少女がランプを見つけたのは、学校の帰り道、夕暮れが街を赤く染めた頃の事だった。  
 少女は初め、無感動な瞳をして、路傍に転がる薄汚れたランプを眺めていた。  
 だが、やがて何かを心に決めたかのようにそれを拾い上げると、自宅に持ち帰ることにした。  
 誰もいない部屋の中、少女は拾ったランプの汚れを落とそうと、ハンドタオルで表面を磨き始めた。  
 汚れはあっけないほど簡単に落ちた。磨くたび、ランプは金色の輝きを取り戻していく。  
 少女は大切そうにランプを磨き続けた。一回、二回、三回――そして、その時――唐突に、ランプが澄んだ輝きを放ち始め、室内は、あっという間もなく眩い光に満たされた。  
 気が付くと、少女の目の前に見知らぬ男が浮かんでいた。  
 異国風の衣装に身を包んだ大柄な男性だった。  
 私はランプの精です。そう男は名乗った。次に少女にこう告げた。ランプから出してくれたお礼に、貴方の願いを三つだけ叶えてあげましょう。  
 少女は戸惑うような、逡巡するような表情を僅かに浮かべた。少女の想定には、このような事態は含まれていなかった。  
 まずは貴方のお名前をお教えください、お嬢さん。ランプの精は柔らかく笑った。  
 長門有希、と少女は答えた。  
 
 *  
 もう三月になるっていうのに相変わらず太陽は超低空飛行を続けていて、吹きつける風は馬鹿みたいに冷たいままであり、珍しく早朝に目を覚ましたために比較的早い時刻に家を出た俺だというのに、  
高校前の長い坂道をえっちらおっちら登坂している間に、早くも勉学に勤しむ気力を根こそぎ失くしてしまっている春先の肌寒い朝だった。  
 坂の上までロープウェイでも開通してくれないもんかね、などと都合の良い想像を巡らせてはみた物の、それで少しでも坂歩きが楽になるはずもなく、  
こんなハードワーキングな高校を選択した過去の自分に対して胸中でこんこんと説教をかましてみたりなどしている俺なのだった。  
 全く、  
「キョンくん、おはよう!」  
「おわっ!」  
 などと、間の抜けた台詞を思わず漏らしてしまい、不意を疲れた俺は勢い良く振り返った。  
「早いね。いつもこの時間に登校してるの?」  
 そこに居たのは長門だった。  
 長門が白皙の顔に晴れやかな笑顔を浮かべて挨拶してくれ、……ん? 長門?  
「どうしたの? 私、顔に何かついてる?」  
 そう言って、長門はにっこりと笑って、  
「キョンくん、何だか、すごくびっくりした顔してるよ」  
 え? あれ? 長門だよな。  
 俺は立ち尽くした。  
 長門がべらべらと喋くっていた。あの極端に無口だった宇宙人製のアンドロイドが。おかしいよな。またもや知らぬ間に、俺は訳の解らん事件に巻き込まれようとしているのか?  
「違うよ」  
 長門は早春のそよ風のように、  
「私、人間になったの。それが、一つ目の願い」  
 何だって?  
「詳しい事は、秘密かな。それにしても、苦しいね、この坂道。ヒューマノイドインターフェイスだった時には、そんなの気付きもしなかったけど」  
 俺は事情がよく飲み込めないまま、息を切らしている長門と一緒に坂道を登っていった。  
 
 *  
「えっ!? ……嘘よね?」  
 ハルヒの驚いた顔面が鼻先にある。そりゃ、俺だって嘘だと思いたいさ。  
「じゃあさ、有希が、突然べらべらと喋りだすようになって、あんたに本当にニコニコスマイルを投げかけてきたって、そう言うわけ?」  
 ああ、それも古泉ばりのな。  
「信じらんない。冗談でないなら、キョン、あんた今日、熱でもあるんじゃないの?」  
 だったら俺の精神衛生面は非常に楽になるんだが、生憎、底抜けに健康驀進中だ。長門は今朝、確かに俺に、にこやかに話しかけて来やがったんだ。  
 しかも、ハルヒには内緒だが『人間になった』とかとも言っていたな。ありゃ何だ? 何やら大きな事件の前触れみたいな気がするぜ。  
「とにかく放課後、文芸部の部室で確かめてみろ。SOS団の活動にぴったりだろ? 突如、急変した少女。まさしく不思議現象到来だ」  
「何言ってるのよ。あたしはもうSOS団の人間じゃないわよ」  
 はい?  
「この前、辞めるって言ったじゃないの。古泉君もみくるちゃんも辞めちゃって、部員は有希とキョンだけになっちゃったんじゃない」  
 昨日、お前も他の奴らも皆、揃って部室にいただろうが。  
 ハルヒはしげしげと俺の顔を眺めて、  
「キョン。本当に頭、大丈夫なの? あたし、部室にはここ一ヶ月くらい足を踏み入れていないわよ? ずっと前に、SOS団を辞めるって宣言したんじゃないの」  
 ハルヒの顔に冗談の色が無い事を確かめ、俺は目の前が真っ白になっていくのを感じた。  
 
 *  
 放課後、部室の扉を開くと、そいつは既にいた。自称人間の、元宇宙人作成のヒューマノイドインターフェイス、長門有希。  
 長門は俺に気が付くと読書していた面を上げて、穏やかな日差しのように、  
「あ、来たね。キョンくん」  
 ――違う。こんなのは長門じゃない。少なくとも、俺の知っている長門有希では……。  
「長門。何かおかしな事が起こり始めている。お前が人間化したっていうのもそうだが、ハルヒや古泉や朝比奈さん、あの三人が、ずっと以前にSOS団を辞めちまったって言い張るんだ。  
 どれだけ問いただしても駄目だった。皆、昨日までこの部室にいたのによ。お前が激変したんだって言っても、ほとんど興味を示そうとしねえ。なあ、これは何だ? もしかして、お前の内部に、またバグでも発生したのか?」  
 長門は少し戸惑う素振りを見せてから、  
「ううん。違うの。SOS団が、私とキョンくん二人だけの団に変わっただけ」  
 ふわりと笑い、  
「それが、二つ目の願い」  
 また願いか。そいつは一体何なんだ。だが、俺は今と似たような状況には既に一度遭遇しているぜ。いつまでも狼狽し続けている訳にはいかない。  
 ひょっとすると、この前みたいに制限時間が設定されている可能性だってあるからな。  
 俺は壁際に備え付けられている本棚の前に立つと、分厚い本を手に取り、パラパラとページを捲った。前の事件の時に、危機から抜け出すためのヒントが記載されている栞が挟まっていたハードカバーである。  
 しかし、そこから出てきたのは、何の変哲もない普通の栞だった。  
「くそっ」  
 思わず呟くと、  
「ヒントはないの」  
 背中越しに長門の声。振り返ると、長門は相変わらず屈託のない微笑みを浮かべながら、  
「エラーでも、敵からの攻撃でもない。私は人間になったの」  
 信じられん。  
「それでもなったの。証拠は出せないけど」  
 説明してくれ。  
「うまく言えないかもしれない。情報の伝達に、齟齬が生じるかも……、それでも良い?」  
「ああ」  
 
 長門は俺に説明を始めた。道端で拾ったランプの事。ランプの精の事。三つの願い事。そして……。  
「つまり――」  
 全部聞き終わった後、俺は言った。  
「願いは、後一つだけ、残されているって訳か」  
「うん」  
 長門は俯いた。ひどく人間じみた表情をして。  
 何の事はない。長門は前回と同じように、再び俺に選ばせようとしているのだ。  
 最後の願いだけを残し、今まで叶った願いをリセットできる余地を残して置いて、人間になった自分を俺に見せ、俺がどちらを選ぶかを訊こうとした。  
 俺は正直、迷う。  
 だって長門は真剣に人間になりたがってるじゃないか。そして今、その願いが叶おうとしている。他でもない長門自身がそう選択したんだ。  
 しかしならば何故、その最後の選択権を残しておいて、俺の前にチラつかせたりする? 最後の願いを使い、俺もハルヒ達と同じように自由に操れば良かったじゃないか。なのに、どうしてこんな事をする?  
 俺は長門を見る。  
 長門は真っすぐな瞳で俺を見つめていた。  
「長門。お前の本当の望みは何なんだ? 今までのお前じゃ駄目なのか? 俺にも解るように説明してくれないか?」  
「私は――」  
 不意に、長門の黒髪が揺れ、白い手が俺の首の後ろに回された。長門の唇が、俺の唇におずおずと重ねられ、離れた。  
 長門は俺から距離を取ると、顔を赤らめ照れるようにして、  
「こういう事。私はキョンくんが……」  
 俺は激しく動揺し――普通するよな? 頬を染めている人間化した元アンドロイドの方を呆然と見つめた。  
 ええと、つまりだ。要するに長門は俺の事が……いや、まさか。そんな馬鹿な事がある訳が……。  
「キョンくんが好き」  
 言いやがった。  
「キョンくんは、私の事、嫌い?」  
 ええとですね。そういう訳じゃないんですよ。  
 どこがどう間違ったとしても、俺がまさか長門の事を嫌いになるはずがない。けどな長門、そうじゃないんだ。  
 俺はお前が人間になるのに反対な訳じゃない。もし人間になれるんだとしたら、その方が良いに決まってるさ。だけど、そういう事じゃないんだ。  
「俺は、あるがままの長門有希が好きなんだよ。SOS団も。あの無口で、無表情な宇宙人製アンドロイド。あの長門有希が好きなんだ。解るか、長門? だから……」  
 長門は心なしか、傷付いたような感情を浮かべた顔をして、  
「……解った」  
 力なく頷いた。  
「三つ目の願いが、決まったね」  
 
 *  
 そして今、明くる日の放課後、部室の前。  
 俺は扉の前に立ち、緊張した面持ちでノックを二回。  
 中からは、  
「…………」  
 闇のような沈黙。  
 俺はドアノブに手をかけて、扉を開けて中に入っていく。  
 そうして、いつものようにそいつに挨拶をするんだ。  
「よ。長門」  
 と。  
 長門はゆっくりと目だけを俺の方に向けて、  
「……」  
 いつものように無言で、また読書に戻る。  
 俺は窓際に立って、外の景色を眺める。  
「あー。良い天気だな、今日は。なあ、長門」  
 同意を求める。  
 長門は、  
「そう」  
 平坦な声で、いつものように起伏のない声で、どうでも良さそうに返事をするんだ。  
 
 END  
 

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