七章  はがれおちる想い  
 
 
望美が疑念を確かなものにしてしまったのは、この穏やかで優しい・・・そしてちょっと間の抜けた、  
愛おしい時間の逢瀬を重ねすぎてしまったのに気付かされた時だった。  
「――九郎?」  
とても嫌そうな表情になる。近くで見るとわかりやすい。眉根のよせ方が違う。  
この男にとって源九郎義経は絶対の執着対象である唯一無二の存在だ。  
多分望美でも九郎の代わりには決してなりえないだろう。  
その点では特に嫉妬なども起こらない。大切の種類が違うし、何より望美も九郎がとても大事だ。  
「そうだよ。昨日喧嘩してたでしょ。私は偶然通りがかったんだけど。ふふっ、また九郎さんに  
馬鹿って怒鳴られてたよね」  
望美が笑うと泰衡はそっぽを向く。面白くないらしい。  
「うるさい。俺が馬鹿ならあいつは阿呆だ」  
無駄に的確な表現である。  
望美は背筋を伸ばして正座して対面する相手を真摯な眼差しで見据えていた。  
彼女の瞳の中の想い人は明らかに困惑の色を隠しきれなくなってきている。目を合わせない。  
九郎を出されてはどうしようもないのだろう。  
――伝わり始めている。  
「私ね。以前は、泰衡さんのいう友って全然見当さえつかなかった。誰のことだろうって。  
九郎さんのことだってわかって驚いた。だって九郎さん、以前高館にくがねが遊びに来た時に私が  
泰衡さんと九郎さんって似てるって言ったらさ、ものすごく神妙になっちゃって、俺も慎まんととか  
怖い顔で言い出して・・・そんなに嫌なのかってその時は思った」  
「・・・」  
「けど、違うんだね。表面的な目に入るものばかりじゃない。九郎さんはよくわかってた」  
少しだけ、悔しい。うつむいた視線の先の両こぶしに無意識の力が入っている。本来なら自分が一番に  
気付くべきことだと思うからだ。  
「昨日、九郎さんに言われたこと覚えてるでしょ」  
「戯言だ。気にかける方がどうかしている」  
「そうかな。もう一度思い出して」  
 
望美は静かに眼を閉じて、昨日衝撃で脳裏に焼きついた兄弟子の台詞を復唱した。  
 
  どうしたんだ。こんな時に、泰衡殿らしくもない。  
  何がって・・・その目だ。信じられんくらいに穏やかで・・・お前とは思えないぞ。変な物でも喰ったか。  
  ふざけてなんかいるものか。  
  平泉が安泰ならついに御館のご子息としての風格がようやく表れてきたかとやっと思う所だが・・・  
  今は違うんじゃないか?  
  おい、はぐらかすな。本気で言ってるんだぞ。  
  そんな目で人が斬れるのか?  
  大丈夫なのか?  
  あの鋭い切っ先はどこへやった。錆びついたのか熱で熔かされたのかはしらんが、  
  その剣に今のお前の顔は正常に映るのか?  
  もういい、馬鹿。・・・一人でよく考えろ。  
  この馬鹿。  
 
空気は静かなまま二人の間を張りつめていく。それを無理やり突き破ろうと、泰衡は鼻で笑う。  
「話にならんな。  
数日前、俺達が些細なことで言い争いになり小競り合いに発展した時のことを思い出すがいい。  
通りかかった九郎は何と言った?あのはちきれんばかりの笑顔で――」  
「・・・『おっ!望美、泰衡殿、新しい術の訓練か?完成したら俺にも見せてくれ!楽しみにしている!』  
・・・・・・・とおっしゃいました」  
「そういう男だろうが」  
「でも、あれは私もスーパーサイヤ人ばりの拳と蹴りを繰り出してたし・・・  
泰衡さんも実は夜の本業の方ですかってくらいのすさまじいムチさばきだったし・・・  
そう見えないこと・・・もない・・・ような・・・気が・・・しない・・・ような・・・気がしないでもなくない?」  
「しない」  
「・・・。でもさ、九郎さん、すごく喜んでたよ。望美のが終わったら次は俺と泰衡殿で協力技でも  
作ってみるかって。俺くらいしか相手いないだろうからなって、笑ってた。優しい顔だった」  
「・・・・」  
「九郎さんの言うことは私達、大事にすべきだよ・・・」  
 
再度の沈黙が訪れる。共通の一人の大事な人間を通して、奥州全土に心が広がってゆく。  
九郎が抱く不満は限りなくこの大地と人々に暗雲を呼ぶものであることに、間違いはないのだ。  
やってきたこと、やろうとしていること。あまりに重すぎて耐えきれず、面と向かうふりをしつつも  
目を逸らし、甘く浮遊させてくれる恋心に浸かっていたかっただけのような気さえする。  
少なくとも望美はそう思う。自分では全く自覚がなかったのが、非常にたちの悪い病気の進行を  
思わせる。  
「とにかくあなたが何と言おうと――今日で終わりにします。ずるずるひきずるとかえって良くない  
と思うから」  
有無を言わさぬ強い眼差しを向けてから、頭を丁寧に下げた。  
「ごめんなさい。私、あなたを惑わせたかもしれない――」  
そう言い終える、次の瞬間。  
 
「やめろ。見当違いも甚だしい」  
 
心臓に凍てつく衝撃を与える低い声が望美をぞくりとさせてから、ものすごい勢いで通り過ぎていった。  
――きた。  
望美は意識をしっかり持てと自分に言い聞かせながら顔を上げる。  
とてもではないが恋仲の二人の間を走るとは考えられない緊張がバチバチと音を立てる。  
怒鳴ったりはしない。怒りに顔をゆがめることもない。けれど、冷たい瞳に青い炎のゆらめきと  
湧き上がる憤りを隠そうともしない泰衡の姿が望美の大きな瞳に映っていた。  
――なんだかんだで、怒らせると怖い。  
 
「――ふうん?すべて俺のせいというわけだな。しかも言うに事欠いて俺がお前に溺れているせい  
だと?ずいぶんと言う様になったものだな白龍の神子殿も。余程この泰衡があなたに振り回される醜態を  
お気に召されたと見える。楽しんでいただけたのなら光栄だよ」  
嫌な言い方をする。けれどもこちらとて退けない。  
「そんな言い方しないで。言い方を変えても本当のことだから仕方ないです。それにすべてあなたのせい  
だなんて一言もいってない。私も・・・とてもじゃないけどこれから戦場におもむく戦神子とはいえない。  
あまりに雑念がすごくて」  
「なんだ雑念とは」  
即でつっこまれて望美はついうろたえる。とても直には言えないことだったから。  
「答えられぬか。そうだろうな。その場限りの思いつきに色を加えろなどといっても早々頭は回らん  
ものだ。つぎはぎをあてるより答えぬ方がまだ利口に見えんでもない」  
鬼かこの男は。  
「望美――」  
「もう望美って呼ばないで!!私は白龍の神子に戻るの!いい加減わかってよ!!」  
口では勝てないと思い知らされて、つい辺りをつんざく程の大声を張り上げてしまう。  
肩で息をする望美を、大声に微動だにしなかった泰衡はクッと嘲笑った。  
「都合が悪くなれば怒鳴ればすむ、か。流石うつけの基礎が成っておられる」  
すいません言い直させてください鬼ですこの男。  
「本当に――本当に、やばいんです私達――意地悪しないで聞き入れてください。  
私だって、本当はこんなこというの嫌なんです」  
好きな女にギリギリだと言わんばかりの悲しい声を出されると、少しは苛立ちの炎が小さくなったの  
だろうか。腕組みをして、されど細めた非難の目は相変わらずのままで続ける。  
「ならば他にいくらでも道を思いつきそうなものだがな。  
仮に――口にするのも腹立たしいが――俺がお前の言うとおりの状態としようか。  
口頭の注意でもいい、お前の言うことならどんな戯言だろうが幾らでも心に留め置いてやる。  
落ち着くまで関係を預けると言ってもいい。――まず不安を打ち明けるとか、相談するという形が  
最もありがたかったのだが、今となっては虚しい限りだな。  
・・・いくつでも出てくる。  
すべて素っ飛ばしか。俺には何の権利も発言も与えられずか。あなたにとって――そんなものか」  
「泰衡さん・・・」  
「変わってなどおらぬ。この大事な時期に穏やかになど、むしろなれるわけがない。  
――九郎にも後できつく言わねばならんな」  
「・・・」  
一見するだけでは確かにそのように見える。望美もつい勘違いだったと思いこみそうになる。  
けれど黒の氷塊は溶け出している。  
もうすぐあれほど強情に言い張った決意さえぐらついてしまうんだろう。  
自己を押さえこんできた反動は大きい。  
平泉の民や九郎のためになればそれでいい。そう頑なに心を閉ざして保っていた強さは、  
望美という、優しい光を放つあたたかで無邪気な女の手を握り返すことで融解を始めた。  
――判断を違え、たくさんの命を巻き添えにして、その許されざる弱さを露呈することになる。  
望美さえ。  
彼女さえ、自分に微笑むこの花が一輪手元にさえあれば、何を失おうとも構わなくなる。  
 
 
  いいじゃないの、それで。何がいけないの?好き合っているのでしょう?  
  他人のために何もかも犠牲にすることなんてないわ。心のままに、寄り添っていればいいの。  
  そうね、ここではない、何処かででも。  
 
心の中で、くすくすくす、と誰かが笑う。  
望美の心からはがれおちる気のない、あの神を宿した鎌倉の御台だ。  
強烈に意識に残り、表面だけ優しいあの冷酷な笑いを永遠に続けようとする。  
――そうはいかないよ、政子さん。私はもう決めたんだ。  
 
 
望美の変わらない決心の顔と向かい合ううち、泰衡はやがて困ったような苦笑いをほんの少しだけ  
口元に浮かべた。ふっと空気が緩んだのに望美も気付く。よせた眉根は普段とは違う理由でしわを  
作っているように見えた。極々たまにだが、この男はこういう顔をして望美の心を鷲掴む。  
すう、と言葉もなく近寄ってくる。どうしたらいいかわからない。ただ、目だけは逸らした。  
その間、望美は忘れていた。  
――これがそんな素敵に素直な良い男であるわけがないことを。  
それまでのやりとりで、すっかり気落ちしたと思いこまされ油断した。  
何度も重ねた逢瀬で望美の弱点はほぼばれている。  
ばれる度気恥ずかしい思いをしてきたが、その中でも一番思い出したくないのはとにもかくにも  
初夜のあれ。  
蜜がかった甘たるい声で耳元で名前を呼ぶ。という――  
この男だからこその対望美用超必殺コマンド入力の秘技を、またかまされた。  
熱く高めた息まで吹きかけられるともう鳥肌どころではない。  
しかも、なんか朱雀組レベルの似合わない睦言も添えてきた。  
 
「ぎゃあああああぁぁああああああ゛ぁあああああっあああああ!!!!」  
 
咆哮に近い悲鳴。  
思わずギャグマンガキャラと張り合えるくらいのズザザザーッという音つきで弾け飛び、床の上を転がる。  
・・・本当にこれは逆ハーゲームヒロインの扱いなんだろうか?  
 
・・・・・。  
乱れる心音を抱え、ガクガク震えつつ荒い息と共に数十秒経過。耳まで真っ赤。  
向こうの方から『ざまあみろ』をたっぷり含んだ  
「阿呆」  
という声が氷柱のごとく突き刺さってきた。  
・・・見下す視線でにやにや悪人面しているのが見なくてもわかる。  
(こ・・・・・この、この、かなりどうでもいい隠しパラメータ保有者があああああああ――――  
私をおちょくるためなら口先の人格まで変えてきやがりますか――――――!!)  
身体がわなわなと震え始める。悔しさと、悲しみで。  
また最初から説明しなければいけないのだろうか。  
ここまで言っても、だめなのか。  
なら、どこから始めればいい。どうして伝わってくれない。わかろうとしてくれない。  
・・・私だって、つらいのに。  
私だって、本当は――  
冷えきった床に突っ伏して拳を握りしめていると、衣擦れで人の動く気配がした。  
「望美」  
声が急に重く近くなった気がした。え?と思った矢先。  
ものすごい勢いで引っ張り上げられて、加速された身体がドンという衝撃とともにしっかりと抱き留め  
られる。その瞬く間の接近を望美が理解できたのは、口内に他人の舌の侵入を感じてからだった。  
それでも頭はついていくことができず。  
その間にも既に乱れた白布の上に戻されて、抱えられたまま押し倒される。  
息が苦しくて眉根をよせてしまいそうになったころに唇は解放され、代わりに耳元でもう一度名を  
呼ばれた。今度は甘さなどかけらもない。  
正に“呼びつけた”という言葉がぴったりくる、心まで伸びる声で。  
「――望美」  
視線が圧力をもって望美を束縛してくる。  
「取り消せ」  
久方ぶりにこの男の氷塊の部分と対面した気がして、望美は息をのんだ。  
 
チャラララララララ・・・・・・・・  
ヤスがおそってきた!  
ノゾミは1のダメージ!!  
チャー・・・・チャーチャーチャー、チャッチャララーン・・・  
 
――馬鹿!あんまりにもびっくりしたからってRPG風に現実逃避してる場合じゃない!!  
・・・目が、本気だ!!  
「やっ、泰衡さん、ちょっと、やめて!」  
「すぐにでもやめてやるぞ。取り消せ」  
「だっ!だから――」  
動揺する望美に再度口付け、その内を貪る。平素はともかく褥では野の花を愛でるかのごとく  
扱われてきた望美には、強引に口を割って入ってくる舌はさらなる混乱を呼ぶものでしかなかった。  
心音は異常な程速くなるが、頭の方は芯からしびれていく感覚に襲われ、思わずぎゅっと目をつむる。  
唇が離れても、望美の荒れる呼吸だけが空間を踊っていた。  
「――言え」  
「やすひ・・・」  
「ほら。・・・早くしないと歯止めがきかなくなるぞ」  
「や、――ひあっ・・・!!」  
思わず弓なりに身が弾ける。面白がっているような妖しげな声色と、乱された寝着から侵入してくる  
手が撫でる内股への刺激が、望美の意識を遠い所まで放り投げようとする。手のひらはさらに足のつけ根  
へと滑り、もう片方の手は何度も触れてよく知っている胸の双丘を愛撫し始めた。おしよせる快楽の  
波に何とか耐えつつも、望美は吐息とともに懇願の声をあげるしかなかった。  
「やめて――話をきいて」  
「話ならもうきいた。後はお前が一言、言の葉にのせればこの話は終わりだ」  
有無を言わせてくれる気はないらしい。久しぶりに高慢な一面が顔をのぞかせる。  
とんでもない駄々っこだ。  
けれど、それにはもう付き合えないのだ。  
しかも、こんな爽やかな光射しこむ朝陽の中にことを始めようというのだから、月と雪の光や薄明かりの  
中の逢瀬しか知らない望美には刺激が一段と強い。ただでさえ突然、無理矢理身体でつなぎとめようとする  
などというらしくない行動に惑わされているというのに、羞恥で文字通り顔から火が出そうだ。  
「何を今更」  
見透かすような細目で顔を近づけてくる。  
「もうそんなことを恥じらう仲でもないだろう?」  
少しだけ、口元に皮肉のまじる笑みを浮かべる。  
望美は息をのんだ。毛越寺で、大社で、あの十六夜の下で――さんざん脳裏に焼きつけさせられた、  
まつろわぬ民の総領が見せたあの冷たい挑発的な微笑。  
己の道の障害はすべて取り除くという決意の刻印が押された冷酷な選択の証が、目前に迫る。  
怖い。本能的にそう思った。正直な表情になった顔を思わず真横に背ける。  
捕らえられた、そう感じた。  
あの時と同じように。  
――逃すものかと。  
 
「・・・」  
答えが返ってこないことに苛立ったのか、傷ついたのか。さらに口元が歪む。  
何故己を想う女が答えを返してこれないのかさえ、考えようともしない。  
「――いや、か。ならそうはっきりと言え。もうお前なんぞに触れられたくもない、と」  
「そんな・・・」  
「半端ですまそうとするならやめんぞ」  
「・・・・・・・・・っ」  
首筋にいくつも口付けがふってくる。一度円を描くように乳房をもまれ、その先端を長い指先で弄ばれた。  
下半身の茂みに侵入してくる数本の指は巧みに花心をなぞって快楽へと導き、粘りのある液は卑猥な  
音をたてながら湧き出てきて望美の肌を伝い、汚した。  
反応してしまい艶のある声はあがるが、心の方はとても空虚で涙が出そうだった。  
「やめ、ひ・・・あっ、ああ・・・――んああっ!んっ、・・・やだ、・・・やだ・・・」  
これではまるで――犯されているようだ。  
どうしても怯えと不安が色濃く出る喘ぎが漏れてゆく。耳に届いているはずなのに、どうして手を  
止めてくれないという思いで満たされ泣きたくなる。今まであんなに大切にしてくれたのに  
――自分の意にそぐわないと即こんな仕打ちをする人だったのだろうか?  
 
――違う。絶対に違う、そんな人じゃないよ。  
 
「ふ、う・・・っ、泰衡さん――こんなのやだよ泰衡さ、んん・・・っ!やすひ、・・・はあ・・・っ――」  
うわずった声で何とかやめさせようともがく。けれど溶かされかかった身体はそううまく動かない。  
「やめて」頼むから。「やめ・・・」お願いだから。本当は――行きたいのだ、手をひかれるままに、  
この余所見をしようともしない想いに抱かれたままに、その道を。でも。  
その先には。  
緊張が心臓を勘違いさせていつも以上に身体中を熱くさせる。頭にも霧がかかって朦朧としてきた。  
「あ・・・はぁ、やすひらさん、やすひらさん・・・っ」  
甘たるく咲いた呼び声の花にひかれ、乳房を含んでいた口が戻ってきて、言葉からあふれた気狂いの  
蜜をなめとった声で返してくる。  
「望美・・・」  
求めてくる声はせつなさを帯びて、余計に甘く響いて余韻を残す。  
たった一言名を呼ばれただけなのに。  
その耳への快楽と心の奥まで届く視線を感じ、本気でおかしな世界へ迷いこみそうになった。  
 
もうだめだ。全部、何もかももってかれそうだ。――この人の望むままに。  
――。  
だめだ、それだけはだめだ・・・・・  
望美の決意がふらりと顔を出した時と、彼女と破滅の道を歩もうとしていることにすら気付かない程  
溺れてしまった男の視線が一瞬だけ交錯した。  
 
 
「目を逸らすな。――俺を見ろ」  
逸らしてなんかいないのに。  
あごをつままれてぐいと真正面を向かされる。望美は思わず小さな怯えの悲鳴を漏らした。  
光の下でお互いの表情がよくわかる。  
どう見ても、どう考えても望美の方が不利で酷いことをされている立場なはずなのに、より哀しげに  
眉根をよせているのは乱暴をはたらく相手の方だというのは少々滑稽だった。  
けれども本心をあまり語らないこの男のする仕草や表情は、一つ一つから直に望美へと何かを訴えてくる。  
「言え。取り消すと」  
迫る命令口調の低い声は、裏側に何ともいえない哀願の念がうかがえて女をせつなくさせる。  
「飽いたのでもない、他に想う先があるわけでもない。ただ他人がおかしいといぶかしむから終わる  
のか。違うんだろう?本当は。それを教えろと言っている。そうでないなら――早く取り消せ」  
「・・・やっ、泰衡さん、・・・」  
「銀か」  
瞬間、時が停止する。  
――何といった。今。  
いやいやをしていた望美が突然白目をむく程に凝視してきたので、相手は真意を捉えようともせず  
自嘲気味な笑みを浮かべた。  
「図星か」  
・・・何を。何を、言い出す。  
「“許さない!私は絶対にあなたを許さない!!”だったか?  
――俺が奴を斬り落とした時のあなたの台詞は」  
そんなこと、もう。――もう。決して許してはいないけど。でも。  
「やすひ――」  
「当ててやろうか」  
さえぎってのしかかるように望美に体重を与えてくる身体には、いつもの優しさのかけらも見当たらない。  
「俺の志には同調するが、銀を殺めた事実はどうにも許せるものではない。復讐しようとしたところで  
先のことを念頭におき考えれば俺に傷を負わせるのは得策とはいえない。  
だから――心に侵入った。  
頃合をみて、それらしい原因を俺の側に作り終焉に持ち込む。まあ、原因の造りは滅茶苦茶だがな。  
――こんなところか?」  
もう呆然とするしかない。やはり頭がいいと余計なものまで組み立ててしまうのは定説なんだろうか。  
己の言葉が望美を凍りつかせているというのに、それを勝手に確信まで持ち上げて彼女を責める。  
「ああ、俺は確かにお前に踊らされていたな。情けない姿をさらしながら幾度もお前に口付けて。  
さあ、惚れた男の敵が討てて満足か?」  
 
惚れた男。  
 
・・・いや、それより。  
「・・・泰衡さん」  
そんなことより。  
「泰衡さんて」  
我を忘れた憎々しげな眼光に、怯えさえも忘れた苦しげな震え声で返す。  
「・・・そんな馬鹿げたこと考えながら、今まで私とこんなことしてたんだ・・・」  
思わず無意識に黒い髪をひっつかむ。もう片方の手は――手首を床に押し付けられていて、動かせない。  
「あんまりだ・・・銀のことは確かに許せないけど・・・絶対に許せないけど、許せないのはあなたと  
こんなことになった自分も含めてに決まってるじゃない。何でわかろうとさえしてくれないの?」  
目が涙でにじみ世界が歪む。  
「わっ、私は・・・すごく好きになっちゃったんだよ、あなたのこと。だからこんなに苦しいのに。  
お別れだって、本当は言いたくなんてなかったのに。なのに」  
当の泰衡は、未だ望美があの優しげに微笑む綺麗な男の影を残していると疑っていたわけだ。  
――信じてくれてなかったのだ。  
「なんだ、すごくお互い様じゃない。ねえ・・・謝る必要なかった。はは、ある意味お似合いだね私達。  
・・・・・・馬鹿みたい」  
急激に空しさがこみ上げる。通じたと思っていた心も全てまやかしだった気になってくる。  
もういい。何もかもどうでもいい。泣いてやる。あの時みたいに泣きわめいてうんざりさせてやる。  
もしかしたら発動した加虐心を煽るだけかもしれないが。  
ぽろぽろと、ぎゅうとつぶった大きな瞳から透明の悲しみが水玉になって落ちていく。  
伴う嗚咽が小さく空間を波打った。  
さすがにかの泰衡といえどかなり効いたらしい。  
女の涙と、予想外の本音と、普段ちょっとアレな恋人の別な意味での痛々しい姿というトリプルコンボに、  
少しは平常を取り戻したようだった。  
束縛を弱め、なだめようと顔をのぞきこんでくる。  
望美はそれこそ今更だとばかり手を払いのけた。  
「もういいです・・・」  
「泣くな。――やりすぎた」  
「もういい・・・」  
「――望美」  
 
意外だ。困ってる。ついほんの少しだけ、悔しいからもっと困らせてやりたいなどと思ってしまう。  
けれども、この男の抱いた不信も理解しかねるものではない――と思わざろうえなかった。  
常時望美の心を疑っていたわけではないだろうことは、さすがに何度も重ねた視線の灯火でわかる。  
別れを切り出したことで奥底から噴出してきたのだろう。  
なんせたどってきた経緯が経緯だ。彼の立場になってみれば確かに不安は隠せない。  
己が人形と嘲った存在は、別の意味で大きな姿になり、何処にも消え去ることはなかったのだ。  
まさに自業自得だ。泰衡さんにとっても、  
――――私にとっても。  
けれど、それでいい。命を奪った者がそれを忘れる日々など許されるはずもない。  
だから。  
 
「・・・お返し」  
頬をぎゅうっとつねってやった。  
面喰らったとばかりの顔をして、されるがままになっているのが何だかおかしい。  
「本当は拳とムチ舞う大喧嘩再びといきたい所だけど・・・元気がありません。  
誰かさんのせいで」  
「・・・」  
「ああもうわかった。わかりましたよ・・・  
全部あらいざらい吐き出さなきゃ私の好きな人は納得してくれないと。はい、わかりました!  
白状すればいいんでしょ全部。  
けど滅茶苦茶失望するからね私に。知らないよ?・・・あーあ、きれいに終わらせるなんて所詮無理だったか」  
はああ、と重い諦めのため息をついてから、つねった手でつねった頬をなでつける。  
「あっという間に嫌いになるかもね。私のこと」  
自嘲して皮肉げに笑ってみせる恋人が、自分を許そうとしてくれている雰囲気を読んだらしい。  
「俺が、お前を?」  
無表情で狭まった距離をさらに狭めてくる。  
「・・・ありえんな。まず、ない」  
望美は顔から皮肉の色を消してくすと笑う。  
「言い切れるんだ」  
「――当然だろう?」  
少々ためらいを表情にのせたが、吐いてしまえとばかりに投げやりに続いた。  
「言ったろう。荼吉尼天に喰われたと」  
何を言いだすのかと面喰らったが、どこかで聞き覚えのある台詞に浅く記憶をたどる。  
・・・先刻跳ね起きた時のフレーズだったか。  
「あなたがもう終わりだなどと言うから――」  
「痛かったの?」  
「言の葉になどのせきれん。急襲だった。九郎が無事だとわかって息をついて振り返ったら――  
あなたは――」  
――頭からボリボリと。  
 
・・・。  
おい、私ですか喰われたの。  
と望美はついこん身のつっこみを入れそうになったが、乱暴に腕を回され強くかき抱かれては  
とてもではないができなかった。  
 
「夢とはいえ――あんな思いは――二度と、ごめんだ――」  
 
その切れ切れに吐き出される語気の脆弱さに、改めてぞくっとさせられる。  
とても望美に浄土へなど続かぬ道うんぬんなどと提案した、あの大社にいた者と同一とは思えなかった。  
このまま道を進んだらどうなってしまっていたんだろう。再度背筋に冷たいものが走っていく。  
気付いてよかった。気付けてよかった。  
この人壊れてる。いや違う、私が壊したのか。  
九郎の懸念はやはり本物だった。  
弱すぎる。――こんなの、この人らしくない。  
突然望美の心に暗闇が訪れ、中央であの蓮の花が鮮やかに咲いた。目を見開いて、直後強くつぶる。  
怖くなって、彼が今すぐ消えてしまいそうに思って、泰衡の名を呼び抱きしめ返す。  
自分より広い肩幅さえ狭く感じた。  
「そんな声で呼ぶなら二度とおかしなことを言うな」  
心の底から自分を呼ぶ望美の耳元に、苛立ちをこめた返答を返す。  
「――二度と、拒むな」  
さらに深く抱いてくる腕。求めてくる痛々しい声。すべてが望美を容赦なく絶望の淵まで追いやる。  
ああ、やっぱり、本当にもう駄目なんだと思い知らされて、観念したとばかり相手の肌に顔をうずめた。  
 
 
 
 
 
終わるんだな、私達。  
 
さらけ出して、この人は弱くなっている。  
だが今の状態を逃すことはできない。悲しくても、進みたくなくても。  
けれど、最後に。  
最後に、もう一度だけ。  
ふらつく頭に喝を入れ、両手を伸ばして頭を抱きよせ口付ける。  
された側は突然の主導権剥奪に驚いていたようだが、望美の方から求めてきたという  
安心からか、少しだけ気持ちがやわらいだようだった。と共に、まとう空気が正常の方へとゆっくり  
引き寄せられて、落ち着こうとしていくのがわかる。  
一度だけ、空気を求めて距離をつくった時に望美はささやいた。  
「――私が好きなのはあなたですよ」  
返事はなく。  
跡に残ったのは舌の絡む甘い湿った音と、望美の豊かな髪を撫でつける普段通りの手のひらだった。  
 
糸を引く唇が離れていくと突然気持ちのひもまでゆるむ。  
望美の目は瞬く間にもう一度潤んで、原因を作った男を睨みつける。  
「――すごく怖かったんだけど」と恨めしげに口をとがらせると、  
「とっとと観念しない方が悪い」悪びれないどころか逆ギレしてきた。  
(こっ!このやろ、この状況で開き直るか・・・)  
かみついてやろうかと思ったが、はあ、と息をつく。言い争うのはもうこりごりだ。折れてあげよう。  
・・・どうせこれで幕引きの縁だ。  
何より。望美にはそれが本心からの言葉ではないことが、長い黒髪の隙間からこぼれる寂しげな  
表情から読み取れてしまうので。  
首に手をまわしてもたれかかり、甘える。  
「つらいでしょ。いいよ、して」  
「・・・いいのか」  
「いいも何もこんなにされちゃ――私だって最後までしたいよ・・・」  
「・・・」  
耳元でほんの小さく消え入るような声で、悪かった、と聞こえた。  
――本当に素直じゃない。  
「けど、もうしないでよ」  
と念を押してから、はっと気付く。しまった。次なんてもうないのに。  
これではただの痴話喧嘩をおさめる戒めでしかないじゃないか。  
しかし取り消す猶予は与えられなかった。再度抱き寄せられて返答をされてしまったからだ。  
「ああ。しない。――死ぬまでしない」  
 
・・・。  
・・・・・・。  
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。  
それは一体どう受けとめればいい発言なんだろうか、理解に苦し・・・・・  
・・・・・苦しめない。  
 
既に受け入れる準備が整っている茂みの奥を、ためらいがちな長い指がつうとなぞっていく。  
敏感になっているのでちょっと間隔をおいてからのその刺激に、それだけで意識が飛びそうになった。  
きっと罪悪感があるのだろうけれど。そこに口付ける過程はもういいよ、と先を促す。  
――本当におかしくなりそうだよ、と好きな男をせつなげに求める。  
お互いあの気のふれた蜜はまだ効いているようで。  
視線を絡めたのは合図。  
遠慮なく貫かれて身が弾けた。  
快楽を貪るだけの、つながったままの交わりが始まる。  
様々なところに口付けがふってきては、白い肌に小さな赤い花をいくつもいくつも咲かせていく。  
応えるように自らも気付かないうちに腰が波うってしまっている。もっともっとと欲しがっている。  
理性などもう微塵も残さず吹き飛んだ。  
――今は、知らないよそんなもの。ただ、この人が欲しい。  
「ああっ!ひっ、ああ――・・・あ――――っ。はあ、・・・やっ!!やああっ!!・・・」  
狂気を含む嬌声を留めることなく打ち上げる。  
時折ほぼ悲鳴に近い喘ぎを漏らし、黒い髪ごと後頭部を鷲掴んで己の肌と密着させる。  
突かれる度に、動かれる度に締めつけては生まれる快楽に声は艶色を磨くので、一度会話で冷めた  
熱もあっという間に戻された。  
何度も何度も角度を変え、まんべんなく花心の内すべてに刺激を与えられる。  
弱いところも感じるところも全て。もう触れられていない箇所なんて望美にはない。  
一度入り口付近まで引き抜かれたと思ったら、再度一気に深い挿入を受けた。  
「あああああああっ!!」  
ひときわ高い嬌声。  
もう羞恥を気遣う余裕さえない。  
淫らな声と伝わる粗熱が感情を麻痺させ、互いに止まらないのを認識する。  
「望美」  
「ああ――あああっ。いいよすごく、すごく・・・・――や、やす・・・ひ、あああっ!!  
・・・・・・はあっ、は・・・・・・んっ・・・泰衡さん・・・」  
「――望、美」  
この人がこんなに名を呼んでくれるなんて初めてで、何ともいえない気持ちになる。  
頭を抱えるようにして歯列を割り唇を貪った後、顔をよく見たくて両の頬に手のひらを添え包み込んだ。  
 
「・・・何故・・・そんな顔をする」  
せつなさで潤む表情を何故と問われてもどうしようもない。  
これが最後。  
なら、ずっと覚えていられるようにしてほしい。熱を思い出せるようにしてほしい。  
どちらかに訪れるであろう、最後の瞬間まで。  
愛しさに任せて頬ずりをする。  
首筋に流れていく唇の感触に熱い吐息を吐く。  
「ああっ、泰衡さん・・・好き。好きだよ・・・・」  
溶かされて、つい素直な心が勝手に口を伝い出てゆく。  
一息の間、交わる動きが停止して。  
耳元に初めて、泰衡からの、ちゃんとした恋情の答えが返ってきた。  
目を見張ったけれどもはぐらかすように次の悦の波は大きく。  
もう一度言ってと願おうとした望美の想いもかき消されてしまった。  
胸の先端への甘咬みと強い吸い上げに、また一つ音程の高い反応を示す。  
交わる速度も絶頂に向かっていく。限界がくると本能で理解する。  
「あぁ・・・泰衡さん、もうだめっ・・・」  
両腕を背に絡めるとすぐにきつく抱きしめ返される。互いの汗で滑る程に皮膚が熱を発していた。  
ここまで乱されて達するのは初めてで少しだけ不安がよぎったが、積み重ねてきた逢瀬に全て  
ゆだねて身を任せる。  
昇りつめ、果てた。行ったことのない高さまで。  
互いに息が荒い。呆然とした面持ちでもう一度視線と舌を絡める。  
銀糸をひきつつ望美から離れた唇は頬ごと首筋におしつけられて、愛おしげに体温の中に埋まっている。  
交わる時間は過ぎたのに想いだけがいっそうあふれ出す。  
あまりにつらくて、望美は思わず強く自分にまとわりつく長い黒髪の持ち主の躯を  
離したくない、何でもするから――と願ってしまった。  
 
壁によりかかる泰衡に、さらによりかかっている。髪を弄ばれる軽い感覚を頭皮に感じていた。  
しばらく望美の方は放心していたが、だんだん現状を理解してくると急激に恥ずかしさがこみあげて  
きた。  
「本当に今更だな」  
だから見透かすなというのに。  
望美が少々むっとしたのに感づいたのか、和らげようとする手のひらが彼女の髪を撫で付ける。  
「次の逢瀬には、以前望美が言った『何か』でもしてもらうとするかな。  
――もう少し共に高く昇れそうだ」  
優しい声音も今は痛々しく心臓に響くだけだった。次は無い。もっと早く言ってほしかった。  
何でもしてあげられたのに。  
悲しげにうつむく望美の身体を少し離すと、いつもの腕組みと眉間にしわの体勢を作る。  
「さて。では――ご高説を賜るとするか。  
白状しろ。全てだ。・・・俺は説き伏せられる気はさらさらないがな」  
・・・論破する気満々なのが手に取るようにわかる。  
しゃべりたくなかった。  
こなければいい。終わりなんて。いくら喧嘩してもいい、傷つけあってもいい。この人といたい。  
でも陽は昇り、空は明るくなってきた。この夢のほとりの逢瀬にも潮が満ちてしまった。  
早く脱出しないと溺れ死ぬ。  
もし望美達が二人きりだったらそれも一つの選択だろうが――  
死ぬのはまず指示を受け従うしかない、戦慣れとは縁遠くなっている奥州の雑兵達からだ。  
そんなことは許されない。  
望美の虚ろな目は、泰衡の肩からぱらぱらとこぼれ落ちる黒髪に、戦火の儚い命達を重ね合わせていた。  
 
「高層ビル」  
「・・・?」  
「私たちの世界はね、そういう空に近い建物がばんばん建ってるって、前話したよね。それから、  
ゲームね。平らな画面の中の絵が動くんだよ。携帯っていって、すっごく小さな画面でもプレイできる  
作品があるの!すごいよねえ。あー、泰衡さんにやってほしいなーポートピア。ふふ・・・  
続編はないんだけど同じ製作者の別作品にヤスのその後が・・・あっ、けどその作品にもね!  
にしむらさんっていう名物キャラがいて、それもまた記憶に残る言動を・・・」  
「・・・望美?」  
「ねえ、泰衡さん・・・」  
もう駄目だ。ごまかせない。本音を吐露しなければこの人は納得しない。たとえ呆れられても。  
ガタガタと心のまま震える身体。見上げると、異変を感じて守るように抱く腕の中にいる。  
こんなに優しい人とは思わなかった。こんなに近づいてしまうとは。  
こんなに、好きに。  
 
 
 
 
「いつ、死ぬの?」  
 
「マハーカーラ、闇の力・・・あなたは手を出してしまった、代償を要する強大な力を。  
・・・自然の死は迎えられない」  
泰衡は思いもよらない方向からの攻めに驚いたようだったが、表面は眉間のしわを増やしただけだった。  
「そんな簡単にはくたばらん。――くたばって、たまるか。先は長い。こんな半端な状態を放りだせるか」  
あなたが腕の中にいてくれるのに。表情から心の声が聞こえてしまう。  
あまりにせつなくて望美の顔からは勝手に微笑がこぼれる。  
「そうだね。けど、私はこういう関係になってから――恋人になってから、そのことを考えると、  
見る間に心を恐怖が支配するようになってしまった。  
いつ死ぬ。どんなふうに。・・・その時私はどうするのだろう。  
泰衡さんが散々あの十六夜の月の下で嘲笑った涙を、また流すんだ。――しかも泰衡さんのために。  
みじめだな、それ。と思って、気付くの。ああ、そうか。私ももう罰を受け始めているんだなって  
――こんな経緯をたどってきたくせに、あなたという人を好きになった罰を」  
「・・・」  
「いやな夢ならね、私も見てるよ。  
春。あったかくて、すごくいい天気で。私、将臣くんと譲くんと一緒に無量光院から自分の世界へと  
帰ることになってた。え?なんでどうして?って。よくわからなくて。私帰れないのにって思って。  
あわててあなたの所に戻ろうとそこから逃げ出したの。  
途中、ひとけのない道で・・・お花もった女の子とすれちがって。その先に、あなたが・・・  
血だまりの中で倒れてて・・・息してなくて・・・  
手元に野の花の束がおいてあってそれをじっと見下ろすしかできなくて全然動けなかった。  
あなたを想うほど怖くなる、心がくじけそうになる。いつそれが、現実になるかと思うと――」  
 
愛する人を失うことへの不安から生まれてしまう、脳内に訪れる幾つもの死。  
異様に生々しく己の世界の死と溶け合って現れることもある。  
中尊寺。四代目の首。目を閉じ口端から血をたれる、首だけになった大事な人。  
抱いてふらふら歩いているのは、その男を深く深く想ってしまった、壊れた望美。  
地には静かに平和を祈るあの優しい古代蓮が宝石のように散らばる。  
天には嘲笑う十六夜の月の石が、冷たい光を投げ捨ててくる。  
傷だらけにされた首の頬に頬をすりよせる。瞳から湧き出でる透明の水晶が好きな人へと伝う。  
いくつも、いくつも。  
「私が支えなきゃでしょ、何いってんの。しっかりしろって思うんだけど・・・いつもどうしても  
不安に負けてしまう。そうするとね――」  
泣き出しそうな顔で見上げる。ここまで駄目な自分を初めてさらけ出す。  
泰衡は――固まっていた。平敦盛ほどではないが、この男もまた己のような孤独な男を選び手を  
差し延べそばで笑っていてくれるこの女に、尊敬を超えた軽い崇拝の念のようなものを抱いて  
しまっていた。それがボロボロとくずれ、剥がれ落ちていく。  
そしてやっと。好きな女がどんな思いで『嫌いになる』と言ったかわかって、目が醒めた。  
大事にしていると思っていたその女にのしかかり過ぎていたことに、  
今こうして潰してしまったことに。  
次には、ぞっとしていた。立場もわきまえず近づいてしまったこの距離に。  
明らかにおかしくなっていた自分に。  
望美にはその変化が手に取るようにわかったけれど、のどから血をはく思いでさらに追い討ちをかける。  
 
「思ってしまう。助かる道は、この運命から逃れる術は――  
あなたさえ、あなただけでいいなんて思ってしまう。  
自分さえ良ければいいと思うただのろくでもない女になる。――その自分が、怖いの。  
有り得ない空想に逃げこんで・・・  
いつの間にか、自分の世界に戻ってる。隣にはあなたがいて。  
あなたはきっとその長い髪を切って。きっと最初は少しくらいは戸惑うんだろうなって。  
私は全然大丈夫だよって笑って。  
私がいるからねって。  
どんな服が似合うかなって、きっと最初は私が選んであげるんだろうなって。  
いろんな場所に行って。いろんなものを見て。でもきっとあなたはあまり自分をくずさない人だから、  
私の世界にもすぐ慣れて、いつもどおりで。  
ふらり何処かへ行ってしまって少し不安になっても、結局は私のもとへ戻ってきてくれて。  
無駄な心配をするなって、つまらなそうに言ってくれるんだろうね。  
きっと二人で出かけたら、高い建物に登って地上を見下ろす場所なんかへも行くだろう。  
夜、あなたに寄り添いながら空を見上げてると、大きな十六夜の月が冷たく笑いかけてきて――  
あなたはいなくなってしまう。  
そこでとぎれるの。そんなことばかり・・・」  
 
 
外で子供の笑い声がした。  
冷え切った息苦しい空間を楽しそうに横切って、そのまま行ってしまった。  
昨日までなら、よりそいながらその平和の音に二人小さく微笑んだりもできるのに。  
道を切り開くことで、その平穏を永久に二人で守ろうと誓い合うこともできるのに。  
 
 
 
 
もう。  
 
「ねえ、私のことそんなに好きでいてくれるなら――うなずいてくれるの?  
私と私の世界へきてくれるの?ねえ・・・」  
自分でも狂女のようだと自覚できるほどにすがりつく。けれど相手は何も返してこなかった。  
冷淡な瞳が答えを言っている。できるわけがないと。逃げたところで呪いが届かなくなるという  
保証さえないのだ。  
――それ以前に。この男はこの地の、この民全ての守り手。それだけは揺らぐことなき真実。  
急激に冷まされて、うつむいた。  
心にためこんだ狂気を吐き出す時間はとうに終わったと思い知る。  
 
後は、あの時に戻るだけ。  
 
「ね、だめでしょ。・・・だから」  
出来うる限りの決意の色を瞳に現す。  
「私を白龍の神子に戻して。何の迷いなくあなたの隣で胸をはって剣の柄を握り締めていられる  
戦神子に戻させて。何があっても動じない決心をさせて。  
あなたから逆鱗を戻されてあの白い光を放った時の決意を呼び戻させて。  
終わりに――してください」  
泰衡は何も答えてこない。それは望美にはよくわかる答えだった。  
沈黙に耐えかねて、つい、ほんの少し声を出してくすくす笑う。  
「ありえないけど・・・もっと早く、この地にくることができたら。あなたに逢えたら。  
・・・違ったのかな」  
時空を越えてゆく別の私は、きっと、ゆけるのだろう――この先へ。勇ましく決意を強く秘めて  
この人のために道を開き、跳んでいくのだ。  
少なくとも、それは決して私ではない。私はただその女を見上げているだけだ。  
私はもう、この人のそばから一歩も離れられなくなってしまっている。  
「ごめんなさい、ごめんなさい――、一番苦しいのはあなたなのに・・・」  
それとも、共に鎌倉侵攻を選び恋仲になる私でも、もっとうまくやれる私がいたのだろうか。  
そう思うとさらにいたたまれなくなった。  
失望と哀れみ、深い悲しみに堕ちた二人の間は既に終焉を迎えていた。  
望美は泰衡にすがりつき、ただの愚かな女となって泣きじゃくる。  
ただ、わあわあと。  
 
泣き疲れて少しばかり眠ったらしい。  
目が覚めると既に着替え終えた黒衣の男がちらとこちらを見やる。  
「俺はもう行くぞ」と言う。抑揚のない無表情な声で。  
「うん・・・」けだるい声で返事をする。  
「・・・」  
泰衡は目を閉じしばらく黙り込んでいたが――腕組みをした指の先で金糸を弄ぶ手が一瞬止まった。  
「目が醒めた。感謝する――神子殿」  
望美は驚いて即座に反応しぱっと顔を上げた。  
「泰衡さん・・・」  
「もう大丈夫だ、安心してくれ。だからあなたも――早々に心の整理をつけてほしい」  
悲しみも苦しみも映らない表情。また奥底に閉じ込めてしまったのだろう。多分ずっとそうしてきたのだ。  
「あまりはっきり言うのも何だが――あまりにあなたをかいかぶり過ぎていたらしい。もう少し  
ばかりは状況を把握した上で接してくださっているものとばかり思い込んでいた」  
「・・・」  
「萎えたよ。・・・ひと吹きで冷めた」  
ほんと、はっきり言うなあ。・・・この人らしいや。  
「うん、わかってる。当たり前だと思う」  
「では」  
「うん。さよならだね」  
お互い顔は見なかった。見ようと思っても見れなかった。  
「本当に――重症だったようだな」  
自嘲をこめて口元を歪める。  
「あなたの空想とやらが、――悪くないなどと思ってしまった」  
それだけ言うと、幾度となく望美をあたためてくれたあの黒い布をひるがえして出ていってしまった。  
 
 
終わった。これで本当に。  
望美はぱたと倒れしばらく天井を見つめていたが、関係が終わったのに長居も悪いと思い置かせて  
もらっていたいくつかの荷をまとめると伽羅御所を――泰衡の居館を後にした。  
春風がきている。馬で追いかけてきてくれた時を思い出し、しばし目を閉じてその息吹を身体で  
受けとめた。――思えば、あの時あの軽くなった心こそが何らかの警告だったのかとさえ思う。  
後悔をしていないと言えば嘘だ。見事にぽっかり心に穴があいた。ズキズキと痛むのも隠せない。  
けれど、きめたのは血塗られた道のはず。私はそれでも昇らねばならない月のはず。  
この地上を照らさねばならぬのに、無数の星たちを巻き添えにする破滅の要素をいだき続けたい  
なんて月など――許されるわけがないのだ。  
これが正しい選択なはずだ。用意された清浄の道を外れ、修正しようと時空を跳ぼうともしない、  
私という白龍の神子の。  
「あら。望美・・・望美じゃない?」  
ふと。凛とした音色を含む呼び声がする。向こうの方で大事な友人の尼僧が手をふっているのが、  
花咲くような笑顔と共に見えた。  
望美はかけだした。同じように咲きほころぶ笑みを返しながら。  
勢いで抱きついてしまい、朔の驚き顔と共に数回くるくると回る。  
察しの良い友人は、離れてもうつむいたままの望美に心配そうに問いかけてきた。  
「望美どうしたの?――泰衡殿と何かあった?」  
「んー、あったっていうか――終わりにした。別れた」  
出来る限り明るく振舞いたくて、口の端だけにっこりと笑ってみせた。  
「え・・・っ」  
朔は息をのみ数秒固まっていたが、すぐに事態をのみこんでくれて、望美の顔を微笑でのぞきこむ。  
「高館に戻りましょう。みんなきかせて頂戴。お茶を淹れて、ゆっくり話をききたいわ。  
――帰りましょう。私たちの戻る場所へ」  
優しすぎて、かえって涙があふれそうになって。ただうんうんと頷くしかできなかった。  
そうだ、私は守らなきゃ、この友人を。こんなことになっても許し続けてくれるこの大切すぎる  
花を手折るなんて、できるはずがない。許されるものか。  
戻ろう、私のきめた守るべきもの、私の大切な人たちの元へ――心を連れて、帰ろう。  
 
 
八章  花びら落ちて、花芯残る  
 
 
東北の地に遅い春が訪れた。  
別れて十数日。特にこれといって表面上の変化はない。  
当然だけれど、戦の匂いは日に日に濃くなる。次第に気分も高揚してくる。  
自分は戦神子なんだと心から思う。  
まとう空気も眼光も、だんだんと戦場向きのものへと移行していく。  
 
 
ふら。と、あの人の部屋に入った。  
忘れ物をとりにいけと命令された、と言えば恐ろしいほど誰も疑いすらしない。  
望美はもう完全に平泉の神子として受け入れられている。  
凍える東北の地に住まう人達の心はあたたかい。本当にそう思う。  
泰衡にていよくこき使われてると思うのか、同情や苦笑する人すらいるのが何だかすごい。  
――こんなものなんだなと思う。  
 
八葉の面々は口にこそ出さないけれど、望美の恋が始まり、そして終わったことにほぼ気付いて  
いたと思う。気遣ってくれるのが嬉しいけれど、少し痛む時もある。  
こんな良い人達に囲まれて――わがままだ私、とつい反省する。  
中でも、意外にも九郎は一番最初に気付いていたようだった。  
だがそれは何となく程度のものだったらしく、ずっと気になってはいたようで。  
先日二人で剣の打ち合いをしている時に中断して、ためらいがちに尋ねてきた。  
彼には素直に話すべきだろうと思い、包み隠さず打ち明けた。  
「そうか・・・」  
こんな時に一体何を――と叱咤が飛んでくるものとばかり思っていたのに。  
九郎は苦しげにうつむいただけだった。  
激怒を覚悟していた望美はあまりにも意外で拍子抜けする。  
「なあ望美――その、お前に別れを決意させる決定的な言の葉を吐いたという俺が  
言えることではないのかもしれんが――  
冷めた、というのでないのなら――もう少し、別の道を選べなかったのか・・・・・?」  
意外が重ねてやってきた。  
「選べません。半端なことしてたら私達、また元の位置に戻りたいと願ってしまうから」  
「・・・そうか・・・」  
己のことのようにうなだれる九郎に戸惑い、会話をつなげようとする。  
「けど九郎さんから見ても泰衡さん、元に戻ったでしょう?九郎さん怒ってたじゃないですか、  
こんな時にそんな穏やかな目をしているとは何事だって。  
なのに――何が駄目なんですか?」  
「ああ、確かに戦場に出向くには不似合いの穏やかさは消え去ったな。覇気も戻った。  
――戻りすぎだ。元々怜悧なのに、あれじゃ修羅だ。状況が状況だから不必要とまでは言わんが。  
しかし今の泰衡殿は、――泰衡は・・・・・・・」  
「さあ、そこまでですよ九郎」  
言葉が遮られる。いつの間にか弁慶がその場に居合わせていた。  
「しかし弁慶」  
「子供ではないのです。自分たちで話し合い下した決断なのですから。  
二人とも己の問題は自力で解決できる力を持った人です。信じなさい九郎。  
だから今は――そっとしておいてあげましょう」  
数秒間弁慶と目で会話した九郎はやがて目を伏せ、  
「・・・ああそうだな」と呟いた。その動作は何とか己に言い聞かせているように見えた。  
九郎は望美に向き直り、そっと微笑んでみせる。  
「すまなかった望美。・・・俺達はずっとお前と共にあるぞ。それは忘れないでくれ」  
「そうですよ望美さん。僕達を守るというのなら、当然僕達も同じ気持ちでいるのをどうぞお忘れなくね」  
二人の醸し出す優しい空気に包まれると、望美は無意識にこくりと一つ頷いていた。  
 
いつもの挨拶、いつもの会話。  
戦の足音は近づいてくるけれど、大切な生活の基本のところは何も変わらない。  
今日も出掛けに譲がわざわざ門の外まで見送りに来てくれて、親愛をこめて言ってくれる。  
「行ってらっしゃい先輩」  
「うん、行ってきます譲くん」  
・・・と思ったら、突然がばっと首に腕を回されて。  
同じ人間にもう片方の腕で同じことをされている譲と同時、つい驚きの声を漏らす。  
してやったり。将臣は二人をがっちりと抱いて、明快に笑い声をあげる。  
「おーっし!今日も元気に行ってこいよ望美!!俺も剣の鍛練に励む!」  
「にっ兄さん何だよ突然!」  
「・・・頼朝にはじめの一太刀をあびせるのはこの俺だからな」  
「突然シリアスになるなー!」  
ぎゅうぎゅうとせわしげに、幼馴染三人の顔が近くなったり遠くなったり、まるで子供の頃のよう。  
望美もつい二本の腕でそれぞれ二人を抱え込み、空を向いて高く笑ってしまった。  
・・・何も変わらない。  
「姫君俺も俺もーっ!!ある意味譲なんてどうでもいいから!その抱擁、俺には一人で頼むよ?」  
自分も確実に便乗できるであろうおいしい場面に遭遇し、微笑みながら神子達の様子を見つめていた  
敦盛を片手でひっつかんで、ヒノエが明るい笑顔を湛えて軽快に駆け寄ってきた。  
「ちょっ!何だよそのある意味どうでもいいってこら!おいヒノエ」  
「おっ、悪い譲。そうだよな。殺人的にどうでもよかった」  
「ヒノエ――――!!!」  
「ほら敦盛せっかくのチャンスだぞ恥ずかしがってる場合じゃねえだろ」  
「ままま将臣殿頼みますから引っ張らないでみみみ神子が穢れ」  
そんな仲間達に声を立てて笑って。  
あまりに満たされる空間の中、幸せの涙がこぼれないよう見上げた空。  
こんなに青くきれいと思ったことはなかった。  
 
こもった空気を解こうと障子を開け放つ。  
あの人に会いたかったわけではなかった。先刻もあの九郎が頭を抱えるほど皮肉合戦の言い争いを  
したばかりだから。  
ただ、二人で共にすごした残り香が見せる記憶と、あの部屋から見える景色をもう一度だけ目に  
したかった。  
多分。あの人の父君である御館も気付いておられたと思う、変わりゆく息子の変化を。  
それが失われたにもきっと気付かれた。  
先日望美がお目にかかった時、対面している間は普段の豪快さを保ってくれていたのだけれど、  
その後帰ろうとして振り返ると、そこには信じられない位小さくなってしょぼんとなされるお姿があって。  
とても申し訳なくて、いたたまれなくて、逃げるようにその場から離れた。  
あんな仕打ちを受けたのに、未だ息子に注ぐ愛情は微量も変質していないらしい。  
陸奥の王の懐は深いな、と軽い感動まで覚える。  
春まで名残る根雪のような厚みある深さだと思う。  
――私の浅さとは大違いだ。  
 
昨日、望美達の世界では秀衡塗と呼ばれるあでやかで品の良い小椀をそっと手にとって、思った。  
丸みを帯びたふっくらした造りの椀からは、大胆な文様が織り成す力強さを感じさせられる。  
その輝く漆塗りからは同時にしっとりとした気品と重厚な量感の奥深さも伝わってきて、  
ああ、これが御館のご子息である泰衡さんの基礎になった部分なのかと妙に納得させられた。  
 
ふと、乾いていたはずの小椀に水滴がついているのに気付く。  
何だろう。と思った矢先、ぽたぽたと自分の手の甲にまた数滴、無意識のせつなさが落ちた。  
目を逸らし見ないふりをする。  
私はもう十分泣いたはず。しっかりしろ。  
 
ただ、思い出だけはすうと引きよせられてやってきて、勝手に記憶の幻を見せてゆく。  
 
 
   大きいな。あなたの双の瞳は。  
   俺はいつまでその対の水晶にこの身をおさめていただけるのだろうな。  
   
   何ですか何ですか?唐突に。詩人ですね泰衡さんてば。似合いませんよ?  
 
   すぐそうやって茶化す。  
   本当は何を考えている。  
 
   泰衡さんのことしか考えてませんよ?神子でなく望美でいられる時はね。ふふっ。  
 
   ・・・。  
 
   目も泰衡さんしか見てませんよ。本当はわかってるくせに。  
   ほら。もっと近くにくればわかりますよ。誰が映っているのかなんて。  
   もっとそばにきてください。  
 
 
 
 
   ね?  
   
   ・・・ああ、そうだな。あなたの言うとおりだ。  
 
   それにしても大きな瞳だ。馬鹿げたことを言わせてもらえば・・・  
   こぼれおちてしまわないかと、無性に心配になる。  
 
 
そんな望美にはよく理解できない心配をしていた想い人の心は、もう近くにはない。  
そして、その心配は現実になった。  
望美の泰衡を映していた目からは、その影がいくつもの透明の涙に移り、時折ぽろぽろと  
こぼれおちていく。  
 
夢だったのかも――本当に。最近ではそう思うほど遠くに行ってしまった気がする。それでいいの  
だけれど。それが当然なのだ。私たちの間には常に張りつめた空気の糸があっていい。あんなに  
近づいてお互いぬくもりを愛おしみ安らいでいたのが、――そう、異常だったのだ。  
「幻か?」  
入り口の方で声がした。どきりとしてふりむくと、部屋の主が不機嫌そうに立っている。  
しまった。また冷えた雷を落とされる。  
望美はあわてて取り繕おうと、両手を左右にふった。  
「ごっ、ごめんなさい!ただちょっと、懐かしくて――すぐ出てくから、ほんとごめん――」  
「――なんだ」  
壁に軽くよりかかり、泰衡は小さく笑ってみせた。望美は凝視したまま驚きで己の時を止めてしまった。  
初めて見る顔、初めて聞く声。氷をまとわない素の姿だったと思う。  
ボロボロだった。  
「――期待をさせないでくれ」  
笑っているのに、今にも泣き出しそうに感じた。  
 
その時、何だかすべて理解できたような気がした。  
何故最初あそこまで拒まれたのか。  
この、とても九郎と同じ年とは思えないほど疲れ、年輪を刻んだような顔をした人に、  
何をしてしまったのか――  
 
ただただ、この結末を恐れていたのだとわかった。  
 
たとえどんなに堅く強い決意を秘め、一本筋を通して曲がる気のない人間でも、  
隙などというものは必ずどこかに潜んでいる。  
思いもよらないようなこそから侵入して内から破壊してしまえば、  
どんな人間でももろくなってしまうのだろう。  
 
どこから襲いかかってくるかわからない絶対の死。  
そんなものをただ待つなんていう覆い隠せぬ不安をいだく者なら、尚更。  
 
望美は恋心の名のもとに、その不安を少しでも和らげたいと言い張り、無邪気に押し入って――  
固く結ばれた紐の目をいくつも解いてしまったのに。  
やっぱりごめん私には支えきれないと、出て行ってしまったのだ。  
自分からさしのべた手をふりほどいて。  
 
望美には朔や白龍や八葉、大切な人達がいくらでも言葉をかけてくれ、支えてくれる。  
けれど、この人には無い。――何もない。あるけれど、受け入れることができない。  
ずっとそうだったから。  
彼にとって望美は本当に、唯一人の、心へ入ることを許すことができた特別な人間だったのに。  
いなくなってしまった。  
多分今この人の心は、最期まで与えられ続けると思っていた月の光を失ったことで均衡が取れず、  
湧き出す闇に引き裂かれてズタズタだ。  
表面を取り繕う氷さえ保てなければ早々に崩れ落ちるだろう。  
「幻なら――」  
すう、と泰衡の身体が動く。  
思わず固まってしまう望美の身体は、脳から恐怖という信号を送られたに違いなかった。  
何をされても文句は言えないことをしたと知ってしまったから。  
そして多分、この男はとても怒っているだろう。  
けれど。  
「捕らえぬうちに――消えろ」  
望美の真横を、まるで何もなかったかのように通り過ぎて奥へと行ってしまった。  
 
ごめんなさい。  
うまく口にできたかどうかわからない。言われたままに望美は部屋を飛び出した。  
 
走った後を、あの人はもう追いかけてはこなかった。当たり前だ。くるわけがない。  
こんな女のために、もう二度と。  
心臓が痛い。気持ち悪い。不安と後悔、罪悪感がめちゃくちゃに絡み合って平穏の居場所を壊す。  
――銀か。  
ふいにあの言葉がよみがえる。ぎゅうと目をつむり頭を抱える。連鎖反応を起こしまた一つ理解する。  
当然と言えば当然かもしれない。望美があの日朝まで泣き喚く原因を決断し実行したのは他ならぬ  
泰衡だ。己が斬り落とした男の愛した女を心の中に招きいれたのだから、それ相応の覚悟はきっと  
あったのだろう。  
それはもしかしたら、銀という男を失った望美という女の復讐かもしれない。  
罠かもしれない、裏切りかもしれない。  
その気になったところで、彼女は散々な嘲笑や罵声を浴びせてくるのかもしれない。  
そんな女を受け入れようだなんて。  
なんて泰衡らしくない賭けだと思った。  
 
――否。賭けではない。  
――賭けではなかったのだ。  
 
震えて、とまらない。  
多分あの人は――望美を信じてみようと思ったに、違いない。  
長く孤独の内に閉じ込めておいた人への想いを、自分に同調し理解しようとしてくれる満ちた月が  
差し出した手のひらを信じて、新たな一歩を踏み出そうとしたのだ。  
 
――結果は、これだ。  
二人の世界に陥りすぎて、戦場へ向かう統率者の道を踏み外しかけた。  
お互いがお互いをあまりにも理解できていなかった所為による、深い痛手を負っての終焉。  
 
銀。  
彼にも、あの優しい人にも懺悔の念しか浮かばない。  
前を向かなければならないなんて奇麗事をあまりにも都合よく捉えすぎていた。  
今ならわかる。望美を助けようとして主君に追いつかれ、抵抗もせず斬り落とされたあの麗容な人の気持ちが。  
銀にとって泰衡は、自分を拾ってくれて、自分に名を与えてくれた人というのに変わりはなかったんだ。  
そんな主人と望美の板ばさみになってどんなに悩み苦しんだことだろう。  
それでも望美を残して斬られることを受け入れたのは、望美を助けるためで。  
それは、そうしても大丈夫と主人を信じていたからで。  
自分が起こした行動と、自分を蝕む真実を隠したことで、氷をまとう主君が心の内ではどう感じたのかも  
理解した上での判断、そして覚悟だったのだろう。  
知っていたのだ。刀を振り切ったその瞬間、斬った側の心にも相当の深手を負わせることに。  
泰衡にとっても銀はどうでもいい存在などではなかった。だから自らの手で決着をつけるべく斬った。  
裏切られたことへの憎しみまかせなら、もっと酷いことだっていくらでもできたはず。  
心からの誠意を尽くす忠実な銀なら、ずっと目にしていた孤独な主人のことがきっと分かっていたのだと思う。  
だから、あの状況で、私を残して。  
 
そうだ、銀が最後に一瞬望美に投げかけてくれた笑顔は、大丈夫ですからね――という証だったのかもしれない。  
ずっと私を見ていてくれて、私が話すことも良く聞いていてくれた銀には、私がこの道を選ぶことがうっすらと  
わかっていたのかもしれない。  
多分その上で、すべてを受け入れ選んでくれた結末なのだろう。  
 
・・・・・・。  
・・・ああ、でも。それがなんだ。  
それに気付いたところでなんになるというんだ。  
銀が崖から落ちてしまったのに何ら変わりはないじゃないか。  
十六夜の月は後は欠けゆくだけの月には違いない。  
けれどあの月はもしかしたら、  
本当は、また昇る月ではなかったのか――――  
「・・・・・・・」  
泰衡だけを責められない。  
むしろ、本当に残酷なのは――  
「・・・・・・・・・・」  
 
罰だ。この逃れられない苦しみは――  
己で己に刻み込んだ罪への、永劫に消えることなき報いだ。  
 
あまりに重くて、息ができない。苦しい。でも当然かもしれない。  
銀はもうしたくでもできないのだから。  
銀もあの人も自分の大切なものへととても誠実で真っすぐだったのに。  
私だけ。私だけが。  
――最悪な女だ。本当に。振り回すだけ振り回して、勝手に一人で潰れた。  
後悔がめぐる。ぐるぐると、己を傷つけながら。惨状をさらす傷跡をも容赦なくえぐる。  
 
・・・・そうだ、戻ったら。  
逆鱗の力を使ってやり直したらどうだろうか。  
がたがたと震える手で胸元をさぐる。  
 
けれどその白く光を放つはずのものを握っても、時空を跳ぼうなんてかけらも思うことができない。  
逆鱗を握り締めた震えるままの拳を額に当てる。理由はわかっている。  
今存在する、あの人を――藤原泰衡を捨てていくなんて望美には到底無理だ。  
どうしても、どうやっても、忘れ去るなんてできない。  
喧嘩したことも口付けたことも髪をくしけずったことも抱きしめられたことも抱きしめたことも  
くがねを共に愛でたことも小さな笑顔も遠出した思い出も手のひらも――先刻の傷ついた姿も  
皆望美をこの時空へとしっかりと縫い止める。  
この期に及んで未だかけらも想いを消せていないことに気付かされる。  
情けなくて、悔しかった。  
なにをやってるんだ、私も、そしてあの人も。どういう立場だかわかっているはずじゃないのか。  
二人で進めば喜びは倍に、悲しみは半分になんて間柄になれるわけもなかった。  
当然ではないか。選んだのは血にまみれる道――常人に約束される祝福なんて用意されていないのだ。  
「・・・泰衡さん・・・」  
想いが音を成して口からこぼれる。  
愚かすぎるだと身にしみていても、内側にいる己の神子の部分に激しく罵倒されても。  
こんなに近くにいるのに、もう触れることも触れられることもないなんて地獄だ。  
不器用な遠まわしの言の葉も、奥の方で小さくあたたかく灯る眼差しも、二度と与えられることはない。  
ぬくもりに焦がれて、望美は本当におかしくなるかもしれないと思う。  
・・・あの人の方は今、何を思い、何を考えているのだろう。  
なんとなくおぼろげに心の形が見えてしまうのがつらい。あの、のばした黒髪で隠す寂しげな表情が。  
行きたい、そばへ。許されるなら今すぐにでも駆け戻りたい。両の腕で二度と放す事ないよう抱きしめて、  
目を見て。頬を手のひらで包み、心のままを伝えられたら――――  
――だめだ。だめだだめだだめだだめだ。  
「だめだ・・・」  
消沈し、うなだれる。  
 
その時。  
背後でかさっと音がして、望美をびくりとさせた。  
振り返ると、まばらに芽吹く若草の上に優しい色合いをした犬の姿。  
尻尾を振りつつ望美を見つめている。  
「くがね・・・」  
大きなずんぐりした犬がワンと返事をし、そしてクウン…と気遣ってきた。  
「くがね、違うよ。こないで。・・・もう尻尾ふる相手じゃないんだよ、私」  
よってこようとするのでつい後ずさる。  
「くがね、私さ・・・あなたにそんなふうに可愛い目で見上げてもらえるような人間じゃないんだよ?  
あなたのご主人様にひどいことしたんだから。ものすごく、ひどいこと。  
何回くがねに噛みつかれても文句言えないくらいのことしたんだよ。くがね」  
ほぼ独り言のように自虐を連ねた。  
「怒って。あの時みたいに、うなってよ。ねえ。お願いだから――」  
それでもその年を重ねた犬は柔らかい足取りでよってきて、望美を見上げてくれた。  
くりくりした小さな瞳に映されると肩の力が抜け、何だか脱力する。  
座りこんでくがねの頭を撫でてやると、頬をペロペロとなめられた。  
いつの間にか泣いていたのに気付く。  
「・・・ありがとね、くがね」  
微笑んで、のどもとを撫でてやった。  
九郎が言っていた、くがねが拾われた時の弱って震える小さな姿を思い浮かべる。  
――あの人の手のひらに庇護されて、すくすくと育って、こんなに大きくなったんだね。  
わかりにくく誤解されやすいけれど、その実は深く誠実な愛情を受けたのは、そう、この子も同じなんだ。  
「ある意味私の先輩にあたるよね」と小さく笑うと、くがねは望美に身体を押し付けるようにして座り込んだ。  
あまりにあたたかくて。  
その背をなでながら、望美は泣いた。  
賢い犬だ。そしてやさしい。――飼い主によく似ている。  
 
「・・・ああ、そうか・・・そうだね、くがね」  
そして望美はもう一つのことに気付くことができた。  
自分とくがねの間にもう一人、先輩がいたことを。  
彼は斬られることを選び、望んで、己の道をきめた。  
恩義ある主人への忠節を果たし、望美を助けてくれた。  
生きてほしいと願ってくれた。  
そこまでしてくれた人が、望美の延々と停滞する時間など喜んでくれたのだろうか。  
こんなふうに後悔したまま泣きじゃくる状態をずっと続ける生き方なんて、  
きっと望んでくれてはいないだろう。  
そんなことをさせるために助けたんじゃないのだから。  
 
ああ、そうか。朔が言ってくれたのはこういうことだったのか。そうだったんだ。  
そうだったんだね、銀。  
 
 
ええ、そうですよ――  
 
 
あの日から初めて、心の中の彼がふわりと笑ってくれた気がした。  
勝手だとはわかっているけれど。  
「ありがとう・・・」  
嗚咽の合間に、そう呟かずにはいられなかった。  
 
 
――さあ。  
 
 
お進みください、神子様。  
 
 
 
散々泣いた後に、ゆっくり大地を踏みしめて立ち上がった。  
白く穢れない翼は自分で駄目にしてしまったけれど、前に進むための足はしっかりと残っている。  
私のために銀が残してくれた足。  
残った羽根はむしって――翼なくとも私は舞い上がろう。  
泰衡と望美の大事な人である九郎はついに重い腰をあげ、甘言を垂れ流すばかりの肉親への情を  
切り捨てて共に立ち上がる決心をしてくれた。  
それでも足りない分は、私が補おう。  
異国の神という強大な後ろ盾を失った源頼朝。  
その神を再度封じた藤原泰衡。彼と手を組んだ源九郎義経。  
勢いにのり士気高まる奥州の大軍。  
その姿に、所詮は忠義奉公といったところで己が保身第一の地位ある連中は揺らぎ始めている。  
そして――白龍の神子。  
自分の世界の史実とは明らかに違ってきている。流れはこちらを向いている。  
――仲間のみんなと、奥州の人たちと、  
 
――あの人のために。  
 
浄土。・・・望美の世界の泰衡の首桶から出てきた蓮の花は、今でも平和を祈り咲いているのだろう。  
私はあの清浄の花にはもはや程遠い。だったら、あの人を守り抜く剣となる。  
死なせなどしない。死なせてたまるものか。  
あの恒久の輝きにはなれないけれど、私だって――朽ちてなどやらない。  
この想いの全てで守り抜いてみせる。  
開き直りといわれても。  
まだ全てを後悔する時じゃないはずだから。  
 
「行こうか、くがね」  
尻尾をふる犬に微笑する。見おろす先の小さな瞳がうれしそうに輝く。  
数歩進んで、一度だけ振り返って、もう一度だけ。  
空に向かい、ありがとうと呟いた。  
 
そんな望美の後ろ姿をずっと見守っていた男が、すうと心地よい風の中に姿を現す。  
「道は定まったようだな、神子」  
存在を感じて振り返ると、いつの間にかリズヴァーンが腕を組んで立っていた。  
「先生・・・はい。ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」  
きりっとした表情で師を見据えてから丁寧にお辞儀する。  
「私に礼など不要だ」  
短いが、あたたかさのにじむ言葉に導かれて目線をあげると、  
今その青い灯火が望美に注ぐ視線は静かな安堵で満ちているのに気付く。  
「・・・お前はついに己の答えへとたどり着いたようだな。  
それでいい。どの思いも、無理やりに消し去ることはない」  
望美の身に起こる嵐が一つ過ぎ去り、そして無事に乗り越えたのを知ってくれているのだろう。  
その穏やかな微笑みに、望美は「はい!」と、破顔一笑で返した。  
 
 
もう銀を思い出して苦しく思うだけの毎日は捨ててしまおう。  
もちろん忘れるというわけではなくて。  
私が彼からもらった、小さなきらめきが舞い続けるあたたかい記憶と笑顔まで  
奥底にしまいこんでしまうのは、もうやめよう。  
 
だって。今日もこうして、私は彼が開いてくれた道の上で生きている。  
 
 
終章  長いお別れ  
 
 
春、無量光院。  
空は高く青く澄みわたって広大な大地を光で満たし、草花はいっせいに芽吹いて緑の楽園を築いた。  
本当にきれいな土地だ。萌える黄色のたんぽぽをつんと押しやると、大きな頭が可愛らしく振動する。  
「ねえ、ここに座って」  
こんなところにいたのか――と、この明るく照り輝く春の陽射しに導かれて望美をさがしだした  
泰衡に隣の地面をぽんぽんと叩いてしめす。  
思ったより素直に腰をおろしてくれたのでほっとする。  
二人きりでこんなに近くにいるのも久しぶり。少々の意識をどうしてもしてしまい、照れ隠しに  
膝をかかえる腕の中に頭をつっこむ。  
夢を見ていたみたいだ。――だけど夢じゃなかったね、私達。  
頭を膝に置いたままにそっと泰衡の方へと顔を向けてみる。いつもの冷たい流し目と視線がぶつかった  
ので、つい微笑んだ。不意打ちだったようで速攻でそっぽを向かれたけれど。  
――ああ。今日も生きてる。  
動いて、存在している。命の色がともっている。言の葉を紡ぐ。まばたきする。私を瞳にうつす。  
――これで十分だ。  
「・・・・・・ずいぶん表情が自然になった」  
「え?」  
「俺と一緒の時は何かと無理をしていると思っていたからな」  
・・・この男は。まだそんなことをいうのか。  
呆れたが、同時にふっと優しい微笑がこぼれてしまうのをとめられない。  
――可愛い人だ。  
 
「・・・皆が色めいている。白龍の神子様は最近格段と美しくなられた、と専らの評判だぞ」  
意外な自分の噂に目を丸くする。  
「本当に?」  
「ああ。まあ近寄りがたい美しさだという者もいるがな。神気が急激に高まっているとおののいていた。  
『冷たく妖しげに輝く冬空の月のごとく、常人を逸脱され我らを導く氷塊の戦神子へと変貌  
なされたのだ』――と興奮している連中を見かけた」  
「・・・ものすごいね」苦笑する。  
そんなことを言う人もいるんだ。神子として人気が出るのはありがたいが、何と思えばいいのか。  
ただ白龍はその神気の高まりを無邪気に喜んでくれている。  
自分の龍の見せるあの純粋な澄んだ笑顔を向けられると、望美もどうしてもうれしくなる。  
彼は望美に、あなたの想いは昇華したね、と言った。  
どういうこと?と訊ねたら、想う心は変わらないけれど形を変えたということだよと返してきた。  
――あなた達は似ている。泰衡もきっと今、あなたと同じだよ。  
――そうなのかな。  
「自覚はないと見える」  
「ないねえ・・・まあ平泉の神子としてそれなりの自覚は芽生えたのは確かだから、そのせいなのかな」  
ふうと息をついて。  
「まっ!何と言われようと――」  
身も軽く立ち上がり、顔を見られないよう真っすぐ空を仰いで告白する。  
「泰衡さんさえ近くによってきてくれるなら、私はそれでいい」  
甘く薫る風が吹き抜けていく。  
「泰衡さんから見ても私って変わった?」  
「まさか。あなたはあなただ――なんら変わることなどない」  
落ち着いた、何の皮肉も混じらない声。心から心へと伝わる言葉。今の望美には、至上の幸福。  
「ね、泰衡さん。一つ言っときたいんだけど」  
くるっと振り向く。  
好きな男が何度も指で梳いた長い髪をゆらし、  
今も想うその男を何度も映した大きな瞳にやさしい笑みを灯して。  
 
「絶対はなさないからね。何のために終わりにしたかっていえば、あなたと少しでも長く一緒に  
いるためっていうのもあるんだから。  
生きてよ。諦めないで。  
私はあなたを守る。生かしてみせるよ、どんな不条理が襲ってきても。神子として力続く限り  
加護を与え続けます。  
それこそぼろ雑巾って嘲られるくらいになっても、本当にどうしようもなくなっても、血まみれに  
なっても――終わらせてなんかあげないからね。血を吐きながらでも背負い上げて前に進んで  
やるんだから。覚悟しといてよ?」  
かなりすごい台詞を連ねているつもりなのだが、泰衡は微動だにしない。  
――お見通し、か。  
「まあ、そういう女に惚れられたと思って諦めてちょうだい」  
「やれやれ。恐ろしいことだ。楽には死なせん、とおっしゃるのだな」  
「当然」  
腰に手を当てにっこりと笑う望美に、彼女の想い人はほんの少し、もう遠い向こうにある思い出の  
表情で、笑った。  
「あまり気負うなよ。あなたなしの俺がどうなってしまうかなんて――それこそ誰にもわかるまい」  
微笑と告白の不意打ちを受けて、望美はつい赤くなる。  
二人とも、別れたといっても互いを大事に想う心が消えてしまったわけではない。  
 
 
握り返してくるかはわからなかったが、望美は手を差しのべてみた。紫の手甲をした手が重ね  
られたので軽く引っ張り上げると、距離がまた縮まる。耳元に音を感じた。  
さようなら、ときこえた。  
言葉が心の奥までしみてゆく。望美は目を閉じ、静かに頷いた。  
やがて暗闇からまぶたを開けて光の世界へ戻ると、覇道を共に歩むことを決めた相手が自分を  
真摯な眼差しで見据えていた。  
「はなれるなよ?」  
「はなれませんとも」  
即答して、強い眼差しを与え返す。固くつながったままの手をお互いの視界に半分入るくらいの  
高さまで持ち上げる。その向こうに見えるお互いの顔を向け、同時に、にやっと笑った。  
 
こうして想い合う二人の時間は二人の手でかき消された。  
寄り添い温もりを感じ合えばお互いしか見えなくなる想いなど、戦場では無用を越えて命取りだ。  
今、弱くなるわけにはいかない。  
だからもう愛しさをこめた目で互いを見ることを捨ててしまった。  
そしてもう互いに見られることもない。  
傷跡は酷く時折ずきりと痛むだろうけれど、まだ気にしていい時ではないとも思う。  
 
癒えることはない。  
 
けれど傷はゆっくりと回復していくはず。  
 
まだ、隣からいなくなったわけではない。まだ、こんなに近くにいる。やれることを精一杯やろう。  
深い後悔の跡はお互いのためにお互いを強くした。  
どちらも結局非情にはなりきれなくて、最果てまで堕ちゆくこともできない弱さを持っている。  
だから二人、なのだろう。  
 
 
道の向こうに――夢のほとりに、そこでお互いがお互いを待っていてくれることを、  
続く道が開けてゆくことをひそやかに願いながら、二人並んで道を進む。  
 
 
 
 
完  
 
 
 

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