「平和……だな」  
 目の前に広がる淡い桜色の可憐な花を付けた木を見上げ、はらはらと舞い散る花びらの  
中、望美はひとりごちた。  
 朝起きて庭に出てみると、自分がいた世界となんら変わらない青空が広がっていた。空  
気が汚れていない分、青が濃いような気がしてうれしくなり、望美は梶原の京邸を出て目  
的もなく歩いていた。遠くで鐘の音が聞こえたので、その音を頼りに歩いていたら、気づ  
けば下鴨神社の中にいたのだった。まだ鳴り続ける鐘の音に、目を閉じ、空気に溶けてゆ  
くその余韻を楽しんでいた。  
 鐘の響きがなくなったそのとき、聞こえてきた話し声が、夢から覚めたように望美の目  
を開かせた。聞き覚えのある声を頼りに辺りを見回すと、そこに朔を見つけた。京邸を出  
る際、朔を散歩に誘ったのだが、出かけるところがあるからと言っていたことを思い出し  
た。  
 同じ場所にいるなんて偶然だね、と声をかけようと数歩動いたそのとき、どくん、と体  
中に響き渡るように心臓が鳴った。  
 どうやっても見誤ることはない。黒地に梵字が描かれた外套を被っている男、弁慶が朔  
と向き合い立っていた。望美は思わず手近にあった大木の影に隠れた。  
 このままここにいることは、何か悪いことをしているような、そんな気になる。わざわ  
ざ京邸ではなく、ここで話をしているのだから、よほどの内容なのだろうと、感覚的に分  
かる。二人に気づかれないようにこの場から離れようと、大木を背に走り出そうとした刹  
那、弁慶の声が聞こえてきた。  
 「……朔殿」  
 聞いてはいけないと思いながらも、望美の足は根が生えたように動かなくなってしまっ  
た。そろそろと後ろを振り向くと、弁慶が朔に手を伸ばし抱き寄せているところだった。  
そして、朔は抵抗することなく弁慶の胸へ顔をうずめた。  
 望美は目をぎゅっとつむり、動けなくしていた足の根を振り切るように駆け出していた。  
 
 とぼとぼとした足取りで京邸に入り、その足はそのまま庭へ向かった。鮮やかな色を添  
えた庭は陽の光を浴びて輝いていたが、顔を上げることがなかった望美の目にはそれが入  
ることはなく、視界がぼやけるばかりだった。  
 しばらくそこに佇んでいると、ざっざっという足音が聞こえ、それが自分の目の前で止  
まった。  
 「……望美。どうした、こんなところで」  
 「九郎、さん……ですか?」  
 「お前が顔を上げれば分かることだと思うが」  
 九郎が半ば呆れ気味に言葉を発すると、望美は顔も上げずに九郎を背にした。  
 「おい……!」  
 「何も……。何でも、ないです」  
 「……それを俺に信じろというのか? では、なぜ泣いている」  
 「泣いてなんか、いません」  
 「それが真実なら、こちらへ向き直り、顔を上げてみせろ」  
 九郎の挑戦的な言い方にかっとなり、望美は振り向いて九郎を睨みつけた。  
 「泣いてません!」  
 「意地を張るのもいい加減にしろ!」  
 伸ばされた手が視界に入ったとき、多少の語気の荒さがあったからか、望美は反射的に  
叩かれるのかもしれないと目を硬く閉じた。しかし、思っていた場所から弾かれるような  
音はなく、額にこつりと当たるものがあっただけだった。目を開くと、そこはすべすべと  
した白い絹の着物に覆われた、九郎の肩だった。それまで強張っていた体から急に力が抜  
けていくのを感じ、望美は深く顔をうずめた。  
 「何があったかは聞かないが……こんなときくらいは意地を張るな」  
 表情は分からないが、柔らかな声が耳に届いた。その言葉が合図となり、望美は涙を溢  
れさせたが、それは頬を伝うことなく、九郎の肩に吸い込まれていった。  
 
 闇が近づきつつある刻に、朔が京邸へ戻ってきた。望美はしばらく朔の様子を伺ってい  
たが、さして変わったところもなく、もしかして自分が見たのは夢だったのではないか、  
という気がしていた。いつもどおりの朔に、いつもどおりの夕餉の支度。そしていつもど  
おりにみんなで食事をした。  
 ただひとつ――手付かずの膳だけが、望美に『いつもどおり』ではないことを告げていた。  
 
 雲に遮られることもなく、満月が闇に明るさをともしていた。それは縁側に座る望美の  
影を作り、青白く照らされた望美の存在を浮かび上がらせていた。その月を見上げ、望美  
はひとつ小さなため息を漏らした。  
 とうとう弁慶は夕餉の席に現れなかった。九郎が弁慶の所在を聞いていたが、その席に  
いた人は誰も知らなかった。望美は気づかれないよう朔を盗み見た。朔はもくもくと食事  
をしながら「月が一番高く上がるころには戻ると、昼間におっしゃっていました」とひと  
こと言っただけで、そのあとに続く言葉はなかった。  
 望美はひざを抱え、額を寄せた。そしてさらにもうひとつため息を漏らした。  
 「あーあ……。どうしたらいいんだろう」  
 昼間の出来事で気づいてしまったことがあった。  
 それは自分の気持ちだった。  
 弁慶がほかの女性に触れるのが、たまらなく嫌だと思ってしまった。それがたとえ親友  
の朔だったとしても、泣いてしまうほど嫌だと思ってしまったのだ。  
 だが、望美自身はそれがどういった感情であるのか、まだはっきりと分かっていなかっ  
た。砂の中へとその言葉が落ちていき、深い場所へと沈み込んでいってしまった。  
 
 ぎしりと人の重みで床が鳴り、望美は音のする方へと顔を上げた。  
 「九郎さん……」  
 「す、すまない。その……酒を飲まないか? あ、いや、酒と言っても米麹からできて  
いるもので、甘くて冷たいものなんだが……」  
 「お酒、ですか?」  
 望美は九郎を見つめた。すでにそれを用意していたのか、九郎の両手には器が二つあっ  
た。望美の答えに困ったようにしている様子を見て、望美はくすりと微笑んだ。  
 「そうですね。私たちの世界では未成年ですが、ここの世界ではもう私も大人ですもん  
ね。いただいていいですか?」  
 九郎はその言葉に笑みを見せ、望美の隣に胡坐をかき、器をひとつ渡した。乳白色に輝  
くそれを一口飲んでみると、とろりとした甘い味が広がり、懐かしさがこみ上げてきた。  
 「これ……もしかして甘酒ですか?」  
 「知っているのか?」  
 「私たちの世界では、温めて飲むものですけどね。……冷たいのもおいしい」  
 そうか、と九郎が言ったきり、二人はしばらく言葉を交わさなかった。  
 顔を合わせればいつも意地を張り合って喧嘩ばかりしているのに、今はこうして穏やか  
な時間を過ごしていることがくすぐったく感じられた。たぶん九郎は昼間の自分を心配し  
て、ここに来てくれたんだろう。言葉に出して何かを言ってくれるわけではないが、九郎  
の気遣いは素直にうれしかった。  
 だが、ここで心配して来てくれたのかと問えば、九郎はひどく狼狽して照れて、終いに  
は怒ってどこかへ行ってしまうかもしれない。それが手に取るように分かるので、望美は  
思わず笑みをこぼしてしまった。  
 「どうかしたのか?」  
 急にくすくす笑いはじめた望美を見て、九郎が不思議そうに問いかけた。  
 「いいえ、何でもありませんよ」  
 「おかしなやつだな。何もないのにお前は笑うのか?」  
 「女の子はみんなそうです。お箸が転がっただけでも笑えるんですから」  
 おかしそうにそう言って九郎の顔を見上げると、やさしい微笑みと穏やかな視線にぶつ  
かり、望美は息を飲んだ。満月に浮かび上がる九郎のその表情は、望美にとっては初めて  
見るもので、思わず見とれてしまった。  
 「ちょっとは元気になったみたいだな」  
 九郎の手に握られていた器が置かれ、ことりと音を立てた。やがてその手が望美の頬に  
添えられ、九郎の手のぬくもりが、ひやりとした空気の中、とても温かく感じられた。  
 「お前が元気ならそれでいい。俺は……泣いているお前を見るのは辛い。お前にはいつ  
も笑顔でいてほしいんだ」  
 「九郎さん……」  
 目が離せずにいた、その人の名を望美がつぶやくと、九郎の顔が自然と近づいた。まっ  
たくの無意識ながら望美が目を閉じようとしたそのとき、小さな葉音とともに黒い人影が  
そこに現れた。  
 
 「望美、さん……と、九郎ですか……?」  
 辺りを煌々と照らしていた満月は、いつの間にか薄く雲をまとい、弱い光を降らしてい  
た。暗がりの中でもはっきりと分かるその黒い外套は、弁慶のものだった。  
 弾かれたように二人は離れ、望美はうつむき、九郎は顔を真っ赤にして、上ずった声で  
弁慶の問いに答えた。  
 「べ、弁慶! 遅かったんだな!」  
 「ええ、ちょっと人から頼まれて、調べ物をしに六波羅へ行っていたんです」  
 「そ、そうか! いや、その……」  
 「どうしました、九郎」  
 「俺たちは、酒を飲んでいただけなんだ! 酒といっても甘酒で、それは望美の世界に  
もある酒で、その……」  
 弁慶がくすっと笑うと、九郎は不機嫌そうに弁慶を睨んだ。  
 「何がおかしい」  
 「いえ、事情は分かりましたが……僕はそこまで聞いていませんよ」  
 「ばっ……! 俺はもう寝る!」  
 さらに顔を赤くした九郎は勢いよく立ち上がり、どかどかと音を立てて歩き、自室へ  
入ったのか、ぴしゃりという音が聞こえてきた。  
 あとに残された望美は、いまだ顔を上げずにうつむいたままだった。  
 「望美さん? どうかしましたか?」  
 「いいえ」  
 「僕が、何か不興をこうむることをしてしまいましたか?」  
 こういうと、望美に近づいた。弁慶の影が望美の体に重なり、一瞬目の前が真っ暗に  
なったことに驚き、望美は顔を上げた。  
 「ああ、やっと顔を上げてくれましたね」  
 しかし、またすぐに下を向いてしまった望美に、弁慶は目を丸くして驚いた。  
 「すみません、邪魔をするつもりはなかったんですが……。夜も遅いことですし、庭か  
ら部屋へ入ったほうが誰も起こさずにすむかと思ったので……まさか二人がまだ起きてい  
るとは思いませんでした」  
 「……い」  
 かすれた声が聞こえてきたので、弁慶は望美に顔を近づけた。  
 「何か言いましたか?」  
 「……お帰りなさい、弁慶さん……」  
 望美が意図していることはまったく分からなかったが、弁慶は言われた言葉にふわりと  
微笑み、ただいま帰りました、と言った。  
 
 「もう遅いですし、春とは言えまだ夜は冷えます。望美さんも部屋へ入ったほうが……」  
 「弁慶さん」  
 不意にかけられた言葉と自分を見上げている望美に、弁慶は言葉を続けることができ  
なかった。  
 「……昼間、どこに行ってたんですか」  
 問われていることだけではなく、顔を上げた望美のすがるような視線が、弁慶を  
困らせた。  
 「先ほども言ったように、六波羅ですよ」  
 「それはもう聞きました。その前、です」  
 「なぜそんなことを聞くんですか?」  
 「質問に、質問で答えないでください」  
 答えたくないから弁慶がそう言ったのだろうということは頭で分かっていたが、  
感情がまったく追いついておらず、望美は静かに怒りをあらわした。そして、弁慶は  
あきらめたようにひとつ息を吐き出した。  
 「下鴨神社ですよ。さあ、これで気がすみましたか? 早く部屋へ……」  
 入ってください、という言葉の代わりに、どん、という音が弁慶の体に響いた。その  
勢いで頭を覆っていた外套が弁慶の髪をすべり落ちた。  
 「望美さん……」  
 弁慶は驚いたようにその音を立てた張本人――望美に声をかけた。望美は弁慶の着物を  
ぎゅっと掴み、肩を震わせて弁慶の胸に頭をうずめていた。  
 「どうしたんですか?」  
 そっと望美の頭に手を置き、髪をなでながら、自分の胸にいる女に弁慶は問いかけた。  
 しかし、望美はその問いに左右に小さく頭を振った。  
 「何かあったんですか?」  
 その問いにも頭を振るばかりだった。  
 「嫌なことでもあったんですか?」  
 それまで頭を振るだけだった望美の動きが、ぴたりと止まった。  
 「何も……ありません。何も……。ただ、昼間弁慶さんが朔を抱きしめていたように、  
私を抱きしめてほしいだけです」  
 弁慶は、望美の髪をつるりとすべるようになでていたその手を止めた。  
 「……見ていたんですね」  
 望美は何も答えなかった。  
 自分の両肩に弁慶の手が置かれ、それに力強さが感じられたため、望美の体は弁慶から  
離れた。そして、感情も何も感じられなかった弁慶の言葉に、怖くて顔を上げられずにいた。  
 「残念ながら、朔殿のように君を抱きしめることはできません」  
 頭の上から聞こえてきた言葉に、頭を上げ、望美は体を強張らせた。そこにあったの  
は、無表情で望美を見下ろす弁慶の顔だった。  
 
 「女性がそういうことを言うのは、あまり感心ができませんね。何かあってからでは  
遅いと思いませんか? たとえばこんな風に」  
 そういうと、弁慶はすばやく望美の唇を自分のそれを重ねた。軽く触れただけですぐに  
離れたが、望美が抵抗しないことが分かると、またすぐに塞いだ。やがて抵抗が始まった  
ので、それを押さえるように強く望美を抱きしめ、その動きを封じた。何度も何度も角度  
をかえていると、息苦しさからか、望美が口を開いたその隙を逃さず、半ば強引に舌を  
入れ、その行為は深いものへと変わっていった。  
 望美には、今何が起こっているのか、理解できないでいた。しかし、事実として弁慶に  
口付けられていることは解っていた。あまりにも突然のことに抵抗したが、それは押さえ  
つけられ、もがくことすら許されなかった。冴え冴えとしていた頭の中は、もやがかかっ  
たようになり、冷たかった体は熱を帯び始め、望美は時折声を漏らしながら、夢中で弁慶  
に答えていた。  
 つ、と弁慶の唇が離れた。体の浮遊感が抜けず、どのくらいそうしていたのかわから  
ない。しかし、ふわふわした感覚も、弁慶の吐き捨てるような言葉ですとんと地面に落ち  
た気がした。  
 「もう少し自覚なさったらどうですか」  
 弁慶は望美の顔も見ずに望美の横をするりと通り抜け、やがて静かに扉が閉められ、  
弁慶が自室に入ったことを告げた。  
 「弁慶さん……」  
 いつの間にか顔をだしていた月を見つめたまま、望美は頬を伝う涙をそのままに、その  
場から動けなくなっていた。  
 

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