの時を思い出す。  
綺麗な顔を涙で濡らしながら、細い指が己が背をかき抱いた時を。  
あの爪痕は、まだ薄く忍人の背に残っている。  
額にかかる彼女の前髪を払い、秀でた額へと口付けた。  
「……まだ辛いか」  
問い掛けられた千尋は小さく首を横に振ると、彼の胸元へと顔を伏せる。  
「大丈夫です…その……」  
もぞりと腿をすり合わせるように動かしながら、千尋の声は更に小さくなっていく。  
「何だ」  
髪を優しく撫でてつつ、耳まで赤く染めた千尋の顔を覗き込むようにして顎に手をかけた。  
「…知りません、もう忍人さんなんて……あぁっ………やっ」  
汗ばむ肌をなぞりながら、片方の手を下肢へと伸ばす。  
閉じかけた膝を割り、とろりと蜜を零している秘所へと指を沿わせると、千尋の体が大きく跳ねた。  
「慣らしておかねば辛いのは千尋だ」  
まるで軍議の時のように冷静な忍人の声。  
それはかえって千尋の羞恥心を煽り立てていく。  
「あ、……ぁっ…」  
彼の指がぐちゅりと音を立ててそこを掻き回す度、千尋は艶めいた声を上げていく。  
「千尋」  
小さく囁くように呼ぶ声はとても優しく耳に響く。  
特に感じやすい場所を刺激され、頭の中が白くなる。  
「…ふぁ……」  
軽く絶頂を迎えたのか、短く声を上げると、千尋はくたりと腕を投げ出した。  
心臓がばくばくと脈打つ音が大きく聞こえる。  
自然と眦に浮かんだ涙を忍人の唇が掬い取った。  
目線で頷き合うと、千尋の片足を抱え上げて腰へと手を掛けた。  
そのまま秘所へ押し当てられたもので奥まで一気に貫かれる。  
「んっ…」  
ゆるゆると動かしながら、次第に千尋の喉から悦楽の声が漏れるようになると、動きは激しくなる。  
点々と紅い痕を花びらのように散らした白い胸が揺れる。  
細い腰を支えられながら弱い所を不意に突き上げられると、例えようのない浮遊感が体を支配する。  
「は、あぁ……ぁっ!」  
背筋を駆け上がる快楽の波に身を委ねながら、一際高い声を上げて千尋は達した。  
「くっ…」  
それに合わせる様に中へと熱いものが注がれる。  
繋がっている所から溢れ出た精は蜜と混じって千尋の腿を伝い落ちた。  
「…千尋」  
余韻に浸る彼女の名を呼びながら、忍人は華奢な肩を抱き寄せた。  
「俺の唯一の…」  
消え入るように囁かれた声は薄闇に溶けていった。  
 
差し込む朝日の眩しさに、ようやく朝を迎えたのだと気付いた千尋は気怠い体を起こそうとした。  
だが、しっかりと腰の辺りを抱えられ、どうにも身動きできない。  
ぱちぱちと瞬きをして、ゆっくりと隣へと視線を移せば、そこに忍人の姿があった。  
彼の寝顔など、前に堅庭で見かけたぐらいで、このような関係になってからは一度もない。  
いつも目を覚ませば姿がないのだから。  
「…忍人さん?」  
意外と睫毛が長いんだ、と秀麗な顔を眺めつつ、彼の胸元へと身を寄せる。  
幾度か恥ずかしい声を上げてその背にしがみついた昨夜の事を思い出し、ぼっと顔が赤くなる。  
「……千尋」  
「おはようございます、忍人さん」  
まだ赤い頬を両手で隠すようにしながら、千尋はにっこりと笑みを返した。  
「………ああ」  
ぼんやりしているのか、忍人は無表情な声で応えてくる。  
だが、すぐにここがどこであるのか気付いたのか、素早く身を起こした。  
「すまん」  
すぐに出て行く、と言いながら寝台から降りようとした忍人の腕へと千尋は取りすがる。  
「待って、今から戻ってもその…」  
既に明るくなっている以上、他人に見付かりやすい状況になっているのは明白だ。  
ならば下手に動き回るのは得策ではない。  
「そうだな」  
千尋の言い分にも一理ある、と納得したのか、忍人は寝台の縁へと腰を降ろす。  
「…まずはその上に何か着てくれ」  
「え……あ、ああ、そうですね!」  
何事も率直に言う忍人が少々言い辛そうにしているので、千尋は自分の今の格好を思い出して慌てて手近な布を被った。  
「俺は向こうにいる、出来たら呼んでくれ」  
素早く身支度を済ませると、外が見渡せる露台へと忍人は出ていった。  
 
 
 
朝食を終え、軍議の場へ急いでいると後ろから声がした。  
「おや、忍人」  
今日は早いですね、と言いながら、風早に肩を叩かれた。  
「それではいつも俺が遅いようではないか」  
「まあ、ちょっと気になったんですよ」  
へらりと人当たりの良さそうな笑顔を浮かべながら、風早は忍人の唇の端を指した。  
「ここに少し紅がついていますよ」  
どうかしましたが、とわざとらしく聞いてくる。  
「…姫は紅など使っていない」  
「ええ、そうですよ」  
「なっ…」  
「大丈夫、他の人には言いません」  
姫の味方ですから、と言い、ぱちりと片目を瞑ると、風早は盛大な音を立てて忍人の背中を叩いていった。  
 
 
終  
 
 

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