「本当はさ、幽霊の話聞いたときから……ううん、もっと前から不思議な話とか、変な噂とかを聞くたびに、いつも覚悟してたんだ。だって不思議なことがあれば、それはキョンくんが話してくれた元の世界とどっかで繋がってるような気がするじゃんっ」  
 覚悟なんてすることない。今だってそうだ。元の世界もくそもあるもんか。俺はずっとここにいるんだから。  
 しかし、鶴屋さんの言葉は止まらない。  
「あたし、ずっと面白いことないかなーって考えててさっ、いや、前から面白いこと沢山あったんだよっ? でももっと、どっかーんって感じの奴が来ないかなーってぼんやりと考えてたんだ」  
 大げさなジェスチャーを交えながら、  
「だから、キョンくんがうちの別荘に来た時、この人何かあるんだって思って、凄くワクワクしたよっ。ひょっとしったらすげー面白いことを持ってきてくれるかもって。そんで凄く迷ったけど、文芸部室に行ってみることにしたっさ」  
 片手で拝むようにして、悪戯っぽく片目を瞑ると、  
「今だから言うけど、あの時本当はちょっと怖かったんだ。あんまり先生達の評判も良くないみたいだったし、ただの変な人だったらどうしようってさっ。ごめんねっ」  
 構いませんよ。実際ただの変人だ。  
「でもさ、別の世界から来たって話を聞いたら、そんなんはどこかに吹っ飛んじゃったよ! わお、この人あたしのために来たようなもんじゃんっ、とか勝手に思ったりして!」  
 そう思ってもらったって、俺は全然構わない。  
「あたしも文芸部に入って、一緒に元の世界の手がかりを探し回った。いつかキョンくんが帰るとき、あたしもその場に居合わせれば、迎えに来たUFOみたいなのが目撃できるかもって、楽しみにしてた」  
 それはご期待に添えないな。俺だってまだUFOは見たこと無いし。  
「でも、その内そんなのはどうでも良くなって。帰る手がかりが見つからなくてキョンくんが少し残念そうな顔をする度、あたしはほっとするようになって。まだ一緒にいられるんだなぁって」  
 恥ずかしそうに、はにかむ。告白されてるみたいでドキドキするな。したことはあっても、されたのは初めてだ。  
「それでも、いつかは帰っちゃうに決まってるんだからさ、あたしからは何かするつもりは無かったんだっ。嫌がられるに決まってるって思ってたからね」  
 鶴屋さんを嫌がるなんて、コオロギ大の脳みそになっても有り得ないだろう。  
「それだからさ、キョンくんが好きって言ってくれた時、すげー恥ずかしかったし、同じくらい困ったし、本当はいけないって解ってたんだけどさ、結局そんなの考えられなくなって、OKしちゃった」  
 鶴屋さんは誤魔化すように笑いながら、自分の髪の先をいじくった。  
「そっからは、周囲も羨まんばかりの形影相伴いっぷりだったねっ。あたしらは超仲良しだっ! よく考えたら、会ってまだ一年も経ってないのにさ。その、付き合ってからはたったの三ヶ月だし。何だか信じられないなっ」  
 わたわたと言う。  
 たったの三ヶ月。だけど、俺にとっては何十年にも匹敵するほど価値のあるものだ。ハルヒがたった一人で世界を塗り替えたように、そういうのは定規で測れるもんじゃない。  
 一息ついた鶴屋さんは、笑顔の色を落とさないまま、俺を真っ直ぐに見た。  
「でも、キミには元の世界があるんだからねっ。あたしは少しの間、貸してもらってただけなんだ。ずっと決めてたことなんだよ。誰かがキミを迎えに来たら、ちゃんと返してあげようって」  
「……俺は返却不可ですよ。というかお買い上げ品です」  
 ただ首を横に振る鶴屋さん。長い髪が夜の中でも僅かな光を反射させる。  
「いいの、あたしに気を使わないで。キョンくんはただ、寂しかっただけなんだよ。元の世界の人たちの代わりに、あたしを選んだ。そしてあたしも刺激が欲しかっただけ。あたし達は、お互いたまたま傍にいて、本当はただ、」  
 何か言おうと半開きになった唇を、俺は自分の唇で塞いだ。   
 
 口を離すと、潤んだ大きな瞳を一度目に映してから、鶴屋さんを胸元に掻き抱いた。  
 柔らかくて暖かい。誰にもやらん。  
「代わりだって? 勝手なこと言わないでください。何にでも代わりなんてありませんでしたよ。ハルヒにだって長門にだって朝比奈さんにだって古泉だって、元の世界もこっちの世界も、代わりなんかききやしないんだ!」  
 俺は街頭演説車のようにやかましく叫ぶ。  
「それでも俺は鶴屋さんが好きだから今まで一緒にいたし、これからも一緒にいる! それだけだ! 代わりだの気遣いだの面倒臭いことなんてな、一々考えてられるかっつーの!」  
 そのまま、立ち尽くす朝比奈さんに顔を向ける。  
「朝比奈さん、皆に伝えてくれ。俺はもう戻れない。約束したんだ。これから温泉に行かないといけないし、帰ってきたら機関誌を仕上げないと。春休みになったら、谷口と国木田と一緒に寺でお払いしてもらわなくちゃならない」  
 予定はエベレストよりも山積みなんだ。全てを放り投げて帰るわけにはいかない。  
 何も言えずに固まっている朝比奈さんを置いて、もう一人の未来人は馬鹿にしたように言う。  
「愚かだな。元の時空にも同じだけのものがあるだろう。それを理解しているのか?」  
「してるさ。そして決めた。三ヶ月前に」  
 度し難い、と言わんばかりに眼光を鋭くしたそいつは、しかし、どうしてか全て受け入れるように目を閉じた。  
 その意味を考える暇も無く、  
「キョンくん」  
 頬に手を添えられて、俺は導かれるまま、もう一度キスをした。馴染む他人の体温。ずっとこのままでいられればいいのに。いつかと同じことを考える。  
 顔を離せば、どこぞのお嬢様みたいに柔く微笑む鶴屋さん。  
「本当言うとね、きっと、キミはそんなふうに答えてくれるんだろうなって思ってたんだよ。ありがとう、キョンくん」  
 俺の胸をそっと押して、  
「ごめんね」  
 何が、と口に出す前に、体中の神経が断絶し、俺は地面に突っ伏した。  
 
 
 またしても顔に、ザラメのような小石がめりこむ。わけがわからん。  
 何だこれは。何が起こった。  
 潜水艦に詰め込まれたように狭まった視界の中で、朝比奈さんが駆け寄ってくるのが見えた。  
「キョンくん!? なんて事を!…………あなた、鶴屋さんに何を吹きこんだんですか!」  
「何度言わせる気だ。僕はただありのままを話しただけ。今の行動はすべて彼女の意志さ。あんたこそ、何を突っ立ったままでいるんだ。さっさとそいつを連れて行け。もうあまり時間は残されていない」  
「……だって、だからって、こんなの無い、こんなの、無いよぅ」  
 下手糞なレゴブロックのように歪に固められていた朝比奈さんの声が、悲愴なものに変わる。  
 誰だよ、泣かせた奴は。さっさと出てきやがれ。公園の水洗便所に流してやるから。  
 何とか慰めなければと思いつつ、どうしてか動かない体を持ち上げようとすると、   
「キミ、朝比奈みくるでしょっ。あたしの親友なんだよね? じゃあ、親友からのお願いだっ! この人を、キョンくんを、元の場所に帰してあげて」  
 鶴屋さん。すぐ傍にいる。寝返りを打つように体をひっくり返すと、逆さまに制服のスカートが見えた。そして、手にぶら下げられたスタンガン。  
 あれかよ、畜生。  
 俺には使わないって言ったくせに、思いっきり使ってるじゃないか。  
「どうして……どうしてだ……」  
 電流で狂わされた舌を必死に回す。これじゃまるで、死ぬ間際のうわ言だ。  
 逆さまになった鶴屋さんが、俺の傍に立った。  
「キョンくん、あっちに残してきたものがあるんでしょう? いけないなぁ、何事も中途半端はよくないよっ。あたしの彼氏はかっちょいいからね、そんなことはしないんさっ!」  
 鶴屋さんは顔が見える位置までしゃがみ込むと、にひひっと笑い、髪を俺の頬に落として、前にそうしてくれたように額をそっと撫でる。  
「だから、ね? バイバイ、キョンくん」  
 すぐに立ち上がって、どこかへ歩いていってしまう。  
 胸にわけのわからないものがこみ上げてきた。  
 まずい。この状況は、最悪じゃないか。  
 このままじゃ本当に俺は、  
「バイバイ……じゃ、ない……」  
 頭も舌も回らない。  
 涙が出てきた。ただでさえ狭まっていた視界が、どんどん歪んでいく。  
 どうしてだよ。またいなくなっちまうのか。また一人ぼっちに、俺はなるのか。  
 自分のものとは思えないほどみっともない呻き声が、喉から漏れた。  
「キョンくん」  
 誰かの手が、俺の握った拳を包んだ。懐かしい感触。でも今は違うんだ。鶴屋さんの手を握りたいんだ。  
「あたしも決めました。あなたを連れて帰ります。鶴屋さんのお願いを……いえ、自分の責任を果たします」  
 待って、待ってくれ。頼む。もうちょっとだけ、  
「……おい、ちょっと待て」  
 
 声が出た。いや、違う。俺の声じゃない。  
 誰かの手が、俺の体をまさぐった。懐かしくもなんともない。何しやがるんだよ、この野郎。  
「ふん、僕が知るか」  
 不快感に身を任せていると、そいつは立ち上がり、鶴屋さんと同じ方向に歩き去った。  
 しばらくして、小さくなった声が聞こえる。   
「あんたのものだ。中身は期待するなよ。どうせ安物だ」  
 あいつ、まさか。  
「え? これ、なに……」  
 鶴屋さんの声も聞こえる。よかった。まだいるんだな。  
「学校が終わってすぐ飛び出して行くものだから何事かと思えば、ただの買い物とはな。お陰でこっちは走り損だ。せめてあんたの手に渡さないと、僕の尾行が本当に無駄になってしまう」  
 うるせえな。もうすぐホワイトデーなんだから、準備するのが当然だろうが。  
「これで手を貸すのは最後だ。僕は戻る」  
 そいつの声は、それっきり消えた。  
「あたし達も、もう行きます。体が消えかかってる。時間がありません」  
 嫌だ。行きたくない。行くもんか。  
 何とか動く手首だけで、あがく。  
 しかし、がっちりと握られた手は、解ける気配を見せなかった。  
「……待って」  
 鶴屋さん。  
「行きます。キョンくん、目を瞑って」  
「お願い! 待って! その人を、その人を連れていかないでよっ!!」  
 駆け寄ってくる気配がする。地面に半分埋まった視界の中に、逆さまの足が見えた。  
「キョンくん、目を瞑って。でないと危険です」  
「嫌だよっ! 行かないで! 行かないでキョンくん!!」  
 夜が深くなるように、見えるものはもう無くなった。それでも俺は、目を瞑らない。  
 投げ出された手を伸ばした。  
 ごめんなさい、と朝比奈さんが零す。  
 伸ばした指先が何かに触れて、  
 
「       」  
 
 本名で呼んでくれたのは、初めてだった。  
 
 
 目を覚ませば、自分のベッドの上ならいい。  
 また妹に起こされ、悪い夢を見たとぶつくさ言いながら坂を上り、谷口や国木田と面白くも無い会話をして、鶴屋さんと部室で笑う。いつもの一日だ。  
 ろくな食べ物も無い国で、当たり前に食事する事を羨むように、俺はずっとそんな夢を見ていた気がする。  
「キョンくん、起きて。起きて下さい」  
 現実が耳に迫り、とうとう俺は目を開けた。  
 自分の部屋の質素な天井ではなく、花粉症でも患ったかのように霞がかって茫洋とした春の空が視界一杯に広がっている。  
 頭の裏には、またしても小石が食い込んでいる。しかし草の濡れた感触はなく、そびえ立つ校舎を見れば、ここが北高の校庭であることが知れた。  
「朝比奈さん?」  
「はい」  
 声の主を探そうと起き上がると、そっと背中を支えられる。どうやら後ろにいたらしい。  
 振り返ると、そこには瞼を伏せた朝比奈さんだけじゃなく、  
「……長門」  
 記憶の中でも錆びないまま硬質な存在感を放っていた宇宙人製ヒューマノイドインターフェイスが、そのままの姿でそこに立っていた。  
 本当に、戻ってきちまったんだな。  
 長門はささやかに頷くと、  
「あなたが意識を失っている間に、攻性情報ウィルスを送信した。じきに情報生命体は消去される」  
 消去。  
「俺が今までいたあっちの世界は、どうなるんだ」  
「不明。観測が不可能になるとしか言いようが無い。ただ、あなたが消える心配は無くなった。先ほどから構成情報は維持されている。涼宮ハルヒにより存在の固定化が施されていると推測される」  
「……そうか」  
 俺は消えないのか。  
 他のみんなは消えちまうかもしれないってのに、俺だけここで、のうのうと生きるのか。  
 かかる重力が増した気がして、俺は膝をついた。まだ少し、体に痺れが残っていたのかもしれない。  
 追い討ちをかけるように、朝比奈さんの雨のように温度の低い声が、背中に降り注ぐ。  
「キョンくん。あなたが持つあちらでの記憶は、ここで生きる上では有害なものとなります。あたしは、あなたの記憶を改竄しなくてはなりません」  
「かい、ざん……?」  
 俺は顔を上げて、枯れ木のように頑なに、そして頼りなく立つ朝比奈さんを見上げた。  
「正確に言うと消去です。幸いにして、こちらではあなたが消えてからまだ数日しか経っていません。その間のあなたに関する情報操作は古泉くんが便宜をはかってくれています。あなたの記憶さえなくなれば、あとは全て元通りになる」  
 無くなる? 記憶がか?   
 あっちの世界だけじゃなく、俺の記憶まで消えたら、どうすんだよ。鶴屋さんは、どうなるんだ。あの部室に、一人っきりじゃないか。  
 パニックで目を回しそうな俺に、朝比奈さんは玩具のように小さな銃を向けた。  
 記憶にあいた小さな穴から、印象が零れる。あれは、確か長門の、  
「長門さんに作ってもらいました。今回の件はあたしのミスです。だからあたしが、全てやり遂げなくてはなりません。あなたを連れ戻すのも、あなたの一年間を奪うのも」  
 朝比奈さんは、唇を噛み締めた。よほど強く噛んだのだろう。熟れた桃のような色が、鬱血してしまっていた。  
「憎まれるのも、あたし一人。どうぞ、気の済むまで罵ってもらって構いません。あなたを起こしたのはそのためなの。あなたは全て忘れてしまうけど、あたしはそれをずっと覚えておくから」  
 そうか。そんなことのために、わざわざ。  
「じゃあ、一発殴らせてください」  
 朝比奈さんは欠片も動揺せずに頷くと銃を下ろして、  
「どうぞ。いくらでも」  
 俺は立ち上がり、朝比奈さんに手が届く距離まで詰め寄る。  
 そして、手を振り上げた。  
 朝比奈さんは目を瞑らず、背けもしない。柔らかく見えて、本当は硬い。  
 俺はそれを見て、だからこの人は過去に来る資格があったんだ、と誇らしさすら感じながら、振り上げたのと逆の手を素早く動かして、小さな銃を奪い取った。  
 
 朝比奈さんは俺の行動に気づいてもさして驚きもせず、  
「そんな事をしても無駄です。あたしが撃たなくても、長門さんがあなたの記憶を奪うでしょう……でも、あたしに撃たせない事が罰だというのなら、それでも構いません」  
 どっかの未来人野郎じゃあるまいし、そんな嫌らしいことをする気は毛細血管ほども無い。  
「長門。朝比奈さんが持ってる今回の件に関する記憶を、全部消してくれ」  
 朝比奈さんは一瞬意味が理解できなかったのか、目を元のアーモンドの形に戻したが、すぐに眉を引き上げ、   
「な、何を言ってるんですか!? そんなことしたって、なんの意味もありませんっ!」  
 銃を奪い返そうと手を伸ばしてくるが、そこはやはり朝比奈さん。俺はあっさりと身をかわして、逆にそのまま肩を抑える。  
「別に俺は、朝比奈さんを憎んだりしません。あなたは何も悪くない」  
 純度100パーセントの本音だった。あの無茶苦茶になった時間航行で、必死に俺を助けようとしてくれた声は、今も耳に焼き付いている。  
「第一、朝比奈さんに罵詈雑言を投げかけようものなら、俺の体が拒否反応を示してガン細胞を生成してしまいかねませんから」  
 暗い顔の朝比奈さんなんて、できれば一生見たくないね。芸術に墨を被せるような愚挙を誰が犯すもんか。  
 俺は、もがく朝比奈さんの動きを封じたまま、  
「頼む、長門。お願いだ」  
 お前だって、涙の入った塩辛いお茶なんて飲みたくないだろ?  
 朝比奈さんは、それこそ涙を流しながら髪を振り乱す。  
「やめて、お願い! あたしが忘れちゃったら、二人の事を誰も、」  
「長門! やってくれ!」  
 俺の声を聞きいれてくれたのか、一瞬で朝比奈さんの隣に移動した長門は、すっかり血色の悪くなってしまっている腕に、素早く噛み付いた。  
「うぅっ」  
 朝比奈さんの手が、空を掻くように揺れて、  
「ごめん、ごめんなさい。ごめんね、二人とも、ごめん……」  
 俺の頬を一瞬撫でて崩れ落ちながら、幼子のような泣き声を口ずさみ続ける。  
「心配しないで下さい。あなたは誰も傷つけてないですから」  
 じき眠ってしまった朝比奈さんの頬には、乾いた涙の跡が幾つも残っていた。  
 
 ブレザーの上に朝比奈さんを寝かせ、俺は長門と対峙する。  
 当たり前と言えば当たり前なんだが、記憶と寸分違わないな。きっと何億年経って親を見間違うことはあっても、こいつを見間違えることはないだろう。  
 俺は一人で抱え込むには壮大すぎる感慨を抱きながら、  
「なあ、俺がここで逃げ出したら、お前はどうする?」  
「追いかけてあなたの記憶を奪う」  
「やけになってお前に殴りかかっていったら?」  
「あなたの気の済むようにさせたあと、記憶を奪う」  
 お前ら、揃いも揃って俺を暴漢に仕立て上げるつもりなのか。  
 俺は苦笑しようとして失敗し、ともすれば嗚咽をもらしてしまいそうになる喉を絞って、  
「なあ、本当にどうしようもないのか。俺は何かできないのか。何も残らずに、終わっちまうのか」  
 長門は瞬き一つせず、  
「あなたには何もできないし、させるつもりもない。何も残らないかどうか、私には判別をつけることもできない」  
「……そうか。そうだな」  
 お前がそう言うんなら、きっとそうなんだろうな。  
 俺は黙って校舎を見上げる。さっきまでいたのと同じ校舎に見えるのに、中身はまるで違うんだ。文芸部室には二人じゃなく五人いて、機関誌作りなんて真面目なことはせず、ただ遊んでばっかりいる。  
 どっちがどうだの言うつもりは、これっぽちもない。  
 ただ、その二つは違うって、それだけの話。  
 俺は長門の乾いた目を見た。  
「長門、俺に対して済まないと思っているんなら、一つだけ約束してくれないか」  
 長門は軽率に頷いたりせず、  
「内容による」  
 安心してくれ。世界がどうのとかいう、そんな大したもんじゃないから。  
「覚えておいて欲しいんだ。俺が鶴屋さんの事を本気で好きだったってこと。絶対忘れないでいて欲しい」  
 お前の記憶力は人一倍いいだろ? しかも、外付けHDDとかありそうだしな。イメージ的に。   
「どうだ?」  
 俺が改めて尋ねると、長門は、驚くべき事に、顎が首につくほど深く頷き、  
「わかった」  
 言葉を形にするように、はっきりと答える。  
「最期まで、決して」  
 お前らの最期って、きっと太陽とかが無くなってからだいぶ経った後なんだろうな。  
 人類が終わっても宇宙に残る想い、なんて大げさ過ぎる。誇大広告の見本みたいな表現だ。中学生のポエムレベル。この歳で愛なんて語る気なんて、更々無いんだけどな。  
 それでも、ちっぽけなラブロマンスの結末としては、そう悪いもんじゃないだろうさ。  
 俺は、震える手で冷たい銃をこめかみに押し当て、  
「頼んだぜ、長門」  
 
 微睡むように鶴屋さんと二人っきりの部室を思い浮かべながら、俺は笑って引き金を引いた。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 目を開くと、白い天井が無機質に俺を見下ろしていた。ブラインドの影に沿って、明るい天然光が電灯の隙間を縫って自己主張している。  
 ……どこだここ。家じゃねえな。俺の部屋はこんなに清潔じゃないし、消毒液っぽい匂いもしない。完全に知らん場所だ。  
 ん? 消毒液? 待てよ。何だか微妙に見覚えが、  
「おや、目を覚ましましたね」  
 起き抜けに聞くのは逆に辛いぐらい爽やかな声を耳にするにあたって、俺の意識は瞼にマッチ棒を挟んだかの如く完全に覚醒し、この場所が何処だか光の速さで思い至った。  
「おい、古泉。何がどうなってる。どうして気づいたら病院にいるんだ、俺は」  
 間違いなく、ここは古泉の仲間が経営してる胡散臭い病院だ。間違いない。このベッドにはしばらく前にも一度お世話になったことがある。  
 首を捻ると、目を線のようにして微笑む私服姿の古泉が、  
「起き抜けで口寂しいでしょうし、リンゴでもいかがです……と言いたい所なんですが、まだ剥いていませんでした。今着いたばかりですので。もう少し眠っていていただければ、ウサギの形にでも切って差し上げたんですがね」  
 いいよ別に。男の、それもお前の手で剥かれたリンゴなんぞ、五年に一度食えれば十分だ。  
 脇に置かれた茶色の紙袋からリンゴを取り出そうとする古泉を止め、とりあえず現状の説明をさせる。  
「あなたは数日前、朝比奈さんと時間航行を行なおうとして失敗し、どこか別の世界へ入り込んでしまっていた、らしいです。僕も伝聞でしか知りませんので、詳しい事は話せませんが」  
「数日前だって?」  
 古泉が告げた今日の日付は、俺の記憶にある数字より一週間ほど進んだ休日のものだった。  
「ちょっと待てよ。確か俺は、ホワイトデーの計画が組み終わったことに安堵して、部室にいたら朝比奈さんに声をかけられて、それから、それから……」  
 それから、数日間なにやってたんだ?  
「長門さんの仰るとおりでしたね。別の世界にいた時の記憶は、欠落しているはずだ、と。無理な時間航行の副作用だそうです」  
 本当かよ。俺は数日間を意識の彼方に捨ててしまったのか。何となく、損した気がするんだが。   
「まあ、無くなってしまったものはどうしようもありませんし、神隠しにでもあったんだと思っておいた方が、精神衛生上よろしいかと」  
 古泉の下手な慰めを横に聞き流しつつ、  
「で、存在しなかった数日分の俺の扱いは、一体どうなってるんだ?」  
 まさか未来から俺が来て、俺の振りをしていた、なんてこと無いだろうな。もしそうなら、俺にはまたやらなくてはならん事が増えてしまう。  
 しかし古泉は、生憎と、と首を振り、  
「未来からあなたが来てくださる様子も無かったので、一応僕の方で特殊な感染症に罹患して面会謝絶状態、という事にしておいたのですが、いや、参りましたよ。涼宮さんの反応が予想以上でしてね。連日閉鎖空間のオンパレードです」  
 ……そうか。  
 まあたしかに俺もあいつが面会謝絶なんてことになったら、流石に焦ってしまいそうだが。  
「それだけならまだしも、病院の理事を締め上げようとしたり、窓から忍び込もうと、ちなみにここは九階なんですがね、屋上からロープを垂らしたり、冗談ではなく本当に寝る暇がありませんでした」  
 確かに、古泉の完璧なはずの笑顔は、いつもの精彩を欠いている気がする。スマイル二十パーセントオフだ。どっちにしろ0円だし、頼むつもりも0なんだが。  
 
「そう言えば、何で見舞いがお前しかいないんだよ。長門と朝比奈さんはどうした」  
 野郎二人の病室なんて寂しすぎるだろうが。サナトリウム文学の匂いがするじゃねえか。  
 俺の女性を求める本能を古泉は笑顔でいなし、  
「昨日あなたが運ばれて来た時には、長門さんもついていましたよ。今日は少しやることがあるとかで、遅くなるそうです。夕方ぐらいには顔を見せて下さるんじゃないですかね」  
 夕方か。そう言えば、今はまだ昼みたいだな。前回ここで目覚めた時は、たしか夕日が見えていた筈だ。  
「涼宮さんについては、入れ違いです。あなたが起きる少し前に朝比奈さんも目覚められたそうで、早速お見舞いに飛んでいってしまいましたよ」  
 残念でしたね、と何か含みを持たせる言い方をした古泉を無視して、  
「待て。朝比奈さんも何かトラブルに巻き込まれたのか?」  
 そういえば、時間航行の失敗とか言ってたよな。だとすれば、朝比奈さんも俺と同じように?  
 飛び上がって目の色を変える俺に対し、古泉は落ち着き払って、  
「彼女はあなたを探すためにしばらく学校を休んでいただけです。一応あなたと同じ感染症に罹ったことにして身動きを取りやすくしておいたのですが、ただ、昨日何かあったようでして。ここに運びこまれた時は、あなたと同じく昏睡していました」  
「大丈夫だったんだろうな!?」  
「ええ、ご心配なく。言ったでしょう? あなたより一足先に目覚めたと。長門さんによると、あなたと同じく数日分の記憶を失っているそうですが、それ以外の五体満足は保証する、だそうです」  
「そうか……」  
 俺を助けるために、朝比奈さんは記憶を失ってしまったのだろうか。だとしたらますます頭が上がらないな。  
 なんせ朝比奈さんの一日は、俺の一年に匹敵するほどの輝きを秘めている。ヒエログラフを一頁燃やしてしまうのと同じぐらいの歴史的喪失だ。  
 後で感謝と謝罪の念を平身低頭で伝えに行かなくてはならない。   
「それにしても、これで一安心ですよ。あなたが見つからなかったらどうしようかと、正直気が気ではありませんでしたからね。最悪の場合を想定して幾つか会議も持たれたぐらいですが、いやはや、無駄になって何よりです」  
 古泉は、俺の懊悩にクッションを挟むように話題を変える。  
 その会議ではどんな議論が飛び交っていたのか聞いてみたい気もするが、それ以上に聞きたくないな。  
「後は仕上げに、涼宮さんをこちらに呼んで不安を取り去って差し上げるだけですね。彼女が無事なあなたを見てどんな表情をするのか見物ではありますが、そこは好奇心を殺して、お邪魔にならない所に引き下がるとしましょうか」  
 古泉は立ち上がり、病室の入り口へ向かう。俺はリアクションを返すのも面倒なので、そのまま放っておく事にした。  
「ああ、そうでした。あなたに長門さんからの伝言があります」  
 扉の前で振り返り、教育番組のお兄さんのように人差し指を上に向けると、  
「『仮想STCデータのアウトラインをリンクが維持できる最低限のレベルで保存することが許可されたので、念のため私の管轄サーバーに保存しておく』だそうです」  
「……何の呪文なんだ、それは」  
「あなたがそう言った時の伝言も預かっていますよ。『何も無くならない』とのことです」  
 いや、それでもさっぱりわからんのだが。  
 疑問符を浮かべる俺に対し、  
「さて、一体なんの話なんでしょうね?」  
 古泉は訳知り顔で笑うと、さっさと部屋から出て行ってしまった。  
 
 しばらく寝転がったままで、長門が残した謎の伝言について思考を巡らせていると、  
「こらぁ! アホキョン!」  
 ここが病室だという大事なことを忘れさせてくれそうながなり声と共に扉が開き、数日振りらしいハルヒが相も変わらず偉そうな姿を現した。  
「あんたねぇ、何勝手に感染症とか偉そうなもんに罹っちゃってんの! ばっちいわね! お陰でここ何日かの予定がパーよパー! どう責任とってくれんの!」  
 枕元に立つや否や、文句の嵐である。これのどの辺が心配してるってんだ、古泉よ。  
 俺は少しばかりしおらしいハルヒを期待してしまった自分に対し心からの罵声を浴びせつつ、  
「やかましい。ちょっとは声を落とすとかしろ。ここは一応病室だぞ。第一、俺だって好きで病気になったわけじゃないっての」  
 そもそもなってもいねえ。  
 俺が反論すると、ハルヒはより一層語気を荒げてくる、と、思ったのだが、何故か無言で古泉が座っていた丸椅子に座ると、  
「…………」  
 いきなり俺の顔をぺたぺたと触り始めた。何なんだ一体。触診スキルでも獲得したのか。  
 そして、特に感想を言うでもなく手を離すと、紙袋からリンゴと果物ナイフを取り出し、  
「このリンゴ、鶴屋さんがお見舞いにってわざわざ取り寄せてくれた来てくれた超高級リンゴなんだからね。本当はあんたなんかに食べさせるのはもったいないんだけど、今日は面会記念で特別だから、あたしが剥いたげる」  
 おいこら、俺の顔面はスルーかよ。  
 ひょっとして、なんか変なでき物とかできてるのか? 古泉の奴、鏡ぐらい用意しとけよな。  
 不安になって自分の顔をまさぐっていると、  
「ほら、口開けなさい」  
 信じられないスピードで綺麗に剥き、さらに一口大に小分けしたリンゴを持って、俺の鼻先に突きつけてくる。  
「ちょ、ちょっと待て。そんぐらい自分で」  
「いいから! 口開けなさいって言ってんの!」  
 昔話に出てくる鬼の如き形相に押され、ついつい口を開けてしまう。  
 そこに押し込まれるリンゴ、と、ハルヒの指。  
 ……押し込みすぎなのではないだろうか。思いっきり指が入ってしまってるんだが。  
 ハルヒは固まる俺を面白がるように、スッと指を引き抜くと、  
「どう? 美味しいでしょ?」  
 正直ハルヒの指のせいで味なんてわかりゃしないんだが、とりあえず頷いておく。  
 しかしこのリンゴ、凄い汁気だな、おい。さすが高級品。鶴屋さんはいつもこんなの食ってんのか。  
 びしょびしょになった口元を拭うためにティッシュを探していると、  
「ほら、こっち向いて」  
 いつの間にやらポケットティッシュを取り出したハルヒが、俺の顔を拭おうとスタンバっていた。  
「お前、いくらなんでもそこま、むご」  
「病人は黙ってなさい」  
 そして、敢え無くなすがままになってしまう俺。朝比奈さんならまだしも。ハルヒにこんなことされてしまうとは、屈辱的だ。  
 一気に要介護者になった気分なり、情けなくて泣きそうになっている俺をよそに、ハルヒは鼻歌でも歌いだしそうな顔でティッシュを動かしている。  
 まったく、やれやれとしか言えないな。  
 俺は意外と繊細そうな指を見下ろしながら、意趣返しとして「まさかお前、触りたかっただけなのか」なんてことを聞いてやろうと思ったが、そうすると倍返しの拳を貰ってしまいそうだったので、代理の言葉として、  
「なあ、ハルヒ」  
「ん? 何よ」  
「ホワイトデー、楽しみにしてろよ」  
 何と言っても、古泉と練りに練ったアイディア満載のアミューズメントデイになる予定なんだからな。  
 ハルヒは見る見る内に不敵というより必殺といった雰囲気の笑みを顔一杯に浮かべると、俺の口にもう一つリンゴを突っ込んで、  
「そんなの当然。あんたはあたしを楽しませないとダメなんだからね」  
 理不尽な言葉とは裏腹に、齧ったリンゴはとても甘かった。  
 
 
 
 
 
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 いつかのどこか。  
 何も見えないが、誰かの声だけは聞こえていた。  
「あの宇宙人め、僕を送迎車か何かと勘違いしているんじゃないだろうな。攻性情報ウィルスの借りがあるとはいえ、まったく、今回はあんたらにいいように使われて、どれほど業腹だったか。想像できるか?」  
 知るか。そもそもお前に同情なんかできるほど、感情移入しちゃいないよ。  
「にしても、土壇場で二重化が解けるとは。しつこい男だな、あんたも。それともこれも涼宮ハルヒの…………いや、まさか、あの少女か? 彼女が涼宮ハルヒと同種の能力を持ち合わせていたとすれば、或いは……」  
 ハルヒと同じ力だって? そりゃ物騒な話だな。あんなデタラメな奴が何人もいるなんて、考えただけで寒気がしそうだ。  
「なるほど、そう考えれば色々と説明がつくな。妙な機能を有した情報生命体が発生したことも、あんたがあの時空に無事なままで落ちたことも、そしてこの安っぽい結末も。全て彼女の能力によるものか」  
 安っぽい結末、ね。それは一体誰の結末なんだ?  
「ふ、まるで子供のサイコロ遊びだな。放逸で無自覚で乱数的なくせに利己的。定義もできず他人の操作も受けつけない力など、厄介なだけだ。あんな力に頼って何が……」  
 そいつは途中で、詮無いことだ、と言いたげにため息をつくと、  
「まあどちらにせよ、あんたにとって最もいい目が出たことに変わりはない。あんたの一年間は全て消えるが、結果だけはその手に残る。これがどれほど幸運なことか、あんたは永遠に知ることはないがな」  
 そうか。そりゃもったいない事をしたのかもしれないな。  
「……それにしても、彼女らの好みはよくわからないな。あんたみたいな奴なんて、その辺を探せば似たようなのが幾らでもいるだろうに。時代の変遷による嗜好の差異なのか?」  
 すさまじく大きなお世話だ。  
 そいつはそれっきり黙っていたかと思うと、  
「……おっと、あんたにお迎えだ。これで攻性情報ウィルスの分の借りは返したな。情報生命体もそろそろ崩壊する頃だし、僕はそろそろお暇させてもらおう」  
 声の位置が変わる。そいつはどうやら立ち上がったらしい。  
「あんたとはまた会う予定だが、あんたとはもう二度と会うことも無い。せいせいするよ、とても」  
 こちらこそ、せいせいするさ。   
「ああ、それと、あんたはもう少し男性としての役割を果たした方がいいな。あれではただの腰抜けだ。生理学的に不自然極まりない。もっとも、未来の操り人形を演じ続けるより、よほど自然で正しい道だとは思うがね」  
 最期まで余計な事を言ってそいつはいなくなり、代わりに俺の手が、暖かいものに包まれた。  
 
 
 
 
「やあやあキョンくんっ、遅くなって悪かったね!」  
 人もまばらな下駄箱の前で用務員に植えられた観葉植物のように佇んでいた俺の目の前に、待ち人が片手を振り上げながら騒々しくやってきた。  
「いやー、うちの担任新しくなったってのに、相変わらず話が長くて困っちゃうよ。自分の放談が恋人達の放課後を奪ってるって自覚がまるで無いんだもんなっ」  
 靴を履き替えながら、ちっとも不愉快では無さそうに文句を言う鶴屋さんを尻目に、俺はわたわたと周囲を見渡すと、  
「あの、鶴屋さん。人前で恋人がどうとか言うのは……」  
「あり、恥ずかしい? キョンくん、相変わらずシャイだねぇ」  
 いや、至って普通の反応だと思いますけど。  
 自身のノーマルさを必死でアピールしようとする俺の話も聞かず、つま先で地面をタップしていた鶴屋さんは、  
「まぁまぁ、そういうところもお姉さんは好きだからさっ」  
 白い犬歯を丸く光らせ、空いた方の手で俺の手を握り締めるや否や、スキップでもするかのように歩き始めた。周囲の視線に媚びないアレグロなリズムがこっちにも伝わってくる。  
 しかし、足に合わせて揺れる髪の間から覗く耳は微妙に赤かった。あれだけ人に言っておきながら、自分でもちょっと恥ずかしいのだ、この人は。  
「で、どうだいっ? 学校には慣れたかい?」  
 最近の日課となっているこの質問。俺は心配の必要は無いとばかりに軽く笑いながら、  
「ええ、何とか。未だに知らない人に話しかけられるのは、ちょっと変な気分ですけどね」  
 これまで凡庸な人生を送っていた俺は、高校に入学した途端、とんでもない目に遭ってしまった、らしい。  
 らしいというのは、それが俺の関知しえぬ所で起こったということであり、まあ要するに、記憶喪失とかいうアレである。漫画でしか見たことの無いような現象が、自分の身に降りかかったのだ。  
 明日は我が身どころの騒ぎじゃない。昨日の二次元は今日の三次元だ。  
 俺にとって、まともな最期の記憶は入学式の前日。そこそこの不安と期待を抱きながら結局いつもの時間にすかすかと眠くなったため布団に入ったところで途切れている。  
 そして次に目覚めた時、俺がいたのは、およそ一年後の病院のベッドの上だったのた。  
 唯一の救いは、空白の一年の俺がまともに生活してくれていたことであり、少しばかり不真面目だったらしいが、成績もそこそこで部活もきっちりやっていたらしく、復学する上でさしたる問題は見当たらなかったことだ。  
 さらに、これなら勉強にもすぐ追いつけるだろうし、何よりいつ記憶が戻るともしれないということで、進級も認めてもらった。二年生からのインチキスタートである。  
 まあ、実際は周りが言うほど俺の成績は芳しくなく、一年分の勉強が肩に重く圧し掛かっているのだが、そこはひたすら努力しかない。ようやくクラスに慣れてきたってのに、今更留年は勘弁願いたい。  
 折角新しい友達、では無いらしいが、俺にとっては新しい友達もできたことだしな。いきなり国木田を伴って寺に連れて行かれたのは驚いたが、お陰で変な遠慮が無くなった。  
 
 しかし、いつの間にやら高校二年生になっていたことも十分驚きだったのだが、そんな事より何より驚きなのは、  
『あたし達、恋人同士だかんねっ!』  
 それまで縁のエの字も無かったような美人が俺の彼女になっていたことだ。  
 一体俺は何をしたのか。俺みたいな男がこんな人と付き合えるなんて、かなりえげつない手段を使ったとしか思えない。  
 だから最初鶴屋さんが病院に現れたとき、これは新手の詐欺か何かに違いない、と初めて降りてきた人里に怯える狸のような心境だったのをよく覚えている。  
 話を聞いたり写真を見せられたりする度、その類の不安は解消されていったのだが、後に残ったのもやっぱり不安だった。  
 一年間の記憶が無い俺は、言ってみれば去年の俺とは別人なわけで、鶴屋さんと付き合うなんてのは、どこか他人の彼女を奪っているような気がして、嫌だったのだ。  
 毎日病室に通ってくれる鶴屋さんに向かって、俺と別れた方がいいんじゃないですか、と言った事がある  
 しかし、鶴屋さんは、さっぱりとした顔で明るく笑うと、  
『じゃあ、お付き合いを前提とした親密な友達からってことでどうだいっ?』  
 何だかんだで譲ろうとはしなかった。  
 勿論そんな風に思ってくれるのは嬉しかったのだが、それでも俺は、いつ別れると言われてもいいように、低い壁を作って付き合う事に決めた。  
 仲良くなりすぎてはいけない。鶴屋さんの好意は、一年前の俺に向けられたものなのだから。  
 だけど最近、俺は自分の決心が傾いていく、木の枝が揺れるような音を、耳元で常に聞いている。  
「あーあ、もう桜も散っちゃったよ。早いなー」  
 考え事をしている間に、校門までたどり着いていたようだ。  
 校門の傍に立つ、白いピンクが散って見所の無くなった桜の木を、鶴屋さんは見上げていた。  
 普段の騒がしさが抜け落ちて、それこそ春の花のように可憐な姿だけを残している。  
 密かに見惚れていた俺に、鶴屋さんは向き直る。  
「ね、キョンくんは覚えてないかもしれないけど、もうぐあたしらが出会って一周年記念だよっ」  
 こんなに緊張した鶴屋さんの顔を見るのは、出会ってから初めてだった。カチカチ。  
「だから、いいきっかけだよね。うん、あたし、決めたっ! 本格的に夏になる前に、キョンくんをあたしに惚れ直させてやるんだっ!」  
 春の傍若無人な風が髪を浮かせて流し、青い葉が撒かれているようにも見える。  
「今のキョンくんは、あたしのことがあんまり好きじゃないかもしれないけど、それでもあたし諦めないからっ! ずっと一緒にいたいって、思ってるからさっ!」  
 顔を紅潮させながら言い切った鶴屋さんは俺の手を一度ぎゅっと、安っぽい指輪をつけた方の手で握り締めて、照れを隠すように坂道をハイテンポで下り始める。  
 引き摺られる俺は、前方で生き生きと揺れる長い髪を見つめながら、呆れてため息をついた。   
 そう長くない付き合いの中でも、よく解ったことがある。  
 鶴屋さんは普段フェンシングに使う突剣ぐらい鋭いくせに、肝心なところはカタツムリのように鈍いのだ。  
 このまま行くと、その内我慢できなくなった俺は、そうだな、夏になる前に、この人を公園に呼び出して告白するだろう。  
 何を告白するのかって?  
 そんなの決まってるだろ。  
 
 
 思い出す度に舌を噛み切りたくなるような、そんな言葉を、俺は伝えたいのさ。  
 
 
 
 

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