見し夢を 逢ふ夜ありやと 嘆く間に 目さへ合はでぞ 頃も経にける
香の薫りがする。
花梨は、どこか懐かしい薫りを感じふと目を覚ました。
几帳の奥にある丁寧に手入れされた庭は紅色に染まっており、花梨はやっと自分がうたた寝していたことに気付く。
「ありゃ、もう夕方か。お休みだからといって寝過ぎちゃったかな。」
今朝からの記憶を辿ってみる。
今朝は紫姫から「今日は雨の上、自分が片忌みだから神子様の安否を気づかれない」と、神子の仕事を休むよう提案されたのだ。
毎日朝から晩までお札探しやら四神開放やらでくたくたになっていた花梨にとってそれは魅力的な提案で、二つ返事で紫姫に賛成したのだった。
しかし神子の仕事がないと、現代っ子の花梨としては何だか物足りない時間で―――
外に出るのは今日は止められており、八葉達もおのおの仕事がある。
女房達は女房装束を花梨に着せたり貝合わせをしたりと気分転換を図ってくれたが、それもすぐに飽きてしまい、ぼうっと庭を眺めていたのだった。
雨はもう止んでおり、透明度を増した秋の空気は赤く朱く世界を染め上げている。
部屋の中もきれいな朱に色付いており、几帳や鏡台の影が長く濃くその存在を主張していた。
そこで花梨はふと思い立った。
そうだ、香だ。種類は分からないが、香の匂いで目が覚めたのだ。
と、遠くから響く烏の鳴き声以外何の音もしない静寂の中、かたん、と背後から音がして花梨は反射的に振り返る。そこにはびくりと立ちすくむ東宮の姿が一つ。
花梨は安堵の溜め息をついた。
「なんだ、彰紋君か、びっくりしたぁ。」
「ごめんなさい、もしかして起こしてしまいました?」
「ううん、起きたのはさっきだよ。なんだかいい匂いがしてね…」
そこで花梨は、香の元が彼であることに気付いた。そして、彼が女物の衣を手にしていることも。
「彰紋君、それ…」
「ああ、先程こちらを訪れた際に、貴女がお休みになられているのが目に入って。
そのままだと風邪をひくんじゃないかと思って何か掛けるものを、と袿を持ってきたんです。」
でも起きていらしたなら無駄でしたね、と彼は優しく笑う。
東宮としての仕事もある中、わざわざ持って来てくれたのだ。
そう考えると申し訳なく感じ、花梨は「それ私貰っていい?」と思わず言ってしまった。
「ええ、それは構いませんが…」
「だって、この衣からだよね?香のいい匂いがする。」
花梨のその言葉に彰紋はパッと表情を明るくした。
「良かった、気に入ってくれたんですね、その薫り。実はその薫衣香、最近僕が好んで焚いているものなんです。
この香に包まれて休むと、良い夢が見られるんですよ。」
「え、本当?じゃあ今日からこれ被って寝ようかな。」
嬉しそうな花梨の様子に、彰紋の頬も緩む。
「はい、素敵な夢が見れるといいですね。」
「うん!彰紋君はどんな夢見たの?」
その言葉に答えようとして記憶を辿った彰紋は、しばらくの沈黙の後、俯いてしまった。
不思議に思った花梨は目の前の少年の顔を覗き込む。
夕焼けがその面に移ったのかと思われるほど顔を真っ赤にした彰紋は、花梨の視線から逃れるように体ごと移動して距離を取った。
「彰紋君?」
「あ…いえ、その……あ、貴女の夢を、見たんです。」
「私の?」
彼の思わぬ台詞に、花梨はキョトンと目を大きくさせる。
小さく頷いたまま花梨と目を合わせようとしない彰紋を好ましく思いながらも、彼が赤くなった理由をただ単に恥ずかしがっているのだと曲解した花梨は、彼を慰めようと明るく話し出した。
「私だって見るよ、彰紋君の夢。そういう時、すごくいい気分で目が覚めるんだよね。
それでね、早く彰紋君に会いたいって思うんだ。」
「本当に?それは嬉しいです。」
「うん、だから恥ずかしがることなんてないって。私、彰紋君が私の夢見てるって嬉しいもん。」
いつの間にか烏の鳴き声も聞こえなくなり、その変わりに鈴虫の合唱が始まる。
庭の虫が奏でる音色は、部屋の静寂をいっそう際立たせているかのようだ。
空は茜から紫にもうすっかり変わっていて、それもまた藍色に刻々と変化しつつあった。
部屋も急に薄暗くなり、そろそろ明かりが必要かなと花梨が考え出した時、彰紋がゆっくりと口を開く。
「でも、僕の見た夢は、貴女のそれとは違うでしょうから…」
部屋の暗さで彰紋の顔がぼんやりとしか見えない。
どんな表情をしているのか知りたくて、花梨は膝を動かして彼に擦り寄った。
「彰紋君は、どんな夢を見たの?」
視線がかち合ったかと思われたその時、バサリという音と共に、袿の移り香が強く鼻孔を擽った。
自分が、彰紋が被せた袿の中にいると気付いたのは、吐息が重なる程近づいた彰紋の顔を認識してからだ。
彰紋は切なげに眉を寄せると、本当に小さな声で「これが、僕の見た夢です。」と囁いた。
今度は花梨が赤くなる番だが、離れようとしても意外と力強い彰紋の手に腕をがっちり捕らえられていて動かせない。そうこうしている内に、彰紋の片方の腕は花梨の腰に、もう片方は彼女の頬に添えられた。
衣擦れの音がする度、狭い衣の中、ほんのりと香の薫りが広がる。
「夢の中では、何度も貴女にこうして触れてきました。でも、目が覚めるとそこに貴女はいなくて…僕は寂しかったです。…いつでも貴女にこうやって触れることが出来たらいいのに…」
そう言うと、彰紋は花梨の額に軽く唇を触れさせた。
馴れない体験に戸惑いながらも、花梨は必死に自分の想いを伝えようと彰紋の目を見つめる。
「…私だって、いつも思ってるよ。彰紋君の、傍にいたいって。」
彰紋は一瞬驚きで目を見開いたが、すぐに蕩けるような微笑みをその顔に浮かばせる。
花梨の唇に指を充て、左から右へとゆっくり滑らせてから自分のそれを重ねた。
高灯台に火が灯られた。灯械の上の油盞には、橙色の小さな炎がゆらゆらと揺れる。
それを遠くに見つつ、袿に包まれた花梨は彰紋に抱きかかえられ、帳台に静かに降ろされた。
袷から腕を抜き、袙の姿になった彰紋は花梨の袴の帯を緩める。
しゅるり、という衣擦れの音が恥ずかしくて、花梨は彰紋の首に腕を回して肩に顔をうずめた。
そんな彼女の様子に彰紋はくすりと笑うと、背中にその細い指を滑らせる。
「っつ、あっ!」
びくりと身体を硬直させて、花梨はますます強く彰紋にしがみつく。
そのまま単と小袖も剥いでしまうと、薄暗い部屋の中、ぼんやりと白い背中が浮かび上がった。
それを見つめると、彰紋はうっとりと囁く。
「夢みたいです。貴女はこんなにも美しく、清らかで…」
「んっ…ああっ」
その手触りを確かめるかのように、ゆっくりと太腿を撫で上げる。
そのじれったさが花梨の秘められた欲望を煽っていく。
「…こんなにも艶やかだ…」
炎が灯ったかのように段々と火照っていく身体に、もはや花梨も声を抑えられない。
彰紋が身体中至る所に赤い花を散らす度、ひっきりなしに甘い声が部屋中に響く。
「やあっ…、あ、きふみ、くんっ…」
陰影のついた白い胸の蕾を唇で戯んでやると、縋り付く細い腕に力がこもった。
彰紋はそんな花梨の頭を抱え込み、より身体を密着させる。
花梨の身体から花のような香りが匂い立った。
こんな日が来るなんて、思ってもみなかった。
身体の底から湧きあがってくるこの初めての感情。
それはきっと、貴女が、そこにいてくれるから。
こんなにも、僕を満ち足りた気持ちにしてくれるのは、貴女だけだから…
「いい、ですか?」
上気した頬を撫でて彰紋が問う。貴女の痛みを誘うのは、とても心が痛むけれど…
「あき、ふみくん」
その顔に微笑みを浮かばせて、花梨の指が彰紋の背中に触れる。
「…僕の天女…」
彼女の柔らかな身体を男の猛りが貫いた。
「あああああ!」
痛みに顔をしかめる花梨の髪を撫でて、彰紋は顔中に口付けを降らせる。
身体の下に敷いている袿と彰紋に覆い被さっている袷から、薫が周囲に広がっていく。
ほんのりと漂う衣の残り香が花梨自身の香と混じり合い、まるで媚香のようだ。
やがて花梨の声に甘さが混じるようになり、元より余裕なんかない彰紋は、探り当てたそこを重点的に責めるよう揺すりあげた。
「あ…や、んっ…あ、ああっ…」
「っつ、花梨さん…っ」
「彰…ふ、みく…っも、もう…っ」
二人の吐息が絡み合う。薫りが混ざり合う。
二人だけの香が一段と強く薫った時、彰紋の唇が自分のそれと重なるのを感じながら、花梨の意識は深く深く落ちていった。
眠りについた花梨に、彰紋は自分の袷を掛けて静かに立ち上がる。
部屋を出て廂を渡ると、どこかで薫物合せでもしているのだろうか、秋風に運ばれて微かにいくつかの香の薫りが漂ってきた。
明日、また彼女の部屋に行こう。
新しい薫衣香と伏籠を持って。
薫りに触れる度、貴女を愛しく感じるように。
…貴女を思い出せるように。
差貫を引きずる音を立てて彰紋が去った廂に、彼の溜息の中に残る薫りが秋風に揺れ、宵闇の中ふんわりと漂っていた。