「やあやあキョンくんっ、遅くなって悪かったね!」  
 人もまばらな下駄箱の前で用務員に植えられた観葉植物のように佇んでいた俺の目の前に、待ち人が片手を振り上げながら騒々しくやってきた。  
「いやー、うちの担任ってば話が長くて困っちゃうよ。自分の放談が恋人達の放課後を奪ってるって自覚がまるで無いんだもんなっ」  
 靴を履き替えながら、ちっとも不愉快では無さそうに文句を言う鶴屋さんを尻目に、俺はわたわたと周囲を見渡すと、  
「あの、鶴屋さん。人前で恋人がどうとか言うのは……」  
「あり、恥ずかしい? キョンくん、相変わらずシャイだねぇ」  
 いや、至って普通の反応だと思いますけど。  
 自身のノーマルさを必死でアピールしようとする俺の話も聞かず、つま先で地面をタップしていた鶴屋さんは、  
「まぁまぁ、そういうところもお姉さんは好きだからさっ」  
 白い犬歯を丸く光らせ、空いた方の手で俺の手を握り締めるや否や、スキップでもするかのように歩き始めた。周囲の視線に媚びないアレグロなリズムがこっちにも伝わってくる。  
 しかし、足に合わせて揺れる髪の間から覗く耳は微妙に赤かった。  
あれだけ人に言っておきながら、自分でもちょっと恥ずかしいのだ、この人は。  
 そういう不公平さがこちらこそ大好きなのだが、俺まで公序良俗を乱す行為に走るわけにもいかず、モラルハザードを憂う紳士の表情を崩さないまま彼女の横に並ぶ。ヒヒイロカネばりの自制心。  
 しかしそんな自制心も、春の傍若無人な風に踊らされているスカートを慌てて抑えようとする仕草を見るにつれ、だんだんと壁際に追いやられてしまうから困りもの。  
 こうやって少年の頃のイノセンスは喪われていくんだろうか。  
 それ以上ジェントルステータスを引き下げるわけにもいかない俺は、茹ですぎたシナチクみたいに弛んだ理性に鞭打って、生足の眩しさから逃げるように視線を彷徨わせる。   
 校門の陰に、つぼみが芽吹こうとしている桜の木が見えた。  
「っとと! もう、キョンくん、急に立ち止まらないでおくれよっ」  
「……すいません。ちょい靴紐が緩んでるみたいで」  
 握った方の手を解かないまま鞄を下ろして、緩んでいるような気がしないでもない靴紐を、しっかりと結び直す。  
 体を起こすと、鶴屋さんも校門の隅に目を向けていた。俺の視線を辿ったのだろう。後ろめたいものを覗かれたようで、少しばつが悪い。  
「あーあ、もうすぐあたしも三年になっちゃうなぁ。受験戦争は目の前って感じ」  
「大丈夫ですよ。鶴屋さん、成績いいんだから。どこにだって、行きたいとこに行けます」  
 といっても、名家のお嬢様なだけに、行く所はすでに決められているのかもしれない。  
「うーん、そういうのとは違くてさっ、ほら、補習とか何とかで時間とられるわけ」  
 鶴屋さんは鞄を片手で振り回しながら、俺の方を見てニヤリと笑い、   
「キョンくんは寂しくないのかなっ?」  
「そういえば、学食のすき焼き定食もう終売らしいですね。春だなー」  
「……すげーあからさまにごまかしたね」  
 俺は答える代わりに、繋いだ手に力を込めた。すぐに握り返される。以心伝心とまではいかないが、これぐらいでわかることもあるのだ。  
「ま、キョンくんはまず自分の進級の事を考えないといけないよっ」  
 おっしゃるとおりです。  
 
 
 かれこれ三ヶ月前の冬。俺は鶴屋さんに自分の想いを告白した。  
 どうしてかと聞かれれば、情景にも似た先輩への気持ちが次第に具体化して即物的な想いになったというか、純粋な感謝の気持ちが積もりに積もっていつの間にやら愛情になっていたというか、とにかく気持ち的にせっぱつまってしまったからだ。  
 だからって別に若さゆえの暴走ってわけじゃないぜ。これでも死ぬほど悩んで決めたんだ。危うく知恵熱を出すところだった。  
 告白すると決めたら決めたで、直接会って言わなくちゃならないわけだから、場所はどこがいいとか、時期はいつがいいとか、やっぱ雰囲気的に夜がいいんだろうかとか、足りない頭で必死に考えた。  
 そして、十二月のある日。  
 さり気なさを装いつつも割とあからさまに鶴屋さんの予定を聞きだし、夜から家族と予定があるから夕方なら空いてると言われれば噛みまくりながら夕方を予約し、その日はやってきた。  
 雪も降らずただ暗いだけの日、学校の近くの公園というこれまたベタな場所に現れた鶴屋さんに向かって俺が何と言ったのかは、悪いが秘密だ。思い出すと舌を噛み切りたくなるからな。  
 ただ、告白なんて思い切った事をするのは生まれて初めての経験であり、気分はファンタジー物のドラゴンに挑む推理小説のエキストラみたいな感じだったことは伝えておく。  
 被害者になるか、それともそのままフェードアウトかの二者択一である。  
 しかし、元々面倒見の良い先輩として何かと俺の世話を焼いてくれていた鶴屋さんは、いつもみたくカンカン照りの元気な語調で、  
「こちらこそよろしく!」  
 力強く答えながら、俺の胸に飛び込んでいらっしゃった。その時の着膨れした感触を、人生で最良の瞬間として脳裏に焼き付けたのは言うまでも無いだろう。  
 それからというもの、鶴屋さんは周囲に構わず俺への好意をあっけらかんと表現しまくり、その勢いたるや、ひょっとしたら同情されてるだけなんじゃなかろうかという俺の密かな悩みを粉砕機にかけて余りあるものだった。  
 代わりに一部の男子からは羨望と恨みが絶妙にミックスされて吸血鬼とかにも効きそうな視線の弾丸を浴びせられることも多々あったのだが、それはまあ有名税というか幸せ税というか、すまんな皆って感じだ。  
 もっとも、底の知れないこの上級生のことだから、そんな行動も含めて同情なのかもしれない、などと失礼な考えを抱かないでもない。なんせ、相手が俺なんだし。  
 天秤を用いるまでもなく釣り合っていないのは明白だろう。  
 しかし、それならそれで別にいいとも思う。こっちは大人しく手玉に乗り続けるだけさ。どっちにしろ、今が幸せであることに変わりは無いんだからな。  
 とにかく俺は、一般的に言う所の恋人とか彼氏彼女とか、そういった照れくさい関係を鶴屋さんと結ぶことに成功したのである。  
 少なくとも、靴紐よりは固く。  
    
   
「うはー、めっさあったけー」  
 今日は朝から、春を目の前にしたとは思えないほどの寒気が電柱を薙ぎ倒さんばかりの勢いで吹き荒れていて、ようするに極寒だった。  
 しかしだからと言って、休日の人通りも多い駅前で後ろから抱きついてくるのはいかがなものか。  
「やっぱこういう時は人肌が一番だよっ! ぽかぽかでしかも省エネ!」  
 頚動脈も含めがっちりと決められた両腕のせいで、俺はもうすぐ冷たくなりそうだった。行き過ぎた省エネ。このまま死んだら自縛霊となって子泣き爺的なポジションについてしまうだろう。  
 いよいよ視線が定まらなくなってきた頃、妖怪図鑑に掲載されそうになっている俺に気づいたのか、鶴屋さんは首に回した手を解いてぴょんと地面に降り立つと、  
「あっはははっ! ごめんごめん、やりすぎたっさっ。乙女心の暴走にょろ」  
 乙女心は暴走すると首に絡みつくらしい。なるほど、サスペンスに女性絡みの話が多いわけだ。命の危機をビンビン感じるぜ。  
 しかし、少し咳をした途端に、  
「わわっ、大丈夫かいっ? ほんとに首絞まっちゃってた?」  
 心配そうに瞼を浮かせて、背中をさすってくれる。打って変わってこの優しさ。正に魔性である。  
 俺はすっかりルートヴィヒ一世に同情したい気分になりながら、ちょっと大げさにしていた咳を止め、  
「……死ぬかと思いましたよ」  
 割とマジで。  
 鶴屋さんは明後日の方向に黒目をやりながら、ごめんごめん、と頭を掻いている。冬物らしいブラウンのコートの上で、手入れに何時間もかかりそうな髪が毛先をふわふわと揺らした。  
 しかしすぐに目を細め、こちらにトトっとやってくるなり、俺の右腕にしがみつくと、  
「さ、今日も元気に行ってみよぅ!」  
 言葉どおり元気な声に促されると、俺はそれ以上責める事もできず、苦笑いしながら人ごみの中を歩きはじめた。   
 行くと言っても、特に目的地は決めていなかった。ただ一緒にぶらぶらしようという暇な学生らしいお出かけプランである。  
 情けないことだが、俺はお洒落なデートスポットにご案内できるような甲斐性なんてまるで持っちゃいないし、できてもせいぜい雑誌の企画をなぞるぐらいのもんだからな。無理しても、逆にみっともなくなるのがオチだ。  
 それに鶴屋さんと一緒なら、どんな場所でもかなり楽しめる。なんせ絶対スベりそうな冗談でも爆笑してくれるんだ。自然と会話も盛り上がるってもんさ。  
 それでも俺は密かに、二人でいつか旅行にでも、なんて妄想していたりした。そのためにちょくちょくバイトをしているのだ。  
「あ、キョンくん見て見て! あのマネキンのポーズわけわんねっ! どう見ても稲刈りしてるようにしか見えないよっ」  
 ミレーも真っ青の斬新な面白ポイントを発見してケタケタ笑う鶴屋さん。  
 一人で見たら頬がピクリとも動かないであろう黒塗りのマネキンをガラスの奥に認めながら、俺も自然に笑ってしまう。  
 世は全てこともなし。  
 
 
 そのままフラフラと街中を彷徨い続け、気づけば時刻は夜の六時。  
 鶴屋さんの笑顔印潤滑油のおかげで地球も回りを良くしたのか、時間が過ぎるのはあっという間だった。  
 今月に入って暗くなる時間が繰り上がってきたとはいえ、さすがにもう太陽は見えない。  
 俺は駐輪所に止めていた自転車に鶴屋さんを乗せ、古風な屋敷の前まで送り届けた。  
 スタンドを立てると、荷台の鶴屋さんは葉っぱみたくふわりと着地し、   
「ささっ、キョンくん。たまにはうちに上がっていったらどうかなっ」   
「それは遠慮しときます」  
 食い気味で遠慮する俺を見て、不服そうに唇を尖らせる。  
 別に理由も無く遠慮しているわけでなく、以前一度お言葉に甘えさせていただいた時のことがトラウマになっているのだ。  
 竜宮城もかくやといったおもてなしを受け、ついでに甕に入れられた高そうな酒も飲まされ、べろんべろんになった末に黒塗りのベンツで自宅にパック送便された俺のみじめな気持ちがわかるか?  
 あの時、お父様がいらっしゃらなかったことだけが唯一の救いだ。あんな状態で娘の恋人だと知られたら、翌日海岸沿いに謎の袋が一つ打ち上げられた事だろう。  
「おやっさんはそんな物騒な人じゃないよっ! むしろ、キョンくんのこと気に入ってくれそうなんだけどなー」  
「ちゃんとした日に、改めてお伺いさせてください」  
 せめて制服を着てる時に。  
 鶴屋さんは文句有り気に俺の顔を下から覗きこんでいたが、何か思いついたように目を光らせると、   
「じゃ、お別れのちゅーをしておくれっ」  
 なんてことを言いながら、未知の概念に対しATMを前にしたネアンデルタール人のような戸惑いを抱いている俺に向かって、一歩踏み出してくる。角質層まで見えちまいそうな距離だ。  
 俺は錯雑たる心中を落ち着かせながら、   
「い、いやー、さすがにそれは……」  
 家の前だし、もし誰かに見つかったら命に関わるような気がしないでもない。  
しかし無情にも、  
「おっ? 断っちゃっていいのかな? ここであたしが声を上げれば、キョンくんは明日シベリア海上にお引越しさせられることになるにょろよ」  
 完全に脅迫である。というか、やっぱりそっち系なのか。顔に傷のある殺し屋とかいるのか。  
 竦み上がる俺をじっと見て、そして、それだけで満足したかのように鶴屋さんは一歩離れる。  
「うそうそ、ほんの冗談さっ。無理矢理そんなことするような趣味は、さすがのあたしもとんとご縁が無いもんでっ」  
 無理矢理も何も、こっちだってしたいのは死ぬほどしたいのだが、それをやってしまうと、色々と張り詰めていたものが切れてしまいそうで、ちょっと怖かったりもするのだ。  
 結構慎重派なのさ、俺は。言い換えればただのビビリだけどな。  
 でも、好きな人に恥を欠かせるほどビビリってわけじゃない。そういうのはもう卒業する頃合だろう。きっと。  
 離れた一歩分、俺は近づき、細い肩に手を置いた。  
 そんなことをされるとは思ってもみなかったのか、電流でも浴びせられたように飛び上がった鶴屋さんは、何か言い訳するかのように口をもごもご動かすと、そっと瞼を閉じた。  
 向けられる静かな表情は、昼間とまるで印象が違う。これじゃ箱入りのお嬢様だ。  
 よく考えたら当然のことを思い浮かべ、爆発しそうな血管の音を聞きながら顔を近づけていく。  
 そして、少し震える唇、の少し横に軽く口付けた。本当に陶器みたくツルツルなのに、柔らかいのは何か不思議だ。  
 一次的接触を維持したまま、きっかり二秒後。  
 俺が断腸の思いで顔を離すなり、大きな目をぱっちりと開いた鶴屋さんは、少しがっかりしたかのように口角を下げ、  
「なぁんだ。ほっぺたかぁ……」  
 そんなことを言われると、本当にどうにかなってしまいたい気分になる。綱渡りの理性。  
「ほとんど唇だったじゃないですか」  
 木工用ボンドで固められたように離しがたい肩から手を引き抜きつつ言い訳すると、鶴屋さんは自分の唇の辺りを撫で、顔を赤らめて、へへっと笑い、  
「また明日、学校でねっ!」  
 それだけ残して、門の横の勝手口に飛び込んでしまった。鉄と木材が打ち鳴らされ、無機質な筈の錠の落ちる音がやけに生き生きと聞こえてくる。  
 俺は急に冷たくなった手をポケットに入れたまま、ぼんやりと木造の屋敷を眺めていた。  
 
 後ろに気を使う必要もなくなり、運動がてらの全速力で鶴屋邸から帰宅して家の前にチャリを止めた俺は、玄関に向かう前に、さすがに汗ばんできた体を少し冷やそうと、ジャケットを脱いでその場に座り込んだ。  
 息を整えながらも頭をよぎるのは、さっき触れたばかりの鶴屋さんの感触。  
 口が三角定規を突っ込まれたかのような形に固定されているのが、自分でもよくわかる。はたから見れば変質者そのものだろう。即時逮捕は免れない。  
 それでもニヤつきが取れないまま、しばらくそうしていると、不意に、妙に落ち着かない感覚を覚えた。  
 冷えた風にまじって、誰かの視線がこちらに向けられているような、そんな感じ。  
 もちろん俺は特別な修行を積んだわけでもなく、人の気配なんざさっぱり読めないんだが、それでも妙な感覚を覚えた時は、十回に一回ぐらいの確率で誰かがこっちを見てたりする。  
 要するにほとんど当てにならないわけだが、それでも気になるもんは気になるんだ。  
 うちには飴玉一つで外人にだって素直について行きそうな奴が一匹いるからな。安全確認を怠るわけにはいかない。  
 俺は立ち上がると、道路が交差する見晴らしのいい一角に小走りで向かい、辺りを見回す。  
 まだそこらの家の明かりは爛々と灯っており、どこにでもありそうな平穏な住宅街なのだが、染みのような暗さは所々に残っていて、かえって不気味だ。  
 しかし、人影は無かった。  
 緊張を解いて、ほっと息をつく。  
 外れだ。実際に誰かいたら相当困るんだろうが、こういう予感は外れたら外れたでちょっと悔しかったりするんだよな。    
 安堵とも敗北感ともつかない感慨を抱きながら引き返そうとしていた俺は、途中で足を止めた。  
 息を殺し、耳を澄ます。  
 コツ、と。  
 俺じゃない、誰かの靴の音が聞こえた。   
 
 背筋が総毛立つのがわかった。やっぱり、どっかに誰かがいるような気がする。俺をじっと見ていた誰か。  
 振り返る。誰もいない。  
 妹の悪戯か? いや、さっき家の中で聞こえてきたアホみたいな笑い声は、バラエティを楽しむ妹のものだろう。たまには教育とか見せた方がいいかもしれない。  
 そもそも、あいつだったらこんなに上手く隠れられないし。こらえ性のまるで無いガキなんだ。  
「誰か、いるのか?」  
 一応声を出してみても、返事はまるで聞こえてこず、改めて周りを見渡してみても、動いてるものは何もない。  
 ……やっぱ、気のせい、か。  
 ま、そりゃそうだ。俺みたいに平凡な奴の生活を覗いて、得をする連中がいるとも思えないし。どっかの家に人が帰ってきただけかもしれない。  
 鶴屋さん絡みで、なんて予想ができなくもないが、それもちょっとな。さすがにテレビの見過ぎだろう。企業スパイはストーカーなんてリスクの高い事はしない。勝手なイメージだけどな。  
 首を振って妙な妄想を脳から追い出しながら家の前に戻り、今度はまっすぐ中に入ると、  
「あー、キョンくんおかえりー。ねえねえ、またデートしてたのー?」  
 この歳で既に野次馬根性を取得しつつある妹の追求を途中のコンビニで買ってきたポテチでいなしながら部屋に戻り、日課であるカレンダーに丸をつける作業を始めた。  
 三ヶ月前からペンの色を変えているあたり、我ながら青臭さを感じないでもない。  
「…………ん?」  
 画鋲で壁に貼り付けていたカレンダーの位置が、昨日とは少しずれている。  
 やれやれ。また妹の仕業だな。  
 俺はこのカレンダーを日記帳代わりにも使っていて、と言っても数字の下にある僅かなスペースを用いた一行メモ程度の日記なのだが、偶にそれを面白がった妹が読んでいるらしい。  
 あのちびっこにはまだプライバシーという意味が理解できないのだろう。食べ物だと思っているのかもしれない。  
 それでも以前軽く叱った時は反省してたみたいだったし、もう見ないだろうと踏んでいたんだけど、甘かった。  
 柔な叱咤では、温室で育てられたせいで危機感が欠如し鮫の群れを見てはしゃぐイワトビペンギンのように奔放なあいつを止めるのは不可能だったようだ。  
 ま、いいか。別に大したこと書いてないし。好奇心旺盛なのもそう悪いことじゃなかろう。鶴屋さんとのことだって、家族全員知ってるしな。  
 理解のある兄ぶりながらも、今度から部屋に鍵をかけてやろうかと企みつつ、  
「よし、と」   
 最後の一枚に、また一つ丸が加えられる。ぺらぺらとめくれば、インクに囲まれた日付の山。年をまたいで使えるスクールカレンダーも、今月で終わりだった。  
 新しいのを購入しないといけないな。  
 これまで忘れなかったためしが無い心の中の買い物リストに一行加え、念のため窓から外を覗いて誰もいないことを確認した俺は、少し眠ることにした。  
 
 
 三年生達の受験期も終わり、もうすぐ新年度を迎えるためか、最近の学校には俄かに浮ついた雰囲気が漂っている。  
 うちのクラスもご多分に漏れず、元々大したリーダーシップを取れる奴も尖った個性を持った奴もいない一年五組は、昼休みに至り設計ミスで糸をつけ忘れたアドバルーンのように地に足がついていないこと甚だしい空気につつまれていた。  
「聞いてくれよお前ら! 俺、今日学校の下んとこでさ、すげえ可愛い子見かけたんだ!」  
 その中でも特に浮ついている約一名が、海に出てしまった淡水魚のようにふらふらとやってくる。  
「谷口、こないだも同じ事言ってたじゃない」  
 借りていたパーフェクトノートを国木田に返しながら、同調するように頷く俺。  
「いや、今日のはマジ凄かったんだって! 腰を抜かしそうになったぐらい!」  
「それもこないだ言ってた」  
 国木田はまたしても冷静に切り返す。辻斬り御免。  
 無形の血しぶきを吹き出さんばかりの谷口に、俺は一応尋ねてみる。  
「で、その子と何かあったのか?」  
 谷口は少しのあいだ目をクロールさせ、解けない数学の問題を目の前にしたように難しい顔で腕を組むと、  
「いや、目が合った途端逃げられた」  
 可哀想に、よっぽど変態的な目で見られたに違いない。猥褻物陳列罪の適用範囲を広めることが警視庁の急務だ。  
 呆れる俺たちを逆に哀れむかのような息を吐き出して、谷口は言う。  
「もういいよ。お前らに話したのが間違いだった。所詮彼女持ちと童顔。この胸のときめきなんて、わかりゃしないんだ」  
「童顔は関係ないって……」  
 そうだ。ひどい人種差別だ。  
「うるせえ。お前みたいに毎度イチャつきながら下校する奴なんて、人間としてカウントされないんだよ。そういう奴らはあれだ、二人揃って一人分の人間未満人間だ」  
 なかなか先鋭的なカテゴライズだな。どこぞの人権団体から速攻でクレームがつくに違いない。  
「そう言えばこないだも手を繋いだまま帰ってたらしいね。谷口じゃないけど、流石にそこまでされると目の毒かも」  
 国木田までもが反旗を翻した。孤立無援である。  
 でも仕方ないんだ。惚れた弱みというか何というか、迫られると拒めない。まあ迫られると言っても、せいぜい手を握るとか、人前じゃなければ抱きついてくるとか、その辺止まりだけどな。  
 いや、それでも十分心臓には悪いんだが。  
 
 俺は言い訳する代わりに、  
「んなことより、次の機関誌の内容に詰まってるんだけど、お前ら、何かいいアイディアないか」  
 所属部員が二名しかいない我が文芸部は、四六時中ネタに詰まりっぱなしなのである。誰か頭によく効く便秘薬を開発してくれないだろうか。試薬ができたら、モルモットに立候補してやってもいい。  
 しかも今月は春休みがあるから、入学式の日に二か月分の合併号を出す予定だ。素直に一回分休めば良かった。後悔はホント先に立たない。  
「だから、『男子百名に聞きました! 学内美少女トップテン(ポロリもあるよ)』にしろって前から言ってるじゃねえか」  
「それは教師からの大きな反発と女子同士の水面下にある様々な軋轢が刺激されて爆発することが予想されるから無理だって前から言ってるだろ」  
 あと、ポロリは下手したら立件されかねない。  
 谷口の桃色なんだかドドメ色なんだか、とにかく自らの欲望に直結した企画をワンブレスで却下して、国木田へ期待の眼差しを投げかける。  
「そんな目で見られても……大体、先月の期末テスト予想特集だって、僕がほとんど考えたんじゃないか」  
 おかげで先月は大ヒットだった。金を取れたらかなりの儲けになっただろうが、生憎通常の部活で商売をするのは禁じられている。穢れ無きボランティア。  
 国木田は嘆息しながらも、デフォルトで装備されてしまっているお人よしスキルをいかんなく発揮し、頭を掻きつつ数秒考え込むと、一言呟いた。  
「……幽霊」  
 幽霊?  
「今朝、隣のクラスの友達と話してたんだ。詳しくは聞かなかったんだけどさ、何人か見たんだって。こう、人影がスーッと消えるやつ」  
 谷口は腰に当てていた手を俺の机に乗せると、  
「幽霊ねぇ。遅すぎるというか早すぎるというか、夏向きな話って感じがするけどな」  
「いや」  
 俺は谷口を遮り、  
「それがいい。決定だ」  
 幽霊。大いに結構じゃないか。ゴシップ的な要素も十分で大衆受けしそうだし、鶴屋さんも気に入ってくれそうな話題だしな。  
 谷口は、一人頷いている俺を、新興宗教に嵌ってしまった老人を見るような目で、  
「お前って、結構そういうの好きだよな」  
 人をオカルトマニアみたいに言うな。最大公約数的な好奇心を忘れないアダルトチルドレンなだけだ。  
「それもどうかと思うけどね」  
 国木田の呆れ混じりな突っ込みを最後に、話は昨日のお笑い番組にシフトする。話題は軽いほど鉄板だ。  
 
 で、放課後。  
「そういうわけで。今月の機関誌は噂の幽霊特集でいきたいと思います」  
「いやっほおおぉぅーーーいっ!」  
「……鶴屋さん、無理に盛り上げないでいいですよ」  
「あ、そう?」  
 パイプ椅子から勢い良く飛び上がった鶴屋さんは、特に恥ずかしがるでもなく楚々と座りなおす。  
 まあ、盛り上げたくなるのも無理は無いだろう。だいぶ物が増えてきたとはいえ、基本的にボロくて地味な文芸部室に、部員が二人っきり。少数精鋭にも程がある。  
『小さいながらも楽しい我が家じゃないかっ』  
 これは以前俺がぼやいていた際に残した鶴屋さんの名言なんだが、そのあと自分の言葉の意味を考えたのか頬を染めて俯いていた姿は、未だに俺の記憶アルバムのトップページを飾り放題である。  
 閑話休題。  
 鶴屋さんは、古びた椅子を初めて触ったヴァイオリンのようにギシギシ鳴らすと、  
「幽霊ってな、めっさおもろそうだけどさー。書けそうなのが何も見つからなかったらどうすんだいっ?」  
「その時は……適当な怪談をでっちあげて、夜中の学校とか、それっぽい写真を撮りまくって誤魔化します」  
 機関誌といっても、学級新聞みたいなものを想像してもらった方が正しい。A4の紙を五枚か六枚ぐらいひっつけて、それらしい文章とそれっぽい写真で誤魔化し誤魔化し埋めてるだけだ。  
 文化祭の折に発表したものを含め、まだ三冊しか発行していないが、その割にはどれも結構な評価を受けていたりして、特に鶴屋さん作の冒険小説なんて、かなりコアなファンを獲得しているらしい。  
 このまま行けば来年当たり、新規の部員を獲得することができるかもしれないな。  
「な〜る、夜中の学校ってのもいいかもねっ! いかにも何か出そうだよっ」  
 俺は足をぷらぷらさせている鶴屋さんを目にするにあたり、新入部員が来たら二人っきりじゃなくなるな……やっぱ来ても追い返そう、とか思いながら、  
「多分大丈夫ですよ。ここに来る前、幽霊を見たって人に話を聞いてたんですけど、何とか書けそうな内容でしたから」  
 幽霊特集といっても、別に真相を究明するってわけじゃない。第一、幽霊の実在なんて証明できるわけないだろ。  
 ただ、こういう噂がありますよってことを書いて、目撃現場の写真を貼り付けて紹介するだけで十分なんだ。  
 もともとこういう特集は、小説ばかりじゃつまんないからってことでやってるお遊び企画に過ぎず、少しでも楽しんでもらえれば、それでいいのさ。  
「で? で? どんな話だったんかなっ?」  
 実は、いかに鶴屋さんが楽しそうにしてくれるかが第一目的だったりするのだが、そんな個人的な事情は、トイレというには余りに相応しくないので清流四万十川にでも流して、  
「それがですね……」  
 俺は聞きたてホヤホヤの話を解り易くまとめて語り始めた。  
 
 
 国木田の友達から人脈を辿って話を聞けた、幽霊らしき人影を目撃したという生徒は、女子二名男子一名の計三名だ。  
 まず、女子Aが人影を目撃したのは、今朝の通学路。随分健康的な時間帯だ。幽霊も二十四時間営業の時代なのかもしれない。  
 最近できた彼氏と遅くまでメールしていたため寝坊してしまい、学生服が一つも見当たらない通学路を不安で押しつぶされそうな兎のように走っていた彼女は、取って置きの近道を使用することにした。  
 この辺はもともと山だっただけに伐採されていない山林があちこちに点在しているのだが、とにかくその内の一つを突っ切っていた彼女は、ふと、過ぎ去る木立の陰に人影を捉え、足を止める。  
 もちろん、人里離れた山の中ってわけでもないので、人がいることは多々あるのだが、それでも彼女が立ち止まったのは、その人影が木漏れ日に透けて見えたからだという。  
 え、と思いながらも半ば反射的に目を擦りつつ人影の方を見やった彼女は、ぼんやりと消えていく輪郭のようなものを確認して、しばらく腰を抜かしていたそうだ。  
 
 
 次に女子Bだが、彼女が人影を目撃したのは、昨日の夜八時頃。学校とは少し離れた、ちょうど鶴屋さんの家との中間点辺りである。  
 普段から人通りの無い、生垣に囲まれた細い路地を抜けてコンビニに行こうとしていた彼女は、背後に何者かの気配を感じ取り、とっさに振り返った。なんせ女性の一人歩き。不安に思うのは当然だろう。  
 そして予想通り、暗闇の奥には人影らしきものが立っていた。暗くてよく見えなかったが、自分より少し大きかったような気がするから、多分男性じゃないか、とのことだ。  
 自分の後ろにいるからといって、別に細い路地を通っていたら男性が自動的に犯罪者になるわけも無く、そう焦ることもないだろうと判断した彼女は、なるべく歩調を変えずにそのまま進んでいく。  
 彼女なりの意地があったのかもしれないが、それはまぁどうでもいい話。  
 しかし、途中まで確かに聞こえていた後ろの足音が突然消える段になって、彼女は違和感に気づいた。  
 おかしい。家の入り口も無く、周りが生垣に囲まれただけの一本道で立ち止まるなんて、何か妙だ。  
 彼女は歩みを止め、やはり音が聞こえないことを確認し、訝りながらもう一度振り返る。  
 果たしてそこにあったのは、半透明の腕が二本。空間に活けられた花のように、ぶらりと空中に浮いていた。  
 これは結構なホラーだ。大の男でも尿漏れを引き起こすに値する。当然彼女も恐怖のあまり絶叫し、家に逃げ帰って必死に家族に説明したのだが、誰も信じてくれなかった、とぼやいていた。  
 
 
 最後に、男子A。やはり昨日の夜八時前後。俺の家から割と近い、駐車場の一角。  
 車好きの彼は、塾帰りに通りがかった駐車場で、何とかって名前がついた外車(懇切丁寧に説明してくれたが、残念ながら覚えられなかった)を見つけ、近くで鑑賞するために走り寄っていった。  
 車の元にたどり着き、流線型のボディに鼻息を荒げながら頬擦りしようとしていた彼だったのだが、しかし耳の中におかしな音が入り込んでくることに気付き、咄嗟に口を覆う。  
 泣き声。幼い少女のような泣き声が、すぐ傍から聞こえてくる。しかし、確認できる視界の中には誰もいない。一体どこから?  
 彼は肌が粟立つ気配を感じながらも、声を頼りに車の裏に回った。  
 そして見つける。  
 ビルの裏手と車の間に存在するわずかな空間。そこに、年若い少女が座り込んでいるではないか。  
 一拍分驚いていた彼が我を取り戻し、どうしてこんな所で泣いているのか、と少女に声をかけようとした瞬間。  
 しゃくり上げるような泣き声がテレビのボリュームを落とすかのように遠のいていったと思ったら、少女の姿そのものがぼやけていき、やがて暗闇に溶けるように消え去ってしまった。  
 後に残されたのは、手を上げかけた格好のまま固まった彼と、性能がやたらといい外車が一台。もっとも車の存在は、既に彼の頭から消えていた。  
 
 
 学校を出た俺たちは、女子Bの証言にあった細い路地に向かった。山道を散歩するには遅すぎる時間だし、こっちは鶴屋さんを送るついでに立ち寄れる場所だったからだ。  
「昨日の夜から今日の朝にかけて三人も同じようなものを見てるってのは、こりゃ本当になんかあるかもねっ」  
 隣を歩く鶴屋さんは犬でも連れてピクニックに来たような風情だが、ロケーションはそれに全く反比例していた。  
 周りを見れば、生垣や囲いと、それに抱き合うように密着して建てられた家の壁がほぼ切れ目無く連なっており、閉所恐怖症の人はご遠慮した方が良さそうなほどの圧迫感を覚える。  
 しかも日当たりが悪いのか、窓もあまり見当たらず、そのため漏れる光も微々たる物で、夕方の今はまだマシだが、日が完全に落ちれば相当暗くなるだろう。  
 元々道として作ったというよりは、自然とできた家と家の隙間と言った方が正しそうだ。近所の人しか知らない抜け道なのかもしれない。  
 中途半端に漂う生活観と共に、緑と無機物の隙間が黒く覗いていて、要するに、結構それっぽい雰囲気なのだ。  
 俺が道を間違って映画監督にでもなった暁には、是非ホラー映画の一幕として使わせていただきたい。  
「ほらほらキョンくん、キョロキョロしてないで写真撮らにゃっ。それともひょっとして、もう取っ憑かれちまったんかいっ?」  
 俺は不甲斐なさを見せまいと即座に否定の言葉を返し、デジカメのシャッターをパシャパシャと切り始める。何枚か撮ったあとで画像を閲覧し、妙なものが写り込んでいないか確認する事も忘れない。  
 そうして密かに胸を撫で下ろしていると、隣を歩いていた鶴屋さんが、いつの間にか俺の半身にひしっとしがみ付いているではないか。スープが冷めないどころか、コアラとユーカリのような距離感。  
「鶴屋さん、それは流石に密着しすぎなんじゃ……」  
 人目が無いからといって、客観性を欠いていいわけではない。常識ある一般人は、常に節度を持って行動しなくてはならないのだ。   
「だってだって、ここめがっさ狭いんさ。不可抗力って奴だねっ」  
 しかし、二つの控えめと言えなくもない感触が肋骨に伝わるにあたり、頭頂部がやかんを空焚きしてしまいそうなほどヒートアップしてくる。  
「わっ、キョンくん、何か体温上がってない? わははっ、顔もまっかっかだっ!」  
 頬擦りされる感触が、制服越しに伝わってくる。これはヒートアップどころかショート発火まで行ってしまうかも……  
 いや、ダメだ。理性の醒めた氷を絶やしてはならない。思うに、人間がここまで進化し発展する事ができたのは、本能と対を成す理性が枷のように自由すぎる精神を、  
「えいさっ!」  
「おわっ」  
 考え事というか意識階層の深いところまで行ってしまいそうになっていた俺の肩口に、意外と力の強い細腕が巻きつき、二人分の体重を受けた膝は強制的に関節のボルトを緩める。  
 そして鶴屋さんは、ボディにパンチを浴びせられたボクサーのように下がっていく俺の顎を捉え、  
「ちゅっ」  
 唇の端に湿った感触がストロボじみた余韻を一瞬残し、皮膚の弾力性に弾かれて消える。  
 あんぐりと口を開ける俺に対し、鶴屋さんは上気した頬を隠すように無邪気な笑顔を浴びせながら、  
「昨日のお返しだっ」  
 俺は綱の上から飛び降りそうになる理性を論理的思考で説得しつつ、ここをロケ場所にするならホラー映画じゃなくてラブロマンスだろう、と先ほどの自分の誤りを訂正するのだった。  
 
 奇跡的に脳内サーカス団は綱渡りを成功させ、おかげで神経が彫刻刀で研ぎすぎた鉛筆と同程度の細さになったことはさておき、あらゆる意味で無事鶴屋さんを自宅に帰した俺は、一人駐車場の前に立っていた。  
 男子Aの話に出た、あの駐車場である。丁度帰る途中の道なりにあるのだから、今日まとめて撮ってしまおうという魂胆だ。  
 車が二台入っている寂れた駐車場の全景をデジカメに収めたあと、今日はどうも不在らしい高級外車が停められていたという隅っこを接写。  
 数枚撮り終えてデジカメから顔を離し、人の気配がさらさら無い駐車場を見渡す。国道に面したこの辺は、さっきの路地と違って、いかにもな雰囲気は感じられない。  
 それでもあんな話を聞いたあとじゃ、どことなく怖いように感じてしまうから不思議だよな。あまり長くいるのはやめておこう。見栄を張る相手ももういないし。  
 足早にその場を後にしながら、撮り終えた画を確認してみたのだが、泣き顔の少女なんて写っていなかった。拍子抜けのような、一安心のような。  
 複雑な感慨を覚えつつ家に戻った俺を出迎えたのは、二階からせわしない足取りで降りてきた妹だった。  
 どうしたんだそんなに慌てて。ススワタリでも見つけたのか。  
 妹は俺の目の前で急ブレーキをかけるなり、  
「キョンくん、お客さん?」  
 お客さん?  
「何だよ、誰か来てるのか?」   
 足元を見ても、玄関の靴は家族の人数分しか無い。裸足で他人の家にお邪魔する類の知り合いなんていたか?  
 俺が疑問をもてあましていると、妹は油揚げが目の前で消えた狐のように首を傾げ、  
「今、家の前に女の人が立ってたでしょ? お客さんじゃないの?」  
 女の、人?  
「……何言ってんだ、お前」   
 妹は指揮者のように大げさな仕草で手を振り回し、  
「だからぁ、女の人〜。キョンくんのうしろから来てたでしょ〜?」  
 俺の後ろから、誰か。  
「……そんな奴はおらん。あんまり変な嘘をついてると、舌を抜かれちまうぞ」  
 胸に去来するざわめきを否定するために、妹に向かってそう告げると、  
「嘘じゃないもん! だってあたし二階から見てたもん! キョンくんがおうちに入ったあと、すぐ後ろから女の人が来て、そこに立ってたもん!」  
 妹が指差した先には、俺が閉めた時のまま沈黙を守る扉がある。  
 壁より薄い一枚の境界線。   
 その向こうにいるのは、誰だ?  
「中に入ってろ」  
「ぶー、何でよぅ?」  
「いいから、入ってなさい」  
 俺は妹をリビングのドアの先に押しやると、靴下のまま玄関に下りる。  
 僅かな隙間から漏れ出る夜気にまぎれた寒さが、タイル張の溝に溜まっていて、踝までが水に浸かったように冷えた。  
 脳裏をよぎるのは、すすり泣く少女の話。想像の中で彼女は顔を上げ、俺の足跡を這って辿る。ひどい妄想だ。そういえばこないだも妙な視線を感じた時が有ったが、あれも妄想だったな。  
 背筋まで這い登ろうとする悪寒を感じながらも、音を立てないように数歩進み、ドアの覗き穴に右目を近づける。  
 球状に映し出される、家の前の風景。仄かに浮き出る川のような道路と、明かりが灯った向かいの家。  
 誰もいない。  
 俺は一度瞬きをしたあと、そのままドアノブに手を回して一息に開き、転がるように外に飛び出て、家々の明かりに照らされた周囲を見やる。  
 そこには、誰も、  
「あれ〜?」  
 いつの間にか、言いつけを守らずに外に出てきた妹が、裸の足で俺の周りをぐるぐると回っている。  
 俺は飛び上がりかけた心臓を押さえ、首筋の汗を拭いつつ、  
「ほら、誰もいないだろ」  
「えー!? でも、本当にいたんだよ? あたし嘘ついてないよ〜!」  
「わかってる。嘘だなんて思っちゃいないよ。ほら、いいから中に入ろう」  
 ぐずる妹を連れて家の中に入ると、鍵とチェーンを注意して掛け直す。  
 部屋に戻って駐車場で撮ったデジカメのデータを見ても、ただ車の不在を示す白線の数字と、真新しい白いフェンスの向こうで背中を向ける灰色の雑居ビルが、液晶に表示されているだけだった。  
 
 
 ひどく寝苦しかった昨晩を経て、いつもより一時間早く目を醒ました俺は、鶴屋さんと共に女子Aの話にあった山林地帯へ出向いていた。  
「ふぁー、ねっむぅー」  
 名称不明な鳥の鳴き声を縫って、鶴屋さんの眠そうな声がすぐ後ろから聞こえてくる。だから無理して来ないでもいいって言ったじゃないですか。   
「いやいや、あたしも文芸部だし、朝の空気は気持ちいいし、運動は美容に効くらしいからねっ。一石三鳥ってな具合だよっ」  
 俺の横に並び、キリンと背丈を争うかのように背伸びした鶴屋さんは、そのまま普段のパッチリとしたまなこに戻ると、  
「それにしてもキョンくん、今日はめっさ気合はいってんねー! 普段朝はぐーたらしてんのにさぁ、何かあったんかいっ?」  
 鶴屋さんの言葉どおり、俺はさっきから気合を入れて写真を撮りまくっていた。とは言え別に前向きな理由じゃなく、正直、この調査を早く終わらせたかっただけなのだ。  
 昨日の妹の話は、うわ言として片付けるにはインパクトが強すぎた。あれが嘘だとしたら、俺はあいつにアカデミー主演女優賞と脚本賞をダブル受賞させてやってもいい。うちは近所でも有名な演技派ファミリーとして認知されるだろう。  
 無為に不安にさせたくないので鶴屋さんに話してはいないが、それでもこんな所に自分の彼女を長く置いておくべきじゃない。さっさと学校に戻らなければ。  
 あー、やっぱ幽霊特集とかやめときゃよかったぜ。触らぬ神に祟りなしと言うが、触っちまったあとのことを諺にしてくれた奴はいないんだろうか。  
 俺は諸々の思考を、  
「急がないと遅刻しちゃいますから」  
 の一言で済まし、シャッターを切りまくっていると、  
「キョンくんっ、こっち来て!」  
 数メートル離れた場所から、鶴屋さんが手招きをしている。俺が素直に近づくと、  
「ほらこれ、足跡じゃないかなっ!」  
 確かに、鶴屋さんが屈み込んでいる一帯は、枝なんかが踏みしめられた跡がある。風に散らされてない所を見ると、昨日今日できたものみたいだ。  
「この辺はまだ浅いですからね。散歩しに来る人だっているんじゃないですか?」  
「でもほら、この跡辿ってみてよ」  
 鶴屋さんは針のように細い指をすっと動かし、俺の目線を誘導する。  
 ここいらの山林は浅く、まだ木立もまばらで、すぐ傍から通学路が見渡せるぐらいだが、右手の方に行くほど木立が深まり、鬱蒼とした森になっていく。  
 そして足跡は、右手の方に向かっていた。  
 
「ね、ね、キョンくん! 行ってみ」  
「ダメです」  
 最後まで聞かずに却下する。  
「写真は沢山撮れました。もう十分です」  
 あんな所に鶴屋さんを連れて行けない。いくらなんでも遭難はありえないが、ちゃんとした道が無いんだ。怪我する可能性は大いに有りうる。  
 それに、昨日のこともあるせいか、何だか不安だった。  
 強硬な姿勢を取る俺に対し、  
「でも、ひょ……」  
 鶴屋さんは何事か言いかけて飲み込むと、またすぐに、  
「あたしは最後まで確かめてみたいんさっ! 中途半端はいくないよっ」  
 対峙する両目は真剣だ。  
 ……まったく、基本強引なタイプだからな、この人も。  
 俺は譲歩しようと、  
「万が一、危ない人がいたりしたら大変です。俺が一人で見てきますから、鶴屋さんは学校に戻って……」  
「大丈夫だよっ! 危なそうなら途中で引き返せばいいんだし。それに、ほらっ、じゃーん!」  
 ネコ型ロボットのように鶴屋さんがスカートから取り出したのは、掌サイズの無骨な鉄の塊……スタンガンっていう、アレか? 何か思ってたのより大分小さいけど。  
「お嬢様のたしなみってやつ? なんせ世間には不埒な連中も多いからねっ! この鶴屋家特製改造スタンガンでビリッとやれば、カンガルーでもノックアウト間違いなしっ!」  
 迂闊なことをしないで良かった。もし辛抱堪らず鶴屋さんを襲っていたら、今頃俺の内臓はウェルダン気味になっていたことだろう。できるだけレアでいたいものだ。  
 胸を撫で下ろす仕草をどう取ったのか、鶴屋さんはわたわたと手旗信号のようにスタンガンを振り回すと、  
「だいじょぶだいじょぶ。キョンくんにだけは何されたって使わないから……って何言わせんのさっ!」  
「はぶぅっ!」  
 一人で身悶えながら、俺の頼りない腹筋に左の掌底を叩き込んだ。えらく綺麗に入ったんだが、これもお嬢様のたしなみなんだろうか。  
「わっ、わっ、ごめんよっ! キョンくんが野外でいやらしいこと言わせるプレイをはじめるから、恥ずかしくてついっ!」  
 そんなプレイしてないです。人生で一度もしたことないです。特殊な性癖も今のところないです。  
 腹を押さえていた俺の手を、鶴屋さんは一転して優しく握ると、  
「ね、キョンくん。行ってみよ? 一緒に」  
 ……どうして、そんなに、  
「わかりました。でも、ちょっとだけですからね。あんまり遠くまで続いてるようなら、途中で引き上げます」  
 俺はそれだけ言って、鶴屋さんの手を握り返した。   
 
 結局、足跡は緑深い場所の入り口辺りですっかり途切れてしまっていた。  
 こんな所で誰が何をしていたのかと考えると疑問が残ってしまうのは否めないが、俺はもう少し調べようという鶴屋さんを、学校が始まるからと言い含めて連れ出した。  
 もう十分記事を書く材料は揃った。これ以上調査するのは、百害あって一理無しだ。好奇心は猫以外だって殺す。  
 あんまり深入りするとまずいことが起きそうな予感がするんだ。俺の予感は狙ったように悪い方ばかり当たるからな、昔から。この才能を生かせる職につきたいが、絶対ろくなものは無いだろう。  
「なーんかありそうな気がするんだけどなぁ」  
 昼休み。久々に鶴屋さんが弁当を作ってきてくれたというから部室に行くと、玩具をねだる子供のような顔をしたご本人に出迎えられた。  
「何かあったら困りますよ。薮蛇どころか藪幽霊なんて、あんましシャレになってません」  
 子供を諌めながら漆塗りっぽい一重の重箱を開けると、色とりどりのおかずが花火のような豪華さで視神経を突き抜けて味蕾を刺激する。こいつは、たまりません。  
 俺は手を合わせてお辞儀をしたあと、これまた高級そうな桜模様の箸を掴み、F91並の速度で玉子焼きを接収しようと、  
「あ、こらっ! 待った、タンマだよタンマ!」  
 え? いただきますの挨拶は一応済ませたんですけど。  
 隣に座っていた鶴屋さんは困惑する俺の手から目にも止まらぬ早業で箸を引き抜くと、狙っていた玉子焼きを器用に掴み取り、  
「はい、口を開けるにょろ」  
 ……また変な漫画読みましたね。  
「影響されやすいお年頃なのさっ。というわけで、あーん」  
 それはいくらなんでもプライドが、というか何と言うか、ぶっちゃけ恥ずかし過ぎる。この現場を写真に押さえられたとしたら、俺はあっさり脅迫に屈するだろう。テロリズムの脅威。  
「いいから口開くっ。あんまわがままばっか言ってっと、あたしだけで全部食べちゃうんだからねっ!」  
 そんな横暴な。こんな美味しそうなものを目の前にして食えないなんて、デジタル放送の料理番組じゃあるまいし。  
 胸の内ではレジスタンス活動を展開していた俺は、視覚と嗅覚に同時に訴える玉子焼きに屈して、口を開いた。超マヌケ面。鏡を見なくてもそんぐらい自明だ。  
「そうそう、素直なキョンくんが大好きさっ。はい、あ〜ん」  
 ふっくらとした卵焼きが俺の口に突っ込まれると同時に絶妙な甘さが口の中に広がる様は、まさに味のエレクトリカルパレード。  
 ニワトリになるとは思えない柔らかさの玉子焼きを飲み下したあと、もう何でもいいから全て食べてしまいたい、と堕落しかけていると、箸がやおら引っ込んで、  
「もう、そんなにがっついたら口元よごれちゃうよっ」  
 いや、がっつくも何もまだ一口しか食べてないんですがと言おうとした俺の口元を、鶴屋さんは自分の舌でちろりと舐める。  
「んー、我ながらいい出来だっ!」  
 ひょっとしたら俺たちはバカップルなのかもしれない。  
 
 
 その後の俺は、まさに言いなりだ。一度堕ちれば人間際限なく堕ちるもので、すっかり完食してしまう頃には、自分の手を一切使用しない食事も悪くないかもしれない、とか思う境地に至っていた。ブッダ超えたね確実に。  
 そのまま入滅に入ろうとしていると、重箱を片付けていた鶴屋さんは、後ろに立てかけてあったパイプ椅子を俺たちの間に一つ開き、  
「じゃ、次は食休みっ。さぁキョンくん! あたしの膝を枕代わりにして一眠りだっ!」  
「……いや、机で十分で」  
「とうっ!」  
 襟首を掴まれたかと思いきや、視界がくるりと半回転し、鶴屋さんの膝に強制的に顔を埋めさせられる。  
 というかこれは決して膝枕とは言えず、体勢的に割とまずい部類に入るのではないだろうか。だって目の前真っ暗だし。スカートの海で溺死。ギネスに認定されそうな勢いだ。  
 俺は鶴屋さんにこの状態がいかに危険かを進言しようと、  
「ふふふぁふぁん、ふぉっふぉふぉふぇふぁふぁふふぃんふぁ」  
「ぷははっ、ちょ、ちょっとキョンくん、く、くすぐったいよっ!」  
「おいーっす。暇なんで遊びに来たんだけ…………」  
 なんか余計な声が一つ多いような気がする。まさか、誰か来たのか?   
 やべえ、脅迫が現実のものとなりかねない。言い訳しようのない状況に見えるかもしれないが、何とか上手く取り繕わねば。  
「お、谷口くんじゃん! おいっすっ!」  
「う…………ぶはっ、て、なんだ谷口かよ」  
 入り口で石膏のように固まっているのは、たしかに見慣れた顔だ。  
 ほっとしたぜ。今の場面を教師なんかに見られてたら確実に冤罪退学させられるところだった。  
 一息ついた俺が状況を正確に説明しようとする間際、谷口は素の表情で、  
「すんません、部屋間違えました」  
 いや、間違ってないだろ。  
 どうも完全に誤解してしまっているらしい谷口は、新作人型ロボットのようにぎこちない動きで廊下へと消えたかと思えば、  
「完全に淫行だーーー!!」  
 耳に残るシャウトを振りまきながら、遠くどこかへ去ってしまった。あいつ、ぐれたりしなきゃいいけどな。夜中にトランペットを吹きはじめたりしたら末期だ。  
「わははっ! 相変わらずおもろいなぁ、谷口くんってさっ」  
 おもろないですよ。妙な噂立てられたらどうすんですか。  
「いやぁ、黙っててくれるっしょ。キョンくんはもっと友達を信用した方がいいよっ。それに言われたら言われたで、開き直っちゃえばいいんじゃないかなっ!」   
 今でも割と開き直っているつもりなのだが、これ以上開いてしまうとパンドラの箱的なものまで開いてしまいそうで恐ろしい。  
 思わず眉根を寄せてしまっていたのか、鶴屋さんは小さく笑いながら俺の額を伸ばすように撫でた。  
 鶴屋さん、今日は妙にひっつきたがるな。まあ、それに対する不満なんて素粒子ほども無いわけだが。今までもこういう事たまにあったし。きっとそういう日なんだろうさ。   
 されるがままというのも癪ではないが、俺も手持ち無沙汰だったので、目の前に垂れ下がった長い髪の一房を指で掬う。相変わらずサラサラだった。本当にどうやって手入れしてんだ?  
 しばらくそうしていると、視界がオブラートに包まれるように遠くなっていく。  
「目がトロトロしてるねっ。眠い?」  
 微かに目を動かせば、いつもより落ち着いた微笑を浮かべる鶴屋さん。俺にはもったいないお嬢様。柔らかくていい匂いがする。誰にもやらん。  
 胡乱になっていく思考を押して、眠くないです、と言おうとしたが、あくびしか出なかった。食べた後で横になるのは、これだから良くない。  
 囁く声が聞こえる。  
「いいよ。ほら、寝ちゃいな。あたしは大丈夫だからね」  
 じゃあ、少しだけ。きつくなったら、すぐ起こして下さい。  
「わかってるから。だから、おやすみ、キョンくん」  
 額に添えられた暖かい手の温もりを感じながら、意識はたゆたうように溶けていく。  
 ずっとこうしていたいですね。眠りに落ちる間際、俺はぼんやりと本音を言った。  
「……うん。あたしも、ずっと」  
 
 
 
 だけど、そうはならなかった。  
 鶴屋さんが予感していたように、やがて日々の終わりは幽霊騒ぎの真相という形を取って、俺の目の前に現れる。  
 
 
 
 幽霊の話にまとわりついていた妙な感覚も、実際に書く作業段階に入ると、霞の向こうに消えていった。基本的に人間は目の前の物を第一に考えるようにできているんだろう。便利なもんさ。  
 鶴屋さんもその後特に何を言ってくることもなく、自分のノートパソコンで冒険活劇の続きを書いている。たまに自分で爆笑しているから間違いない。  
 元々あったデスクトップに加え、文芸部所有のノートパソコンとプリンターは鶴屋さんがコンピ研から持ってきたものだ。機関紙に勧誘の広告を載せる代わりに、型落ちして使わなくなった分を譲ってもらったらしい。  
 手回しがいいというか何というか、末恐ろしいお人である。ただでさえ大きな鶴屋家をこれ以上どうするというのか。ある種見ものだ。  
 機関誌の製作と、さらに卒業式を目前に控えているため、予行演習や各種引継ぎなどで学内の浮ついた空気がようやく自重を増してきたこともあり、せわしなく数日が過ぎていった。  
 そして、機関誌のレイアウトも大体決定し、差し迫ったホワイトデーに鶴屋さんへ向けて贈るプレゼント案を練らなくてはならないな、と思い始めた、そんなある日。  
 いつもどおりのギリギリさ加減で登校し、教室の扉を開くと、  
「キョン!!」  
 谷口がバネ仕掛けの人形のような勢いで飛びついてきた。  
 朝一で男に抱きつかれるという拷問を受けた俺が遺憾の意を表明する前に、  
「幽霊! 俺、幽霊見たんだ!」  
 谷口は唾を飛ばしまくってくる。  
 幽霊だって? もうそのネタは終わったんだ。この期に及んで原稿を差し替えなんて、したくないしする気も無い。時代遅れも甚だしいぜ。  
「こないだ言っただろ、学校の下で美人を見かけたって! あれだ、あれが幽霊だった!」   
 海で溺れるような呼吸をしながら、  
「今朝もそいつがいてさ、俺、声かけられたんだ。話があるからついてきて、ってすげえ可愛い声で言われたから、ついてったわけ。学校の近くに山道あるだろ、あそこだよあそこ」  
 幽霊がどうとかはさて置き、そんな所について行くなよ。もう少し人生に対する危機感を持てっつーの。  
「アホかお前、美人が人気の無い所に連れ出してくれるんだぞ! 何だかんだで不安ながら期待しちまうのはしょうがねえだろ! でもそいつ、お前にこれを渡してくれって」   
 俺の胸に押し付けてきたのは、白い便箋。  
「お前宛のラブレターだと思ったから本当は受け取りたくなかったんだけど、咄嗟に貰っちまったんだ。そしたら、そいつ、いきなり体が透け初めて、見間違いかと思って目を擦ったら、もういなくなっててさ!」  
「ちょ、ちょっと待て。何で幽霊が俺に手紙なんか……」  
「知るか! とにかく渡したからな! 確かに渡したからな! 呪わないでくれよ!」  
 谷口は土煙をあげる勢いで自分の席に座り込むと、全てに絶望したかのように顔を机に埋めた。  
「谷口、来た時からあの調子なんだ。かなり参ってるみたい。本当に何か見たのかな?」  
 入り口で立ち尽くす俺の前に現れた国木田は、今しがた押し付けられた便箋に目をやる。霊界発、俺の胸行きの手紙だ。  
「開けてみないの? それ」  
 気のせいかもしれないが、冷凍庫に保存されていたように冷たく感じる便箋を開けたいと思う奴なんて、それこそこの世にいるのだろうか。   
「国木田、お前開けてみてくれ」  
「やだよ。キョン宛なんだから、キョンが開けないと」  
「俺は幽霊と文通するほど人間関係に窮してない」  
「僕だって迂闊なことして呪われたくない」  
 小柄な体から確固たる主張を漲らせる国木田と、それ以上張り合っても事態が進展するとは思えず、手の中の細い長方形に折りたたまれた便箋を、ゴミ箱に放るべきか神社仏閣へ持っていくべきか逡巡していた俺は、  
「……キョン?」  
 待て。  
 この便箋、どこかで見覚えが、いや、知ってる。これは。  
 しかし。  
 そんな、だって、ありえないだろ。もうそんなつもりなんて、俺には。  
 俺は震える手を隠す事もできず、おぼつかない指使いで折りたたまれた便箋を開く。誰も傷つけないだろう少女キャラのイラストが、俺に微笑みかけてくる。  
「何て書いてあったの?」  
 声はもう聞こえない。耳は蓋をされたようにどの音も通さず、眼球は便箋に書かれた、たった一行の文章に釘付けにされていた。   
 
『今夜八時、いつかのベンチに。あなた一人で来てください』  
 
 それから放課後まで俺はどう過ごしていたのか、あまり覚えていない。  
 
 鶴屋さんに今日の部活を中止する旨を伝えた俺は、便箋の約束より三時間も早く、指定されたベンチに腰を下ろしていた。  
 未だに頭の中はぐちゃぐちゃだったが、ただ、ここに来なきゃならないってことだけ、暗室に空いた穴のようにはっきりしている。  
 三時間と言うと、気の遠くなるような時間だ。瑞々しい紫だった辺りはいつのまにやら黒ずんだ群青になり、定時に灯る街灯が一斉に灯り始める。  
 以前もこんなことがあった。  
 鶴屋さんに告白した時だ。緊張しまくっていた俺は真昼間と呼べるような時間からこのベンチに座って、寒さに首を縮めながら自分の心臓の音を聞いていた。  
 それに、もっと前から。  
 この公園には、色々な思い出が染み付いている。  
 これから会うのは、そんな思い出だ。現実じゃなくて幻だ。俺の記憶から這い出してきた幽霊だ。  
 生きている俺には、関係の無い世界の話だ。   
 時計は回り、八時になった。  
「キョンくん」  
 長針が頂点に達した瞬間、俺の目の前にまるで始めからそこにいたかのように現れたのは、泣きそうなほど懐かしい、一つ年上だった可愛らしい先輩。  
 本人か?   
 顔が同じだけの別人。ありそうな話だ。俺のことなんてまるで知らない、通りすがりの可愛い人。期待は常に裏切られる。  
 だけど、  
「迎えにきました」  
 
 ふらつく体を置きざりに、俺の意識は一年前の春に立ち戻る。  
 フラッシュバック。  
 
 
 
 三月。  
 一生分のシナプスを繋ぎ終えてしまうのではないかというほど悩んだホワイトデーの贈り物も無事決定し、進級するに当たっておよそ全てのイベントを消化したと思われた頃に、そのお誘いはやってきた。  
「あのぅ、キョンくん。悪いんだけど、また少しだけ、付き合ってくれませんか……?」  
 申し訳無さそうに言う朝比奈さんを見れば、未来的用件だということはすぐに察しがつこうというもの。  
 これがハルヒの、繋げる回路を三キロメートルほど間違ったような誘いなら即刻唾棄する所だが、エンジェルの頼みとあらば話は別口だ。どこまでだって延長ケーブルを繋げよう。  
 今みたいに二人っきりの部室でお茶を嗜むのもいいが、未来のために手を取り合って励むのもオツなもんさ。大事な部分は二人ってとこで、他は何しようとオマケみたいなものだ。  
 俺は不埒な考えを尾も出さず、自分ではそこそこ決めているつもりの笑顔で頷いた。  
 するとどうだろう。朝比奈さんはやんわりと毛布のように微笑むと、そっと俺の手を包み込む。これだけでも頷いた甲斐はあろうというものだ。  
 一人で悦に入っている間に、例のきつい立ち眩みが襲ってきた。いい加減御馴染みになってもよさそうなもんだが、いつまで経っても慣れないこの感覚。  
 頼りない上下左右がぐるぐると回り、NASAの訓練にでも使えるんじゃないかというほど脳内がシェイクされる。  
 吐き気を催しながらも、滅多に触れることのできない朝比奈さんの肌の感触をしっかりと確かめながら耐える事しばし。   
 なんか移動がいつもと比べて長くないか、と俺が疑問を抱いた、その次の瞬間、それは起こった。  
「…………ーーっ!!」  
 今までとは段違いの、もう立ち眩みとは表現できないような激しく不安定な感覚。  
 世界に何かが圧し掛かって海に転覆させようとしている。  
 イカれたジェットコースターがスペースシャトルに接続されたような、猛烈な揺れだか上昇だか落下だか、とにかく何もかもが無茶苦茶だ。  
 細胞一つ一つに乱方向でくっついた力場に、体をちぎれんばかりに引っ張られ、何かを考えることも不可能で、俺はただ、このままじゃ死んじまう、と本気で思っていた。  
「誰…………が、異常な…………! ……ットワークに……生? …………どう……っ!!」  
 傍にいるはずの朝比奈さんの声は、遥か遠くなったかと思えば、耳元に大音量で響くほど近くなったりして、何を言っているのかまるでわからない。  
 握り締められた俺の手には爪が深く食い込んで、ひどく痛かった。  
「そんなのは…………から早く引き……て!! この…………ョンくんが、キョンくんがどこ………って……!!」  
 全てがブレて、一点に集中し始めた。閉じた瞼の奥で眼球がぐるぐると回り、そこを中心に体と体のまわりの全てが渦に飲み込まれていくような感覚だ。  
 神経は鳥肌を立てた瞬間の掻痒感に囚われ、あべこべに繋ぎなおされていく。  
「……せん……い…………………ら!」  
 そして次第に、何もわからなくなっていった。  
 ここはどこで、何だ?   
 自分が幾つも見つかって、誰がどれなのか、何がそうしていたいのか、脳の電流はどこを通してどいつに向かう?  
「離し……ダメ! お願い! …………ないで!!」  
 離す? 何を? 俺は何か握っているのか?   
 どれだ、どの俺がどれをどうしてどんな物を一体どこで、  
「誰か! 早く誰か助けて!!」  
 泣きそうな声がはっきりと聞こえたのを最後に、とうとう耐えられなくなった俺は、手を離してバラバラになった。   
 
 
 次に俺が目を醒ましたのは、自宅のベッドの上。  
「キョンくーん、朝だよー!」  
 いつもと同じような妹の声で起こされた俺は、べたつく目を半開きにしたまましばらくぼんやりしたあと、慌てて飛び起きるなり自分の体を確かめる。  
 ……ちゃんとある、よな。  
 さっきまでろ過された砂粒ぐらいに破砕されてたような気がするが、どうやら勘違いだったらしい。  
 俺は胸を撫で下ろし、そのままベッドに倒れこんだ。  
 変な夢を見たせいか、起きぬけとは思えないほど疲れきっていた。心身ともに御影石を丸呑みしたかのような重さだ。  
「こらー、キョンくん! 二度寝しちゃだめ!」  
 兄の心中を慮ることなく、妹は布団をめくりあげる。てか寒っ!  
 俺は丸まった姿勢で寝転がったまま妹の手から布団を取り返すと、  
「今日は具合悪いんだ。もうちょっと寝かせてくれ」  
 いつもと違い、あながち嘘ってわけじゃない。  
 妹も野生の勘でそれに気づいたのか、うー、と唸ったあと、控えめに尋ねてきた。  
「でも、本当にいいの?」  
 何だそのおずおずとした物の言い方は。俺を寝坊させないための新しい作戦か。  
 小賢しいやつめ、と思いながらも、寝返りを打って妹の方を振り返り、  
「……何でそんなこと聞くんだ」  
 妹は、珍しく困ったような顔をしながら、  
「だって今日、入学式だよ?」  
 その言葉を聞いて、俺の眠気はすぐに消し飛んだ。  
 今日は入学式。  
 一体、誰の?  
 
 
 結論から言うと、その日は俺の入学式だった。  
 暗い気持ちで坂道を登り、そしてハルヒと出会った、あの入学式である。  
 知らぬ間に一年前に戻っていた事を知り、あれがどうやら夢ではなかったようだと気づいても、他にどうすることもできず、坂の角度を憂う代わりに途方も無い不安を抱えながら学校に向かった俺は、不安が的中していた事を知った。  
 一年五組の、見慣れたクラスメイト達。  
 しかし、俺の後ろでトンチキな自己紹介をぶちまけるはずの変態娘は、どこにもいなかった。朝倉涼子さえ、そこにはいない。  
 普通の自己紹介が披露されるたび、原因不明の焦りが俺の心に募っていく。  
 オリエンテーションが終わり、同じ中学だった友人との挨拶もそこそこに、俺は谷口に詰め寄った。  
「涼宮ハルヒを知らないか?」  
 谷口は目を白黒させ、気押されたように口を開く。  
「いや、知らないけど……」  
 思わず膝を落としてしまいそうになった。  
 それでも俺は、失礼を詫びる言葉を残して、二年生の教室へと向かった。途中には一年九組があって、そこに古泉はいなかったけど、少しだけ気分が楽になる。  
 しかし、朝比奈さんがいる筈のクラスに行っても、愛らしい未来人はどこにもおらず、不躾な新入生へ向けられた奇異の視線の中に見知った長い髪の上級生も混じっていて、俺は逃げるように教室を出るしかなかった。  
 念のために立ち寄った部室には、テーブルと椅子があるだけで、読書家の宇宙人の姿は見当たらない。  
 そりゃそうだ。まだ入学初日だし、部活に入部できるのはもう少し先のことなんだから。  
 パソコンを立ち上げてみても、旧式のOSがむき出しのデスクトップを表示するだけで、どこにも特別なプログラムは見当たらない。  
 俺はなんとか胸中に燻る不安を消したくて、長門のマンションに向かって走り出した。  
 ハルヒの使った手でまんまとマンションの中に押し入り、708のチャイムを鳴らし、硬いドアをノックする。  
 誰も出てこなかった。  
 しつこくドアを叩く音を聞いて出てきたのだろう、隣の部屋の若い男性は、その部屋が空き部屋だという旨だけ怒鳴りつけると、すぐに引っ込んでしまった。  
 念のため訪れた505の部屋には、年配の女性が住んでいて、朝倉涼子なんて聞いたことも無いという老女にお茶をごちそうになってから、大きなマンションを後にした。  
 希望の糸が一本一本耳障りな音を立てて切られていくなか、崩れる足場から逃れるために女子校のままの光陽園学院に赴き、出てくる生徒に片っぱしから涼宮ハルヒの名前を尋ねていく。  
 誰も首を縦には振らなかった。  
 やがて、不審な人物の話を聞きつけた教師が校舎から現れるのを見て、俺は慌てて逃げ出した。  
 見慣れた景色が、まるで違う世界のように追い立ててくる。  
 俺は一人だった。  
 
 それでも、最初はまだマシな方だった。  
 個人的な事情なんて省みず時間は流れていくわけだし、学生らしく毎日学校に通っていれば、嫌でも健康的な生活を送らざるをえない。  
 部活にも入らないまま、やった覚えのある授業を諾々と繰り返し、クラスメイトともそこそこの関係を結んで、日々平穏に過ごしていると、自分がどこにいるのか忘れそうになるぐらいだ。  
 俺は記憶が鮮明なうちに、と思って、大きなスクールカレンダーを購入し、そこに覚えている限りの予定を書き込んでいった。どこに行った。何をした。  
 席替えの時、くじ作りを手伝う振りをして窓際の一番後ろを抜き取って自分のものにしたりもした。  
 ここにいれば、きっとそのうち朝比奈さんか長門か、ひょっとしたら古泉でも、俺を元の場所に連れ出してくれるに違いないと信じていたからだ。  
 しかし、ゴールデンウィークを越え、古泉が転校してくるはずの日もあっけなく過ぎ去り、世界が瀕死の危機を迎えたあの夜も明けきってしまうにつれ、俺は段々と追い込まれていった。  
 そして、夏を目前に控えたある日の放課後。   
 ブラバンの演奏が遠くに聞こえる中、俺は文芸部室へ向かっていた。  
 未だに誰も訪れない文芸部室を、俺はそれまで定期的に掃除していた。SOS団抜きの放課後の長さは想像以上であり、それを埋め合わせる意味で始めた習慣だ。  
 いつもどおり途中で拝借したバケツを片手にドアノブを握ると、部屋の中から誰かの話し声が聞こえてきた。  
 ……まさか。  
 一瞬期待して、でも期待しすぎないように、ゆっくりとドアを開く。  
 果たしてそこにいたのは、見たこともない男子生徒三人組で、そいつらはあろうことか、部室に置かれていた本棚を運びだそうとしていた。  
「お前ら、なにやってんだ!」  
 俺はバケツを放り出して、倒した本棚を持ち上げようとする男に掴みかかった。  
「な、何って、これを図書室に運ぶんだけど……」  
 驚きの混じった声で、わけのわからないことを言う。  
「それはこの部屋の備品だろ? 何で運び出したりするんだよ!」  
 ああ、と一人離れた所に立っていた男がこちらに近づきながら、  
「文芸部はもう廃部が決まったんだ。今年は新入部員も入らなかったしね。この部屋の備品は、図書室に持ってくことになってる」  
 生徒会の役員らしいそいつは、面倒くさそうに顔をしかめると、  
「新しいの買えばいいのに、とんだリサイクル精神だよ。一々手間のかかることをさせて」  
 何でもないそんな物言いが、この時はどうしょうもなく気に食わなかった。  
 リサイクルだ? ふざけたことを抜かすじゃねえか。  
「あんたも私物を置いてるんなら、今の内に持っていった方が……」  
 俺は何事か言おうとするそいつの胸倉をあらん限りの力で掴み上げ、脅しつけるように言った。  
「文芸部には俺が入部してやる。今からここは俺の部室だ。だからお前ら、この部屋の物に触るんじゃねえ」   
 目を見開いて黙り込んだそいつを部屋の外に引きずり出したあと、残った二人も同じように叩き出して、倒された棚を必死で立て直す。 暗くなると、パイプ椅子に座って窓の外を眺めながら、俺は少しだけ泣いた。  
   
 
 翌日、いつか長門に渡されたのと同じ入部届けに、今度は『文芸部』と書いて担任に提出した俺は、それからしばらく学校を休みがちになる。  
 何をしていたのかと言えば、まず、電話帳を開いて団員と同じ苗字の人に片っぱしから電話をかけていた。特に涼宮と古泉。  
 未来から来たわけでもなく宇宙人でもない二人なら、ここにいてもおかしくないはずだ。  
 しかし、懐かしい声が携帯から聞こえてくることは無かった。  
 電話の次は、皆で訪れた場所を一人で回ろうと決めた。ハルヒが消えた冬のパソコンみたいに、どこかに何かの手がかりが残されているかもしれない。  
 先立つものを用意するために日雇いのバイトで金を貯め、さすがに孤島は無理だったが、鶴屋家の別荘までは行くことができた。生憎と、中に入ることはできなかったんだが。  
 そんな風に過ごしている内に家族が本気で心配し始めたので、今度は毎日学校に行くことにした。しかし、ただ行くだけで、授業にも出ず部室でぼーっとしていることの方が多かった。  
 出席簿には、バツ印が重なっていく。  
 幸い、というか、どうでもいいことなのだが、単位を落とす事は無かった。テストなら勉強しないでもある程度できる。答えを事前に知ってるからな。   
 おかげで教師からの信頼は綺麗さっぱり失ったが、クラスメイトは成績優秀な怠け者だと受け取ってくれたらしく、特に扱いが変わるわけでもなかった。まあ当然だ。俺はどう見ても不良って感じじゃない。  
 ただ、同じ中学の奴は何かと心配してくれたみたいで、特によく部室を訪れてくれる国木田には感謝しながらも、誤魔化すしか術が無かった。  
 部室に鶴屋さんがやってきたのは、そんな夏の日のことだ。  
   
 
 昼休み。部室で弁当を食べ終え、窓際で食後の読書に勤しんでいると、歴史の授業に便宜上使用される地図帳ぐらい滅多に開かない扉が、錆びた音を立てて開かれる。  
 現れたのは、いつも元気で快活だった、きっとこっちでも同じように元気で快活なのだろう、そんな上級生だった。  
 人形についたボタンみたいにぱっちりした目で俺を見つけるなり、肩まで捲し上げた夏服のしわを伸ばすように片手を挙げ、彼女は笑う。  
 こんな距離で目を合わせるのは、実に数ヶ月ぶりだった。  
「お! キミが例の……えーっと、キョ、キョ、……キョンくんだねっ」  
 俺は呆然としつつも、鶴屋さんがここにいることを不思議に思っていた。  
 教師に目をつけられないため、俺がここにいるってことは信用できる奴にしか教えていない。それが、どうして。  
 俺の目に浮かんだ疑問を読み取ったのか、鶴屋さんは勝ち誇るように笑うと、  
「谷口くんに聞いたら、しゅしゅっと教えてくれたよっ!」  
 あの野郎、可愛い子の頼みだけはザルで聞きやがる。今度安物のコーヒーフィルターでもプレゼントしてやろう。  
 俺はため息をついた。飼い慣らされた子猫みたいに無遠慮に近づいてくる鶴屋さんを改めて見るにつけ、気が重くなるのをひしひしと感じる。  
 正直、鶴屋さんとはあまり顔を合わせたく無かったのだ。SOS団の近くにいたこの人から他人行儀な顔をされるのは、あまりにも辛い。  
「……誰か知らないけど、俺に何か用でもあるんですか?」  
 こんなことを言わなくちゃならないのも、結構きつかったりする。  
 意識して無愛想に接する俺を、硬くて掘れない地面の上でもがくモグラを見下ろす鳥のような笑いを浮かべ、鶴屋さんは言う。  
「おや、自己紹介せにゃなんないの? あたしのこと知ってるくせに?」  
 思わず声をあげそうになった。  
 この鶴屋さんは、自分のことが俺に知られているとは思わないはず。なんせ、会って話したことすらない。  
 なら、ひょっとして……  
「キミさぁ、こないだうちんとこの別荘に来てたっしょ? 防犯カメラに、ばっちしくっきり写ってんだっ」  
 俺はいい加減学習した方がいい。ここにいるのは、SOS団の名誉顧問じゃないんだ。  
 こんな気分になってしまうから、会いたくなかったのに。  
「さあ、覚えがないですけど。人違いじゃないんですかね?」  
 ここはとぼけといた方が賢明だろう。妙な疑いを持たれるのはさすがにまずい。犯罪者になるのは、普遍的にごめんだ。  
 しかし、鶴屋さんは甘いねっ、と言わんばかりに指を突きつけながら、  
「いやいや、キミの顔は間違えないよっ。前からキミのこと、色々チェックしてたんさっ」  
 チェック? どうして鶴屋さんが俺を気にするんだ? ここに来て接点を持ったことなんて、一度も無かったはずなのに。  
「すげー興味あるんよねっ、キミのこと。入学式の日にうちのクラスに来たキミだっ。あん時もあたしの顔見て、すぐ出てっちゃったっしょ? あたしに言いたいことでもあるんかな、とか考えてたら、気になって寝れないのさっ!」  
 ああ、あの時か。しかし、一瞬目を合わせただけなのに、相変わらず鋭い人だ。ひょっとしてカボチャの気持ちとかもわかってしまうんじゃないだろうか。  
 内心感嘆の言葉を述べながらも、それ以上関わるつもりの無い俺が、誤魔化しを口にしようとすると、  
「昨日も昨日でさ、途中で立ち止まっては、どっかをじっと見つめたり、ベンチをずっと触ってたり、ありゃ何のオリエンテーリングなのかなっ?」  
 
 昨日?  
 昨日は、確かに街に出て色々な場所を回っていた。たまに落ち着かない気分になると、一人で不思議探索の真似事をする時がある。しかし、そんなこと谷口にだって言った覚えは無く、したがって鶴屋さんが知っているはずが……  
「あ、そうそう。ごめんだけどねっ、昨日尾けさせてもらってたからっ」  
「……つ、尾けた?」  
 万引きとかと同種の後ろめたさを秘めた言葉を、鶴屋さんはあくまでハキハキと、   
「たまたまぶらぶらしてた時、駅前で見かけたんさっ。じっと立ってたもんだから、ありゃ、誰か待ってるんかね、と思ってちょろっと眺めてたんだけど、いきなりふらりと歩き出すし、どうにも気になっちゃってねっ!」   
 ぺろっと長い舌を見せる鶴屋さん。でもそれって、犯罪に近い感じがしますけど。  
「んにゃ、自白したから帳消しだっ!」  
 いつの間に法律は力士のトランクス並に緩くなったのだろうか。  
「ね、ね、キミっていっつもあんなんしてんの? 別荘んときもじっと建物を見てただけだったじゃん? ただの趣味ってわけじゃないよね?」  
「いや、それはだから、つまりですね……」   
「隠したって無駄だかんねっ。キミからは、なんか面白そうな匂いがするんだっ! 独り占めしてないでさぁ、お姉さんにも教えておくれよ!」  
 鶴屋さんは、画竜に点睛を入れる芸術家ぐらい真剣に、そして週末の子供のようにわくわくと輝く好奇心でもって、こちらの目を見つめてくる。  
 耐え切れず外に目をやると、ここに来たばかりの頃咲いていた桜の木は、もうすっかり地味な緑色に覆われ、他の木と区別がつかなくなっていた。  
 だから俺は、  
「……本当に聞きたいですか?」  
「うんっ!」  
「ちゃんと最後まで、聞いてくれますか?」  
「もちろん! あたしゃ中途半端が嫌いなんさっ! 地獄の果てまで初志貫徹だよっ」  
 俺は、ゆっくりと口を開いた。  
 別に鶴屋さんの好奇心に負けたってわけでもない。  
 ただ、俺は誰かに知っておいてほしかった。自分がどこから来て、そこにはどれだけ楽しいことがあったのか。  
 この頃になると、たまに考えることがあったんだ。ひょっとしたら、俺は頭がどうかしちまってるんじゃないかってな。  
 宇宙人だの未来人だの超能力者なんてのは最初っからいなくて、ハルヒだって脳内劇場の登場人物に過ぎず、入学式の日に妄想に取り付かれた俺は、一人わけのわからない夢を見てるに過ぎなんじゃないか。  
 笑い飛ばすには悲しすぎる現実。そんなもの、認めたくはない。  
 だから、俺は話し続けた。自分の記憶が本物だと確信するために、脳のローランド溝をなぞる様に微に入り細に入り話しまくった。  
 昼休みを経て、放課後も学校が閉まるまで話し続けた。   
 そして翌日。  
 外が暗くなる頃、ようやく最後まで語り終えた俺に向かって、鶴屋さんは喝采の拍手を打ち鳴らす。  
「すごいすごいっ! まるで違う世界の話みたいだっ! おもしれーっ!」  
 飛び上がって喜ぶ姿を見ながら、俺は恐々と尋ねた。   
「……こんな話、信じてくれるんですか?」  
 鶴屋さんは打つ手をぴたりと止めて、腕組しながら眉間に皺を寄せ、  
「う〜ん、話は正直ちょっと眉唾っぽかったよ。あたしが出てんのも、何か変な感じだったし……でも、聞いてて楽しかったしねっ! そんなんが本当なら、サイコーだっ」  
 そのまま頬を引き、ニッと見慣れた笑顔になって、  
「それに、キミはずっと真剣だったっしょ。話してる時も、街を回ってた時も、ずっと真剣だった。だから他はうっちゃっても、キミのことは信用することにしたんさっ!」  
 ちょっと待ってな、と言って部室を飛び出し、またすぐに舞い戻ってきたかと思うと、  
「これ!」  
 俺の鼻先に引っ付けてきたのは、草書体で『文芸部』と書かれた入部届けだった。  
「異世界探し、あたしも混ぜてっ!」  
   
 一人っきりだった文芸部員は、こうして二人になった。  
 
 
 夏休みに入るなり、俺はやたらと豪華なクルーザーに乗せられて、例の孤島に向かった。もちろん鶴屋さんの根回しによるものだ。  
 そこまでしてもらう必要は無いと言ったのだが、あたしが行きたいの一点張りで、どうしようも無かった。  
 建物も何もない無人島で、俺たち二人は一日だけ泳ぎまくった。  
 一日限りの合宿から戻ると、今度はプールに向かった。やはりアメフラシのごとく大量発生していたガキどもと共に即席ルールの水中サッカーで遊んだ。筋を軽く痛めた。  
 盆踊り大会では、俺も無理矢理浴衣を着せられた。蓄えを全放出する勢いで豪遊したあと、ちゃちな花火をした。浴衣姿の鶴屋さんがポニーテールだったせいで落ち着かない気分だったことは胸の奥に閉まっておく。  
 鶴屋山で虫採りもした。セミを棒受け漁で捕獲されたサンマのように乱獲し、にも関わらず一向にボリュームが落ちないセミの合唱を聞いていると、いつの間にか夜だった。  
 キャッチアンドリリースの精神は、もちろん忘れない。セミにしてみたら、何がしたかったんだこいつらと思ったことだろう。  
 鶴屋家の蔵にあった望遠鏡で天体観測をした。無愛想な宇宙人のことを話すと、鶴屋さんは会ってみたいと言ってくれた。  
 バッティングセンターでまた筋を痛めた。カッコつけようとすると良いことがあった験しが無い。  
 花火大会の日は雨だった。代わりに図書館に行って、元の世界で読みかけだった本を借りてきた。同じ内容。なのに、どうしてあいつらはいないんだろう。  
 ハゼ釣り大会で鶴屋さんが優勝した。商品は最新型のデジカメ。何かあれば写真を撮るようになった。  
 肝試しはちっとも怖くなかった。暗かったからかどうか解らないが、いつの間にか俺たちは手を繋いでいた。  
 宿題も自力で全部終わらせた。二年生とは内容が違うので、写しあうことができなかったからだ。  
 カエルのバイトはしなかった。さすがに鶴屋さんをあんな灼熱地獄に放り込むわけにはいかない。  
 とにかく、五人だった思い出を、二人でやりなおした。  
 帰るための手がかりを得ることはできなかったが、それでも楽しかった。  
 もし一人だったら、俺は何をしていたんだろうか。想像すると、少し恐ろしい。  
 
 
 やがて秋になり、文化祭が近づくと、流石に映画を撮るわけにもいかなかったので、予定を早めて機関誌を作ることにした。  
 鶴屋さんはやはり抱腹絶倒の冒険小説を書き、俺は短い恋愛小説の代わりに、自分の実体験に基づいたSF小説を長々と書いた。五人分の文章だ。なかなか面白いものができたと思う。  
 俺たちの小説に加え、無理矢理手伝わせた谷口と国木田の渋々な尽力もあり、紙面はかなり充実した内容となった。  
 評価もそれ相応に高かったらしく、そのせいで図書部の教師に目をつけられた俺たちは、半ば強制的に図書部が発行する新聞とやらのコラム欄を担当させられることになったりもした。  
 ステージを欠場したバンドは、一つも無かったという。  
   
 
 そして、冬を迎えようとする頃。   
 自分の中に、鶴屋さんに対するある種の感情が芽生えている事を認めないわけにはいかなくなった。  
 ずっと一緒にいてくれた上級生。  
 情が宿るのも当然といえば当然で、どうしようもないことかもしれない。  
 しかし、それだけだと思い込むのは、ひどく難しい事だった。  
 鶴屋さんといるとき、元の世界のことを考える時間はいつの間にか少なくなって、俺はただ二人でいられることを、純粋に楽しんでいた。  
 手段と目的の逆転。よくある話だ。  
 カレンダーには、元の世界のものとは違う、新しい予定がどんどん増えていった。  
 戻るために思い出をなぞっていたわけでなく、新しい思い出を作るために進もうとしている自分がいる。  
 以前一度は否定した、常識的で退屈な世界を、あいつらの影も形もない世界を、俺は受け入れようとしている。  
 それに気づいたからには、決断しなくてはならなかった。  
 どっちにしろ、ずっとこのままでいいわけがない。それだけは、初めからわかっていたことだ。  
 つまりは二択。  
 あいつらを探し続けるか、それともここで生きるか。  
 真面目に出席するようになっていた学校を風邪と偽って丸一週間休み、ろくに眠る事もできずに考え続けた末、俺は決めた。  
 冬独特の、すべてが薄ぼんやりとした空気の中で、一つだけ確かなものがある。  
 
 
 十二月初旬。  
 昼はそこそこの賑わいを見せていた学校の近くの公園には、夜を間近に迎えるにあたり、さすがに子供たちも夕食に勝る価値を見出せなかったのか、人っ子一人見当たらなくなっていた。  
 さらに、アリもキリギリスも凍死しそうな寒さを伴った空気は手入れを怠った五十代の肌のように乾燥しており、もう少し暖かい日にすればよかったかもしれない、と俺に思わせるには十分な天気。  
 告白の成功率と気温の相関関係は多分誰も調べたことが無いだろうが、一々北極海まで赴いた上で愛を語られても迷惑としか思えないだろう。財布の中身ぐらいなら賭けてもいいぜ。  
 心中で微妙にテンパりながら公園の真ん中につっ立ったまま、少しでも寒さを防ぐためマフラーの中に顔を埋めていると、  
「ちわっ! 遅くなってごめんよっ」  
 何枚着ているのか、張り切りすぎた雪だるまのように膨らんだ鶴屋さんが、ケーブル編みの柔らかそうな手袋を拝むようにこすり合わせながら、柵をまたいで小走りにやってくる。  
 俺の前で急停止すると、足だけはそのまま小刻みに動かしながら、  
「いはー、めっさ寒ぃー。キョンく〜ん、スキー合宿の打ち合わせなら、こんなとこでしなくてもいいんじゃないかな? それともあれかいっ? 寒さ先取りってことかいっ?」  
 さすがに直球で行く勇気は持てず、そんな理由にかこつけて呼び出していたことを、すっかり失念していた。  
 豆鉄砲を乱射されるハトのように慌ててフォローの言葉を入れようとすると、鶴屋さんはぐりんとした目を半分閉じて、  
「キョンくん、何か隠してることあるっしょ?」  
 ぐ、と詰まる俺を見て、きしし、と悪党っぽく笑うと、   
「うちら長い付き合いだからね、そんなんはばればれさっ。で、なになに? ひょっとして、何かサプライズあんのかなっ?」  
 ビックリ箱を解剖しようとするやんちゃ坊主のように、目を輝かせはじめる。  
 俺はそれを見逃さなかった。  
 ここだ。この話の流れに乗るしかない。波乗りの神様よ、カメハメハ大王とか、とにかくその辺の偉人よ、俺にご加護を!  
「……じ、実は、鶴屋さんに伝えたいことがあるんでふぇ」  
 噛んだ。やはり一銭も投じたことがない連中に頼ってもダメだ。瀬戸際の教訓。大体何だよカメハメハって。親ふざけてんのか。  
「でふぇ? キョンくん、今更語尾を変えて無理矢理キャラ変えんのは難しいにょろ。そういうのはさ、入学した時から決めとかなきゃね」   
 いや、キャラ変更の話とかじゃなくてですね。というか、語尾がでふぇとか抗菌物質のデフェンシンぐらいしか思いつかない。抗菌物質キャラ。未踏の領域だ。学校に巣食う不良共を一掃してくれそうな勇ましさがある。  
 ……でもなくて。  
 いかん。目の前の大仕事にびびってしまい、さっきから思考が逃避しがちだ。  
 俺は絵に描いたようにキョトンとしている鶴屋さんを見ながら、マフラーが盗まれたバイクみたいな心臓の音に乗せて、自分自身に暗示をかける。  
 やれ。もう吹っ切れ。一回噛んだら、もう何回噛んでも一緒だろ。もともと、そんぐらいみっともない方が分相応なんだ。  
 一度大きく深呼吸してから、俺は一息に言う。  
「今まで色々、俺のわがままに付き合ってくれてありがとうございました」  
 噛まなかった。一筆書きのように滑らか。  
「なーにっ、そのことなら気にしないでいいっていつも……」  
 毎度のことを、とでも言いたげに俺の肩を叩こうとした鶴屋さんは、糸止めに繰られたように動きを止め、  
「……今までってことは、ひょっとして、やめちゃうの?」  
 俺は頷いた。鶴屋さんは一瞬顔を俯かせたが、すぐにまた顔を上げ、目の奥にいつに無く真剣な色を浮かべると、  
「そか……じゃあ、文芸部も解散なのかなっ。今日はそれを知らせに?」  
 静かに尋ねてきた。少しぐらい、寂しいと思ってくれているのだろうか。もしそうだとしたら嬉しいけど、同時に心苦しくもある。  
 俺は、ちぎれんばかりに首を横に振った。  
「帰ることを考えるのは、もうやめます。でも、文芸部はやめません」  
 鶴屋さんは、英語のリスニングを聞かされるチェシャ猫のように何が言いたいのかわからないといった様子で、困惑と笑顔の間を彷徨っていた。  
 もう、引き返す事はできない。  
「帰るための手がかりとか、そういうの抜きで、鶴屋さんと二人でいたいんです」  
 唾を飲み込み、乾いた喉を一度濡らして、  
「俺、あなたのこと好きですから」  
 それ以上目を合わせていられず、深々と頭を下げる。  
「だから俺と、……その、こ、これからも一緒にいてください」  
 
 俺の言葉が途切れるや、公園の中に忘れられていた静けさが、隅に追いやられた報復とばかりに殺到してきた。沈黙の針が冷えた耳を撫で回している。  
 閉じようとしても言う事を聞かない瞼を諦め、自分のつま先を見つめながら、頭の中は熱暴走していた。  
 ついに、言ってしまったのだ。  
 ほとんど前フリなしの告白。こんなんでいいのか。いや、ダメだろ。雑誌の特集とかでダメな告白の仕方ベスト5とかにランクインされる感じかもしれない。  
 まぁいいさ。断られる確率の方が高そうだってことは、事前に見当ついてたからな。二人っきりでもペースを崩す様子が無かったし、まず男として見られてないのは間違いなさそうだ。  
 だからって、こっちで生きるという決意を変えるつもりはない。それはもう決めた事で、この告白は、決意表明みたいなものでもある。  
 手がかり探しはもう止める。そうだな、文芸部としてもっと積極的に活動するのもいいかもしれない。コラムだって、始めてみれば楽しいもんだったし。  
 その時、もう鶴屋さんは隣にいてくれないかもしれないけど、そんときゃ暇そうな谷口辺りを引き込んで、アホらしいことやるってのもいいかもしれない。  
 でも、しばらくは何をする気も起きないだろうな。振られたくねえ。ショックで拒食症とかになったらどうしよう。まあ、そこまで繊細じゃないけどな。  
 一呼吸の間に、幾つもの思考が並列処理で加速していく。  
 そして、その内の一つでも何らかの結論を出す前に、  
「こちらこそよろしく!」  
 柔くて軽くて丸っこいものが、俺の腹の辺りにタックルをしかけてきた。  
 一瞬わけがわからなかった。コチラコソヨロシク。何だそれ。南米の方の新しい王様の名前か何かか。コチラコソ王。どっちだ。  
 いや、そんなことより見ろよ。鶴屋さんが俺に抱きついてるぜ。どうして? ホワイ? 映画の撮影?  
 やがて、忙しく駆け巡っていた血液が深い場所に落ち着いていき、混乱の魔法をかけられたような頭にも、一献の冷静さが戻ってくる。  
 ……成功。  
 俺はそっと深く、コートの奥に隠された熱を確かめるように抱きしめると、口の中を思いっきり噛んだ。すげえ痛い。夢じゃない。  
 脳からわけのわからない麻薬が飛び出して、ただひたすらにハッピーな気分だった。もし死ぬなら今がいい。何一つ悔いは残らないだろう。  
 涅槃の境地へいざ旅立たんとしていると、抱きしめた背中が小刻みに揺れているのに気づいた。  
「つつつ、鶴屋さん? どうなさりなさったんですか?」  
 言葉がまったく覚束いていないが、それは置いといて、慌てて顔を下に向けても、卵みたいな形の頭頂部しか確認できない。  
 ひょっとして、俺の体臭かったか? あんだけ風呂入ったのに。  
 それとも、念のためと思って使った制汗スプレーがまずかったか? 一吹きもしなかったのに。  
 完全にパニクっていると、ずずっと鼻を啜る音が聞こえ、途切れ途切れに吐き出される湿った声が、俺の腹部を暖めていく。  
「だって、キョンくんいつも帰るために一生懸命で、そういうとこ好きで、でも、だから、あたしのことなんて、見てないんだろうなって思ってたから……」  
 どうやら体臭は正常なようで安堵すると共に、こんな時どうすればいいかわからない自分の経験値の少なさに慙愧の念を抱きつつ、鶴屋さんの背中にまわした手を撫でるように叩く。  
「機関誌、毎月発行しましょう。放課後は毎日打ち合わせですね。どっか取材に行くのもいいかもしれない。あと、旅行にも行きましょう。今度は俺の行った事無い所がいいです。でもなるべく、リーズナブルな所で」  
 こうやって楽しいことを話してやれば、誰だってすぐ泣き止むさ。うちの妹から導き出された法則だから、互換性には乏しいかもしれんが。  
 公園は相変わらず気圧に難癖をつけたいぐらい寒かったが、二人で一緒にいれば、実はそうでもないことに気づいた。  
 
 
 それから、日々は目まぐるしく過ぎていった。  
 放課後は部室で過ごして、夕方になれば一緒に下校し、休みになれば一緒に遊んで、暇なときにはメールする。  
 クリスマスには調理室に忍び込んで手料理を振舞ってもらい、正月は初詣に行って、バレンタインには味のしないチョコをもらった。  
 不思議なことなんて何一つ無い、十人並みの生活。手を握るだけで幸せになれる安易な人生。  
 それでも俺は、ずっとここにいたいと願っている。  
 
 
 フラッシュバック。  
 やがて意識は現実と重なり、目の前に焦点を結ぶ。  
「まず、現状を説明します」  
 記憶と異なる、まるで大人になった彼女のように隙の無い厳しい顔のまま、朝比奈さんは口を開いた。  
「あたしたちが時間航行をしている最中、STC間のネットワーク……我々のTPDDでアクセス可能な時空間領域に、情報生命体が寄生しました。コンピ研の部長さんや阪中さんの件を覚えていますか?」  
 いまだ口を開く事ができない俺を待たず、朝比奈さんは続ける。  
「あの時と同じです。規模が膨大になり、寄生対象が我々の概念装置に入れ替わっただけだと考えてください」  
 情報生命体。像が自動的に結ばれる。馬鹿でかいカマドウマと、阪中家のルソー。  
「情報生命体は、それがもともとの能力なのかそれとも寄生する事により何らかの変異を起こしたのか、おそらく後者でしょうが、ネットワークのあちこちに無数のリンクを貼り付けはじめました」  
 この辺はさっぱり。他所に回して欲しい議論だ。   
「ここと同じような世界とのリンク。同位でありながら我々の歴史とは因果を共有しない、完全に独立した、ありえないはずの時空へのリンクです。平行世界の出現と考えてもらって構いません」  
 ありえないだって? どうして。俺はここにいるのに。  
「我々の世界に直結しうるリンクがこのまま増え続ければ、やがて可能性は限界に達し、急速的な収縮活動が行なわれると予想されます。そうなれば終わりです。全ては消え、宇宙は始まりの状態に戻るでしょう」  
 世界の終わりに宇宙の始まりと来たもんだ。随分大仰な話じゃないか。  
「幸い、寄生した生命体の位置は長門さんの協力で特定することができました。今ならまだ消去可能です。ネットワークが正常化されれば、リンクも有り得ないものとして消失するでしょう」  
 そいつは良かった。何よりだ。  
「次に、キョンくん。あなたのことです」  
 俺のことはもういい。放っておいてください。  
「あなたは情報生命体が寄生した際の時空震に巻き込まれ、存在が散り散りにされてしまいました。本来ならそこであなたは消えてしまう筈なのですが、何故かここ、元の時空と近似な時空で、あなたとして再生されています」  
 どうやら俺は、よっぽど生き汚いらしい。  
「おそらく、涼宮さんの力が何らかの影響を及ぼしているのだと思います。存在の上書きか、或いは二重化か。何にせよ、不幸中の幸いでした」  
 涼宮。ハルヒの名前を他人の口から聞いたのは、一年ぶりだ。あいつは今、どこで何をやってるんだ? ちゃんと楽しくやっているんだろうか。  
「情報生命体を消去すれば、この時空は実質的に消失します。涼宮さんの鍵であるあなたを、それに巻き込ませるわけにはいきません」  
 ……待て。何だって?   
「朝比奈さん、この時空が消失って……」  
「先に言っておきますが、あなたに拒否権はありません。無理矢理にでも連れて帰ります。これは、長門さんと古泉君を含めた、我々の総意です」  
「な……!!」  
 俺は立ち上がり、朝比奈さんにしがみつく。  
「答えてください! この時空が消えるって、どういうことですか!」  
 朝比奈さんは一瞬瞳を伏せたあと、すぐに毅然と俺の顔を見上げ、  
「リンクが消失すれば、この時空は観測不能になるの。そうなれば存在しないも同然です。仮に情報生命体の能力でのみ定義されていた時空であった場合は本当に消える事も考えられます。どちらにせよ、結果は変わりません」  
 
 消えるだって? 谷口も国木田も、家族も、鶴屋さんも?  
「明日の夜、迎えにきます。その時までに、お別れを済ませておいて下さい」  
「ま、待ってください! それ、その消えるとかって、何とかできないんですか!」  
 俺が捲くし立てても、朝比奈さんはあくまで冷静に、  
「不可能です。先ほど述べたとおり、情報生命体を捨て置くわけにはいきません」  
「じゃ、じゃあ、こっちの人をあっちの世界に移すとか、とにかく、何か方法が」  
「それも不可能です。ほら、見て」  
 朝比奈さんは俺に向かって手を掲げる。街灯に照らされた腕は、指先から肩にかけて半透明で、体の向こう側の景色を透かしていた。  
 絶句すると同時に納得した。だから、幽霊。  
「膨大に増え続けるリンクのせいで時間航行は妨げられ、未来の時間の位置も不明瞭になり、通信も困難な状態です。加えて我々の時間移動プロセスは、このような事態を想定されて作られてはいません」  
 朝比奈さんは腕を下ろすと、  
「少しの間しか、異なる時空に留まることはできないの。長く留まりすぎると、弾きだされて消えてしまう」  
 公園の時計にちらりと目を向けて、  
「それに、一定時間ごとに元の時空に戻ってポイントを更新しないと、増え続けるリンクに押し流されて、どちらの時空も位置を見失ってしまいかねません」  
「……なら、俺が戻ったって、消えてしまうだけじゃないですか」  
「そうかもしれません。ですが、そうならない可能性も高いです。あなたがここで無事に存在しているのと同じように」  
 ゼロより少しでも大きい数字を、ってことか。  
 そんな、いい加減なことで…………第一、どうして、  
「どうして、今更そんなことを」  
 すぐに来てくれれば、俺は何も、  
「今更なんかじゃ、ないんですよ」  
 朝比奈さんは冷えた表情を俯かせると、懺悔するような響きでぽつりと零す。  
「さっきも言った通り、時間移動は妨げられています。今時間平面を移動するのは、濁流に身一つで飛び込むようなもの。それでも、同時間軸上に存在する近似の時空に移動する事だけは、辛うじて可能でした」  
「同時間軸……?」  
 二年生への進級を控えた、三月。  
「そう。キョンくん、あなたにとっては一年後のことだったかもしれないけど、あたしはあの日のうちに、あなたの元に向かったんです」  
 ……そうだ。  
 俺が妙な気配を感じたあの夜が、朝比奈さんと共に時間移動を行なった日だった。  
 じゃあ何か。俺が一年かけて、もとの世界と重なる時間軸に戻ってきてしまったから、今なのか。今更、こんな……  
「本当はすぐに連れて帰るつもりだった。でも、あなたはここで、新しい関係を築いていたから……ごめんなさい、キョンくんの部屋のカレンダー、勝手に見てしまいました」  
 妹じゃ、なかったんだな。  
「あたしは、ずっと迷って……できるだけ、ギリギリまで待ってもらいました。でも、もう限界です」  
 俯かせていた顔を上げた朝比奈さんは、厳しい表情に立ち戻ると、  
「いいですか。明日の夜、あなたを連れてもとの時空に戻ります。これは規定事項です。決して覆りません」  
 朝比奈さんが目を閉じると、フィルムを炙ったように所々欠落していた輪郭は、次第に夜にぼやけて消えていく。  
「待って、」  
 こんな一方的な話だけしといて、行っちまう気かよ!  
「待ってください朝比奈さん! 俺は、俺はもう帰るつもりは……」  
 俺の言葉を待つことなく、朝比奈さんの体は風に吹かれるように一瞬で消えた。  
 夜の公園で、俺はまた一人になった。  
 
 春はうららかと言うが、うららかって一体どういう意味なんだよ。  
 窓際でどうでもいいことを考えながら、紙パック入りのスポーツドリンクというアルミホイルに包まれた水羊羹のようにどことなく不自然さを感じさせる飲料で喉を潤わせていた俺に向かって、目の前でアップルジュースを嗜んでいた国木田は、  
「で、昨日の手紙は結局何だったの?」  
「ああ、ありゃ人違いだ。どうも送り先の宛名を間違えたらしいな」  
 人間誰しも、間違いを起こすものさ。死後だってそれは変わらないみたいだぜ。  
「ま、言いたくないならいいけどさ。一応、お払いとかしてもらった方がいいんじゃないかな」  
 嫌だね。俺は困ったとき神に祈りはすれども平常時は無宗教かつ無信仰なんだ。妙な説法に札束をつぎこむつもりは無い。  
「ダメだ。キョン、今度俺と一緒に寺に行くぞ。俺たち何か変なのに呪われてんだ。あんな山道、掘り返したら白骨死体の一つや二つ出てくるに決まってる。その内の一つが、俺たちの背中にくっついてんだよ」  
 これまた紙パックのコーヒー牛乳を飲んでいた谷口が、正気の面構えで夢遊病患者のような妄言を吐く。そんなもん妄想だ妄想。行くんならお前一人で行ってくれ。  
「バカタレ。憑いてるのはお前であって、俺はとばっちりを受けた形なんだぞ。お前が傍にいる限り、俺たちに明日はねぇ!」  
 失礼な奴だなおい。そういうのが発展していじめ問題に繋がるんだぞ。  
 俺は最後の一滴まで逃すまいと紙パックを握りしめつつ、  
「わぁったよ。行く行く」  
 行くから、必死な顔を接近させるのは止めてくれ。  
「うん。やっぱり二人とも行くべきだよね。こういうのは、何らかの対処を受けたっていう意識が一番の薬だっていうし」  
 訳知り顔で頷く国木田に、谷口は至って真面目に、  
「何他人事みたいに言ってやがんだ。お前も寺に行くんだよ」  
「え? 何で僕まで」  
「お前もあの手紙に目を合わせただろ。呪われてるぜ、間違いなく」  
「……どんな感染経路なの」  
 谷口の奴、よっぽど幽霊を見たのがショックだったらしい。何でもオカルトの方向に結び付け始めやがった。こりゃ、こいつが変な宗教に嵌るより先に寺へ行かないとな。  
「じゃあ、春休みになったら三人で行くか」  
 寺に遊びにいくなんて初めての経験だが、何事も行ってみないとわからないからな。意外と日々の煩悩を白紙に戻すいい機会になるかもしれん。  
「おっし、絶対な。国木田、お前もだぞ」  
 国木田はさも気が進まなそうに渋々と頷くと、  
「はいはい。わかったよ」  
 谷口は、一年間刺さりっぱなしだったささくれが何かの拍子に抜けたかのように満足気な様子で、  
「あー、これで寝る前に盛塩しないで済むな。いや、呪いが解けて悪いものが消えれば、アドレスを交換してから三ヶ月音沙汰無しのあの子からもメールが来るかも」  
 それはもう諦めろよ、とは取り立てて言わない。どうせ言っても聞かないことは火に触ったら火傷するぐらい明らかだ。  
「なに、その悟ったような顔は」  
 国木田が、空の紙パックを指でいじりながら問うてくる。  
「あいつアホだなぁと思って」  
 まあ、プラス思考は悪い事じゃないけどな。俺が言うと国木田は、それこそアホらしいと言わんばかりに、  
「今更気づいたの?」  
「いや、再確認だ」  
 俺たちは視線を交わしたあと、揃って肩を竦めると、あの子とやらがどんな子なのか聞いて欲しそうな谷口のために口を開くのだった。  
 
 
 放課後から少しばかり時計の針を進めた時間。  
 息を切らして部室の扉を開けると、  
「あ、キョンくん、遅かったじゃないかっ。今日も部活中止になんのかと思ったよ」  
 口を尖らせながらも、目元を緩ませる鶴屋さん。うぬぼれてしまいそうになる瞬間だ。  
「すいません。ちょっと野暮用がありまして」  
 俺が閉じられたノートパソコンに目を向けると、鶴屋さんは餌を一人で獲ったインパラの如く誇らしげに胸を張り、  
「あたしの分は終わったよ! あとは印刷するだけっ!」  
 ひょっとして、昨日も一人で書いていたのかもしれない。悪い事をしてしまった。こんな寂しい部屋に一人でいるのは、それほど楽しい事じゃないだろう。  
「じゃあ、今日はのんびりしましょうか」  
 俺の分の小説は既に書き溜めてあるので、その内の一つを出せばいいだけだ。なんせ荒唐無稽なSF小説のネタに関してだけはストックが幾らでもあり、詰まるという事が無いからな。  
 鶴屋さんの横に座り、憂いの欠片も見当たらないような笑顔を眺めながら、どうでもいい言葉を交わす。  
 考えてみれば人生においてどうでもいい会話が占める割合はことのほか多く、それでもまだ政治の話とかできればまだ建設的なんだろうが、今のところそんなのは授業でやってれば十分だ。  
 この点については他の多くの学生から賛同を得られると思うね。  
「ね、ね、キョンくん。来年新入部員がはいったらどうするっ? 大所帯になるかもしんないよっ」  
 で、気づいたらこんな話になっていたりする。  
「誰も入れません。拒否します」  
 先日密かに決定した事項だ。  
「え、なんでさっ?」  
 そんな普通に聞かれたら答えに窮してしまうんだが。そのぐらい察して欲しいと思うのは我がままなのだろうか。  
 鶴屋さんは口篭る俺を見て、サディスティックな笑みを浮かべながら、   
「こゆことできなくなるからかい?」  
 いきなり耳に生温い息を吹きかけてくる。わかってて聞いてきたな。たまにSスイッチが入るから、この人は油断できない。  
 しばらく身もだえしていると、今度は俺の膝の上に乗っかってきて、脇をくすぐりはじめた。  
「ちょ、ちょっと、鶴屋さん、くる、くるしいですって!」  
「うひゃひゃひゃ! ここかいっ? ここがいいのかい?」  
 傍から見たら何やってんだこいつらと思われるだろうが、俺たちは暇な時大抵こんな感じなのである。  
 で、それにも飽きたらいそいそと本を読み始める。  
 当初は空っぽだった本棚も、俺たちが少しづつ持ち寄る事で、本棚としての役割を次第に果たし始めていた。  
 ただ、俺もそうなのだが、特に鶴屋さんは面白ければ何でもOKという人なので、様々なジャンルが無秩序にひしめきあって、凝り性の人が見たら思わず整理整頓したくなること請け合いだ。  
「キョンくん、読むのめっさ早いなあ。もうちょっとゆっくり読んでおくれよう」  
「じゃあ鶴屋さんが持って下さいよ」  
「やだねっ」  
 俺の膝に座ったままで、だだをこねて足をバタつかせる鶴屋さん。人間椅子になってしまったような気分だ。というかそのまんまなのだが。  
 色々と我慢を強いられる姿勢なのだが、これはこれで顎を鶴屋さんの肩に乗せて楽できるため、密かに気に入っていたりする。  
 水を打ったように静かな部室に、紙の摩擦音が聞こえている。遠くからはブラバンの練習音。低い音や高い音が重なり、頬には絹のような感触がさらさらと流れ、どこまでも眠気を誘う。  
 そのためか、いつもは鶴屋さんが俺の腕にもたれかかって寝てしまうか、もしくは俺も後ろにのけぞったまま眠ってしまうことが多々あるのだが、今日は珍しく最後まで一緒に読んでいた。  
 さすがスペクタクルアクション巨編。帯に偽りなし。  
「あたしらってさ、結構バカップルだよねっ」  
 鶴屋さんが漏らしたとおり、やはり俺たちはバカップルなのかもしれないが、自分で認めたら最後の牙城が崩れるので認めない。  
 
 
 部室で本に読み嵌ってしまったせいもあり、鶴屋さんを家の前まで送る頃には、もう七時を大きく回ってしまっていた。  
 人の声は少なくなったせいか、虫の涼しげな鳴き声が、門の向こうの前庭からよく聞こえてくる。  
 俺たちは自転車の傍で蹲ったまま、そんな音を聞いていた。はしゃぎすぎて疲れている体にはいい薬だ。総天然マイナスイオン。  
「うっひゃー、お腹空いたなー。ねえ、キョンくん? あたしん家でご飯食べて行くかい?」  
「つかぬことを聞きますが、今日お父様はご在宅ですか」  
「うん。ばっちしいるっさっ」  
「じゃあやめときます」  
「うわ、ださいっ。キョンくんビビリにょろ〜」  
 女性にはわからないんだ。父と言う鋼鉄装甲の如き壁が。しかも鶴屋さんのお父様と言えばこんな大きな家を建てるぐらいの傑物であり、俺なんて指先一つでダウン間違いなし。  
 想像だけで敗走してしまいそうになる自らの小さな肝っ玉を恥じ入りつつも、モラトリアム的考えでこれから大きくなるだろ、とか暢気に考えていると、ブレザーの袖がそっと引かれた。  
「もし、もしキョンくんがよければなんだけど。あたし本当にさ、おやっさんに紹介したいって思ってるんだけどなっ」  
 恐る恐る、といった様子で、俺の顔を覗きこんでくる鶴屋さん。  
 何も恐れることなんて、ありはしないのにな。  
 答えのかわりに、俺は鶴屋さんを抱きしめ、  
「へ?」  
 そのまま持ち上げて、再度自転車の後ろに座らせる。  
「ちょ、ちょっとキョンくん、どうしたの? あたしんち、ここなんだけどなっ?」  
「旅行」  
「りょこう?」  
「二人で旅行に行きましょう」  
「へ? ……い、いいけど、どこに?」  
「どっかに」  
「どっかにって、そんなやっつけな、あ、うわわっ!」  
 ペダルに力を込め、地面を蹴って走り出す。慌てた鶴屋さんの腕が、俺の胸に巻きついた。   
「りょ、旅行って、ひょっとして、今からなのっ?」  
「当然です」  
 命短し走れよ男女。有り余る時間をわざわざ無駄に過ごすことはあるまい。  
「ちょ、ちょっと待ってよキョンくんっ、そんな急に、いや、二人で旅行にはすごい行きたいけど、今日じゃなくったっていいんじゃないかなっ」  
「今日行きたいんです」  
「でもでも、ほら、家族が心配するんじゃ」  
「あとで両家とも俺が責任持って連絡します」  
「うっ……で、でもさ、着替えとかも、ほら、女の子には準備が色々……」  
「全部現地調達で」  
 何のためにこつこつ貯蓄していたかと言えば、それは正にこの日のためである。  
「……う〜、だって、まだおやっさんに紹介もしてないのに、いきなりお泊りなんてさ、」  
「旅行が終わったらその足でお伺いさせていただきます」  
 何なら紋付袴だって用意しよう。  
 
 
 それから車輪の音だけが続き、やがて、回された腕に力が籠もる。  
「キョンくん、さっきまでビビリだったくせに、いきなり超強引だね」  
 俺にだってそんな気分の時があるんですよ。彗星が接近してくるぐらいの頻度ですけど。  
「昨日様子が変だったことと、関係あるのかなっ?」  
 いえ、全然。以前から計画してたことです。意外と後先考えるタイプですからね、俺は。  
「……ははっ、確かに結構そういうとこあるよね、キミはっ!」  
 鶴屋さんはどうやら立ち上がったらしい。俺の肩をばしっとはたくと、  
「おーっし! じゃあ温泉にでも行ってみるかいっ?」  
 いいっすね、名湯巡り。戻ってくる頃には、お肌が生まれ変わってますよ。  
「よぅっし! 目指せ美肌! さしあたっては、駅へゴーゴーだっ!」  
「お任せあれ」  
 歌でも歌いながら行けば、あっという間に着きますよ。  
「ええっと、温泉だから……じゃあ、『She Came in Through the Bathroom Window』でいっとくかいっ?」  
 それ温泉どころか風呂ともあんま関係ないです、と俺が教示する前に、鶴屋さんの歌は始まってしまっていた。  
 近所迷惑なので良い子は真似しないようにしてほしい。  
 まあ、三曲目から一緒に歌ってしまっていた俺が言えた義理じゃないんだけどな。  
 つられてしまったんだからしかたない。流されるのは得意なんだ。それに恥の一線を越えてしまえば、あとは楽しいだけだった。  
 たまに車や自転車なんかが大声で歌いながら走っているのを見るにつけ、丸聞こえなんだけど恥ずかしくないんだろうか、と斜に構えていたが、ここは俺が謝る所だろう。済まん。悪かった。  
 なるほどラブアンドピースを叫びたくなるわけである。歌を歌いながら走る道のりは素晴らしい。鶴屋さんはともかく、俺の歌がはた迷惑であることは否めないが、それでも声を張り上げる。  
 駅に向かう一本道の下り坂は一夜限りのステージと化し、そしてそのステージは、鶴屋さんの悲鳴で唐突に幕を閉じられた。  
   
「キョンくん! 前!!」   
 今まで誰もいなかったはずの空間。自転車の鼻先に、手を広げた朝比奈さんの姿が現れる。  
 くそ、なんて無茶を!  
「っ!」  
 反射的にハンドルを捻じ曲げ、車体を傾かせながらアスファルトに弧を描いて縁石に乗り上げたのを最後に、自転車は俺の体から離れる。  
 一蹴の浮遊感の中、鶴屋さんの小さな悲鳴が聞こえる。抱きついてくる体温。俺は背中から落ちないことだけ考えながら、顔面を道路脇の草地に擦りつけた。  
 頬に幾つもの熱い線が引かれ、ついた手の平に細かい小石が突き刺さる。背中に軽い体重が掛かっていることを考えると、どうやら鶴屋さんを放り出さずに済んだらしい。重さに感謝。  
「キョンくんっ!?」  
 鶴屋さんの二度目の悲鳴が耳元で響き、背中に乗っていた体重が消える。  
「……大丈夫。ちょっと擦っただけです」  
 立ち上がった俺の頬に、鶴屋さんは自分のポケットから取り出したハンカチを添えてくれる。少し血が出ているらしい。  
「ホントに? ホントに大丈夫? どこも痛くない?」  
「ええ、全然」  
 本当はあちこち痛いのだが、小石が刺さった程度で、無視できるレベルだ。一度ナイフで刺された経験があるからな。おかげで随分我慢強くなった。  
 視界にちらつくハンカチの向こうで、朝比奈さんは手を広げた姿勢のまま、じっとこちらを見つめていた。よかった、無事みたいだ。  
 自転車に目をやる。こっちは前輪がひどく曲がってしまっていた。これじゃ走れそうにない。  
 俺は放り出された鞄を回収し、親が撃たれた小熊のように心配そうにしている鶴屋さんの手を取る。  
「少し歩いて、タクシー拾いましょう」  
「ちょ、ちょっと待ってよっ。少し休まないと、まだあちこち……ううん、その前に、あの子に謝らないと」  
 朝比奈さんに駆け寄ろうとする鶴屋さんを、手を引いて制す。  
 鶴屋さんは少しよろめいて、俺に向かって何事か言おうと口を開いたが、  
「あなた達を行かせるわけにはいきません。キョンくん、昨日言ったとおり、あたしと一緒に来てもらいます」  
 先に声を発したのは朝比奈さんだった。普段のマシュマロボイスと違って、愛らしくも硬い、糖度抑え目の板チョコみたいな声だ。あんまり似合ってない。  
 俺は聞こえないフリをして、鶴屋さんを連れて歩道に上がろうとする。  
「キョンくん、あの人、今……」  
「ほら、鶴屋さん。しっかり歩かないと」  
 遅くなりすぎると、泊まるとこ探す時間が無くなってしまいます。それこそいかがわしいホテルぐらいしかね。  
 それでも、鶴屋さんは足を止めたまま動こうとはしない。  
 ただ優しく、  
「ね、あの人、キョンくんを迎えに来たんでしょ?」  
 
 俺は首を振る。  
「いえ、知らない人です。もう春ですからね。変な事を言う人が出てきてもおかしくないでしょう」  
 色々なものが花開いてしまう季節だ。開いてはいけないものも開いてしまうもんさ。  
「自転車は壊れたけど、あの人は幸い怪我一つ無いみたいだし、ここは当初の計画を優先して……」  
 しかし、俺の言葉を千切るように、握っていた手が振り解かれる。  
「鶴屋さん?」  
 笑顔を消した鶴屋さんは数歩後ずさると、腰に手を当てて、  
「キョンくん、嘘ついたねっ。お姉さんは悲しいなっ」  
「俺は何も嘘なんて、」  
「あたし全部知ってんだからっ。キョンくん、もう帰らないといけないんだよね?」  
 人並み外れて鋭いあなたにしては珍しいですが、生憎と外れです。  
「鶴屋さん、いいですか? あの人は知らない人で、俺は今から帰るんじゃなく、旅行に行くんだ」  
 二人で一緒に、温泉でも目指して。  
「何を想像しているのか知りませんが、それはただの考え過ぎです。大丈夫、心配しないでも、俺はどこにも行きませんから」  
 しかし鶴屋さんは、こんな表情を見たのは初めてだ、寂しそうに薄く笑うと、  
「ダメだよ。旅行なんていつでも行けるけど、帰るチャンスはもう無いんだ。ね? 今戻らないと、二度と帰れなくなっちゃうんでしょ?」  
 俺は伸ばしかけた手を止めた。どうしてだ。鋭いなんてもんじゃない。まるで全部知っているみたいな話振りじゃないか。  
 ……まさか、朝比奈さんが。  
 ガードレールが白く浮かんだ歩道の上に、疑念の目を向ける。  
 しかし、  
「どうして、そんなことまで……」  
 朝比奈さんは俺の疑問を肩代わりするかのように、一言零しただけだった。通りがかった軽自動車のライトが照らした表情は、深い戸惑いしか見当たらない。  
 どうなってる。朝比奈さんは何もしていないのか?  
 言いようの無い不安に駆られて、もう一度鶴屋さんの手を取ろうとした俺は、   
「僕が教えた。あんたが昨日、そいつと会っている間にね」  
 草地の奥の木に寄りかかって、薄笑いを浮かべている男を見た。  
 
「……てめぇ、なんでこんな所にいやがる」  
「自分の時間に戻れないのは、僕としても困るんでね。この件はさっさと片付けておかなくちゃならない」  
 かつて朝比奈さんを俺の目の前で攫った未来人野郎は、偉そうな足取りでこちらに近づきながら、  
「それに何故かあんたの名前は僕の今後の予定表にも記されている。正直言って、あんたがどこでどうなろうとさして興味は無いんだがな、ふん、任務は任務だ。元の時空まで牽引してやらねばなるまい」  
 そのまま俺を挟んで歩道と点対称になる位置まで歩くと、立ち止まって朝比奈さんに鋭い目を向ける。  
「しかし、放っておいてもあんた達の方で上手く処理してくれると思っていたが。まったく、念のために監視しておいて正解だった」  
 視線はそのままに、口元を嘲りの色に歪ませ、  
「朝比奈みくる。彼女はあっちではあんたの友人だそうだが、そこにいる彼女は別人だ。二人を重ねて感傷的になるのは勝手だが、それでこの仕事をおざなりにされたんじゃ、僕としても非常に迷惑を被る。わかるか?」  
 子供に言い聞かせるような口調。気に障る。朝比奈さんは俺の苛立ちが感染したかのように、  
「そんな! おざなりになんてしてません! キョンくんが事故に巻き込まれたのは、あたしの責任なんだから、あたしが、あたしがきちんとやらないと」  
「口ではなんとでも言える。だがあんたのやり方を見ていると、わざとそいつらに逃げ道を作っているとしか思えないな。最低限の努力で浅ましくも自らの責を果たしたように見せかけ、あとはご両人の選択に丸投げしようという魂胆が見え見えだ」  
「逃げ道なんて……、あたしはただ、二人に時間を」  
「なら、そいつが寝ている間にでも縛り付けて連れ出せばよかったんだ。あの宇宙人の手を借りたっていいさ。どうとでもできたはずだろう? なのにあんたはやらなかった。二人に時間を与えるふりをして、責任から逃げていたに過ぎない」  
 朝比奈さんは鞭打たれたように顔を俯け、押し黙る。そいつは面白がる様を隠そうともせず、  
「いくらここが僕らの時空とは関係無いからと言って、あんたの立ち位置が変わるわけじゃない。それともそっちの連中は、下世話なヒューマニズムを規定事項の上に位置づけているのか? だとしたら僕には何も言うべきことは無いんだがね」  
「おい!!」  
 俺は声を荒げた。いい加減ムカつくんだよ。  
「朝比奈さんに嫌味を言うためにわざわざ来たのか? てめえも大した暇人じゃねえか」  
 未来人野郎は、睨みつける俺をつまらなそうに一瞥すると、  
「とにかく今までは見逃していたが、この期に及んでまで愚かな真似を続けられると、流石に手を出さないわけにはいかないということだ。もっとも、あまり体力を浪費したくなかったのでね。楽な方法を取らせてもらった」  
 朝比奈さんは弾かれたように顔を上げ、  
「あなた、一体何を……」  
 そいつは落ち着き払ってまた数歩下がると、  
「さっきも言ったろう。そいつが元の時空に帰るという事を彼女に話したって。こんな下らん任務は、それだけで十分片付けられる」  
 どういう意味だ、と追求しようとした俺の前に立ちはだかったのは、いつもみたいに明るく笑う、鶴屋さんの姿だった。  
 そして、いつもみたいに良く動く口で、  
「キョンくん、お別れだねっ」  
 軽く軽く、別れの言葉を。  
 

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