(なっ――――は、裸だと!?)
九郎は絶句した。目の前の光景が現実だとは俄かには信じられなかった。
なにせ望美が、薄暗い部屋の中、一糸纏わぬ姿で立っているのだ。
時刻は、女性が男を訊ねるにはいささか不謹慎である時刻で、
何故こんな時間に、望美が自分の家にいるのかがまず理解できない。
いや、同棲まではしていないとはいえ、合鍵を持つ仲なのだから、可能と言えば可能なのだが
しかし、今日はバイトが立て込むから会えないと、そう連絡した筈ではないか。
「……お、お帰りなさい、九郎さん」
目の前の望美はしかし、至って普通に第一声を放った。明るい声。
九郎に余裕があれば、その声が僅かに上擦っているのがわかっただろうが
勿論、そんな余裕など九郎にある訳もない。
ただぱくぱくと、陸に上げられた魚のように、口を開け閉めするばかりだ。
「の……ののののの望美、お前!」
「今日は遅かったんですね。私、待ちくたびれちゃいました」
ふわり、と望美は九郎の手を取り、部屋の奥へと誘う。
六畳ほどの狭い部屋(1DKというらしい)の奥には、この世界の褥――ベッドが置いてある。
すっかり毒気を抜かれた九郎は、ずるずると望美に引っ張られるまま、
すとん、とベッドに腰掛けてしまう羽目になった。
(な、なにか言わなければっ……!)
訳がわからない。
もしや怨霊にでも化かされているのではないかという、馬鹿な考えが頭をよぎる。
いいや、ここはあの世界ではない、そんな事がある筈がない。
混乱しきったまま発した言葉は、だから少々間抜けたものになってしまった。
「く、靴下くらいはけ! 靴下くらい!」
叫ぶようにそう言ってから、自分の台詞のすっとんきょうさに気付く。
ここはシャツくらい、というべきではないのか。百歩譲ってエプロンと言うべきだったろう。
案の定、望美はくすくすと笑い出す。勿論全裸で。
「……案外マニアックなんですね、九郎さんって」
「ち、違うぞ! お、俺にはそんな趣味は――いや、そもそも!」
見当違いでも、大きな声を出したのが功を奏したか、先程から言いたくて堪らなかった疑問が口をついて出た。
「なんで、お前が、俺の部屋で――は、は、裸になってるんだっっっ!」
そしてとにかく、女体を目の前からなくさなくては、とばかりに、掛け毛布を望美の頭からばさり、と被せた。
そこまでして漸く、九郎は落ち着く事が出来た。
一方、乱暴に毛布を被せられた望美は、少々不満げに九郎を見上げる。
「……もしかして九郎さん、私の事嫌いですか」
「なっ――何故そんな話になるんだ。訳がわからん。順序だてて話してくれ」
「……だって九郎さん、全然私に触れてくれないじゃないですか。婚約者なのに」
「そ、それは、婚約者というのはあちらでの話で」
「ふーん、婚約者って思ってたのは、私だけだったんだー」
「ち、違うぞ望美! 今のは言葉の綾で、婚約者ではなくとも、お前は俺の」
「俺の?」
「……大切な、恋人だ」
言ってから数拍の間を置いて、かぁぁと頬が火照っていくのを感じる。
おそらくは、耳まで赤くなっているであろう己の顔を望美に見られているのは恥かしかったが、
しかし、その望美の顔も真っ赤だったので、おあいこだなとなんとなくそう思った。
「……よかった。もしかして九郎さん、私の事、もうどうでもよくなっちゃったのかなって」
「どうして、そんな馬鹿げた事を思った?」
「九郎さんは、その、あまりそういうこと、言ってくれないし
――こうして部屋に来ても、キスもしてくれないし、泊めてくれる事だって絶対ないし」
「馬鹿! 婚姻前の女人を泊める訳にいくか!」
憮然としてそう言うと、何を思ったか望美はくすくすと笑い出す。
「そう、そうですよね――うん、九郎さん、そういう人でしたもんね」
「な、何が可笑しい」
「いいえ――うん、私、ちょっと焦っちゃってたみたい。びっくりさせてしまって、ごめんなさい」
軽く頭を下げた望美は、次の瞬間くしゅん、とくしゃみをした。
九郎は慌てて着ていたダウンベストを望美の肩に着せ掛ける。
「馬鹿! まだ寒い時節だというのに、裸でなんかいるからだぞ」
「はい……ごめんなさい」
しゅん、とした様子ではあるものの、まだどこか笑い出しそうな表情の望美を見ていると
本気で叱り飛ばすのもなんだか馬鹿げている気がする。
九郎は身振りで服を着ろ、と望美に伝えると、自分はとりあえず部屋を出ることにする。
「九郎さん? まだ、怒ってます?」
少しばかり焦った声が、背中に投げかけられる。
九郎はぶんぶんと首を横に振り――振り返るわけにいかないからだ――そして、小さく呟いた。
「まったく…そんなだから、放っておけないんだ……」
本当に、次の瞬間には何をしでかすやらわからない。
いつもこうでは身が持たない。ならばいっそ甘い台詞の一つでも、言ってやればいいのか。
(――好きだ、望美。愛している)
駄目だ。台詞を考えただけで、頭に血が昇ってしまう。
これは次回以降の課題だと、九郎はまた大きく溜息をついたのだった。