生田神社で平知盛と対峙した望美は鬼神のようだった。  
知盛が名乗りを終えるか終えないかのうちに、陣を固める八葉をすり抜け一陣の風が疾走した。  
抜き身の剣を構えた望美だった。  
知盛は動揺の欠片も見せずに望美を迎え撃つ。二三度打ち合うと、つばぜり合いになった。  
弁慶は生まれてこの方、犬歯を剥き出しに歯を食いしばる女を見た事がなかった。これほどの形相をする女がいようとは。  
不思議と見苦しいとは思わなかった。ただ、背筋を垂直に流れるものを感じた。手負いの獣のようだと思った。  
望美は危ういまでに先走っていた。  
弁慶含む八葉が、望美の先走りに追いつく頃には、防戦一方のひどい状態だった。  
平家の将である知盛の方が当然ながら手練れだ。望美の手足に赤いものが幾筋か見えた。  
致命傷にこそならないものの、細かい手傷を確実に増やして望美の集中力を欠こうというのだろう。  
しかし、ぬめるはずの剣の柄を取り落とさず、望美はなおも剣戟を浴びせる。知盛しか目に入らない様子だった。  
知盛は絶妙の間合いをとり、愉快そうに言った。上唇を舐め、不敵に笑う。  
 
「源氏の神子か」  
「そう、あなたの相手は私がする!」  
「獣のような女だ」  
「何を…!?」  
 
知盛の言葉に、明らかに望美は動揺した。  
『獣』という言葉に心当たりがあるのか、慄きは手にも伝わったようで、望美は何度も剣の柄を握りなおした。  
 
「お前は神子ではない。獣だ。  
 
おまえは戦いの中に身を置き血路を築く事によって、自分の目的に着実に近付いていると実感し、高揚していられるのだ。  
戦こそおまえの安らぎ。今も安堵すると同時に恍惚となっているのだろう。おまえの目を見れば分かる。  
認めてしまえ。  
戦にあるとき、震えるほどの痺れが皮下にまでせり上がってくる、その快感を。  
そして、俺に教えてくれ。如何なる目的がお前を獣たらしめているのか。  
俺も同じだ。生死の境目でしか生の実感を得られぬ獣だ。  
 
おまえと俺は同じだ」  
「…私…、私は…」  
 
望美は突如として剣を取り落とし、頭を抱えて震えた。平知盛の壮絶な口説きを聞きながら。  
瞳孔が開いたかと危惧する程虚ろな目は何も映さず、瞬きすら忘れているように、大きな目は乾いていった。  
その先の望美の言葉は無かった。ヒクヒクとした喘ぎしか喉から漏れない。息をする事も出来ないでいるようだ。  
知盛は喉の奥でくっくっと愉快そうに笑う。  
 
「感じ過ぎて息も出来ないのか?」  
「同じの筈がありません」  
 
静かな攻撃が知盛に向けられた。  
知盛は、弁慶の薙刀を避けたが、それに気取られて、法衣に隠された拳には気付かなかった。  
望美を辱めた男は、頬を殴られ勢い良くのけぞる。  
優男に見える弁慶も、薙刀の技量もさる事ながら、法衣に隠された筋力は十二分に通用する。  
知盛に一撃をくれてやりながらも、弁慶はこの退廃的な将に屈した苦い思いでいた。  
この男は望美をこの場の誰よりも理解している。弁慶は本能的に悟った。  
あわや望美の秘める目的を、彼女の喉から引き出さんばかりだった。弁慶にすらも分からない、熊野で頑なに仲間の助力を拒んだ彼女の目的を。  
弁慶とて己を嘘で塗り固めて望美に接しているのは、当然自覚のある事だったが。  
望美は目の前の出来事に即座に我を取り戻し、成すべき事を思い出した様子だった。  
 
「望美さん、戦えますか」  
「はい!」  
 
 
生田神社から平家は退いた。  
敗残兵や残務処理は残るものの、八葉や源氏の兵達は各々ひと心地ついているようだった。  
その中で、弁慶は望美を探していた。知盛相手に無茶をして手傷を負った姿は、急ごしらえの陣幕の中には無かった。  
生田の森の外れに望美は一人でいた。  
遠目にも、すでに怪我の手当てを終えているのが分かった。  
自分で施したのだろうか。熊野で望美が言った『迷惑をかけたくない』という言葉を思い出す。  
近付くにつれ、裂いた綿布でいささか不器用にではあるものの、しっかりと傷口を巻いてあるのが見えた。  
すでに戦いの終わった姿だが、どうしたことか望美はまだ抜き身の剣を手にしていた。  
望美は弁慶に気付かない様子で佇んでいる。かと思えば急に咳をして、しばらく唸っていたが膝を付いた。  
慌てた弁慶が駆け寄る。  
大地から身体を庇うようにして立てた望美の、剣を握らない方の手が土を鷲掴みにした。  
 
「ううっ…」  
 
望美は真っ青な顔だった。弁慶は黙ってその背をさすった。  
 
「ごめんなさい弁慶さん」  
「謝らないで下さい。君がつらい理由は、まだ話してはくれないのですか」  
駆け寄った弁慶に驚く気配もなく、望美は存外冷静に謝った。  
虚をつかれた弁慶は、今度は多少の苛つきを滲ませた口調を作り、望美の口を割ろうとした。  
熊野で交わした、時期が来たら胸の内に秘めるものを話すという約束を、弁慶は忘れていない。  
しかし、望美は再び謝るのみだった。弁慶の引き出したい情報は、喘ぎ喘ぎの望美の口から出てこない。あの平家の将ならば引き出せるのか。  
呼吸を落ち着けると、望美はやっと言った。それも弁慶の策謀の足しになるような言葉ではなかった。  
 
「あいつが憎くて、憎くて。怨んでも怨み足りないんです。だけど倒すにはまだ腕が足りなくて、自分が許せない。あいつだけは絶対に私が斬る」  
「……」  
「あいつの言葉は真実です。私は獣なのかもしれない」  
「君から獣の匂いは一切しません」  
 
弁慶はかつて望美についた、そしてこれからもつくであろう嘘の中で、最も見破りやすい嘘をついた。  
おそらく望美自身が一番よく分かっている。  
何故、望美がこれほどまでに深い憎悪を知盛に向けるのかは、弁慶は分からない。  
しかし、憎しみという名の執着が、少女をがんじがらめにしているのは、危険だと察した。  
口では憎い憎いと言いながら、知盛の事を考えている間は、望美は全ての事をおろそかにしている。  
自分自身の事も。弁慶は望美の手当ての向こうにある傷を思った。  
まるで恋に落ちたかのように盲目的ではないか。  
 
「君は、良い香りがしますよ」  
 
この言葉だけは真実だ。  
少女らしい、芳しい仄かな香が望美の髪からする。  
 
「望美さん、つらくても自分の足で立てますか。  
 今、君は人に甘えたくなさそうだ。自分で何かの結論に行き着きたいのでしょう。じっくりと、一人で歩いて考える事です。大輪田泊に行き着くまでには」  
「はい」  
「本当のところは、僕が抱いて行きたいのですが」  
「その言葉だけで嬉しいです」  
 
望美は素直に頷いた。弁慶は少しばかり心外な思いでいた。  
内心、望美が頬を染めて俯くか、こんなときに冗談を言う自分を責める眼差しを向けるかと思っていた。  
意図しての事かは分からないが、こうもあしらいの上手い望美は、やりづらい。  
望美が剣を鞘に収め、はばきを鳴らす音を聞くとようやく、彼女から獣が去った気がした。  
 
 
 
陣幕の中での小休止。軍議での発言をめまぐるしく考えている最中、弁慶は珍しくうつらうつらと浅い眠りについた。  
夢を見た。  
 
平知盛が望美を犯す夢だった。  
具足姿の知盛が、立ち向かう術を持たない望美を追い詰める。  
望美は丸腰だった。剣も陣羽織も草摺りさえも身に着けていない。だが、弱気にならず知盛をねめつけている。  
いかにも楽しそうに、知盛はじりじりと望美を追い詰める。  
望美は退く動きではなく、隙を伺う動きで一歩一歩と後ずさる。わずかの機会あらば知盛の喉笛に噛みつかんとする気勢だった。  
その目がはじめて揺らいだのは、自分にこれから降りかかる宿命を悟ったときだった。  
知盛がまず両の大袖を邪険そうに外し、地に落とした。具足を次々と外し、自らの着物にも手をかける。その間も望美を見る目は変わらず狂気じみていた。  
望美は最初こそ知盛が何をするつもりなのか判りかねていた様子だったが、やがて肌蹴けられた上半身が露わになると、大きく目を見開いた。  
貞操の危機を察知した、純粋な恐怖が訪れた瞬間だった。  
 
 望美さん、こちらへ!  
 
弁慶は叫んだ。叫んだつもりだった。  
しかし、声が出ない。それどころか、弁慶は身動きもできなかった。  
 
望美は今度こそ恐怖して身を翻し、逃げを打った。弁慶とは逆の方向へ。  
しかし、重厚な武者姿ならいざ知らず、軽装の身となった知盛は俊敏にそれを制した。  
あっさりと望美の退路を遮り、ふてぶてしい顔で腕まで組んでみせる。鍛え抜かれた筋肉が、知盛の動きに合わせてしなやかに隆起した。  
 
「来ないで!」  
 
決して聞き入れられはしないだろう言葉を叫ぶ。  
当然の事ながら知盛が望美を逃がす気配は微塵もない。  
足がすくむのを無理に後ろへと動かした望美は、小さな石にもたやすくつまづいた。ガクンと傾く身体。知盛は望美の隙を逃さない。  
一気に肉迫し、猛禽のように肩を、腕を掴む。  
 
「離して!何するつもり!?」  
「知れたこと。お前を犯すのさ」  
「なっ…」  
「神子殿は男を知らぬとお見受けする」  
 
知盛は望美の抵抗など意にも介さず、着実に小袖を剥いでいった。  
帯も内着も地に落ちる。  
今や望美は、あの短い裳袴にも似た白い装束を腰にまとうのみの姿だった。  
上半身が露わになる。白い胸、飾りのような鎖骨、突端の尖り。少女らしさが際立つ、それでいて充分に女の素質が見える。  
男という作り手によって、望美の女の形がこれから決まる。そんな裸身だった。  
望美は着衣の殆どを奪われても、今にも唾棄しそうな顔で眼前の知盛を睨んでいた。  
それはより知盛を煽る眼差しだったに違いない。  
弁慶でさえも、憎悪に染まった望美の目を、息を飲むほどに美しいと感じた。これがもし自分に向けられたら…。  
押さえ込むように唇を交わそうとする知盛。望美は真横に顔を背けた。  
小娘の足掻きなぞ片手でこと足りるとばかりに、知盛は望美の両手を背の後ろでまとめ、顎を鷲掴みにして口を吸った。  
 
「んっ、く…っ」  
 
知盛がむさぼる唇に、ときおり小さな歯が見え隠れする。望美は舌まで許す気など毛頭ないのか、食いしばって耐えている様子だった。  
その様子を間近で目を細めて見やった知盛は、足ばらいをかけてのしかかると、望美を地に倒した。  
したたかに背と尻を打ちつけても、望美の目から光は消えない。  
望美の上唇を口に含み、音をたてて吸い上げる。上下の歯を使って、しごいて甘噛みする。  
下唇にも同じ事が施されたが、目を固く閉ざして望美は耐え切った。焦れた知盛は小さく舌打ちする。  
知盛は、望美の唇を己が口を被せて覆った。獣の接吻だった。山犬が獲物を窒息死させるときのようだ。  
これには望美も耐え切れなかったのか、くぐもった声を出した。その隙をついて、知盛がより深くとばかりに顔を捻った。  
男の頬の筋肉が、わずかの弛緩と張りを交互に見せ、口腔の中で舌を蠢かしていると分かる。  
望美の頬が、おそらくは本人の意思とは無関係に染まる。  
少女の喉が何かを嚥下するのを、弁慶はやりきれぬ思いで見た。金縛りにあったように目もそらせない。  
濡れた水音が聞こえてくるかのような濃厚な接吻だった。  
閉ざした知盛の瞼がわずかにピクリと動いた。  
 
「やはり獣か。俺の血を味わいたいらしいな」  
 
知盛の舌を噛んだらしい。望美は荒く息をついている。揶揄に反論の言葉もない。  
男が乱暴に拭う唇に血の色は見当たらなかった。  
唾液の方が勝っているのだろうか。  
血の数滴も無意味にする程の量が、あの少女の口内を侵していたのだろうか。  
 
「そうこなくては、いたぶり甲斐がない」  
 
望美に四つん這いの姿勢をとらせると、白い衣装をたくしあげ、無造作につらぬいた。  
 
「ああっ!」  
 
俯いた姿勢から望美は一気に喉を仰け反らせる。垂れていた髪が勢いを借りて頭上の知盛を打った。そんな事では知盛の笑みは崩れない。  
望美の見開いた目が弁慶を捉える。望美が絶望しているのを、弁慶はその目から理解した。  
やがて筋を真っ直ぐに浮かせた望美の白い喉から、引き攣るような息遣いが立て続けに聞こえた。明らかにそれは痙攣していた。  
痛みに耐えているものの、耐え切れない様子だ。  
望美は最初こそ両腕を地面にしっかりと立てていた。知盛に屈しまいとするかのように。  
健気な両手は震え始めた。つら過ぎるのか頭をうな垂れた。それでも腕だけは萎えまいとしていた。  
知盛は望美のその様子を見て全てを悟ったらしく、一瞬玩具を手に入れた少年のような目をした。  
ひと思いに押しつぶせばいいものを、徐々に望美の背に体重をかけていく。  
 
「やめ…嫌…!」  
「神子殿、これが男の重さだ。源氏の神子という使命を背負いきれぬ、ただの女であるお前が耐え得る筈はない」  
 
やがて望美は容赦なくのしかかる重みに力なく折れた。グシャ、と音さえするかのように無残だった。  
這いつくばり、望美は頬を地面に擦り付けた。胸は圧迫されてひしゃげ、元の良い形を失った。  
下肢だけは高くかかげている。知盛がそこを下げるのを許さなかったのだ。片手を望美の横腹のあたりから入れ、下腹を掌に収める形で支えている。  
 
「無様だな。だが狂わしいまでの艶もある」  
「…ううっ、あっ、くうっ…」  
 
知盛は腰を打ち込みはじめた。まだ望美は痛みを自分のものにしていなかっただろう。  
ズズッ、と律動に合わせ望美の頬が擦れる。  
砂利が傷に入りはしないか。だが破瓜の痛みはそれを上回る激痛なのだろう。削られる頬になど頓着できぬほどに。  
 
「フッ、これは…小娘だと思っていたが、随分と…」  
「…あっ、あっ…はぁん」  
「女の声になってきたな」  
「違う、…んんっ、あっ」  
 
何度も、何度も、望美を呼んだ。半ば絶叫に近かった。  
弁慶は声も出せず、動けないでいる自分を呪った。夢から覚めたいと思うよりも、今すぐに望美を助けたかった。  
一人だけ逃げても、望美が助からなければ意味がないのだ。  
誰よりも傷つけたくない少女だった。  
嘘をついておきながら、利用しておきながら、それでも望美が泣く顔を見たくない。  
 
 
 
「弁慶さん、どうして見ているだけで助けてくれないの」  
 
望美は突如として弁慶の目の前に現れた。間近に迫った顔に弁慶は凍りついた。  
陵辱していたはずの知盛はいつの間にか姿を消していた。  
風穴のような虚ろな目で、望美はますます顔を近づける。  
 
「やっぱり、あなたも私を獣だと思っているんですね」  
「違う。違います僕は、」  
「嘘つき。どうして私を騙すの、笑って嘘を言えるの」  
 
ようやく言葉を紡ぐ事のできた弁慶に最後まで言わせず、望美は鋭く遮る。  
望美は弁慶の手を取った。彼女の手の感触はなく、それは夢である証拠だ。弁慶の指はゆっくりと開かれる。  
弁慶の手のひらは、鮮血に染まっていた。望美が底知れぬ笑みを浮かべる。  
 
「私の血をどうしてあなたが持っているの」  
 
望美は笑う。慈愛に満ちてさえいるような微笑だった。そんな顔で糾弾されるのは地獄だった。  
せめて知盛と対峙したときのような形相でいてくれたら、その目が憎んでくれたら。  
何もかも許すような顔で居られると、弁慶はいたたまれない。  
弁慶の謝罪も弁明も贖罪も欲してはいない、それどころか弁慶に期待するだけ無駄というような顔だったからだ。  
 
「罪をあがないきれるの?」  
 
 
 
 
弁慶は硬直したまま目を覚ました。全身に滝のような汗をかいていた。  
陣幕の喧騒の只中に引き戻される。  
随分長く感じた夢だったが、時間はあまり経っていないようだった。  
 
深く嘆息して、弁慶は額に手を当てた。側頭部にかけて痺れるような頭痛が苛む。鼓動と同じようにズキズキと痛んだ。  
知盛の顔のはずが、見覚えのあるような顔の気がしてならなかった。  
夢の終わりで知盛が見当たらなかった理由はそこにあるような気がして、答えに行き着きそうになった弁慶は思考を止める事で辛うじて自分を保った。  
そうしておきながら、熊野で見た望美の背と、夢の中での陵辱が頭から離れない。  
望美が言った『私の血』とは、よもや破瓜の血ではないのか。  
まさか。考えすぎだ。  
所詮は夢だ。悪夢も正夢も無い。  
知盛の顔がいつの間にか自分の顔にすり替わっていた理由など、ただの夢に答えなどないのだ。  
 
 
 
終  
 

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