「九郎はさあ、結婚とかしないの?」
景時がポツリと唐突に訊ねた。
所要で梶原邸を訪ねていた九郎は、今宵の月が綺麗だから…と景時に誘われ
そのままただぼんやりと月を眺めながら酒を酌み交わしていた。
思わぬ問いに口に含みかけた酒を噴出しそうになる。
「なんだいきなり!?」
「あ、ごめんごめん。いやつい何となくさあ〜」
頭に手を当ててあははと軽く笑う。
九郎はそれを面白くなさそうに軽く睨み、再び酒を飲み直す。
「…お前こそどうなんだ…気になる娘でもいるのか…?」
「いやいや、俺には可愛い妹もいるし。当分はいいよ」
あ、なかなか手厳しいけどね、と付け足す。
「ただ…」
それまでの影時の表情からは打って変わって少し寂しそうな表情で
月を見上げ、そして庭の池に目を落とす。
暗い夜空に丸く白く、真珠のように輝く満月…望月が水面に
波で少し歪んで映っている。
「ただ君の心にはまだ…あの水面の月のように、彼女が…
望美ちゃんが映っているんじゃないかと思って…ね」
その言葉に九郎は一瞬目を大きく見開く。
「…」
「知ってたよ。君が彼女を思っていたこと。…そしてそれは今も…」
見ていればわかる、と少し眉をひそめて無理に笑う。
「もうそろそろ…忘れたほうがいいんじゃないかな?君のためにも、
望美ちゃんたちのためにもさ」
九郎はガッと立ち上がった。杯が音を立てて
「…くだらん!俺があいつを?そんなこと…ある訳がないだろう!?
それにあいつは…もう三月も前に弁慶と一緒になったんだ。
悪いが帰らせてもらう。今後同じようなことを言うようならお前でも
許さんぞ!」
そう言ってドカドカと、いかにも不機嫌そうに帰って行った。
残された影時は一人、再び月を眺めていた。
「俺が君が…君達が心配なんだよ…」
『望美さん、僕はあなたが好きです。どうかこの世界に…
僕と一緒に残ってくれませんか…?』
ーあの時周囲の目をはばかりもせずに弁慶がそう言った…。
『はいっ!もちろんです』
望美はそう答えを返して…二人は抱き合った。
かたく…かたく
思えばあの時だったのだ…俺の中で完全に何かが目覚めたのは。
胸の中で何かが確かに灯ったのは。
…気づいてしまったのは…。
『知ってたよ。君が彼女を思っていたこと。…そしてそれは今も…』
先ほどの影時の言葉が脳裏を過ぎる。
「…俺も、まだまだのようだな。誰にも…誰にも打ち明かすまいとしていた
ことがこうもやすやすと…」
きゅっと唇をかみ締める。自分が腹立たしい…なのにそこからは何故か笑いが
こみ上げてくる気さえする。
『もうそろそろ…忘れたほうがいいんじゃないかな』
わかっている。そんなこと…。自分が一番よく…。
けれど頭によぎるのは…あの少女の花のような微笑、勇壮な出で立ち、
艶やかに舞う姿…そして真っ直ぐに澄んだ瞳…。
忘れようとすればするほど…。
忘れられない…何をしても、どうしても。
目に焼きついて消えない…っ。
これは遅すぎた…この気持ちが気付くのが遅すぎた俺への罰なのだろうか。
「こんな想いに今更気付いても仕方ないというのに…」
ー確かにここに灯ったこの想いは…風に吹かれて、静かに消えていくのだろうか。
「望美さん、もう大丈夫ですから先に家へ帰っていて下さい。
もうずいぶん熱も引いてきましたし…僕も夕刻までには帰りますから…」
「え…でも」
少し大きな声で返事をした望美の口元にしっと指をやる。
スーと寝息を立てて老婆が横たわっている。
「いいから…、眠いんでしょう?昨夜は夜通し看病をしていたんですから」
弁慶と望美は昨日から、高熱を出していたこの老婆の家を訪れていた。
看病を続けるうち日は暮れ、星が瞬き、そして朝が来て…とうとう昼を
少し過ぎてしまっていた。
「そんなっ、弁慶さんだってあんまり寝てないのに…私だけなんて無理です」
先ほどよりも声を潜めて反論する。
「私もここにいさせてください。いえ、ここにいます」
それを見かねて弁慶は、ふぅ…と小さくため息をつく。
ふわっと望美を引き寄せ耳元で囁く。
「いい子でまっていてください。ゆっくり休んだあとで…君にはもう
一働きしてもらいますから…ね?」
みるみるうちに望美の顔が林檎のように赤くなっていく。
「もうっ!弁慶さんなんかしらないっ」
と言って慌てて小屋を出て行こうとする…。
と、戸を閉めかけた手を止めてぶすっとした表情で
「…早く帰って来てくださいね」
「はいはい」
こちらは対照的に満面の笑みで答える。
…それはいつもの日常風景。