真冬の研ぎ澄まされたような底冷えのする深夜の保健室で、俺は小人国で磔の刑に遭ったガリバーのように仰向けになったままベッドで動けないでいた。  
 両肩を押さえつけられてはいるものの縄で縛られているわけじゃない。ただ、馬乗りになってこちらを覗き込んでくるハルヒの真摯な眼差しが、ゴルゴン三姉妹の末妹ばりの眼力を放っているせいだ。  
 月明かりに照らされたハルヒの白い頬は仄かに朱が差し、その双眸は嬉しさと優しさと一抹の恥ずかしさを湛えて潤んでいる。  
 艶やかで纏まりのよい長いみぐしの一房が俺の首筋をくすぐっているが、そんなことなど瑣末なことだ。俺はハルヒが見せる新鮮な表情に身じろぎすることも忘れるくらいに混乱していた。  
 
 「ジョンは……、あたしのこと、きらい?」  
   
 少し鼻にかかった様な不安げな調子で訊いてくる。俺の知ってるハルヒ、元の世界のハルヒが一度だって出したことのない甘えたような声だった。  
 なんて声を出しやがる。その周波数帯域を使用するのだけは勘弁して欲しい。男の庇護欲が共振を起こしてどうにかなってしまいそうだ。  
 
 「……きらいだったら、お前に付き合ってこんなクソ寒い夜の学校まで来たり、っせんだろ」  
 
 努めて冷静を装ったが咽喉の乾きはどうしようもない。台詞を言い切るので精一杯だ。  
 
 「じゃあ好き? みくるちゃんや有希よりも?」  
 
 お前はなんでそう0か1かで決めたがるんだ。なんでもデジタル化すりゃあいいっていう昨今の風潮はどうかとおも、っうおっ?  
 理性という名の箪笥の中から必死に言葉を引き出す俺を遮るようにして、ハルヒはそのまま身体を倒して俺と身体を密着させてきた。俺の胸元に顔を押し付ける形で重なり合う。  
 少し背伸びをしたような大人っぽい芳香が俺の思考を完全に掻き消して、混乱が二乗になった。  
 
 ―――――。  
 
 鼓膜の内側からやかましいくらいに響いてくる心臓と大動脈のアンサンブルを静聴することしばし。  
 時間感覚が麻痺したまま断熱に優れる機能素材越しに温もりと柔らかさがじんわりと感じられた頃に、ハルヒがゆるりと顔を上げた。  
 まっすぐに視線が合う。女としての魅力が五割増しの今のこいつと向き合うことは正直堪らなく気恥ずかしいが、ここで目を逸らすのはあまりに情けない。  
 なけなしの気概を振り絞って敢えて正面を切って対峙する。  
 
 「一緒に居て分かったの。あたしジョンのことが、……好きみたい。ううん、ずっと前から好きなの。心の奥に仕舞ったままになってたけど、本当はまた会いたかった」  
 
 気持ちは分からんでもない。なんせ煽るだけ煽って逃げたようなもんだからな。  
   
 「まったくよ。……責任とりなさい」  
 
 少し拗ねたような顔に照れが差す。十八番のアヒル口はどうした。黙っていれば美人のお前がそうやってまともな女の子の表情をすると正直手がつけられん。  
 責任って、俺がこうやって戻ってきて団活してるだけでもう十分だろ?  
 
 「……バカねぇ。そっちの責任じゃないっての」  
   
 そう言い捨てるとハルヒは一人で盛り上がって顔を赤く染める。  
 なんだ? 今のやり取りのどこに恥ずかしい要素があった?  
 訝る俺の態度が我慢ならなかったのか、ハルヒはそれをごまかすかのように急に上半身を持ち上げると、俺の胸板の上で匍匐前進を敢行し、俺の耳元に顔を埋めてきた。連動して降ってきた長い髪が俺の視界を奪う。  
 
 「お、おいっ」  
 
 接近最短距離が更新されて心臓がビリヤードのキューで弾かれたように飛び上がる。一体何事かと混乱が三乗になる俺をそっちのけで、内に秘めた想いを大切に紡ぐようなハルヒの囁きが鼓膜に響いてきた。  
 
 「今だけでいいから、あたしだけを見て……」  
   
 ひんやりとした滑らかな髪を分け入って熱い吐息が俺の首筋を掠めた―――。  
 
 
 結局、俺は元居た世界から完全に乖離し、元の世界とよく似てはいるが全く異なる世界の一部となった。  
 いや、こうやって自動詞で表現するのはいささか抵抗がある。  
 俺は自分の意思とは反してこの世界に縛り付けられたわけだから。  
 そう、こんな風に他動詞で表現するほうがしっくりくる。  
 主語は……、いい加減察してもらえるだろうから割愛する方がスマートってもんだろう。もはや絵に描いた蛇に足を書き足す行為と同じくらい必要がないことだ。  
 
 「ジョンが消えちゃうような気がしたから……」  
 
 あの時文芸部で他の面子が完全置いてけぼりを喰らって呆然と立ち尽くす中、エンターキーを押そうとする俺の腕を信じがたい反応速度でしっかり掴んでおきながら、自分でもよく分からないといった類のアホ面をぶら下げてアイツはそんなことを呟いてくれたがった。  
 ろくに事情も何も分かってないくせしてとんでもないことをやってくれるもんだ。お前の脊髄には俺を邪魔するための専用ホットラインでも引かれてるのか?  
 やれやれ、直感だけでで生きてるような天才肌の人間はこれだから始末が悪い。  
 全く迷惑な話には違いないが、異世界で高校と制服と髪型が変わっても、やっぱりアイツはよろしくアイツだったってことなんだろうな。  
 結果、長門が用意した脱出プログラムは非実行となって、年代もののパソコンは殊更切なげなファンの停止音を奏でてシャットダウンし、呆けた俺などそっちのけでこの瞬間から俺の人生は世界を変えての再スタートとなった。  
 いっそリセットの方が幾分かマシだったかもしれない。  
 『急に世界改変が起こったので……』  
 パロってる場合じゃないが、俺の心境が過不足なく伝わるマーベラスな表現であることも事実だ。  
 この世界では俺の歴史がない。  
 いや歴史自体はあるんだろうが、歴史を作ったはずの肝心の俺がその内容を全く知らない。  
 こっちの世界の俺が昨日まで何を成して今に至るのかを知らない。  
 自分よりも他人の方が過去の俺に詳しい状況は易々と耐えられるもんじゃないだろう。  
 まさかこんなシチュエーションで記憶喪失の患者の気分を身をもって知ることとなるとはね。  
 
 俺はこの世界でどうなってしまうのか?  
 逆に元の世界の俺はどうなってしまうのか?  
 なんとかして元の世界に戻る方法はないものか?  
 
 学校もクリスマスもそっちのけで四六時中考え抜いたさ。あるはずのないヒントを求めて公園とか図書館とかSOS団と縁のある場所にも足を運んだりもした。  
 それらは悉く徒労に終わり、自分の無力さに打ちのめされるだけだったけどな。  
 ただ、絶望に打ちひしがれた人間が次にすることは……、なんて悲観的にならなかったところを鑑みると意外に俺は肝っ玉が据わってたらしい。  
 ――――すまない。どさくさに紛れて少々嘘をついた。  
 外野がやかましくてそんな気分になれなかったというのが真相だ。  
 腰を据えて考え事をしようにも、アイツがしつこいくらいに毎日尋ねてきやがるもんだから、落ち着きもへったくれもあったもんじゃなかったんだよ。  
 
 「ねぇ、ジョン! SOS団のこともっと聞かせなさいよ」  
   
 「駅前の喫茶店で集まることにしたわよ。記念すべき第一回の会合はなんと明日! あんたも来なさいよね。言い出しっぺみたいなもんなんだから。来なかったら死刑だから!」  
 
 「やっぱり来ないつもりだったわね? いつまで不登校児気取ってんのよ。ホラ、いい加減腹くくりなさいっ」  
 
 これだけでどういうやり取りがなされて、俺が今どうなっているかを十分説明できそうだ。  
 何の前触れもなく他校の女の子が押しかけてきた日には家族一同が混乱し、遺憾ながらあらぬ疑いが俺にかけられたりもした。しかし、何食わぬ顔で平日はおろか休日も構わず毎日来るアイツに妹はすぐに懐き、今では両親にもすっかり顔なじみになってしまった。  
 全く慣れとは恐ろしい。  
 太平洋の大海原で針に掛かった巨大カジキ並の引きで「SOS団」というキーワードに食いついてきたアイツは、早々にメンバーを強引に集めて無駄にヤル気を燃やしていた。  
 何から何までうんざりするくらい洗いざらい事情聴取をかけられた俺の犠牲と引き換えにな。  
 歴史は繰り返すというか、蛙の子は蛙というか……、いやどっちも違うな。さすがに偉大な先人たちも時空改変にまつわる故事は作れなかったらしい。  
 とにかく、性懲りもなくこの世界でもSOS団は発足してしまう運びなった。意図せずとはいえ存在意義不明の集団誕生にまたもや一役買ってしまうとはね。どうやら賞味期限を過ぎた納豆のように腐敗しきった腐れ縁らしい。  
 しかし、俺はこの展開を逆手に取って考えることにした。発想の転換と言うやつだ。  
 ここに飛ばされた発端がSOS団にあるのならば、元の世界に帰るのもまた然りなんじゃないかってね。  
 新SOS団の面子には妙ちくりんな属性など一切付いていない。正真正銘の一般人による至極真っ当な集まりだってことは分かっているさ。  
 この面子を中心に超常現象が巻き起こる要素など欠片すらもないことも重々承知している。  
 しかし、新しい世界で孤立し、一人でやれることをやり尽くした今、俺はもうSOS団というブランドに一縷の望みを賭けるしかなかったのさ。  
 何のことはない。こんな感じで俺は生きる世界が変わっても順調に涼宮ハルヒに振り回されていた。  
 
 
 新SOS団設立から早一ヶ月。元祖SOS団と比べて8ヶ月遅れのスタートが気に入らなかったのか、ハルヒは俺が辿ってきた活動軌跡に早足で追いつくかのようにこれでもかってくらいにイベントをぎゅうぎゅうに詰め込んだ。  
 冬休み直後の忘年会鍋パーティを皮切りに、新年を跨いでの初詣を済ませ、年明けにはカルタの市民大会に参加した。  
 三学期が始まってからは、週二回の街の不思議散策を軸にして、週末には冬だというのに一泊二日で離島に出かけてサイクリングで散策に興じ、その様を活動記録としてビデオカメラに収めた。  
 離島と言っても南海に浮かぶ無人島なんかじゃなく、近代建設技術の粋を結集させた大橋が連絡道路として開通している超近場の島で、宿泊場所も館ではなくただの萎びた民宿だったがな。  
 サイクリングでは高校生の切実な財布事情が露呈して二台しか自転車を借りられず、俺と古泉が三人の女子を交代で後ろに乗せて走る羽目になり、一体何の罰ゲームだと思いながらも畝くった海岸線を延々と走った。  
 
 「こらっ、ジョン! 古泉君に離されっぱなしじゃない。根性みせなさいよ! あー!? 押して歩くなんてどういうつもりっ?」  
    
 「うるせぇ。三人乗りでっ、坂道をっ、漕げるかっ」  
 
 喚くハルヒに息を弾ませながら毒づくと、長門が気遣って  
 
 「大丈夫?」  
 
 と、俺の顔を覗き込んでアイロンを掛けた白いハンカチを差し出してくれるというやりとりを何回繰り返したか分からん。  
 ふと顔を上げると少し先を行く古泉が涼しげな顔を向け、その後部座席で鎮座する朝比奈さんが潮風でなびく髪を手で押さえながら天使のような微笑で見守ってくださる、というお約束の一コマもあったりした。  
 宿では例によって仕込役を命じられた古泉が地元の伝承やら迷宮入りした事件を拾い上げてきてそれっぽい感じにアレンジして怪談を盛り上げた。全く殊勝なヤツだ。  
 まさしく休む間もなく遊び倒して疲労もあったが、このてんこ盛りのイベントラッシュのお陰でかなり団員の関係が解れてきたような気がする。  
 初イベントの鍋パーティの時は悲惨なもんで、お互いにほとんど面識がない上に何のためにこの集まりがあるのかも良く分かっていない状態だったもんだから、徹マン明けの雀荘のようなダウナーな違和感が場に篭もっていた。  
 
 しかし、元々相性が悪いわけでもない同年代の男女が集まれば、それだけでもそれなりに遊びの形にはなるもんで、心配は無用だった。  
 更にハルヒが休みもなくイベントとネタをぶち込んでくる後押しもあって、俺達は知らず知らずの内に一ヶ月という決して長くはない期間で確実に打ち解け始めていた。  
 もちろんこの間、不可解な出来事や超常現象などには一切遭遇していない。新SOS団は飽くまでも一介の高校生のできる範囲で遊ぶ至極健全なイベントサークルだった。  
 こっちの世界のSOS団面々のキャラもつかめてきていた。当然のことかもしれんが元の世界のみんなとこっちの世界のみんなは微妙に性格が異なる。  
 知っての通り、長門は寡黙ではあったが決して無機質ではない引っ込み思案の読書好きの少女だ。  
 性格上決して目立つことはないが、さりげないところでみんなを気遣ってくれている。  
 ときどき俺のことをじっと見てるような気がするのは単に俺が自意識過剰なせいだろう。  
 古泉はハルヒの召使い役やイベントの裏方役を務める点では元の世界と変わりはないが、それらの丁稚奉公は飽くまでもハルヒへの好意が原動力となっているらしい。  
 ヤツとは普通に世話話もするが、ハルヒが絡むと勝手なライバル意識を燃やして黒い一面を見せたりもする。だが、基本は飽くまでも空気が読める世話好きなヤツだとフォローしておこう。  
 朝比奈さんは……、俺の出会い頭の非礼もあって他の面子と比べて打ち解けるのに時間を要した。  
 しかし、心を入れ替えて紳士に努めた甲斐があって、徐々に俺に微笑みかけてくださるようになった。  
 性格は元の朝比奈さんとほとんど変わりはない。極めて天然で温厚、ぽわぽわした雰囲気でSOS団のマスコット的存在という地位を磐石のものにしつつある。  
 
 で、問題のハルヒはというとだ、馴れ初めでもお分かり頂けたようにダイナモを内蔵してるんじゃないかと思えるくらいの無限の元気をフル回転させていた。  
 相変わらず傍若無人に迷惑をばら撒く存在に違いなかったが、細かいところで差異があることが分かってきた。ごく最近になってようやく気付けたことなんだがな。  
 こっちのハルヒははっちゃけ度合いが30%オフといった感じで、いささか落ち着いた雰囲気がある。まともな高校生活を送っていたせいかもしれんが、8ヶ月分大人のハルヒだった。  
 丸くなって素直になってくれたのはこっちにすれば非常に助かる。結構なことだ。そこまではいい。  
 しかし、やたらと俺の世話を焼いたり、臆面もなく手を繋いだり、二人きりになりたがったりするのはなぜだ?   
 それとときどきお前から兄を慕う妹のような視線が漂ってくるのは気のせいか?  
 もし気のせいでないとするならば意味が分からん。  
 こればっかりは俺の自意識が焼ききれてイカれてしまったせいだと信じたい。  
 そんなこんなで困惑しながらもこちらでのSOS団の活動が軌道に乗り始めた頃に事件は起こったんだ。  
   
 「今週末は夜の学校で肝試しをやるわよっ」  
   
 ガチャンとテーブルの食器を躍らせて喫茶店奥の自称SOS団専用ボックス席でハルヒが怪気炎をあげたのは四日前のことだ。  
 校則とか季節以前に常識を間違えてるだろ。  
 という俺の会心のつっこみも虚しくハルヒはまくしたてる。  
 
 「この前珍しく早く家に帰ったら、夕飯前に夏の番組の再放送でテレビで学校にまつわる怪談をやってたのよ。で、夜の校舎とかグラウンドとか写ってたんだけど結構雰囲気あるわけ」  
   
 そこで一旦区切ってもったいつけると、唖然とする一同を見回してから目を輝かせて続ける。  
 
 「不思議探索としては絶好のロケーションと思わない? ねぇ、みくるちゃんもそう思うでしょ?」  
 
 「え、ええっ?」  
 
 ベーグルを食もうとしていたところだったのか、突然指を突きつけられた朝比奈さんは小さなわっかを手に取ったまま目をクリクリとさせて面食らうが、  
 
 「そ、そうですね。……で、でも、わたし怖いのはちょっと……」  
 
 「何言ってんの、お盆じゃあるまいしお化けも幽霊も冬眠中よ」  
   
 「え? あ、そうか……」  
 
 などど、矛盾だらけの説得に勢いだけでしっかり言いくるめられてしまうあたりが本当に朝比奈さんらしい。  
 つーか、そこに付け込んで最初に朝比奈さんを強引に味方に取り込むやり方はいい加減卒業しろ、ハルヒ。  
 業を煮やした俺が本格的に反対派閥を立ち上げようとしたが、それを見計らったように、右手から声があがった。  
 
 「いいですね。旅行以来これといって何もなかったですから、ここらでテコ入れということですか。寒いときに敢えてアイスクリームが食べるという趣向に通ずるものがあります。やりましょう」  
 
 例によって古泉が薄ら寒いインチキスマイルを浮かべながらハルヒに賛同すると優雅にカプチーノを啜る。  
 心の底からそう思ってるなら一度窓のない大きな病院で診てもらうことを薦めるぞ。  
 しかし、このままではまずい。賛成派はこれで3人だ。  
 
 「さっすが古泉君。分かってるわねぇ。あー、なんだかアイス食べたくなってきたわ。すいませーん、アイス一つ!」  
 
 ハルヒがアホな注文をやってる隙に俺はすかさず左に座る長門に伺いを立てる。  
 
 「長門、お前はこんな色んな意味で寒い我慢大会みたいなイベント、もちろん棄権だよな」  
 
 我ながら誘導バリバリの切り出し方だが背に腹は代えられん。せめて勢力を拮抗させて持久戦に持ち込むしかない。  
 モンブランを食していた長門はフォークを静かに置くと、俺に向き直る。  
 いよいよ反旗を翻すときがきたかと期待されたが、長門の答えは俺の予想に沿うものではなかった。  
 
 「……みんなが一緒なら、いい」  
 
 なんてこった、お前だけが最後の砦だったというのに。  
 みんなと言いつつ俺の顔だけをまっすぐに見つめながら言うのはなぜだ。言っておくが、暗闇で俺はガード役として頼りにならんぞ?   
 
 「往生際が悪いわねぇ、観念なさい。えー、ただいまの投票により賛成3、反対1、棄権1で学校での肝試しは決行となりました」  
 
 太鼓もちの古泉による白々しい拍手によって、反対勢力は完全に死んだ。  
 夜の学校へ潜入するのは一万歩譲ってやろう。日本は民主主義だ。いまの選挙もどきが数の暴力と紙一重であろうが投票結果は受け止めてやる。  
 ただし、目的もないのにただ行くだけなんてあまりにナンセンスだ。目的もなく徘徊して警備員に見つかるのがオチだぜ。自分からむざむざ停学になりにいく趣味は俺にはない。  
 SOS団の最後の良識であろうとする俺の敢然たる主張だったが、……どうやら裏目に出てしまったようだ。  
 ハルヒが待ってましたと笑んだ時は決まって碌なことがない。  
 
 「バッカねぇ、そんなのあたしだって分かってるっての。だからちゃんとゲームっぽくなるように考えてきたわ。古泉君」  
 
 「はい。では、不肖ながら僕から今回の趣旨を説明させていただきましょう」  
 
 ……ちょっと待ってくれ、眩暈がしそうだ。  
 と、古泉を遮って出鼻を挫くことが俺にできた精一杯のことだった。  
 まったく今思い出しても脱力するやり取りだが、こんな出来の悪い談合に巻き込まれて俺は夜の北高に潜入する羽目となった。  
 イベントの内容だが、簡単に説明すれば次のとおりになる。  
 二組に分かれてそれぞれ定刻に北高、光陽園学院に潜入し、あらかじめ隠しておいた宝を探し出す。見つけた暁には携帯のカメラで撮影・送信し、どっちが早いかを競い合うというものだ。  
 
 ちなみに宝はSOS団のマークが印字された紙。こっちのハルヒが予備知識なしでオリジナルと全く同じマークを作りあげたとき、妙に感心してしまったが、それは余談だ。  
 所在のヒントは校舎最上階の教壇の中ということになっており、どの教室にあるかまでは明らかになっていない。  
 ご丁寧なことに光陽園学院の警備システムと進入経路はすでにハルヒと古泉が把握済で、残る問題は北高だったが、こっちは金持ちの私立と違ってボロの公立だ。宿直もまともに機能してないし防犯もザルみたいなもんだからすぐに計画はまとまった。  
 で、問題の組み合わせだが、何の巡り合わせかは知らんがくじ引きでハルヒと俺が組んで北校に向かうことになった。  
 古泉はこの組み合わせに遺憾の意を示して止まなかったがな。ハルヒがやけに上機嫌だったのと対照的に。  
 
 「あなたを信頼してはいますが、間違いが起こるのが年頃の男女ですから。……万が一夜闇に紛れて涼宮さんに非紳士的な行為をとった場合、あらゆる手段をもって僕はあなたを糾弾しますよ?」  
 
 顔の上半分がマジで下半分がスマイルという新しい顔芸を披露して、耳打ちしてきやがった。  
 お前、俺がハルヒを押し倒せると思ってるのか? 精神的以前に物理的に不可能だぞ。  
 こんな紆余曲折もありつつ、俺とハルヒは街灯の疎らな坂道の登校ルートを踏破して、木枯らしの荒んで不気味な雰囲気さえ漂う北高にたどり着いていた。  
 時刻は午後九時五分前  
 夜も定刻にチャイムがなるんだっけか。この状況で不意に鳴るのだけは勘弁して欲しい。  
 思わず怖気づいた俺だったが、ハルヒは  
 
 「いい仕事してるわねぇ。ボロい校舎が寂しい雰囲気を一層引き立ててるわ」  
 
 と、俄然ヤル気で先人切って意気揚々と塀に沿って校舎裏まで回りこむ。  
 ウインドブレーカーを着て防寒対策をしてきたつもりだったがそれでも冷える。今の時期は春を迎える直前で寒さのピークになる頃だ。零下は堅いところだろう。  
 一方ハルヒは、実用的のみで色気も素っ気もない俺の服装とは対照的に襟回りにファーの付いた純白の丈の短いフレアコートを羽織り、下はタイトなミニに膝まであるブーツというショッピングモールで見かけるような上半身だけ暖かそうないでたちをしていた。  
 八百万の女子が冷え性に悩まされている中、どうやらこいつだけは冷え性とは無縁らしい。  
 金のない公立の高校にありがちな話だが、この北高にも多分に漏れず古い先輩達が開拓した脱出経路なるもの放置されて残されている。  
 校舎の一角を囲んでいる金網が破れて男子生徒が身を縮めてようやく通れそうな穴が空いている所があるのだ。  
 うまい具合に校舎裏の深い茂みに隠れているので、今夜みたいに秘密裏に進入するのにはうってつけだ。実際に遅刻・エスケープ常習犯御用達の抜け道となっている。  
 噂では十五年以上前から開通していたそうだが、これだけの歴史があっても夜の校舎に用もなく潜入するために使うのは恐らく俺たちが初めてなんじゃないかね。  
 
 「長い間こんな大穴放っておくなんて、公立っていい加減よねぇ」  
 
 悪かったらな貧乏で。金に余裕があるなら改築のために寄付してやってくれ。  
 
 「時間は?」  
 
 九時ジャスト。潜入開始の定刻時間だ。  
 
 「そういう時はフタヒトマルマルって言いなさいよ。散開前に時計合わせたの忘れたの?」  
 
 SOS団はいつから軍隊になったんだ? まぁ、鬼のような軍曹がいることに違いはないがね。  
 
 嫌味もそこそこに抜け穴をくぐろうと身をかがめたが、  
 
 「……待って、あたしが先にいくわ。レディーファーストよ」  
 
 と、待ったがかかった。  
 
 へいへい。分かりましたよ。  
 投げやりに譲る俺とは対照的にハルヒはやや緊張した面持ちで四つんばいになる。  
 破れた針金の先端が危なくないかと後ろから気を遣ったが、不意に俺の視界にとんでもない光景が飛び込んできた。  
 目の前でハルヒの小さな尻が揺れて、タイトスカートの裾から白い布切れがチラチラと覗いているではないか。  
 悲しいかな、男の性に負けて食い入るように見てしまう。  
 水銀灯に反射された純白は神々しいまでの光沢を放ち、キュッとしまった小尻は意外なほど肉付きがよく、それはまるで冬の闇の中、肌色の双丘に狭間でモンシロチョウが幻想的に舞うような―――。  
 などと真剣に描写を始めるとスポーツ新聞のエロ記事の様相を呈してくるため敢えて控えることとするが、ハルヒが向こう側に抜けてこっちに向き直るまで阿呆みたいに視線が釘付けになってしまった。  
   
 「なに呆けてんのよ。とっとと続きなさいよ」  
 
 という檄を浴びてようやく俺は我に返る。  
 一瞬なんの間違いかと思ったぜ。というのも、朝比奈さんならまだしもこいつはこんな脇の甘いようなことをする女じゃないからだ。  
 単に先陣を切りたいがあまりに気が逸ってたまたま隙を見せたのか?  
 まさか狙ってやったなんてありえないだろう。  
 ハルヒが心もち頬を赤らめていたのは、焦れて怒っていたせい……だよな?  
 そうとしか考えられん。  
 混乱を振り払うかのように自分に言い聞かせながら、俺は緩慢な動作で穴を抜けた。  
 校庭に入って辺りを見回すと、一段と不気味さが増した。  
 寂れた校舎裏は月明かりも届かず、頼る明かりは廊下に灯った緑色の非常灯しかない。積もった枯葉は湿っぽくて、向こうの茂みの奥の闇からいつなにが出てきてもおかしくない雰囲気が漂っていた。  
 おいおい、ちょっとシャレになってないぞ。朝比奈さんが居合わせたら問答無用で竦み上がるんじゃないか?  
 
 「言ったでしょ? 期待した通りのシチュエーションだわ」  
 
 暗い寒い怖いの三重苦に祟られた俺は恨み節の一つでも詠もうとしたが、ハルヒは何を思ったか強引に俺の腕を取ってとっとと歩き出す。  
 なっ、おい、ちょっと待て。  
 
 「グズグズしてる暇なんてないわ。競争やってんのよ」  
 
 どうせなら手を引いてくれ。  
 
 「こうやってればはぐれないし。それに、……暖かいから一石二鳥じゃない」  
 
 分かったから引っ張るな。つーか、そっちは入り口じゃねぇ!  
 邪な意識を引き剥がすように俺は無邪気に笑ってはしゃぐジャジャ馬の手綱を引き締めた。  
 
 
 壊れて施錠の掛からない窓から廊下に侵入した俺達は、足音を潜めて階段を登っていた。  
 屋内に入ってから木枯らしに体温を奪われることはなくなったが、吹き付ける風は静寂の中ひどく窓を鳴らして聴覚的に俺を脅かす。  
 踊り場の非常灯が狙ったように切れかけていて足元もおぼつかん。  
 どこぞの莫迦が設定したルールで携行を許されるのは手元が照らせる小さなペンライトのみとなっているため、非常灯が役に立たん今、文字通り闇雲に進むしかなかった。  
 ハルヒは校舎に入るまでは威勢良く先頭を歩いていたが、階段を登り始めた頃から俺の後ろをうつむき加減で歩くようになっていた。  
 踊り場を挟んで階段が途切れるときに足元に気をつけろと言う俺に、「うん」と殊勝な返事を返してくるくらいだ。  
 向こうのハルヒならこの状況でも四つん這いになって階段を爆走して駆け上がり、教壇を引っ掻き回して五分もかからずに勝利宣言をするんだろうがこっちじゃ勝手が違う。  
 
 そんなことを考えながら粛々と最上階を目指していたが、  
 
 「そう言えばさ、ジョンと初めて会ったのもこんな夜の学校だったよね」  
 
 静寂を割いてハルヒが口を開いた。  
 想定外の話題の選択に俺は面食らったが、初めてのタイムスリップの印象はあまりに強烈ですぐに思い出がフラッシュバックする。  
 そうだな。中房の頃のお前は憎たらしいくらいにこましゃくれてたぞ。  
 
 「なっ。ジョンだって怪しさが炸裂してたじゃない。高校生の割りに老けてるし、誘拐魔と思ったくらいよ」  
 
 老けてるってなんだ。落ち着いてるとか高校生とは思えないほど思慮深いって言えよ。  
 
 「じゃあ、あたしのことも大人びてるといか、中一とは思えないくらいしっかりしてるとか言いなさいよっ」  
 
 階段で顔を突き合せる。久々に見た小太刀のような切れ味を持つハルヒの釣り眉釣り目だったが、明らかに本気じゃない。マジなら、立ち位置などものともせず、高所から見下ろしてるはずの俺が気圧されていたことだろう。  
 くだらない言い合いに程なくしてどちらからともなく噴き出した。  
 
 「馬鹿みたいな話だけど、暇をみてはあれからあんたのことを探したわ。あたしの我侭にまともに付き合ってくれる大人なんていなかったし、子供心に印象が強くてもう一度会ってみたいと思ってたの」  
 
 ちらつく蛍光灯が一瞬ハルヒの顔を照らした。  
 ハルヒの過去を慈しむような優しげな表情が一瞬浮かびあがって、俺の心拍は乱れる。  
 これだよ。この視線。今まで故意に意識から外すようにしていたが、これがいわゆる兄を慕うような妹の視線と称さしめるモノだ。  
 急速に俺の精神状態から余裕の二文字が褪せ始めた。  
 
 「学校の六限目をサボって北高の校門前で下校する生徒を全員チェックしたり、名簿を入手したりしたけど全部空振り。まぁ、ジョン・スミスなんて名前が名簿に載ってるかもしれないと思ったあたしもあたしだけどね」  
 
 そりゃまた無駄な手間を掛けさせたな。  
 
 二人して昔を懐かしむように笑うが、ハルヒは急に真顔になる。  
 
 「ジョンの正体はいくら調べても分からないままで、さすがに二年に上がってからはもう諦めるようになってたわ。その代わりに興味を惹くものがないか色んなことにチャレンジしたの」  
 
 中学でも部活荒らしをやったのか?  
 
 ハルヒは一瞬目を丸くしたが、すぐに納得したように続ける。  
 
 「表現はアレだけど、そうね。少しでも興味を惹くものがあったら即チャレンジして飽きることを繰り返したわ。でも、心の底から面白いと思えることなんかなかった。みんな常識の枠に捕われた予定調和のことばかり」  
 
 ハルヒの表情は険しい。  
 宇宙人や未来人や超能力者が絡んでこないと、つまらんということか?  
 
 「今思えばジョンとの出会いがその類のものだったから、それを自然と求めてたんだと思う。諦めたつもりで実は諦めきれてなかったってことよ。ジョンと校庭で落書きしたとき、あたし最高に楽しかったもの」  
 
 和らいだハルヒの表情にまたあの視線が戻っていた。  
 だめだ。  
 こんな健気で素直過ぎるハルヒは耐えられん。  
 つーか目の前に居るのは本当にハルヒか? 美人の上に妹属性まで付けやがって反則だろ。堪らず逃げるように前に向き直るが、ハルヒは構わず続けた。  
 
 「でもさ。こうやってまた会えた。毎日が楽しいって思えるようになったのは、ジョンのおかげよ。だからこれからも―――」  
 
 分かった! 分かったから恥ずかしいことに熱弁を奮うな。とにかく先急ぐぞ。もたもたするなと言ったのはお前だ。  
 強引に会話をぶった切って、脚を上げようとしたが、思った以上に俺は動揺していたらしい。  
 階段の途中で不自然な体勢で長く留まっていたことも災いして痺れて言ういうこと聞かなくなっていた俺の下肢は上半身を支えることを放棄して、バランスを崩した。  
 嗚呼、全部お前のせいだぞハルヒ。  
 傾く視線に慌てふためくハルヒの表情がスローモーションで写る。  
 どうか骨折だけは勘弁して欲しいと切に祈りながら、俺は階段を転げ落ちる覚悟をした。  
 
 
 「―――ョンっ! 起き―――よ! ジ――――ンっ!!」  
 誰かが俺を呼んでいる声が聞こえる。  
 眠りがあまりに浅いと自分が意識を無くしていることを自覚できる瞬間があるが、今はまさにそんな状態だ。寝ているのが分かるけど、自分の意志で起きられない。  
 正直もどかしい。  
 自分の身体が強く揺すられているのが感じられた。  
 誰だ、俺の安眠を邪魔する不届き者は。  
 聴覚と触覚が徐々にクリアになっていく。  
 そして、  
 
 「ジョン!」  
 
 という、一際大きな呼び声で俺は覚醒した。  
 目を開けていきなり飛び込んできたのはハルヒのどアップ。  
 目覚めるには十分過ぎる刺激だった。まったく心臓に悪い。  
 
 「良かった!」  
 
 ハルヒは目の端の何かを拭うと、俺の胴体に折り重なるように飛び込んできた。  
 ちょっと、待て!  
 慌てて制止しようとしたが、その前に痛覚が警告を出してきた。ハルヒを受け止めた衝撃で身体のあちこちから喧々囂々の悲鳴が上がる。  
 ハルヒのヤツめ。随分と自分勝手に気遣ってくれやがる。  
 しかし、この痛みで俺は自分の置かれている状況を自覚できた。  
 そうだった。俺は階段から落ちたんだ。  
 祈願の甲斐あって折れてはいない。全身打撲ってところか。やけに後頭部が疼くと思って触るとたんこぶが出来ていた。患部には濡れたハンカチが添えられている。あんまり想像できんがハルヒがやってくれたんだろうな。  
 五感が戻ってきてようやく気づいたが消毒液臭いここは保健室か。よく一人で俺をベッドまで運べたもんだ。  
 
 「もう目を覚まさないんじゃないかって思った」  
 
 お前な、そう思うなら救急車を呼んでくれよ。  
 
 「呼ぼうとしたわよ。でも、ケータイ開いた瞬間にあんたが動いたんだもの」  
   
 月明かりに照らされたハルヒの眼は真っ赤に充血していた。  
 こいつなりに俺のことを心配してくれていたってことなんだろうな。  
 
 「はぁ……、なんか安心したらどっと疲れちゃった」  
 
 ハルヒは大きなため息をつくと、一緒に身体の力まで抜けていったように弛緩し、重力に任せて俺に身を委ねてきた。  
 おい、怪我人だぞ俺は。重――っ!!  
 言おうとした瞬間すごい勢いで眉が釣り上がり脇腹を抓られた。  
   
 「……ちょっとだけでいいからこのままで居させて」  
 
 一転殊勝な小声でハルヒが呟く。  
 まぁ、泣くくいらい心配させたんだ。俺に責任がないとも言えん。  
 コートの上からハルヒの背中を撫でてやると、気持ち良さそうに長い睫毛を伏せてまどろんだ。  
 
 どらくらいそうしていただろう。  
 ハルヒと密着して忙しなかった俺の心拍はいい加減平常のペースまで落ち着いていた。上の主はさっきから身じろぎの一つしないで大人しくしている。  
 ひょっとしたら眠ってしまったのかもしれないと首を伸ばして顔を覗き込む。ここからは表情までは分からんが、まばたく睫毛の動きからしっかりと両方の眼を開けているようだった。  
 視線はどこか一点に固定したまま。  
 思い過ごしかもしれんが、何か思い詰めているのか?  
 会話に詰まる。ふと壁に掛かった時計を見上げると、暗闇に浮かび上がった蛍光塗料の時刻は午後十時を過ぎていた。思ったほど時間が経っていないな。  
 時間を意識して本来の主旨を思い出す。  
 そうだ、俺達は肝試し兼宝探しをやってるんだった。  
 一時間あれば向こうからの連絡があってもおかしくなはい。  
 古泉達からの連絡はまだか。  
 やはり上の空だったのかハルヒは俺の質問に一拍空けてから反応した。  
 
 「……まだよ。ふふっ、手間取ってるみたいね」  
 
 俺らはそれ以前の段階だがな。底意地の悪いお前のことだ、とんでもない所に隠したんだろう。ルールは守ってるんだろうな?  
 
 「失礼ね。ルールの範囲内で工夫するから面白いんじゃないの」  
 
 どこに……、いやこれは愚問か。場所は教壇の中という決まりだ。  
 どんな隠し方をした。  
 ハルヒは俺の質問に待ってましたと自信満面に、  
   
 「机の天板の裏に貼り付けたわ。上から覗く限り見つからないでしょうね」  
 
 と勢い良く口を開いたが、そこから急に失速して、  
 
 「……あんまり早く見つかると、……困るもの」  
 
 と、妙に尻すぼみな調子で答えた。  
 なぜいきなり目を逸らす。相変わらず読めんやつだ。  
 それはそうと、無い無いとべそをかきながら真っ暗の教室と廊下を行き来して彷徨う朝比奈さんと長門の姿が目に浮かぶ。ひどく同情がひかれる画だった。  
 しかし、いつまでここでダベってるつもりだ。  
 このままで居るのは色んな意味で危険な気がする。  
 
 「俺達は行かんのか。心配をかけたが俺ならもう大丈夫だぞ」  
 
 いい加減身を起こそうとしたがすぐにハルヒに両肩を押さえつけられて止められた。俺が戸惑う間にハルヒはすばやく馬乗りになって上から俺を見下してくる体勢になる。  
 影になってよくは分からんがハルヒは瞳を少し潤ませてはにかんだ様な意味不明の表情をしていた。  
 
 「いいの。……別に、やることができたから」  
 
 俺は絶句するしかなかった。冗談としか思えない状況で、ハルヒの顔は本気そのものだったからだ。  
 なんだか甘ったるいような、くすぐったいような異様な空気が辺りに張り詰める。  
 ハルヒは一度目を閉じて大きく息を吸い込むと意を決したように口を開いた。  
 
 「ジョンのことが、好きなの」  
 
 深夜の保健室で男に跨りながら突然告白を始める女子がどこに居る?  
 できることならこいつの辞書に極太マジックペンでTPOという単語とその意味を殊細かく追記してやりたいもんだ。  
 驚天動地の展開に俺の脳みそは真っ白にフォーマットされたように思考することを放棄してしまっていた。  
   
 
 これらの超展開を経て冒頭に繋がる。桶狭間にて信長による急襲を受けた今川義元ばりのピンチに俺が陥っている顛末だ。  
 据え膳食わぬは男の恥  
 なんとも男が都合よく言い訳するためにあるような諺ではあるが、今ほどこの諺の存在を恨んだことはないだろう。  
 しおらしく恥らうハルヒの所作は俺の理性を崩壊させるに十分な破壊力を持っていた。  
 傍らを向くと熱に浮かされたようなハルヒの顔。  
 蝶が花に吸い寄せられるように俺はその薄くグロスを引いた瑞々しい唇に自分の唇を重ねた。  
 閉鎖空間でハルヒと初めてキスしたシーンが蘇る。  
 柔らかくて温かい感触はあのときと全く一緒だった。  
 
 チュッ  
 
 と、中学生のするようなソフトなキスをして離れる。しかし、ハルヒはえらく不満だったしく、俺の首に手を回して頭を抱きかかえると、堰を切ったように今度は自分からキスを求めてきた。  
 
 「んっ、ちゅっちゅっ、ちゅるるるっ、んんん、んむっあむっ、ちゅっむ、ちゅっ」  
 
 積極的に舌を差し出して絡めてくるハルヒに圧倒される。慣れない刺激に後頭部がピリピリと痺れたような感覚がした。  
 心地よいけど苦しい。そんな妙な感覚に囚われる。  
 しばらくお互いを求め合うことに没頭するが、生命活動を無視することはできず窒息する限界で離れて息を継ぐ。  
 ハルヒは大粒の涙を流して泣いていた。思わず動揺する俺に、  
   
 「ばか。嬉し涙よ」  
 
 と、言い放つと再びディープキスを再開する。  
 
 「ちゅくっ、ちゅっちゅっ、れるっ、んむむっ、ジョン……、好きっ、んっ」  
   
 あまりに情熱的なキスにまるでハルヒに食われているような感覚に陥るが、このまま終始良いようにされるのもなんだか癪だ。反撃に出ようじゃないか。  
 ハルヒの味を堪能しながらコートのボタンを一つだけ外して手を差し入れた。セーター上からでも十分に分かるくらいのボリュームを誇る柔らかい膨らみに触れる。  
   
 「ひゃんっ!」  
 
 想定外の刺激にハルヒは可愛い声を出して水面で跳ねる魚のようにビクンと身体を震わせた。一瞬唇が離れる。  
 ちょっとした奇襲にはなったが、セーターとブラに阻まれたまま揉んでもなんだかお互いに楽しめそうにないため、怯んだハルヒに今度はこっちから口づけることにする。  
 
 「んん? んーんんんっ? んむっ、んんっ、ちゅっ、ちゅるるるっ、ちゅむ」  
   
 抗議満面のハルヒをキスだけで宥めることに腐心する。  
 長大な時間をキスに費やした後、ようやく慣れて一息着くことにした俺達は疲れて莫迦みたいに肩で息をしていた。  
 
 「はあっ、はあっ、はあっ、……ファーストキスにしては激し過ぎるだろっ」  
 
 「はっ、はっ、はあっ、……だってっ、ジョンの顔近くて見てたら我慢、できないんだもん、んんっ」  
 
 そう言うと、駄目押しばかりにもう一度唇を重ねる。  
 だめだ、この以上は正気を保てる自信が無い。  
 俺が呆ける隙を見てハルヒは身を起こす。再び俺に跨った体勢になると、何を思ったのかいそいそとコートを脱ぎ始めた。  
 なっ!? 待てっ、ハルヒ。  
 
 「何よ。自分で脱がしたいの?」  
 
 きょとんとした顔で見当違いのことをのたまう。  
 
 「そうじゃないだろ。お前、……その、ど、どこまでやるつもりなんだ?」  
 
 間抜けだ。思わずどもっちまった。  
 
 「どこまでって、……できるとこまでよ、って何言わせんのよ?」  
 
 「逆ギレしてる場合か。お前、ここがどこか分かってんのか。不法侵入中の学校だぞ? こんなとこで、その、なんだ……」  
 
 「何よ?」  
 
 悪知恵とか悪戯には天才的な鋭さを発揮するくせに、肝心なところでなんでお前はそうも鈍感なんだ。  
 言わせるのか? 俺にこんなはずかしい台詞を!?  
 …………、こいつを納得するためには言うしかないんだろうな。  
 俺は観念したようにしぶしぶ口を開く。  
 
 「落ち着いていちゃいちゃできんだろ!」  
 
 嗚呼、もう穴があったら入りたい。  
 というか、軽く今まで作ってきた俺のキャラが崩壊してるんだが、どう責任取ってくれる。  
 俺の言葉が鼓膜を震わした瞬間に、ハルヒは真っ赤に顔を染め上げる。  
 言わんこっちゃない。  
 
 「ジョンは、お、落ち着いて……したいんだ。そうよね、落ち着いて、じっくり」  
 
 口元に手をやって俯きながら上目遣いにこちらをチラチラと覗き見するのは止せ。我慢できなくなりそうだ。あと、どさくさに紛れて勝手な解釈をするな。  
 
 「宝が見つからなかった場合、十時半で打ち切ることになってたよな。後十五分もないぞ。途中で古泉から電話が入るのは寒いと思わんか?」  
 
 「電源切っちゃえば……」  
 
 「それも駄目だ。音信不通になるときっとヤツは本気で心配し出すだろうからな。騒ぎが大きくなるぞ」  
 
 俺は決死の説得に手ごたえを感じていたが、ハルヒは見る見る不機嫌になり口をすぼめてむくれる。久々のアヒル口の披露となった。  
 
 「何よ。あんたそんなにあたしとしたくないワケ?」  
 
 ああもうっ、違うっつーのっ! こういうのはちゃんとしたいんだよ、俺はっ。  
 
 頭を掻き毟る俺に、ハルヒは仮面を外した様に顔をほころばせて、してやったりと舌をチョロっと出す。  
 まんまと騙された。言わなくて良い台詞を吐かされたような気がする。そこはかとなく高い代償を払ったような気分だ。  
 
 「うそうそ。分かったわ。……分かったから、さっきのもう一回!」  
 
 ハルヒは俺の手を取ると、目いっぱい反動をつけて後ろに倒れ込んで、落胆する俺を振り回すように起こさせる。  
 
 「いててててっ! あのなぁっ、俺は怪我人―――」  
 
 座って向かい合った状態になるや否や、例によってこちらの言い分など耳を貸さずにハルヒは再び求めてきた。  
 小首を傾げながら目を閉じて迫ってくるハルヒの顔が切り取られた画のように網膜に写りこむ。  
 また一つ女の子したハルヒの表情を発見して、柄にもなくドキリと胸が高鳴った。  
 そんな不意打ちに乗じて甘い香水の香りと柔らかい唇の感触が再来すると全身打撲の痛みもどこへやら、麻薬のような甘い快感に押し流されてしまった。  
 全く健全な男子のカラダってのはなんて現金なんだろうね、と他人事のように言い訳するのも儘ならず、息をする間も惜しむようにハルヒと舌を絡めあって、ひたすら唾液を交換して嚥下することを繰り返す。  
 まさかこいつ残りの時間を全部キスに費やすつもりなんじゃないだろうな?  
 この状況に異議を唱えるつもりはさらさらないが、同時に生殺しの状態だぞこれは。  
 早くブリーフの中から出せと涎を垂らしながら喚いてる息子がやかましくて敵わん。  
 そんなことを意識して、目を開ける。  
 唇の動きがなおざりになったことを悟られたのか、ハルヒも目を開けて自然とインターバルになった。  
 
 「ジョン……? どうしたの?」  
 
 訝るハルヒに、  
 我慢できなくなってきた。  
 などと男の純情を素直に告白することなどできるはずもなく、自分でも下手な誤魔化し方だと分かりながらも、逃げるように視線を外してあさっての方向を向いた。  
 そう、そこに時空を超えた修羅場が待ってるとも知らずに。  
 
 こんなに明るかったか?  
   
 暢気にそんなことに気づいたのが事の始まりだった。  
 白の空間であるはずの保健室は、いつの間にか灰色に染まったように薄明るかった。  
 俺はようやく異常に気づく。  
 どうなってるんだ? 深夜の闇はどこへ失せた?  
 確かに今夜は丸い月が出ていたが、窓からの差し込む月明かりではこんなに部屋の照度が均一になるはずがない。  
 ふと、備え付けの薬品棚に視線が定まる。ガラス戸に写りこむ人影があった。  
 北高の冬服セーラー、肩に掛かるか掛からないかセミロング、黄色いカチューシャ、揃いのリボン、吊り上った眉、エトセトラエトセトラ。  
 江戸時代のゼンマイ仕掛けのからくり人形のような滑稽な動作で目の前のハルヒとガラスに写った保健室の窓の外に佇むハルヒを何度も見比べる。  
 
 「???」  
   
 当然のごとく目の前のハルヒは首を傾げるが、俺はそれ以上に錯乱していた。  
 
 物理的にありえないだろう。  
 実像が同じ方向を向くなんて。  
 いや待て、問題はそこじゃない。  
 それ以前に服装と髪の長さが違う。  
 質の悪い冗談だったら勘弁してくれ。  
 なぜ、元の世界のハルヒがここに居る―――?  
 
 ガシャ―――ン!  
 
 窓ガラスが割れる音がどこか浮世離れした静寂を破った。  
 いきなりガラスを蹴破って乗り込んでくるという信じ難い暴挙に出たハルヒに、俺とハルヒは弾かれた様に身構えた。  
 ああ、もうややこしい。  
 朝比奈さんに倣ってこう言い直そう。  
 ガラスを蹴破って保健室に闖入してきたハルヒ(短)に、俺とハルヒ(長)は視線が釘付けになった。  
 
「キョン〜〜〜〜、見つけたわよ〜〜〜?」  
 
 背後に黒いオーラを沸々を湧き上がって見えるのは、マイナスプラシーボ効果だろう。  
 涅槃から這い上がって来たかのような怨嗟の声に冗談抜きで戦慄を覚えた。  
 
 「ようやく見つけたと思ったら、こんなっ、夜中の保健室に女連れ込んでっ、……いやらしいっ。 いきなりあんたが失踪してみんなどれだけ心配したか分かってんの?」  
   
 待て待て待て、自慢じゃないが展開に全然ついていけてないぞ。そもそもなぜお前がここに居る?  
 
 「あたしの話を逸らそうなんて七兆年早いのよ。総動員で寝る間も惜しんで捜索活動やってたのに、女作って近場でシケこんでたなんて、さすがのあたしもびっくりよ」  
 
 ハルヒ(短)は仁王様のように血走らせた目を見を開くと、右手を握り締めて振るわせた。  
 どうやら相当お冠らしい。こっちの命の危機が感じられるほどにな。  
   
 「……どういうこと? 誰? ……あたし?」  
 
 一方ハルヒ(長)はきょとんとした様子でもう一人の自分と俺に視線を往復させていた。  
 
 「いいから、早く離れてベッドから降りなさい!!!」  
 
 耳をつんざくようなハルヒの怒号に弾かれたように俺はハルヒ(長)を押しのけてリノリウムの床に直立不動で立った。  
 なんだこれ、自分でも驚くくらい素早い動作だったぞ。条件反射になってるとしたら、悲しくなってくるね。  
 
 「わっ、ちょっと!」  
 
 乱暴な扱いに不満の声を上げたハルヒ(長)だったが、しぶしぶといった感じで俺の傍らに立つ。  
 長短ハルヒの初対峙となった。  
 
 「あんた誰? キョンはウチの団員なの。専属契約結んでんのよ。垂らしこんでるところ悪いんだけどちょっかい出さ―――」  
 
 形振り構わず先手取ってまくし立てようとしたハルヒ(短)がハルヒ(長)を見たまま途中で絶句した。  
 今更気づいたのか。  
 
 「なにこれ? なんでショートのあたしがもう一人……、それにキョンって……  
 
 ハルヒ(長)も言葉に詰まるが、  
 
 「もしかして、そういうこと? …………ふーん」  
 
 世界改変の経緯を知るこいつは何が起こっているのかすぐにピンときたらしい。察しの良いヤツだ。  
 唖然を悠然に変えて口元に薄く笑みを浮かべると、真正面からもう一人の自分に向き直った。  
 
 「はじめましてこんばんは、涼宮ハルヒさん。悪いけどジョンは返さないわよ。ジョンはあたしを選んだんだもの」  
 
 大嘘だろそれ。  
 と、ツッコむ前にハルヒ(短)が自分がもう一人居ることに関する疑問をすっとばして人類の限界に挑戦するかのような反応速度で応えた。  
 
 「はぁ? 色気で騙して調子に乗ってんじゃないわよ。キョンはねぇ、こう見えて純情なのよ。身体ばっかり大きくなって一生懸命ニヒルにカッコつけようとしてるけど、全然サマになってないわけ」  
 
 言いたい放題だな、おい。  
 
 「このくらいの年頃の男子は色香漂わせればすぐにコロっといっちゃうのよ。アンタみたいなケバい女にでもねっ!」  
 
   
 俺の内面に関しては甚だ遺憾ではあるが、完全に修羅場と化した保健室で俺が口を挟める余地などなさそうなのが更に遺憾だ。。  
 貶められたハルヒ(長)は肩眉を吊り上げて痙攣させながら反駁する。  
 
 「ふん。お子様ねぇ。既成事実作ってから付き合おうかなんていくらでもあると思うけど。あたし知ってるんだから、あんたがジョンのこと好きだってこと。本当はあんただってジョンとこういうことしたいんでしょ?」  
 
 ハルヒ(長)は、俺の腕を取ってギュッと抱きしめて身を寄せてきた。  
   
 「なっ!?」  
 
 思わず一歩踏み出すハルヒ(短)。  
 こらっ、火事場にガソリンを放水するような真似は止せ。  
 くそったれ。振りほどこうとするが、万力のような馬鹿力で引き剥がせん。  
 
 「ハン、嫌がってんじゃない」  
 
 「照れてんのよ。お子様には男心は難しすぎるかしら」  
 
 ああもう、できることなら今すぐここから消えてなくなりたい。  
 これはもう収拾不可能だろ。  
 片肌に桜の彫り物を入れても丸く収められそうにない。  
 どうすれば……、どうすればいい―――?  
 
 ォォォ――ンン  
 
 少し頭を冷やして逡巡を始めたとき、俺は微かな地鳴りのようなものを聞いた。  
 周りの様子などそっちのけで長短合戦中のハルヒを差し置いて、目を閉じて聴覚に集中する。  
 
 ドォオォォォ――――ン  
   
 さっきよりも確実に、だがあまりに震源が遠いせいか相変わらず体感の薄い地鳴りが聞こえた。  
 瞬間に俺の身体が凍りつく。  
 そうだ、目の前の現象を追うだけでいっぱいいっぱいで失念していたが、灰色の世界とセットになってるモノがあった。  
 青い光の巨人。古泉が属する機関が神人と呼ぶモノ。  
 アレが出てるとするなら、こんなところで愚図ってる暇などない。  
 すぐに確かめる必要があると思った俺は、居ても立ってもいられなくなって、舌戦に夢中のハルヒ(長)を強引に振りほどいて保健室を飛び出した。  
 
 「あっ、こら!」  
 「あっ、こら!」  
 
 二人のハルヒによる見事にハモりを背に、俺は廊下を走りきると全身打撲の身体に鞭を打って階段を駆け上がる。  
 激痛に腰砕けになろうとするが、スロープに取り付いて形振り構わず屋上を目指した。  
 そんな中、三階の廊下から階下を見下ろす人物と鉢合わせた。  
 待ってたかのようにスロープにカッコつけてもたれかかっている様子を見ると、こっちの世界のアイツじゃないことは雰囲気で分かる。  
 やはり来たか。随分と久しぶりじゃないか。  
 
 「ええ、お久しぶりです」  
   
 実質的にはお前の声は毎日のように聞いていたが、妙な懐かしさを感じるね。状況はどうなってる?  
 俺と古泉は合流すると、どちらからともなく同じ目的地を目指して駆け出した。  
 
 「一言で説明するのは非常に難しいですが、可能な限り端的に表現すれば、涼宮さんが二つの世界を閉鎖空間で強引に繋いだという表現になるでしょう」  
 
 二つの世界だと? じゃあ、俺が元居た世界は消失せずに残っているってのか。  
 
 「ええ、原因は不明ですが、去年の十二月十八日の早朝に突如新しい世界が構築されました。元の世界から分岐する形でね。分岐開始地点はそれよりずっと前のようですが、詳細はつかめていません」  
 
 改変じゃないのか、新しいパターンだな。  
 
 「そうです。いわゆるパラレルワールドという代物ですよ。しかしどうしても解せないことがありましてね」  
 
 このクソ非常事態でもったいぶってる場合か、とっとと話せ。  
 
 「全人類に対して異世界同位体がもう一人存在する状態の中、どうもあなたはイレギュラーな存在のようでして、元の世界から消えて新しい世界のもう一人の自分を押しのける形で移動したようです」  
 
 なんで俺が例外扱いなんだ。  
 自嘲するわけでもなく、全日本凡人選手権ってのがあるならばベスト32くらいに残る自信はある。何の特技があるわけでもなく、何でも中途半端にできるようで実は何もできないってのが俺のステータスのはずだ。  
 
 「推測の域は出ませんが、何か異なる大きな力がぶつかった結果なんじゃないかと僕は感じています。そうでなければ、こんな誰も望まないような半端な形で世界が分岐・再構築されないでしょう」  
 
 ハルヒ以外にこんな芸当ができるヤツがいるってのか。  
 
 「まだこの話はオフレコなのでこれ以上追究するのは止しましょう。ただ、向こうの涼宮さんがこの閉鎖空間を発生させたことに疑う余地はないでしょう」  
 
 まぁ、それはアイツが突然現れたときに薄々気づいてはいたがな。  
 
 「この閉鎖空間は特殊で向こうの世界とこっちの世界を繋ぐ異世界連結型の大規模閉鎖空間でしてね。なんとしてもあなたを探し出したいという涼宮さんの欲求の表れでしょう」  
 
 相変わらずとんでもないことをやってくれるぜ。  
 
 「あなたが失踪してから、涼宮さんはそれはもう荒れに荒れました。閉鎖空間が過去に例を見ない頻度で発生し、もうそろそろ僕達も食い止めるのに限界だと思っていた矢先のことなのでさすがの僕も参りそうです」  
 
 そうかい。今回ばかりはお前に同情するよ。  
 身体が疲労と打撲で言うことを聞かず段差に躓いてバランスを崩したが、ちくしょうとばかりに叩きつけるように壁に手を叩きつけて立て直す。釈迦力になって上を目指した。  
 最上階をパスして半階分上がって身を翻せば、屋上への鉄扉が見えた。一気に駆け上がって体当たりするように乱暴に押し開ける。  
 
 ―――――――――。  
 
 屋外にも関わらず、無色無音の世界がそこに広がっていた。  
 降り注ぐ太陽の光も、耳元をそよぐ風もなく、ありふれた飛行機や自動車の騒音も、人の喧騒も小鳥の囀りすらもない無音のモノトーンの風景は気を抜けば発狂しそうなくらいの異常に満ちていた。  
 最悪の気分だ。もう二度と来るまいと心に決めてたのにな。  
 
 ドォォ――――ンン!!!  
 
 保健室で聞いたときよりも確かな地鳴りが響いた。  
 辺りを見回すと――――、居た。神人だ。  
 できるだけ近くで見るために屋上を走って突き当たりのフェンスに取り付いた。  
 山の上に学校が建っていることに感謝したのはこの瞬間くらいだろう。高台のような屋上から遠くまで見渡せた。  
 ここから確認できるのは一体だけ。  
 十五キロくらい離れているので目を凝らさねばよく分からないが、繁華街のビル群をドミノ倒しのようにして遊んでやがる。  
   
 「今は一体だけですが予断を許さない状況です。現象からして放置すれば両方の世界がまとめて破棄させるでしょう」  
 
 古泉、俺はどうすればいい……。  
 自分でも愚問だと分かっていた。解決策なんぞがあるなら真っ先に伝えてくるはずだ。  
 しかし、問わずにはいられない。  
 追い込まれた俺はそれくらいに狼狽していた。  
 
 「……解釈の仕方にもよると思うんですが」  
 
 古泉が神妙に切り出す。  
 
 「あなただけがイレギュラーな存在ということは、あなたが世界の在り方を決める権利を持っているということなんじゃないでしょうか。実際に間もなく審判の時は訪れます」  
 
 百万歩譲って決める権利があったとしようじゃないか。だが、二者択一できる状況じゃないだろ。  
 ハルヒ(短)を選べば俺は元の鞘に戻るんだろうが、ハルヒ(長)とこの世界はどうなる。消失して終わりか? 俺に世界一個を消す権利なんて本当にあるのか?  
 逆にハルヒ(長)を選べばこの世界は存続するんだろうが、フラストレーションを溜めたハルヒ(短)が何を巻き起こすか分かったもんじゃない。それこそ、二つの世界がまとめて消滅するってこともあるんじゃないか?  
 
 「お気持ちは察しますよ。しかし抜き差しならないところまで来てしまっているのも事実なのでね」  
 
 古泉はそこで一旦区切ると、眉間の皺を解いて見たこともないような他意のない笑顔を俺に向けた。  
 
 「何の慰めにも参考にもなりませんが、僕の個人的な意見としてはあなたが決めていいと思ってますよ。どんな世界を選ぼうと、あなたが選択したものなら少なくとも僕に不満はありません」  
   
 オォオォオォォォ―――――ンンン  
 
 神人の咆哮が鼓膜を震わす。街の方角を見ると、新たな神人が二体出現していた。  
 
 「まずいですね。応援に行かなければ。僕にできることは神人を食い止めることだけです。後は頼みましたよ」  
 
 そう言い残して古泉は赤い球体に変化して猛スピードで飛んで行った。ただでさえ赤い光点は見る見るうちに遠近法によって掻き消された。  
 
 「キョン!」  
 「ジョン!」  
 
 古泉の退場を見計らったようにハルヒから絶妙のタイミングでお呼びが掛かった。  
 振り返ると、そこには二人のハルヒが息を弾ませながら立っていた。  
 俺がそうだったように二人とも変わり果てた世界の様相に一瞬面食らう。  
 が、一度閉鎖空間を体験しているハルヒ(短)は耐性のある分すぐに気を取り直してこちらへと歩みを進め始めた。  
 ハルヒ(長)もそれを見て、少し慌てたように負けじと続く。  
 
 「キョン! 帰るわよ。サボってた分たっぷりコキ使ってあげるから、覚悟しときなさい。不純異性交遊の罪をたっぷり懺悔させてあげるわ」  
 
 「ジョン! こんな子供っぽい女なんか構ってないでさ、あたしと一緒にいようよ。高校生は高校生らしく付き合うべきよ」  
 
 この幕末の京都のような殺伐とした状況でどっちかを選べというのか?  
 世界の行方云々の前に、どっちかを選んだ直後に刺されるんじゃないか?  
 左脳をフル回転させるしかない。考えうる最良の選択肢を最速で選ぶんだ。  
 どっちかを選ぶシミュレーションはさっきやった。  
 結論として一方を選ぶなんてことをできそうにない。  
 では、いっそのことどっちも選ばないってのはどうだ。  
 だめだ。選ばないということはハルヒを振るのと等価だ。  
 特にハルヒ(短)のイライラを煽るのは返って自滅行為だ。  
 体の良い台詞もない。プレイボーイじゃない自分が恨めしい。  
 そうなると残る選択肢はただ一つだ。両方選ぶってのはどうか。  
 この際もう俺が二人のハルヒの面倒をみるしかないんじゃないか。  
 神人を古泉に任せて三人でじっくり話せば分かり合えるかもしれん。  
 そうだよ。どの道すぐに答えなんて出るわけがない、しばらく三人で――――。  
 
 崖っぷちで解を見出して、眼前にに光が差したかと思えたのとは裏腹に、急に視界が暗転した。  
 ものすごい精神的、物理的な圧力が上から差し迫っていると気づいたときはもう遅いと自分でも悟っていた。  
 二人のハルヒが歩みを止めて俺の上にある何かを見上げて、何かを喚いているが耳に入って来ない。ただ、上から降って来るものの影が二人まで掛かってないことに安堵した。  
 そうだよな。  
 不埒者には制裁を。  
 これは正直受け入れるべき天罰だと思う。  
 
 ズドォォオォォォオオオォォォォ――――――ン  
 
 突如背後に出現した神人の手刀によって俺は校舎ごとペシャンコに潰された。  
 
 
 ハッ。と永遠に覚めるはずの無い目が覚めた。  
 朝日が眩しくて思わず目を眇めるが、見慣れた天井が網膜に写った。  
 上半身を起こす。紛れも無く俺の私室だった。  
 どういうことだ。夢にしてはリアルな感覚が残り過ぎている。  
 ただ、全身打撲のはずの俺の身体はどこにも異常が見られない。  
 たんこぶも消え失せた様に無くなっていた。  
 慌てて手元に置いてあった携帯電話で今日の日付をチェックする。時計のデザインが不評の俺の機種は液晶に十二月二十五日午前九時二十分を表示していた。  
 学校はないはずだ。真っ当な世界なら冬休み初日ってことになる。  
 また世界改変か……。  
 もはや寝起きを覚ますに足るインパクトすらも無い。  
 淡々と飲み込めるようになったのは果たして良いことなんだろうかね。  
 そんな時、携帯に一通のメールが着信した。ハルヒからだ。  
 寝起きで近くに焦点の合わない目を凝らして内容を読む。  
 
 『十時に駅前だから。あんた分かってるんでしょうね』  
 
 分かるかよ。と一人でツッコみを入れつつ今までの履歴をチェックした。昨日の俺はどうやら夜に数回ハルヒとやり取りしていたらしい。  
 それによるとどうやら今日ハルヒと会う約束をしたことになっている。  
 何をするのかは分からん。とにかく来いという内容しか辿ることができなかった。  
 
 「キョン君。朝だよー」  
 
 バタンというけたたましい音を立て、朝の恒例イベントを消化するためにマイ妹が部屋に飛び込んできた。  
 
 「冬休みだからっていつまでも寝―――、なんだ起きてたんだ。つまんなーい」  
 
 こらっ、おはようの挨拶くらいしていけと俺は起き上がる。  
 いつでもどこでも世界が変わろうとも全く変化のない妹を見てるとどこか癒されたような気分になった。  
 さて、一体世界はどうなってしまったんだろうね。  
   
 
 朝飯もそこそこに切り上げて、いつもの通り適当に身支度を整えた俺はママチャリを走らせた。  
 遅刻して奢らされるのを回避するわけではなく、俺は一刻も早くハルヒの答えが知りたくてペダルを踏む足を加速した。  
 ロータリーの違法駐輪の群れにママチャリを押し込んで、いつもの待ち合わせ場所にたどり着いた。  
 大時計を見上げると、時刻は九時五十二分。  
 間に合ったが、誰も居ない。  
 ハルヒのことだ、絶対に早く着ていると思っていたが、拍子抜けだな。  
 上がった息が煩わしい。  
 急かしといて自分はギリギリかよ、などとボヤくのも無駄なエネルギーだと諦めると、俺は息を整えることに専念することにした。  
 しかし中々呼吸が落ち着かない。思った以上に俺は緊張しているらしかった。  
 しばしの待ちぼうけを食らって心拍のペースが戻った頃に、横断歩道の方から声が掛かった。  
 
 「キョーン!」  
 
 という声に反応する。  
 …………そうか。俺は元の世界に戻ってきたのか。  
 と、どこか溜飲を下げた一方で一抹の暗澹とした気分を味わう奇妙な感覚がした。  
 それでも俺は結果を受け入れるしかない。  
 振り向けば髪の短いハルヒが待っている。  
 そう言い聞かせて俺は視線を移す。  
 しかし、そこで待ち受けていたのは俺の予想の斜め上を二段くらい飛び越えた光景だった。  
 
 「ごっめーん。もしかして待った? 思ったよりこの子連れてくるのに時間掛かっちゃってさ」  
 
 「痛いって、あんま引っ張んないでよ」  
 
 白とピンクの色違いのフレアコートを着てハルヒ(短)がハルヒ(長)の手を引いて近づいてきた。  
 ……どういうことだ?  
 呆けながらもなんとか声帯から搾り出した俺の質問にハルヒ(短)がいらずらっ子のように目を輝かせて答える。  
 
 「びっくりした? あたしの双子の妹よ。叔父の元で小さい頃からイギリスに留学してたから日本に帰ってくるのは久し振りなんだけどね」  
 
 「涼宮ハルキよ。よろしく!」  
 
 ハルキと名乗った髪の長いハルヒは完全置いてきぼりを喰らって呆然自失の俺の垂れ下がった右腕を勝手に取ると、それを振り回して強引に握手を交わす。  
 
 「これが噂のキョン? ふーん…………」  
 
 ハルキはまるで値踏みをするかのように頭のてっぺんから足元まで俺に視線を這わせてきた。  
 一体なんだ? 珍しい物など何一つ身に着けているつもりはないんだが。  
 
 「聞きしに勝るってこのことかしらね。ほんっと地味なのね」  
 
 「言ってるでしょ。地味なのが売りのキャラクターなのよ」  
   
 ステレオで貶されるのは初めての経験だ。  
 確かに新鮮ではあるがなんだが頭痛がしてきた。眩んだ視界に思わず額を押さえる。  
 
 「あっ、ちょっと待ってっ」  
 
 ハルキは何を思い付いたのか、いきなり両端で縛っていたリボンを解くと、口でくわえて髪を後ろで一つにまとめ始めた。手際良くポニーテールになる。  
 
 「ホラッ、どう? あんたの好きなポニーよポニー。どう? そそる?」  
 
 公衆の面前などお構いなしに、長い髪を左右に振りながら俺の前で色んな角度でポーズを取り始めた。  
 いや、そりゃあ絶品で眼福には違いないんだが。披露するタイミングとシチュエーションが間違ってるだろう。  
 色んな意味で感想を言えないでいる俺にハルキはチョロチョロ動くのを止めると不満そうにハルヒにこぼす。  
 
 「あれ? 何よ、全然反応なしじゃない。ハルヒ、あんた髪伸ばしても無―――むぐっ」  
 
 何か言おうとするハルキの口をハルヒが慌てて押さえ込んだ。  
 ハルキは手足をバタつかせて盛大に暴れる。  
 
 「あー、ごめんごめん。変な事やり出しちゃって。この子帰ってきたばかりで……、そうっ、時差ボケなのよ」  
 
 「むー! むー! むー!!!」  
 
 時差ボケのボケ方ってこういう類のものと違うだろ。  
 
 「こ、細かいことはいいのよ。とりあえず喫茶店にでも入るわよ」  
 
 怒るハルキの口を押さえながら、ハルヒは逃げるように歩き出す。  
 その背を見送りながら俺は深い溜息を吐いた。  
 
 そうか、これがお前の答えなんだな。ハルヒよ。  
 ……いいだろう。お前に付き合うのが俺の役割だ。  
 
 「キョン何してんの!」  
 「早くしなさいよ!」  
   
 横断歩道の向こうで捲くし立てる姦しい双子の姉妹。  
 二人分のハルヒの相手をすることを思うと気が滅入りそうになるが、自分の撒いた種だ。  
 この世界の行く末を見届ける責任感くらいは俺にもある。  
 背後の街頭時計から十時を示すチャイムが鳴り響く。  
 延長十回表のコールとばかりに俺は駆け出した。  
 
―完―  
 

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