藤原の大臣は見事な花を咲かせる藤の木を大層大切にされていた。  
その藤よりも一層愛されているのは、花の様に可憐で聡明な末の姫である。  
まさに花の盛りという年齢になり、都でも評判の人。  
しかし、不思議なことに彼の姫には結婚の噂が立ったことがない。  
母君の身分が低い為なのか、それとも…  
「 私は藤姫様にずっとお仕え致しておりますが、結婚のお話が来ないのはおかしいですわ! 
 姫様ほどお優しくて美しい女性など他にいないのに…  
 恋文の一通もこないなんて世の殿方は何をしているのやら!」  
取り乱して泣く女房に控えめな微笑みを向けた後、豊かで長い髪を揺らし藤姫は庭の藤を眺めた。夕日 
の柔らかな光が射し込む庭、今年もきっと見事な花を咲かせると予想できるほどに蕾を多く蓄えている。  
「ありがとう。あなたがそう言ってくれるのはとても嬉しいわ。  
 しかし私は星の一族の末裔として、神子様が救って下さったこの世の平和を祈り 一生を全うしたい 
 と思っているのよ。」  
藤姫は心の底からそう考えているため、実は男性から求婚されないのは好都合だった。  
だが、世の姫にとって結婚は一生に一度の大イベント、周りが騒がしい。  
姫の決心は固く、その心を動かせるのはたった一人だけ。  
その人物が先程から立ち聞きをしていたことなど、彼の着物から良い香りが漂っているのでわかっている。  
「橘少将殿、黙って女性の話に聞き耳を立てるなんて珍しいのではありませんか?」  
「いやいや、お取り込み中のようだから控えさせて貰っただけだよ。  
 そこの女房、私は姫に御挨拶してもいいものかな?」  
「申し訳ございません!今すぐに御簾のご用意を…」  
その動作を藤姫が制し、女房は一礼してその場を外した。  
八葉であった友雅と気軽に御簾なしで会うのはいつものことだ。  
 
軽く癖のついた髪を纏めずにおろしている橘友雅は、藤姫より20も年上である。  
だがその様なことを感じさせないほど若々しい。  
「このような時間に申し訳ないね。私にも色々とやることがあるのだよ。」  
二人だけになり、友雅は襟元を少し緩めくつろいだ形になる。  
そんな彼の態度に藤姫も頬を緩めた直後、慌てて険しい表情を作った。  
「いいえ、他の方にはもっと遅い時間にお会いになるのでしょう?」  
「まったく、藤姫は私に対してだけ特別厳しいね。  
 この頃は私も心を入れ替えて真面目になったというのに。」  
「…その噂は私の耳にも入っていますわ。あまり信じてはおりませんけど。」  
「おやおや、誰よりもあなたに信じて欲しいのに悲しいね。」  
このような会話の流れはいつものこと。ここで二人、クスクスと笑い合って終わるのだ。  
しかし、今宵は違う。見上げた藤姫の瞳には真剣な表情の友雅が映っている。  
いつの間にやら二人の距離は近づいており、藤姫の腰には友雅の腕が回り友雅のもう一方の手が姫の頬 
を包み二人の顔が徐々に近づいている。  
その時に藤姫はハッと我に返った。  
「御冗談は程々になさって下さい!また頬に口付けて私をからかうのですね!  
 私はもうそんなに子供ではありませんのよっ。」  
真っ赤になって怒っている姫は、友雅の胸をポコポコと叩いた。  
「いつもそのような態度だから信じられないのです。」  
 
頬から手を離し長く真っ直ぐな髪を一房掴みそれに口付けた。  
「本当に貴女は私を信じていないのかい?私を特別に想っているのに?」  
「とっ特別になど想っておりません!」  
「御簾を隔てずに会うのは私だけだろう?賢いあなたが気付いていないはずない。」  
友雅に言われて咄嗟に否定など出来なかった。  
龍神の神子が自分の世界へ戻ってから他の八葉は余程の用事がなければ藤姫の元へ足を運ばなかったのだ。たまに会ったとしても幼い頃とは違い全て御簾越し。  
何かにつけてご機嫌伺いに来るのは以前から顔を出していた友雅だけだった。   
だから周りには友雅を『八葉』として特別に扱っていると言い訳していた。  
他の誰よりも彼だけ特別、そんなことはずっと前から自覚してる。  
幼い頃、鳴神(雷)を怖れて一人で泣いていた姫君の側に付いていてくれた初恋の人は彼なのだから。  
そう思い倦ねていると目の前で友雅がニヤニヤと笑い。  
「貴女は素直だから考えていることが表情に出てしまうんですよ。  
 もう観念しなさい。貴女が私を好きなことはわかっているんだからね。」  
 
すっかり黙り込んでしまった藤姫の顔を上げさせ、そっと唇を塞ぐ。  
最初の口付けには驚いて目を見開いていた藤姫も二度目には瞳を閉じた。  
一度目はただ触れるだけで気持ちを伝えるような口付け、二度目はそれよりも深く、舌の感触に藤姫は 
戸惑う、三度目は遠慮がちに姫も応えて見せたのだ。  
その必死な表情があまりにも愛おしくて友雅は離れがたく思った。  
初めてのことに息を切らし混乱している姫が落ち着くのを待って、友雅は彼女の大きな瞳と目を合わせた。  
「私が大切にしたいと想っているのは貴女だけなんですよ、藤姫。  
 大臣が貴女の母上の藤を大事にしているように私の館にも藤があるのです。  
 ずっと以前から貴女を想ってね。」  
「それは…いつか見てみたいですわ。」  
「そうですか。では、今から見に行きましょう。」  
そう言うと友雅は有無を言わせずに藤姫を抱え上げ自分の車へと運んだ。  
「ちょっとお待ち下さい!そんな急に!友雅殿っ。」  
「ご心配なく。貴女を妻にするのに大臣の許可は下りていますよ。」  
藤姫は知らなかった。  
他の殿方から文が一通たりと届かないのも、親しくしていた八葉すらなかなか会いに来られないのも、 
全て友雅が暗躍してのこと…  
 
それから数日後、橘家と藤原家の藤の花が見事に満開を迎えたのだった。  
 
                       <終わり>  
 

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