クリスマスを目前に、突然世界は変わってしまった。  
 それともやはり、国木田や朝倉が言うように、変わってしまったのは俺の方なのだろうか?  
 
 まるで誰かに栞の位置をズラされたかのような不快感。  
 知っているはずの物語なのに、ストーリーが繋がっていない。  
 読み進めていた推理小説は、席を外した間に、スペースオペラに変わっていた。  
 飛ばされたページには、いったい何が書かれていたのだろうか。  
 
 そんな栞の錯覚から俺を救い出してくれたのも、やはり栞だった。  
 文芸部の部室で見つけた一枚の紙切れだけが、唯一、俺の正気を保証してくれた。  
 
 『プログラム起動条件・鍵をそろえよ。最終期限・二日後』  
 
 どうやら俺は『鍵』とやらを揃えなければならないらしい。  
 見事成功すればオープンセサミ。すべての問題が解決するはずだ。  
 しかし出来なければ──、  
 おそらく、この靴下を裏返しに履いてしまったような世界で、異邦人として暮らすしかないのだろう。  
 
 ちなみに期限を明日に控えた現在、鍵はカタチの見当すらついていない。  
 
 誰かの部屋によく似た、見知らぬマンションの一室。  
 三人で囲んだコタツの上では、熱々のおでんが湯気と一緒に良い香りを上げていた。  
 
 上の空で味わう余裕など無かったが、気が付けば腹は膨れていた。  
 どうやら消化器官は腕とともに脳から独立宣言をし、せっせと栄養補給に勤しんでいたらしい。  
 お腹が膨れたのは他の二名も同様のようで、自然とお開きの流れとなった。  
 
 
「明日も部室に行っていいか?」  
 
 別れ際に長門に尋ねた。  
 今の俺にとって、文芸部の部室が最期の砦だった。  
 
「放課後さ、ここんとこ他に行くところがないんだよ」  
 
 朝比奈さんも古泉も──ハルヒもいない放課後。  
 この世界で、唯一、変わらずに俺を迎えてくれた相手が、目の前の寡黙な少女だ。  
 
 多少性格が違ってしまっているが構わない。  
 宇宙人の何とかインターフェイスである必要なんか無い。  
 いつも通り、部室でパイプ椅子に座って、黙々と本を読んでいるだけでいい。  
 お前が居てくれるだけで──……  
 
 
 長門は俺をじっと見つめ、それから……。   
               、 、 、 、  
 薄く、だが、はっきりと微笑んだ。  
 
 
                             ────目眩がした。  
 
 
 エレベータで降りている最中、朝倉は含み笑いを浮かべて言った。  
「あなた、長門さんが好きなの?」  
 
「……がう、」  
 
 返答は言葉にならなかった。  
 目眩がする。足場が揺れる。吐き気がする。  
 もしここに朝倉がいなかったら、遠慮無く吐いている。  
 すべてを吐き出して、楽になってしまいたかった。  
 居なければ……、いなければ……、  
 
 ……居ない、  
 
 おい、  …はどこに居るんだ?   
 
「ん? 何か言った?」  
 
 エレベータが停止し、扉が開く。  
 朝倉は、こちらを気にする様子を見せながらエレベータを下りた。  
 
「やっぱり調子が悪いみたいね。早く寝た方がいいわよ。長門さんを心配させちゃダメよ」  
 
 そのセリフを認めるわけにはいかず、貼り付いた喉から絞り出すように言葉を発した。  
 
 
「……違う。……あいつは、   …じゃない」  
 
 
「──?? あなた何を言って──、」  
 朝倉の言葉は、最後まで伝わることなく、分厚い扉に遮られた。  
 一瞬の浮遊感とともに、エレベータが再下降を始める。  
 
 壁に寄り掛かり、そのままズルズルと崩れ落ちた。  
 いっそこのまま、このエレベータが世界から切り離されてしまえばいいのに。  
 
 あんな誰も居ない世界になど戻りたくない。  
 そこに、俺の居場所はない──  
 
 願いなんてものは、得てして叶わないものと相場が決まっているらしい。  
 神様なんて信じていないが、仮に居るとしたら、とんでもなく底意地の悪いやつに違いがない。  
 エレベータは一階に到着し、元の世界へと繋がる扉が開いた。  
 俺はヤモリの改造人間のように不格好な動きで、エレベータから這い出した。  
 
 
 それからどうやって家まで帰ったかは覚えていない。  
 気が付くと家で、俺の顔を見て心配する妹や母親に生返事で対応し、ベッドに倒れ込んだ。  
 
 目蓋を閉じても、網膜に焼き付いて離れない。  
 別れ際の光景が脳裏で勝手にプレイバックし続ける。  
                                   、 、 、 、  
 あいつと同じ黒曜石のような瞳で、あいつは、はっきりと微笑んだ。  
 
 目眩がする。  
  、 、 、 、  
 長門有希は微笑んだりしない。                    、 、 、 、  
 分かり切っていたはずのことだが──あいつも、俺の知る長門有希じゃなかった。  
 
 
 思い知らされ、打ちのめされた。  
 ──ここには、俺が知る人間は、誰もいない。  
 
 
 
 
                   『 長門有希の不在 』  
                      She's nowhere.  
 
 
 
 
 翌日、俺は学校を休んだ。  
 ずる休みってわけじゃない。本当に体調が悪く、ベッドから出られそうもなかった。  
 それなりの熱も出てるし、何より母親が学校に連絡を入れた次点で正式な欠席だ。  
 
 今日が栞の定めた期限だった。  
 すでに昼時も過ぎて、学校では午後の授業が始まっているころだろう。  
 後先のことを考えるなら、寝込んでいる場合などではない。  
 今日中に『鍵』を探し出さないと、おそらく二度とチャンスはないだろう。  
 
 ……しかし、何もかもがどうでもいい気分だった。  
 捨て鉢な気持ちというのは、こういう状態を言うのだろう。  
 
 ──静かだった。  
 時計の秒針の音すら、どこか遠くに感じた。  
 聞こえるのは、自分の呼吸音と心音、あとは身体を動かした際に布団がこすれる音。  
 この部屋は、昨日のエレベータと変わらない。  
 俺だけが取り残された、俺だけの、静かで孤独な空間。  
 
 それは学校に行っても変わらない。  
 他人だらけの空間なんて、本質的に独りと何ら違いはない。  
 世界はエレベータを相似拡大しただけのものなのだろう。  
 
 ……いかん、熱のせいか思考が樹海の中の方位磁針のように行き先を見失っている。  
 俺はそういうダウナーキャラか? 違うだろ? こんな時は寝てしまうに限る。  
 後は野となれ山となれだ。  
 
 眠りにつく寸前、間抜けな神が俺の言葉を勘違いするという妄想が浮かんだ。  
 目を覚ましたら、一面が荒廃した焼け野原になっていて、誰も居なくなってしまう。  
 そんな、くだらない願望──  
 
 ────、  
 
 ノックの音で目が覚めた。  
 悪い夢でも見たのか、寝汗で服がピッタリと貼り付いて気持ち悪い。  
 喉もマーズパスファインダーが映した火星の表層のように、カラカラに乾燥しきっていた。  
 
 ノックの主は母親だった。  
 何でも俺にお見舞いが訪ねてきたらしい。  
 女の子よ、と、何を勘違いしたのか嬉しそうな声で付け加えてきた。  
 
 当然、思い当たる節は一人しかいない。  
 少し前までだったら、やたらと喧しいのや、心優しい上級生などの候補もあった。  
 だが今この状況で俺を訪ねてくる女性と言ったら、あいつしかいない。  
 
 少し待ってもらうように言って、ベッドから起きあがった。  
 外はもう真っ暗で、たっぷり寝たお陰か、体調もだいぶ良くなっていた。  
 
 今更ながら、約束を破ってしまったことを思い出す。  
 おそらく文芸部の部室で、一人でずっと待っていたのだろう。  
 仕方がないとは言え、悪いことをしてしまった。  
 
 寝間着から着替え、目に付く範囲に見られてはマズイ物が無いか確認する。  
 どうやら大丈夫のようだ。  
 下に向かい、上がってもらうように伝える。  
 
 階段を上ってくる音がする。  
 妹の騒々しいのとは違い、想像通り静かでゆったりとした足音だった。  
 部屋の前まで来て、コンコン、と控えめなノック。  
 どうぞ、と返事をした。  
 
 下校途中に、そのまま寄ってきたのだろう。  
 ドアが開き、制服に身を包んだそいつの姿が現れた。  
 
 
「あら、意外と元気そうね? よかったわ」  
 
 
 ────、  
 まるで予想だにしなかった登場人物に、しばし呆然とする。  
 
 まったく、何だってこう次から次へと予想外のことが起こるのだろうか。  
 俺は目の前に立つ少女の名を呟いた。  
 
 
 
 
                   『 朝倉涼子      』  
                     Now, she's here.  
 
 
 
 
「……どうしてお前がここにいる」  
 
「随分な言いようね。それ、一昨日も言われたわよ」  
 朝倉涼子は、さして気にした風もなく、いつもの微笑み顔で答えた。  
 
「そりゃ言いたくもなるさ。何せお前は──あ、いや、何でも無い」  
 
 あからさまな誤魔化しをしたが、朝倉は相変わらず顔色を変えたりしない。  
 ……今更ながら、本当にこいつは出来た人間だと思う。  
 
「最後まで言わなくていいの? 遠慮しないでいいわよ?」  
         、 、  
「いや、これはお前には関係ないことだ。気にしないでくれ」  
                       、 、  
 『鍵』探しを放棄した今、いつまでも昔のことを引きずるわけにはいかない。  
                  、 、 、  、 、 、 、    、 、 、  
 サンタクロースはいないし、未来人も超能力者も、宇宙人なんかもいやしない。  
 そんなことは小学生だって知っている。それが当たり前だ。  
         、 、 、 、  
 ──それがこの世界の常識だ。  
 
 朝倉だってそうだ。確かに宇宙人みたいにハイスペックだが、歴とした地球人だ。  
 クラスの人気者で、勉強も委員長の仕事も完璧にこなす。  
 病気で休んだクラスメイトを気づかって見舞いに来てくれる優しい奴だ。  
 おまけに顔もスタイルも良く、男子垂涎のAAプラス。  
 間違っても、放課後の教室で、クラスメイトをナイフで襲いかかったりなどは──  
 
 
「ふぅん、素っ気ないのね。やっぱり、殺そうとしたことを根に持ってるの?」  
 
 
 ────、  
 ──今、何て言った?  
 
「殺そうとしたことを根に持ってるの? そう訊いたの」  
 朝倉は、いつも通り、変わらなさ過ぎる笑顔のままで繰り返した。  
「謝罪すればいい? あたし人間のそういう感情、よく理解出来ないけど」  
 
 ……こいつ……、ぜんぶ、知って────  
 
 沸点に達した水分子の気持ちってのは、こんな感じだろう。  
 
「お前の仕業か!!」  
 体中の筋肉が不随意筋に変わり、脳の指令を待たずして朝倉に掴みかかった。  
 セーラー服のカラーを捻るように掴み上げ、至近距離から睨み付ける。  
 脳の中では断線したコードからバチバチと火花が弾け、思考が赤で染まった。  
 
 しかし朝倉の表情は変わることが無く、笑顔のまま冷静に見返してくる。  
 
「それで終わり? 他にすることがないなら離して。時間がないから」  
 
 急激に力が抜けた。  
 まるでバッテリー切れを起こしたロボットみたいに、だらりと弛緩する。  
 元々、俺は熱容量も熱許容量も大きい人間じゃない。  
 瞬間的にヒートすれば、冷めるまでも早い。  
 
「質問の答えは『いいえ』。あたしも巻き込まれた側よ」  
 朝倉の言葉は予想に反した物だったが、どうでも良かった。  
「涼宮ハルヒの力が失われた世界を作るだなんて、まったくどうかしてるわ」  
 
 
 なかば投げやりに、絞り出すような声で問い掛けた。  
 
「何しに来た」  
「独断専行。本当はいけないんだけど、見てられなかったから」  
 
 内容に反して、にっこりと笑う。  
 いつだってこいつは本当に嬉しそうにしゃべる。  
 
「それより」  
 ──初めて、朝倉の顔から笑顔が消えた。  
 
「あなたこそ、何をしてるの?」  
 
 ──俺が、何を?  
 
「メッセージは見たんでしょ? 期限は今日までよ。どうするつもりなの?」  
 再び笑顔に戻ったが、言葉には逃避を許さない厳しさがあった。  
 
「元の世界に戻りたくないの? 『あの娘』はそれを望んでいるのよ」  
「『あの娘』は自覚してないだろうけど、あなたに期待して待ってるのよ?」  
「あなたは、こんなところで、何もやらないまま終わるつもり?」  
 
 
「もう一度訊くけど──、あなた、何をしてるの?」  
 
 
「──っっ、知るか! だいたい手掛かりも何も無しに、どうしろってんだ!」  
 
 完全に逆ギレだった。ガキの癇癪の方が、まだ可愛げがある。  
 思考の崩壊を周囲に示して、責任義務からの逃避を企てた。  
 
 しかし朝倉は許してくれない。  
 あくまで冷静な口調で、問いかけの形を借りた糾弾が続く。  
 
「ねえ、『やらなくて後悔するよりも、やって後悔したほうがいい』って言うよね?」  
 
 それは、いつかどこかで聞いた問いかけだった。  
 あの時も俺は、答えから逃げようとしていた覚えがある。  
 だってそうだろ。  
 そんな重い選択肢なんて、『選ばない』が正解だ。  
                        、 、 、  
 『やる』でも『やらない』でも、どちらか選べるのは強い人間だ。  
 俺は巻き込まれるだけのキャラでいたかった。  
 自分からは何も起こさず、状況に流されていたかった。  
 ハルヒや他の人間が引き起こす騒動に、文句を言いながら喜んでいた。  
 自分から行動を起こす勇気が無く、誰かが引っ張ってくれるのを待っていた。  
 
「あたしはね、やらなくて後悔するのも、やって後悔するのも嫌い」  
 
 しかし、朝倉は恐れることなく第三の選択肢を提示する。  
 
 
「『やることはやるし、後悔もしない』っていうのが一番だと思うの」  
 
 誰もが望み、誰もが言い躊躇う回答を、驚くほどにあっさりと口にする。  
 どこぞの迷惑な団長の言葉にも似た力強さがあった。   、 、 、 、 、  
 それは、やると言ったからには周りのことなどお構いなしにやり遂げる者の言葉。  
 
「……お前、何をするつもりだ」  
 
「だからさっき言ったでしょ?」  
 朝倉は、にっこりと八月のヒマワリのような笑顔で笑い、  
 
「独断専行」  
 
 物騒な響きの言葉を口にした。  
 
 
 次の瞬間、足場が溶けた。  
 突然の溶解は、床に留まらず、壁や天井まで達し、部屋全体を包み込む。  
 住み慣れた部屋は、まるで水銀のように鈍く輝きを放ち、原型を留めていない。  
 
「あなたを元の世界に戻してあげる。『あの娘』のためにね」  
 
 はっきり言って、何が起きているのか全然理解できない。  
 だが、はっきりと、何かとてつもないことが起きていることだけは分かった。  
 ごく普通の、何の取り柄もない高校生にすぎない俺だ。  
 だが、こと不思議現象に巻き込まれた回数に掛けては、そこいらの奴らに引けを取らない。  
 
 そんな俺から見ても、今回の現象はぶっ飛んで凶悪だ。  
 
 目に見えている変化なんて微々たるものだ。  
 薄膜を一枚隔てた向こう側では、とにかくヤバい何かが起きている。  
 まるで、目の前で、世界が無理矢理に作り替えられようとしているほどの圧迫感。  
  、 、 、 、  
 天地創造なんていう、天に棲まうお偉い様方の所行を彷彿させる、何かが起きていた。  
 
「バックアップだからって、機能的に劣るわけじゃないのよ」  
 変異の中心で、朝倉は力を存分に振るっていた。  
 何をしているのかは分からないが、何かをしていることは目を瞑ったとしても分かる。  
              、 、 、  
 はっきり言って、これ程のものだとは思わなかった。  
 
「むしろ涼宮ハルヒの力が失われ、長門さんがああなった今」  
 
 にやり、猫のように嗤い  
 
「あたしが最強よ」  
 
 世界がゆっくりと回転を始める。  
 やがて回転は一箇所を中心に螺旋を描き収縮を始めた。  
 ちょうど朝倉の真上を中心に、世界が閉じようとしていた。  
 
 空間は粘性が高いらしく、ぐぐぐ、と固い雑巾を絞るかのような緩慢さだった。  
 見ていてもどかしくなるような動きは、ぎぎぎ、とやがてそれ以上進まなくなった。  
 
 抵抗する空間を、無理矢理に捩子曲げようとしているのだろう。  
 だが、いまや力は完全に均衡し、これ以上は進みそうもない。  
 それどころか、徐々にではあるが、歪みが元に戻ろうとする様子を見せ出した。  
 
 しかし、朝倉は慌てた様子など見せない。  
 
「あーあ、やっぱりこれじゃ足りないか」  
 
 まるで、月曜は憂鬱だから休みにならないかな、なんていうくらいの口調で言う。  
 最初から、そんな都合のいいことは起きないと分かり切った上での言葉。  
 日本中のどこにでもいる、普通の高校生のような顔だった。  
 
 そして、仕方ないから諦めて学校に行こう、というくらいの気楽さで、  
 
 
「  倉  子……存在 ──を、    して ─ 情報爆発 … を補  ── 」  
 
 
 不明瞭な言葉の後、パキ、と、ガラス細工が折れるような、取り返しの付かない音がした。  
 
 次の瞬間、朝倉の身体を光が包み込んだ。  
 いつかの放課後の教室のようなキラキラした輝きではない。  
 ひとつひとつの光の粒子が生命を持っているかのような、そんな煌めきだった。  
 まるで珊瑚の産卵だった。色彩々のイルミネーションが、渦を巻いて流れ出す。  
 
 光の奔流は収縮上昇し、停滞していた歪みの中心点を突き破った。  
 
 ぽっかりと空いた穴から、嘘みたいに清々しい青空が覘く。  
 ──それで、最後の枷が外れた。  
 
 穴を補填するかのように、周囲の空間が回転しながら呑み込まれていく。  
 爆縮とでも表現したくなるような勢いで、あらゆる空間が再生の坩堝に投じられる。  
 
 今度こそ抵抗のしようがなく、世界は断末魔の悲鳴を上げながら、終点へと走り出した。  
 
 ふぅ、という溜め息が聞こえた。  
 
 言うまでもない、朝倉だ。  
 これだけの現象を引き起こしておきながら、「まあ、こんなもんかな」くらいの態度だった。  
 
 光は相変わらず朝倉の周りに渦巻いている。  
 よく見れば、一番輝きが強いのは足先や手先などの末端──  
 
 
 ちょっと待て。  
        、 、 、  
 それって、あの時と同じじゃないか!  
 
 
 正確には違った。  
 あの時の朝倉は、光の砂粒になって消えていった。  
 
 だが、今の朝倉は────  
 
 光の浸食が、膝のあたりまで来た。           、 、 、 、  
 膝から下は、まるで虚空に蝕まれたかのように、何も無い。  
                                           、 、  
 ただ見えないだけではなく、何故だか、もっと根本的な──致命的な消失。  
 『朝倉涼子』という存在が、徐々に失われつつあった。  
 
 光はなおも上昇していく──いや、浸食していく。  
 
 それに伴い、朝倉涼子が消えていく。  
 
 周囲の空間は、もう放っておいても、勝手に呑み込まれて消えてしまうだろう。  
 核反応のように、一度スイッチが入ってしまえば、あとは終焉に向かって突き進むだけだ。  
 それでもなお、世界は轟々と唸りを上げながら、最期の悪足掻きを続けている。  
 
 朝倉がこっちを見て、何かを言っている。  
 すでに胸より下は虚空に蝕まれていて、辛うじて残っている顔も、光のせいでよく見えない。  
 
 そんな状況にもかかわらず、朝倉の輪郭は、笑っているように見えた。  
 
「 …さんと…付 ─  なら、まじ… 考え ──ダメ  。でな  とわ  ……許さ ── わ 」  
 
 ……何……言って──??  
 圧力を伴う光に押し流されて、もはや朝倉が何を言っているのか聞こえない。  
 渦巻く空間が嵐のように唸りを上げて、朝倉の言葉を掻き消していく。  
 
「   …    ……   ──  … 、 ……。」  
 
 向こうだって、聞こえてないのは分かっているはずだ。  
 それなのに──自分が消えようとしているのに、笑顔のままで、何かを伝えようとしている。  
 
 浸食はとっくに首を越えている。  
 もはや朝倉のカタチなど残っていない。  
 なのに、その残骸は、どうしようもなく笑顔のままで──  
 
 その姿から、あろうことか、線香花火を連想してしまった。  
 
 
 パチパチと火花を散らし、ぽとり、と消える寸前────、  
 
 
 
 世界から雑音が消え、最期の言葉だけは、はっきりと耳まで届いた。  
 
 
 
 
      「  …さんとお幸せに。じゃあね」  
 
 
 
 
 ぱっ、と光が爆ぜた。  
 
 
 
 
 
                   『       の不在 』  
                  HER Existence / I'm HERE.  
 
 
 
 
 
 ぱっ、と目が覚めた。  
 
「おや。お目覚めですか?」  
 
 寝起きの一発目に見たのは、よりにもよって古泉の顔のアップだった。  
 思わず両手を使って、はじき飛ばすようにその顔を押しのける。  
 古泉はひどいですね、などと言っているが無視を決め込んだ。お前が悪い。  
 
 状況は掴めないが、思考は驚くほどクリアだった。  
 さっきまで眠っていたなど信じられない。  
 まるで覚醒状態から、ここまで瞬間移動をさせられた気分だった。  
 
 周囲の様子から、状況を推測する。  
 どうやらここは病室で、今まで俺はそこで寝ていたらしい。  
 それもちょっと貧血で、などというレベルではなく、入院が必要な程度のものだ。  
 そこに至るまでの過程の記憶は、すっぱりと抜け落ちているけどな。  
 
 顔を巡らせれば、古泉の他にも見慣れた顔ぶれが並ぶ。  
 朝比奈さんは両手を口元にあて、何やら感極まっているようだ。  
 長門は相変わらず何を考えているのか分からない無表情だ。  
 だが、病室に居てくれたというだけで十分に嬉しい。  
 ハルヒは……まあ、あえて言うまでもないだろう。  
 
 そして──── 、 ……あれ?  
 
 
「おい、   …はどこだ?」  
 
 病室に、不思議な沈黙が流れる。  
 
 沈黙はやがて困惑に。  
 そして更に別の何かへと変わりつつあった。  
 とっさにマズいと警戒する。もちろん、後の祭りなのは言うまでもない。  
 
「ちょっとキョン! 開口一番に他の女の名前を言うなんて良い度胸ね!」  
 
 病院だという考慮は一切無しの怒声が響き渡った。  
 当然、病み上がりの俺に対する配慮も一切無く、首元を締め上げ揺さぶられる。  
 朝比奈さんが慌てて助けに入ろうとしてくれたが、いかんせん役者不足だ。  
 ハルヒという名の猛獣を宥めるのに必要なのは天使の慈悲ではない。  
 
「白状しなさい! その女は、どこの誰よ!」  
 
 誰って、そりゃあ……  
 
 
                                 ────誰だ?  
 
「…………あれ?」  
 
 記憶の網目に引っ掛かっていた小さな欠片が、ポロリと落ちてしまった。  
 もう、どうやっても思い出せそうにない。  
 
 よほど間抜けな顔をしていたのだろう。  
 怒っていたはずのハルヒが、心配そうな顔に変化していた。  
 
「キョン、あんた本当に大丈夫?」  
「ああ、どうも寝惚けてたみたいだ。あと、みんなに心配掛けたみたいだな。すまん」  
 
 ハルヒは一瞬きょとんとした顔をすると、  
「べ、別に、あたしは団長として……」  
 などと、ぶつぶつと何かを言っていた。  
 
 
 その後、医者が呼ばれて、色々と検診や問診があった。  
 ついでに病院に運ばれた経緯も教えてもらったが……やはり記憶には無かった。  
 医者と入れ替わりに、母親や妹なんかが来て、これまた色々と話をした。  
 とりあえず、みんな俺の平気そうな顔を見て安心したようだった。  
 
 
 ようやく一人になれたのは、目が覚めてから三時間も経ってからだ。  
 一人部屋を設えてもらっていたため、本当に一人っきりだった。  
 
 しかし、俺には妙な確信があった。  
 確信はすぐに、コンコン、と小さなノックによって裏付けられた。  
 
 返事をすると、ドアが開き、制服に身を包んだそいつの姿が現れた。  
 
「何となく、来る気がしてた」  
「そう」  
 
 現れたのは、もちろん長門だった。  
 ベッドの脇まで来ると、わざわざ壁に掛けられたパイプ椅子を開いて座った。  
 
 それっきり、何もしゃべり出す様子はない。  
 じっと何かを待っているようにも見えた。  
 
 かと言って、こちらから提供する物に思い当たる節はない。  
 仕方がないので、時間稼ぎに気になっていたことを訊ねた。  
 
「なあ長門。俺が目覚めたときに言ってた名前に聞き覚えはないか?」  
 
「………………」  
 
 長門は数瞬の間、思案するような顔をすると、  
 
          、 、 、 、  
「あなたが言う     …は、過去、現在、未来すべてにおいて存在し得ない」  
 
 
 ────?  
 気になる言い回しだったが、まあ長門が居ないと言うのなら、居ないんだろう。  
 
 再び沈黙が支配する。  
 相変わらず長門はしゃべる様子は見せない。  
 まるで、今回は聞き役に徹すると言わんばかりの態度だった。  
 
 さて、どうしたものだろう。  
 
「……長い夢を見ていた気がする」  
 
「どんな?」  
 珍しく、長門が話題に食いついてきた。  
 少なくとも、話題の選択は不正解ってわけじゃなかったようだ。  
 
 いや、詳しくは覚えてないが、普通に学校に行ったりする夢だ。  
 学校と言っても、普段とは違ってたな。どこが違っていたかは覚えてないが。  
 部室には長門が居て、教室には……あー、誰か居た気がするんだけどな。  
 ああ、長門の家にも行ったな。おでんを食べた。教室にいた誰かも一緒だった。  
 
 ……喋っていて、何だかどうでもいい夢の気がしてきた。  
 こんな話を聞かされたところで、長門だって困るだろう。  
 
 しかし、予想に反して長門は、熱心に聞き入っていた。  
 特に、顔も名前も覚えていない『もう一人の誰か』に興味があるようだ。  
 そうと分かれば、話題の中心をそいつに移す。  
 
 
 そいつは長門のことを色々と気に掛けていたこと。  
 そいつは長門のことを大切に思っていたこと。  
 
 そいつは、長門と友達のように接していたこと……  
 
「もし長門にお姉さんがいたら、あんな感じだろうな」  
 
 言ってから、マズったと自分の迂闊さを呪った。  
 家族の話題というのは、いつだって慎重に扱うべきだ。  
 居ることを当たり前と思ってはいけない。  
 世の中には、そうでない人間も意外なほど多くいる。  
 やや特殊な例だが、目の前のこの少女だって、その大勢の一人だ。  
 
「……姉さん」  
 長門は呟くと、その言葉をじっくりと味わうかのように黙り込んだ。  
 
 無表情の長門からは、何を考えているのかまったく読み取れない。  
 
「すまん長門。気に障ったか」  
 沈黙に耐えきれず、恐る恐る尋ねる。  
 幸いなことに、俺の目の錯覚でなければ、長門の首は左右に揺れた。  
 ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間──  
 
 
 
 長門は俺をじっと見つめ、それから……。   
                          、 、 、 、  
 薄く、だが、はっきりと──嬉しそうに微笑んだ。  
 
 
 目眩がした。  
 
 
 
 
 
 
                   『 朝倉涼子の不在 』  
          "She's nowhere," the girl said, "but she's still here".  
            She smiled and touched the chest of herself.  
                 "Who is the 'she' ?" I asked.  
             "My sis," she replied, "...and my best friend".  
                        -end-  
 
 

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