翌朝早く、望美は京邸を出て、神泉苑に向かった。見上げると、昨日見えた青はそこに
なく、どこを見ても薄暗い雲が広がるばかりだった。
泣きながら褥に横になり、いつの間にか眠っていた。しかし、その時間はたいして長い
ものではなかったようで、のろのろと起き上がり部屋を出ると、空はまだ明けきってはい
なかった。
望美は目の前に広がる池の前にしゃがみ、水面に映る自分の顔を見た。
「ふふ……やっぱりひどい顔してる」
そこには目が赤く、あきらかに泣きはらした後がうかがえる顔が映し出されていた。
しばらくすると、一つの小さな雫が水面を揺らし、映っていたものをかき消した。また
一つ、今度は望美の髪に、さらにまた一つが望美の着物に吸い込まれていった。やがてた
くさんの雫が辺りを覆い始め、水面にはもう何も映らなくなっていた。
望美はその場から動こうとはしなかった。両腕で抱えた膝の上に顎を乗せ、じっと雫が
作り出す幾重もの波紋をしばらく見つめ続けていた。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。雫をたっぷり含んだ髪と着物は、今の望美には
ひどく重く感じられた。力が抜ければ、そのまま水の中へ落ちていってしまいそうだった。
そうならないようにと立ち上がったそのとき、遠くで自分を呼ぶ声が聞こえた気がしたの
で振り返った。そして、それが気のせいではないことは、駆けてくる人が視界に入ったこ
とでわかった。
「望美!」
「九郎さん……」
「何をやっているんだ、お前は! 一人でいなくなったりして! 戦乱の世なんだぞ、
平家の者に何かされたらどうするんだ!」
明らかな怒りをあらわした九郎は、視線を合わせようとしない望美を怒鳴りつけた。ど
んなに意地を張り合っても、これほどの語気の強さで九郎に何か言われたことはなかった
と、昨夜から晴れることがない頭で望美はうっすらと考えていた。そして、吸い寄せられ
るように九郎の胸へと倒れこんだ。
「の、望美?!」
「ごめんなさい……九郎さん……ごめんなさい」
望美の言葉はあまりにもか細く、先ほどから続いている水面や葉をはねる雫の音に消え
てしまいそうだった。だが、九郎の耳にそれは届き、九郎は望美の頭に手を乗せた。
「……お前が無事なら、もういい。だが、一人でいなくなるな」
「はい……」
九郎の手はそのまま望美の髪を滑り落ちた。安心からか、九郎は小さな笑みを見せた。
「よし。じゃあ戻るぞ」
そう声をかけても、小さく肩が上下に動くだけで、望美が動き出す気配がない。名前を
呼んでも、反応がなかった。肩を抱いて望美を胸から離すと、熱い息を吐き出し、苦しそ
うにしている顔があった。空いているもう一方の手で望美の頬に触れると、昨夜とはまっ
たく違い、それと分かるほどの熱を持っていた。
「お前、熱があるじゃないか! どうしてこんな……くそっ!」
望美には、九郎の手がひんやりとしていて、とても気持ちよく感じられた。だが、九郎
の声とともにそれが徐々に遠くなり始め、望美は暗い闇へと沈んでいった。
望美は闇の中にぽつりと立っていた。ただそこに望美がいるだけだ。人の話声はない。
白と黒の対比が嫌に目につくので、自分をみてみると、なぜか白無垢をまとっていた。
この状況が一体何なのか、混乱するばかりだった。
ただ、望美は直感的に、求めていた人が後ろに立っているのが分かっていた。しかし、
なぜか後ろを振り向くことができずにいた。その人物が、望美を背後から抱きしめた。望
美はその名を呼ぼうとしたとき、闇に一筋の光が入り込んだ。その刹那、望美の身体は闇
の中へと沈んでいった。
「あ……!」
「目が覚めましたか? 気分はいかがですか?」
「弁慶さん……」
ふいにかけられた言葉がその存在を示し、静かに微笑みながら望美を見下ろしている顔
が望美の視界に入った。望美はそのまま言葉を続けた。
「夢を見ていたみたいです。真っ暗の中に私がいて……」
「恐ろしい夢だったのですか?」
「いえ、たぶん怖くはなかったと思います。あれ? 今見てたばっかりなのに、内容忘
れちゃった……」
布団を引き上げ顔を半分だけ隠し、望美はつぶやいた。
そのとき、ひんやりとしたものが額に触れた。それが弁慶の手だということに気づくま
で、少し時間がかかった。
「先ほどと比べると、だいぶ熱が下がったようですね。よかった」
「あの、私……」
「神泉苑で倒れたと聞いています。ここへは九郎が運んできたんですよ」
あ、と望美は小さく声を上げた。
「弁慶さんはどうしてここに……?」
弁慶は困ったような笑顔を向けた。
「一応、これでも薬師ですからね。九郎に言われてこちらへ控えていました」
「あ……そう、ですよね」
「さあ、もう少し休んでください。だいぶ下がったとはいえ、まだ熱はありますからね」
「弁慶さん」
名前を呼ばれ弁慶は、どうかしましたか?と言い、柔らかな微笑みを望美に向けた。
「……いいえ。やっぱり何でもありません」
「君は『何でもない』が多いですね。その言葉の後ろには、一体どんな言葉が隠されて
いるんですか?」
優しく諭されるようにこう弁慶に言われると、望美は布団をさらに引き上げ、顔を完全
に隠した。
「では、僕はもう行きますね。新しい薬を調合しておきました。ここへ置いておきます
から、それを飲んで休んでください」
「弁慶さん!」
布が擦れる音がして、弁慶が立ち去ろうとしているのを感じ、望美は布団を跳ねのけて
起き上がって叫んだ。
「待ってください! あの!」
驚いたように望美を見つめていた弁慶は、眉間に皺を寄せ、目を逸らした。
「昨夜も言いましたが、君はもう少し自覚をする必要があります。どうして分かってい
ただけないんですか」
そう言って弁慶は外套をふわりと翻し、望美を置いて部屋を出ていった。
そのとき一瞬だけ望美が見た外の景色は、葉の上に乗っている雫がきらきらと、優しい
光の中で輝いているところだった。
望美は眠り続け、翌朝には熱は完全に下がった。しかし、安静にとの弁慶の言葉に従い、
この日は何をするでもなく、自室で時を過ごした。
すでに闇の帳が下り、部屋には小さく明かりが灯されていた。風はないはずなのに、
その明かりが微かに動き、壁に映し出された望美の影を揺らしていた。
「望美」
ふいに外から声をかけられ、その声の主に望美は、はい、と返事をした。
「九郎だ。熱が下がったと聞いたんだが。その、よければ話がしたい」
そう言われて、望美は立ち上がり部屋から顔を覗かせ、九郎に声をかけた。
「散らかってますけど、いいですか?」
「ああ、すまない。失礼する」
望美の先導で部屋に入り、九郎は用意された円座に座った。そして望美は九郎に向き合
うように座った。九郎と望美が空気を動かし、明かりの炎が大きく揺れ、一瞬、二人の影
は形をなくした。
「昨日はすみませんでした。迷惑かけちゃって……。神子失格、かな?」
望美はばつが悪そうに、乾いた声で小さく笑った。
「そんな風に笑うな」
静かだったが、はっきりと述べられたその言葉と、射られるように見つめる九郎の視線
に、望美は笑うのをやめた。
「一昨日も言ったが、何があったかは聞かない。お前のことだ、きっと聞いても言わな
いだろう。だが、一人でどこかへ行くのだけはやめろ。皆に迷惑がかかる」
九郎から視線をはずしてうつむき、望美は小さな声で「迷惑かけてごめんなさい」とつ
ぶやいた。
「あ、いや……。どうも俺は口が悪いな」
ふと沈黙が訪れたが、再び九郎は口を開いた。
「まだまだ戸惑うことも多く、時には独りになりたいときもあるだろう。だが、せめて
居場所だけでも誰かに知らせておいてくれ。分かったな」
なだめられるように語られた言葉に、望美は素直にうなずいた。
「話はそれだけだ」
九郎が立ち上がったので、見送ろうと望美もそのあとに続いた。明日にはまた元気な姿
を見せてくれ、と言って部屋を出た九郎を、望美は呼び止めた。
「どうした?」
九郎が振り向くと、望美がふんわりとした笑顔を浮かべていた。
「まだちゃんとお礼言ってなかったから……ありがとうございました」
一瞬驚いた顔を見せた九郎だが、それはすぐに真剣な面持ちとなり、そのまま望美に近
づいた。望美は、どうしたのかと九郎を見上げると、九郎が急に視界から消え、目の前に
あったのは九郎の着物だった。
「く、九郎さん!」
抵抗しようと身をよじらせても、それは、九郎の腕にさらに力を入れさせるだけだった。
「昨日……お前を見つけるまで生きた心地がしなかった」
九郎から絞り出された言葉に、望美は動けなくなってしまった。
「……頼む、俺の前から急にいなくなったりしないでくれ。俺は、お前を……」
九郎は望美の肩に顔をうずめ、いっそう腕に力を込めた。
「失いたくないんだ……」
その言葉を聞いて、望美は、自分の心臓の音が耳に届き、身体が大きく響いたような気
がした。自分のことを思う九郎のまっすぐな言葉が、望美の全身を隅々まで駆け抜けてい
った。そして、望美の中にこみ上げてくる気持ちが、だらりと下がっているだけだった望
美の両腕を、九郎の背中へと動かした。
背中に触れたものに九郎は身体を震わせ、望美を締め付けていた腕を解いた。いつも勝
気で、自分の言うことに憎らしいほどの言葉を返してくる女が、自分の腕の中では小さく、
剣の力強さからは思い描くこともできないほど華奢であることがわかり、ただ望美を見つ
めるだけだった。
二人の顔は自然と近づき、やがて唇だけが触れ合った。ただ重ねるだけだったそれは、
いつしか深いものへと変わっていった。
「ああっ! んっ! はあ……あん!」
小さく灯された炎だけがゆらめき、艶かしい二人の行為を闇に映し出していた。
九郎は自分に翻弄される望美の艶やかな表情を見て、ますます気持ちを高ぶらせていっ
た。初めてであることを示す苦痛な表情も今は消え、九郎の動きにあわせるように嬌声を
上げる望美を、九郎は全身をかけて愛したいと思っていた。望美は最初こそは抵抗や戸惑
い、恥ずかしさを見せたが、温かな肌に包まれているという安心感からか、今では九郎か
ら与えられるものを、ただ素直に受け入れていた。
九郎の動きに望美の体が弓なりに反れ、そのとき持ち上がったいただきが九郎の目に留
まった。つながったのをそのままに九郎は動きを止め、それを口に含んだ。丁寧に舐めあ
げてくる九郎の舌に、それまでの激しさとは違い、望美はうっとりとした面持ちで反応し
た。薄暗い闇の中に浮かび上がる望美の白い肌に、九郎は魅了され、やさしく愛撫をし続
けた。やがてその胸元へ赤いしるしを落とした。
九郎は顔を上げ、うっすらと汗を滲ませる望美の額に口付け、それまで止まっていた行
為を加速させた。
「あっ! あん! はあ……く、くろ……さ、ん!」
次々とやってくる快感に喘ぐ望美の唇が、九郎の名を呼んだ。それはたまらなく淫ら
だった。
「……の、ぞみ!」
そう聞こえた次の瞬間、望美に覆いかぶさるように九郎が倒れた。望美はその重みと肌
に心地よさを感じ、ただ目を閉じ、九郎の首に腕を巻いた。そして二人は、名残惜しそう
に深く口付けを交わした。
しばらくして、九郎が丁寧に望美の体に着物を被せた。そして、まだ小さく肩で息をし
ている望美を、愛おしそうに着物ごと抱き寄せた。
「こうなってしまっては今さらかもしれないが……。一つ、大事なことを言っておく」
九郎はそこで一旦言葉を切り、大きく息を吸い込んだ。
「……愛している。お前だけを」
雀だろうか、鳥の鳴き声が妙に耳をつき、望美は目を覚ました。夢見心地で呆けていた
が、自分が何も身に着けていないことに気づくと、被せられていた着物を引き寄せ、身体
を隠した。ふと隣を見ると、そこにあるはずのぬくもりは微かにその跡を残しているだけ
だったが、それは昨夜のことを思い起こさせるには十分なほどで、望美は頬を染めた。
寝巻きを羽織ろうと起き上がったそのとき、望美は枕元に置かれていた白い和紙に気づ
いた。折りたたまれたそれを広げてみると、普段の九郎からは微塵も感じることができな
い、滑らかな手で書かれた歌が二つ、したためられていた。
《浮草の 上はしげれる 淵なれや 深き心を 知る人のなき》
――浮草が茂った深い淵の深さは、俺の心のそのものであり、その深さを知るのはお前
以外誰もいない――
《明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき あさぼらけかな》
――ずっと一緒にいたいが、夜明けに帰らなくてはならない。お前の側を離れなければ
ならない合図である、夜明けの光がうらめしい――
それは、望美に宛てられた、九郎からの後朝の歌だった。