その昔、透明人間になれたらどうする、という誰でも一度はしそうな会話をした事があった。馬鹿な男子は声を揃えて言う。好きな子の家に侵入。何と言うか、哀れだ。
でも、もし。本当に透明人間になれたら……いや、なってしまったら、俺はどうするのだろう。
彼女は、どうするのだろう。
「まだいたんだ」
俺は振り返らずに、ぶっきらぼうに答える。その様子に彼女は小さく溜息をついた。そっけないなぁ、何て言いながら。
教室の窓から見える夕日は、もう半分以上沈んでいる。聞こえてくるのは、クラブの連中の掛け声だけ。教室の中は静寂に包まれる。彼女は俺の側にある椅子に、音もなく腰掛けた。
「本当はね」
「ん?」
「あなたが……欲しかったのかもしれない」
俺は答える言葉が見つからず、視線を宙に迷わせる。そんな告白、誰も嬉しくないぜ。
彼女は可笑しそうに、でもどこか儚げに笑う。こういう所、ずるいと思う。その長く、綺麗な髪が風と戯れているのを横目に見ながら、俺は小さく溜息をついた。綺麗だ。
そんな俺の視線に気付かずに、彼女は鼻歌を歌いながら窓の外を見つめている。
「なあ」
「うん?」
「……いや、何でも無い」
「なにそれ」
「すまん、気にするな」
俺は頭を振る。馬鹿か。今更そんな事聞いたって、どうしようもない事なのに。ああちくしょうもう一度刺されたほうがいいかもしれんな。
それからは、ずっと無言のままだった。ずっと、曲名の分からない鼻歌を歌い続ける彼女と、それを聞きながらまどろむ俺。
もし、もしもの話。彼女がごくごく普通の、本当に平凡な少女だったら。俺は彼女とこんな風に話していただろうか。案外、俺は彼女に恋していたかもしれない。していないかもしれない。
それはもう想像の中での話だ。無駄、無意味。だけど、頭の中はそんな無意味に染まっていく。
俺は、後悔しているのだろうか。あの時、襲われた時はいっぱいいっぱいで、考える暇なんてなかったけれど。きっと長門に言えば笑われるのだろう。くだらない、なんて一言で終わりそうだ。
と、突然彼女が音もなく立ち上がった。
「今まで、ありがと。未練なんて、無いと思っていたんだけどなぁ」
そう言うと、彼女は小さく微笑んだ。俺は。
「こんなとこ長門さんには見せられないなぁ。笑われちゃうね」
ごめんね、ともう一度謝る彼女。俺は。
「……次に会う時は、どうなってるかな? クラスメイト? 幼馴染? 案外、恋人だったりして」
なんてね、と悪戯っ子みたいな表情を浮かべる彼女。俺は。
「……もう、泣かないでよ。あなたが気にする事無いんだから」
「……すまん」
「ふふふっ。でも、嬉しいな。ありがと。ほんと、今度会う時は恋人がいいなぁ。予約ね」
「勝手に言ってろ」
「ふふっ。そうする。あーあ。透明人間生活もお終いかぁ」
「こっちは大変だったがな」
「そう? 案外楽しんでなかった?」
「そんな訳……無いだろう」
「ふうん? ま、そういう事にしておいてあげる。あ、最後に」
「ん?」
ゆっくりと、スローモーションのように、彼女の顔が迫ってくる。触れるか触れないか、微妙な、キスとも呼べない行為。まだあと一歩踏み出せば、触れてしまいそうな距離。
「ちゃんと、伝えるんだぞ。約束、ね?」
「ああ……わかってる」
「よし。じゃあ、またいつか……ばいばい」
ゆっくりと離れていく彼女の気配。俺は俯いた顔を上げ、彼女の名前を呼ぶ。呼んで、どうしようとかは考えていなかった。ただ、最後に言いたくて。
「朝―――」
「あんた一人で何やってんの?」
俺が声を上げたのと、ハルヒが教室に入ってきたのは、まさに同じだった。