「や、泰衡さん」  
 一瞬、影に見えたのはその黒い衣装のせいだったらしく、泰衡が例に漏れず眉  
間に深々と皺を刻んだまま望美を見下ろしていた。  
 その足元に喜ぶ金がまとわりついているが、全くの無視だ。  
 無邪気に振られる尻尾は、朗らかさとは対極にある泰明の表情とはまったく噛み  
あっていないのが、笑えるような笑えないような。   
「神子殿に、そのような趣味があったとは驚きましたな」  
 しかし、珍妙さに気を引かれていた望美は、ニヤリとどこからか聞こえてきそうな  
泰衡の冷笑に、室温が下がったかのような錯覚を受けるほど衝撃を受けた。  
 あるいは、その笑みには呪詛かなにかがかかっていたのか。  
「しゅ、趣味って……違います!」  
 一番最悪な方向に向かった状況に、バクバクと心臓が嫌な音を立てて高鳴って  
いるし、おかげで血潮の巡りの悪くなった指先など冷たくなっている。  
 最も厄介な人物に見咎められたのは、やはり、道徳から外れた報いだろうか。  
「私には犬に舐められ、悦に入っていたと見えたが?」  
「それは不可抗力で、わざとなんかじゃ」  
 どうやら最後の方だけ見られていたようで、尚更、分が悪い。  
「隠さずとも良いのですよ。神子と言えば神聖なる物。男との交わりは禁忌でしょう  
からな。けれど、生身の身体では欲の捌け口を求めるのは当然」  
 言葉では認めるような事を言いながら(認めてもらっても嫌だが)人を馬鹿にした  
ような表情は嘲っているのを隠そうともしていない。   
「だから、違うってば!」  
 この石頭と続けなかっただけまだ、望美は冷静さを持っていた。  
「しかし、獣との淫行にいそしむのは、呪詛を見つけてからにしていただけると助か  
りますな」  
 どこまでも人の話を聞かない相手に、弁解する意欲がみるみるしぼんで行く。  
 話すだけで、これだけ気力を使わせられる人がいるとは新たな発見ではあるが、  
ここで口をつぐんでしまえば認めることとなってしまい、それだけはどうしても避け  
たかった。  
 そこで、心の中で泰衡にいろいろな文句を浴びせながら、望美は先ほどの出来  
事を再現してみせる事にしたのだ。  
 百聞は一見にしかず。  
 その言葉の使い方は間違っていても、他に妙案も語彙も浮かばないのだから仕  
方ない。  
「……金、おいで」  
 名前を呼ばれた金は軽い足取りで呼ばれた望美のところへ行くと、伸ばされてい  
た手の平に、撫でてくれと自主的に身体をすりつけた。  
 金には力を込めた気はまったくないのだろうけれど、体重をかけられた望美は  
あっけないほど簡単に倒されてしまう。  
「あの時はこうやって、倒れたところに蜂蜜が零れて…っ」  
 ベタついて太腿に張り付いた単衣に落ちる蜂蜜の微かな重みだけでも、一度上  
りつめた身体には大きな刺激だ。  
 気づかれないように声は殺したが、頬が紅潮しているのを誤魔化すには、薄暗く  
なり始めている部屋の暗さに頼る他ない。  
「ほぅ?」  
 面白そうと言うよりは、馬鹿な事を始めたとでも言うように、泰衡は腕組をして眺  
めている。  
 普通、ここまですれば納得して止めるのではないだろうか。  
 と、思いつつも今更後には引けなくなった望美は、泰衡を気にしてしきりに背後  
に耳を傾けている金の黒々とした鼻先に蜂蜜を絡めた指を持っていった。  
 
「金、ほら、蜂蜜……」  
 フンフンと匂いを嗅ぎ、それが美味しい物であると確かめると、尻尾が嬉しそうに  
振られる。  
「もうなくなった? こっちにもあるよ」  
 何も味がしなくなった指に、名残惜しそうに鼻を寄せている金を導くように単衣の  
上を指差したが、そこで金は躊躇した。  
 やはりどうしても泰衡が気になるらしく、いいの?と聞くかのように振りかえるのだ。  
 それを無理にこちらに向けるわけにも行かず、どうしたものかと望美が考えてい  
ると、泰衡がゆっくりと息を吐いたのが聞こえた。  
 濃くなってきた闇のせいで、泰衡はその姿がほとんど背景と同化しつつあり、表  
情もよく見えないが、どうやら何か言いたいらしいのはその溜息からわかった。  
「なるほど、神子殿の言い分はよくわかりました。つまり偶然だった、と?」  
「そう。そうです」  
 なんの奇跡か、ようやく望美が伝えたかった事が伝わったかに思えたが、やっと  
見えた突破口は更なる裏道への道しるべでしかなかった。  
「では証を見せていただきたい」  
「あか、し?」  
「望んでしたわけではないと言う事は、あなたは喜んでなどおられなかったはず。  
ですが生憎、私にはそうは見えなかったのですよ」  
 それってもしかして……。  
 そこまでは考える事の出来た望美だったが、それ以上は脳が拒否した。  
 つまり、完全に停止。  
 舐められているのを堂々と見てるつもりである泰衡に、むしろそちらの正気を疑  
いつつある望美だった。  
「泰衡さん、それ……本気ですか?」  
「ふっ…まさか。冗談ですよ」  
 あんなのを冗談だと言い切るのは豪胆ゆえか、それとも本気で冗談だったのか。  
 つくづく、理解し難い男である。  
「しかし、あなたも我の強い方だ」  
 ほんの少し、いつもの冷たさが和らいでいるのは呆れているからだろう。  
「泰衡さんほどじゃないと思いますけど」  
 今更ながら込みあがってきた恥ずかしさに、乱れた単衣を直したりしても、本当  
に今更だ。  
 乗せられやすい性格が、これほどに恨めしかった事はない。  
「もしも本気だ、と言えばあなたの事だ。して見せてくれたでしょうな」  
 くく…と押さえた笑い声に、望美は驚いて泰衡の顔を見たが、やはり暗闇迫った  
部屋の中では、ぼんやりとした輪郭しか見えない。  
 せっかく、笑ったのに。  
 あの仏頂面がトレードマークになっている泰衡が。  
「思いがけず長居してしまいましたが、これで。金、行くぞ」  
 バサリとマントが翻る音がして、出て行く気なのだとわかった。  
「あの、こんな事になっちゃいましたけど、蜂蜜、ありがとうございました」  
 恐らく背中に語りかけてたのだろうが、その背は意外にも立ち止まってくれた。  
「……なぜ私に礼を?」  
「だって、泰衡さんがくれたんでしょう? 銀が持ってきてくれたけど、蜂蜜なんて  
高価な物がそこらへんで売ってるわけがないし」  
「神子殿は、思いこみも激しくていらっしゃる」  
 馬鹿にした言い方にむっとしたけれど、ほんの一瞬、見えた光景に望美の言葉  
は呑まれてしまった。  
 開きかけた妻戸から漏れた外の灯りに照らされた横顔は、微かに笑っていたのだ。  
 返事も待たずに出て行った泰衡は、もうそこにはいなかったけれど、望美はしばし  
そのまま固まったままであった。  
 そんな望美を発見した朔は、その望美以上に驚く事になったが。  
 

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