景時さんの尽力により、九郎さんが西国統治を任される様になって早一年。
景時さんの側にいることを望み、私が京に残る事を選んでからももう一年経つ。
「あっという間だったなぁ。」
京の梶原邸、縁側から月明かりに照らされる庭の梅の木をを眺めながら
私はしみじみと過ぎた時を思った。
戦が終わったとはいえ、九郎さんの仕事は尽きることなく
もちろんその補佐を任されている景時さんも忙しい。
必然、二人でゆっくりお花見なんてできない。
でも、こうやって必ず帰ってくる景時さんを待ちながら
ゆっくり花を眺めるなんて、戦の最中には味わえなかった贅沢だ。
「早く景時さん、帰って来ないかな。」
一番に教えてあげたいのだ。貴方が好む梅の花が、今日咲いたよって。
きっと、私が大好きな柔らかい笑みを浮かべて喜んでくれるだろうから。
「早く会いたいなぁ。」
【……たい……】
誰にともなく呟いた独り言に、よく知る声が返ってきた。
「景時さん?」
きょろきょろと辺りを見回してみても、すらっとした長身は視界に入ってこない。
【…会いたい…】
「景時さん、そっちですか?」
梅の木の辺りから聞こえる声は、いつになく掠れている。
何かあったのか、と慌てて庭に降り木に近づいても彼の姿は見えず、
ただ月明かりの下咲く小さな花と、淡く甘い香りがあるばかり。
【望美ちゃん…会いたいよ……】
再度聞こえた響きに、私は寒気を感じて身を震わせた。
まるで、決して与えられないとわかっているものを希う様な声色。
一度だけ、そんな彼の声を聞いた事がある。
それは、壇ノ浦の戦前。私に縋りつき、言葉とはうらはらの絶望に暗く染まった眼差しで
どうか拒絶して欲しい、叶えられるわけが無いと…懇願された時。
『――オレトイッショニ、ニゲテクレナイカ――』
「景時さん、何処っ!?私だって、貴方に会いたいです!
私が貴方を拒むはずが無い、そんな声出さないでっ!!」
叫んだ途端、胸に下げた逆鱗が強い光を放った。
え、と思う間もなく私は光の中に飲み込まれた。
『景時さんが八葉だから、会いに来たんじゃありません!』
そう叫んで望美ちゃんが伸ばしてくれた手を、オレは振り払った。
本当に彼女を失ってしまった――もう二度と、取り戻す事も適わない。
額に押し当てていた香袋から香る梅花の香りが、一瞬眩暈がするほど強くなる。
突然現れた人の気配に眼を開けば…高館に帰ったはずの望美ちゃんが、
ぺたりとそこに座り込んでいた。
「…景時、さん?」
何が起こったのかわからない、と言わんばかりに首を傾げている。
彼女の視界から隠す為、握り締めていた香袋をそのまま懐深くにしまう。
困った事になった。今は幸運にも、政子様が陣から離れられているから良いとして
源氏軍の最奥からどう口実をつけて、彼女を逃がせば良いだろうか。
もちろん彼女自身にも…オレの思惑を、悟られないように。
「景時さん、なんだか怖い顔になってますよ?
お仕事上手くいってないんですか。私じゃお手伝いできませんけど言ってくれれば――」
どうして君には、そう警戒心という物がないんだろうね。
いっそ無邪気と言って良いほどの無防備。
立ち上がってこちらに近づいてくる望美ちゃんに向かって、オレは即座に銃を構えた。
「君は、どうしてまたこんなところに来たの。
此処がどこで、オレが誰だかわかっていないのかい?
オレは源氏の軍奉行で、君の敵だ。
もう君の八葉じゃないんだよって…言ったはずだろう。」
銃口を眼を丸くして見つめる望美ちゃん。その眼がオレの胸元を凝視して…困惑に揺れる。
「景時さん、宝玉と文様が…一体何があったんですか?
ここ、九郎さんの六条のお屋敷じゃないですよね。何処ですか?
景時さんは確かに軍奉行ですけど、私の敵じゃなくて旦那様です。
もしかして、頼朝さんからまた景時さんがしたくないお仕事命じられたんですか。」
話が噛み合わない。宝玉がなくなった理由など、彼女は当に知っているはずだ。
オレが裏切ったその瞬間、宝玉は他ならぬ彼女の手へ戻ったのだから。
それに彼女は何と言った?旦那様。誰が、誰の?
しばしお互い、困惑した顔で見つめ合う。
――何かを得心したのか望美ちゃんの顔がぱっと輝き、ポンと拳を手のひらで打った。
「ああ、そういうことですか。
あのね景時さん、信じてもらえるかどうかわからないんですけど。
私、この世界にいる『春日望美』とは別の望美です。別人なんですよ。」
確かに「私を呼んでる景時さんに会いたい」と願いはしたけれど。
まさかそれで違う時空に来ちゃうとは思わなかった。
自分の確固たる意思で時空を遡った時の様に、時の渦を掻き分けたわけじゃなかったし
状況把握に時間がかかってしまった。
信じられない、という顔で私を見ている景時さん。
でも銃口は以前こちらを向いたままで…それが、ここでの彼の選択だってことなのだろうか。
でも、それじゃあ。あんなに必死に私を呼んでいた声は。
「景時さんが、私に会いたいって…呼ばれたから、私はここに来たんです。
本当は、貴方が呼んだのはこちらの『春日望美』なんでしょうけど。」
でも困った。確かに宝玉の無いこの人は、私の大切な景時さんじゃないけど。
同じ顔で、同じ声で。…こんな表情の『梶原景時』を、放っておけるはずがない。
「『春日望美』じゃない、君…か。
旦那様って、言ったよね?そっちの『梶原景時』は、君の背なのかな。」
ふいに聞かれて、こくりと頷く。流石に陰陽師なだけあって、こういう異常事態には順応が早いみたい。
「はいそうですよ。私の景時さんは壇ノ浦の戦いの後頼朝さんと交渉して、
今は西国を九郎さんや弁慶さんと一緒に統治しています。
私は京のお屋敷でお世話になっていて、もう一年になります。」
本当はそうなるまでに、一言では言えない位いろんな事があったけれど。
何度も辛い思いをして、たくさん泣いて…それでも諦めずに、景時さんと一緒に勝ち取った世界だ。
「そう…オレは、君を選べなかった『梶原景時』の成れの果てってわけだ。」
突然降ってきた声はあまりにも暗く、そして近い。
驚いて見上げれば、酷く傷ついて見える…今にも泣きそうな顔の景時さんが銃を手放し、私の両手を掴み上げた。
「君の『梶原景時』は、君に優しい?
何があっても、君を傷つけない?――どんな風に、君の事を抱くのかな。」
「何言って…んんっ?!」
強引に重ねられた唇は、大好きな人のそれとあまりにも同じで。
一瞬、力が抜ける。その隙をぬって割り込んできた舌が、有無を言わせず私の舌を絡めとった。
「ふっ…ん、ふぅ…」
違う、私の景時さんじゃない。そう頭ではわかっているはずなのに。
無理やり手首を一纏めに掴まれ、袷を肌蹴られても。
この人を突き放す事ができない――。
一年経っている、と彼女が告げたとおりその身体は柔らかく丸みを帯びた雌のものだ。
女性の一年は、劇的にその身を変える。戦場に立たなくなったのも一因だろう。
しかし、何よりも。
晒された肌に点々と残る鬱血痕が、オレの胸を激しく掻き毟った。
彼女を…望美ちゃんを庇護下に置いて、間違いなく夜毎愛しているであろう『梶原景時』。
馬鹿げた話だ、選べなかったのは他でもないオレ自身なのに。
湧き上がる醜い羨望とドス黒い嫉妬。
オレが手に入れられずに諦めた物を手に入れている『梶原景時』に向かうはずのソレは、
腕の中で震える望美ちゃんに全て向けられて――止められ、ない。
「ごめんね、本当にオレが欲しいのは君じゃないけど。
オレだって、『梶原景時』なんだ。だから…いいでしょ?」
壁に身体を押し付けて、わざと口づけの痕を辿るように吸い上げる。
そうすれば君は、嫌でも被らせてしまうよね。だって同じ顔、同じ唇なんだもの。
「んぅ…や、ぁ…」
必死に唇を噛み締めてるけど…首筋に、肩に、柔らかい胸に。
幾つも残された痕は、君の感じる所をしっかり教えてくれる。
ねぇ、望美ちゃん。こういうのも同じなのかな。
オレが拒絶して、二度と触れる事適わない『春日望美』も。
同じところが、良かったりするんだろうか。こんな風に、身体を震わせたりするんだろうか。
薄い夜着の裾を払い、脚を伝って指を付け根へ這わせると押さえつけた身体が跳ねた。
「やめっ…やめてぇ、景時さんっ!!」
「どうして?気持ちいいでしょ。」
「こんなの、おかしいよ…絶対ダメっ…。」
「おかしくなんかないよ、オレはこういう事が平気でできる奴だもの。
君の『梶原景時』は、そういうところ見せてなかったの?…そうだろうね。」
舌先で転がしていた胸元から顔を上げ、口の端を吊り上げて望美ちゃんを見上げる。
自分でも、とても醜い顔をしているとわかる。
でも止められない、壊してしまいたい。
自分ではない『梶原景時』にこの望美ちゃんがよせる、全幅の信頼を。
(オマエダッテ、ウシナッテシマエバイインダ…)
「オレも君の『梶原景時』も、同じだよ。
本当は酷い事だって平気でできる。君を裏切る事も、嘘をつく事も…泣かす事だって。
だって同じ人間だからね。弱くて、卑怯者で。自分の事しか考えられない。
ホント情けない奴……」
「――――違いますっ!!」
逆らい難い悦に蕩けていた望美ちゃんの身体が、オレの言の葉に突如強張る。
その眼に力を取り戻した彼女に驚く間もなく、オレは力一杯突き飛ばされていた。
ぼやけた意識が、一気に怒りで熱くなった。
「馬鹿なことを言わないでっ!勝手に私が、何も知らないなんて決めつけないで!!」
衝動のまま突き飛ばした景時さんは、呆然とこちらを見ている。
許せない。『梶原景時』を…大切なあの人を貶めるなんて、それが例え景時さんであっても…許せるわけが無い。
「景時さんが私を泣かさなかった?傷つけなかった?
そんなわけないでしょう!裏切られたし、嘘もつかれたし、涙が枯れるまで泣き喚きましたっ!
それでも――――嫌いになることなんて、できやしなかったんです!!」
志度浦で、絶対逃げてくれるって言ったのに裏切った景時さん。嘘なんて、いつもついていた景時さん。
船の上で泣いて泣いて泣き喚いて…それでも、諦める事なんてできなくて。
「必死に手を伸ばして、捕まえて、それでやっとわかったんです。
私以上に景時さんはたくさんたくさん辛くて泣きたくて、でも泣く事すらできなかったってことを。」
一年経った今でも景時さんは、昔の夢を見て魘されている時がある。
優しい人だから。昔の事だと、割り切る事ができない人だから。
「景時さんは弱くなんかない、卑怯者じゃない、いつもいつも自分の事なんか放りっぱなしで
――――情けなくなんかぜっっったいないですっ!!」
一気に叫びすぎたせいで、喉が痛む。勝手にぼろぼろ零れる涙のせいで視界がぼやける。
きっと酷い顔になってる。でも黙っている事なんて、絶対にできやしない。
……それに。今目の前にいるこの人も同じ『梶原景時』だというのなら。
「貴方だって、そうなんでしょう?
一人で全部抱え込んで、『春日望美』には何も教えてくれない。
それなのに―――ずっとそんな、泣きそうな顔で彼女の事呼んでたんですか。
本当に、酷い人ですよね。」
虚ろな眼差しを私に向けていた景時さんは、伸ばした手と零した言葉に身を竦ませた。
きっと彼自身も気づいていないだろう、頬を伝う涙を拭う。
今ここにいることができない『春日望美』の代わりに。
伸ばされた手が頬を擦って、漸く彼女が何をしようとしたかわかった。
無理やり肌蹴られた袷を直すより先に、酷い仕打ちをしたオレなんかの涙を拭うのが先だなんて。
「君って人は、何でそんなに……」
強いの、だろう。
「梶原様、今宜しいでしょうか?」
「…手が離せない。報告なら其処で簡潔に頼む。」
「御台様が後ほど、こちらに合流されるそうです。」
「――わかった、下がれ。」
「御意。」
不意に部屋の外からかけられた部下の声に、オレは我に返り身体を起こした。。
政子様。オレの主を守護する、絶対的な存在。逆らう事なんてできるはずも無い―――。
「御台様…茶吉尼天ですか。」
「知ってるの。」
立ち上がり袷を直しながら呟かれた声音は、彼女の物とは思えないほど低い。
「ええ、よく知ってます。とても強大で怖い異国の神様ですよね。
鎌倉で景時さんが、命がけで頼朝さんを欺いていた時に皆と私で祓いましたから。
皆ぼろぼろになったけど、一歩間違えたら負けていたかもしれないけど…私達、勝てましたよ。」
だからね、と到底信じられない事を口にしながら望美ちゃんはオレに強い視線を向ける。
「景時さんも、諦めてしまわないで。
貴方が言った様に、私の景時さんと貴方が同じ『梶原景時』だというのなら。
私と今此処にいない望美も、同じ『春日望美』ですよね。
なら私、貴方に教えてあげられることがあります。」
ふわ、と花がほころぶ様な笑みをオレに向けて。
オレの大事な人と同じ姿、同じ声を持つ『春日望美』は―――告げた。
「貴方がどんなに酷い人でも。
何度私を裏切っても、嘘をついても、泣かせても。
例え、私の事を撃ったとしても……『春日望美』が、『梶原景時』を諦める事はありません。」
「望美、ちゃん…」
【…ぞみちゃん?何処にいるの……】
目の前の人が恐る恐る私の名を呼ぶ。それに重なるように、私を呼ぶ声が聞こえてきた。
ちゃんと伝えれたよね。私が今口にした事は、紛れも無い実体験だから…きっと、伝わっているはず。
「呼ばれているから、帰らなきゃ。
ねぇ景時さん。此処はまだ冬なんですね…この衣じゃ寒いもの。
私のいる所は、もう春なんですよ。今日、梅の花が咲きましたから。」
この部屋にも微かに漂う梅花の香。景時さんの好きな香りだから、きっと私はそれに導かれて此処に来た。
逆鱗が熱を持ち、光を放つ。光の奔流に飲み込まれる前にもう一つ景時さんに伝える。
「きっとここにいない『春日望美』も、貴方と梅が見たいと願ってるはずです。
――叶えてあげて下さい、ね?」
「約束」と呟いた声は、また音もなく涙を零した貴方に…届いただろうか。
「…みちゃん、望美ちゃん見〜つけた。」
眩しい光が急激に視界から引いて、目の前には先程まで対峙していたのと同じ翡翠色の瞳。
追い詰められた悲壮な光じゃなくて、柔らかい笑みを浮かべたそれは間違いなく私の大事な人のもの。
「こんな夜中に庭に出ちゃいけないよ、何してたの?
まだ寒いんだから、風邪引いちゃうでしょ。
ほら、こんなに冷えてる。」
躊躇いなく抱きしめてくれる景時さんに甘えて、私もその背に手を廻した。
違う世界で冬の冷気に晒されていた身体が、温もりに包まれてゆっくりと解ける。
景時さん自身から香る梅花と、頭上に花開く梅の香りが甘く重なった。
「あのね、今日やっと梅の花が咲いたんです。
それを見てたの、やっと春が来たのが嬉しくて。
景時さんと一緒に見たいなって。だから待ってたんです。」
ああ、と月明かりに照らされる木を見上げた景時さん。
小さな花を認めて綻んだ大好きな笑顔が、そのまま私に降り注がれた。
「本当だ……もう春なんだね。教えてくれてありがとう、望美ちゃん。」
私がこの温もりを得る為の道上で、悲しみに心を切り裂かれたように。
冬の厳しい寒さが、『貴方』の心を凍らせたのでしょうけど。
春は、こんなにも暖かいから。――だからどうか。
『貴方』が、約束を守ってくれますように。
託宣を残し、現れた時と同じ様に唐突に『彼女』は消えた。
独り、冬の冷気の中に取り残される。『彼女』が今まで其処にいた証など何も無い。
全てはオレが、浅ましい欲の果てに見た幻覚なのだろうか。
かさり、と音をたてて香袋が懐から滑り落ちた。
床に落ちたそれを拾い上げる…香る梅花。
『彼女』の肌からも、似た香りがした。この香袋よりもっと、鮮やかな香りが――。
『私のいる所は、もう春なんですよ。今日、梅の花が咲きましたから。』
「望美、ちゃん……」
もう一度、額に香袋を押し当てる。
『彼女』の言の葉が、幻でないのなら。
こんなオレでも、まだ望美ちゃんを思う事が許されるのだろうか。
凍りつかせた心の片隅に、あの面影を抱いていても良いのだろうか。
恐ろしい禍つ神から、護り抜く事ができると――信じても、いいのかな。
どうか、少しだけ君の言の葉に縋らせて。
今此処はこんなに寒いけど、いつか季節は巡るのだと。
春は、必ず来ると。