九月一日。  
 わたしはその日だけ文芸部部室に行かなかった。  
 二週間の試行の繰り返しには、これまでと比較にならないほどのエラーデータ蓄積があった。  
 午前で放課になった後、わたしは自宅に戻り、統合思念体と接続して可能範囲内でのデータ削除を  
行う必要があった。二週間を繰り返している最中にも、幾度となくこのようなデバッグ作業を行い、しか  
しわたしは誰にもそのことを話していない。  
 
 自宅に着いて昼食を済ませ、わたしはベッドに横になった。  
 体温が通常時より0,6℃上昇している。原因はバグ蓄積の他に、近年の温暖化による猛暑、昨日彼が  
宿題を終えた際に見せた表情。そして、  
 
 ただ一度、わたしが暴走した時の記憶――。  
 
 
 ――はちがつじゅうしちにち――  
 
 
「長門、何かぼーっとしてるけど大丈夫か?」  
 彼の声がかかる。市民プール。試行一万二千八百三十六回目。  
 予想よりも不可がかかる速度が増している。原因不明。早急にデバッグを行う必要がある。  
 わたしは首を振った。  
「そうか。俺の気のせいならいいんだ。すまなかった」  
 初期の段階でループに気付くケースは一度もない。ほぼ間違いなく、朝比奈みくるが未来へコンタ  
クトを図り、それに失敗したことで発覚する。しかし朝比奈みくるも、彼も、古泉一樹も、既にデジャ  
ヴを感じているようだ。先ほどの彼の表情は、過去の試行でにわたしが何度も観測したものと同じ。  
 ふと古泉一樹と目が合った。微笑する顔を、ほんの一時崩す。彼が古泉一樹に話しかけるまでに、  
一樹は微笑を取り戻す。  
 
 今、彼は何を思ったのだろうか。  
 
 
「長門さん」  
 市民プールから駅前に戻り、解散した直後、古泉一樹が話しかけてきた。  
「なに」  
 わたしがそう言うと、一樹はさきほどの笑みを抑えた表情にまた戻り、  
「何かあったんですか。彼に言えないことで僕に協力できることがあれば、遠慮なく言ってください」  
 わたしは一樹を見た。  
 ……。  
 視界が霞む。いけない。一刻も早く自宅に戻る必要がある。  
「何でもな」  
 ……空が遠くなる。  
 
「長門さんっ!」  
 
 
 目が覚めると、見慣れた天井がぼんやりと広がっていた。  
 体温、37度2分。微熱。  
「おや、お目覚めですか」  
 傍らに古泉一樹の姿があった。穏やかに笑っている。  
「心配しましたよ。突然倒れる長門さんなど、初めて見ましたからね」  
「倒れた?」  
 わたしが言うと、一樹は一度眉をつり上げ、  
「えぇ。先に言っておきますと、ここにあなたを運んだのは僕です。方法は『機関』の協力で……と  
までしか言えませんが。あぁそれと。誓ってやましいことはしていませんので」  
 彼の言う「やましいこと」が何を意味するのかわたしにはわからないが、わたしがうかつであった  
ことは間違いない。過去の試行において、このようなことは一度もなかった。涼宮ハルヒに関わるこ  
と以外でのイレギュラーパターンは、可能な限り避けた方がよい。これも避けるべき事態であったこ  
とは間違いない。  
 
「感謝する」  
 わたしは一樹に言った。一樹はまた通常見せる笑みを戻し、  
「いえ、このくらいは何でもありませんよ。僕は先日涼宮さんから副団長に任命されたばかりですし  
ね。彼女がフォローしきれない団員の状態を見ることも必要だと思っています」  
 彼の言葉を聞きながら、わたしはようやく視野のピントが合ってきたことを確認し、半身を起こす。  
「もう起きて平気なんですか?」  
「古泉一樹」  
「は、何でしょうか?」  
 わたしの呼びかけに一樹は意表を突かれたようにたじろぐ。  
「出て行って」  
「え。ほんとに大丈夫なんですか?」  
 わたしは頷いた。至急バグを除去する必要がある。一樹に教えるわけには……いか、な  
「……」  
「長門さんっ!」  
 
 
 ――記憶が乱雑に意識を飛び交う。  
 初めに登場するのは彼。  
 三年前の七夕、初めて会った、彼。  
 それから次に会うまでの、長い観測期間。市民プール。無音の窓辺。読んだ膨大な本。  
 涼宮ハルヒ。観測対象。いつも同じ。今だ情報爆発が続いている。終わらない夏。観測。  
 朝倉涼子の異常動作。セミ。アルバイト。天体観測。涼宮ハルヒが集めた五人。観測。  
 栞に書いたメッセージ。現れた彼。彼。  
 差し出したお茶。夏祭り。朝比奈みくるの次々に変わる衣装。花火。合宿での命令。七夕。  
 古泉一樹が用意した舞台。コンピュータ研部長、喜緑江美里。繰り返し。バッティングセンター。  
 ホーミングモード。属性情報を……ブースト変更……  
 五月の終わり、彼と共にこの世界から消失していた涼宮ハルヒは、彼と彼と彼と彼と彼と  
 彼と。  
 彼が?  
 彼がいなくなる。  
 
 
「いけない!」  
「長門さんっ!?」  
 呼吸が乱れる、心拍数が急上昇する。熱い。肩が震える。止まらない。いけない。  
「……っ、あぁぁぁぁぁああっ!」  
「長門さん! 大丈夫ですか! しっかりしてください!」  
 握られる手。手。温かい。手。彼は彼は彼はどこ? どこ? どこ?  
「どこ?」  
「長門さん?」  
 視覚情報が得られない。熱い。あつい。体温計測、不能。バグチェック、不能。現在時刻……  
「あつい! あついあついあついあついあつい!」  
「長門さん! うわっ、すごい熱です。……ちょっと待っててください! 今、氷枕を――」  
 行かないで。行かないで。行かないで。行かないで。行かないで。行かないで行かないで行かな  
いで  
「長門……さ」  
 さみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしいさみしい  
「長門さん……?」  
「いかないで! いかないでいかないでいかな」  
 止まらない。許容量突破、修復しゅうふくしゅうhプログラムをしゅうf  
「しっかりしてください! 長門さん、長門さんってば!」  
 抱きしめる抱きしめる抱きしめる彼彼彼彼かれかれかれ……  
「いかないで……」  
 わたしは誰を抱きしめているのだろう。何も見えない。何も感じない。何も知りたくない。彼はど  
こ。観測。観測。観測。観測。観測。観測。観測。観測。観測。観測。観測。観測しないといけない。  
 
ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとでもエラーが、たまってうごけないうごけないうごけ  
うごけうごけうごけ。おわらない、おわらないおわらないおわらないかんそくがおわらない。  
 
 ――。  
 
「……」  
「長門さん、しっかり」  
 だれか。だれかいるの。だれかわたしをだきしめていてくれる。あつい。あついよ。あついの。  
あつい。あったかい。あたたかい。あたたかいの、です。あたたかいから、あたた、あた  
「こわい、かんそくこわい、こわい、よぅ……」  
 何かが止まらない。何だろう、なんだろう。なんだろう。わたしに流せるはずないもの。なに?   
ねぇ。どうして、彼はわたしをみてくれないの。わたしは彼をみてるのに。いつもみてるのに。  
 かんそく、かんそくしてるんだよ。どうして、だめなのかな、それだけじゃだめ? ねぇ。だめ?  
 きえちゃえばいいのに。みんな、みんな。おわらないなつ、の、なか、で、きえちゃえばいいの  
に。いいのに。  
「きえて、きえて、きえて、きえ……きえ、て……」  
 だれかがずっとだきしめててくれるんだ。わたしをおさえていてくれる。ぜんぶめちゃめちゃに  
こわしてしまいそうなわたしを、きゅっとしててくれるんだ。だ。だ。だ。  
「長門さん……」  
「きえて!」  
 ないてるの? だめだよないたら。わたしはゆうきせいめい、あれ? たいゆうきせいめいたいよ  
うこんたくとひゅーま。ひゅーまのいど、ん。わかんない。わかんないわかんないわかんない、よぅ。  
「いったい何があったんですか。どうしてこんな……」  
「だめ……だめ、だめ、だめ……」  
 ゆきはこわれちゃったのよ。もうだめなの。げんかい、そう。げんかいだもん。げんかい。なつが  
おわらないの。あのね、そう、なつなの。おわらないの。いつもおんなじよ。わかる。わかる? あ  
のときとおなじ。ずっとおなじ。いつもごほんをよんでいたの。そのときとおなじ。いつもおなじ。  
もうくらいのはいやだよう。こわいのはいや。どうしておわらないの。どうして。わるいことしたか  
らかなあ。とじこめられたのかなあ。わたしはでられないんだ。でられない。おわり。おわり。おわり。  
「ぅぅううぅっ」  
「しっかり。僕はここにいますから。どこへも行きません」  
「うぅぅぅぅー」  
 こわれたらすてられないといけないのよ。あさくらりょーこみたいに、すてるの。わたしもすてら  
れる。もうだめ。かれともさよなら。ばいばい。ばいばい。ばいばい……。  
「ばいばい」  
「ば?」  
「さよならのきす」  
 
 ……。  
 
 やわらかいのよ。あたたかいんだ。あなたがだれだっていいもの。さみしくない。さみしくないよ。  
どうしてわたしじゃないのかな。かんそく。かんそく。かんそく。ゆきのおしごと。は、かんそく、です。  
かれをずっとみてる。みてる。みて、みて。みて……  
「いかないでよ。いかに、いかないでよ……」  
「長門さん……」  
「いかないで! いかないで! いかないでぇぇ!」  
 からだ。あたたかい。あつい。きょうもげんき。だから、からだあたたかい。さみしくないの。  
「すきよ。すきよ。すき、すき、すき、すき……」  
 わからない、すきすきすきすきすきすきすき。あつい。いつもみてるから。いつもいつもいつもいい  
いいいいいいいいいいい  
「すき、すき。ちゅ」  
「……」  
「ちゅっ。うん、ん、ちゅ〜っ、あ、あっ、ちゅ、ふぅぁ……」  
 
 えらー。  
 えらー。  
 えらー。  
 
 えらー。  
 
「ながと……さんっ!? ん、はぁっ」  
「もっと、もっと、もっと、ね。いつもいつもいっしょいっしょ」  
「やめ、止めましょう……こんな、こんな……こと」  
 だめよ。ゆきはすきなんだから。あつっ。あついの。すきだからすきなんだもん。だからだめ。  
だめ。いつもいっしょ。  
「もっと。ちゅっ、ちゅ。ちゅぅ……ふぅ、んむ、ちゅっ、あ、あ、ふぅぅ、んっ」  
 くちびる。やわらかい、くち。  
「っ、あ、はぁ」  
「んー、ちゅっ、れろ、ふー、んむっ、ふぁ、ふぅ、んむぅ、んっ、ぁ、ちゅぷ、ぺろっ」  
 すき? すき? すき? すき? いつもいて。あついからだ。いっしょにいて。ね。いて。いて。  
「ふぁ、うん……んんっ」  
「れろ、ぺろ、ちゅっ、ちゅむ、ふぅ、んんっ、はぁ、ちゅ、ちゅ、ん〜っ」  
 だきしめて。あちこち、はだか。はだかになる。あつい。あついから。あついのあつい。  
「すきよ。だいすき。すきすきすきすきすきすき、ちゅっ」  
「……なが……さ」  
 はだ。すきよ。すき。むね。ぺろ。んむ〜っ、ちゅ。くび。ちゅっ、おなか。おへそ。ぺろ、へへ。  
ちゅっ、ちゅ。ちゅーっ。あ、えへへ。ふふふ。かわいい。ちゅっ。ぺろ。ちゅる、ちゅっ、ちゅ。  
からだ、どんどんあつくなる、からだ。すき。なにが? すき? ちゅ。ちゅっ。おかお。て。ぜん  
ぶ。もっと、ぜんぶ。もっともっと、もっと。かんそく。みるの。ぜんぶみる。おしごと。みる。  
ちゅっ。こわれたから、あなたも。あなた。あなた? ちゅぅ……んっ、ふぁ、んんんん……。  
「はぁっ……うん……ん」  
 ぜんぶ、あったかい。あたたかい。こわくない。すき。ちゅ。きゅ。だいすき。いっしょ。はなれ  
ない。すき。かたい。ここ。んむ。んっ、ん、んーっ。すき……。すきっ。ちゅ。ん、んむ。んんっ。  
「……んっ、はぁ」  
「ちゅ、ちゅぷ、んっ、あぁっ、んぁ、んっ」  
 もっと、もっともっともっともっと。とろとろ。もっと。ちゅっ。  
 えへへ。へへ。  
「ずっと、いっしょよ」  
 
 
 ………  
 ……  
 …  
 
「長門さん?」  
 喜緑江美里がわたしに話しかけた。彼女は既にデバッグを終えている。わたしは彼女を見て、  
「何でもない。修復にはまだしばらくかかる」  
 九月。この国で『残暑』と呼称される時期を既に過ぎ、しかしまだ陽射しは強い。  
 カーテンのない窓の桟を焼き、切り取ったような青色の空が天井に光を映す。  
「修復は早めに受けないといけませんよ。またあの日のようなことになりかねませんからね」  
 そう言うと彼女はスーパーの袋をテーブルに置いて、わたしの家から出て行った。  
 修復は早めに……。  
「……」  
 わたしは首を振った。一万五千四百九十七回の繰り返しには、あの時に類するイレギュラーが  
いくつかあった。彼らはそれを知らない。知る必要もない。  
 
 いくつか、避けられないことがある。  
 わたしはおそらく、まだエラーを溜め続ける。  
 
 それは、涼宮ハルヒを観測し続ける限り。  
 彼を、観測し続ける限り。  
 
 ……さみしい?  
 
 わたしは首を振った。  
 不完全な、固体。  
 
 こうして、わたしの夏は終わりを向かえた。  
 
 
 
(了)  
 
 

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