さて、最初に色々と説明しておかねばならんだろう。  
 去年末から今に至るまでのウナギ同士が喧嘩してくだを巻きながら絡まったような複雑怪奇満載の紆余曲折を。  
 去年のクリスマスを迎える直前の頃に俺を取り巻く世界が突然切り替わった。  
 それはもう舞台劇で優秀な黒子があっという間に背景を変えてしまったかのような手際の良さでな。  
 クラスからハルヒだけが消えてることに気づいた衝撃は忘れようもないぜ。古泉に至っては9組の教室ごときれいさっぱり消えちまったときたもんだ。  
 よくよく調べてみりゃハルヒと古泉は共学になった光陽園学院の生徒で、北高に残っていたのは朝比奈さんと長門だけ。  
 学校が分かれただけならまだ救いはある。だがこの世界の面子はみんな揃いも揃って特殊属性を捨てて、ただの一般人になっちまってところが絶望的だった。  
 そんな正常でありながら異常な世界に俺は投げ込まれちまったってわけだ。まったく何の因果だろうね。  
 しかし、捨てる神あれば拾う神ありってのは真らしく、天国から地獄のカンダタにクモの糸を垂らすが如く、俺に救いの手が差し伸べられることになる。  
『鍵をそろえよ』の指令、緊急脱出プログラムの起動。もちろん救世主は我らが長門様だ。  
 俺が放り込まれた世界に居た文芸少女の長門じゃなくて、元の世界で共に過ごした情報統合思念体ヒューマノイド・インターフェースの長門。  
 俺はその長門の指令に従って、文芸部室に団員を終結させて緊急脱出プログラムの起動準備まで漕ぎ着けた。そこまでは順調だったと言えるだろう。  
 後は画竜点睛とばかりにそのボタンを押すだけ――。  
 そこで、とんだ邪魔が入りやがった。  
 こっちの世界の髪の長いハルヒがボタンを押そうとする俺の手を寸でのところで掴みやがったんだから堪らない。まったく冗談じゃねぇぜ。  
 結果的にプログラムは不発。俺の居残りが決まった瞬間だ。  
 だが、そう単純に結末を迎えないのが俺のひねくれた運命なのさ。  
 どうやら起き上がりこぼしのように安定知らずの反面、どんなときでも窮地から這い上がれるチャンスがあるらしい。  
 最近この境遇が良いことなのか悪いことなのか真剣に悩むようになってきたんだが、どうだ?  
 少なくとも間違いなく心臓には悪いという確信はあるんだけどな。  
 何の前触れもなく元の世界の髪の短いハルヒが乗り込んできやがったんだよ。  
 発生させた閉鎖空間で元世界と新世界を繋げるという実にあいつらしい強引なやり方で。おまけで漏れなく古泉が付いてきたのはもはや余談以外なんでもないことだが。  
 過程は割愛させてもらうが、クライマックスに北高の屋上で長短ハルヒから二択を迫られることになる。  
 どっちについていくかってな、そんなもんをすぐに決められるくらいならこんな妙な人生を歩んじゃないぜ。  
 いっそのこと二人まとめて俺が面倒見ればいいんじゃないか?   
 なんて、不届きな回答放棄が頭を掠めたのが終わりの始まり。  
 突如現れた<<神人>>によって、田舎道で轢死したヒキガエルのように俺はペシャンコに潰されて意識を断絶させられた。  
 
 
 ――、このときばかりは本気で死を悟ったね。四半世紀も生きないままに俺の人生が短編形式で終了したと。  
 だが二度と覚めないと思っていた俺の目は再び見開かれることになる。  
 目覚めたのが自室のベッドだったから、いっそのことただの長い夢ということにしてしまい願望も虚しく、俺を出迎えたのは二人のハルヒ。  
 いや、正確に言うと双子の涼宮姉妹だった。中学をイギリスに留学して過ごした双子の妹が帰国して戻ってきたという細かい設定付きの。  
 妹は一卵性双生児を証明するかのように、なり形は三次元コピー機で複写したんじゃないかと思えるくらいに見事にハルヒと瓜二つ。髪が腰までかかるくらいに長いこと以外はな。  
 俺から言わせれば、さっきまで居た世界で光陽園に通っていたハルヒにそっくりだった。俺のことを『ジョン』と呼びやがるしな。イギリスだからジョンの方が親しみはあるんだとよ。よく出来たこった。  
 
 ちなみに妹は双子にありがちなコンビ名よろしくハルヒと語感を合わせて某と名乗ったが、俺にとっちゃどっちもハルヒであることに違いがない。ゆえに、俺の中ではそれぞれハルヒ(短)とハルヒ(長)で勝手に定義されてしまっている。  
 一方、他の面子はどうなったかというと、基本的に元居た世界の面々と言えるだろう。  
 長門は宇宙人で朝比奈さんは未来人で古泉は超能力者であり、北高に通うSOS団のメンバーであるという基本がここでは成立していた。  
 そして3人はSOS団設立から野球大会、夏合宿、終わらない夏休み、文化祭ライブジャック、コンピ研とのネットゲーム対決に至るまで、取りこぼしもあますことなく記憶の照合が取れている。  
 これだけで俺は十分に満足だった。  
 なんだかんだ言って、俺にとってはやっぱりここが心休まる世界なんだってことなんだろうな。  
 長門の考察によると、今現在ハルヒ(短)は世界改変の能力を封印した状態にあるらしい。今俺達が居る世界は他からの受けない断絶世界で、この特殊な世界を維持するためにハルヒ(短)の能力のリソースの大半が奪われてるっていう話だ。  
 ちなみにハルヒ(長)には物騒な能力そのものが備わっておらず、認識がごく普通の一般人となっている。  
 断絶世界は他からの干渉に制限を与えるらしく、現在長門は能力をかなり限定されて。朝比奈さんは未来との通信ができない状態にある。リソース不足のせいか閉鎖空間の発生もないために自ずと古泉のバイトも休止中となっている。  
 分かりやすく言うと、ここは俺が生まれ育った世界と連続性があって、ハルヒが双子で、SOS団のメンバーは限りなく一般生徒に近い状態にある。そんな世界だった。  
 
 
 この世界が始まったのは去年末の12月25日。そして今の日付は5月31日の深夜、あと1時間足らずで6月になる。俺はこの世界で半年足らずを過ごしたってことになるのか、感慨深いもんがあるね。  
 ただでさえ俺の両手両足に余るハルヒが二人に増えたとしたら。  
 そんな恐ろしくて仮定するのも憚られるようなふざけた設定が現実となり、当初はかなりハルヒ(長)の動向に注目した。  
 お約束のように北高の1年5組に転入してきて、俺の前の席に陣取ってオセロのように涼宮姉妹に挟まれてしまうのではないかと気に病んだりもした。  
 だが、よくよく考えれば毛虫よりも普通を嫌うハルヒ(短)と同じDNAを持つあいつがそんなベタな展開を好むはずもなく、ハルヒ(長)は光陽園女子に編入した。  
 そしてSOS団の第二名誉顧問に就任し、鶴屋さんのように一歩退いたところから見守るような姿勢を貫いている。  
 そうは言っても事ある毎にちょっかいをかけてきて事態をややこしくしてくれたりするんだけどな。そのスタイルはまるでヒットアンドアウェーのボクサー。姉とは別の意味で油断のならん存在だった。  
 その最たる例が今回の惨事だな。  
 できることならもう勘弁願いたいね。こんな寿命をカンナ掛けされているような心地は二度と味わいたくない。  
 そういうわけで、ようやく本題に入れそうな気配になってきたわけだが、察しの通り今から語り草にするのは件の『寿命のカンナ掛け』の詳細レポートだ。  
 決して誤解のないように傷をなぞる様な自虐行為じゃないことをあらかじめ断っておく。  
 自分はそれほどのマゾヒストじゃないと信じたい。じゃあどれほどなんだとここでツッコまれても困るんだが、まぁいい。  
 酷い目に逢ったらみんなに話して少しでも楽になろうという心理があるだろう? アレと似たようなもんさ。そうに違いない。  
 とにかくここで今までのあらすじ終わり。始めようか。  
 
 
//////////  
 
 
 昼下がりの教室の窓際。  
 天球の頂点付近でこれからの夏に向けて大ブレイク間違いなしとセルフプロモーション活動をおっぱじめた太陽の強い日差しを浴びながら数Uの授業を粛々と受けていた。  
 この時間帯は一日の課程も後半戦に差し掛かって疲れが見え始めた頃合いで、なおかつ腹は満たされて適度に暖かく過ごし易いというゴールデンタイムとなる。  
 その証拠に恩恵にあずかって舟を漕いでる奴らが続出している。谷口の阿呆に至ってはハンドタオル持参で枕代わりに机に伏してやがる。  
 それを尻目に俺は板書をとる作業を休まずに続けた。  
 本音を言えば俺だって右へ倣えで眠りの海にダイブしたいのはやまやまだ。だが、それを許さない厳とした現実が俺に突きつけられていた。  
 最近授業に全く付いていけてない。  
 実に端的な表現だ。だがそこには背水の陣のような緊迫感がある。  
 一年の中盤からまるでムササビのように滑空ばかり続けて俺の成績だが、だましだましで誤魔化しているうちについにポテンシャルエネルギーが枯渇したらしく赤点ボーダーにひっかかるまでに高度が落ち込んでいた。  
 昨日授業中に英作を当てられたときは自分でもびっくりしたぜ。どうやら俺の左脳は文法はおろか単語まで忘却の彼方に押しやってしまったらしく、出だしの3単語を書いたところでエンストを起こしてしまった。  
 何やらハルヒ(短)が口パクやジェスチャーでサインを送ってくれていたようだが、そんな即席のコンタクトで通じ合えりゃ世話はない。  
 カップラーメンが出来上がるか否かの時間を立ち尽くして授業を停滞させた俺はあえなく退場となった。  
 恥さらしの他なんでもない。ただ、これは自業自得だろう。むしろいかに自分が怠惰を貪っていたかを身をもって知らしめてくださった教諭に感謝すべきなんだろうとも思う。  
 このままでは次の中間で赤点は必至だ。そうなったら問答無用で塾行きとなることは親との約束で決まってしまっている。  
 二年の内から塾の世話になるなんて、よっぽど志が高いのか低いのかの両極端に違いない。もちろん俺は間違いなく後者の予備軍なわけだが、昇格だけは避けたいところだった。  
 さて、教壇ではそろそろ若手の範疇に括るのは無理が出てきた教師が淡々とチョークで数式を刻んでいる。二年になって急に難しくなったように思うのは単なる錯覚じゃない。  
 二次方程式までは許してやるとしても、それ以上次元が高くなるとグラフが複雑になりすぎて作図からしてままならない。方程式と解の関係? 因数定理? そんなの俺の知ったことかとブッチできればどれだけ救われることか。  
 3行以上の文言で記述された応用問題を見ただけで解ける自信が失せる始末だからな。  
 今、教師が熱心に解き方を教えてるのがまさにその応用問題なわけだが、かなり出だしの段階で見失ってしまった。どっかの入試問題らしく、黒板の半分以上を消費する大解答劇が教壇上で延々と繰り広げられている。  
 二年のこの段階で入試問題にチャレンジさせる必要があるのかと文句だけ一丁前に垂れても仕方がない。  
 試験で虫食い形式で出すと言ってる以上、内容は分からずともノートだけはなんとか書き写しておかねばならんだろう。せめて後からゆっくり辿るくらいはやっておきたいからな。  
 理解の追いついていない数式はもはやロゼッタストーンに刻まれたヒエログリフと同じで、暗号解読などに特段の興味があるわけでもない俺にとってそれらは読むことも書くことも苦痛の他なにものでもなく、修行僧のようにひたすら耐え忍ぶ。  
 実質的にはなんの学習もしていないにもかかわらず、シャーペンを動かすことだけで疲れてしまい思わず一息つくと、見計らったようなタイミングでチャイムが鳴った。  
 五時間目終了。  
 分からない授業について行こうとすると精神的な負荷が半端じゃない。凝った肩を解すように回して軽いストレッチをやっていると、無防備な背中を突付く輩から邪魔が入った。  
   
「なんだよ。っていうかお前、ちゃんと芯を畳んでからつっついてるんだろうな?」  
 
「失礼ね。それくらいわきまえてるわよ」  
 
 振り返ると黄色いリボンとカチューシャがトレードマークの我らが団長のお姿。憮然とした表情のまま、俺の心を探るかのようにぐっと前のめりに身を寄せてきた。  
 
「あんた。随分と熱心にノート取ってたわね、珍しいこともあるもんじゃない。そんなに今の長いだけで何の捻りもない問題が琴線に触れちゃったわけ?」  
 
「単に余裕がないんだよ。昨日の俺の失態を見ただろ? 危機感に追われてやってるだけだ」  
 
 その台詞は失言だったらしく、ハルヒ(短)の眉がピンと跳ね上がった。  
 やっちまった。昨日もあの後こってりと絞られて、強制的に文法を叩き込まれたばかりなのに馬鹿か俺は。  
 自分からこの話題を振っちまうとはヤキがまわったもんだ。  
 
「あんたね。言っておくけど補習なんてみっともない真似したらタダじゃおかないからね? SOS団の面目を考えなさい。あんた一人の赤点のせいでダメ集団のレッテル貼られちゃうんだから」  
 
 ダメ集団のレッテルなら一年以上前からすでにベッタリと貼り付いてるはずだが、などと面と向かって言えるはずもなく、喉の奥へと押しやった。  
 こいつとの付き合い方にもいい加減慣れてきている。こういうときはただ相槌を打ってやり過ごすに限るのさ。  
 
「分かったよ。そうならないように善処させてくれ」  
 
 本当に分かってんの? と言わんばかりに疑惑の視線を俺に突き刺してくるハルヒ(短)。腕を組んでさらに大きな態度に出るのかと思いきや、そこから急に落ち着きを失ったかのように視線を慌しく彷徨わせ始めた。  
 なんだ? 一体何を仕掛けてくるつもりだ?  
 意図が分からず戸惑いながらも身構える俺に、ハルヒ(短)は切り出しどころがつかめないようなぎこちない様子のままに口を開いた。  
 
「き、昨日も言ったけど、あんたの家庭教師引き受けてもいいわよ? というか、こんな状況で自力でなんとかできるなんてさらさら信じらんない。おとなしくあんたの成績をあたしに預けなさい」  
 
 傲岸不遜な態度を纏って強気な視線をぶつけてくるものの、その頬はほんのりと朱が差していた。  
 勢いでごまかそうたって限界がある。今の台詞ばかりはさすがに自分でも妙だったって分かってるんだろうな。  
 こいつは中々お目にかかれない表情だ。個人的には切り取って脳みその奥底のタンスに保存したいくらいのヒットショットだぜ。  
 しかし、ここで噴出してしまっては収拾がつかなくなってしまうのは必至。それは望むところじゃない。なんとか踏みとどまって看過してやることにする。  
 
「とにかく少し落ち着け。中間まで後二週間とちょっと残っている。もう少し考えさせてくれよ、な?」  
 
「キョーン! ちょっと来てくんない?」  
   
 俺の言葉に被さる様に教室の出入り口から声が掛かった。  
 国木田か、いいタイミングだ。ちょっと待ってくれ。  
 
「悪い。じゃあそういうことで」  
 
「あっ、ちょっと!」  
 
 天の助けに飛びつくように俺は席を立って、うまい口実でエスケープに成功することができた。  
 なにやら不穏な罵声が背中に投げつけられているようだが、どうも身体が拒否しているらしく後ろからの音声はまるでローパスフィルターを通ったかのように掻き消えてカットされた。  
 目先のピンチはなんとかやり過ごせたものの、決断の時期は確実に迫ってるのも事実か。  
 さて、一体どうしたものか。緊急事態とは言え、本当にハルヒ(短)に教えを請うのか?  
 
 先送りにしててもどうにもならねぇぞ。  
 
 脳内に住まう天使的存在が珍しくも正論を吐きやがった。  
 余計なことをしてくれる。おかげでテンションがガタ落ちだ。  
 俺は囚人のように暗澹と重い足取りで国木田の元へ向かった。  
 
 
//////////  
 
 
 山の手にある住宅街に双子の娘の家は在った。  
 クリーム色のレンガを積み上げられて作られた玄関には正方形のチタンプレート製の表札に明朝体で『涼宮』の苗字が掲げられている。  
 玄関を抜ければ親子がボール遊びに興じるに十分な広さを擁する庭が在る。  
 木々に飾られた庭は水銀灯のスポットに照らされて、夜風に吹かれながら新緑が穏やかに木の葉を奏でるコンサート会場と化していた。  
 空には雲がまばらで適度に風がそよぐ心地の良い夜だった。  
 玄関から続く敷石を辿って庭を抜けると、新しくはないけども壁面がせり立って重厚で風格のある洋風の家屋を構える。  
 その家屋の一角、小規模ながら優雅な曲線を描くロートアイアンが配された瀟洒なバルコニーのある部屋が幼い頃からの二人の共有空間だった。  
 時を経て妹は隣の部屋に移ったが、今でも二人してくつろぐときは暗黙のうちにここと決まっている。そういう意味では二人の場所に変わりはない。  
 中学へ上がると同時に家庭の事情で妹は英国へ留学し、今春4年ぶりに戻ってきたという経緯がある。  
 年頃を迎えて何かと身の回りの荷物も増え、手足の伸びきった双子の姉妹には少々この部屋は二人で過ごすには手狭になってしまっていた。  
 別々の部屋があてがわれたことは少女達の成長の証とも言えた。  
 風呂から上がってベッドに入るまでのこの時間帯は、この共有空間でダベって取り留めのないおしゃべりに興じるのが姉妹の習慣となっている。  
 妹はカーペットの上で地元のタウン誌を広げながらドライヤーで腰まで届く長い髪を乾かしていた。  
 ロングヘアの扱いにも慣れたもので、ハープを奏でるように指先でなびきながら冷風を当てて手際よくくまなく乾かしていく。  
 漆黒の黒髪は見事なまでに滑らかで、揺れるごとに光を写して煌くほどの艶やかさを誇る。幼い頃から伸ばし続けている自慢の髪だった。  
 いつドライヤーのCM撮影にフレームインしてもおかしくないくらいに画になっていたが、それはあくまでも上半身だけの話。あぐらをかいてどっかりと鎮座する姿が自宅限定の警戒心ゼロの女子の姿を如実に象徴している。  
 姉は机に向って書き物をしていた。実用性を重視するあまりか少々広すぎる木製のシステムデスクは、その小さい身の丈に比して不釣合いに写る。  
 幼少の誕生日に両親から日記帳をプレゼントしてもらったときからずっと継続している日記の執筆中だったが、今一つ筆の運びは芳しくない。  
 床に座る妹とは対照的に髪は肩に掛かるか掛からないかのセミロング。未だ風呂上りの熱が冷めやらないのか汗が薄っすら滲んだ肌をスタンドの暖色に浮かび上がらせて視線を紙面に落としていた。  
 しばらくじっと考え込むようにしていたが、ついに完全に行き詰ってしまったのか、髪を掻き毟って苛立ちを小爆発させ、まるで日記帳と睨めっこするのを放棄するようにくるりと椅子を半回転させた。  
 背もたれに身を預けてペンを鼻下に挟みながら唸るその姿は、これもまた公衆の面前ではあまりおおっぴらにお見せできない姿である。  
 それに気づいた妹は、不機嫌な姉の様子に少しも動じずドライヤーを切って髪の手入れを終えるとおもむろに切り出した。  
 
「なによ。随分とご機嫌ナナメじゃない」  
 
 姉は顔面に載っていたペンをつまみあげると、今度は指で回して弄びながら応える。親指と人差し指と中指の間で淡い青色のシャープペンシルを淀みなく踊らせながら。  
 
「書く事がないのよ」  
 
「何も無理に書かなくたっていいんじゃない? 人間そんな日もあるでしょ」  
   
 視線は雑誌に落としたままあくまでも暢気に応える妹に、姉はペンを止めて反駁する。  
 
「書く事がなかったと言う事は、今日という一日を特筆すべきことがないままに無為に過ごしてしまったということと同じよ? ここ一年はこんなことなかったのに由々しき事態だわ」  
   
「今日は暑かっただの、授業がダルかっただの、テレビが面白かっただのなんとでも書きようがあると思うけど……」  
 
 いかにも適当にそこまでつらつらと述べたところで、妹はふと何かを思いついたように一呼吸空けた。視線を上げて唇に笑みを結ぶと目を細めて姉を窺う。  
 
「あんたの場合、『ある特定のネタ』しか書かないから、こんなアドバイスは無意味かしら?」  
 
「な、何よ?」  
 
 椅子の上で口許をへの字に曲げて虚勢を張る姉に対して、妹はカーペットの上で片膝を抱えて膝小僧に頬をつけて下から探るような視線を向ける。まとまっていた髪の一房がはらりと横顔から床に滑り落ちた。  
 
「つまりは彼が相手してなかったから日記に書くことがないってことでしょ?」  
 
「――――、っ!」  
 
 台詞に呼応するかのようにピタリと髪の短い娘が硬直した。  
 姉の態度が分かりやすいのは助かるが、遺伝子を同じくする自分にもこの素質があるのかと思うと、妹はなにやら複雑な気分になった。  
 
「まさか、図星なわけ?」  
 
 妹にしてみればほんの軽い気持ちでちょっとカマをかけてからかってみただけだった。しかし、姉は沈黙をもって雄弁にそれが冗談で済まされないということを語る。  
 
「ご、誤解しないでよ? 日記を見たわけじゃないからっ」  
 
「……分かってるわよ」  
 
 気まずい空白の時間が二人の間に流れる。藪蛇じみた展開になってしまったことを気に病んだ妹はいたたまれなくなって、フォローを入れようと切り出した。  
 
「ええと、ここ数日なーんかカリカリしてるなって思ってたら、そういうことだったってわけね。もし何か抱え込んでるなら、あたしで良ければ相談にのるわよ?」  
 
 懸命に取り繕う妹の姿に姉は何か釈然としないものを感じながらも打ち明けようかと心を決める。  
 男女の機微に疎い姉にとって妹はいつだって的確なアドバイスをくれる最良の理解者だったからだ。  
 悩んだときはとりあえず自分一人で考えてみるのがポリシーだったが、答えが出せずに悶々としていたところで妙にタイミングが合ってしまった。これもきっかけかと割り切ると姉は少し心が軽くなった。  
 
「今週に入ってからキョンの様子が変なのよ」  
 
「変って?」  
 
「団活に出ずにホームルームが終わるとすぐに帰るのよ。問い詰めても用事があるからの一点張り。用事の内容を訊いてもはぐらかしてばっかだし」  
 
「うーん。ジョンがあんたの追及をかわしてまで守るプライベートか……、なんだろ。気軽に話せない深刻な内容とか?」  
 
「それはないわね。雰囲気がチャラチャラしてるもの。少なくともこっちが自重するような内容じゃないはずよ。絶対なんか隠してやってることがあるんだわ」  
 
 双子の姉妹は鏡に映したように向き合って示し合わせたように腕を組んで考え込む。  
 
「尾けてみればいいじゃない、って、もしかしてもうやってたりする?」  
 
「やったわよ。一旦家に帰って着替えてから電車に乗るところまでは分かったわ。でもアホキョンが電車に駆け込んだせいで見失った」  
 
「そう……、ちなみそれっていつのこと?」  
 
「昨日よ」  
 
 妹は口許に手を当てならがら視線を宙に走らせて何か思案する。  
 そしておもむろに傍らに置いてあった携帯を取り上げると、ボタンを操作し始めた。  
 手にしているピンク色の携帯は昨今の女子高生には珍しいくらいに一切の装飾のない簡素なノーマル仕様。持ち主の実用主義を如実に表している。  
 まるで拍子をとるように小気味よく画面を揺らして文字の入力を終えると姉の方に向き直った。  
 
「何? いきなりどうしたの?」  
 
 妹の唐突な行動を姉は訝ったが、当の妹は「ちょっとね」とだけ返して何事もなかったように会話に戻る。  
 
「それってあたしも気になるわね。あの優柔不断の代名詞があんたの拘束を振り切って優先させることが他にあるなんて相当なことよ?」  
 
「………、何か色々とひっかかるトコがあるんだけど……、まぁここはツッコまずに同意してあげるわ」  
 
 言いたいことを飲み込んで渋い顔の姉に構わず妹は聞き取り調査を再開する。普段は姉よりも落ち着いた印象を持つ妹だが、今は例外とまるで探偵ごっこを楽しむような無邪気な表情を見せていた。  
 
「ジョンは何か荷物持ってた?」  
 
「いいえ、そりゃ手ぶらじゃなかったけど小さいトートを提げてたくらい? 特別にめかしこんでるわけでもなし。いつも通りの冴えないアイツよ」  
 
「どっち方面の――」  
 
 部屋に響いた着信音、半世紀ほど前に一世を風靡した英国のロックバンドの誰もが聞きなじんだ旋律によって妹の言葉が断ち切られた。  
 
「メール?」  
 
「なかなか早かったわね。殊勝な心がけは買ってあげるわ。どれどれ――」  
 
 目を輝かせて画面を覗き込んだ妹だったが、一瞬にして表情を曇らせる。  
 
 『母親のお遣いだ』  
 
 届いた一文は極めて短くて簡素なものだったということもあるが、妹は内容が伝わるものであれば贅沢を言うつもりなどなかった。だがこれではあまりにも酷い。真偽は別としてどこに何をしにいったのか最低限の内容が何も拾えない。  
 眉をキッと引き締めて、気に入らないとばかりに口を尖らせて猛然とボタンを打って返信をする。  
 
「ちょっと! あんたまさかキョンにメール打ってんの?」  
 
「そうよ。さりげなく訊けばひょっとしたらぽろっと漏らすかもしれないけど思ったけど、読みが甘かったわね」  
 
「やめなさいよっ」  
 
 姉は相当に慌てた様子で椅子から跳ねるように立って妹の手を止めようとするが間に合わない。送信ボタンを押し終えた妹は背中に携帯を隠した。  
 
「何て打ったのよ? 見せなさい!」  
 
「やーよ。あんたの名前出したりしてないから安心なさい」  
 
 聞く耳を持たずになおも背中に回ろうとする姉を妹は片手を突き出してけん制し、僅かの隙を突いて立ち上がると臨戦態勢をとる。  
 他愛ない姉妹のじゃれあいには違いなかったが、スポーツ科学的に見れば非常にレベル高いアンバランスな攻防が繰り広げられていた。  
 しかしモチベーション自体は対照的で、姉は両手をワキワキヤル気満々なのに対して、妹は眉を顰めて嫌悪感が窺えた。  
 
「ちょっとぉ、お風呂上りなのにまた汗かきたくないんだけどっ」  
   
「ふん。そう思うのならおとなしく携帯を渡しなさい」  
 
「姉妹といえども守るべきプライベートってのがあると思わない? 日記書いてるあんたなら分かるでしょ?」  
 
「……送ったメールだけ見せてくれればいいわ。表示させて画面をこっちに向けて」  
 
 年端もいかない女子には不釣合いなくらいに無駄を削ぎ落とした交渉を進めて二人の折り合いがついた。  
 あくまでも不承不承といった様子で妹は背中に隠していた携帯を胸の前に持って来ようとしたとき、またも静寂を破って着信音が鳴った。  
 双方とも金縛りに襲われたように身じろぎもせずにそのメロディに聞き入り、その後の僅かな沈黙と合わせてばっちり数秒間の空白の時間をやり過ごす。  
 沈黙を破ったのは姉。抜け目なく機に乗じて携帯を奪おうとしたが、妹はいち早くその気配を察知して半歩下がって身構える。また膠着状態に逆戻りとなった。  
 妹は警戒を外さず、手に持った携帯を肩くらいの位置まで持ち上げてキープ。姉に向けた視線の間に携帯の画面を割り込ませるようにしてメールの中身を確認する。  
 メールの内容はまたもや簡略極まるものだったが、今度はどこに何をの質問に対しての答えが書かれていた。  
 一文字たりも見逃すまいと瞬き数回してその内容をしっかり確認し終えた妹の表情が急に引き締まる。  
 
「ねぇ、さっきも聞きかけたけど、ジョンの向かった方向ってどっち? 上り? 下り?」  
 
「あんたね。この期に及んでまだごまかそうってわけ? ……、っていうか返信早くない? もしかしてキョンと定期的に……」  
 
「いいからっ、教えて」  
 
 妹の剣幕に姉は少し気圧されてややためらいながらも素直に答える。  
 妹は表面上は沸き立ちながらも、まずい部分に触れようとする勘の良い姉を成り行き上で丸め込むことに成功して、内心少し溜飲を下げた。  
 
「……上りよ。上りの普通に乗ってったわ。それがどうしたのよ?」  
 
 この発言を耳にして妹の表情が一気に何か覚めた様な冷たい表情に成り代わる。色を無くした瞳を細めて、あきれた様に鼻で一息を吐くと表示画面をゆらりと姉の方に向けた。  
 成すがままに棒読みで文面を朗読する姉。  
 画面には駅名と母親の友達の忘れ物を届けにという目的と、探偵のように問い詰めてくるのは止せというどうでもいい注意書きが表示されていた。  
 それを読み終えた姉は即座に色めき立つ。  
 
「なにこれ? 逆方向じゃない。嘘もいいところね」  
 
「ジョンは嘘が吐くのが下手ね。嘘は本当の中に混ぜるからこそ成り立つのに。それとも裏の裏でもかいたつもりかしら?」  
 
 メールの送り主を蔑むように携帯に冷たい視線を落としながら妹は腕を下ろした。そして、剣呑に薄く笑んで怒りを静かに滾らせるように呟く。  
 
「最初はさ、正直軽い気持ちだったけど、ここまで隠したがるとなるとあたしも意地が出ちゃうんだけど」  
 
 それに応える様に姉は腕を組んで憮然とした表情で頷く。  
 
「奇遇ね。あたしもそう思ってたとこよ。だまくらかそうとするその曲がった根性が許せない。なにがなんでも暴いてやりたくなってきたわ。どうせくだらない理由に決まってんでしょうけど」  
 
 バレバレの嘘は正に逆効果。姉妹のハートには完全に火が点いてしまった。釣り上げた眉の下で獲物を狙う獣のように炯々とした眼差しを突き合わせて決起する。  
 
「……やる?」  
 
「モチロン」  
 
 乾杯をするようにゴンッと拳骨を軽くぶつけた。  
 部屋着姿で細い手足を露出させた娘にミスマッチな男らしい構図で締める。締まろうとしていた。だが、  
 
「……それはそうと、さっきの答えは? あんた、キョンと結構メールでやりとりしてるわけ? もしかしてやたらとケータイ見せたがらないのは……あたしにやましいやりとりがあるから、とかかしら?」  
 
 この姉の発言で全部どっちらけになった。  
 完全にやりすごせたものと思い込んでいた妹の表情が引きつる。  
 不穏に目を細めてにじり寄る姉、笑ってごまかそうとするもののすっかり圧倒されて奇妙な半笑いになったまま片肘を上げて身を守るように半身になる妹。  
 半分に欠けた月が雲の少ない西の空に沈みかける頃、娘達の闘いは実のところまだまだこれからだった。  
 
 
//////////  
 
 
 とある駅前に展開された没個性も甚だしいありふれた様相の商店街を涼宮姉妹は並んで歩いていた。  
 昼下がりの休日、外出する人が最も多くなる時間帯ということもありって街はそれなりに賑わいをみせている。  
 自宅でのドタバタ決起会から数日、不本意にも姉妹は非常に退屈な日々を過ごしていた。  
 今度ホシが団活をエスケープすることがあったら、完全協力体制で尾行して追及してやろうと意気込んでいたが、以来肝心のホシが動きを見せず肩透かしを喰らっていたのだ。  
 そして動きが取れずにやきもきしたまま、とうとう週末を迎えてしまったのであった。  
 一波乱あるかもしれないと先を読んで、週末の予定を空けていたことが仇となり、珍しく空白の休日を過ごす羽目になっていた。  
 午前中はなんとか自宅でこの暇さ加減を耐え忍んでいたものの、我慢の限界を超えた姉が鬱積を晴らすために贔屓にしている雑貨屋でも冷やかそうかと決めたのがこの外出のきっかけである。  
 同じく暇を持て余していたいた妹が便乗してくっついてきて今に至っていた。  
 凱旋パレードの女帝をも思わせる威風堂々とした様で、同じ顔を並べて颯爽と歩みを進める麗しくも凛々しい双子の娘は人ごみに埋もれず、すれ違う人の目を引いていた。  
 狙ってやってるわけではないので目立つのは本意ではない。そのため、こうして二人で出歩くことは稀である。一目で双子と分からないように、最近では意図的に系統の異なる服装をするように心がけているくらいだった。  
 姉は明るい紫を基調として黄色の細いストライプが横に入ったワンピースに裾を絞ったデニム調のカットパンツを合わせていた。身体にフィットする生地なためメリハリのついたラインが出てよく似合っている。袖から大胆に露出した腕が眩しい。  
 一方、妹は白のタンクトップの上に青系統のカーディガンを重ね着していた。カーディガンはVネックの切れ込みが深いデザインになっており、瑞々しい配色で清楚さが引き立っている。パンツルックの姉に対して裾に向けて緩やかな広がりがあるスカートを履いていた。  
 確かに二人の服装は毛色が異なっているが、非常に涼しげで夏を感じさせる装いに共通点があった。  
 
「ねぇ、このまままっすぐ帰るつもり?」  
 
「ちゃんと寄っていくって。チラシ見たわよ。新作のケーキ出たんでしょ?」  
 
「さすが我が姉。チェックが早いわねぇ」  
 
 雑貨屋を後にして今は駅に戻る途中にあった。  
 阿吽の呼吸で妹イチオシの甘味処に寄っていくことになり、そうなればオフの定番コースの完成となるわけだが、店まであと30メートルというところでハタと妹が歩みを止めた。  
 視界の端にあった妹の姿が突然消えて、何事かと姉が振り返る。  
 
「なに? どうしたの?」  
 
「ちょっと、あれ……」  
 
 妹は自分で目撃しておきながら信じられないといった風に少し呆けた様子で人差し指を虚空に掲げた。  
 事情を飲み込めない姉は目を眇めて不審に妹が指し示す方向を視線で追う。  
 まず姉の視界に飛び込んできたのは健康志向のバーガーショップ。二階席がガラス張りになっている。  
 そして、より正確に照準を絞ると見慣れた後姿を見つけた。  
 
「――――キョンっ!」  
 
 意外過ぎる人物を見つけて思わず大きな瞳を見開いてギョッとする姉だが、驚くのはまだ早いとばかりに追い討ちをかけるが如く更なる衝撃の光景が突きつけられる。  
 窓際の席でキョンと称される男子と向かい合って座っている人物を注視せずにはいられない。  
 肩に届かないくらいの長さで短く切り揃えられたヘアスタイル。  
 どこか儚げな印象を呈している少し色素の薄い栗色の髪。  
 聖母を想わせる気品に溢れる長い睫毛に彩られた優しげな目と、優雅な笑みを浮かべる桜色の小さな口許。  
 それらの特徴は姉の網膜に強く焼き付いているものばかり。  
 姉にとってAAAランクの超重要人物、佐々木という名の女子が鎮座していた。  
 
「誰? 知ってる子?」  
 
 凍りついたように表情を強張らせている姉に、佐々木と直接の面識がない妹はきょとんとした様子で尋ねる。  
 
「……佐々木さん」  
   
「ササキ? ……あー! ジョンと同じ中学出身の!? 自己紹介であんたに握手求めて、ジョンと男言葉で喋る風変わりなコ、だっけ?」  
 
「そうよ」  
   
 興味深々の妹に対して、姉はぶっきらぼうに返答した。  
 妹に構ってる精神的な余裕がないのである。  
 佐々木という女子の影は初めて逢ったときから姉の意識の片隅に常に貼り付いていた。  
 
 中学時代佐々木さんとキョンはどんな関係だったのか。  
 キョンを『親友』と評したが、本当にそれだけなのか。  
 一方キョンは佐々木さんのことを何と思っているのか。  
 佐々木さんにあたしという人物はどう写っているのか。  
 自己紹介の後の握手の意味に何か他意はなかったのか。  
 
 考えるだけでは決して答えの導かれないこんな疑問が頭のどこかでグルグルと回り続けていた。  
 それはまるで呪縛のように纏わりついて少女の心を千々に乱れさせることもしばしばであった。  
 そして自身が最も否定したかった疑問、  
 
 あれ以来二人は連絡を取り合って逢ったりしてるのか。  
 
 の答えが今現実として目の前にある。  
 
 悲しくて、そしてどこか悔しい、しかしそれが嫉妬であることを認めたくないような複雑な気持ちで涼宮姉は階下からキョンと呼称する男子生徒の背中をじっと見つめた。  
 その表情は苦虫を噛み潰したような顔。口許を引き締めて突き出すように唇を形作る。  
 
「聞いてはいたけどずいぶんとキレイなコね。可愛い系というより美人系っていうのかしら。あれじゃあコロッといってもしかたないわねぇ」  
 
 妹の口調は揶揄するかのようにくだけたものではあったが、その目は決して笑っていない。意志の強さが感じさせる鋭い眼光でジョンと呼称する男子生徒の背を射抜く。  
 当の男子は食事に手をつけているわけでもなく、机に視線を落としたままで先ほどから忙しなく手元を動かすことに腐心していた。知らぬが仏というのは今の彼の為に創られた言葉なのかもしれない。  
   
「なんだかさぁ。あたしキョンのエスケープの理由がなんとなく分かっちゃったんだけど」  
 
「まぁ、何をやってるか分かりやすい構図ね。放課後にわざわざ尾行する手間が省けてよかったじゃないのよ」  
 
 つぶやくように二人して改めて佐々木を仰ぎ見た瞬間、佐々木の視線がずれて3者の視線がばっちりぶつかった。  
 佐々木は一瞬少し驚いた顔を作ったが、すぐに平素に戻ると薄く微笑んで姉妹の視線を受け入れた。  
 その笑みは野に咲く一輪の花のように可憐で清涼感漂う好意的なものに違いなかった。1%ほど含まれる「来るならどうぞ」と言わんばかりの挑発的な要素を除いては。  
 察しの良い涼宮姉妹がその不純物に感づかないわけがない。目には目をと二人して不敵に笑い返してみせた。  
 妹がすっとぼけた調子で呟く。  
 
「なーんか甘いものって気分じゃなくなっちゃったわねぇ」  
 
「ハンバーガーとかどうかしら? うってつけだと思うんだけど」  
 
 佐々木と視線を真正面からぶつけ合ったまま、涼宮姉妹はお互いを見ずにコンセンサスを取る。  
 その図式はまるで人の流れで出来た大河を挟んで、天守閣から敵を見下ろす君主とそれに挑む二人の武士。さしずめ男子生徒は囚われてるようで自覚の全くない困った姫君といったところか。  
 前哨戦の狼煙を上げるように、3人の娘による視線の火花が咲いて激しく散り乱れていた。  
 
 
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 俺にはデフォルトで2つの選択肢があった。  
 
 A ハルヒ(短)に勉強を教わる  
 B 国木田に勉強を教わる  
 
 しかし、少し考えてみれば一見二択のように見えて実は選択の余地がないことにすぐ気づけるだろう。  
 Bは決して層が厚いとは言いがたい俺の友達メンバーの中で最も勉強ができる国木田にノートを見せてもらい、補足で分からないところを教えてもらうという質実剛健プランだ。さしたる気兼ねもせずに頼めるところが非常に魅力的に写る。  
 
 しかし、同じクラスの国木田とのやりとりは常にハルヒ(短)に筒抜けだと考えた方がいい。よしんばBを選んだとしてもハルヒ(短)に嗅ぎ付かれないわけがないという致命的な欠陥があった。  
 あの授業での大失態以来、ハルヒ(短)はなぜか俺の家庭教師にやたらとノリ気で、これまでもちょくちょくオファーを寄こしてきている。  
 あいつの目の前でこれみよがしこのオファーを堂々と無碍にして他に頼めるほど俺の度胸は据わっちゃいなかった。  
 第一バレたらどんな難癖を付けられるか分からん。  
 現在ハルヒ(短)の力は封印状態であるということを差し引いても、わざわざBを選んで精神を擦り減らすような真似はしたくないってのが本音だった。  
 そうなったら過程はどうであれ結局はハルヒ(短)に教わるってところに落ち着くに違いないしな。  
 そういう意味でAの一択ってわけなのさ。  
 しかしそうかといって諸手を上げてAを選べるかというと、そうとは言えないのがここ最近の悩みの種だった。  
 学年トップレベルにあるハルヒ(短)の学力自体は認めざるを得ない。近所の小学生を教えてるのは伊達じゃないぜ。教え方そのものも上手い部類に入るだろう。テストの傾向と効率の良い点数の取り方をよく心得ているからな。  
 だが、いざ教えてもらうとなると少々痛い目を覚悟しないといけないのがネックだった。もちろん肉体的にという意味じゃない。精神的にな。  
   
「アンタ、また同じこと聞くつもり? 本気で覚える気あんの?」  
 
「ちょっと数字いじったら計算ミスのオンパレードなんて信じらんない。四則演算からもう一回やり直したら?」  
 
「グラフをよく見なさいよ。っつーか、問題文をよく読め。答えが問題文の中にあるボーナス問題よ? これを取りこぼすようじゃ目も当てらんないわ」  
 
 俺の言いたいことがなんとなく伝わっただろうか?  
 説明するまでもなく、これらはハルヒ(短)に少し見てもらったときのやり取りを抜粋したものだ。  
 問題が解けないのは元々頭のトルクが細い上に勉強不足である俺の責任だ。だから誰が一番悪いかというと、そりゃもちろん俺に違いない。  
 ハルヒ(短)みたいに分かってる奴から見りゃ、この要領の悪さは相当にイラつくもんがあるんだろうなってことも察しがつく。  
 だが、それを考慮してもこの春の陽気をも凍てつかせるような罵声ともつかない台詞を一定周期で拝聴したいと思えるほど俺のテストステロンの分泌量は落ち着いちゃいないようだった。  
 普段ハルヒ(短)が傲岸不遜に振舞って、どんな罵詈雑言を吐こうとそれはさして気にするところじゃない。いままで大概そうだった。それ自体がくだらないことか、俺にとってどうでもいいことが対象であることがほとんどだったからな。  
 俺の役どころはハルヒ(短)の戯言に対して「まったくこいつはしょうがねぇな」的に流しつつもブレーキを掛けてやることであり、真正面から受け止めることじゃない。  
 だが、今回ばかりは赤点ボーダーとの真剣な闘いというギリギリの本気の状態なために、流すことも許されず受け止めざるを得ない状況にある。ここに埋めがたいギャップのようなものを感じていた。  
 妙に長くなっちまったが、要はマジなだけに傷を抉るようなハルヒ(短)のスパルタは俺にはキツ過ぎるってことなのさ。  
 
 
 こういう悩める板ばさみの状況があって、独学に限界を感じつつもまるで女子高生がダイエットの開始時期をジリジリと引き伸ばすように、ハルヒ(短)に頼むのを先送りして、一択であるはずの選択肢Aを中々選べずにいたわけだ。  
 しかし、そうした折の先週末に転機が訪れた。  
 何の巡りあわせか街中で佐々木とばったり遭遇したのさ。  
 佐々木とは春休みの最後の日にSOS団の待ち合わせに偶然鉢合わせて1年ぶりの再会を果たしていた。そこから数えるから今回は約1ヶ月ぶりの再会ということになるか。  
 
 たまたまお互い時間があってカフェで話をする内に、今のくだらない悩みを愚痴のように口走ってしまったのがきっかけで、俺の前に新たなる選択肢Cが提示されることとなった。  
 
 C 佐々木に勉強を教わる  
 
 進学校に在学中の佐々木の学力は折り紙つきだ。中学3年次に塾で机を並べて受験戦争を共に戦った戦友でもある。その時から、俺は佐々木に分からないところを訊いたりしていた。  
 その教え方は論理的で明瞭かつ当たりがソフトで、俺と同じ目線に立って根気強く解き方をリードしてくれるという誰かさんとは対極を成すものだった。  
 これ以上の適任があるだろうか? いや、無いと言いきれるね。  
 幸運が授けてくれた何かの縁だと俺は信じて迷うことなくその場で佐々木の厚意に食いついた。  
 それから1週間、毎日放課後に勉強をみてもらっていた。  
 勉強場所は地元から少し離れた商店街にあるバーガーショップ。  
 何時間ダベっても大丈夫という、金がない学生と喋る内容の尽きない主婦にとって絶好の溜まり場だ。知る人ぞ知る穴場なために満席になることもない極上のレンタルデスクだった。  
 最初の3日は放課後にすぐ集まっていたが、さすがに何日も団活をサボることに無理があったらしく、ハルヒ(短)が本格的に疑いだしたのでここ数日は団活が終わってからの集合に切り替えている。  
 こうなると佐々木が塾の日は1時間ほどしかみてもらえないことになるが、それは仕方ないところだろう。  
 しかし、数日前いきなりハルヒ(長)が寝る前に妙なメールを送ってきたときは肝を冷やしたぜ。  
 偶然放課後に駅に入る俺を見たとか書いてあったが怪しいもんだ。  
 こういうメールは見た直後に送らないか? あいつの性格を考慮して、どうも日を空けて思い出したように送ってくる内容じゃない気がしてそれとなくはぐらかしといたが、さてこの判断は正しかったかろうかね。  
 まぁ、とりあえず団活と被らせなければこれ以上訝られることもないだろう。  
 そう自己完結した俺は今週末のオフを活かして日曜日にもかかわらず佐々木に出てきてもらって分からないところを教えてもらっていた。  
 当然タダで教えてもらうのはあまりに気が引けるので、何か奢らせてくれと申し出たところ、いつものアップルパイで良いと返ってきた。遠慮しているわけではなく小食のためこれで十分ということなんだとよ。  
 誰かさんじゃこうはいかんだろう。  
 佐々木よ、冗談抜きでお前が女神に見えるぜ。  
 そう感謝しつつも、俺は目の前の生物の問題と格闘する。一週間前に心を入れ替えた成果がじんわりと感じられる手ごたえがあった。  
 よし、このページ終わり、次! なかなか調子も上がってきたじゃないか。  
   
「あら、なかなか捗ってるじゃない」  
 
 突如鼓膜を振るわせた声色はあまりにも耳慣れたものだった。  
 景気よく走っていたシャーペンのペン先がノートと瞬間接着されたようにビタリと急停止。  
 月に叢雲、花に風。  
 まさかと思うのも億劫だと諦めて、ゆっくり視線を上げるとトレイを持って立つハルヒ(短)――――、そしてその横に並んで立つとハルヒ(長)。よりによって二人セットかよ。  
 
「相席してもいいかしら?」  
 
「どうぞ」  
 
 固まったまま動けない俺に対して佐々木はまるで来るのが分かっていたようにごく自然に涼宮姉妹を迎え入れた。  
 ハルヒ(短)は俺の隣に、ハルヒ(長)は佐々木の隣に腰を下ろす。  
 
「それにしても驚いた。まさか涼宮さんが双子だったなんてね。黙ってるなんてキョン、キミは少々意地が悪いな」  
 
 佐々木よ、それは心外だ。わざわざ伝えておかねばならんほど重要なことでもないと思うぞ。  
 
「ひょっとしたら私のことは色々と伝え聞いてるかもしれないけど、初めまして」  
 
「お噂はかねがね、なんてね。一応あたしが妹ってことになってるの。こちらこそよろしく」  
 
 そう言って二人は握手を交わす。  
 傍から見れば実に華やかかつ爽やかな画に違いなかった。  
 双方の微笑みがいささか必要以上に感じるのと、やたらと握手が長いと感じるのは俺の錯覚だと信じたい。  
 向かい側の席を取り巻く空気が澱のように淀んでいるように見えるなどもってのほかだった。  
 
「で、あんた、どうしてこんなトコで参考書広げてんのよ?」  
 
 息を呑んで向かい席の二人に釘付けになっているところへ、隣のハルヒ(短)から鋭い声が掛かって我に返る。  
 しまった。自己紹介の内にややこしいモノをとっとと仕舞っとくべきだったぜ。とんだ失策だ。  
 佐々木に教えてもらってました、などと吐露することは当然許されず、俺は背中に冷たい汗を垂らしながら必死に何とかわそうと考えを巡らしたとき、  
 
「一緒に勉強してたんだ。中間テスト対策ってことでね」  
 
 間髪入れずに佐々木が明朗に述べた。  
 頭の中で膨らみかけていたくだらない言い訳を霧散させて、俺は真っ先に耳を疑ったがそれは単なる現実逃避であることに気づく。  
 佐々木、せめてもう少し空気を読んでくれる相方だと信じていたが、俺の勝手な見込み違いだったのか?  
 
「ふーん。わざわざ休日なのにキョンに呼び出されて佐々木さんも大変ね。団員の非礼を詫びるわ。団長としてね」  
 
 そう言いつつも下手な態度など微塵も見せないハルヒ(短)。それに対して佐々木は首を横に振って、穏やかにその薄っぺらいお詫びを拒否する。  
 
「とんでもない。むしろ懐かしんで楽しんでるよ。こうやって休日をキョンと勉強して過ごすのは久しぶりだから。やっぱり休みの日はのんびりできていいね、平日の放課後とはまた違う趣がある」  
 
 真っ先にこの台詞に反応したのは他でもない俺。  
 何気ない調子で佐々木の口から滑り出た内容に、口外無用の禁則事項が含まれていたからだ。  
 ハルヒ(短)に内緒にしたいという俺の事情をこいつは知ってるはずだった。そもそも、佐々木にみてもらうようになったのはハルヒ(短)のオファー(短)を受けられずにいたからだぜ。  
 なぜだ? 言葉の流れの中でならまだしも、どうしてわざわざ付け加えるように言った?  
 弁の立つ佐々木が口を滑らせたとは考えづらい。狙ってやってるか血迷っているとしか思えない。ちくしょう、一体何を考えてやがる。  
 とにかくこの会話を断ち切るべきだったが、出鼻を挫かれた俺にはそのきっかけの持ち合わせがなく、不本意にも切り出せずに沈黙の時を過ごす。  
 
「へ、へーえ……。そう、そう言う事だったのねぇ――――」  
 
 わざわざ見なくても察することができたが、案の定隣を窺うとハルヒ(短)の横顔はリード線で引っ張ったように見事に引きつっていた。  
 慌てて視線を逃がそうとしたが、見透かしたようにそれまで脇目も振らず斜め前しか見ていなかった瞳がグルリと回って、ガッチリと俺の目を捕らえた。  
 正直に言おう。ちびりそうなくらいの迫力だってな。  
 
「キョン! どーゆーこと! 説明しなさい!」  
 
 ガタンと机を揺らすことも厭わずハルヒ(短)は鬼神の形相で俺の胸倉を乱暴に引き寄せる。そして鼻先3センチ、息の掛かりそうな至近距離で恫喝するように問い詰めてきた。  
 視界にドアップで写りこんだハルヒ(短)の顔に泡を食ったが、そんなことを意識してる場合じゃないと俺の生存本能が窒息の警告を出していた。  
 く、苦しいっ。一体この細腕のどこに重機のような怪力が潜んでるんだ?  
 
「っ、放せって。しゃべる! 説明してやるからっ!」  
 
 圧迫された気道から搾り出すようにそれだけ言い遂げると、ハルヒ(長)の窘めもあってハルヒ(短)は俺を解放した。生ゴミを捨てるように、それはもうぞんざいに。  
 ったく、観念もなにもあったもんじゃないぜ。それすら猶予を与えないんだからな。お前、履歴書の特技の欄に取調べって書けるぞ。俺で良けりゃお墨付きをやってもいい。  
 ソファーに放り投げられた俺は乱れた襟元を直して、とにかく居住まいを正す。  
 ハルヒ(短)は持久走で自己新を更新した直後のように肩で息していた。本来窒息させられそうになった俺がやる仕草だぞ、それは。  
   
「隠していたことは謝る。だが今回ばっかりは俺もマジなんだよ。緊急事態ってやつだ。腰を据えて勉強したかったんだよ。親に塾行きを宣告されたら団活も本格的に休止だ。これはそうならないための対策なんだよ」   
 
 我ながら名演説だ。自己評価ながら80点はつけてやりたいね。  
 こんなにはっきりと自己主張できたのは久しぶりなんじゃないか。  
 だが、手ごたえを感じていた俺に返ってきた台詞は、  
 
「だから?」  
 
 という味も色も素っ気のない一言。ハルヒ(短)は口をへの字に曲げたまま何の一つも納得した様子を見せていない。  
 だからもへったくれもないだろ。今俺が言ったのが結論だ。  
 
「あんたなりに考えてることは分かったわ、色々とツッコみたいところはあるけど後まわしにしてあげる。あたしが訊いてるのはこれからのことよ。これからどうするつもり?」  
 
 どうするもなにもないだろ。このまま中間まで佐々木に勉強を教えてもらうに決まって……、  
 
「却下」  
 
 最後まで聞け。何が気に入らないんだ? 団活にちゃんと出るなら問題ないだろ?  
 食い下がる俺に、ハルヒ(短)はまなじりを決して凄む。  
 
「ダメね。団活に出た後ここに勉強しに来るわけでしょ? そんな時間のロスの多い非効率なことやってどうすんの? 二束の草鞋を履くような真似なんてキョンには1億3千年早いのよ」  
 
 じゃあ俺の中間試験対策はどうしろってんだ?  
 当然の反論にハルヒ(短)は一瞬視線をあさっての方向にやって間を作る。  
 なんだ? なぜそこでアクセルを緩める必要がある? 既視感があるのは気のせいじゃないぞ。確か前にも似たようなことがあったはずだ。  
 それを思い出すより先にハルヒ(短)は腕を組んでアヒル口を作って居直った。  
 
「……、あたしが学校で教えたげる。昼休みとか放課後にね。な、なんなら団活が終わったと居残りでやってあげてもいいわよ。って言うか、勉強教える話なら何度も言ってることじゃない。なんであたしに相談しないわけ?」  
   
 まずい方向に話が流れ始めやがった。くそっ、なんとか避けて通れないのか?  
 窮したままにふと正面を見ると、ハルヒ(長)は噴出すのを我慢するかのように口の端を歪ませてひたすらニヤニヤしていた。お前、絶対楽しんでるだろ?  
 なんて説明したらいいか言いあぐねていると、佐々木が押し殺したような独特な調子でくっくっと笑った。  
 
「やっぱりダメだよキョン。ちゃんと涼宮さんには話を通さないと」  
 
 佐々木、この期に及んでそれは愚問だぞ。やりとりを3往復でも見てりゃ、こいつが話し合えるヤツかどうか判断つくだろう?  
 
「どういうこと?」  
 
「説明してもいいけど、私の口から言うのも変かなって。ただ、今ここで私とキョンが居るってことに答えが集約されてるように思えるけど、どう? 聡明な貴女ならピンとくるものがあるはずだけど、私の見立て違いかな? ……、それとも気づかないフリしてるだけ?」  
 
 無垢に微笑んだままあくまでも友好的に、何気ない世話話の一片のように放たれた佐々木の言葉は、超流動状態のヘリウムのように粘度ゼロで右から左へ流れて行きそうになった。  
 二人のハルヒが揃って呆然となっていることが、なによりも俺のリアクションが正常なものであることを示している。  
 3者そろって脳に染み入るように時間を掛けて今の佐々木の発言がいかに異常であったかということの理解を終えると、場の温度が一気に氷点下まで沈み込んだ。  
 
「一人で勝手に深読みするのは勝手だけど、あたしの答えは究極にシンプルよ? 団員を管理するのが団長の務めだから、あたしはそれをまっとうするだけ」  
 
「団長様のスパルタ授業を戦々恐々と受けるのと、リラックスした状態で私と勉強するのと、果たしてどっちが効率的かな。涼宮さんはどう思う?」  
 
「キョンは甘やかすとダメなタイプだから。叩かれて伸びるのよ」  
 
「焼きを入れ過ぎた鉄は返って脆くなるそうよ。アメとムチは使い分けないとね」  
 
 …………、ハッと我に返る。思わず聞き入っちまった。  
 待て待て、おまえら。なんかおかしいぞ? 最初は俺とハルヒ(短)が話していたはずだ。いつの間に佐々木とハルヒ(短)のラリーにすげ替わった?  
 今にもヒビが入りそうな緊張の空気に反して、二人の表情は妙に活き活きとして自信が滾っているのが余計に恐ろしい。  
 涼宮姉妹はともかく、佐々木はあまり争いごとのようなことを好むタイプじゃないはずだ。ここまで張り合うということが意外だった。  
 とにかくこのラリーはやばい。やば過ぎるだろ。  
 すぐにでも止めなければとテーブルの上の水でも零そうかと画策したとき、乾いた音が場を断ち切った。  
 今まで黙していたハルヒ(長)が立ち上がって手を打ち鳴らしていた。  
 
「ハイハイ、二人ともそこまで。お二人の主張はよーく分かったわ。ついでにキョンの主張もね。でもこのままじゃどこまでも平行線でしょ? あたしに良いアイデアがあるわ。それにノッてみない?」  
 
「やぶから棒に何よ。まずはそのアイデアの中身を説明しなさいよ」  
 
 ハルヒ(短)の当然の返しに、佐々木も頷いて追従する。  
 おい、何を思いついたのか知らんが、またややこしくなるようなことを言い出すんじゃないだろうな?  
 
「厭なら棄却してくれて結構よ。あくまでも民主的にね」  
   
 ハルヒ(長)は一人あっけらかんとした調子で説明を開始した。  
 
「要は誰がジョンの勉強指南役として相応しいか、今度の中間テストで勝負すれば良いのよ。教科を分け合って指導して点数を競うの。実に分かりやすいでしょ? ねぇ、北高の科目はどうなってるの?」  
 
「……数学UとB、現代文、古典、英語、物理、生物、世界史、地理、保体の10教科だ。保体のテストはあってないようなもんだから実質9教科か」  
 
 聞くだけ聞いてやるとばかりに教えてやるとハルヒ(長)は瞳を一層輝かせて続ける。  
 
「数学系、国語系、理科系、社会系が2つずつ、そして英語ね。都合よく二人で分けやすいじゃない。余ってる英語はあたしが教えてあげるわ」  
 
 いや、そう言ってこっちを見られてもな。  
 帰国子女から英語を教わるのは吝かじゃないが、本気で勝負させるつもりなのか?   
 
「面白い試みだけど、各教科によって難易度が違うだろうから合計の点数では公平な勝負ができないんじゃないかな?」  
 
「その通り。だからあくまでも基準は平均点。平均点の差分を点数としてその平均で勝負よ。これならまぁ、完璧とは言わないまでもおおよそ平等と言えるでしょ?」  
 
 ハルヒ(長)の説明が納得いくものだったのか、佐々木は「ふむ」と考え込んだ。  
 
「……いいわ。やろうじゃないのよ、その勝負! そうと決まったら分担を決めないとね」  
 
 おいおい、ちょっと待て。勝手に話を進めるな。  
 俺の前提条件を思い出せ。今回の中間でなにがなんでも結果を出したいって意図を忘れたのか? それを賭け事のネタに祭り上げようなんてどうかしてるぜ。  
 呆れて物も言えん俺に対して、ハルヒ(長)は微塵も勢いを落とさずに胸の前で腕を組んで見下ろしてくる。  
 
「あたしは3人の要求を満たすベストなアイデアだと自負してるわ。勉強は個別にやるから集中できるわよ。んでもってお互い勝とうとして躍起になるだろうから、自動的にジョンの点数はあがるわ。そして、試験終了と同時にこの諍いにも決着が付く。一石二鳥じゃない」  
 
 ………………、なるほど。確かにそう言われて見ればハルヒ(長)の提案がいみじくもまんざらでないように見えてくる。  
 俺が一番回避したいのはなぜそんな剣幕で争う必要があるのか分からん二人による不毛極まりない衝突によって、俺の勉強が中断されることだ。  
 しかしこのアイデアを採用すれば、ハルヒ(短)と佐々木による競り合いをうまく学力向上に利用できるってわけか。  
 …………でもなぁ、おもちゃにされてる感が拭えないのがどうにも引っかかる。いや、しかし――。  
 そんな風に少しでもまともに考え始めた俺が莫迦だった。  
   
「教科は佐々木さんから選んでいいわ。学校が違う分のせめてものハンデよ」  
 
「ありがたく受け取っておくよ。やはりそこは大きいからね。この一週間でキョンに重点的に教えた教科の中から選ばせてもらおうかな」  
 
「でも手加減はしないかんね」  
 
「望むところよ」  
 
 すでに話はまとまりつつあるようで、末期のすい臓がんを告げられた患者のように手遅れの状態。今更俺が口を出すのも憚られる様な空気が充満していた。  
 どうやら考えてしまった時点で俺の負けだったらしい。  
 気づけばハルヒ(長)は時折二人の話に耳を傾けながら、なにやら熱心にルーズリーフにペンを走らせている。  
 覗きこんだ瞬間にまず飛び込んできた文字は『対戦誓約書』。  
 書面には約款やらただし書きやらが手書きながらもそれらしく記されている。  
 ……眩暈がした。  
 ボクシングのタイトルマッチじゃあるまいし、そんなもん作ってどうするんだ?  
 
「いいじゃない。雰囲気よ雰囲気。これがあれば勝負のあと揉めたりしないしね」  
 
 そんな大層なモンじゃないだろ。俺の勉強指南役の権利はいつの間にそんなに高騰したんだ?  
 やっぱりどうにも遊ばれてる気がしてならんと釈然としないまま渋い顔をしていると、話はトントン拍子にまとまったようで、あれよあれよという間に調印式が取り交わされた。  
 お前ら協調するところを間違えてるぞ。  
 署名の欄には佐々木とハルヒ(短)のフルネーム、そしてプロモーター気取りか知らんが最下段にハルヒ(長)の名前が刻まれた。  
 それを目の当たりにして、もう後には退けない現実を悟る。  
 本気かよ……、お前ら。なんてこった、佐々木まで完全に毒されちまうなんて全くの想定外だった。  
 
「よっし、んじゃあたし達は帰るわ。引き続き勉強は続けてちょーだい」  
 
「キョン、時間割にないけど明日数Uと物理の教科書を学校に持ってきなさいよ」  
 
 長短ハルヒはそれぞれそう言い残すと、立つ鳥跡を濁さず席を立って去っていった。  
 トレイに載っていたのは、キレイに平らげられて空になったカップとハンバーガーの包み袋。いつの間に食べたんだ? こいつら。  
 急展開についていけてない俺はただ阿呆みたいに口を半開きにしたまま見送るだけ、佐々木はどこぞの国の皇太子妃殿下のような優雅さで手を振っていた。  
 目の前で起こってる事象がどうにも現実味に乏しく、ともすれば俺は夢を見てるんじゃないかと疑ってみたが、残酷にも一口啜った時間の経ち過ぎたアイスコーヒーは水っぽくて温かった。  
 
「キョン、どうしたんだい? 顔色が優れないようだが」  
 
 そう言って机越しに佐々木は俺の顔を覗き込んできた。  
 睫毛の長くて薄茶色に彩られた曇りのない虹彩は油断すれば引き込まれてしまいそうで、俺は慌てて背筋を正した。  
 久々に間近に佐々木の顔を見ちまった。こいつがこんなに綺麗な目してたなんて今まで気にもしなかったぜ。  
 俺の挙動が滑稽に写ったのか、佐々木は口許に手を当ててくすりと笑う。  
 
「俺の成績をネタに賭け事が成立してるんだぞ。そりゃ顔色の一つや二つ優れなくて当然だろ」  
 
「そうだね。その点については僕も不本意な部分がある。申し訳ないと思うよ」  
 
 影を落とした佐々木の表情には疑いのない謝罪の念がにじみ出ていた。  
 ……まぁ、いい。よくないけど、いいことにしようじゃないか。  
 ここに来て佐々木を責めても仕方がない。調印式もつつがなく済んでしまった今、利用できるものは利用した方が良いと考えるのが建設的ってもんだろう。  
 
「お前の性格や趣向についてあらかた把握できていたつもりだったんだがな」  
 
「キョンが知ってるのは1年前の僕ってことだね。男子三日会わざれば刮目して見よなんていうけど、流石に女子でも1年もあれば変わるってことさ。なにかとね」  
 
 佐々木は意味深にも無邪気に表情を崩した。  
 ここで何が変わった問うのは少し無粋な気がするので、俺は切り口を変える。  
 
「どうしてこんな面倒事にのった? 」  
 
「……そうだね。強いて言えばこの時間を守りたいってことかな。今現在僕らにとって唯一の接点だから。唯一ということはすなわちかけがえのないものと換言することができるだろう? かけがえのないものを守るために勝負するのさ」  
 
 なんだか明瞭に答えているようで、煙に巻かれているような気がするのは俺の頭が悪いせいか?  
 今ひとつ釈然としない俺の顔を窺うと、佐々木はくっくっと零して最後に付け加えた。  
 
「キョン、キミは相変わらずだね。1年前と全然変わってない。ああ、どうか気を悪くしないでくれたまえ。貶してるわけじゃないんだ。笑いが止まらないのはどうにも懐かしくてね。おかげで更に意志が固まったよ」  
   
 佐々木の言葉はとうとう最後まで理解できず終いだった。  
 ハルヒといい佐々木といい、ときどき何を考えてるのか全く分からなくなりやがる。  
 真剣に考え始めると知恵熱が出そうだったが、こんなことで熱を出している場合じゃなかった。今の俺には一分一秒でも勉強の時間が惜しい。それ以外のことに思考を回してる余裕など1ミップスすらもない。  
 長過ぎたブレイクタイムに幕を引いて、俺達はどちらからともなく視線を問題集に戻し、日が暮れるまで勉強に没頭した。  
 
 
//////////  
 
 
 ここからはひたすら勉強の毎日となるわけだが、序盤、中盤、終盤と長短ハルヒ、佐々木の授業風景をそれぞれ抜き出してみようか。  
 まずは序盤。調印式の次の日。  
 
 バーガーショップで去り際にハルヒ(短)が遺した言いつけを守って俺は学校で数学Uと物理を教わった。  
 ハルヒ(短)曰く、壊滅的な理数系をなんとかするのが最優先事項だそうだ。それに関しては全く異論はないね。  
 意見の方向性が一致するなんて雨でも振るんじゃないか?  
 なんて、思ってると本当に夕立が襲ってきやがった。  
 安っぽいトタンのひさしを叩く雨音を聞きながら、居残りの文芸部室で数Uの問題を解く。  
 ハルヒ(短)は『勉強は勉強! 団活は団活!』の基本方針を曲げるつもりなどさらさらないらしく、例に漏れず今日も団活を終えてからの居残りとなった。  
 だが気になったことが一つ。  
 長門が本を閉じる時刻が異様に早かった。帰り際に見た古泉と朝比奈さんのぎこちない態度から察するに多分に気を遣わせてしまったんだろうな。  
 すまんみんな。中間が終わったら喫茶店で一品奢らせてもらおう。  
 そんなことを頭の片隅でつぶやきながら、図形問題を解いていた。  
   
「キョン、あんた作図が苦手みたいねぇ。真っ直ぐ線が引けないところがすでにネックだわ。ごちゃごちゃの図描いてるからミスするんじゃないの?」  
 
しょうがないだろこればっかりは。センスに文句を言われてもどうにもならんぞ。  
 
「それ以前の問題よ。横着しないで物差し使いなさいってこと。ホラ、あたしの貸してあげるから」  
 
 そう言ってハルヒ(短)は色もデザインもない、透明でただ目盛りと方眼線が引かれただけの物差しを取って寄越した。  
 
「……ああ、サンキュ」  
 
 そう言って俺は真っ直ぐなX軸とY軸を引いて、本日初と言えるまともな直交座標を作成する。  
 おかげで問題の解答は捗ったが、俺の心中は少し混乱していた。  
 ハルヒ(短)の教え方がなんか違うのは気のせいではないだろう。今だけじゃない、これはのっけからずっと感じていることだった。  
 なんというか、抑えてるというか、言葉を選んでるというか、まぁ究極に端的に言えば優しいっていうことになるんだが、身構えて臨んでる分なんだか調子が狂ってしまう始末だった。  
 
 例えば、半月前のハルヒ(短)ならば間違いなくこう言っただろう。  
 
「キョン、あんた作図のセンスないわねぇ。もう終わっちゃってるとしか言いようがないわ。あー、もうなにこのごちゃごちゃの円と線! 前衛絵画やってんじゃないのよ?」  
 
 とでも言われただろう。  
 いや、さすがにここまでじゃないにしても、それに限りなく近い辛辣な語彙が選択されたはずだ。  
   
「あ、そこは直線の式求めなくていいから、ね、座標で読めるでしょ? こことここ、分かる?」  
 
「どこだ? すまん、少し小さく描きすぎたな」  
 
「……、ここよ」  
 
 あまり耳にしたことがない蚊の鳴くような掠れた声がしたと思うと、次にひんやりと柔らかいものが俺の手の甲を包んでいた。  
 ハルヒ(短)が俺の手を取って、図上の2点を導き示していることを視覚はすぐに認識していたが、脳はその事実を否定したかったらしく、心音3拍ほど隔ててようやく事象の理解を遂げる。  
 それほどに目の前の現実は目に疑うものだった。  
 寄り添うように触れ合う肩、前髪が触れ合う距離まで接近した顔。いつの間にこんなに接近してたんだ?  
 蛍光灯に照らされたハルヒ(短)のすっぴんの肌はシルクのようにキメが細かく、ツンと尖った上唇は陶磁器のように瑞々しく、それらは少し、いやかなり健全な男子にとって毒だった。  
 まずい、完全に意識しちまった。心音がやかましいくらいに鼓膜を打ち鳴らしてやがる。ハルヒ(短)に悟られるだろうが、鎮まれ。  
 
 期せずして目が合う。ハルヒ(短)の頬は真っ赤に色づいていた。  
 その刹那、ハルヒ(短)はものすごい勢いで手をどけて自分の膝の上に戻すと不自然に背筋を正してそっぽを向く。耳まで真っ赤だぞ、お前。  
 もしかしてお前熱でもあるのか? 今日はなんかおかしいぞ? 挙動全般に亘って。  
 
「失礼ね! 至って正常よ。これはあんたが――――っ」  
   
 あんたが? 俺か? 俺が……、そうだよな。確かに俺がやっちまったよな。  
 ここまで分かり易けりゃさすがの俺でも察しがつくさ。  
まさかお前に気を遣わせることになるなんて思ってもみなかったんだが、それは俺の甘えだよな。  
 さて、ここで俺はどうすべきか。  
 
 本当に熱を測ろうと額に触れるべきか?  
 とにかくいつもの調子に戻れと言うか?  
 佐々木とお前は違うと言い聞かせるか?  
 
 いいや、どれも違うね。  
 こんな無粋なことをこのハネッ返り娘に言った日にゃ混ぜっ返すようなことになるだけだ。  
 熱を測ろうとするのは論外として、これらの言動以前に俺にはやらなければならないことがある。  
   
「えーっ、その、なんだ。ハルヒよ」  
 
「何よ?」  
 
「今更あれなんだが……、先に申し出てくれたお前をないがしろにしたことを謝りたい。すまん」  
 
 頭を下げた。本当は昨日、遅くとも今朝の一番にやっとかないとだめなことだったよな。情けねぇ。  
 視界の外でハルヒ(短)がどんな仕草や表情をしてるのかは推し量るしかない。反省のあまり顔を上げられないというより、ただ単にハルヒ(短)の顔が見れないでいた。  
 感覚が麻痺してるのか、やけに空白の時間が長く感じられた。  
 
「……全くよ。バカキョン」  
 
 力のないその言葉で時間が再び流れ出す。  
 ハルヒ(短)はそこからまくしたてるように続けた。  
 
 「あー、ダメ。やっぱ無理。そもそもあたしがキョンに合わせる時点で間違ってんのよ。今確信したけどね、やっぱあんたは厳しくお尻を叩いて追い込まれないと伸びないタイプよ。温〜い環境でやっててもダメ、スパルタの方が性に合ってるのよ」  
 
 スパルタが性に合ってるのはむしろお前だろう。なんて言えるはずもなく、かといって素直に頷くこともできず、俺はとにかく少し溜飲を下げた。  
 なぜかって? それは今のハルヒ(短)の調子にサビが戻っていたからさ。  
 顔を上げると、瞳の奥底に無尽のエネルギーを湛えて、対する者に有無を言わせない自信を纏ったハルヒ(短)が居た。  
 ……やっぱりこいつはこうでないとな。勝手な話だがこっちも調子が狂っちまうんだよ。  
 思わず笑みがこぼれると、ハルヒ(短)の目が逆三角形に吊り上った。  
 
「ヘラヘラしてるんじゃないわよ。そう決まったからには、ビッシビシ行くからね。覚悟しなさい!」  
 
 そう捲くし立てると物差しで俺の手の甲を叩く暴挙に出た。  
 いてぇ! いきなりなんてことしやがる。ビシビシってそういう意味じゃないだろ。  
 未だハルヒ(短)の頬にはほんのり朱が残っている。だが、かくいう俺も多分同じような表情をしてると思うからそれはお互い様だ。  
 今のはさすがにちょっとわざとらしかったか? お互いに。  
 まぁいい、照れるのは後回しだ。  
 とにかくいつものペースで。  
 窓の外で雨はいつの間にか上がって、厚かった雲間から夕日が差し込んできていた。  
 悪態を吐き合いながら強引にも確実に妙な雰囲気を晴らして、俺たちは図形との格闘へと戻っていった。  
 
 
//////////  
 
 
 中盤。調印式から一週間後。  
 
 ハルヒ(長)の初めての授業機会が訪れた。  
 回数が少ない分、休日に俺の自宅にて朝から夕方までみっちり教わることになっている。  
 自室にあいつを招くことに抵抗がないわけじゃないが、さすがにこんなに長い時間をバーガーショップに入り浸るわけにもいかず、消去法による苦渋の選択だった。  
 まぁ、いい。俺もあいつには色々と聞きたいことがあるんだ。図書館では雑談は厳禁だが、ここでなら気兼ねはない。  
 開会式のようにお約束の家捜しイベントをつつがなく消化したのは、わざわざ詳細を記すところじゃないだろう。  
 ハルヒ(長)はさすがに帰国子女なだけあって英語は十八番らしい。何と言っても発音が違う。ネイティブな英語を聞き慣れてるわけじゃないが、自然か不自然かくらいの判別は俺にだってつくぜ。  
 担当の英語教師がおこがましいと思えるくらいに流麗な英語を披露してくれた。  
 勝手なイメージで文法を完全に無視した感覚的英語を持ち出してくるんじゃないかと危ぶんでいたが、開始早々にそれは杞憂と終わる。  
 学校で習った文法英語と日常英語を完全に融合させて自分のものに仕上げていた。  
 教科書とノート、プリントを見せると、出題確率の高そうな単語や熟語に目星をつけてピックアップしてまずは暗記タイム。そしてそれが終わる頃には練習問題を組み終わっていて問題慣れさせる手際の良さは脱帽ものだった。  
 基礎的なところを押さえて、今は配点の高い英作の練習に突入していた。  
 
「書いてある日本語をそのまま英語にしようとしたらダメよ。噛み砕いてできるだけ単純な日本語に直すのよ、日本語のレベルを自分が使える英語のレベルに落とすの」  
 
 この解法方針に従ってまずは日本語の意訳から手をつける。  
 開始からすでに3時間か。初めて自室にハルヒ(長)を迎えた妙な緊張もいい加減ほぐれてきて淀みなくペンを走らせているところに、読んでいた漫画から顔を上げてハルヒ(長)が切り出してきた。  
 
「ね、中学時代ジョンは佐々木さんと付き合ってたわけ?」  
 
 現在分詞の用法が間違ってるとか、時制が違うとか言い出すのかと思いきや、完全に不意を突かれてバチンとシャーペンの芯が折れた。  
 
「あ、あのなぁ。人が集中して問題解いてるのに邪魔をするな」  
 
「まぁ、いいじゃない。前半がんばったんだしちょっとくらい。で、どうなのよ?」  
 
「友達だ。まさかそんなデマでも流れてるのか?」  
 
「そういうわけじゃないけどさ。姉がやたらと気にしてるから、はっきり確認とってあげた方が精神衛生上いいかな〜って」  
 
 そりゃ変な話だ。確か前にSOS団の待ち合わせ場所でばったり鉢合わせたときに、自己紹介の中で佐々木は俺のことを親友だと評したからな。公明正大に。  
 
「今は親友かもしれないけど、昔はどうだか分からないじゃない」  
 
「そんな余計な深読みしなくていいんだよ。佐々木と俺が話してるのを聞いただろ? どっちかって言うと野郎同士の感覚だぞ?」  
 
 この俺の見解がいたくお気に召さなかったらしく、ハルヒ(長)は頬杖をついてジト目で睨んできた。  
 血圧に良くないな。髪の毛のボリュームがあるせいか、お前がそうするとやたらと圧迫感があるんだよ。  
 そんな軽蔑の視線を浴びせられる理由など一切身に覚えがないんだが。  
 
「あのねぇ、野郎の友達が姉と真正面きって張り合ってジョンと一緒に過ごす時間を奪い合って勝負するとでも思ってんの? もし古泉君がそうしたとして、あんたそれをなんの違和感もなく受け止められるわけ?」  
 
 野郎の友達ってのは言葉のアヤなんだよ。気持ち悪い例えを持ち出すな。  
 
「まぁ、いいか。ジョンがこの調子じゃ男女のまろやかな雰囲気なんて出るわけないわよね」  
 
 ああそうさ、そんな雰囲気とやらはどんなのか想像すらもつかんね。  
 ハルヒ(長)は上半身を後ろへ投げ出すと、両手を床につきながら仰け反って天井を仰いだ。  
 人の部屋でくつろぎすぎだ。スカートで胡坐をかくのはどうにかならんのか。……見えそうだぞ。  
 くそっ、ガラス張りの机なんか使うんじゃなかった。さっきから気になって仕方がない。  
 気を紛らわせるために俺は会話を続けた。  
 
「俺からも一ついいか?」  
 
「なによ?」  
 
「今回こんなことを仕掛けてお前に何のメリットがあったんだ?」  
 
 興味を引く内容だったのか、ハルヒ(長)は反動をつけて机に身を乗り出してきた。  
 
「メリット? そりゃあ色々あるわよ。変な虫が寄ってくるのはそれはそれで困るし、一応、高校卒業までは協力してあげるってことになってるから。まぁ、あくまでも補助って感じだけどね」  
 
 爛々と目を輝かせながら言い放ったにもかかわらず、その8割が意味不明、理解不能ってどういうことだ?  
 頼むから少しはペースってもんを合わせてくれ。  
 
「あー!? もうっ、また同じミスしてる『遠くに』は『to the distance』じゃなくて、『in the distance』!」  
 
 言ったそばからこれか?  
 姉と分け合った俺を振り回すDNAを遺憾なく発揮してくれるね。俺はやれやれと手振りするかのように消しゴムを滑らせる。  
 
 それからハルヒ(長)は漫画を読むのを止めて、机に二本の頬杖をついてずっと俺を見守った。  
 視線だけチラリと上げると、悪戯っ子世に憚るとばかりに無邪気に百ワットの笑みを浮かべるハルヒ(長)の顔。  
 俺自身を見てどうする。解答を見てくれ。  
 様々な雑念を振り払うために唯一俺ができることは、問題に没頭することだった。  
 
 
//////////  
 
 
 最後に終盤。試験初日を前日に控えた日曜日。  
 
 この二週間、学力の高い二人にマンツーマンでついてもらって勉強に熱を入れた甲斐あって、成果をひしひしと感じることができた。  
 参考書の基礎問題はもはや朝飯前。応用問題でもつまずく方が少なくなった。  
 本番を迎える前だが、すでにこの点に関して感謝せねばなるまい。  
 賭けのことは……、いや、とにかく今は考えないようにしようじゃないか、まずは赤点クリアを目指すのが俺の第一目標だったはずだ。  
 今日は佐々木を自宅に迎えていた。  
 休憩中に佐々木に懐いてなかなか離れようとしなかった妹をひっぺがえして、後半戦に突入していた。  
 古典をやっていたが出題率100%の教科書に載っているものに関しては、諳んじることができるくらいにマスターできていたので、今は教師が授業中に配ったプリントを復習していた。  
 失礼な話だが、当初俺は勝負としては佐々木がかなり不利だと見込んでいた。  
 分からないところをピンポイントで尋ねるくらいならまだしも、よく考えれば他校の生徒に試験対策指導まで依頼することはかなり無理があるからな。  
 しかし当然そんなことを佐々木が見越してないわけがなく、ある秘策が飛び出した。  
 調印式の翌日に国木田から、  
 
「キョン。昨日突然佐々木さんから連絡があって、変なことを頼まれたんだ。北高のノートをコピーさせてくれって。数B、世界史、古典、生物の4教科限定で。断る理由がないから今日待ち合わせることになったんだけど、何か知らない?」  
 
 と切り出されたのさ。  
 そうだよな。まずはノートとプリントが揃ってないと始まらん。  
 一学期前半を怠惰に過ごした俺は板書はおろか、配布プリントも碌に保管していなかった。何も言わずこれを読んで先手で対策を打った佐々木には驚嘆を禁じえない。今更ながらできる女だった。  
 プリントを元に佐々木がアレンジした問題を解き終わって採点を受ける。  
 即座にチェックを終えて佐々木は満足げに頷いた。  
 
「全問正解だ。これなら古典に関しては十分だと太鼓判を押せるね。残りの時間で数Bをもう少し詰めておこうか。残りの科目は僕がまとめた暗記項目を見返す反復を怠らずにやってくれ」  
 
「分かった。ありがとう」  
 
 俺は机の上から古典の教材を片し、数Bの問題集を取り出すために鞄を漁る。  
 
「いよいよ明日からだね。どうだい? 自信のほどは」  
 
 ここまでやってもらっといて『ない』とは言えんだろう。むしろ、こんなに万全の体制でテストに臨むのは初めてなくらいだぞ。最早赤点が気になるレベルじゃない気がするくらいだ。  
 これを受けて佐々木はくつくつと喉を鳴らす。何がツボったのか目を細めて口元に手をやるオプション付きだった。  
 
「それは僕らが目指すところの影響だね。1点でも多くキョンに取らせることが趣旨だから。まして相手は涼宮さんとくれば自ずとレベルも高くなるってものさ」  
 
 ……それなんだが、もしハルヒ(短)に勝ったとしてこれからずっと俺の勉強指南役を受け持つつもりなのか?  
 何がそんなに意外だったのか、佐々木は珍しく目をぱちくりと見開いたまま瞬きを繰り返すという珍しいリアクションを見せた。  
 
「当然だよ。そのために競い合ってるんだぞ? ……もしかして、僕じゃ役者が務まらないかい?」  
 
 傍らに座る佐々木が僅かに身を寄せた。  
 表情はそう変わったようには見えないが、俺には一抹の不安が窺えた。  
 ふわりと鼻先に触れたのは紅茶と日本酒を混ぜたような不思議な芳香。  
 こいつ香水を付けてるのか?  
 明らかにシャンプーとは異なる蠱惑的な香りに一瞬戸惑ったが、ここで固まっちゃ不自然だ。かぶりを振って懸命に話に戻る。  
 いや、そういうわけじゃないんだが、こんな冗談のような対決でどこまでお前が本気なのか今一つ測りかねてるだけだ。  
 佐々木は大きく息を吐くと、意を決したように返してきた。  
 
「もちろん本気だ。これはね僕にとって与えられたチャンスなんだよ。1年と少し前に僕が犯した失態を取り戻すためのチャンス、言わばリベンジさ」  
 
 リベンジ? そいつはどういうことだ? と尋ねようとしたとき、佐々木は続けて二の句を告げていた。  
 
「離れれば意識してもらえ―――……、―――ね」  
 
 発言がかち合ったことと、佐々木が囁くように呟いたことが相まって正確に聞き取れない。  
 ただ、うつむき加減で思いつめた佐々木の表情からはなにやら只ならぬ意思が感じられた。聞き返すのが躊躇われる空気が立ち込めている。  
 だが、すぐ何事もなかったように表情を和らげて、佐々木は視線を俺に戻した。  
 
「とにかくこうやってまたキョンと勉強したいと思ってるのさ。一緒に同じ大学を目指すなんてどうだい?」  
 
 お前と一緒の大学? レベルが合わんだろう。無理があるんじゃないか?  
 
「そんなことはない。キョンはやればできるヤツだからね。月並みな台詞だと思うなかれ、教えてて実感したことなんだ。本当に心の底からそう思ってる」  
 
 本当かよ。……まぁ、実現可能かどうかは別として、お前と一緒のキャンパスライフを送れるとしたら――――、俺は少しだけ広大な構内を佐々木と談笑しながら並んで歩く想像を馳せる――――、楽しいだろうな。うん、それは間違いなくそう思うぞ。  
 
「っ――――」  
 
 この瞬間なぜか幕間があった、ような気がした。デジタルで計測すりゃおそらく1秒にも満たない刹那の時間。  
 だが、この一瞬に俺は佐々木の強張ったような表情をとらえていた。息を呑んだというか、言葉に詰まったというかそんな感じの顔。  
 自分でも妙な感じだ。普段の会話ならこんな些細なこと気にもとめないはずなのにな。  
 そんな俺の思考がどうでもいいとばかりに、何事もなかったようにごく自然に再び会話が流れ始める。  
 
「……、あるいはそれとも、このまま君に赤点を取らせてご母堂様に君を塾へ放り込んでもらって、またあの頃のように自転車の後ろに乗って流れる星空を堪能するのも悪くないと思うけどね」  
 
 おいおい、そいつは性質の悪い冗談だな。  
 そう言ってお互いに笑い合った。  
 佐々木の頬が妙に赤かったのが気になったが、きっと大笑いして気分が高揚してたせいだろう。  
 クールなこいつでもこんな表情を見せるんだな。  
   
 最終日は勉強は確認程度でこんな風に和気藹々と流れていった。  
 もちろん手を抜いたわけじゃない。やることをやり尽くした感があったのさ。  
 今回に限ってテスト直前特有の悲壮感も焦燥感も全くなかった。  
 それは間違いなく俺のために尽力してくれた彼女達の多くの努力と俺の少しの努力の証。  
 無駄にはできないね。  
 とにかく後は結果を出すだけだ。そうして俺はいよいよ本番に臨んだ。  
 
 
//////////  
 
 
 特にアクシデントにも見舞われず中間テストの日程は全科目を終了し、更に一週間とちょっとが過ぎた。  
 ちなみに試験期間中は指導を辞退した。試験直前の時点で個人的には十分以上に目標達成のレベルにあったと実感していたからな。  
 今日は最も採点が遅れていた古典の答案が返ってきて、これにて俺の中間テストの結果が出揃うこととなった。  
 率直な感想を言おう。  
 俺が一番ぶったまげた。返ってきた答案にはあまねく見たこともないような点数が踊っていたから。  
 赤点ラインを気にしていた二週間前の自分が莫迦らしい。あくまでも感触の話だが、クラスでベスト10入りは堅いんじゃないか。  
 ちなみに規定のルールにより、俺の点数は未公開となっている。  
 ハルヒ(短)は知りたい欲求と、正々堂々と勝負したい欲求を衝突させて、答案が返ってくる毎にやきもきしまくっていた。  
 ちなみに基準点となるクラス平均点だが、公立の教師が足並みを揃えて全員律儀に告知してくるはずもなく、ハルヒ(短)の強引極まりない聴取と計算要求を受けて教師の悲鳴が聞かれたのは言うまでもない。  
 ちなみに俺は平均点を知らないので勝敗の行方は分からない。それはメールで俺の得点と平均点の両方の情報を得ているハルヒ(長)のみ知るところだった。  
 全くの余談だが、もしやと思い試験直前にハルヒ(短)に自分の点数を犠牲にしてクラス平均を下げたりするなよと冗談半分にカマをかけてみたところ、マジで悩んでやがったときは開いた口が塞がらなかったぜ。  
 もちろん必死の説得でキチンと受けさせたけどな。  
 
 そんなこんなで今日が結果発表。当然気乗りはしない。  
 俺としては自分の点数が出揃った時点でどこかへ逃亡したい気分だった。  
 だがそうするわけにも行かず、放課後に待ち合わせ場所になっている森林公園へ向かった。  
 さすがに喫茶店やバーガーショップで俺のテストの点数が公開されるのは嫌だったし、一同騒ぐこと必至だったため迷惑とならない他の場所でとリクエストを出したのは確かに俺だが、まさか森林公園の野外ステージを選んでくるとは思わなかったぜ。  
 そりゃあ平日のあそこなら人通りもまばらだが、何もあんな遠いところじゃなくてもいいんじゃないか?  
 だが、プロモーターのハルヒ(長)が「一番雰囲気が出るから」という主張を曲げるはずもなく、俺はSOS団の連中に鶴屋さんを加えた面々とともに、文句を言いつつも野外ステージ前まで来てしまっていた。  
 SOS団の面子は第二名誉顧問様によって借り出されていた。スタッフとして人員が要るだと。  
 みんなを巻き込むのは勘弁してくれと言いたいが、久しぶりの外出ということで一同の表情が明るかったのが唯一つの救いか。  
 ステージにはすでにハルヒ(長)と佐々木の姿があった。佐々木は一度自宅に帰ってから来たのか私服姿だった。まぁ、確かに放課後にこんな辺鄙なところまで制服を着たまま来ようと思わんよな、常識的に。  
 時刻は五時過ぎ。日照時間が長い恩恵を受けてまだ夕暮れの気配はない。  
 
「全員揃ったみたいね。んじゃま、準備から始めますか。鶴屋さん、手はず通りよろしく!」  
 
「あいよっ、みくるー! 有希っこ、古泉君、ちょっち集まって手伝うにょろよ」  
 
 名誉顧問同士阿吽の呼吸で団員が動き出した。スケッチブックやサインペン使って何をさせるつもりだ? たのむから演出は控えめで頼むぞ?  
 そう気に病んでいるとハルヒ(長)が駆け寄ってきた。  
 思ってることを一言二言言ってやろうとするが、案の定先手を握られた。くそう。  
 
「一応あんたの意思も訊いとこうかなってね。どう? 延長戦がいい? それとも完全決着希望?」  
 
 内緒の話なのか声を潜めてそんなトンデモ質問を問いかけてきた。  
 俺が選べりゃ苦労ないぜ。  
 強いて言えばどっちも遠慮したいね。  
 ……とりあえず、二人の先生の狭間で神経を擦り切らせるのはこれっきりにしたい。  
 先生方の指導は確かにすばらしかったが、時折り執念じみたオーラがにじみ出てたのは正直恐かったぞ。それを交互に浴びた俺の気持ちを汲んでくれ。  
 というか、密着指導は今回限定としたい。テスト毎にこんなに時間を取らせるわけにはいかんだろ。勉強のやり方も教わったし次からはなんとか一人で頑張れるはず、と思ってる。  
 
「……ふぅん、やっぱりそう来るか。なるほどね。……分かったわ」  
 
 そう言いつつも、「全く困った子ね」と我が子を嘆くような表情がにじみ出てないか?  
 まぁ、それはいいとして、分かったってまるで俺の儚い願望を叶えるかのような口ぶりだな。  
 てっきりつまらないとダメ出しを食らうもんだと思っていた予想に反して、ハルヒ(長)の輝ける瞳はタランチュラ星雲を取り込んだように煌きを増していた。  
 嫌な予感がすると問い質そうとしたが、タッチ差でハルヒ(長)は鶴屋さんに呼ばれて身を翻してステージに戻っていった。  
 どうやら準備が整ってしまったようだ。  
 胸のつっかえが取れないまま俺は結果発表に臨む。  
 
「えー、お待たせしました。それではこれから『ジョン(キョン)の勉強指南役争奪戦in北高一学期中間テスト』の結果発表を行います」  
 
 ステージに上がってマイクを持ってるフリをしてすっかり司会者気分に浸ってるハルヒ(長)。そしてその両脇には、露払いと太刀持ちのように鶴屋さんと古泉、朝比奈さんと長門の二組が控えるという配置で何やら中途半端に本格的に始まってしまった。  
 観客席は俺を挟んでハルヒ(短)と佐々木が見守る構図になっている。  
   
「では、まずは国語系対決! 現代文@ハルヒVS古典@佐々木さん! 点数オープン!」  
 
 早くもボルテージが最高潮のハルヒ(長)とは対照的に、古泉と長門が全く平素と変わらないテンションで手持ちのA3サイズのスケッチブックをめくった。  
 古泉が持っている紙に大きく刻まれた数字は+21、対する長門のは+17。  
 
「大きく書かれてるのが得点と平均点の差分ね。向かって右下にカッコなしで書いてるのが得点。カッコ付きの数字は平均点。えー、4点差で涼宮ハルヒの勝ちー!!」  
 
 よっし! と小さくガッツポーズで答えるハルヒ(短)。一方、佐々木は動揺の素振りなど見せないままに静かに佇んでいる。  
 脇に控える鶴屋さんと朝比奈さんが画用紙を切り取って、ラウンドガールのように掲げて持つ。それは実に華やかでいいんだが、この発表形式はマジで心臓に悪いぞ。一気に結果だけ知らせてくれた方がどれだけマシだったか。  
 そんな悪態など露知らずにハルヒ(長)オンステージは続く。  
 一進一退の攻防が続いた。どの科目の点数も余裕で10点以上プラスなのは喜ぶべきことだったが、そんなことどうでもいいくらいに俺は勝敗の行方が気になっていた。  
 そして、鶴屋さんと朝比奈さんが画用紙をテープで縦に繋げて表示している得点結果に最後の四枚目が連なって、古泉と長門が4教科の平均を表示した瞬間、全員が息を呑んだ。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「ハルヒ+18.5点! 佐々木さん+19.5点!!」  
 
 盛大なる発表に対して訪れたのは沈黙。今までの盛り上がりが嘘のよう。まるで水を打ったかのようにシンと静まり返った。  
 みんなの気持ちは分かる。リアクションの取りようのない結果が突きつけられていた。  
 気まずい。ひたすら気まずい雰囲気だ。いわんこっちゃない。  
 目も当てられんと額に手をやったところで、  
 
「ということで、この勝負――――」  
 
 ハルヒ(長)がダメ押しのように分かりきった結果を告げようとする。  
 そんなことはそっちのけで早くも俺はどう収拾をつけたものかと思考を始めようとしていた。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「――――、あたしの勝ち!!!」  
 
 鼓膜を振るわせたのは待ち構えていたものではなく、ハルヒ(長)の耳を疑うような言葉。  
 置いてけぼりの展開に呆気にとられて静まり返る一同。  
 この因果のつながりを無視した展開に真っ先に反応したのはハルヒ(短)だった。  
 
「何を寝ぼけたこと言ってんのよ。ふざけてないで、ちゃんと……、佐々木さんをコールしなさいよ」  
 
 真剣に反駁するハルヒ(短)。しかし、反対側の傍らでは佐々木が声を押し殺してクツクツと笑っていた。  
 3者3様のリアクションに包囲されて、俺は戸惑うばかりだ。  
 
「ふざけてなんかないわよ」  
 
 壇上でハルヒ(長)が目配せすると、笑いを我慢できないといったテンパった表情のままに鶴屋さんが古泉から奪った手持ちのスケッチブックをペラリとめくり、あるはずのない次ページを表示させる。  
 そこに記されていたのは――、英語、+20、87(67)の文字。+20という文字がご丁寧にも花丸に彩られて表示されていた。  
 なんとなく展開を悟ってしまった俺は慄然となった。  
 
「平均で一番のあたしの勝ち」  
 
「平均ってあんた1教科しか教えてないじゃないのよ。っていうか、これはあたしと佐々木さんの勝負じゃない。なんであんたが割り込んでくんのよ!」  
 
「平均は平均よ。たとえ1で割ってもね。約款にはジョンに勉強を教えた者に対戦の権利があると記されてるわ。そして、署名をしたのはあたしとあんたと佐々木さんの三人。サインしといて知らないなんて言わせないわよ」  
 
 超然とそう言い放ったハルヒ(長)は凱旋とばかりに対戦誓約書を掲げて見せた。  
 俺には鬼の首のように見えるぜ。そら恐ろしい。  
 いや、違和感はあった。なぜ分かりやすい合計で勝負させないのかという違和感。だがあの時、あの展開で色めき立つ俺たちにはそれが布石になってるとは思いもよらなかったぜ。  
 対戦の構図は間違いなくハルヒ(短)VS佐々木。だが、そこに割り込む割り込まないは状況を見てから自分の意思で決められるようにするための布石。  
 要は表向きガチンコ勝負と偽って、裏は色々と調整シロのある半分出来レースってわけだ。  
 
「だってあんた負けるんだもん。なっさけない。素直に勝ってりゃ黙っててあげようかなー、なんて思ったけどダメね。ジョンを佐々木さんにとられるよりマシでしょ?」  
 
「なっ! よくもぬけぬけと。絶対最初っから狙ってやってたんでしょ! この詐欺師!」  
 
 ああ、その代名詞には俺も同意だ。  
 お前、履歴書の特技の欄に詐欺って書けるぞ。俺で良ければお墨付きをやってもいい。って、前も似たようなことを言ったようなのは、気のせいか?  
 ハルヒ(短)は顔を真っ赤にして抗議と罵倒を喚き散らしている。その顔は怒ってるのか恥らっているようななんとも判別のつかない奇妙な顔をしていた。  
 佐々木は佐々木で何がそんなにウケるのか、身を震わせて笑うばかり。いつもの噛み締めるような笑いではなく、声を上げて目の端にうっすら涙さえ浮かべて笑い捩れていた。  
 壇上のみんなは一様に困った顔。ステージをバンバン叩いて笑い転げている鶴屋さんを除いては。  
 なんだこのカオス状態は……。  
 どうすることも出来ずに立ち尽くしていると、ハルヒ(短)がステージに詰め寄って片足掛けて壇上に上ろうとする。  
 ハルヒ(長)はそれを冷静に待つと、突然スプリンター顔負けの瞬発力でステージから飛び降りて、お互いの立ち位置を入れ替える形にした。そして信じられない速さで俺の腕を取って引き寄せる。  
 
「というわけで! ジョンの勉強を見る役はあたしに決定! これから反省会だから。ふたりっきりで! じゃあね〜!」  
 
 そう言って駆け出した。自ずと俺も走らせる羽目になる。  
 ハルヒ(短)の怒声を背に、浅いすり鉢上になった野外ステージの観客席を駆け上がる。  
 傍らにはこれ以上ってないくらいに楽しげに笑みを浮かべるハルヒ(長)の顔。比べて俺はどんな顔をしてるだろうか。  
 きっと一晩酢に漬け込んだ梅干の種を口に含んだような変顔をしているに違いない。  
 傍らのハルヒ(長)は目が合うと、星がこぼれそうな極上のウインクを一つ飛ばしてきた。  
 まるで「ね、これでよかったでしょ?」と言わんばかりの無言のメッセージ。  
 良いのか、悪いのかはわからん。だだ、できるだけ丸く収めてもらったと言えなくもないってことは確かだった。  
 複雑な気分だ。色々言いたいことはある。後のフォローも残っている。後ろから追っかけてくるハルヒ(短)とかな。  
 だがまぁ、今はテストを乗り切った開放感と孔明も顔負けのこいつの策士っぷりに免じて。  
 茜色に染まる空の下、俺は全力で緑に囲まれた小道を駆け抜けた――。  
 

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