人肌によって暖められた教室は休み時間を迎え、授業中の静寂は破られた。
授業終了を告げるチャイムが鳴り、教師に礼をし終えた途端、
机の中から分厚い本を取り出し席に座って読んでいた長門有希は、
それを一行と読み進める事無く黒板の右隅に目をやった。
日直 長門 と日付の下に書かれているのを確認し、彼女は立ち上がった。
足音ひとつさせずに黒板の前に立ち、黒板消しを手に取る。
これは日直の仕事の一部だ。
黒板消しを滑らせ、黒板に書かれた白や赤の文字を拭き取る。
黒板は黒ではなく緑色の板、黒板消しは黒板そのものを消す物ではない。
青信号が緑色をしているのと同じ、と考えるとはなしに考え、
一通り消し終わった彼女は黒板を見上げ、
「……」
背丈の届かない部分に書かれた文字の処理について考えた。
情報操作によってこの黒板を初期状態に戻すのは容易いが、それを行うにはここには余りにも人が多い。
人知を超越した能力を使用せず、自然に上の部分に手を届かせるには、と考え、
椅子を取って来ようと彼女はUターンしようとした。
が、しかし、180度体の向きを変えるはずが、90度を少し過ぎた所で彼女の足は止まった。
古泉一樹が、先程彼女のクラスメイトが退室した際に、
開いたままにした扉の数歩前を歩いていた。
特にその視線に意味を持たせる事も無く、
彼女は黒板消しを持ったまま彼を瞳に映した。
この寒い時期に廊下からの冷気の侵入を許す希有なクラスの前を通り過ぎる際に彼は、
進行方向にやっていた目を教室の中に向けた。
自分をじっと見つめている彼女を発見した彼は一瞬、彼らしくない事にきょとんとし、
釣られて足は止まりそうになったが、すぐに何時もの笑顔を作り、足が動いた。
爪先を微かに傾けさせ、教室の扉へ向けて。
「こんにちは、長門さん」
彼女の前まで進み出て、彼はにこりと挨拶をした。
全く髪を揺らすことなく頷くのは彼女流の挨拶で、それを受けた彼も頷き返した。
彼は彼女と、彼女が手にしたままの黒板消しと、
休み時間が残り少なくなった今でもまだ残る黒板の上部の文字を交互に見、
また彼女に視線を戻した。
「よろしければ」
僕が消しますが――そう彼の言葉が続くものだと推測した彼女は、
差し出された彼の右手に、手に触れる部分を下にし、
彼の手が汚れない様に黒板消しを渡した。
彼は受け取ったそれで彼女が届かなかったステージで踊る文字を、
何の能力も道具も使わずに拭いてみせた。
全ての面から白や赤の文字を消し、彼は黒板消しを黒板にはめ込まれた溝に置き、
彼の作業を黙って見ていた彼女に向き直った。
「付いていますよ」
少量の声を上げて笑い、彼女の頭を撫でる様に払った。
付いている、とは消されたことで舞ったチョークの粉だった。
頭に感じた柔らかで暖かい手の平の持ち主を、彼女は瞬きひとつせずに見上げ、
「あなたも」
と呟くように言った。
「ええ、そうですね」
笑顔を崩さず彼は、今度は彼女の肩をはたき、
それが終わるとやっと自分の頭部やら肩やらを払った。
「それでは、また放課後」
そう言って教室を出て行った彼を、彼女は自分の視界から消えるまで見送ることも無く、
代わりに黒板を仰いだ。
古泉一樹は何らかの用件があって廊下を歩いていた。わたしはついで。
瞬き一回分黒板を見つめ、彼女は考える。
しかし、それはただ事実の確認であり、
その他の所謂感情と呼ばれるものとは無縁だった。